幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

新たなる再出発へ…。

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         表題


 FC2ブログを御利用されている皆さん、どうも初めまして。
 そして…NECウェブリブログ時代の『幻想神秘音楽館』から長年御覧になっている皆さん、改めましてこんにちは(或いはこんばんはでしょうか…)。
 “令和”という新時代に相応しく心機一転、気持ちも装いも新たにFC2ブログサービスさんにて私のプログレッシヴ・ロック専門ブログ『幻想神秘音楽館』がリニューアルし、今こうしてめでたく再出発を飾れる事となりました。
 ここまでに至る経緯は、話せば長くなるのですが…いきなり青天の霹靂の如く降って沸いた様なNECウェブリブログサービス全面的システムリニューアルという刷新によって、以前から慣れ親しんでいたブログのシステム…並び編集の環境もガラリと様相が変わってしまい、10年以上苦楽を共に愛用し使い続けてきた長年の成果と記録…蓄積してきた私の文章やら何やらまでもがことごとく様変わりしてしまった事に愕然とし、システムやそれを統括しているNECのスタッフに対してもすっかり不信感を抱いてしまった挙句の果てには、“過去のデータや文章の修復リニューアルはあくまでお客様自身で一からやり直して頂きたくお願いします”といった情け容赦無い冷たい返答にすっかり失望し、それらを含めていろいろと諸般の事情が重なって、こうして私自身意を決してFC2さんへ移転・引越してきた次第です(惜しむらくは…過去データやら文章を移せなかったのが非常に悔やまれますが)。

 ブログといえども、私にとっては長年大切にしてきたかけがえの無い作品達ですからね…。

 本ブログのプロフィール欄でも触れてますが、『幻想神秘音楽館』はNECブログ時代から「夢幻の楽師達」始め「一生逸品」、そして新譜紹介コーナーでもある「Monthly Prog Notes」の3コーナーで構成されてますが、FC2の移籍に伴い毎奇数月にUpしていた「夢幻の楽師達」を毎偶数月へ、そして毎偶数月にUpしていた「一生逸品」を毎奇数月に掲載する事とし、それにプラスして毎月「Monthly Prog Notes」を投稿掲載する事といたします。
 よって来月8月は『夢幻の楽師達』から再スタートし、その第65回目をお送りいたしますので、皆様どうかそれまでの間、暫くお待ち頂けるようお願い申し上げます。
 皆様どうか乞う御期待下さい!

 重ねて、10年以上に亘る私の『幻想神秘音楽館』の歩みをアーカイヴという形で残しておきますので、稚拙ではありますが是非こちらの方も(時折思い出したらで構わないので…)御覧になって下さい。
 どうか今後とも宜しくお願い申し上げます。

『幻想神秘音楽館』NECウェブリブログ アーカイヴ版
https://14526789.at.webry.info/

 

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回想の断片を紡いで…。

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   DSC_0374.jpg


 いよいよ明日から8月が始まり、私のプログレッシヴ・ブログ『幻想神秘音楽館』も心機一転、新たにFC2ブログサービスから再出発を図る次第ですが、皆様にここで重大なお知らせがあります。
 先日のブログ立ち上げと再開に先立ち、来月から『夢幻の楽師達』第65回目と新譜紹介コーナーの2本立てて再スタートする旨を告知しましたが、私自身あれから考えに考え抜いた末ですが(これも書き手根性というか半ばライター気質とでもいうのか…)、単刀直入で結論を申し上げると…やはりNECブログ時代の過去の記録と歩み・足跡が捨てきれず、このまま過去の忘却へと置き去りにするのは誠に忍びないと思い、非常に身勝手かもしれませんが、8月の明日から来年10月いっぱいまで、過去概ね12年間分の『幻想神秘音楽館』NECブログデータから「夢幻の楽師達」と「一生逸品」を改めてFC2へとコピーペーストで移植して、新たに復刻リニューアル&リブート、或いはセルフリメイクという形で、来年11月からの移行で正式な編集ペースと投稿掲載に戻るまでの間、毎週「夢幻の楽師達」と「一生逸品」の2本立てで週2回連載する事と決めましたので、私自身の些か我が儘みたいな方針で申し訳ありませんが、それまでの間暫しお付き合い頂けるよう何卒宜しくお願い申し上げます。
 過去のブログ投稿を既に御覧になった方々も、まだブログを未見の方々も改めて回想を振り返りながら御拝読頂けたら幸いです…。

 なお、毎月末の新譜紹介コーナー『Monthly Prog Notes』は、来月からも今まで通り通常に継続いたしますので、重ねて宜しくお願いします。

夢幻の楽師達 -Chapter 01-

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 8月に入り、いよいよ今日から本格的に新たなるステージで再開される事となった『幻想神秘音楽館』であるが、さながら今の心境は新たな創作世界の大海原へと航海に乗り出す船乗りといったところであろうか(苦笑)。
 来年10月からの正規編集ペースに戻るまでの期間とはいえ、過去のNECブログアーカイヴからの移転を兼ねた復刻セルフリメイクという…些か無謀とも思える挑戦ではあるが、根っからの書き手根性そしてライター気質故の性(さが)なのだから仕方あるまい。
 概ね過去12年間分の綴り貯めた「夢幻の楽師達」と「一生逸品」を、毎週…それも週2連載のペースで再び書き起こして復活させるのだから、我ながら思い切った英断を下したものだと思う。
 まあ…正直、至ってこういった事をするのは苦にならないしね。
 過去に綴った文章であるが故、若干のタイムラグが生じてくるのである程度修正したり加筆させて頂く事、どうか御容赦と御了承を願いたい次第である。

 さて、新装開店8月第一週目の再開第一弾は「夢幻の楽師達」である。
 リニューアル&リブートしようと決めた時点で、先ず絶対真っ先に取り挙げようと思い立ったのは…今もなお根強い熱狂的なファンを獲得し、70年代イタリアン・ロック黎明期の伝説的存在にして語り草となっている、巨匠の称号に相応しい神々しいオーラを纏った、イタリアン・ロック史にその名を刻む偉大なる巨人にして鉄人でもある“イル・バレット・ディ・ブロンゾ”、そして巨匠の称号に相応しいアーティスティックな才人にして芸術家でもあるGianni Leoneに、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

IL BALLETTO DI BRONZO
(ITALY 1970~)
  
  Gianni Leone:Key&Vo
  Lino Ajello:G
  Vito Manzari:B
  Gianchi Stinga:Ds

 時代と世紀を越えながらも、現在も尚決して色褪せる事無く…それはあたかも眩い至宝の如く神々しくも燦然と光を放ち続ける、70年代初頭のイタリアン・ロックシーンに於いて2枚の異なる作風と熱く迸るエナジーで、名作・名演・名盤の三拍子で文字通りイタリアン・ロック史に不動の地位を確立したと言っても過言では無いイル・バレット・ディ・ブロンゾ。
 そのバンドルーツは遡る事1960年代末期、商業都市ナポリ出身のバッテイトーリ・セルヴァッジ(BATTITORI SELVAGGI)なる当時新進気鋭のハード&ヘヴィ・ロックバンドが母体となっている。
 1969年バンドはイル・バレット・ディ・ブロンゾ(以後IBDB)と改名し、ライヴでの好評判を聞き駆け付けたRCAイタリアーナのフロントマンの目に止まり、同年めでたくRCAと契約を交わしシングル『Neve Calda/Cominciò Per Gioco』でデヴューを飾り、翌1970年にセカンド・シングル『Si, Mama Mama/Meditazione』と、そして第一期IBDBの集大成にして名作・名盤でもある1stアルバム『Sirio 2222』を引っ提げて、かの同じレーベルのトリップと同様名実共にイタリアン・ロック黎明期のシーンを席巻していったのは言うまでも無かった。
 その頃の第一期メンバーは、Lino Ajello(G)、Marco Cecioni(Vo,G)、Mike Cupaiuolo(B)、そしてGianchi Stinga(Ds)の4人編成で、バンドきっての才人にして要ともいえるGianni Leone(Key)はまだこの時は在籍しておらず、イタリアン・ロックファンならもう既に御存知の通り、当時Gianniはナポリを拠点に活動していたオザンナの前身チッタ・フロンターレのメンバーとしてDanilo、Lino、Lello、Massimoと行動を共にしており、オザンナへと改名する前後にElio D'Annaと入れ替わりにバンドから離れたのは有名な話(この顛末は後ほど再び触れる事にしよう)。 
          
 余談ながらも、もし、GianniがIBDBからの誘いを断りそのままチッタ・フロンターレに留まっていたとしたら、後々のオザンナのデヴュー作から『パレポリ』に至るまで、6人編成でとてつもなく凄まじい迷宮の如きカオス渦巻く、イタリアン・ロック史上驚愕の完成度を誇った名作となったのでは…と思うのだが如何なものだろうか?
 話は再びIBDBに戻るが、70年リリースの『Sirio 2222』の評判は上々で、ヤードバーズやツェッペリン影響下のブリティッシュナイズに裏打ちされたハードロックのフィーリングとサイケなポップスとの要素が渾然一体となった、まさしくその古き良き当時の空気感を象徴した極上の陶酔感が味わえるイタリアン・ロック黎明期の傑作とも言えるだろう。
 イタリア国内のクラヴ・ハウスや野外コンサートのみならず、イタリア駐留の米軍キャンプ地でのライヴをも精力的にこなしていたというのは今では語り草にもなっている。
 当時のアメリカ兵にしてみれば、イタリア=カンツォーネという変な先入観でしかなかったのが、IBDBを目の当たりにした途端度肝を抜き、それこそ時代の風潮…IBDBに熱狂しつつビール片手に葉っぱ(!?)を決めたりLSDでぶっ飛んでいた兵隊もいた事だろう(苦笑)。
 話は再び脱線するが…この当時70年代初期のイタリア国内のロックを巡る様々なエピソードで事欠かないのが、青春を謳歌する当時の若者文化と、政府のお偉いさん始めキリスト系政党の役人体質、官憲との差別・偏見との闘いは切っても切れない水と油みたいな関係で、イタリア始め英米のアーティストが野外でコンサートをするものなら、もう警官隊が発砲するやら催涙ガスやら鉄パイプ片手に応戦する若者達でとてもコンサートするどころの騒ぎではなかったと様々な文献や著書で記されており、かのレッド・ツェッペリンでさえもミラノのライヴで催涙ガスが漂う中演奏を断念した事を未だに根に持っており、ジミー・ペイジ曰く“イタリアなんて国名は二度と聞きたくもない!!”と憤慨していたから、この当時(全世界規模で)如何にロックがまだ市民権を得ていなかったが伺い知れよう。
     

 さて、クラシカル・シンフォなナンバー“Meditazione”を始め数々の名曲揃いの『Sirio 2222』リリース以後、理由は不明ではあるがIBDBは一時的な解散寸前の状態に陥ってしまう。
 翌1971年、残された2人のメンバーLino AjelloとGianchi Stringaの両名は、バンド存続危機の打開策として新たにナポリから呼び寄せたGianni Leone(当時、彼はチッタ・フロンターレに満足しておらず、或る晩自宅に帰宅するや否や、ギタリストのLino Ajelloからの電話でバンド加入を誘われたとの事)をキーボード兼ヴォーカリストに迎え、ローマから旧知のベーシストVito Manzariを加え、前作のハードロック路線から大きく変貌を遂げた作風で再びシーンに返り咲いた。
 翌1972年、RCAからポリドール・イタリアーナに移籍後、当時の世界的なプログレッシヴ・ムーヴメントの波を受け、緻密且つ複雑怪奇に構築された重厚なキーボード群と、漆黒の闇のエナジーが支配するヘヴィ&ハードロックとが見事にコンバインした、イタリアン・ロック史上に燦然と輝き続ける最高傑作にして後世に残る大名盤でもある『YS』をリリースする。
 作品名を“イプシロン・エッセ”と呼ぶ説もあれば、“イース”と呼ぶ説と諸説様々ではあるが、どちらも神秘的でミスティックな韻を踏んでいるからどちらが正しいとは言い切れないから困ったものである…。
 EL&P的なテクニカルで構築的なサウンドに、クリムゾンの凶暴・攻撃性が加味された作風というのも当たらずも遠からずといった感ではあるが、2バンドから触発されたエッセンスが彼等なりに結実昇華され、イタリアン・バロックの美意識と旋律が加わった事で、IBDBの独創性がより深みを増し更に際立ったと解釈した方が正しいだろうか。いずれにせよ渦巻くカオスが聴く者の脳裏に陰影と苦悩を想起させ、暗黒の極みに達した…何者も到達し難い領域にまで踏み込んだ唯一無比の孤高と神々しさがあるのだけは確かであろう。
 私自身、10代後半に『YS』の国内盤を購入し、初めて聴いた時の衝撃と戦慄は未だに忘れる事が出来ず、あのオープニングの不気味な女性スキャットが流れ出た瞬間、恐ろしくなって慌てふためき思わず後ろを振り返った位だ。お恥かしい限りではあるが…。
                    
 『YS』リリース以後、バンド自体は順風満帆な軌道の波に乗り、イタリア国内で一週間に3~4回ものライヴをこなし、このまま次回作へと移行するのかと思いきや、翌73年夏の国内ツアーのさ中突然Lino AjelloとVito Manzariの両名が脱退し、残されたGianniとGianchiはたった2人だけで残りのツアーの日程を消化し、その後実質上最終作にして傑作シングルとなる『Donna Vittoria/La Tua Casa Comoda』の名曲を残し、IBDBの活躍はここで一旦幕を下ろす事となる。ラストシングル自体Gianniの音楽性、コンポーザーとしてのスキルの高さが遺憾無く本領発揮された素晴らしい作品であるだけに何とも皮肉な話ではあるが…。
 
