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01,2019
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8月に入り、いよいよ今日から本格的に新たなるステージで再開される事となった『幻想神秘音楽館』 であるが、さながら今の心境は新たな創作世界の大海原へと航海に乗り出す船乗りといったところであろうか(苦笑)。
来年10月からの正規編集ペースに戻るまでの期間とはいえ、過去のNECブログアーカイヴからの移転を兼ねた復刻セルフリメイクという…些か無謀とも思える挑戦ではあるが、根っからの書き手根性そしてライター気質故の性(さが)なのだから仕方あるまい。
概ね過去12年間分の綴り貯めた「夢幻の楽師達 」と「一生逸品 」を、毎週…それも週2連載のペースで再び書き起こして復活させるのだから、我ながら思い切った英断を下したものだと思う。
まあ…正直、至ってこういった事をするのは苦にならないしね。
過去に綴った文章であるが故、若干のタイムラグが生じてくるのである程度修正したり加筆させて頂く事、どうか御容赦と御了承を願いたい次第である。
さて、新装開店8月第一週目の再開第一弾は「夢幻の楽師達」である。
リニューアル&リブートしようと決めた時点で、先ず絶対真っ先に取り挙げようと思い立ったのは…今もなお根強い熱狂的なファンを獲得し、70年代イタリアン・ロック黎明期の伝説的存在にして語り草となっている、巨匠の称号に相応しい神々しいオーラを纏った、イタリアン・ロック史にその名を刻む偉大なる巨人にして鉄人でもある“イル・バレット・ディ・ブロンゾ ”、そして巨匠の称号に相応しいアーティスティックな才人にして芸術家でもあるGianni Leone に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
IL BALLETTO DI BRONZO
(ITALY 1970~)
Gianni Leone:Key&Vo
Lino Ajello:G
Vito Manzari:B
Gianchi Stinga:Ds
時代と世紀を越えながらも、現在も尚決して色褪せる事無く…それはあたかも眩い至宝の如く神々しくも燦然と光を放ち続ける、70年代初頭のイタリアン・ロックシーンに於いて2枚の異なる作風と熱く迸るエナジーで、名作・名演・名盤の三拍子で文字通りイタリアン・ロック史に不動の地位を確立したと言っても過言では無いイル・バレット・ディ・ブロンゾ。
そのバンドルーツは遡る事1960年代末期、商業都市ナポリ出身のバッテイトーリ・セルヴァッジ(BATTITORI SELVAGGI)なる当時新進気鋭のハード&ヘヴィ・ロックバンドが母体となっている。
1969年バンドはイル・バレット・ディ・ブロンゾ(以後IBDB)と改名し、ライヴでの好評判を聞き駆け付けたRCAイタリアーナのフロントマンの目に止まり、同年めでたくRCAと契約を交わしシングル『Neve Calda/Cominciò Per Gioco』でデヴューを飾り、翌1970年にセカンド・シングル『Si, Mama Mama/Meditazione』と、そして第一期IBDBの集大成にして名作・名盤でもある1stアルバム『Sirio 2222 』を引っ提げて、かの同じレーベルのトリップと同様名実共にイタリアン・ロック黎明期のシーンを席巻していったのは言うまでも無かった。
その頃の第一期メンバーは、Lino Ajello(G)、Marco Cecioni(Vo,G)、Mike Cupaiuolo(B)、そしてGianchi Stinga(Ds)の4人編成で、バンドきっての才人にして要ともいえるGianni Leone(Key)はまだこの時は在籍しておらず、イタリアン・ロックファンならもう既に御存知の通り、当時Gianniはナポリを拠点に活動していたオザンナの前身チッタ・フロンターレのメンバーとしてDanilo、Lino、Lello、Massimoと行動を共にしており、オザンナへと改名する前後にElio D'Annaと入れ替わりにバンドから離れたのは有名な話(この顛末は後ほど再び触れる事にしよう)。
余談ながらも、もし、GianniがIBDBからの誘いを断りそのままチッタ・フロンターレに留まっていたとしたら、後々のオザンナのデヴュー作から『パレポリ』に至るまで、6人編成でとてつもなく凄まじい迷宮の如きカオス渦巻く、イタリアン・ロック史上驚愕の完成度を誇った名作となったのでは…と思うのだが如何なものだろうか?
話は再びIBDBに戻るが、70年リリースの『Sirio 2222』の評判は上々で、ヤードバーズやツェッペリン影響下のブリティッシュナイズに裏打ちされたハードロックのフィーリングとサイケなポップスとの要素が渾然一体となった、まさしくその古き良き当時の空気感を象徴した極上の陶酔感が味わえるイタリアン・ロック黎明期の傑作とも言えるだろう。
イタリア国内のクラヴ・ハウスや野外コンサートのみならず、イタリア駐留の米軍キャンプ地でのライヴをも精力的にこなしていたというのは今では語り草にもなっている。
当時のアメリカ兵にしてみれば、イタリア=カンツォーネという変な先入観でしかなかったのが、IBDBを目の当たりにした途端度肝を抜き、それこそ時代の風潮…IBDBに熱狂しつつビール片手に葉っぱ(!?)を決めたりLSDでぶっ飛んでいた兵隊もいた事だろう(苦笑)。
話は再び脱線するが…この当時70年代初期のイタリア国内のロックを巡る様々なエピソードで事欠かないのが、青春を謳歌する当時の若者文化と、政府のお偉いさん始めキリスト系政党の役人体質、官憲との差別・偏見との闘いは切っても切れない水と油みたいな関係で、イタリア始め英米のアーティストが野外でコンサートをするものなら、もう警官隊が発砲するやら催涙ガスやら鉄パイプ片手に応戦する若者達でとてもコンサートするどころの騒ぎではなかったと様々な文献や著書で記されており、かのレッド・ツェッペリンでさえもミラノのライヴで催涙ガスが漂う中演奏を断念した事を未だに根に持っており、ジミー・ペイジ曰く“イタリアなんて国名は二度と聞きたくもない!!”と憤慨していたから、この当時(全世界規模で)如何にロックがまだ市民権を得ていなかったが伺い知れよう。
さて、クラシカル・シンフォなナンバー“Meditazione”を始め数々の名曲揃いの『Sirio 2222』リリース以後、理由は不明ではあるがIBDBは一時的な解散寸前の状態に陥ってしまう。
翌1971年、残された2人のメンバーLino AjelloとGianchi Stringaの両名は、バンド存続危機の打開策として新たにナポリから呼び寄せたGianni Leone(当時、彼はチッタ・フロンターレに満足しておらず、或る晩自宅に帰宅するや否や、ギタリストのLino Ajelloからの電話でバンド加入を誘われたとの事)をキーボード兼ヴォーカリストに迎え、ローマから旧知のベーシストVito Manzariを加え、前作のハードロック路線から大きく変貌を遂げた作風で再びシーンに返り咲いた。
翌1972年、RCAからポリドール・イタリアーナに移籍後、当時の世界的なプログレッシヴ・ムーヴメントの波を受け、緻密且つ複雑怪奇に構築された重厚なキーボード群と、漆黒の闇のエナジーが支配するヘヴィ&ハードロックとが見事にコンバインした、イタリアン・ロック史上に燦然と輝き続ける最高傑作にして後世に残る大名盤でもある『YS 』をリリースする。
作品名を“イプシロン・エッセ”と呼ぶ説もあれば、“イース”と呼ぶ説と諸説様々ではあるが、どちらも神秘的でミスティックな韻を踏んでいるからどちらが正しいとは言い切れないから困ったものである…。
EL&P的なテクニカルで構築的なサウンドに、クリムゾンの凶暴・攻撃性が加味された作風というのも当たらずも遠からずといった感ではあるが、2バンドから触発されたエッセンスが彼等なりに結実昇華され、イタリアン・バロックの美意識と旋律が加わった事で、IBDBの独創性がより深みを増し更に際立ったと解釈した方が正しいだろうか。いずれにせよ渦巻くカオスが聴く者の脳裏に陰影と苦悩を想起させ、暗黒の極みに達した…何者も到達し難い領域にまで踏み込んだ唯一無比の孤高と神々しさがあるのだけは確かであろう。
私自身、10代後半に『YS』の国内盤を購入し、初めて聴いた時の衝撃と戦慄は未だに忘れる事が出来ず、あのオープニングの不気味な女性スキャットが流れ出た瞬間、恐ろしくなって慌てふためき思わず後ろを振り返った位だ。お恥かしい限りではあるが…。
『YS』リリース以後、バンド自体は順風満帆な軌道の波に乗り、イタリア国内で一週間に3~4回ものライヴをこなし、このまま次回作へと移行するのかと思いきや、翌73年夏の国内ツアーのさ中突然Lino AjelloとVito Manzariの両名が脱退し、残されたGianniとGianchiはたった2人だけで残りのツアーの日程を消化し、その後実質上最終作にして傑作シングルとなる『Donna Vittoria/La Tua Casa Comoda』の名曲を残し、IBDBの活躍はここで一旦幕を下ろす事となる。ラストシングル自体Gianniの音楽性、コンポーザーとしてのスキルの高さが遺憾無く本領発揮された素晴らしい作品であるだけに何とも皮肉な話ではあるが…。
バンド解体後、Gianniはラストシングルでのマルチプレイヤー(ドラムを除く)としての経験に自信をつけて単身アメリカに渡り、LeoNeroというソロアーティストとして改名し、1977年に1stソロアルバム『Vero』というシンフォニックでポップス性が加味された素晴らしい作品をリリースし、漸く自らの音楽性を開花させる事となる。
4年後の1981年にはXTCやディーヴォに触発されたテクノ調ニューウェイヴのセカンドソロ『Monitor』をリリースし、以後2~3作品リリースした後、暫く表舞台から遠ざかる事となる。
一方で第一期のギタリスト兼ヴォーカリストでもあったMarco CecioniはIBDBを脱退後、スウェーデンはストックホルムに移住し暫く創作活動しながらも画家として成功を収めて、現在はイタリアとスウェーデンを往復生活を送っている。尚、余談ではあるが、Gianni Leoneも一時期彼のサポートとしてスウェーデンに渡りプロデュース業を含めた創作活動に携わっていたとの事。
Marco Cecioniの人望が厚いからなのか…第一期ベーシストのMike Cupaiuolo、そして第二期ベーシストのVito Manzariも彼の伝を聞き、現在はスウェーデンのストックホルムに移住している。ちなみに両名とも現在は音楽業界からきっぱりと引退している。
ちなみにIBDBの秘蔵音源に関して…現在確認出来るものとして、1990年にRCA傘下のRaro!レーベルから限定1500枚(内500枚は黄色のカラーレコード)でリリースされた未発表音源にして未CD化の『Il Re Del Castello 』(名曲“Neve Calda”のスペイン語ヴァージョン入り)始め、1992年Mellowからリリースの『YS』の英語ヴァージョンCD、そしてつい最近リリースされた『On The Road To YS ...And Beyond 』にあっては、先に挙げた92年にMellowから『YS』の英語ヴァージョンとしてCDでリリースされた1971年のデモ・レコーディング+近年のライヴから未発ナンバーを含むボーナスを8曲加えた2012年見開き紙ジャケット盤として確認されている。
ここからはスペースの都合上、やや走り々々な文章になってしまうが、どうかお許し願いたい…。
時は流れて1995年、長きに亘るソロ活動を経て沈黙を守り続けていたGianniが再びIBDBとして表舞台に再び帰ってきた。当時イタリアン・ロック新進気鋭の若手として注目を一身に集めていたDIVAE(ディヴァエ)と融合したGianniが再びIBDB名義として復活を果たし、同年イタリア国内でプログレッシヴ・ファンジン“ARLEQUIN”主催のプログフェスに出演。その復活公演の模様は1999年にMellowレーベルより『Trys 』というタイトルでライヴCD化され大いに注目を集めたのは記憶に新しい。(ちなみにディヴァエの95年のデヴュー作品にもGianniが参加している)。
そして2002年にはGianniを筆頭に新たな布陣で待望の初来日公演を果たし、その圧倒的なライヴ・パフォーマンスで往年のファン層から新しいファン層に至るまで熱狂と興奮の渦に巻き込んだのは最早言うには及ぶまい。
以後、単発的なサイクルでライヴ活動を継続し、極最近でも復帰したオリジナルギタリストLino Ajelloを迎えてライヴを行ったそうだが、ここで余談ながらも唯一ドラマーのGianchi Stingaに至っては、IBDB解散以降は全く音信不通と共にバンドからも完全に疎遠な状態になったそうな…。
まあ早い話、人間長い間生きていれば人生様々な事があるという事なのであろうか…。
その当のGianchi Stinga自身、1973年のバンド解散以後、彼もまたスウェーデンに渡りスウェーデン王立大学でデータ解析の学位を取得した後、現在はマレーシアに移住しネット・コンサルティング会社を経営しているとの事。