 バンド解体後、Gianniはラストシングルでのマルチプレイヤー(ドラムを除く)としての経験に自信をつけて単身アメリカに渡り、LeoNeroというソロアーティストとして改名し、1977年に1stソロアルバム『Vero』というシンフォニックでポップス性が加味された素晴らしい作品をリリースし、漸く自らの音楽性を開花させる事となる。
 4年後の1981年にはXTCやディーヴォに触発されたテクノ調ニューウェイヴのセカンドソロ『Monitor』をリリースし、以後2~3作品リリースした後、暫く表舞台から遠ざかる事となる。

 一方で第一期のギタリスト兼ヴォーカリストでもあったMarco CecioniはIBDBを脱退後、スウェーデンはストックホルムに移住し暫く創作活動しながらも画家として成功を収めて、現在はイタリアとスウェーデンを往復生活を送っている。尚、余談ではあるが、Gianni Leoneも一時期彼のサポートとしてスウェーデンに渡りプロデュース業を含めた創作活動に携わっていたとの事。
 Marco Cecioniの人望が厚いからなのか…第一期ベーシストのMike Cupaiuolo、そして第二期ベーシストのVito Manzariも彼の伝を聞き、現在はスウェーデンのストックホルムに移住している。ちなみに両名とも現在は音楽業界からきっぱりと引退している。 
 ちなみにIBDBの秘蔵音源に関して…現在確認出来るものとして、1990年にRCA傘下のRaro!レーベルから限定1500枚(内500枚は黄色のカラーレコード)でリリースされた未発表音源にして未CD化の『Il Re Del Castello』(名曲“Neve Calda”のスペイン語ヴァージョン入り)始め、1992年Mellowからリリースの『YS』の英語ヴァージョンCD、そしてつい最近リリースされた『On The Road To YS ...And Beyond 』にあっては、先に挙げた92年にMellowから『YS』の英語ヴァージョンとしてCDでリリースされた1971年のデモ・レコーディング+近年のライヴから未発ナンバーを含むボーナスを8曲加えた2012年見開き紙ジャケット盤として確認されている。
      

 ここからはスペースの都合上、やや走り々々な文章になってしまうが、どうかお許し願いたい…。
 時は流れて1995年、長きに亘るソロ活動を経て沈黙を守り続けていたGianniが再びIBDBとして表舞台に再び帰ってきた。当時イタリアン・ロック新進気鋭の若手として注目を一身に集めていたDIVAE(ディヴァエ)と融合したGianniが再びIBDB名義として復活を果たし、同年イタリア国内でプログレッシヴ・ファンジン“ARLEQUIN”主催のプログフェスに出演。その復活公演の模様は1999年にMellowレーベルより『Trys』というタイトルでライヴCD化され大いに注目を集めたのは記憶に新しい。(ちなみにディヴァエの95年のデヴュー作品にもGianniが参加している)。
 そして2002年にはGianniを筆頭に新たな布陣で待望の初来日公演を果たし、その圧倒的なライヴ・パフォーマンスで往年のファン層から新しいファン層に至るまで熱狂と興奮の渦に巻き込んだのは最早言うには及ぶまい。
     
 以後、単発的なサイクルでライヴ活動を継続し、極最近でも復帰したオリジナルギタリストLino Ajelloを迎えてライヴを行ったそうだが、ここで余談ながらも唯一ドラマーのGianchi Stingaに至っては、IBDB解散以降は全く音信不通と共にバンドからも完全に疎遠な状態になったそうな…。
 まあ早い話、人間長い間生きていれば人生様々な事があるという事なのであろうか…。
 その当のGianchi Stinga自身、1973年のバンド解散以後、彼もまたスウェーデンに渡りスウェーデン王立大学でデータ解析の学位を取得した後、現在はマレーシアに移住しネット・コンサルティング会社を経営しているとの事。
 オリジナルギタリストのLino Ajelloは、1973年にバレットから脱退後スウェーデンに渡り、以降はストックホルムで音楽スタジオを経営する傍ら、その後テネリフェでマジック・バーやロック・バーを経営しつつ、38年振りのIBDBへの復帰に伴い現在は故郷のナポリに戻って、現在の音楽界をどうにかしていきたいと意欲を燃やしている。
 ちなみにスウェーデン時代には、かのヨーロッパ(あの名曲“ファイナル・カウントダウン”でお馴染み)のギタリストのキー・マルセロとも交流があったそうだ。     

 一時期は音楽業界から身を引いたと揶揄されていたものの…そんな根も葉も無いデマや噂を払拭する位に、現在もなお精力的且つ現役バリバリで活躍しているGianniに対し私自身頼もしさを感じると共に嬉しさをも隠せないのが正直なところでもある。 
 更にはGianniを含めIBDBメンバーがこうして年輪を積み重ねつつ現在(いま)を力強く生きているという事に私達は心から敬服し、イタリアン・ロックの長きに亘る歴史に於いて何物にも代え難い偉大なる足跡と音楽財産を遺したことに今改めて大きな感謝と敬意を表さねばなるまい。
 思い起こせば昨年秋2日間限りではあったが、若手の新メンバーを加えたIBDB名義による待望の再来日公演を果たしたGianni自身、感動と興奮の渦で大盛況だったライヴの出来栄えに満足し、概ねの好評を博して幕を下ろした次第であるが、私自身この場を借りて述べさせて頂くが…ある一部の不埒な客層の輩がしでかした(やらかした)、疑わしい不遜な行動とステージのセットリストの無断拝借(それも窃盗に近い)並び、Gianniの私物の紛失行方知らずにはほとほと呆れたを通り越して一部の悪辣な客側のマナー違反には正直言葉を無くしたほどである…。
 Gianni自身せっかくの大切な来日公演だったにも拘らず、傷心を受けた事は察するに余りあると言っても過言ではあるまい。
 それでも前向きな姿勢で、またいつか日本で公演すると言ったGianniの弁に有難い気持ちと共に、頼もしさを感じつつ聴き手側である我々の心も救われた思いですらある…。
 IBDB(イル・バレット・ディ・ブロンゾ)…そしてGianni自身、そして彼の創作する音楽世界を愛して止まない私達を含めて、栄えある未来と幸福がこれからも末永く続いてくれる事を心から願わんばかりである。
 まさしく、決して終わる事の無いIBDBの伝説は…これから先の未来永劫後世にまで語り継がれていく事であろう。

一生逸品 MUSEO ROSENBACH

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 8月第一週目の第二弾「一生逸品」は、先日の「夢幻の楽師達」でイルバレを取り挙げたからには、必然的に彼等も絶対出さなければと決めていました。
 名実共に70年代イタリアン・ロック史にその名を燦然と輝かせ、イタリアン・ヘヴィプログレ至高の決定版でもあり金字塔と言っても過言では無い、まさしく真の伝説的存在という名に恥じないであろう“ムゼオ・ローゼンバッハ”をお届けします。

MUSEO ROSENBACHZarathustra(1973)
  1.Zarathustra
   a)L'ultimo Uomo/b)Il Re Di Ieri/c)Al Di La' Del Bene E Del Male/
   d)Superuomo/e)Il Tempio Delle Clessidre
  2.Degli Uomini
  3.Della Natura
  4.Dell'eterno Ritorno
  
  Stefano“Lupo”Galifi:Vo
  Enzo Merogno:G,Vo
  Pit Corradi:Key
  Alberto Moreno:B,Piano
  Giancarlo Golzi:Ds,Per,Vo

 70年代イタリアン・ロック史に於いて、至宝の如き名作・名盤として燦然と輝き続け今もなお語り継がれている、俗に言うイタリアン・ヘヴィプログレッシヴ名盤の代名詞…イル・バレット・ディ・ブロンゾ『YS』、ビリエット・ペル・リンフェルノ『地獄への片道切符』と共に(個人的には)三大傑作としてその名を留めている、今回の主人公ムゼオ・ローゼンバッハの『ツァラトゥストラ組曲』。

 “ローゼンバッハ博物館”なるバンドの歴史は、1969~70年の初頭にまで遡る。
 長年イタリアン・ロックを愛して止まないファンにとっては、まさに知る人ぞ知る伝説的ヘヴィ・プログレバンド“IL SISTEMA”(1971年のデヴューに向けて何曲か録音されていたものの、バンドの解散と重なり諸般の事情でお蔵入りしていた。90年代初頭にかけてMellowレーベルを通じてLPとCD化されてる)こそがムゼオの母体である。
 IL SISTEMAのギタリストだったEnzo Merognoと、フルートとサックス兼エレピを担当していたLeonardo Lagorioがバンド解体後、どういった経緯でメンバーと知り合い合流し、ムゼオ・ローゼンバッハという奇異なバンド名にまで辿り着いたのかは今もって定かではないが、程無くして初代のヴォーカリストにWalter Franco、ベーシストにAlberto Moreno、ドラマーを…後にマティア・バザールの中心人物となるGiancarlo Golziを加え、ひたすら地道にギグとリハを積み重ねてデヴューの機会を窺っていたものと推察されよう。
 当時それらの動向を裏付ける証とも言うべき貴重な未発表曲含むライヴ音源等が、90年代初頭にMellowレーベルを通じてLPとCDそれぞれジャケットデザインと収録曲の違いこそあれど3作品立て続けにリリースされている。
 音質的には…ややと言うべきかかなり難があれど、ある意味当時の狂騒と猥雑的で生々しい演奏が堪能出来るという意味合いを差し引いても一聴の価値はあるだろう(苦笑)。当然メロトロンも入っており、自らのオリジナルナンバーのみならずビートルズ始めユーライア・ヒープ、コロシアム…等といったブリティッシュな曲のカヴァーも演奏し、彼等の後の『ツァラトゥストラ組曲』へと繋がる音楽性とルーツを窺い知る上で非常に興味深い。
 バンドは漸く軌道の波に乗ってきたところで、キーボードがLeonardoからPit Corradiに交代し、ヴォーカリストもWalterからStefano“Lupo”Galifiに変わり、1973年を皮切りにバンコの『自由への扉』、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカのデヴュー作といった名作・傑作を多数世に送り出し俄然気を吐いていた70年代イタリアン・ロックの中枢を担っていたであろう大手リコルディからのデヴューへと結び付いた次第である。
 ちなみに…余談ながらも、ムゼオを抜けた先代キーボードのLeonardoは、IL SISTEMA時代のドラマーCiro Perrinoを誘ってチェレステ結成へと向かったのは周知であろう。

 徹頭徹尾、本作品の全篇に漂っているであろう…イタリア・ファシズムの象徴とも言うべきムッソリーニを、皮肉さを込めてコラージュで描いたという一種異様にして異彩なカヴァー・アートに包まれた彼等の音世界から感じ取れるのは、後期クリムゾンは言わずもがな…バンコの『ダーウィン』『自由への扉』、オザンナの『パレポリ』にも相通ずる重苦しさ、そして唯一無比の“闇”と“混沌”であると言っても差し支えはあるまい…。
 ちなみに5人のメンバーに加えて、かのジャンボの最高傑作の3作目『18歳未満禁止』にも参加しているキーボード奏者Angelo Vaggiがミキシングとモーグシンセサイザーのプログラミング兼エフェクトといったサポート面で参加しており、全曲の作詞はMauro La Luce、そして作曲はベーシストのAlbertoが手掛け、仄暗く陰鬱なフルート・メロトロンに導かれて…賞味40分近い狂気と錯乱の音世界が全面に亘って繰り広げられる。
          

 過去にキングのユーロ・コレクション始め各プログレ専門誌、CDリイシュー企画といった多方面にて紹介されている通り、狂気の哲学者ニーチェの哲学叙情詩「ツァラトゥストラはかく語りき」からインスパイアされたトータル作品にして、プログレッシヴの法則ともいうべき暗く深く重くといった三拍子がきっちりと揃った、まさしくあの熱かった70年代のイタリアン・ロックシーンが産み落とした珠玉にして至宝ともいうべき一枚であろう。
 豆知識みたいな余談で恐縮だが…キングのユーロ・コレでの山崎尚洋氏の解説を拝借するところ、バンド名でもあるローゼンバッハとは…多分にしてニーチェと同時代を生きたブレスラウ大学の教授にして神経科を専攻していた医師オットマール・ローゼンバッハではないかとの事。
 精神を病んだ末に廃人となったニーチェの超人思想に神経医の権威のローゼンバッハというから、何とも偶然というか、的を得た様な複雑怪奇さをも感じるが如何なものであろうか…。

 まあ…小難しい事云々はこのブログでは敢えて触れないでおくにせよ、ゾロアスター教始め哲学的な命題やら超人思想、神の死、当時のイタリア国家を牛耳っていたであろうキリスト教政権への嘲笑と皮肉、ニヒリズムといった、人間の深層心理やら魂の根源・深淵をも揺さぶる様々なカテゴリーが、まるであたかもジグソーパズルの1ピース1ピースが埋められて行くかの様に大団円へと向かって結実していく様は、時に厳かでリリシズム溢れる抒情的な側面と、畳み掛ける様にヘヴィで攻撃的な側面とが背中合わせにして二面性を持ったアンサンブルとなって押し寄せる怒涛なまでの音の波のうねりそのものであろう。
 それはまるでダンテの「神曲」を垣間見るかの如く、地獄巡りの回廊を彷徨う狂人或いは孤高の超人の投影そのものと言っても過言ではあるまい。