オリジナルギタリストのLino Ajelloは、1973年にバレットから脱退後スウェーデンに渡り、以降はストックホルムで音楽スタジオを経営する傍ら、その後テネリフェでマジック・バーやロック・バーを経営しつつ、38年振りのIBDBへの復帰に伴い現在は故郷のナポリに戻って、現在の音楽界をどうにかしていきたいと意欲を燃やしている。
ちなみにスウェーデン時代には、かのヨーロッパ(あの名曲“ファイナル・カウントダウン”でお馴染み)のギタリストのキー・マルセロとも交流があったそうだ。
一時期は音楽業界から身を引いたと揶揄されていたものの…そんな根も葉も無いデマや噂を払拭する位に、現在もなお精力的且つ現役バリバリで活躍しているGianniに対し私自身頼もしさを感じると共に嬉しさをも隠せないのが正直なところでもある。
更にはGianniを含めIBDBメンバーがこうして年輪を積み重ねつつ現在(いま)を力強く生きているという事に私達は心から敬服し、イタリアン・ロックの長きに亘る歴史に於いて何物にも代え難い偉大なる足跡と音楽財産を遺したことに今改めて大きな感謝と敬意を表さねばなるまい。
思い起こせば昨年秋2日間限りではあったが、若手の新メンバーを加えたIBDB名義による待望の再来日公演を果たしたGianni自身、感動と興奮の渦で大盛況だったライヴの出来栄えに満足し、概ねの好評を博して幕を下ろした次第であるが、私自身この場を借りて述べさせて頂くが…ある一部の不埒な客層の輩がしでかした(やらかした)、疑わしい不遜な行動とステージのセットリストの無断拝借(それも窃盗に近い)並び、Gianniの私物の紛失行方知らずにはほとほと呆れたを通り越して一部の悪辣な客側のマナー違反には正直言葉を無くしたほどである…。
Gianni自身せっかくの大切な来日公演だったにも拘らず、傷心を受けた事は察するに余りあると言っても過言ではあるまい。
それでも前向きな姿勢で、またいつか日本で公演すると言ったGianniの弁に有難い気持ちと共に、頼もしさを感じつつ聴き手側である我々の心も救われた思いですらある…。
IBDB(イル・バレット・ディ・ブロンゾ)…そしてGianni自身、そして彼の創作する音楽世界を愛して止まない私達を含めて、栄えある未来と幸福がこれからも末永く続いてくれる事を心から願わんばかりである。
まさしく、決して終わる事の無いIBDBの伝説は…これから先の未来永劫後世にまで語り継がれていく事であろう。
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01,2019
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8月第一週目の第二弾「一生逸品」は、先日の「夢幻の楽師達」でイルバレを取り挙げたからには、必然的に彼等も絶対出さなければと決めていました。
名実共に70年代イタリアン・ロック史にその名を燦然と輝かせ、イタリアン・ヘヴィプログレ至高の決定版でもあり金字塔と言っても過言では無い、まさしく真の伝説的存在という名に恥じないであろう“ムゼオ・ローゼンバッハ ”をお届けします。
MUSEO ROSENBACH / Zarathustra(1973)
1.Zarathustra
a)L'ultimo Uomo/ b)Il Re Di Ieri /c)Al Di La' Del Bene E Del Male/
d)Superuomo/e)Il Tempio Delle Clessidre
2.Degli Uomini
3.Della Natura
4.Dell'eterno Ritorno
Enzo Merogno:G,Vo
Pit Corradi:Key
Alberto Moreno:B,Piano
Giancarlo Golzi:Ds,Per,Vo
70年代イタリアン・ロック史に於いて、至宝の如き名作・名盤として燦然と輝き続け今もなお語り継がれている、俗に言うイタリアン・ヘヴィプログレッシヴ名盤の代名詞…イル・バレット・ディ・ブロンゾ『YS』、ビリエット・ペル・リンフェルノ『地獄への片道切符』と共に(個人的には)三大傑作としてその名を留めている、今回の主人公ムゼオ・ローゼンバッハの『ツァラトゥストラ組曲』。
“ローゼンバッハ博物館”なるバンドの歴史は、1969~70年の初頭にまで遡る。
長年イタリアン・ロックを愛して止まないファンにとっては、まさに知る人ぞ知る伝説的ヘヴィ・プログレバンド“IL SISTEMA ”(1971年のデヴューに向けて何曲か録音されていたものの、バンドの解散と重なり諸般の事情でお蔵入りしていた。90年代初頭にかけてMellowレーベルを通じてLPとCD化されてる)こそがムゼオの母体である。
IL SISTEMAのギタリストだったEnzo Merognoと、フルートとサックス兼エレピを担当していたLeonardo Lagorioがバンド解体後、どういった経緯でメンバーと知り合い合流し、ムゼオ・ローゼンバッハという奇異なバンド名にまで辿り着いたのかは今もって定かではないが、程無くして初代のヴォーカリストにWalter Franco、ベーシストにAlberto Moreno、ドラマーを…後にマティア・バザールの中心人物となるGiancarlo Golziを加え、ひたすら地道にギグとリハを積み重ねてデヴューの機会を窺っていたものと推察されよう。
当時それらの動向を裏付ける証とも言うべき貴重な未発表曲含むライヴ音源等が、90年代初頭にMellowレーベルを通じてLPとCDそれぞれジャケットデザインと収録曲の違いこそあれど3作品立て続けにリリースされている。
音質的には…ややと言うべきかかなり難があれど、ある意味当時の狂騒と猥雑的で生々しい演奏が堪能出来るという意味合いを差し引いても一聴の価値はあるだろう(苦笑)。当然メロトロンも入っており、自らのオリジナルナンバーのみならずビートルズ始めユーライア・ヒープ、コロシアム…等といったブリティッシュな曲のカヴァーも演奏し、彼等の後の『ツァラトゥストラ組曲』へと繋がる音楽性とルーツを窺い知る上で非常に興味深い。
バンドは漸く軌道の波に乗ってきたところで、キーボードがLeonardoからPit Corradiに交代し、ヴォーカリストもWalterからStefano“Lupo”Galifiに変わり、1973年を皮切りにバンコの『自由への扉』、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカのデヴュー作といった名作・傑作を多数世に送り出し俄然気を吐いていた70年代イタリアン・ロックの中枢を担っていたであろう大手リコルディからのデヴューへと結び付いた次第である。
ちなみに…余談ながらも、ムゼオを抜けた先代キーボードのLeonardoは、IL SISTEMA時代のドラマーCiro Perrinoを誘ってチェレステ結成へと向かったのは周知であろう。
徹頭徹尾、本作品の全篇に漂っているであろう…イタリア・ファシズムの象徴とも言うべきムッソリーニを、皮肉さを込めてコラージュで描いたという一種異様にして異彩なカヴァー・アートに包まれた彼等の音世界から感じ取れるのは、後期クリムゾンは言わずもがな…バンコの『ダーウィン』『自由への扉』、オザンナの『パレポリ』にも相通ずる重苦しさ、そして唯一無比の“闇”と“混沌”であると言っても差し支えはあるまい…。
ちなみに5人のメンバーに加えて、かのジャンボの最高傑作の3作目『18歳未満禁止』にも参加しているキーボード奏者Angelo Vaggiがミキシングとモーグシンセサイザーのプログラミング兼エフェクトといったサポート面で参加しており、全曲の作詞はMauro La Luce、そして作曲はベーシストのAlbertoが手掛け、仄暗く陰鬱なフルート・メロトロンに導かれて…賞味40分近い狂気と錯乱の音世界が全面に亘って繰り広げられる。
過去にキングのユーロ・コレクション始め各プログレ専門誌、CDリイシュー企画といった多方面にて紹介されている通り、狂気の哲学者ニーチェの哲学叙情詩「ツァラトゥストラはかく語りき」からインスパイアされたトータル作品にして、プログレッシヴの法則ともいうべき暗く深く重くといった三拍子がきっちりと揃った、まさしくあの熱かった70年代のイタリアン・ロックシーンが産み落とした珠玉にして至宝ともいうべき一枚であろう。
豆知識みたいな余談で恐縮だが…キングのユーロ・コレでの山崎尚洋氏の解説を拝借するところ、バンド名でもあるローゼンバッハとは…多分にしてニーチェと同時代を生きたブレスラウ大学の教授にして神経科を専攻していた医師オットマール・ローゼンバッハではないかとの事。
精神を病んだ末に廃人となったニーチェの超人思想に神経医の権威のローゼンバッハというから、何とも偶然というか、的を得た様な複雑怪奇さをも感じるが如何なものであろうか…。
まあ…小難しい事云々はこのブログでは敢えて触れないでおくにせよ、ゾロアスター教始め哲学的な命題やら超人思想、神の死、当時のイタリア国家を牛耳っていたであろうキリスト教政権への嘲笑と皮肉、ニヒリズムといった、人間の深層心理やら魂の根源・深淵をも揺さぶる様々なカテゴリーが、まるであたかもジグソーパズルの1ピース1ピースが埋められて行くかの様に大団円へと向かって結実していく様は、時に厳かでリリシズム溢れる抒情的な側面と、畳み掛ける様にヘヴィで攻撃的な側面とが背中合わせにして二面性を持ったアンサンブルとなって押し寄せる怒涛なまでの音の波のうねりそのものであろう。
それはまるでダンテの「神曲」を垣間見るかの如く、地獄巡りの回廊を彷徨う狂人或いは孤高の超人の投影そのものと言っても過言ではあるまい。
攻撃的で且つ野心的なデヴューを飾った彼等ではあったが、当時隆盛を極めていた多くのバンドと同様御多分に洩れず時代の波に抗える事も儘ならず、あの悪夢ともいうべき極右的なキリスト教政権の弾圧でレコードは製造中止・廃盤=バンドの解散へと追い込まれ、各方面で国内外のアーティストが一同に会するロック・コンサートも全面的に禁止されるという憂き目に見舞われるといった体たらくな始末である。
73~74年の全世界に吹き荒れたオイルショックに加えて、これらの様々なイタリア国家が病める要因がイタリアン・ロックの衰退と低迷期を引き起こしたのは紛れも無い事実と言えよう。
ムゼオ解体後のメンバーの動向については、一番有名なところでドラマーのGiancarlo Golziが、同国のプログレ・ハード系で唯一作を遺したJ.E.T(ジェット)のメンバーと共に、今やイ・プーと並んでイタリアン・ポップス界の大御所となったマティア・バザールを結成した事であろう。
他のメンバーの動向については皆目見当が付かないといった感であるが、ある者はスタジオ・ミュージシャンに転向し、ある者はCM・映像業界に進み、ある者はイタリアポップス界で有名アーティストのバックバンドに就いたり、またある者は音楽業界と手を切って穏やかな生活を選んだ…とまさに多種多様の人生を歩んでいる事であろう。
が…しかし事態は思わぬ方向へと急変し、2010年突如降って湧いた様な…それこそ長年待ち望んだ奇跡とも言うべき朗報が飛び込んで来たのである。
ムゼオのヴォーカリストStefano“Lupo”Galifiが、70年代イタリアン・ロックとヴィンテージ系鍵盤をこよなく愛する若手の女性キーボード奏者Elisa Montaldoと共に、ギター、ベース、ドラムを迎えてイル・テンピオ・デッレ・クレッシドレ(IL TEMPIO DELLE CLESSIDORE) というバンドを結成しイタリアン・ロックの第一線に復帰。
あの熱き70年代イタリアン・ロックの血筋を見事に継承したデヴュー作をリリースし堂々たる現役復帰を遂げる事となる。
嬉しい事にそのバンド名もムゼオにリスペクトするかの様な…否!実はあの『ツァラトゥストラ組曲』の最終パートのタイトルをそのままバンド・ネーミングで甦らせたというから、ファンなら狂喜乱舞といえよう。まさしく21世紀版のムゼオ・ローゼンバッハがここに降臨したと言っても異論はあるまい。
だが、このまま順風満帆の追い風に乗って次回作へと期待が高まるさ中Stefanoはイル・テンピオをElisaとベーシストのFabio Gremoを中心とした未来ある若手達に託して袂を分かち合った後、かつてのムゼオのオリジナルメンバーAlberto Moreno、そしてマティア・バザールに在籍していたGiancarlo Golzi(結果、2015年にマティア・バザールを脱退)と再び合流し、新たな若い新メンバーを加えてムゼオ・ローゼンバッハを再結成し、2013年…バンド名義としては実に40年ぶりの2nd新譜『Barbarica 』をリリース。
こうして今もなおムゼオ名義の次回作のニュースが待たれる中で、彼等は俄然気を吐き続けて精力的に活動している昨今である。
混迷ともいえる21世紀の気運と時代の荒波が彼等を再び呼び戻したのか、或いは神の啓示の如く天の声の導きで舞い戻ったのか…いずれにせよ脈々たるムゼオの血とあの邪悪で混沌たる闇のエナジー漂う音世界がこうして帰ってきたという事を心から祝福せねばなるまい。
はっきり言える事は伝説は決して伝説のままで終わらないという事…私自身、あの麻薬にも似た危険な魅力が秘められた旋律(戦慄)の宴に身も心も震える思いですらある。
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09,2019