 攻撃的で且つ野心的なデヴューを飾った彼等ではあったが、当時隆盛を極めていた多くのバンドと同様御多分に洩れず時代の波に抗える事も儘ならず、あの悪夢ともいうべき極右的なキリスト教政権の弾圧でレコードは製造中止・廃盤=バンドの解散へと追い込まれ、各方面で国内外のアーティストが一同に会するロック・コンサートも全面的に禁止されるという憂き目に見舞われるといった体たらくな始末である。
 73~74年の全世界に吹き荒れたオイルショックに加えて、これらの様々なイタリア国家が病める要因がイタリアン・ロックの衰退と低迷期を引き起こしたのは紛れも無い事実と言えよう。
 ムゼオ解体後のメンバーの動向については、一番有名なところでドラマーのGiancarlo Golziが、同国のプログレ・ハード系で唯一作を遺したJ.E.T(ジェット)のメンバーと共に、今やイ・プーと並んでイタリアン・ポップス界の大御所となったマティア・バザールを結成した事であろう。
 他のメンバーの動向については皆目見当が付かないといった感であるが、ある者はスタジオ・ミュージシャンに転向し、ある者はCM・映像業界に進み、ある者はイタリアポップス界で有名アーティストのバックバンドに就いたり、またある者は音楽業界と手を切って穏やかな生活を選んだ…とまさに多種多様の人生を歩んでいる事であろう。

 が…しかし事態は思わぬ方向へと急変し、2010年突如降って湧いた様な…それこそ長年待ち望んだ奇跡とも言うべき朗報が飛び込んで来たのである。
 ムゼオのヴォーカリストStefano“Lupo”Galifiが、70年代イタリアン・ロックとヴィンテージ系鍵盤をこよなく愛する若手の女性キーボード奏者Elisa Montaldoと共に、ギター、ベース、ドラムを迎えてイル・テンピオ・デッレ・クレッシドレ(IL TEMPIO DELLE CLESSIDORE)というバンドを結成しイタリアン・ロックの第一線に復帰。
 あの熱き70年代イタリアン・ロックの血筋を見事に継承したデヴュー作をリリースし堂々たる現役復帰を遂げる事となる。
          
 嬉しい事にそのバンド名もムゼオにリスペクトするかの様な…否!実はあの『ツァラトゥストラ組曲』の最終パートのタイトルをそのままバンド・ネーミングで甦らせたというから、ファンなら狂喜乱舞といえよう。まさしく21世紀版のムゼオ・ローゼンバッハがここに降臨したと言っても異論はあるまい。
 だが、このまま順風満帆の追い風に乗って次回作へと期待が高まるさ中Stefanoはイル・テンピオをElisaとベーシストのFabio Gremoを中心とした未来ある若手達に託して袂を分かち合った後、かつてのムゼオのオリジナルメンバーAlberto Moreno、そしてマティア・バザールに在籍していたGiancarlo Golzi(結果、2015年にマティア・バザールを脱退)と再び合流し、新たな若い新メンバーを加えてムゼオ・ローゼンバッハを再結成し、2013年…バンド名義としては実に40年ぶりの2nd新譜『Barbarica』をリリース。
 こうして今もなおムゼオ名義の次回作のニュースが待たれる中で、彼等は俄然気を吐き続けて精力的に活動している昨今である。
     

 混迷ともいえる21世紀の気運と時代の荒波が彼等を再び呼び戻したのか、或いは神の啓示の如く天の声の導きで舞い戻ったのか…いずれにせよ脈々たるムゼオの血とあの邪悪で混沌たる闇のエナジー漂う音世界がこうして帰ってきたという事を心から祝福せねばなるまい。
 はっきり言える事は伝説は決して伝説のままで終わらないという事…私自身、あの麻薬にも似た危険な魅力が秘められた旋律(戦慄)の宴に身も心も震える思いですらある。

夢幻の楽師達 -Chapter 02-

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 8月第二週目の「夢幻の楽師達」をお届けします。
 過去のNECウェブリブログ時代の文章データをFC2へと移植し、加筆と修正を施して完全新生並び復刻リニューアル・セルフリメイクするという我ながら無謀ともいえる途方も無い作業に移行してからというもの、意外や意外…不思議と苦にならず何故だかとても楽しい気持ちで日々を過ごしている今日この頃です。
 先週はイタリアン・ロックでしたので、今週はバリエーション豊かに自らの引き出しからフレンチ・ロックシーンきっての夢想家にして抒情派を謳う“ピュルサー”に焦点を当ててみたいと思います。

PULSAR
(FRANCE 1970~)
  
  Gilbert Gandil:G, Vo
  Jacques Roman:Key, Mellotron
  Roland Richard:Flute, Piano, Syn
  Michel Masson:B
  Victor Bosch:Ds, Per

 思い起こせば…我が国に初めてフランスからピュルサー(当時はパルサーとも呼ばれていたが)なる存在が紹介されたのは、1978か79年頃ではなかろうか。
 70年代末期に於いて、当時の新宿レコード…或いはエジソン、モダーンミュージック、ディスクユニオンといったマニア御用達の専門店でしかお目にかかれなかったであろうユーロピアン・ロックの名匠達。
 大多数の名作・名盤で犇めき合っていたイタリア勢とドイツ勢とはまた違った異彩を放っていたフランスのロックシーン。
 マグマ、アンジュといった両巨頭を皮切りにザオ、エルドン、クリアライト、タイ・フォン、モナ・リザ、後に我が国で爆発的な評判を得るアトール、そして夢想的な浮遊感ながらも堅実な作風を誇る今回の主人公ピュルサー辺りが、(ジャズロックとシンフォニックを総括した意味で)フレンチ・プログレッシヴの代表的な存在と言えるだろう。
 大手のワーナーからワールドワイド・リリースでかなりの知名度を得ていたタイ・フォンを別格とすれば、日本の国内盤リリースでキングを経由してピュルサーの2nd『The Strands Of The Future(終着の浜辺)』が、松本零士氏の手掛けた特典イラストポスターというおまけ付きという相乗効果で、かなりの評判を得ていたのも丁度この頃であろう。余談ながらも、あの大御所アンジュでさえも日本フォノグラムから細々とお粗末な国内盤が出回る程度の扱いで…おまけにあの国内盤でのあんまりな装丁(知る人ぞ知る)には閉口せざるを得ない(苦笑)。

 前置きが長くなったが、2作目の『The Strands Of The Future』での日本国内での好セールスで拍車をかけたピュルサーは、ユーロ・ロックコレクション元年ともいえる1980年、記念すべきデヴュー作『Pollen(脈動星)』がキングからシリーズの第1弾としてめでたくラインナップに加えられた次第である。
     

 時代を遡る事1966年…。当時地元リヨンの学生で、後々バンドの中枢的な立場ともなるGilbert Gandil(G)、Victor Bosch(Ds)、Jacques Roman(Key)の3人によってピュルサーの歴史は幕を開ける。
 ビートルズ始めストーンズの洗礼を受けて音楽活動を始めた彼等は、その後も各々がクリーム、ジミ・ヘンドリックス、オーティス・レディング、ナイス…等に触発されるうちに徐々に自らの音楽スタイルを形成し、ピュルサーの前身でもあるソウル・エクスペリエンス→フリー・サウンドへとバンド名を変えながら68年頃まで活動していた。
 ドラマーのVictorの言葉では、当時のバンド・カラーはサイケデリックでロマンティシズムなスタイルを追求していたとの事。
 時代は70年代に入り、ピンク・フロイド始めソフト・マシーン、ジェスロ・タルといった当時のブリティッシュ・シーンの第一線で活動していた時代の先鋭なる寵児達に触発され、漸く自らの理想の音楽なる回答を得た彼等はバンド名をピュルサーと正式に改名し、この頃にはオリジナルのベーシストPhilippe Romanを加えた4人編成でオリジナルのナンバーに加えて尊敬していたフロイドの“原子心母”からの抜粋曲や“ユージン、斧に気をつけろ”といった曲の半々をレパートリーに、地元リヨンを拠点にフランス国内で精力的に活動していた。
 1972年、彼等ピュルサーにとって後々の運命を決定付ける千載一遇の大きなチャンスが巡ってきた。フランスの老舗ライヴハウス“Golf-Drout”にて、国内各地の名立たる猛者が一同に会したロック・コンテストでベスト6圏内に見事に勝ち残った彼等は、当時デヴュー間もないアンジュと共に貴重なライヴ音源を残す事となる。そう…所謂これがかの有名な大手フィリップスからリリースされた『Groovy Pop Session』である。
 その後アルバム・デヴューを飾るまでの2年間は、イギリスのファミリーの前座を務めたりフランス国内で以前にも増して精力的に演奏活動に専念する事となり、日に々々知名度を上げながらも演奏するキャパシティーも大きくなりつつあった。もうこの頃ともなるとオリジナルのナンバーを中心に演奏してたのは言うに及ぶまい。
 73年末、ツアーの終了後にデモを製作しフランス国内外のレコード会社数社にコンタクトを取ったものの、当時のフランス国内の会社は自国のアーティストには殆ど興味を示さず、マグマやアンジュのプロモートで手一杯だったフィリップスを例外としても、サンドローズのセールス不振で憂き目を見たポリドール然り、フランスにしろ日本にしろ…とどのつまりはどこの国でも似た様な話、フランスがシャンソンやフレンチポップアイドル、日本でも歌謡曲やらアイドル歌手に音楽産業として重点を置いていたあの当時は、まだまだロックが大々的に市民権が得られていない不毛の状況下で及び腰になっていたのも理解出来なくもない(苦笑)。
 そんな厳しい状況のさ中、イギリスはデッカレーベル傘下のKingdomからキャラバンのプロデューサーを務めたテリー・キングの目に留まり、ピュルサーは74年の春Kingdomと契約しリヨン郊外はSaint Etienneスタジオにて1ヶ月間かけてレコーディングし、同年10月待望のデヴュー作『Pollen』をリリースする。
 ちなみに遅れ馳せながらも、フルート始め管楽器系からストリング・シンセを手掛けるRoland Richardが5人目のメンバーとして正式に加わったのも丁度この頃である。
 記念すべきデヴュー作『Pollen』、所謂“花粉”という意味深なタイトルと相俟って深遠な宇宙空間を浮遊する生命=種の源ともいうべき、荘厳にしてスペイシーでサイケデリックな名残をも感じさせつつ…あたかも夢遊病の如く朧気な彷徨にも似たイマジネーションを想起させ、多少粗削りな部分こそ散見出来るもののデヴュー作にして外宇宙と内面宇宙との饗宴と調和を謳ったテーマは、ある意味に於いて野心作でもあり傑作であるといっても過言ではあるまい。
 『Pollen』の評判はフランス国内は元よりイギリスでも上々で、作品リリース直後彼等はイギリスへ渡り、概ね1ヶ月間のサーキットでプロモーションツアーを敢行し、ロックの殿堂マーキークラブを皮切りにイギリス国内の数ヶ所でギグを行い、それと併行してキャメルやアトミック・ルースターの前座を務めたりしながら、彼等の評判は次第にヨーロッパ諸国で注目を集める事となる。
 翌75年、彼等はフランスに帰国し次なる新作への準備に取り掛かるが、それと前後してベーシストのPhilippeがツアーによる心身の疲弊と穏やかな暮らしと生活を送りたいというかねてからの希望によりバンドから離脱。後任ベーシストを入れない4人編成(KeyのJacques Romanがベースを兼任)で、スイスのジュネーブにて2nd『The Strands Of The Future』をレコーディング。サウンドエンジニアにはイエスの一連の傑作を手掛けた敏腕クリス・ペニィケイトを迎え、ベース不在のハンデを感じさせない位の渾身の力と気迫に漲ったテンションでバンドの危機を見事に乗り切って、翌76年9月に第2作目『The Strands Of The Future(終着の浜辺)』をリリース。
 本作品から漸く導入されたメロトロンを効果的に活かしたその前作以上の深遠で終末感漂う世界…哀愁と抒情が渾然一体となった彼等ならでは唯一無比の音空間は、最早バンドの人気を完全に決定付けたといっても異論はあるまい。
       

 バンドの人気と実績が決定付けられた片やその一方で、以前からサウンド・クオリティーに不満を持っていたバンド側と、プロモショーンに余り乗り気で無いKingdomレーベルとの間に軋轢が生じ、結果ピュルサーはKingdomとの契約を解消し、より以上に理想的な環境が整った新天地を目指し、同時期に好条件を提示して移籍を持ちかけたフランスCBSと程無くして契約を結ぶ事となるのだが、後年Victor曰く“CBSとの契約は本当に恥ずべき大間違いだった…”と回顧している。
 尚…余談ながらも、この頃バンドツアーのライト・ショウを担当していたスタッフでベースも弾けたMichel Massonが正式に加入し、バンドは再び5人編成に戻っている。
 先のVictorの後悔云々はともかくとして、大手CBSでの充実したサウンド・イクイップメントを含む好環境に乗じて、翌77年彼等自身の音楽の集大成と言っても過言では無い、20世紀のユーロ・ロック史に残る最高傑作にして名作として掲げられる『Halloween』をリリース。
 彼等自身が書き下ろしたオリジナル・ストーリーをモチーフに、本作品を構成する抒情性、美しさ、哀しみ、ミステリアス…等が見事なまでに集約・昇華された、文字通りプログレ衰退期に差し掛かっていた当時に於いて一抹の光明をも見出せる様なそんな趣すら窺える。
          