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9月第二週目の「夢幻の楽師達」は、イタリアン・ロックシーンに於いて今もなお燻し銀の如き孤高の輝きを放ち続ける、まさしく文字通り…メダルの裏側の住人達でもある通称RDM こと“イル・ロヴェッショ・デッラ・メダーリャ ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。
IL ROVESCIO DELLA MEDAGLIA
(ITALY 1971~)
Pino Ballarini:Vo,Flute,Per
Enzo Vita:G
Stefano Urso:B
Gino Campoli:Ds
“メダルの裏側 ”という意味の何かしら不思議な韻を踏んだ暗示めいた名前のバンドこそ、ギタリストにしてバンドのコンポーザーでもあるEnzo Vitaの思案と葛藤に満ちた人生、或いは自問自答を重ね続けた男の生きざまそのものと言えよう…。
今回は敢えてバンドのバイオグラフィーやらヒストリー云々を極力控え、改めて彼等への敬意を払い功績を振り返るという視点で幾分私論めいた流れで綴っていけたらと思う。
プログレッシヴ・ロックの曙ともいえる1970年という時代の節目を機会に、イタリアン・ロックのメインストリームでもあったローマでEnzo Vitaを始めStefano Urso、Gino Campoli、そしてPino Ballariniの4人のティーンエイジャーによってRDMの母体となるバンドが結成される。
結成当初は多くのポッと出のアマチュアバンドと同様、彼等もブリティッシュやアメリカンなブルース・ロック系のカヴァーバンドとして音楽経験を重ねるも、来る日も来る日もクラブでの英米ロックのカヴァー演奏という同じ事の繰り返しで、次第にそれが彼等自身のストレスとなり周囲を取り巻くフラストレーションへと膨らんでいったのは最早言うには及ぶまい。
その結果…翌1971年確固たるオリジナリティーへの移行に躍起となった彼等自身、一念発起とばかりにカヴァー曲バンドのレッテルやら一切合財を捨て去り、“メダルの裏側”なる一風変わったバンドネーミングへと改名。
バンド名の由来こそ定かではないがエンツォ曰く「模倣や真似事からの脱却」という含みを持たせた、彼等なりのニヒリズムや反骨精神が滲み出ているところも実に興味深い。
もとより前述した英米のカヴァー等で演奏技量と実力・経験が養われていた事が幸いし、彼等自身がオリジナリティーを確立するにはそう時間を要しなかった。
程無くして大手RCAイタリアーナと契約を結んだ彼等は、2時間という制約付きのスタジオライヴ一発録りという形で、1971年サイケデリアの時代が色濃く反映されたアヴァンギャルドにしてハード&ヘヴィロック路線のデヴュー作『La Bibbia(聖典) 』をリリース。
後述の名盤『Contaminazione』で初めて彼等の作品に触れた方がもし仮に『La Bibbia』に接したのであれば、キーボードレスという決定打に加えてその攻撃的で荒々しいハードロックな感触に思わず唖然とするか面食らうかのいずれかであろう(苦笑)。
しかし…噛めば噛む程味の出るスルメではないが何度も繰り返し聴けば聴くほど、その粗削りな作風の中にも実に緻密に張り巡らされた迷宮の如き構成と演奏力の上手さに舌を巻くのもまた事実である。
これが後々イタリアン・ロック史を飾る不朽にして屈指の名作でもある『Contaminazione』に繋がっていくのかと思えば頷ける部分も多々感じられよう。
デヴュー作に付されたメダル型ブックレットにも実に興味深い当時の記述があるので、ここに掲載しておきたい。
ロヴェッショ・デッラ・メダーリャは、意図的に付けた名前です。この名前は、誤解を受けないように、意図的に選んだのです。僕らは、本当の意味で新しいアルバムを出して行こうと考えてます。このようなことをする人は少ないのです。より難しくなりますから。周知のように、このようなことをすれば、アルバムを出すための研究(勉強)の面で、リスクを負うことになります。前進的な音楽は、既に成功した方式を守り続け、また流行や典型的な要素を取り入れた方が簡単なのです。しかし、「ロベッショ・デッラ・メダーリャ(メダルの裏側)」は、これに立ち向かいます。
あまりにも商業的な音楽が無差別に外国から入ってきています。このような音楽でも、技術的に正確になり、それに芸術面から見ても今や有効なものになりつつあります。僕らは、音楽に先存する意志のある、新しいアルバムを作ります。根拠のないアルバムでなく、正確で強い意志がわき出るようなアルバムを作ります。音楽は、真のコミュニケーションの世界、そして僕らの表現をする世界です。言葉は、わかりやすいガイドの役割を果たしています。妥協や、猿の物まねのようなもの、もしくは人の真似するようなことに、僕らは興味ないのです。僕らの目標は、自由でいること。僕ららしくあり続け、僕らが信じる音楽を作ること。それ故、僕らの仕事は、制作のリズムを崩さないように、計画されています。観客の前に出る機会も少ないです。僕らは、僕らの会話を聞いてくれる対話する相手がいるような環境を選んでます。
“2005年、BMGビクターからリリースされた紙ジャケット仕様完全復刻盤CDのライナーノーツから対訳原文ママ(対訳 市原若子)”
彼等の頑なな決意・初心表明とも取れる宣言(宣誓)は後々の創作活動に於いて大きなサジェスチョンとなるのは明白であるが、遡ること数年前イタリアの某音楽メディアによるEnzoへのインタヴューで、彼自身の思いがけない発言がRDMのファンのみならず世界中のイタリアン・ロックのファン、プログレシッヴ・ファンの間で駆け巡った…。
“『La Bibbia』リリース当時、僕自身宗教上の悩みがあった。『Io Come Io』の時は文化的な悩みがあった。そして『Contaminazione』の時は音楽の悩みがあったんだ…。”
エンツォの言葉を裏付けるかの様に、翌1972年にリリースされた『Io Come Io(我思う故に) 』は、スタジオライヴ一発録りだった前デヴュー作から較べると、正規のスタジオ録音製作という事もあってか幾分音的にはやや整然とした印象を与えるが、ヘーゲルの実在主義をモチーフにした深みのあるテーマに加えて前作で培われた実力と経験が見事に最良な形で発露・昇華した、(プログレ寄りなハードロックという事も踏まえて)個人的にはイルバレの『Sirio 2222』に匹敵する好作品に仕上がっていると言えよう。
作品内容の秀でた素晴らしさも然る事ながら、やはり注目すべきはジャケットワーク。アナログオリジナル盤のジャケットのド真ん中に、どうだ!といわんばかりに嵌め込まれた金属製メダルの重々しさたるや、バンコの1stの貯金箱型特大ジャケットやオザンナの1stの壁掛ポスター大変形ジャケットで度肝を抜かされたイタリアの若者達もこれにはさぞかし唖然とした事だろう。
余談ながらも数年前に日本のBMGビクターから、イタリアン・ロックのオリジナル盤を忠実に再現した紙ジャケット仕様復刻CDがリリースされた際、RDMの『Io Come Io』も御多分に漏れず金属メダルが添付された形でリイシューされたが、CD紙ジャケットのサイズから考慮しても、オリジナルアナログLP盤ならあの金属メダルは一体どんなサイズだったのだろうか…と途方も無く溜息が出てくる始末である。
とは言いつつも…『La Bibbia』でのメダル型ブックレット、そして『Io Come Io』での金属メダル添付のジャケットといったバンドへの特別待遇とも言うべき大盤振る舞いから察するに、大手RCAイタリアーナ側もRDMに並々ならぬ大きな期待を寄せて、今風な言い方をお許し願えればその期待と信頼感たるやハンパない!といったところが見て取れよう。
バンドサイド並びEnzoの名誉の為にも誤解無き様に付け加えさせて貰えば、当時とてRDMは決して金銭的に麻痺していたとか、人気に浮かれて天狗になったり有頂天になってはいなかった事だけは確かだが。
デヴュー作と入魂の2作目でバンドは上昇気流に乗る事が出来、イタリア国内のみならずフランス、スイスでもツアーを敢行し、軒並み大成功を収めるまでに昇り詰めた。
PFMの世界的規模の大成功で俄かに注目を集めた1973年のイタリアは、前72年のヴィラ・パンフィリのロックフェスの大成功が拍車をかけた事も手伝って、まさに我が世の春を謳歌するかの如く百花繚乱にイタリアン・プログレッシヴムーヴメントが大挙に開花した時期を迎えた。
世に倣えとばかりにRDMが所属のRCAイタリアーナからも、大手ライバルのリコルディやフォニット・チェトラに対抗心を燃やしつつRCA傘下レーベル所属のバンドをフル動員してシーンを大いに盛り上げていったのは言うまでもあるまい。
クエラ・ベッキア・ロッカンダ、フェスタ・モビーレ、ルスティチェッリ・エ・ボルディーニ、トリップ…等といった、後年日本の高額な廃盤レコード市場を賑わせた名作・逸品が一挙に出揃ったのもこの時期である(苦笑)。
プログレッシヴ・ムーヴメントの波及…千載一遇のチャンスに乗り遅れるなと言わんばかりに、RCAの上層部側もRDMに大胆な改革案を提示しバンド側もそれを快諾。
こうして新たにキーボード奏者Franco Di Sabbatinoを迎えた5人編成の本格派プログレッシヴ・バンドへと転生を図る事となる。
RDMの改革はキーボーダーの補充だけに止まらず、RCA側たっての希望と意向で次回作にはマカロニ・ウエスタンやフェリーニ監督作品といったイタリア映画で数多くのスコアを提供している世界的巨匠のルイス・エンリケス・バカロフ主導によるオーケストラとの共演が決定した。
それは当然の如く、ニュー・トロルス『Concerto Grosso Per1』、オザンナ『Milano Calibro 9』といったフォニット・チェトラ作品での仕事っぷりと実績を買われての結果である事も忘れてはなるまい。
翌1974年にリリースされた、バッハの作品世界観をモチーフにした通算第3作目『Contaminazione(汚染された世界) 』は、まさしくRDMの代表作にしてイタリアン・ロック史を飾る名盤・名作として一気にバンドとしてのステイタスを上げる決定打となった。
ただ余計なお世話かもしれないが、PFMの世界進出に続けとばかり海外販促向けに英訳歌詞の差し替えによる『Contamination』はちょっと時期尚早だったのではと思うのは穿った見方なのだろうか…。(ジャケット・ワークも今一つといった感は否めないし)
いずれにせよ『Contaminazione』は当時オイルショックの余波が不安視されていながらも、イタリア国内で大反響を呼びセールス的にも大成功を収める結果に終わったが、いつの世も栄光の裏に陰影ありという言葉通り、バンドの周囲では次第に不穏な空気が漂い始めていた。
Enzo自身も自他共に『Contaminazione』の素晴らしさを認めつつも、その一方でバカロフ主導の方針については不平不満や仲違いという訳ではないものの幾分醒めた印象を抱いていたみたいだ。
“バカロフの役割は全てにおいて決定権があった。彼は全てを指揮したよ。僕たちの情熱までもね。”
フロイドの『The Wall』の世界ではないが、バンドの栄光と輝かしい実績に相反して、聴衆側そしてレコード会社との間に徐々に埋める事の出来ない溝…或いは目の前にそびえ立つ壁の様な隔たりが広がりつつあった事に、バンド自体も薄々ではあるが早かれ遅かれ感じていたのかもしれない。
気を取り直すかの様に、RDMは心機一転とばかりに長年住み慣れたRCAから離れてFROGレーベルに移籍し、新たな環境で次回作の為に先駆けてシングル作『Let's All Go Back/Anglosaxon Woman』をリリースし、同時進行で4thアルバムのマスターを完成させるも、あくまで憶測の域でしかないが…結局何らかの横槍が入った理由か何かでマスターはお蔵入りという憂き目に遭ってしまう。
新作のお蔵入り、メンバー間に湧き上がる音楽的方向の相違に加え、『Contaminazione』での莫大な製作費云々といったしがらみに追い討ちを掛けるかの様に、RDMというバンドにとって最も辛く悲しい事件が起こってしまう。
楽器盗難 …これこそまさしく、RDMというバンドの破綻に決定打を加えた一撃ともなったのは言うまでも無かった。
Enzo自身現在でも触れたておしくない過去でもあり、思い出すのも辛く苦々しい…腹立たしくも悲しい出来事だったに違いあるまい。
“もう機材や楽器といった何から何まで全財産をつぎ込んだ。また、自分たちが自分らしさを失う様な外部からの圧力もあったしね。で、結局Stefano、Pino、Francoは自分の道に進んだのさ。”
RDMの実質的な解散以後、皆がそれぞれの道へと進み沈黙という長い時間ばかりが延々と流れ続けていった。 あたかもあのイタリアン・ロック第一次黄金時代の終焉という祭りの後の静けさと重なるかの様に、イタリアのシーンそのものが(イ・プーやマティア・バザール、大勢のカンタウトーレ達は例外として)コマーシャリズムを優先した商業向け路線へと移行し、プログレッシヴな創作精神溢れる音楽は最早忘却の彼方へ追いやられつつあった…。
祭りの後に遺された多くの遺産達は、皮肉にも日本の熱狂的なマニアや廃盤コレクターとバイヤー達の手によって発掘され、高額な万単位のプレミアムというタグを付けられてプログレ専門店という大きなマーケット市場に出回る事となった…。
そして時代は80年代…キングやポリドール、果ては新宿エジソンのユーロ・ロックコレクションを契機に数多くのイタリアン・ロックが再び見直され、その余波は日本国外から中南米、そして本家のイタリアへと波及し70年代イタリアン・プログレへの見直しと、ポンプ・ロックとは違う形でプログレッシヴ・リヴァイバルへの大きな足掛かりと繋がっていく。
80年代の半ば…時同じくしてRDMのベーシストだったStefano Ursoが結成したプログレ系ハードのヨーロッパ(スウェーデンの“ファイナル・カウントダウン”がヒットの同名バンドとは当然違う)が一時期話題と評判を呼び、イタリアン・ロックのファンにとっても嬉しくて感涙にむせぶ朗報となったのを今でも鮮明に記憶している。
ヨーロッパの登場というイタリアン・ロック復活の起爆剤に呼応するかの様に、自主製作という範疇ながらもLP盤やらカセット作品で、往年の空気を継承した良質な作品がポツポツと出回る様になったのも丁度この頃である。
1988年、かつてのRDMのメンバー達がどう思っていたかは定かでは無いが、熱狂的なRDMのファン達有志の手によってイタリア国内で限定枚数のライヴ盤『…Giudizio Avrai 』がリリースされ、日本でも入荷した際は大いに話題をさらったものである。
収録年数こそ不明であるが、おそらくは『Io Come Io』リリース以後キーボードのFrancoを迎えた5人編成に移行した頃の音源と思われる。
音質的にはとてもお世辞には褒められたレベルでは無いが、それでも彼等の熱かった頃の貴重な証として、その存在意義は大きな役割を果たしていると言えよう。
時代は90年代からそして21世紀の現在へ、満を持して年輪を積み重ね人間的にも奏者としても深みと凄みを増したEnzoがついに立ち上がり、RDMを自身のプロジェクトバンドとしてシフトし、作品毎に数名もの多彩なミュージシャンを迎えてスローペースながらも自問自答と試行錯誤を積み重ね、『Il Ritorno』(1995)、『Vitae』(2000)、『Microstorie』(2011)、そして2013年の4月末にはイタリアン・ロック新進気鋭の注目株ラネストラーネのメンバーとEnzoとのコラボレートによるRDM名義で待望の初来日公演を果たし、3年前の2016年『Tribal Domestic』をリリースして現在までに至っている次第である。
メダルの裏側というフィルターを通して、Enzoが垣間見てきたイタリアのロックシーンの膨大な時の流れとは一体何だったのか…?
そしてメダルの裏側を通して、彼が私達に伝えたかった事とは一体何だったのだろう?
これを御覧になっているイタリアン・ロック…そしてプログレッシヴ・ファンの多くの方々、どうか貴方(貴女)の心の中のメダルの裏側を通じて、Enzoの魂の咆哮に是非とも耳を傾けて欲しい。
“この音楽の旅路での発見は終わりがないよ…。”
70年代の黎明期から21世紀の今日に至るまで、ミュージシャンや奏者というカテゴリーのみならず、一人の気概ある無頼派で無骨な漢(おとこ)として時代を駆け抜けてきたEnzoの生きざまを、まだまだこれから先も見届けていこうではないか。
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12,2019
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今週の「一生逸品」は、近年の復活再結成…そして驚愕にしてハイレベルな2nd新譜リリースで更なる注目を集め、1973年のデヴュー当時その余りに傑出された前例を見ない完成度の高さに現在もなお一大センセーションを巻き起こしていると言っても過言では無い位、かのムゼオ・ローゼンバッハと共にその人気を二分し、果てはイル・バレット・ディ・ブロンゾやビリエット・ペル・リンフェルノと肩を並べる位のテンションと完成度を有する、70年代イタリアン・ロックシーンきっての重爆撃機と言っても過言では無い、幻のマグマレーベルが誇る孤高の極みでもある“アルファタウラス ”に栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
ALPHATAURUS/ Alphataurus(1973)
1.Peccato D'orgoglio
2.Dopo L'uragano
3.Croma
4.La Mente Vola
5.Ombra Muta
Pietro Pellegrini:Key
Guido Wasserman:G
Giorgio Santandrea:Ds,Per
Alfonso Oliva:B
Michele Bavaro:Vo
当ブログにせよ、幾数多ものプログレ&ユーロ関連の雑誌メディアで何度も言及されてきた事だが、70年代の…特に1972~73年頃のイタリアン・ロック・ムーヴメントは、まさに天にも昇る様な勢いと弾みで活気に満ち溢れ、首都ローマを中心に他のイタリア国内の地方都市のローカルなバンドでも堂々と表舞台に立てる絶好のチャンスに恵まれていた絶頂期そのものであった。
『幻の映像』でユーロ・ロック到来の華々しい幕開けの如くワールドワイドなデヴューを飾り、一躍時代の寵児に躍り出たPFMを筆頭格に、『自由への扉』で文字通り最高潮に盛り上がっていたバンコ、オザンナ『パレポリ』、レ・オルメ『フェローナとソローナ』、RDM『コンタミナツィオーネ』、ジャンボ『18歳未満禁止』、そしてアレアの記念すべきデヴューに、ムゼオ・ローゼンバッハ、チェルベロの登場…etc、etcと、まさにこの1973年当時はイタリアン・ロック史に於いて百花繚乱…至福とも言える夢の様な黄金時代にして、後々の所謂21世紀のイタリアン・ロックという現在へと繋がる礎を成したと言っても過言ではあるまい。
今回の主人公でもあるミラノ出身のアルファタウラスも御多分に漏れず、そんなイタリアン・ロック第一次絶頂期の1973年という真っ只中に、神々しくも荒々しい姿の重爆撃の鳩の如く舞い降りてシーンの一頁を築いていったのは言うに及ぶまい…。
メンバー結成の経緯は定かではないが、1970年を境にイタリア随一のファッションモードの聖地ミラノで、ツェッペリン、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ジェスロ・タル、クリムゾン、ジェネシス、イエス、EL&Pといった当時の名立たるブリティッシュ・ロックの大御所達に多大なる影響を受けた、後にバンドの中心核となるキーボーダーのPietro Pellegriniを始めとする5人の若者達によってアルファタウラスは結成される。
バンド・ネーミングの由来は彼等の公式サイトないし近年リリースされた2ndのライナーでも触れられているが、SF小説を愛読していたPietroの姉が読んでいた書籍からヒントを得て、牡牛座1等星アルデバランの別名であるアルファタウラスから命名したとの事だが、バンドのカラーや作風、天文学的にして神秘的でミスティックな韻を踏んだ…まさになるべくしてなったバンド名との運命的な出会いでもあった。
そう!まさしくアルファタウラスとは音楽的リーダーPietro Pellegriniの持つ音楽世界の表れでもあり夢幻と理想郷への深層心理の投影だったのかもしれない。
幸か不幸か…そのバンド名で、極ありきたりな商業的イタリアンポップスやロックンロールなんぞを演るつもりは毛頭無く、音楽的方向性を巡って概ね2年近くはメンバーの入れ替わりが激しく、バンドの運営やら資金繰りには相当苦労したと後年Pietro自身回顧しているが、72年の半ば漸くアルバムデヴュー期のラインナップが出揃った頃には大まかなバンドの音楽・方向性が確立され、併行してオリジナルナンバーの骨子が出来上がりつつあった。
リハーサルと地道なギグの積み重ねでアルファタウラスはミラノで確固たる人気と知名度を得るようになり、更には1972年のパレルモ・ポップフェスの出演で彼等の運命は大きな転機を迎える事となる。
当時に於いて最早ベテランの域であったニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルツィとの出会いこそが、彼等アルファタウラスにとって大いなる飛躍への第一歩となったのである。
ニュー・トロルス自体も通算5作目のアルバム『UT』でメンバー間の対立が表面化し、御存知の通りヴィットリオを除きニコ、ジャンニ、フランク、マウリツィオの4名が抜け、ニュー・トロルスは実質上ヴィットリオ主導の下N.T Atomic System 名義で活動を継続。それと併行してフォニット・チェトラから離れたヴィットリオが新たにマグマ・レーベル を設立・発足させたばかりの、そんな矢先の出会いであった。
アルファタウラスの音楽性に惚れ込んだヴィットリオはすぐさまマグマ・レーベルへの契約を勧め、程無くしてN.T Atomic Systemに次ぐマグマ専属のアーティストとして幸先の良いスタートを切った彼等は、即座にレコーディング・スタジオにて持ち前の気迫漲る集中力を発揮し、スピーディーで且つ異例の早さで録音を終了させ、1973年バンド名と同タイトルでデヴューを飾り、一躍活況著しいシーンの真っ只中へと躍り出たる事となる。
後述でも触れるがPietro旧知の盟友にしてもう一人のアルファタウラスのメンバーともいえる、アドリアーノ・マランゴーニ画伯 の存在無くしてデヴュー作は成し得なかったと言えまい。
“重爆撃機の鳩”なるバンドカラーを決定付けた印象的な意匠に3面開きの特殊ギミックのアルバム・ジャケットはインパクト的にも効果は絶大で、荒々しく攻撃的…そして神がかった啓示的な両面性を持ったイマジネーションをも想起させ、「平和と戦乱」「調和と破壊」といった二律背反なテーマが如実に表れた、デヴューにして野心作・傑作と言っても差し支えはあるまい。
EL&Pの『タルカス』の世界観を更に拡大解釈したかの様なカオス渦巻く終末の世界観、核爆発、蛇足ながらも…さながらウルトラセブンに登場した恐竜戦車(!?)もどき が描かれたカタストロフィーの中にも、時折寂寥感漂うハッとする様なリリシズムが秘められている事も忘れてはなるまい。
オープニング“Peccato D'orgoglio(傲慢の罪)”は、不穏な気配とダークな緊迫感を感じさせる重々しいピアノと銅鑼に導かれ、オザンナ或いはイルバレを彷彿させる妖しげなギターのアルペジオに重厚なハモンドに支配されながらも、朗々たる神の啓示の如く謳われるヴォーカル。アコギが被さって徐々にイタリアン・ヘヴィプログレの真骨頂が見え隠れし、曲終盤への息をもつかせぬ怒涛の展開は、まさしくアルファタウラスの世界へようこそと言わんばかりの幕開けに相応しいでナンバーと言えよう。
“Dopo L'uragano(ハリケーンの後)”はタイトル通りの、嵐が過ぎ去った後の荒廃感を枯れたアコギが厳かにして朧気な響きで謳いつつも、暴力的で破壊感なヘヴィサウンドとが交差する秀曲。中間部のアートロック風でブルーズィーな流れが、ブリティッシュからのリスペクトを思わせて実に興味深い。
唯一のインストナンバー“Croma(クローマ)”は、荘厳にして暗雲の中にも一抹の光明が見出せるクラシカルでシンフォニックな、アルファタウラスのもう一つの側面をも窺わせる好ナンバー。不協和音を思わせるスピネッタ(チェンバロ)とベースのリフレインにシンセによる重厚なオーケストレーションは、リーダーのピエトロの嗜好する音楽性がここでは強く反映され全曲中、安堵感と希望に満ち溢れている。
遥か彼方から聞こえて来るチェンバロとシンセ・オーケストレーションという、あたかも“Croma”の延長線上の様なイントロダクションが印象的な“La Mente Vola(駆け抜ける精神)”も、ブルーズィーで且つ中間部のジャズィーな曲調への展開が小気味良い秀曲と言えよう。ラストのメカニカルで実験的なシンセの残響が時代感を象徴している。
ラストの大曲“Ombra Muta(無言の影)”のブリティッシュナイズとイタリアン・ロックのエナジーとの応酬に加え交互にせめぎ合う様は、パープルないしヒープ影響下を思わせるハード・ロックな側面が彼等なりに見事に昇華・結実し、作品は大団円を迎える事となる。ラストの余韻の部分も聴き応え充分で、最後まで飽きさせないところが実に心憎い…。
デヴュー作リリース以降、好調な売れ行きと共に国内外のロックフェスへの参加で多忙を極めていた彼等ではあったが、次回作の準備も同時進行で進められており、その時の音源は後の1992年メロウレーベルより未発表音源集『Dietro L'uragano』として陽の目を見る事となるが、この録音当時メンバー間の様々な諸事情(決して喧嘩別れやらすったもんだが無かった事だけは、どうか御理解頂きたい)で、ヴォーカリスト不在のまま顔合わせする機会も徐々に少なくなり、プロデュース面の弱体に加えてそもそもが実績にも乏しく短命的な弱小レーベルだった事が致命的となり、EL&Pのマンティコアと同様マグマレーベルも閉鎖という憂き目に遭い、アルファタウラスは半ば解散に近い長きに亘る活動休止へと追いやられてしまう。
その後…栄光のイタリアン・ロックの時代を担った多くのアーティスト達がそうであったように、アルファタウラスの面々も音楽業界に留まる者、音楽から離れて地に足の着いた仕事に就いた者とに別々の道を歩み、時代は70年代~80年代~90年代へと移行していった。