 しかし…運命とは何とも皮肉なもので、素晴らしい好条件の許で全身全霊を注ぎ込んで作った傑作であるにも拘らず、当時世界的に勃発していたパンク&ニュー・ウェイヴといった産業音楽の波から疎外され、加えてCBSのプロモート不足という体たらくな原因が元で、『Halloween』はセールス不振に陥り、バンド側とCBSの関係は悪化の一途を辿ってしまう。
 要は早い話…会社には入れてあげるけど、作品をリリースしたらあとは全部自己責任ですよと言わんばかりの遣り口に引っ掛かってしまった様なものである。
 当然の如く、プロモートツアーでの援助からバックアップも無し、宣伝費用は全部自己負担…結果を残さなければ即放出という冷酷な音楽産業の仕打ちに、これにはメンバー全員心身共に辟易してしまうのも無理はあるまい。
 おまけに『Halloween』をリリースする前、CBSは1stと2ndのリイシュー盤を出したものの、ここでも会社側はバンドには一銭も払っていないというから開いた口が塞がらない。

 金銭的な困窮に喘ぎながらも、彼等は最後の力を振り絞ってポルトガルはリスボンで2日間のコンサートを開催。
 トータル20000人を動員し大成功を収めるものの、フランス国内の音楽産業に不信感を抱いたまま活動意欲の低下に加え、ベーシストが照明関係の仕事に戻った事を契機にメンバーが一緒に顔を合わせる機会も徐々に少なくなり、各々が音楽以外の職種に就いた事も重なって、解散声明こそ出さなかったもののピュルサーは一時的に開店休業の状態に陥ってしまう。
 そして時は流れ、時代は1981年…。公式な音楽活動こそしてはいなかったものの、Jacques、Gilbert、Victor、そしてRolandの4人は仕事の合間を縫っては時々顔を合わせ、(ほんのお遊び程度ではあるが)セッションやリハーサルといった、半ばリハビリに近い音楽活動で自己の再生と回復に努めていた。
 そんな折、演劇とコンテンポラリーダンスとの融合による舞台『Bienvenue Au Consell D'administration!』での劇伴用音楽としてピュルサーに白羽の矢が当たり、彼等4人は再び観衆の目の前で舞台での演者達と共に素晴らしいライヴ・パフォーマンスを披露し、その結果…リヨンでの一年間、果てはパリでの1ヶ月ものロングラン公演で予想を大きく上回る大成功を収め、フランス文化庁からの助成金で同舞台の音楽をレコード化するまでに至った次第である。
 一般のレコードショップには出回る事無く、芸術作品の一環として舞台会場のみでしか流通しない特殊な事情を考慮しても、ある意味に於いて本作品こそがピュルサー復活の狼煙でもあり起爆剤となったのは紛れも無い事実であると同時に、正規のピュルサー名義としての作品では無い分、劇伴作品という制約上幾分散漫な印象は否めないが、原点回帰と言わんばかりに1stと2nd期の作風に立ち返ったかの様なシンセ系の使い方に“やはり…これこそがピュルサー”と賞賛する向きも決して少なくはなかろう。
 この功績を機に、2年後の1983年にはラジオ・フランスからの企画と招へいで、地元リヨンでの一日限定ライヴを行い、限られたキャパシティにも拘らず新旧のファンを問わず2000人もの聴衆を動員するという大成功をも収め、まさにフレンチ・プログレにピュルサー有り!と強く健在振りをアピールした。
           

 駆け足ペースで恐縮だが、その後ピュルサーの4人はイヴェントやら企画云々では無い正規のバンド再起動に乗り出す事となり、丁度運良く時同じくしてフレンチ・プログレッシヴ・リヴァイヴァルという合言葉の許、ムゼア・レーベルの発足に呼応するかの如く、各々が仕事の合間を縫っては新曲の製作とリハーサルに時間を費やしていく事となる。
 1987年末、ムゼアからのシンフォニック系のコンピレーションアルバムとしてリリースされた『Enchantement』の中で、アンジュ、アトール(クリスチャン・ベアのソロ名義)といったベテラン勢、そしてエドルス、ミニマム・ヴィタル、J・P・ボフォ…等といった当時の新進気鋭に混じってピュルサーも久々に新曲を披露し、時代相応らしい軽快なプログレッシヴ・ポップス調の新たな側面をも垣間見せてくれたのだった。
 そして2年後の1989年の秋にリリースされた通算第5作目の『Görlitz』は、77年の名作『Halloween』に続くコンセプト・アルバムとして一躍脚光を浴び、前出のコンピアルバムで聴かれた軽快な新曲とはガラリと趣を変えた、ヨーロッパらしい悲哀感と寒々としたイマージュを湛えた80年代の最後を締め括るという意味合いをも含めた実に重厚感溢れる、ベテランらしい風格の傑作に仕上がっている。
 第二次大戦のさ中…東独とポーランドの両国に跨る小都市ゲルリッツの分断という悲劇をモチーフに、旅客列車…時代の重みというキーワードを散りばめた、当時のベルリンの壁崩壊といった世相事情をも視野に入れた意味深な内容に仕上がっているという事も決して忘れてはなるまい。
 全盛期の様な重厚感に若干欠けるきらいこそあれど、機材を含め時代相応のモダンでタイト、デジタリィーな作風の音で真っ向から新しいピュルサーのスタイルに挑戦した真摯で精力的な姿勢には大いに好感が持てる。
 
 時代は更に流れて21世紀…。ピュルサーのメンバー4人もベテランの域を越えた円熟味を増して、各々が本職業で重要な役職やら、後進を指導する立場やポストに就いている…それ相応の年齢に達した頃であろう。
 若い時分の様にあくせくする事無く、仕事も創作活動も慌てず焦らず地道にのんびりと楽しんでいる年齢であるという事を充分踏まえていても、やはり大御所としての風格とプライドは何ら変化する事無く健在であったのが嬉しい限りである。
 2007年にリリースされた、実に18年振りの新譜で通算第6作目となる『Memory Ashes』(個人的には『The Strands Of The Future』に次ぐ秀作だと思う)は、21世紀型ピュルサーの決定版として新旧のファンに驚きと賞賛で迎えられた、まさしく眼から鱗が落ちる様な会心の一枚と言えよう。
 大ベテランだとか実績があるとか…そんな生温いポジションに安穏と胡坐を掻く事無く、彼等は常に飽くなき探究心を持った開拓者の精神で時代と向かい合い、今日まで歩みを止める事無く“夢想”という名の終わり無き宇宙空間を彷徨い続けている修道僧にも似通っているというのは、些か言い過ぎであろうか…。
     

 大御所のアンジュ、そして復活したタイ・フォン…かつての栄華を極めた70年代フレンチ・シンフォニックの名匠達が21世紀のシーンに返り咲いている近年、見事復活を遂げたピュルサーもこのまま順風満帆に軌道の波に乗ってくれるのかと思いきや、『Memory Ashes』のリリース以降またもや再び沈黙を守り続ける事となった次第であるが、その一方でピュルサーサイドから思いもよらぬ吉報が届く事となる。 
 『Memory Ashes』から6年後の2013年、キーボーダーのJacques Roman、そしてギタリストのGilbert Gandil両名のオリジナルメンバーを中心に、旧知の間柄だったシンガーソングライターのRichard Pickを迎えて新たなる新バンドプロジェクトSIIILK(シルク)を結成する事となる。
 ピュルサーの系譜と作風を踏襲したであろう…一見別動隊バンド的な見方こそ否めないが、あくまで過去の音楽経験と実績を活かして、21世紀に順応し時代にマッチしたオリジナリティー溢れるシンフォニックへと高めている事はもはや言うには及ぶまい。
 脈々たるピュルサーの血筋を継承しながらも、見事にピュルサー別動隊バンドといったイメージからの脱却が感じ取れ、現時点でリリースされているデヴュー作『Way To Lhassa』(2013)そして2作目『Endless Mystery』(2017)といった2枚の作品こそ彼等ならではの真骨頂が窺い知れる好作品と言っても過言ではあるまい(余談ながらも、2nd『Endless Mystery』ではピュルサーの管楽器奏者Roland Richardもゲスト参加している)。
    

 いずれにせよ、彼等ピュルサー…そしてその系譜達は時代の波に飲まれる事無く、妥協とは一切無縁な時間軸で今も現役で活動し生き続けている。
 彼等…そして彼等の作品が未来永劫語り継がれていく事をこれからも切に願いながら、ピュルサーというバンドが生き続ける限り、聴き手でもある我々自身も“終着の浜辺”へと辿り着くまで、気長に末永く付き合っていきたいものである。

一生逸品 SANDROSE

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 8月第二週目の「一生逸品」をお届けします。
 昨日は暦の上では“立秋”を迎えたものの、猛り狂ったかの如く連日真夏の猛酷暑が続くさ中、皆様如何お過ごしでしょうか…。
 秋の兆しはまだまだ拝めそうもないものの、枯れ葉舞い散る晩秋の光景に思いを馳せながら、今週は古のセピアとモノクロームカラーに染まったフレンチ・ロック黎明期の申し子“サンドローズ”に焦点を当ててみたいと思います。

SANDROSE/Sandrose(1972)
  1.Vision 
  2.Never Good At Sayin'Good-Bye 
  3.Undergraund Session(Chorea) 
  4.Old Dom Is Dead 
  5.To Take Him Away 
  6.Summer Is Yonder 
  7.Metakara 
  8.Fraulein Kommen Sie Schlaffen Mit Mir 
  
  Rose Podwojny:Vo 
  Jean-Pierre Alarcen:G 
  Christian Clairefond:B 
  Henri Garella:Org,Mellotron 
  Michel Jullien:Ds,Per 

 サンドローズのエピソードへ入る前に、この場をお借りしてちょっとした個人的な思い出話にお付き合い頂けたら幸いである…。 
 もうかれこれ20年以上も前に遡るが、当時自分が入り浸っていた地元新潟市内のカフェバーにて、以前から気になっていた一冊の写真集との出会いがあった。
 その写真集のタイトルは「エルスケン巴里時代 1950~1954」(リブロポート刊)。

  

 写真を志した方なら一度はその名を聞いた事があるだろう。
 Ed van der Elsken (1925~1990)、オランダ出身の稀代の名写真家にして映画監督でもあり来日経験も何度かあり、後年の写真家達に多大なる影響を与えたのは言うまでもあるまい。
 当時24歳の若かりし頃の彼が、1950年から約5年間「芸術の都パリ」を創作活動の拠点にし、そこで生きる人々を被写体にファインダーを通して赤裸々なまでの“生”の姿を収めたモノクロームな時間だけが存在する記録写真集であった。 
 市井の人々始め当時の流行・風俗のみならず、彼…エルスケンを取り巻くボヘミアンな若者達(芸術家の卵を始め、彼の女友達、恋人、ヤク中にアル中といった怠惰な連中)はおろか、珍しくも貴重な一枚で女優の卵時代、若かりし頃のBB(ブリジッド・バルドー)も収められていたのが印象的だった…。 
 残念な事に、今はもうそのカフェバーは無くなったが、店をたたむ前にマスターからそのエルスケンの写真集を格安で譲ってもらったのが昨日の事のように鮮明に覚えている。
 …ちなみにその店の名前も「エルスケン」だった。 

 サンドローズの音を耳にする度に、いつもエルスケンのモノクロームの時間が止まった写真を連想する。
 そもそも、彼等の遺した唯一の作品…ペルシャ絨毯調なジャケット・デザインが目を引く、遥か昔それこそ一枚十ン万円の狂気乱舞でべらぼうなプレミアムが付いたオリジナル見開きLP原盤を開くと、メンバー5人のフォトグラフをぼかしてセピア色に彩られた装丁が実に印象的である。
 私自身若い時分、マーキーの事務所にてたった一度だけ目にしたことがあり、先のエルスケンと同様今でも鮮明に記憶している…。
 87年にムゼアを通じて再発されたLPも内側はセピア色ではなかったものの、5人のフォトグラフは白黒のモノクロ・トーンだった。 
 彼等のサウンドに色鮮やかなカラー写真は似つかわしくないだろうし、一度たりとも彼等のフォトグラフでカラーなものは一枚も確認されていない(母国でのレコード宣材用並びライヴ・フォトすらも…)。
 早い話、サンドローズの写真で確認されているものは全部モノクロである。 

 エルスケンのパリでの5年間の創作活動から14年後…1968年、フランスはカルチェ・ラタンでの学生一斉蜂起(当時、日本にも学生運動の嵐が吹き荒れていた…)による「5月革命」を境に、国内でも新たな文化・芸術活動の息吹きが活発化しつつあった。
 これまでのシャンソン、ジャズ、アイドル・ポップス主流だったフランス国内の音楽事情において、ロック・ミュージックが浸透するのに、そんなに時間を要とはしなかった。
 70年以降…マグマ、アンジュの台頭でフレンチ・ロック黎明期の形成・席巻と同時期にサンドローズはその産声を上げた。 
 片や一方でサンドローズの母体とでも言うべきバンド“エデンローズ”も忘れてはなるまい。
 1969年に唯一の作品『On The Way To Eden』を残しバンドは解体。
 ギターのJean-Pierre Alarcen、オルガンのHenri Garella、ドラムスのMichel Jullienの3人に、
ガルラの推薦でベースにChristian Clairefond、そしてAlarcenのパリのクラブ時代の旧知を介し女性ヴォーカルにRose Podwojnyを迎え、72年大手ポリドールより自らのバンド名を冠したデヴュー作をリリースに至った次第である。