その時点で分かっている事といえば…音楽的リーダーのPietroはPFM関連始めリッカルド・ザッパ等の幾数多ものカンタウトーレとの仕事で多忙を極め、ヴォーカリストのMicheleはソロ活動の道を歩み近年まで継続していたとの事。ドラマーのGiorgioも活動休止以降、一時期ハードロック系バンドのCRYSTALSに参加し録音にも参加したいたものの、結局音源がお蔵入りしたままバンドが解散し、以後は数々のセッション活動等で音楽に携わっていた
そうな…。(CRYSTALSも1993年にメロウから再発されている)
ギタリストのGuido並びにベーシストのAlfonsoに関しては、活動停止直後の動向は現時点で不明だったものの、ただ唯一この場で言える事は…長きに亘るアルファタウラス活動停止という時間が経過してもメンバー全員が互いに密に連絡を取り合って親交を深めていた事が、ファンとしては実に嬉しくもあり喜ばしい限りでもある。
その長い時間を経た友情の証が、後年大きな動きとなろうとはこの時点で誰が知る由もあっただろうか…。
バンド休止から10年後の1983年、我が国キングレコードのユーロ・ロックコレクションにて、アルファタウラスの作品が再発されるや(オリジナル仕様の3面開き特殊ジャケットで無いのが残念ではあるが)多くのプログレッシヴ・ファンやユーロ・ロックファンは驚嘆し彼等の実力と素晴らしさが改めて再評価され、LPからCDへと時代が移行してもその熱は決して冷める事無く、彼等の評判は年代世代を越えて国内外でも更に高まる一方で、時代の追い風とファンの後押しが叶ったのか、前述で触れたセカンドアルバム音源が1992年にイタリアの当時の新興メロウレーベルからリイシューされ、プロデュースの力不足とヴォーカリスト不在というマイナス面こそ否めないが、その圧倒的なコンポーズ能力と完成度にファンは再び驚嘆し、事実この幻の2ndでアルファタウラスの人気は不動のものとなったと言っても過言ではあるまい。
しかし…あくまで個人的な見解で誠に恐縮ではあるが、これだけの完成度を持つ未発音源であったにも拘らず何かしら釈然としないものを感じていたのは私だけではあるまい。
直接聞いて確かめた訳では無いにせよ、多分…当事者のPietro自身も“何かが物足りない”と感じていたのではなかろうか。
そう!その答えはあの重爆撃機の鳩を描いたアドリアーノ・マランゴーニ画伯の意匠では無かった事が唯一の心残りであったと言っても異論はあるまい。
確かに音楽的にも完成度は優れてはいたものの、あのアマゾネスが乗ったドラゴンのイラストはいくらメロウ側が準備した付け焼刃的で間に合わせな装丁とはいえ、ちょっと大仰で且つ大袈裟過ぎないかと危惧をも抱いた位だ。
担当者には誠に申し訳ないのだが、あのファンタジック・ノベライズ風なイラストはアルファタウラスのイメージ的にも的外れでぼやけてしまった感は流石に否めない(苦笑)。
しかし逆に考えてみれば…イエス+ロジャー・ディーン、或いはピンク・フロイド+ヒプノシスという長きに亘るロックとジャケットアーティストとの連携関係に於いて、イタリアン・ロックでサウンドとイラストレーションが見事に合致したという意味で、アルファタウラスとアドリアーノ・マランゴーニ画伯との密接な関係は極めて稀であると言わざるを得ない。
そんな国内外のファンが長きに抱いていたフラストレーションも、21世紀の2012年に見事に解消されたのは言うまでもあるまい!
Pietro Pellegrini、そしてギタリストのGuido Wassermanの主導によって再結成されたアルファタウラスが長きに亘る眠りから目覚めて活動を再開の報に多くのファンは一気に色めき立ったのは言うには及ぶまい。
そんな吉報に呼応するかの如く、遠方に居を構えている関係で不参加だったMichele BavaroとAlfonso Olivaからの後押しと激励もバンドにとって大きな助力・原動力となり、2010年11月にイタリアで開催されたプログヴェンション2010への出演でその神々しい姿を再び多くの聴衆の前に現した彼等アルファタウラスは、30年以上に亘るブランクをも感じさせない健在ぶりをアピールすると共に、その模様を収録した彼等初のライヴ音源『Live In Bloom 』として2年後の2012年春にめでたくリリースされ、その2年間もの時間をたっぷりと有意義に使い同時進行であの奇跡の復活劇となった新譜2nd『Attosecondo 』の製作に着手していたのは最早御周知であろう。
加えて当然の如くではあるが…2012年の『Live In Bloom』そして『Attosecondo』の両作品のジャケットイラストデザインは、言うに及ばずアドリアーノ・マランゴーニ画伯が担当しており、特に『Live In Bloom』での鷲の頭を持ったミューズは、さながら重爆撃の鳩の進化形態を見る思いで、ファンならずとも驚嘆と感動で身が打ち震える思いになった事だろう。
オリジナルドラマーのGiorgio Santandreaが製作直前に方向性の相違で抜けてしまい、ドラマー交代のハプニングこそあれどそんな事に臆する事無くPietroとGuido、そして新たに迎えたヴォーカリストを始めとするツインキーボードによる6人編成の新布陣で臨んだ新生アルファタウラスの勇姿まさにここにありといった感である。
そして今…アルファタウラス始め私を含む多くのファンとリスナーにせよ今声を大にして言える合言葉として…
“俺達、まだまだ終わらないぜ!”
の一言に尽きるという事だろうか。
いつの日か重爆撃機の鳩が日本公演で舞い降りる日もそう遠くはあるまい…。
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17,2019
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9月第三週目、今回の「夢幻の楽師達」は、栄光と挫折そして試行錯誤と紆余曲折を経て、PFM、バンコ、ニュー・トロルス…等と並び、今や21世紀のイタリアン・ロックの重鎮的ポジションを担う大ベテランの風格すら漂わせる“ラッテ・エ・ミエーレ ”をお届けします。
LATTE E MIELE
(ITALY 1972~)
Marcello Dellacasa:Vo,G,B,Violin
Alfio Vitanza:Ds,Per,Flute,Vo
Oliviero Lacagnina:Key,Vo
1969年~70年代の初頭にかけて、キース・エマーソンが立役者となったナイス及びEL&Pの大躍進、加えて70年代のロックシーンを席巻したプログレッシヴ・ムーヴメントの追い風は、世界各国で幾数多ものEL&P影響下のキーボードトリオ系プログレのフォロワーを生み出したのは紛れも無い事実であろう。
ドイツのトリアンヴィラートを筆頭に、スイスのSFF、オランダのトレース、日本のフライド・エッグ、毛色は違うかもしれないがポーランドのSBBとて直接的ではないにしろ、キーボードトリオという類似点を考慮しても多かれ少なかれ意識はしていた事だろう。
そして御多分に洩れずプログレッシヴの宝庫イタリアとて例外ではない。初期のビートロック色からキーボード・トリオスタイルへ転換した大御所のレ・オルメを皮切りに、アルミノジェニ、トリアーデ、エクスプロイト、そして本編の主人公であるラッテ・エ・ミエーレも大なり小なりEL&Pに影響・触発され、活動期間が長命であろうと短命であろうと無関係にイタリアンロックの黄金時代を支えたのは最早言うには及ぶまい…。
“ミルクと蜂蜜”というお菓子的な意を持つ、ラッテ・エ・ミエーレの結成の経緯については定かではないが、各方面のレヴューないしライナーを参照した限り、1970年にジェノヴァにて結成がやはり有力筋と言えよう。
バンドメンバーの当時の年齢にあっては、眼鏡をかけた理知的な紅顔の美少年だったAlfio Vitanzaが若干16歳だったというから、Marcello DellacasaとOliviero Lacagninaもそんなに差が離れていたという訳ではあるまい。
普通ならティーンエイジャーだった彼等が(ルックスも踏まえて)選んだ道はアイドル的な売れ線ポップスではなく、迷う事無く純音楽に突き動かされたクラシカルなプログレッシヴ・ロックであったのが何とも意味深で興味深い。
そんな彼等の記念すべき1972年のデヴュー作『Passio Secundum Mattheum(邦題:受難劇) 』は、ポリドール・イタリアーナからの強力な後押しと、お国柄をも反映した新約聖書の“キリストの受難”という重々しいテーマにインスパイアされながらも、リリース直後にヴァチカン市国で時のローマ法王の前で御前演奏を務めたという快挙も手伝って、爆発的大ヒットとまでにはいかなかったにせよ若手のバンドとしては異例の注目と話題を集めるまでに至った。
ヨーロッパという伝統と様式美に裏打ちされた大作主義も然る事ながら、荘厳な響きが遺憾無く発揮された大掛かりな演奏と脇を固める混声合唱団の天上のハーモニーは、あたかも“キリストの磔と復活”が目の前に繰り広げられるかの如く、後々に不朽の名作・歴史的名盤という称号を得るには余りある魅力を放っていたのは過言ではなかろう…。
デヴュー作での高評価(好評価)を得て、バンドとして大偉業を成した彼等が翌年の次回作として選んだテーマは、メンバーがオフの時にたまたまルナ・パークで観た“ピノッキオ”関連の人形劇からヒントを得たとされている『Papillon(邦題:パピヨン) 』である。
前作以上にロック色を打ち出し、エマーソン影響下を感じさせるパーカッシヴなオルガンが印象的な前作に負けず劣らずな秀作に仕上がっていて、バックに配したホーンセクションも作品の世界観を損なう事無くファンタジックな人形劇を彩っているのも注目である。
旧アナログB面に収録された“悲壮”にあっては、ベートーヴェン果てはヴィヴァルディといった楽曲をロックでアレンジしつつ、クラシカルなメロディーの中にもジャズの香りがふんだんにまぶした、ラッテ・エ・ミエーレというバンドカラーならではの面目躍如が垣間見える逸曲と言えよう。
余談ながらも…『Papillon』という作品タイトルには諸説様々な経緯があり、一つは先のルナ・パークで観た人形劇からインスパイアされたという説、もう一つはかの故スティーヴ・マックイーンが主演の脱獄映画『パピヨン』からお題を拝借したという説とがあるが、今となっては最早どうでもいい事なのだが(苦笑)…。
70年代初頭にイタリアン・ロック史に刻まれる2大名作リリースという偉業を成し遂げた彼等であったが、如何なる理由かは定かではないが…翌年以降から暫く3年間音沙汰が無くなり、バンド活動失速と共にドラマーのAlfioを除き、MarcelloとOlivieroの両名が脱退し共にクラシック音楽畑へと転向し、以降2008年の再結集までMarcelloはジェノヴァの音楽大学を経てクラシックギタリストの第一人者として大成し、Olivieroはクラシックのアカデミアの教育を受けた後作曲家、編曲家、果ては映画関連のサウンドトラックやイタリア音楽業界の裏方としてシーンを支え続けた次第である。
バンドの中枢を担う両翼を失ったAlfioは、ポリドールとの契約解除後、分裂したニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルッツィが設立した新興のマグマレーベルに誘われ、新たなメンバーとしてLuciano PoltiniとMimmo Damianiのツインキーボードに、ラッテ・エ・ミエーレ結成以前からの旧友でもあったMassimo Goriをベース兼ギターとヴォーカルに迎え、前述のヴィットリオ・ディ・スカルッツィと兄弟に当たるアルド・ディ・スカルッツィの協力を得て、1976年に通算第3作目『Aquile E Scoiattoli(邦題:鷲と栗鼠) 』をリリースする。
時代の流れに相応しくバンドネーミングも若干変えてLATTEMIELE(ラッテミエーレ) と呼称し、ジャケットの意匠がややロリ好み風の下世話な心配こそあれど、過去の呪縛から吹っ切れた開放感と清々しさにも似た、純粋なイタリアン・ポップスの要素が加味された小粒ながらも垢抜けた印象の曲揃いのアナログ旧A面と、旧B面全てを費やした従来のラッテ・エ・ミエーレらしさと新たに生まれ変わった側面とが見事に結実した大作“Pavana ”との対比が実に絶妙といえる会心の一枚と言えよう。
が…そんな思惑とは裏腹に、70年代後期のイタリアン・ロック衰退期に差し掛かる頃と時同じくして、バンド自体も大幅な路線変更…コマーシャリズムに乗ったアメリカンナイズな作風を余儀なくされ、キーボードの片割れMimmoが抜け、残されたメンバーで79年に新作の録音に取り組むも、悲しいかなマスターは完成すれど結局お蔵入りされるという憂き目に遭う始末である。ちなみに79年の未発音源は13年後の1992年にメロウレーベルより『Vampyrs』というタイトルでCD化され、3人のフォトグラフのみがプリントされた何ともお粗末極まりない装丁で実に痛々しい限りですらある。
時代の移行と共にいつしか人々の記憶からラッテ・エ・ミエーレは忘れ去られ、結局1980年にバンド自体も長きに亘る活動休止状態となり、唯一のオリジナル・メンバーだったAlfioも、音楽学校でドラムクリニックの講師に携わり、その一方でイタリアの音楽情報番組のMCを務めたりと半ばイタリア音楽業界の裏方的ポジションに就くようになったが、そんな彼を旧知の友人でもあるニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルッツィの鶴の一声がきっかけで、ニュー・トロルスのドラマーとして迎えられ、二度の来日公演で精力的で元気一杯なドラミングを披露したのは周知であろう。
かつての眼鏡の紅顔の美少年も、今やニュー・トロルスとラッテ・エ・ミエーレの二枚看板を背負った白髪混じりの精悍な渋いオヤジに変貌を遂げていたのが実に印象的だった(失礼ながらも…一見すると本当にマフィアのボスみたいな風貌だから、もし実際に会ったら声を掛け難いだろうなァ)。
そんな21世紀の真っ只中、青天の霹靂とでも言うか寝耳に水とでも言うか、いつしかラッテ・エ・ミエーレ再結成という噂が飛び交うようになり、それは決して噂の域に止まらない正真正銘のアナウンスメントであり、2008年にAlfioを筆頭にオリジナルメンバーのMarcelloとOlivieroに加え、3rdに参加したMassimoとLucianoを迎えた5人編成で臨んだライヴCD『Live Tasting』は瞬く間にベストセラーとなり、ラッテ・エ・ミエーレは完全に復活の狼煙を上げたと言っても過言ではない位、実に待ち望んだ素晴らしい内容だった事を今でも覚えている。
復活の波に乗った彼等は新作録音直前にLuciano脱退というハンデを見事に乗り越え、Alfio、Marcello、Oliviero、Massimoの4人編成で21世紀の名作に相応しい『Marco Polo~Sogni E Viaggi 』をリリースし、あの70年代イタリアン・ロックが持っていた熱い頃の気概と精神を呼び起こし、再びシーンに見事に返り咲いた次第である。
そして今でも忘れられない、ニュー・トロルス一派と共にラッテ・エ・ミエーレ名義による2016年川崎クラブチッタでの“受難劇”完全再現ライヴでの雄姿は、今でも昨日の事の様に私自身の目と記憶にしっかりと焼き付いており、デジタル機材諸々を含めたテクノロジー様々の甲斐あって、もう決してライヴステージでの演奏は不可ともいえた受難劇が体感出来たのは、もはや奇跡以外の何物でもあるまい…。
奇跡の来日公演から3年を経て、ラッテ・エ・ミエーレは再び沈黙を守り続けてはいるが、その一方で先月の「Monthly Prog Notes」でも取り挙げたが、3rd『Aquile E Scoiattoli』のメンバーMassimo GoriとLuciano Poltiniを中心とするラッテ・エ・ミエーレのDNAを汲んだ新バンドLATTE MIELE 2.0(ラッテ・ミエーレ 2.0) が2019年にスタートし、彼等のデヴュー作でもある『Paganini Experience 』は今もなお空前のベストセラーを記録しているといった様相である。
ラッテ・エ・ミエーレが辿ったであろう幸福と苦難…試行錯誤と紆余曲折の道程は、“信は力なり! ”という言葉の如く、自ずと信ずれば絶対その願いは必ず叶うという事を如実に証明した、年輪を積み重ねながらも夢を追い続ける男達が綴る終わり無き御伽話なのかもしれない。
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20,2019
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9月終盤に差しかかった第三週目、今週の「一生逸品」は、名実共に正真正銘の真打登場といった感の70年代後期イタリアン・ロック最大の大御所“ロカンダ・デッレ・ファーテ ”に今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
LOCANDA DELLE FATE
/ Force Le Lucciole Non Si Amano Più(1977)
1.A Volte Un Istante Di Quiete
2.Force Le Lucciole Non Si Amano Più
3.Profumo Di Colla Bianca
4.Cercanco Un Nuovo Confine
5.Sogno Di Estunno
6.Non Chiudere A Chiave Le Stelle
7.Vendesi Saggezza
Leonardo Sasso:Vo
Ezio Vevey:G,Vo,Flute
Alberto Gaviglio:G,Vo
Michele Conta:Key
Oscar Mazzoglio:Key
Luciano Boero:B
Giorgio Gardino:Ds,Per
今更言及するまでもなく、イタリアン・ロック…否!70年代の全世界規模のプログレッシヴ・ムーヴメントが(一時的だったとはいえ)衰退期に差し掛かっていた1977年、イギリスのイングランド、そしてスイスのアイランドと同年期に華々しくもデヴューを飾った、文字通りイタリアン・ロックシーン最後の砦にして、溢れんばかりの抒情美を紡ぐ申し子と言っても過言では無い位の絶対的な存在感と地位を保持しているロカンダ・デッレ・ファーテ。
私ごときのセミプロ的な書き手には余りにも恐れ多い位の大御所にして、多くのイタリアン・ロックのファンや愛好家・有識者の方々から“今更何をいわんや”と思われるのも当然いた仕方あるまい(苦笑)。
あの悪夢の様な70年代後期のプログレ衰退と共に、見開きLPジャケットの需要が徐々に少なくなりつつあった中、大手ポリドール・イタリアーナの寄せる期待を一身に受けて世に送り出された7人の楽師達の命運は、あの儚くも朧気な幻想美漂う妖精の意匠の如くもう既に決定づけられていたのかもしれない。
ロカンダ・デッレ・ファーテの詳細なルーツやバイオグラフィーは、私自身でも30年以上経った今の現時点に於いて未だ曖昧模糊といった感ではあるが、その点は私よりも詳しく伊語に堪能精通し心得のある有識者の方にお任せしたいと思う。
現時点で解っている事は、ロカンダ・デッレ・ファーテのメンバー大半が長年のキャリアを積み重ねてきたセッションマン達で構成されており、その美しくも瑞々しいサウンドの要とも言うべきメロディーメイカーはEzio VeveyとAlberto Gaviglioの両ギタリストと、ツインキーボードの片翼を担ったMichele Contaであると思われる。
Michele Contaのペンによる端整なピアノの調べが美しいイントロダクションに導かれ、シンセにオルガン、ツインギター、フルート、そしてリズムセクションがあたかも絹織物の様に複雑且つ緻密に紡がれていく様は、イタリアの伝統に裏打ちされた独特の泣きの旋律を踏襲した“美”以外の何物で
も無い唯一無比の音世界の幕開けに相応しいオープニングを経て、続く2曲目も一連のカンタウトーレ系やイタリアン・ラヴロック系にも相通ずる歌心溢れる歌唱法と演奏とのハーモニーが見事にコンバインした秀曲に、暫し時が経つのを忘れる位に只々耳を奪われる事必至と言えよう。特に曲中間部のContaが奏でる早弾きのハープシコードが実に美しく、私自身若い時分初めて耳にした時は思わず言葉を失った事を未だに記憶している。
かのキャメルをも彷彿とさせる抒情性とエッセンスに、たおやかで広大な地中海の蒼色のイメージを湛えつつ繊細で且つ良質なポップス感覚を兼ね備えた3曲目と4曲目も素敵な愛らしいナンバーで好感が持てる。
5曲目と6曲目は小曲ながらも、前者は初期のPFMと真っ向からいい勝負が出来そうな…緻密にして構築的な70年代イタリアン・ロック全盛期の作風をリスペクト継承した力強いナンバーで、後者はややフォークタッチで牧歌的ながらも実に味わい深い優しさと詩情が滲み出ておりロカンダのもう一つの側面が垣間見える佳曲と言えよう。
ラストの7曲目に至っては彼等の紡ぐ物語のエピローグに相応しい、ロカンダ・デッレ・ファーテの面目躍如にして彼等の思いの丈と理想の音楽像たるもの全てが凝縮された、まさしくアルバムタイトル『Force Le Lucciole Non Si Amano Più』(直訳すると“蛍が消える時”という意)に加えて、幻想的でファンタジックなジャケットの意匠のイメージと寸分違わぬ、幽玄にして優雅な大団円とも言えるだろう。
特筆すべきは…全曲を通してMichele Contaのピアノワークの上手さと楽曲の素養、スキルの高さには溜飲の下がる思いであるという事であろうか。
それはかのフェスタ・モビーレとはまたひと味違う瑞々しさと的確さはもっともっと評価されても異論はあるまい。
なお後述でも触れるが、翌1978年若干のメンバーチェンジを経てシングルリリースされた『New York/Nove Lune』が、後年のCD化に際しボーナストラックとして収録されている事も付け加えておく。
ちなみに上記で貼り付けたYoutube動画の『Force Le Lucciole Non Si Amano Più』フルアルバムバージョンには彼等のラストアルバムとなる『The Missing Fireflies… 』に収録された“Crescendo”がボーナストラックとして収録されているのも非常に興味深いところである。
だが…運命とは皮肉なもので、これだけ高い演奏力と素晴らしい完成度を持った作品を引っ提げてデヴューを飾ったにも拘らず、当時のイタリア国内もまたイギリスやアメリカと同様御多分に漏れず、他のヨーロッパ諸国と共に右に倣えとばかり、テレビやラジオ向きにオンエアされる商業路線の売れ線ポップスやら、映画『サタデーナイト・フィーバー』で瞬く間に火が付いた当時のディスコミュージックばかりがもてはやされ、更にはイギリスで勃発したパンク・ニューウェイヴムーヴメントという時代の追い風が拍車を掛け、プロモート不足というマイナス面で出鼻を挫かれた形でセールス的にも振るわず、結局アルバムをリリースした同年の春から秋にかけて、ポリドールとフォノグラムの2社が共同企画したレーベル主催のツアーにて数回ギグを行った(後の1993年にメロウレーベルからライヴCD化された)後、翌78年に若干のメンバーチェンジを経てシングル『New York/Nove Lune』という、時代相応の音作りながらもロカンダの持つ良質で親しみ易いポップスさが活かされた好作品をリリースするものの、結局時代の流れには到底逆らえず次回作の目途も立たずいつしか人知れずバンドは自然消滅という憂き目に遭ってしまう。
バンド解体から2年後の1980年、Ezio Vevey、Michele Conta、Luciano Boeroの3人で“LA LOCANDA”なるトリオを組み、Rifiレーベルからラヴロック調の『Annalisa/Volare Un Po'Piu' In Alto』というシングル一枚をリリースするも、出来は良いが結局セールス的には結び付かず、善戦虚しくこれもたった一枚だけで自然消滅を辿ったのは言うまでも無かった。
ロカンダ・デッレ・ファーテが表舞台から消えてから5年後の1982年、日本に於いてキングのユーロ・ロックコレクションに続き、ポリドールからも“イタリアン・ロックコレクション ”として、イル・バレット・ディ・ブロンゾやラッテ・エ・ミエーレと共にロカンダ・デッレ・ファーテが国内盤リリースされるや否や(余談ながらもポリドールの国内盤イタリアン・コレクションは、ジャケット自体も見開きやら変形部分含めてイタリア原盤と何ら寸分違わぬ精巧な出来栄えで今でも人気が高い)、日本のプログレ・ファン並びイタリアン・ロックファンの心を鷲掴みにし、海を超えたこの遠い国での出来事が後々ロカンダ・デッレ・ファーテにとって大いなる運命の転機の訪れと、果ては2012年の初来日公演へ繋がったと言っても過言ではあるまい。
時代は80年代から90年代へ…音楽フォーマット自体もLPからCDへと移行し、ひと昔前なら想像はおろか思いもよらぬ音源が世界各国から発掘され、未発表曲集からライヴ音源と、兎に角あの当時は枚挙に暇が無い位の堂々たるラインナップが出揃ったものである。
イタリアからも(音質の良し悪し云々を問わず)ムゼオ・ローゼンバッハ始めラッテ・エ・ミエーレ、クエラ・ベッキア・ロカンダの未発ライヴ音源が続々とリリースされ、当然の如くロカンダ・デッレ・ファーテもライヴ音源がリリースされ、その演奏水準の高さにイタリア国内外にて改めて人気が再燃焼し、折からイタリア国内にて降って沸いたかの様な70年代イタリアン・プログレへの再考と見直し・再結成ブームが追い風となり、93年のライヴCDリリースから6年後の1999年、Ezio Vevey、Alberto Gaviglio、Oscar Mazzoglioのオリジナル・メンバー3人によってロカンダ・デッレ・ファーテは漸く待望の再結成・復活を果たし、同じく元メンバーのLuciano Boero、Giorgio Gardinoもゲストとして参加し、5人編成によるロカンダ・デッレ・ファーテ名義でヴァイニール・マジックより『Homo Homini Lupus(邦題「妖精達の帰還」 )』をリリース。
ヴォーカルのLeonardo Sassoと中心人物でもあったMichele Contaを欠いた、心無しかやや物足りないというきらいとマイナス面こそあれど、時代相応の音作りながらロカンダらしい純粋無垢で良質なサウンドが楽しめる好作品に仕上がっている。
このまま順風満帆で次なる作品へとステップアップして大いに期待が寄せられると言いたいところではあるが、その後またもや降って湧いたかの如き活動休止宣言…。多くのファンはどれだけ気をやきもきした事だろうか!?