 エデンローズはHenri Garella主導のポップがかった軽快なジャズ・ロックにして、当時においては高水準な秀作(フレンチ・ロック黎明期の名作でもある)であったが、サンドローズは紛れも無くJean-Pierre Alarcen主導で、ロック色を更に強めジャズィーな面とフォーク・タッチな面とが違和感無く融合したまさに“稀代の名作”という名に恥じない珠玉の一枚である。
 エデンローズは全曲インストだったが、本作品ではヴォーカル入り5曲、インスト・パートのみが3曲の構成で、ヴォーカルは決してお世辞にも上手い部類とは言えないが、Rose嬢の英語による歌いっぷりには、フランス臭さというかモノクロな風景、一種独特なけだるさ・アンニュイさが漂っていて、時折女の恋情にも似通ったエロティックさをも想起させ、聴く側も一瞬ハッとせざるを得ないのが困りモンであるが…まあ、それは御愛嬌。
           
 冒頭1曲目の“Vision”始め“Never Good At Sayin'Good-Bye”、“Old Dom Is Dead”、“Summer Is Yonder”などが顕著な例で、Rose嬢の哀愁と情感漂うヴォイスにAlarcenのどこかメランコリックでストイックなギター、Garellaのリリカルで時にクラシカル、時にジャズィーな趣のオルガンとメロトロン・ワークが絡む様は感動の一語に尽きる思いである。
 “To Take Him Away”後半部にかけての白日夢を思わせる朧気ながらも幽玄なメロトロンの響きは絶品である。インスト・パート部ではやはり“Undergraund Session(Chorea)”の曲構成が圧倒的に素晴らしく、名実共にAlarcenとGarella…二つの音楽的才能が見事にコンバインした秀作である。
 残るインスト曲“Metakara”と“Fraulein Kommen Sie Schlaffen Mit Mir”に至っては、前者はジャズ・ロックの名残を残したGarellaのオルガン・ワークが炸裂した佳曲、後者はオルガンとメロトロンのギミックなエフェクトを多用したややアヴァンギャルドな小曲で意外性な面が表れていて面白いと思う。
 かのAlarcenは当時の事を振り返りながら「あの当時の音楽的背景にはキング・クリムゾンとジョン・マクラフリンの存在と影響が大きかった」と語っている。 
 しかし…ここまで順風満帆なバンドの思惑とは裏腹に、理由は不明であるがデヴュー作リリース直後にGarellaがバンドを去り、急遽Georges Rodiを加えるも僅かたった10回程度のギグを経てサンドローズは僅か1年足らずで解散への道を辿り幕を降ろした次第である。

 解散後のメンバーのその後の動向は、Rose嬢は心機一転しRose Laurensと改名し、フレンチ・ポップス界にて近年まで多数のヒット作を世に送り出し多大な成功を収めているが、悲しむべき事に昨年残念ながら鬼籍の人となったのが実に惜しまれる…。
 そして当のAlarcenはフランソワ・ベランジェ、ミッシェル・ザカ、ルノーといったシャンソン系ポップス界の大御所との共演・コラボを経てソロ活動も併行。
 78年『Jean-Pierre Alarcen』、翌79年には本作品と並ぶフレンチ・シンフォニックの名作『Tableau N゚1』をリリースし再び高い評価を得るも、暫く沈黙を守り続けていたが、98年突然不死鳥の如く甦り20世紀末の傑作『Tableau N゚2』を発表するも、彼自身またもや沈黙状態に入り現在までに至っている。
    

 Garellaを始めとする残る他のメンツの動向ですらも残念ながら消息を知る術は無い。 
 数々の賞賛を浴びつつも、度重なる不運続きで惜しまれつつも活動に幕を降ろしたサンドローズ。 
 サウンド的には、多少古めかしくも所謂時代がかった(良い意味で)骨董品級の音ではあるが、フロイドの『神秘』や『原子心母』と同様…趣や方向性こそ異なれど、サウンド自体のコピーは確かに可能かもしれないが、やはりその時代の空気・雰囲気まで再現出来ないのが唯一の強みである。 
 “珍しいだけでしかない骨董品!! 嗚呼…もういいや”
 “ハイハイ…わかったわかった、時代の古臭い音でしょ”
 “これが名作ゥ!!??ハッキリ言って金の無駄!!”
 …と言う辛辣で罵詈雑言な意見の向きもあるにはあるが、だからと言って、ちゃんとまともに聴きもせずにCDラックへ無雑作に放り投げたままでは、これでは彼等5人の苦労と努力が報われないというものだ…!
 もし…サンドローズの作品を未だに未聴の方がいるようであれば、どうか頭の中を空白まっさらににして作品と真正面に向かい合ってお聴き頂きたい。
 紛れも無くそこには…不朽の名作・名盤だから云々を抜きに、“古臭い音”といった低次元さや時代性を遥かに超越した“”がきっと見出せる筈である。

夢幻の楽師達 -Chapter 03-

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 8月三週目…『幻想神秘音楽館』復刻リニューアルプランも着々と滞り無く進行し、漸く安定に入ったという実感が湧いてきました。
 連日の猛酷暑のさ中、帰省の有無を問わず皆さんお盆休みを如何お過ごしでしょうか?
 今週の「夢幻の楽師達」は、21世紀の現在に至るまで、ジェネシス、イエス等と並んで世界各国のプログレッシヴ・ロックを志す者達に多大なる影響を及ぼしたキング・クリムゾンという文字通り稀代の21st Century Schizoid Bandの許、大小なりの影響を受けたであろうクリムゾン王の子供達と言っても過言では無い位、世界各国に存在する幾数多ものクリムゾン・フォロワーバンド達。
 そんなクリムゾン影響下のリスペクトバンドの中でも、70年代に於いてその傑出した比類なき完成度を誇るであろう…スイス・シーンきっての至高にして孤高の代表格“サーカス”を取り挙げてみました。

CIRCUS
(SWITZERLAND 1976~1980)
  
  Fritz Hauser:Ds,Per 
  Marco Cerletti:B,B-Pedal,12Ac-G,Vo 
  Andreas Grieder:Flute,Alto-Sax,Vo,Per 
  Roland Frei:Vo,Ac-G,Tenor-Sax

 サーカスの結成は1972年、スイス地方都市のハイスクールの学友だったFritz Hauser(Ds,Per)、Marco Cerletti(B)、Andreas Grieder(Flute)、Roland Frei(Vo,Ac-G,Sax)、そしてStephan Ammann(Key)の当初5人編成で結成された。
 クリムゾン、イエスから多大な影響を受けつつも、各人の音楽的なバックボーン・嗜好は実に様々だったとの事。Fritzはジャズ、Marcoはロック、Andreasはクラシック、Rolandはフォーク、Stephanはポップス…etc、etcと音楽的嗜好の違いはあれど、5人の感性と創作意欲が見事に融合して、サーカスにとって唯一無比のサウンドが構築されたといっても何ら不思議ではない。 
 度重なるギグの積み重ねで、理由は定かではないがStephan Ammannが離脱し(80年の3rd『Fearless Tearless And Even Less』にて復帰するが、入れ替わるかの様にAndreasが脱退)、バンドは暫し4人編成での活動を余儀なくされる…。
 1999年末に奇跡の単独初来日公演を果たしたドラマーにしてオリジナルメンバーでもあるFritz Hauserの言葉を借りれば「キーボードが抜けて、元々エレキギター不在だったあの頃が一番困難な時期だった」と回顧している。 
 残された4人は改めてバンドをもう一度根本から立て直すが為に度重なるミーティングとリハーサルに時間を費やし、ペダル・ベースの導入にパーカッションの増強、エフェクター効果による音色の変化・選定・実験といった試行錯誤を繰り返し、1976年自らのバンドネーミングを冠した待望のデヴュー作『Circus』をスイス国内のZYTレーベルよりリリースに至る次第である。
     

 キーボードレス・スタイルながらもエフェクター系ギミックとディストーションを巧みに利かせたギター系の残響を効果的に配し、ヘヴィで鮮烈なパーカッション群とリズム隊にフルートの絡みつく様は、まだまだ粗削りな感こそ否めないものの、クリムゾンの亜流云々と揶揄する以前に独自のオリジナリティーが既に確立されつつあったバンド黎明期の快作でもあった。
 
 彼等の創作意欲はとどまる事無く翌77年、あの同国のアイランドの『Pictures』と双璧を成すユーロ・ロック史上に残る名作『Movin'On』をリリース。本作品で彼等の名声は更に高まったばかりか、キーボードレスでもこれだけのへヴィ・シンフォニックが構築出来る事を自ら証明した、ひとつの可能性を示唆した軌跡そのものといっても差し支えはあるまい。
          

 LPでもCDでも全編切れ目無く息つく暇をも与えない位、終始漆黒の闇夜を思わせる荒涼とした静寂の空気と張り詰めた緊張感が漲る演奏には、私自身が本作品と出会ってから今日に至るまで20数年以上もの間、決して色褪せる事無く現在でもその斬新で重々しい音世界に舌を巻く思いである。 
 ZYTから2枚の好作品をリリースした後、彼等4人は地元で旧知の9人のミュージシャン達(オリジナルメンバーのStephan Ammannを含めて)と共に競合し短い限定期間で“CIRCUS All STAR BAND”と名乗ってライヴ収録のみの為のギグを行う。
 ZYTよりリリースされた彼等唯一のライヴ音源…残念ながら、本作品にあっては筆者も未聴でしかも未だにCD化がされてないといった有様で、一刻も早くCD化されることを望みたい限りである。 

 大所帯での限定期間活動を経て、彼らは暫し沈黙を守るが、80年代に入りサーカスというバンド自体も大きな変遷を迎える事となった。長年フルートを担当していたAndreasが脱退し、程無くしてオリジナル・メンバーであったStephan Ammannが漸く復帰。
 重厚なキーボードを配した…まさしくクリムゾン+UKに追随するスタイルを踏襲した通算3作目にしてラスト・アルバムとなった『Fearless Tearless And Even Less』をリリースする。
 本作品の紹介当初は如何にも時流に乗ったかの様なジャケット・ワークに、旧A面で顕著に見られたメロディーラインに“時流のポップがかった!”などと早計し誤解していた輩も少なくなかった。
 …が逆に良くも悪くも「後期クリムゾンの亜流」といった印象から拭い切れないバンドにとって、事実上の本来のバンドカラーらしさ=オリジナリティーを漸く打ち出す事の出来た、まさに天晴れな快作・佳作にしてバンドの終焉に相応しい集大成とも言えよう。旧B面の大作“Manaslu”はあの2ndの大作“Movin'On”と並ぶ甲乙点け難い名曲である。
         

 サーカス解散後、FritzとStephanはもう一人のキーボード奏者Stephan Griederを迎え、ツインKeyにドラムスのトリオ編成であの伝説とも言うべき“BLUE MOTION(ブルー・モーション)”を結成。
 バンドネームと同タイトルの唯一の作品も80年代ユーロ・ロック史に残る名作にして名盤となり、初版の見開き原盤も今現在においても高額のプレミアムが付いている(初版原盤、見開き無しのシングル形態のセカンド・プレスLP、CDに至るまで、似ている箇所が多々あるもののジャケット・アートはかなり変遷を遂げている…)。
 喜ばしい事に近年マーキー/ベル・アンティーク尽力の甲斐あって、オリジナル見開き紙ジャケット仕様のSHM-CD化されたので、ファンにとっては当時の初回リリースと同じ雰囲気と趣が御堪能出来るだろう。
        

 その後のメンバーに関しては残念ながらその後の動向や所在等が殆ど不明ではあるものの、ドラマーのFritzそしてアコギとサックスのRolandが母国にて現在もなお創作活動に勤しんでいる事しか解っていない。
 特にFritz自身ロックというフィールドから離れて、今や芸術家・現代音楽家としての地位をすっかり確立させたかの様だ(多数の良質な作品をリリースしている)。
 改めて思うに…サーカスというバンド、そして尚且つFritz Hauserが辿った道程はユーロ・ロックという広大で夢幻の地平線に於いて、まさしく商業云々とは全く無縁な孤高の歩みそのものと言っても過言ではあるまい。 
 
 21世紀に入り来年で早20年となる次第だが、70年代のプログレッシヴ史を飾った往年の名バンドが次々と再結成される中、孤高の極みとも言うべきアイランド並び本編の主人公サーカスだけは、もう決して再結成される事は無いに等しいであろう。 
 暑い熱帯夜が冷めやらぬ今宵はサーカスの遺した3枚の作品を聴きながら、初秋を待ち侘びながら
クールでメランコリックな思いに馳せたい…そんな気分である。

一生逸品 ISLAND

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 8月三週目の「一生逸品」、今回は少数精鋭の感が強いスイスのプログレッシヴ・シーンのみならず70年代後期のユーロ・ロック史に登場した数ある名アーティストの中でも“唯一無比”なるカリスマ的異彩を放ち続け、21世紀の現在もなお絶対的な存在にして孤高の極みに君臨する“アイランド”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。

ISLAND/Pictures(1977) 
  1.Introduction 
  2.Zero 
  3.Pictures 
  4.Herold And King(Dloreh) 
  5.Here And Now
  
  Benjamin Jager:Vo,Per 
  Guge Jurg Meier:Ds,Gongs,Per 
  Peter Scherer:Key,Pedal-Bass,Crotales,Vo 
  Rene Fisch:Sax,Flute,Clarinet,Triangle,Vo 

 悪夢の饗宴或いは暗黒の迷宮をも思わせる、ダークな旋律(戦慄)と才気に満ち溢れたミスティックな雰囲気漂う高度な演奏は、同じくスイス出身の鬼才(奇才)H.R.ギーガー描く不気味なバイオ・メカニカルなジャケット・アートとの相乗効果も手伝って、まるで一糸乱れる事無く機械的に構築された…アヴァンギャルド、エロス&タナトス、デカダンスな“時計仕掛けのオレンジ”ならぬ“時計仕掛けの一枚の絵画=Pictures”を彷彿させるかのようだ。
    

 本作品が製作される以前…遡る事3年前の1974年、スイス国内の5バンドを一挙にまとめたオムニバス編集盤『Heavenly And Heavy』にてアイランドは早くも登場を果たしている。
 当時はギター、ベースを擁した6人編成(キーボードもサックスも別人物)で活動しており、結成当初からのオリジナル・メンバーはBenjaminとGugeの2名のみである。
 後述でも触れるが、1975年にPeterが正式加入し、翌1976年にReneを迎えた布陣でギターやベースの出入りこそあったものの、アイランドの礎ともいえるラインナップでホームレコーディングによるデモ音源とコンサート会場で収録されたライヴ音源を録り貯めながら、各方面のレコード会社や音楽系メディアに自らを売り込みつつデヴュー作リリースの機会を窺っていた。
 その際にホームレコーディングで収録されたデモ音源と翌年のライヴ音源は、2005年に発掘アーカイヴ音源の2枚組CDという形で陽の目を見る事となり、デヴュー前のアイランドにて青春と情熱を燃やしていた若き日の彼等の初々しくも傑出した個性が垣間見える素晴らしい内容に仕上がっているが、それは後半にて綴りたいと思う。
 こうした紆余曲折もいえる苦労の連続と、ギーガーの邪悪な意匠という協力の甲斐あって半ばセルフレーベルに近い形で、1977年最初で最後のデヴューリリースともいえる『Pictures』を引っ提げ、アイランドは同国のサーカスに続けとばかり一躍スイスのシーンに躍り出た次第である。
          

 たった唯一の本作品…兎にも角にも不気味なヴォイスとゴングの唸りに導かれるオープニング“Introduction”を皮切りにラストの“Here And Now”に至るまでの全曲において、中弛みや退屈さ云々等とは全く無縁でありつつも、さながら瞬きする間すら与えず有無をも言わせず一気に怒涛の如く聴かせる辺りは、PFM始めイタリアン・ロックの名作を多数手掛けたクラウディオ・ファビのプロデュース・手腕に依るところが大きいと言えよう(加えてレコーディング・スタジオも名作を多数世に送り出した、リコルディ・スタジオである)。
 終局の宴を思わせる高度な演奏の中にもReneの吹くサックスに、欧州的な悲哀・終末感とも言うべき泣かせ処をちゃんと兼ね備えてあるのは流石とも言えよう…。
 だが、何よりもPeterの作曲並びコンポーズ能力の卓越した非凡さには本作品を何度も何度も繰り返し聴く度毎に舌を巻く思いであると共に、緊迫感と不穏な空気すら醸し出すGugeのドラミングと金属質な時間と空間を演出するパーカッション群の使い方も実に見事である。 
 補足ではあるが、CD化の際のボーナストラック“Empty Bottles”もスタジオ・ライヴ一発録り(多分?)ながらも、フリーインプロヴィゼーションな趣を感じさせつつ、スタジオ録音とはまた打って変ってひと味違った魅力の秀作に仕上がっており、テクニック至上主義に陥ってないところも好感が持てる。 
 ユーロ・ロック史に残る“奇跡の逸品”を残した後、バンドは人知れず消滅しメンバー全員も消息を絶ち、もはや忘却の彼方へ追いやられたかの様に見えたが、1988年アメリカのアンビシャス・ラヴァーズの2作目『Greed』にてPeter参加の報を機に、アイランドが再びクローズアップされたのは周知の事であろう…。
    
 一見畑違いの音楽性に変貌したのかと思わせつつも、Peterの音楽への探求は更に自己進化(深化)を遂げたと解釈した方が正しいのかもしれない。
 1991年の『Lust』以降、新作のアナウンスメントが聞かれなくなって些か寂しい限りではあるが、もし可能であるならば…アンビシャスとはまた違った音楽形態で、Peterが我々の前に再び姿を現してくれる事を切に願いたい限りである。 
 90年のアンビシャス・ラヴァーズ二度目の来日の際、Peter曰く“アイランドのアルバムは、若い頃に出した未熟な作品。子猫が爪を出して引っ掻いたかのような未完成なものでしかない”と自らの経歴を否定するかのような寂しいコメントを残しているが、それとて彼自身が枠に収まる事を嫌う勤勉で且つ真摯な音楽家である所以。
    

 後年Peter自身知ってか知らずか…先に触れた1975年と1976年に収録されたホームレコーディングとライヴ・アーカイヴによるアイランドの未発表音源が、2005年2枚組CD『Pyrrho』として陽の目を見る事となり、この一大事ともいえる吉報で改めてアイランドの存在意義と絶対的なる地位が証明され、発表当時彼等を支持する多くの根強いファンは狂喜し喝采を贈ったのはもはや説明には及ぶまい。
 良し悪しを抜きに、たとえPeter自身がどんなにアイランドの若い時分を反論ないし否定しようとも、彼等が遺した唯一の作品は21世紀の現在でもなお神々しくも禍々しい煌きと孤高の眩さを放ち続けているのは紛れも無い事実であろう。

夢幻の楽師達 -Chapter 04-

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 8月もいよいよ後半…今週の「夢幻の楽師達」は、先日リリースされたばかりの須磨邦雄氏2枚目のソロアルバムのリリースに伴う形で、クリムゾン・フォロワー系に於いて日本古来に根付くであろう忌まわしい因習…或いは伝統美の裏に潜む妖しげな闇の深淵、真紅の迷宮に木霊する旋律(戦慄)を謳い奏でる、かのクリムゾン王の血筋と孤高の精神を異国の地で継承した、紛れも無い真紅の子供達でもある“美狂乱”に、今再び光明を当ててみたいと思います。

美狂乱 BI KYO RAN
(JAPAN 1973~)
  
  須磨邦雄:G, Vo, Mellotron
  白鳥正英:B
  長沢正昭:Ds, Per

  「キング・クリムゾンがあったから 今、美狂乱がある…」
 今を遡る事37年前…1982年の11月21日、日本国内、否!全世界中のプログレッシヴ・ロックを愛する者達へ挑戦的或いは問いかけにも似たキャッチコピーを引っ提げ、鳴り物入りでセンセーショナルなデヴューを飾った、日本の真紅の子供達(Japanese Crimson Children)、その名は美狂乱。
 真紅の鬼の如き形相で慟哭ないし咆哮を思わせる巨大な魔王の顔が描かれた本家御大キング・クリムゾンの衝撃的デヴューから数えて13年、よもや海を越えた東洋の地にてクリムゾン王の洗礼を受けた者達が覚醒するとは、あの当時いったい誰が予想し得たであろうか…。
 漆黒の闇に赤の閃光に照らされた妖しくも禍々しい様相の狐面こそが、日本という風土の裏側に根付く因習と混沌を代弁し何者すらも寄せ付けない禁忌を物語る、美狂乱の音楽はそんな日本人の心の奥底に潜む闇と暗黒の深淵を内包し、狂暴と抒情そして正気と狂気の狭間で旋律(戦慄)を奏でる、唯一無比にして妥協無き孤高の楽師達と言っても過言ではあるまい。
 美狂乱の今日までに至る歩みについては、過去にリリースした作品のライナー、各方面での専門誌、果てはバンドリーダー須磨邦雄氏運営の公式サイトでも詳細が語られているので、重複の無い様ここでは簡単に要約して触れる程度にとどめておきたい…。

 60年代半ば…世界の幾数多ものロックミュージシャンの少年期がそうであった様に、静岡にて十代の小学生だった須磨氏が初めて接したロックはベンチャーズで、それ以来音楽とギターの面白さに取り憑かれた須磨少年は当時のGSブームと共に瞬く間に明けても暮れてもギター少年と化していったのは言うには及ぶまい。
 小6の頃には学友と共にデュオスタイルのバンドを組んで、須磨少年はギターからドラムまでを手掛けるようになって、モンキーズ、ストーンズ、プロコルハルム、そして御大のビートルズからの洗礼を受けてますますロック少年としての加速度を高めていく次第である(余談ながらも当時の須磨少年にとってビートルズは音楽性の素晴らしさこそ認識すれど、所詮は女が聴く軟弱もんロックと敬遠していたというから面白い)。
 中学に入りロック少年としてますます拍車をかけた須磨少年は、クリーム、ZEP、パープル、果てはヴァニラ・ファッジ、アイアン・バタフライ、グランド・ファンク・レイルロード、日本のモップス、そしてフェイヴァリット・バンドでもあるフラワー・トラヴェリン・バンドと多岐に亘って触れながら、併行して日に々々ギターの腕も上達していき、中学3年ともなると東京の某ロックコンテストに腕試しとばかりに大きなステージへと挑戦する事となる。
 そのコンテスト時の審査員だったフライド・エッグの3人から賞賛され、須磨少年はステージ上に上がってきた成毛滋氏から直々にジミー・ペイジのギター奏法を伝授され、サプライズな感動の余韻と勢いを引きずったままその後地元静岡で開催されたロック・コンテストに参加。
 以後、高校在学中には静岡のサンシャイン・フェスに参加し憧れのフラワー・トラヴェリン・バンドと共演し(スペース・サーカスとも共演)、以後須磨少年は高校を卒業するまでの間、静岡県内で一目置かれた存在のギタリストとして広く名が知られる事となる。
 高校を卒業しプロ活動を目指して、当時活動を共にしていた初代美狂乱ベーシストの吉永伸二と共に上京するも志半ばで頓挫。
 半年後二人とも失意を抱えて静岡へと帰郷するものの、そこで初代ドラマー山田義嗣との出会いによって運命の歯車は再び大きく動き始めるのである。
 東京時代に書き溜めたオリジナル曲から15分強の大作「止まった時計」を完成させレパートリーに加えていった辺りから、徐々に須磨氏の音楽スタイルに変化の兆しが感じられる様になり、それこそ鶏が先か卵が先かではないが、半ば冗談交じりに名付けたバンド名だった美狂乱が次第に須磨氏の目指す音楽像とイメージに歩み寄りつつあった事だけは確かな様だ。
 1974年「止まった時計」を引っ提げて美狂乱名義で再び東京の某ロック・コンテストに参加し特別賞に輝くと同時期に、河口湖ロック・フェスティバルに参加しフラワー・トラヴェリン・バンドと二度目の共演を果たし、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いの多種多才なバンドに混じって白熱の演奏で聴衆からの喝采を浴びる事となる。
 その時「止まった時計」に触れた聴衆からは
          “クリムゾンのエピタフを思わせる”
          “キング・クリムゾンのサウンドスタイルみたいだ”
 そんな言葉に、須磨氏自身この時点で初めてキング・クリムゾンを意識する様になり、当時リリースされたばかりのライヴ盤『USA』に触れ、以降遡りながら『レッド』『暗黒の世界』『太陽と戦慄』といった後期クリムゾンの作品に傾倒し、それからというものロバート・フリップを師と仰ぎクリムゾン一辺倒への歩みを追加速させていくのであった。
 程無くして音楽を生業とする事に抵抗を感じていた山田がバンドを去り、その後は82年の美狂乱正式メジャーデヴューに貢献したドラマー長沢正昭が加入。
 一時的ではあるが長沢の提案でクリムゾン・フォロワーバンドとして専念するためにバンド名をまどろみに改名し、クリムゾンの殆どの曲のコピーをこなしていく事となる。
 その後まどろみは須磨氏、吉永、長沢の3人を核にキーボード、ヴァイオリン、トランペット、フルートのメンバー数名が出入りし、静岡のロック・フェスや多くのステージに出演し実績を積み重ねていくが、メンバー個々の諸事情やら音楽的方向性の相違、心身の疲弊を理由にまどろみは1977年解散の憂き目を見る事となる。
 その翌年プログレ&ユーロ・ロック命でベースからキーボードまでを手掛け多重録音にも造詣の深い静岡大の学生だった久野真澄、そして女性ヴァイオリニスト杉田孝子との出会いを機に、須磨氏は再び長沢を呼び寄せ美狂乱再結成へと至る。
 が、美狂乱再結成が軌道に乗り始めたと時同じくして長沢がまたしても諸事情で抜けてしまい、須磨氏と久野は途方に暮れるも、まどろみ時代の旧知の伝でベースの吉永が復帰し、久野はキーボードに専念、そして肝心要のドラマーの後釜として、須磨氏と旧知の間柄でもあった伝説的名プログレドラマー佐藤正治が加入。
 美狂乱は漸く5人体制バンドとして確立し、1981年までこの不動の体制を継続し静岡県内での精力的な活動はおろか、東京のプログレ・ライヴハウスの老舗シルバーエレファントでのライヴにも定期的に出演する事となる。
 前後してフールズメイトやマーキームーンといった当時のプログレ音楽誌を始め、後のキング/ネクサス設立に携わる高見博史氏との出会い、同年期の盟友的バンド新月との繋がりで美狂乱は着実にメジャーデヴューへの足掛かりを築いていく事となる。
 この頃には名曲でもある「警告」始め「予言」「空飛ぶ穀蔵」「御伽世界」「都市の情景」といったレパートリーがライヴで大きな呼び声となっていたのは言うに及ぶまい(因みにこの当時カセットテープで収録されたライヴは、後述でも触れるが1987年にマーキー/ベル・アンティークよりリリースされた『Early Live vol.1~御伽世界』でも聴く事が出来る)。