ただ…ひと昔前とは明らかに違う点でネット社会となった今日、彼等の公式ウェブサイト上に於いて手に取る様にバンドの動向と情報が把握出来るというだけでも幸いなのが嬉しい限りである。
こうして2012年、度重なるメンバーチェンジを経てリハーサルを繰り返しロカンダ・デッレ・ファーテは我々の前に再び華麗に舞い降りてきた。
オリジナルメンバーのOscar Mazzoglを始め、Luciano Boero、Giorgio Gardino、そしてオリジナルヴォーカリストのLeonardo Sassoが待望の復帰を果たし、新たなギタリストMax Brignoloと新たなキーボードにMaurizio Muhaを迎えた6人編成で13年振りの待望の新作『The Missing Fireflies…』をリリースしその健在振りをアピールし、同年春の4月27~29日の3日間、川崎クラブ・チッタにて開催の『イタリアン・プログレッシヴロックフェス~春の陣~』にイ・プーやオルメと共に遂に初来日を果たす事となったのは最早言うまでも無かろう。
幸運の女神の微笑みか…或いはあのデヴュー作で描かれた妖精のお告げなのか…いずれにせよ彼等のここまでに至る長い道程は決して無駄では無かった事だけは確かであろう。
だが惜しむらくは、1977年のデヴューから数えて40周年目の2017年、突如彼等の口から語られた衝撃のアナウンスメント“ロカンダ・デッレ・ファーテ活動終了宣言 ”にはイタリアや日本のみならず世界各国の彼等のファン達が落涙し、彼等の潔い終焉に惜しみない拍手と喝采を贈ったのは言うまでもあるまい。
それでも彼等の伝説は決して終わる事無く、彼等を愛して止まないファン達がいる限り…彼等の作品が生き続ける限り、その崇高で高潔な音世界は未来永劫語り継がれていくであろう。
…私はそう信じたい。
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23,2019
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2019年今年最後にお送りする「夢幻の楽師達」は、数々の栄光と伝説の名作を世に送り出した70年代イタリアン・ロックシーンに於いて、伝説の中の伝説にして名匠の中の名匠と言っても過言では無い、21世紀の今もなおその神々しさと大御所たる貫禄でイタリア音楽界の重鎮として存在感を示しているであろう…かつての名うての実力派プレイヤー達が結集した文字通りイタリアン・ロックきってのスーパーバンドとして一時代を築き上げた“イル・ヴォーロ ”に今再び栄光のスポットライトを当てて一年を締め括りたいと思います。
Alberto Radius:G, Electric Sitar, Vo
Mario Lavezzi:G, Electric Mandolin, Vo
Vincenzo Tempera:Key
Gabrile Lorenzi:Key
Roberto Callero:B
Gianni Dall'Aglio:Ds, Per, Vo
古今東西の長きに亘るロックシーンに於いて、いつの時代でも俗に言う“スーパーバンド ”なるものは必ずといっていい位に存在(登場)するもので、ことプログレッシヴ・ロックのフィールドでは、(産業ロックにカテゴライズされるものの)かのイアン・マクドナルドを擁していたフォリナーを皮切りに、初期UK然りエイジアそして近年ではトランスアトランティックも忘れてはなるまい。
かく言う私自身も記憶に留めている限りのバンドを挙げた次第ではあるが、掘り下げればもっともっとスーパーバンドクラスの存在が発見出来る事だろう。
話は本編に戻るがそんなスーパーバンドクラスなるものをイタリアン・ロックシーンに限定した場合、先ず真っ先に思い出されるとなると十中八九の率で、今回の主人公でもあるイル・ヴォーロではなかろうか。
彼等にまつわる個人的な思い出話みたいで恐縮であるが、高校2年の初夏の頃…件のキングレコードのユーロロックコレクションにてリリースされた彼等イル・ヴォーロのデヴューアルバムとの初めての出会いが思い起こされる。
目の中の瞳が地球という(別な解釈で喩えるなら地球を見つめているといった方が妥当であろうか)一風変わった斬新な試みを思わせるジャケットに惹かれ、迷う事無く馴染みのレコードショップへ足早に駆け込んで、なけなしの小遣いを叩いて購入したのを昨日の事の様に記憶している。
まあ今にして思えば、ユーロロック(+イタリアン・ロック)の予備知識を持たず右も左も分からない初心者マーク風情みたいな生意気盛りの若造だった時分、既にPFMやバンコ、ニュー・トロルスに触れていたとはいえ、肝心なフォルムラ・トレに触れずしていきなりのイル・ヴォーロなのだから、挑戦的というか冒険的というか些か怖いもの知らずで無謀だったよなぁと感慨深くなる事しきりである(苦笑)。
前出のイタリアン3バンドでイタリアン・ロック=テクニカルで豪華絢爛なシンフォニック・ロックという荘厳な音世界といった先入観でしかなかったので、そういった類の音をイル・ヴォーロにも期待してはいたものの、印象的なジャケットとは裏腹に予想に反して地味めな音作りの渋い世界観に違和感を覚えてしまったのが当時の率直な感想だったものだから何ともお恥かしい限りである…。
半年にも満たない内に結局イル・ヴォーロを市内の中古レコード店に売却し、その売ったお金を注ぎ込んで気になっていたオザンナの『パレポリ』へと走ったのだから本末転倒も甚だしい。
しかし運命と縁とは不思議なもので、時間と歳月は人を変え成長させるの言葉通り、十代の時分に退屈感極まりないと感じてしまったイル・ヴォーロのデヴュー作がだんだんと懐かしく思えて、二十代の半ばにはまた再び聴いてみたいと考え直させてくれるのだから意外といえば実に意外である。
市内の中古レコードフェアで一縷の望みを託して探しに探しまくった末、再会の思いで漸く買い直したイル・ヴォーロのデヴューアルバムは同時期に買った2ndアルバムと共に、その後紙ジャケットCDへとフォーマットが移行するまでの長い間、私自身のディスクライヴラリーに収まりずうっと愛聴してきた違う意味での思い出のアルバムとなった次第である。
何だか若い時分の青臭くてお恥かしい限りの駄文みたいな書き出しになってしまったが、何はともあれイル・ヴォーロは今日までのイタリアン・ロックの長い歴史に於いて、紛れも無く名実共にスーパーバンドとしての実績はおろか、その確固たる地位と名誉と足跡を刻み付けた存在だった事だけは異論あるまい。
今更何を言わんやとお叱りやらイチャモンを付けられそうだが、イタリアン・ロック黎明期の70年代初頭…フォルムラ・トレ始めカマレオンティ、ジガンティ、オサージュ・トリベ、ドゥエロ・マドーレ、果てはヌメロ・ウーノレーベルの設立者でもありブレーンでもあったルーチョ・バッティスティのバックバンドを経て腕を磨いてきた名うての実力派プレイヤー達が集結しただけに、バッティスティ含めバンド所属元のヌメロ・ウーノのみならず、当時イタリアン・ロック関連メディアの各方面がこぞって一世一代のスーパーバンド誕生に拍手喝采を贈り色めきたったのは言うに及ぶまい。
1972~1973年にかけて一時の栄華を極めたイタリアン・ロックの黄金時代も、オイルショックで端を発した様々な諸問題の併発と同時にロックシーン自体も大なり小なり翳りの兆候が散見され始めた事を機に、多くのバンドがたった一枚きりの作品を遺して解散への道を辿り、世代交代の如く新たなバンドが輩出しては短命で解散への道を辿るといった悪循環の繰り返しさながらの様相だったのは御周知であろう。
そんな時代背景のさ中、バッティスティとヌメロ・ウーノの(決してゴリ押しという訳ではないが)強力な後押しと尽力の甲斐あってフォルムラ・トレ解体後のRadiusとLorenziは意を決して、Lavezzi、Tempera、Callero、Dall'Aglioに協力を働きかけ、1974年まさしく“飛翔”の意の如くイル・ヴォーロと命名した新バンドとして世に躍り出て、バンド名を冠したデヴューアルバムをリリース。
名うての強力なプレイヤーが結集しただけあって、各方面並び音楽関係のプレスでも評判は上々で過渡期を迎えていたイタリアのロックシーンに新風を巻き起こすだけの実力も然る事ながら、作品全体に漂っているカンタウトーレ風に歩み寄った楽曲と趣、イタリアのアイデンティティーに加味したある種のワールドワイドな視野をも見据えたであろう幾分開放的なイメージとポップスなフィーリングも雄弁に物語っていて実に興味深い。
まあ、ひと言で言ってしまえば極端で土着的なイタリア臭さが稀薄になって、世界進出に成功したPFMに倣ったかの様なクールなスタイリッシュさとインテリジェンスを纏ったと言ったら分かりやすいだろうか。
デヴューアルバムに収録されている全曲とも概ね3~4分の小曲で占められてはいるものの、粒揃いの印象ながらも全曲の完成度とクオリティーは高く、前出の通りカンタウトーレ寄りな歌物風な趣に加えて非シンフォニックでジャズロックな彩りが与えられており、バンドのメンバーが長年培われてきた音楽経験とアイディアが濃密に凝縮され、文字通りイタリアン・ロックの新たな一頁を飾るに相応しい充実した出来栄えを誇っていると言っても過言ではあるまい。
デヴューアルバムの上々な成果を得たバンドとレーベルサイドは、時代の追い風の上昇気流に乗ずるかの如く早々に次回作への構想と製作に着手する事となり、デヴューとは異なった作風で2作目を推し進めていかねばと奮起し、自らの創作意欲を鼓舞させてリハーサルと録音に臨んだ彼等6人は、翌1975年周囲からの期待を一身に受け『Essere O Non Essere ? Essere, Essere, Essere ! 』という何とも意味深なタイトルの2ndアルバムをリリースする。
蒼一色の地中海と紺碧の天空というブルーカラーで統一された背景に、あたかもギリシャ神話のイカロス或いは鳥人間(鳥人)をも彷彿とさせる古代のハンググライダーの飛翔が描かれた紛れも無くバンドネーミング通りのアートワークに包まれた2作目は、前デヴュー作とは打って変って自国のアイデンティティーに基づいた地中海音楽風な原点回帰を目指したであろう、ヴォーカルパート入りの「Essere」を除き殆どがインストゥルメンタルに重きを置いた意欲的な試みが為されており、さながら同時期にデヴューを飾ったアレアやアルティ・エ・メスティエリの作風をも意識したアプローチすら垣間見えるといったら言い過ぎであろうか。
本作品から思い切って導入したギターシンセの効果的な使用も然る事ながら、歌物的なデヴューから一転したメディテラネアンチックなサウンドカラーが徹頭徹尾に反映されたジャズィーでクロスオーヴァーな曲構成・展開に聴衆やリスナーを大いに戸惑ったものの、結果的には前デヴュー作に負けず劣らずな好評価を得る事が出来たのは言うまでもなかった。
デヴューとは異なった方法論とサウンドスタイルで自らが持ち得るスキルとアイディアを思いの丈の如く存分に引き出し…有言実行通り夢幻の音空間に飛翔=IL VOLO を遂げた彼等6人ではあったが、各方面からの賞賛や好評価とは裏腹にマーケット市場での今一つな反応に加えてセールス面での伸び悩みにすっかり意気消沈してしまい、その後僅か数回のギグをこなした後、もはや自分達が演れるべき事はもうすっかり演り尽くしたと言わんばかりにバンドの解体を決意し、イル・ヴォーロも僅か一年弱という活動期間で短命バンドという道を辿ってしまう。