 80年のキング/ネクサスの設立でノヴェラ、アイン・ソフ、ダダに次ぐ4番手として美狂乱にも白羽の矢が刺さるものの、高見氏への返答、契約その他諸々を含めた保留の状態で、正式なレコーディングに向けたリハーサルに日々を費やす中、突如として個人的な諸事情で吉永と杉田がバンドを脱退。
 が、しかし臆する事無く残された須磨氏、久野、佐藤の3人でデヴューアルバムに向けたデモ音源を完成させ、抜けた吉永の後任として白鳥正英を迎えて、いざ!メジャーデヴューに一直線と思いきや、須磨氏の結婚を機に東京でプロミュージシャンとしての活路を見出す久野と佐藤の両名とも袂を分かち合い、美狂乱はまたもや活動停止~解散への道を辿ってしまう。
 それでも数ヶ月間に及ぶ高見氏の熱心な後押しと説得の末、2年間の限定期間で何枚かのアルバムを製作するという合意の末、須磨氏は前出の白鳥、そして再びドラマーとして長沢を呼び寄せ新曲を含めた正式なレコーディングを開始する。
 更にはサポートメンバーとしてヴァイオリニストに当時芸大の学生だった中西俊博、キーボードに当時キング/ネクサスからデヴューを飾っていたヘヴィメタル・アーミーから中島優貴、リコーダー奏者の小出道也を迎え、プロデューサーにはジャパニーズプログレッシヴ黎明期の先駆者的作品『切狂言』で一躍話題となったチト川内という強力な布陣で臨み、長きに亘る紆余曲折と暗中模索の末…漸く美狂乱は1982年11月にバンド名を堂々と冠したデヴューを飾る事となる。
     

 デヴュー作の評判は上々で国内外からも高い評価は得るものの、メジャーデヴューという当初の目的こそ達成した須磨氏にとって暫くは満足とも物足りなさともどっち付かずな焦燥感ともどかしさを感じていたのが当時の本心だったそうな…。
 デヴュー記念ライヴを東京渋谷エピキュラス、新宿ACB、吉祥寺シルエレのみに限定し、以後美狂乱はスタジオワークへと尽力していく事となる。
 むしろこの当時の須磨氏の疑心暗鬼にも似た己への自問自答が、翌1983年にリリースされる事実上の最高傑作『パララックス』への原動力へと結実するのだから運命とはどう転ぶか解らないものである…。
 アール・ゾイ始めユニヴェル・ゼロといったダークチェンバー系に傾倒していた時期だけに、文字通りかのスイスのアイランド『Pictures』にも匹敵する、瓦礫の山に宙吊りにされた壊れたマリオネットという不気味で意味深な意匠を如実に具現化した、ダークでカオス渦巻くジャパニーズ・チェンバー・ヘヴィシンフォの金字塔を確立させた怪作にして名作へと押し上げていったのは周知の事であろう。
 新曲の「サイレント・ランニング」始め、伝説の名曲復活の気運漲る「予言」、そして看板に偽り無しの如くキャッチコピーの“このアルバムは聴き手を選びます…”に相応しい大暗黒的真紅の戦慄が横たわる大作「組曲“乱”」を引っ提げた問題作にして最高傑作へと上り詰めていったのである。
                    
 ゲストサポートも充実感極まれりのラインアップで、前作同様ヴァイオリニストに中西俊博、キーボードに当時ノヴェラの永川敏郎、チェリストに今や大御所の溝口肇、トランペットに岡野等といった大盤振る舞いの製作布陣で臨んだ稀代の最高傑作は前デヴュー作をも上回る高評価を得て、四人囃子の『一触即発』始め新月のデヴュー作、ノヴェラ『聖域』、アイン・ソフ『妖精の森』、後年のケンソー『夢の丘』と並ぶジャパニーズ・プログレッシヴ史に燦然と輝く伝説的名盤として殿堂入りを果たしたのであった。
 が…しかし、これだけ最高潮のテンションを保持しながらも結局大阪バーボンハウスでの伝説的ライヴを最後に、キング/ネクサスとの契約満了と時同じくして美狂乱は活動の一切合財全てを停止し、以後1994年の再結成まで長きに亘り沈黙を守る事となる…。

 美狂乱活動停止から4年後の1987年、高見博史氏が記録保存と足跡を後世に遺す為に録り貯めしていた数本のライヴカセットから厳選し、新たに再構成したライヴ・アルバムが回数に分けられマーキー/ベル・アンティークよりEarly Live シリーズとしてリリースされるという大きなニュースが突如としてアナウンスメントされる。
 87年末リリースの『Early Live vol.1~御伽世界』、翌1988年に『Early Live vol.2~風魔』の両作品は、新たな真紅の子供ともいえる幻想イラストレーターししどあきらの描く神秘的にして不気味、意味深で摩訶不思議な異世界は、かのイエス+ロジャー・ディーンとの図式同様に、まさしく美狂乱の音楽世界と見事にマッチングしていると言っても過言ではなかった。
 ここではししど氏の功績を改めて振り返るという意味で『御伽世界』『風魔』そして1995年の再結成時ライヴを収録した『Deep Live』に於ける素晴らしいアートワークを掲げておきたいと思う。
   
 余談ながらも87年と88年にリリースされたEarly Live両作品についてのこぼれ話だが、未だCD化されておらず今や鰻上りな高額プレミアムすら付いているという『Early Live vol.1~御伽世界』であるが、須磨氏の頑固一徹な意向で残念な事に今後以降『Early Live vol.1』のCD化は一切考えていないとの事。
 そして『Early Live vol.2~風魔』に至ってはリリース予定当時の事を覚えていらっしゃる方々も多い事と思うが、当初は名曲の「警告」を含めて、ライヴでたった数回しかプレイしていないというクリムゾンの「突破口」をインスピレーションに書いた「ゼンマイ仕掛け」、そして吉祥寺シルエレでたった一度きりしか演奏した事がないという幻の大曲「組曲“美狂乱”」(1979年当時、地元静岡大学の演劇部とのコラボレーションで誕生した作品との事)が収録されたその名も『ゼンマイ仕掛けの美狂乱』なるタイトルでリリース予定だったものの、惜しい事に高見氏所有の件のライヴカセットテープにかなりの不具合が見つかり、高見氏自身も勢い余って見切り発車に近い形で告知したものの、改めて聴き直してみるとやはりこれは相当キツいなァ…と反省し、後々にリリース予定していた『Early Live vol.3~風魔』を急遽繰り上げ登板し2枚目のEarly Liveシリーズとして世に出る事となった次第である。
 美狂乱活動停止から10年後の1993年、須磨氏の周辺が俄かに騒がしくなってきたのも丁度この頃である。
 解散前夜の1983年7月の大阪バーボンハウスでのライヴを収録した『乱 Live』、そして翌94年にまどろみ時代にクリムゾンの曲をライヴ収録した『まどろみLive』が立て続けにリリースされ、過去の偉業ともいえるライヴリリースという追い風を受けて、須磨氏は新たなメンバーと時代に則したコンセプトで再び美狂乱再結成へと動き出す。
 1994年、須磨氏を筆頭に酒屋の主人でもある三枝寿雅(B)、鈴木明仁(Per)、田口正人(Per)、影島俊二(Ds)、大塚琴美(Key)、望月一矢(G)、田沢浩司(Vo)という初顔合わせの大所帯8人編成のラインナップで再スタートを切り、度重なるリハーサルを経て翌95年東京のEgg‐manで復活ライヴ(後に『Deep Live』としてリリース)を行い大きな拍手と喝采を浴び、そのままの熱気と勢いを保持して、かの名作『パララックス』以来12年振りのスタジオ作品『五蘊(ごうん)』をベル・アンティークよりリリース。
 高見氏所蔵の兎の描かれた日本画をアートワークに用いたまたしても意味深なテーマで深く時代に切り込んだ異色にして時代相応の意欲作に仕上がっているのが特色と言えよう。
     

 駆け足ペースで進めていくが、『五蘊』リリースから程無くして須磨氏、三枝、そして大塚を残し大幅なメンバーチェンジを経て、一時期はスーパードラマー菅沼孝三始め、マリンバ奏者に影島俊二が加わったり、大塚がバンドを辞め、菅沼が抜けて清水禎之が参加したりと幾数多もの人材の出入りが激しい時期でもあった。
 それでも静岡を拠点に東京、名古屋と精力的且つ頻繁にライヴを行い、もはや一点の曇りも迷いも無い我が道を進むかの如く美狂乱は時代と世紀を邁進していった。
 20世紀末の1997年に須磨氏、三枝、そして清水のトリオ編成で原点回帰の如く狂暴にして鮮烈なカオス全開なるヘヴィ・プログレの新作『狂暴な音楽』をマイナーレーベルのFreiheitよりリリースし、その一見してあたかもかの五人一首ないし陰陽座風なジャケットをも彷彿とさせる意匠に周囲はただ驚くばかりだった…。
          
 そして21世紀に入り2002年…かつてのEarly Liveシリーズでしか聴けなかった「都市の情景」「御伽世界」「空飛ぶ穀蔵」「未完成四重唱」、そして幻の未発曲「ゼンマイ仕掛け」がスタジオ新収録版として甦り、3曲の新曲(未発表曲?)を新たに加えた文字通りの回顧とアンソロジーがテーマの『美狂乱Anthology vol.1』をリリース(下世話ではあるが、vol.1があれば当然vol.2も予定されていたのだろうか?)。

 時代の推移と共に美狂乱も大きな変動を迎え、須磨氏を筆頭に再びドラマーとして長沢正昭が復帰し、須磨氏の息子さん須磨和声がヴァイオリンとして参加、神谷典行(Key)、桜井弘明(B)の両名の新メンバーを加えて、プログレッシヴのフィールドからアニメ音楽のフィールドへとシフトしていき、青春ギャグアニメ「クロマティ高校」のサントラBGMをメインに手掛けているのが記憶に新しい…。
 その一方で須磨氏自身のソロ活動も併行して行われ、須磨氏自らが運営しているスタジオ兼レーベルのMountain North Recordsより2007年に初ソロアルバム『SOLOSOLO』、息子の和声君も同レーベルより2012年に『組曲“蟻”』でソロデヴューを飾っている。
 
 美狂乱が結成してから早40年以上もの歳月が経過し、今やライヴを含めて過去にリリースした殆どの作品がプログレッシヴ遺産並みのリスペクトクラスとして掲げられ、美狂乱のみならずスウェーデンのアネクドテンやパートス、アメリカのディシプリンといったクリムゾンDNAを真っ向から受け継いだ次世代が今もなお続々と輩出され、その流れはもはや止まるところを知らない。
 クリムゾン亜流バンド云々と過去に散々陰口まで叩かれつつも、彼等美狂乱は決して意に介さずただひたすら真紅の迷宮と暗黒と混沌の深淵を彷徨い、自己の美学とロマンティシズムの追求のみに音を紡いできた。
 須磨邦雄氏がこれから目指すであろう音楽の終着点が一体いつになったら見出せるのかなんて曖昧模糊めいた野暮な事はここではおそらく無意味な事であろう。
 須磨氏…即ち彼自身が生き続ける限り美狂乱の音楽と精神は絶える事無く、その時代々々を見据えた視野と観点で未来永劫ますます進化し続けていく事であろう。

 そして…長き沈黙を破って先日リリースされたばかりの須磨氏自身12年ぶりのソロワーク『ソロSIDE:森の境界』を今こうして耳にしている次第である。
     

 今回の2作目のソロに於いて須磨氏の研ぎ澄まされた孤高にして崇高な精神は更なる極みの境地に達しているかの様ですらあり、本作品はあたかも迷宮の音世界へと通ずる美狂乱の帰還ともいえる布石或いは予兆なのだろうか…?
 我々聴き手側はその答えを求めつつ、美狂乱が再び目覚める時までただひたすら信じ続けて待つしか術はあるまい…。
 否、もはや我々の知らない時間軸で美狂乱の新たなる胎動と覚醒がもう既に始まっているのかもしれない。

 本文章に多大なる刺激とインスピレーションを与えてくれた、聡明な楽師でもある須磨邦雄氏に心から感謝と御礼を申し上げます。

一生逸品 新月

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 今週の「一生逸品」は先日の美狂乱に続き、日本的なイマージュとリリシズムを謳い奏でるもう一方の雄でもあり、日本のプログレッシヴ・ロック史に於いて21世紀の今もなおカリスマ・神格化され、70年代と80年代との時代の境目を全身全霊で駆け巡った生ける伝説と言っても過言ではない、まさしく日本のジェネシス・チルドレンの代名詞でもある“新月”に焦点を当ててみたいと思います。

新月(SHINGETSU)新月(1979)
  1.鬼
  2.朝の向こう側
  3.発熱の街角
  4.雨上がりの昼下がり
  5.白唇
  6.魔笛“冷凍”
  7.科学の夜
  8.せめて今宵は
  
  北山真:Vo
  花本彰:Key
  津田治彦:G
  鈴木清生:B
  高橋直哉:Ds

 70年代最後の1979年、プログレッシヴ・ファンの期待を一心に集め日本ビクター傘下のZenレーベルから鳴り物入りでデヴューを飾った新月。
 当時プログレ専門誌時代のフールズ・メイトにあっては、吉祥寺のライヴハウス“シルバー・エレファント”をメインストリームとする、新月を始め美狂乱、グリーン、アウター・リミッツ、観世音、スペース・サーカス、果てはデヴュー間もない頃のケンソーといった、80年代に向けた新たなるプログレッシヴ・ムーヴメントの波をこぞって取り挙げては熱心に紹介していた頃であった。
 余談ながらも、新たなる波と同調するかの様に厚見玲衣率いるプログレ・ハード系のムーンダンサー、そして関西からは後にノヴェラへと移行するシェラザードが活躍していたのも丁度この時期である。
 
 70年代初頭のジャパニーズ・プログレッシヴ黎明期…所謂日本のニュー・ロック勃発期に於けるエイプリルフール始めフード・ブレイン、ラヴ・リブ・ライフ+1、ピッグ、それ以降にかけて登場したファーラウト→ファー・イースト・ファミリー・バンド、ストロベリー・パス→フライド・エッグ、コスモス・ファクトリー、四人囃子といった70年代前期~中期にかけてのジャパニーズ・プログレ黎明期バンド。その大半が短命に終わるか、或いは時流の波とレコード会社側の意向で路線変更を余儀なくされるかといった困難な時代、イギリスや欧米の当時の諸事情と同様に日本でも御多分に洩れずプログレッシヴ・ロックはアンダー・グラウンドな領域でしか生き長らえるしか術が無かったのは言うまでもあるまい。
 70年代後期ともなると、プログレの多くは自主製作(運が良くてレコード、最低でもカセット)ないし、大手レコード会社の良くも悪くもマニアックでマイナーな弱小レーベルからでしかリリースされなかった、そんな辛酸と苦汁を舐めさせられた…フールズ・メイトの新月レヴューでも触れられている通り“ロック音楽を媒介にした芸術活動”がいかに大変な時代であったかが想像出来よう。

 新月の歴史は1972年に日大芸術学部音楽学科に在籍していた花本彰(Key)が同大学の学友達で始めたOUT OF CONTROLなるプログレ色を打ち出した(フォーカスのコピー含め)バンド活動から始まる。
 OUT OF CONTROLは後に新月のメインフロントマンとなる北山真(Vo)を迎え、バンド名も(新月の母体となった)“セレナーデ”に改名後、度重なるメンバーチェンジを経て作曲とリハーサルに費やす事となる。その新たなメンバーの中に後の新月のベーシストにシフトするクリス・スクワイア似の鈴木清生も加わっていた。
 その後セレナーデは、伝説的アーティスト鎌田洋一氏(彼は御大のエマーソン始めアイアン・バタフライから多大な影響を受けている…)率いる“HAL”と共にライヴ出演するようになり、そのHALに在籍していた津田治彦(G)、そして高橋直哉(Ds)と意気投合した花本は、セレナーデの音楽性を更に発展昇華させた形で新月結成へと辿る次第である。
 ちなみに…この頃は鎌田氏のHAL並び、小久保隆氏率いるフロイド影響下のRINGといった強者的バンドとの出会いによって、後の新月の活動及びバンド解体後の創作活動に於いて今日まで強固な繋がりとなる次第だが、それはまた後半で綴っていきたい。
 結成当初キーボード・トリオスタイルだった新月に、花本より先にセレナーデを抜けていたベースの鈴木が合流し、メイン・ヴォーカリスト探しは困難を極めたが(女性Voを入れたり、何とあのヒカシューの巻上公一氏も候補に挙がっていたとか)、結局満場一致で苦楽を共にしてきた北山を招き、漸くここに新月の正式ラインナップが揃う事となる。

 本来ならもう一人のメンバーともいうべき…津田、高橋と同じ青山学院大の学友で、ギターからキーボードまで手掛けるマルチプレイヤーの遠山豊氏を加えた6人編成なのだが、新月が実質上のレコーディングに入ってからはマネージャーに転向し、新月の活動を陰ながら支える大きな助力となったのは言うには及ぶまい。
 新月のアルバムの裏ジャケを御覧になってお気づきの方々も多いだろうが、ライヴ時にはサポート・キーボーダーとして、先にも触れたRINGの小久保隆氏が参加しているのも注目すべきであろう。
 新月は江古田のマーキー、渋谷屋根裏、吉祥寺のDACとシルバー・エレファントといった4ヶ所のライヴハウスを拠点に精力的な演奏活動を積み重ねつつ、先にも触れたフールズメイトと当時の編集長北村昌士氏からの強力なバックアップを得てメジャーデヴューに向けた度重なるリハーサルをこなすという日々に追われた。

                    
 その中でも特に北山のヴォーカリストとしての技量にあっては、丑の刻参りを思わせる白装束から異様な電話魔、怪しげな黒覆面に、一人ミュージカル…etc、etcといった曲のテーマ毎に衣装と歌唱法を変えつつ、さながら“和製ゲイヴリエル”よろしくと言わんばかりの鮮烈なライヴ・パフォーマンスは大きな呼び物として定着し、ジャパニーズ・プログレ史に於ける独特なシンガースタイルの手法・元祖たるものを確立させたと言っても異論はあるまい。
 和製シアトリカルなヴォーカルは、後のページェントや極端なところで筋肉少女帯といった系譜へと受け継がれていくのである。
          

 冒頭1曲目の“鬼”は、日本古来の因習めいた背景に水木しげる或いは花輪和一の描く様な怪奇幻想譚、京極夏彦の妖怪譚にも通ずる世界が、仄暗い和旋律シンフォニックのダークさと奇跡の相乗効果を生み出した、美狂乱の“予言”と“警告”と並ぶ純然たる日本らしいプログレッシヴ・ロックの稀有な名曲として、今も尚世界各国のファンから高い評価を得て語り草にもなってて、とにかく妖しげなメロトロンの咽び泣きが胸を打つ事必至である。
 当時のニュー・ミュージックにも相通ずる世界観の“朝の向こう側”の清々しい爽やかさ、“発熱の街角”で聴かれるリズミカルで摩訶不思議な世界を表した曲進行の面白さ、雨天の憂鬱さと気だるいヴィジョンが甘く切なく響く“雨上がりの昼下がり”といった旧アナログLP盤のA面の秀逸さも然る事ながら、旧B面もまさに本領発揮とばかりに抒情的且つ感傷的に繰り広げられる。“白唇”は“鬼”の対極とも言うべき和旋律に裏打ちされた恋情と詩情で綴られた透明感溢れる涙無くして聴けない秀逸と言えよう。私自身、年齢の積み重ねと共にこの曲を聴くと自然と目頭が熱くなってくるから困ったものだ(苦笑)。
 全曲中唯一のインストナンバー“魔笛〝冷凍〟”は、サポートの小久保隆氏の手掛けるキーボード・シークエンスが縦横無尽に発揮された、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』をも彷彿とさせる、おどろおどろしいホラータッチと恐怖感さながらの凍てつく情景が目に浮かぶ事だろう。
         
 初期ジェネシス風な“科学の夜”は、昔小学生の時分に学校の図書館で読んだファンタジーな児童文学の世界観をも思わせる、北山真の一人何役をもこなすシアトリカルさが傑出した佳曲。
 新月デヴュー作の最後を締め括る“せめて今宵は”も、ムーディーで静かな月夜に一人佇む感動的にして寂寥感漂う、まさに幻想絵巻の大団円に相応しいナンバーと言えよう。

 1979年7月のアルバムデヴューから概ね約一年間のサイクルで新月は精力的にライヴ活動をこなしつつ、次回作の為の構想とリハーサルに入っていたものの(ちなみに次回作のタイトル候補は『たけひかる』だった)、80年の秋にベースの鈴木とドラムの高橋の両名脱退をきっかけにバンド内の拮抗が崩れ、その後は次回作の為のラフテープを残しつつ新月はマテリアルを半ば放棄した形で、バンド自体も自然に消滅。
 決してメンバー間の仲違いがあったとか、売れ行き云々といった低次元なレベルでバンドが解散したのではないという事だけは、現在のメンバーの方々の名誉の為にもそれはどうか御理解願いたい。
 …それは私自身が察するにバンドという活動に皆が疲弊してしまったからではないのかと思うのだが、もし願わくば…機会があればメンバー本人達から直接聞いてみたいところだが、それも果たしていつになる事やら(苦笑)。

 新月解体後の各々の動向に至っては、先ず北山真の方は劇団インカ帝国の伊野万太氏との交流があった事から、劇団関連の音楽製作に携わる一方で、カセットテープによる自身のレーベルSNOWを立ち上げ、地道に創作活動を継続しテープオンリーながらも最初のソロ作品『動物界之智嚢』を1983年にリリース(後にPOSEIDONからCD-Rという形で復刻される)。
 更にはSNOWから、劇団インカ帝国の役者時任顕示と小熊一実を中心に結成されたユニット“文学バンド”のテープ作品『文学ノススメ』をもリリースしている(これも後にPOSEIDONからCD-R化される)が、最後の曲“わが解体”は新月一連の作品の姉妹版といった感があって必聴と言えよう。
 北山は後に“北山真&新●月プロジェクト”を立ち上げて『光るさざなみ』をマーキー/ベルアンティークからリリースし、2008年には25年ぶりのソロ『植物界之智嚢』を発表し、現在はアーティスト活動と併行して登山家=クライマーとしての顔を持ち、日本フリークライミング協会元理事長、日本山岳協会理事、国際山岳連盟公認国際審判員として多忙の日々を送っている。
         
 が、そんな多忙の合間を縫って昨今は自身の新たな新月系譜のプロジェクトとして北山真With真○日を結成し、2015年リリースの『冷凍睡眠』を始め、新月時代からの盟友花本彰と共にもう一つのプロジェクト静かの海を結成し、2019年同プロジェクト名を冠したアルバムを発表し現在もなお精力的に活動している。
       
 その花本彰は津田治彦と共にフォノジェニックスというユニットを組んで、如月小春女史の劇団及び舞踊活動の音楽製作に携わり、先の北山主宰のSNOWから、その舞踊パフォーマンスの楽曲集『ART COLLECTION 1』をリリース(但し残念な事に未だCD化されていない)。
 フォノジェニックスはその後手塚眞監督の映像作品のサントラはじめ、テレビ関連の楽曲製作、大山曜氏主宰のアストゥーリアスへの参加等を経て、後年花本が離れてからのフォノジェニックスは津田のソロプロジェクトに近い形に移行し、2005年にPOSEIDONから『Metagaia』という一大抒情詩風の好作品を発表している。
 その翌年の2006年、津田はドラマーの高橋直哉を誘ってHALの再編を試みると同時に、小久保隆にも声をかけて06年の暮れに“HAL&RING”という形で復活を遂げ、HAL時代のナンバーの再演・再構築でPOSEIDONから復活作『Alchemy』をリリースしている。06年の年末渋谷で催されたHAL&RINGのライヴには花本のゲスト参加に加えて、HALのリーダーだった鎌田洋一氏も飛び入り復帰というサプライズに観客一同が湧いたのを未だに記憶している。
 残りの鈴木清生は現在楽器メンテナンス兼修復という稼業を営みつつ、ジャズ畑で精力的に活動中である。私自身、HAL&RINGのライヴ終演後の打ち上げで鈴木氏にお会いして、“やっぱり、スクワイアに似てますね”と声をかけたら鈴木氏も苦笑いしていたのが実に印象的だった…。

 現在新月関連の作品に至っては、高額プレミアムなアナログLP盤のデヴュー作を例外とすれば、CDとSHM-CDによる新録を含めた復刻盤(紙ジャケット仕様も含めて)『科学の夜』『赤い眼の鏡』『遠き星より』がリリースされている他は、数々の未発アーカイヴ作品、秘蔵級のライヴ音源、セレナーデ時代の貴重な音源、果てはボックスセットといった大盤振る舞いと枚挙に暇が無い位の数に上るのが現況といえよう。
       
 79年の正式デヴューから僅かたった一年と少しの期間ながらも時代を駆け巡った新月という伝説は、現在も…否、これから数年先も語り継がれていくのだろう。
 私自身時折思い返す事だが…もし新月のデヴューがあと一年遅かったら、たかみひろし氏に誘われてキングのネクサスからノヴェラ、アイン・ソフ、美狂乱、ケンソーと共に、80年代に何枚かの作品を残せたのではないかと非常に悔やまれてならない。
 が、その反面…“これが自分達の進むべき道である”という潔さも誠に新月らしいと思えるのもまた然りなのである。
 彼等の伝説は決して終わる事無くこれからも永遠に続くのであろう…。