その後のメンバー各々の動向にあっては既に御周知の通り、イル・ヴォーロを支えた2人のギタリストAlberto RadiusとMario Lavezziの両名は、バンド解散以降カンタウトーレの大御所として多数ものヒット作を連発し、ことRadiusにあっては名作『Che Cosa Sei』始め、『Carta Straccia』、果てはアメリカ文化をおちょくった(皮肉った)かの様な『America Good-Bye』、1981年にはイル・ヴォーロ時代の回顧をも連想させる様な意匠の『Leggende』といった傑作名作を多数リリースし、後の1991年に自らの活動と同時進行する形でかつての盟友Tony Ciccoと合流しフォルムラ・トレの再結成を遂げ(当初はGabrile Lorenziも再結成に参加していた)『King Kong』始め、94年の『La Casa Dell'imperatore』、96年の『I Successi Di Lucio Battisti』をリリースした後に解散。
そして21世紀を経て2004年に再びTony Ciccoと合流しフォルムラ・トレ再々結成を果たし『Il Nostro Caro... Lucio』をリリースする傍ら自らの活動も継続させて、今やイタリア音楽界の大ベテランとして今日までに至っている。
一方のLavezziも『Iaia』を始め『Filobus』といった傑作ソロをリリースし、Radiusと並ぶ大御所として確固たる地位を築き上げている。
再結成フォルムラ・トレに参加したGabrile LorenziもRadiusやCiccoと袂を分かち合った後は、裏方兼スタジオミュージシャンの第一人者として、イタリア国内の大多数ものシンガーやアーティストのバックとアレンジャーを務めて多忙に追われる今日を過ごしている。
Vincenzo Temperaもイタリア音楽界での第一人者として重鎮的なポジションに就き、マエストロの称号を得た後はサンレモ音楽祭の常連としてコンダクターをも兼任している。
リズム隊のRoberto CalleroとGianni Dall'Aglioも後進の育成に多忙を極めており、セミナーを開催してスクールの講師をも務めているそうな。
ちなみにRoberto Callero自身今もなお現役ベーシスト兼チャップマン・スティックの名手として、各方面でのプロジェクトやバックバンドに参加して悠々自適な日々を送っているとのこと。
栄えある未来と希望が期待されながらも、ちょっとしたボタンの掛け違いとでもいうのか…それぞれの思惑の喰い違いで、そのあまりに短い活動期間で幕を下ろしたイル・ヴォーロであったが、彼等が70年代のイタリアン・ロックシーンに刻み付けた軌跡と楽曲は今もなお時代と世紀を越えて全世界の聴衆に愛され続け語り継がれていく事であろう。
たとえ彼等が「あれはもう過去の事だから…」と一蹴したとしても、あの時の彼等6人は未来ある青春期と栄光という時間の真っ只中にいた事だけは確かに紛れも無い事実である。
あの日あの時創った音楽こそが僕等の全てなんだ… という事だけは静かに受け止めてあげたいし信じて願わんばかりである。
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26,2019
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2019年今年最後の「一生逸品」をお届けします。
今年最後を締め括るのは、70年代中期~後期イタリアン・ロック隆盛という一時代を駆け抜けて、自らが思い描く純粋無垢で清廉潔白なる音楽世界に情熱と青春を捧げつつ、さながら白馬に乗った王子の様に夢幻(無限)の地平線を目指して21世紀の今もなお歩み続ける、イタリアン・ロックシーンが生んだ静謐で稀有な創意の象徴と言っても過言では無い“チェレステ ”に、今再び栄光と軌跡のスポットライトを当ててみたいと思います。
CELESTE/ Celeste(1976)
1.Principe Di Giorno/2.Favole Antiche/
3.Eftus/4.Giochi Nella Notte/
5.La Grande Isola/6. La Danza Del Fato/
7. L'imbroglio
Mariano Schiavolini:G, Violin, Vo
Leonardo Lagorio:Key, Flute, Sax, Mellotron, Vo
Giorgio Battaglia:B, G, Per, Vo
Ciro Perrino:Per, Flute, Recorder, Mellotron, Vo
コルテ・ディ・ミラコリ、そしてピッキオ・ダル・ポッツオといった前衛的にして創作意欲に富んだ栄光のグロッグ・レーベルを代表する2アーティストを取り挙げた後にふと思ったこと…ここまで来たらもう絶対真打級のチェレステに御登場願うしかないと決意を固め、遂にと言うかいよいよと言うべきなのか…ここに満を持して待望ともいえる名実共にイタリアン・ロックが生んだ純白にして純粋無垢なる魂の結晶チェレステ降臨と相成った次第であるが、静謐なる白地のジャケットにCELESTEというバンド名のみが印字されただけの、一見からして極めてシンプル・イズ・ベスト、或いはビートルズの『ホワイト・アルバム』を意識した推察すらも出来るが、あたかも印象派寄りの現代アートにも通ずる白地にバンドネーミングという意匠そのものこそ、実にインパクト大で効果的ではないかと思えてならない。
悪く言ってしまえば手抜きだの、アイディア不足だの、果ては印刷ミスだのと他方面からは散々な言われようで、多種多彩にして絢爛豪華なる配色のジャケットアートが主流だった70年代初頭期の幾数多ものイタリアン・ロックのジャケットアートと比較しても、相応のインパクトながらもさほど印象は弱く繊細過ぎるきらいがあるというごもっともな意見も否めないが…。
技巧派で実力派クラスのPFMやバンコ、邪悪で奥深い闇のパワーを放つムゼオやビリエット…etc、etcといった70年代イタリアン・ロックの歴史を飾ってきた王道の路線とは全く異なる、彼等チェレステはあくまで一線を画した地道で牛歩的な我が道を歩むタイプとして、自らの信条とアイデンティティーで音楽世界を紡いできた存在ではなかろうか。
チェレステの幕開けは、60年代末期から70年代初頭の所謂イタリアン・ロック黎明期にかけて活動していた、それこそチェレステの母体とも言うべき伝説的バンドIL SISTEMA にまで遡る。
ドラムとフルートを兼任し、後々から21世紀の今日に至るまでチェレステの要にしてブレーンをも務めるCiro Perrino、そしてサックス兼フルートとピアノのLeonardo Lagorioという2人の主要メンバーによって、まさにチェレステ夜明け前ともいうべきヒストリーが始まろうとしていた。
余談ながらもIL SISTEMAのギタリスト Enzo Merognoはバンド解体後、袂を分かつかの様にムゼオ・ローゼンバッハ結成へと歩むのは、イタリアン・ロックファンなら既に後周知の事であろう(ちなみに、前出のCiro PerrinoとLeonardo LagorioもEnzoに誘われムゼオの初期メンバーとして一時期在籍していたのは有名な話)。
70年代初頭、ニュー・トロルス、オルメ、フォルムラ・トレ、そしてトリップ…等が時代の波の流れに感化され、これまでのビートロック系からサイケデリック・ムーヴメントに後押しされるかの如く、プログレッシヴ黎明期を予見させるであろうサウンドスタイルへ移行したのと時同じくして、イタリア国内最大の音楽祭で御馴染みの都市サンレモにてIL SISTEMAは結成され、サイケデリックな様相と雰囲気を漂わせながらも、かのニュー・トロルスよりも先にムソルグスキーの「禿山の一夜」をロックアレンジしたナンバーを手掛けていたり、結成当初から時代を先取りしていたアーティスティックで且つクラシカル&プログレッシヴな類稀なる音楽性で周囲から注視され、数多くものデモ音源(おそらくは自主製作に近い形で)を録音してはいたものの、当時はなかなか運の巡り会わせというかチャンスとタイミングに恵まれず大手レコード会社の目に留まる事無く、デモ音源はお蔵入りするという憂き目に遭ってしまい、重ねてメンバー間の音楽性の相違でIL SISTEMAは不幸にも解散への道を辿ってしまう。
IL SISTEMA解散後の翌1972年、参加したムゼオの音楽性に馴染めずバンドから離れたCiro Perrinoは旧知の友人でもあり、後々チェレステのメンバーとなるギターのMariano SchiavoliniとベースのGiorgio Battagliaを誘い便宜上なのか暫定的なのかは定かでは無いがチェレステというバンドネーミングで細々とした創作活動を開始する。
それはIL SISTEMAないし一時的に在籍したムゼオでの経験を踏まえつつも、決して過去の焼き直しやら模倣では無い、あくまで過去を振り返らず断ち切った形で、更なる違った音楽性を模索し構築するという途方も無い時間と日数を費やす事となるのは言うまでもなかった…。
そうこうしている内に、かつてのバンドメイトだったLeonardo Lagorioがムゼオを抜けて再びCiroと合流し、更にはMarco Tudiniが加わったチェレステは漸く軌道の波に乗り始め、何本かのデモ音源を各方面の音楽関係者に足繁く通って持ち込んだ甲斐あって、1974年映画監督Enry Fioriniの目に留まった彼等はEnryが監督する映画(タイトルは不明)のサウンドトラックを手掛ける事となり、これがチェレステにとって最初の音楽作品の仕事となった次第である。
しかし悲しいかな、サントラとして録音されたマスターテープこそ残ったものの肝心要なレコード化がされぬまま、何と18年後の1992年にMellowレーベルからチェレステ名義のアンリリースド・アイテムとしてCD化が成されるまでの間、ずうっと倉庫に寝かされたままだったのが何とも勿体無いというか惜しまれてならない…。
後述で重複するが、サントラ製作の傍らチェレステ76年のデヴューアルバムに収録される“Favole Antiche”と“Eftus”の原曲ともいえるデモ音源を収録していたのも、ちょうどこの頃である。
前後してMarco Tudiniが一身上の都合でバンドを抜け、サントラのレコード化という夢と願いこそ果たせなかったものの、その一方で各方面にてデモ音源を売り込んでいた功が奏してチェレステの特異なる音楽性はイタリアン・ロック停滞期に差し掛かっていた時期ながらも次第に注目される様になる。
偶然とでもいうのか時代の流れの変化を察し、早くからチェレステの存在に着目していたグロッグレーベル始め発起人でもあったAldo De Scalziは、レーベルの今後を象徴する目玉的存在に成り得ると確信し、ピッキオ・ダル・ポッツォやコルテ・ディ・ミラコリよりもお先にグロッグの2番手として世に送り出すべく、契約に着手する事となる。
こうしてサントラの録音から程無くして、同年の1974年グロッグレーベルのStudio Gにてチェレステの4人に加えAldo De Scalziをゲストに迎えた布陣で、デヴューアルバムに向けたレコーディングに臨み、2年の歳月と膨大な時間を費やし、1976年純白のジャケット地にバンド名を冠しただけの至ってシンプルな装丁ながらも漸く待望のデヴューを飾る事となった次第である。
意匠こそ(良い意味で)単純明快且つ聡明で清廉潔白であるものの、見開きジャケットを開けば更に彼等に対する印象が一変する事だろう。
白馬に乗った王子が従者と共に理想郷目指して旅立つといった感の、あたかも名匠ビアズリーの絵画をも彷彿とさせる線画の素描で埋め尽くされたアートワークにリスナーの誰しもがきっと心揺り動かされる筈であろう。
まさしくチェレステの表現したい世界観を雄弁に物語っており、派手さやらテクニカル云々とは全く無縁な聴く者達の心に浸透していくメロディーとハーモニー、あくまでアンサンブルの綴れ織りを重視したスタイルは徹頭徹尾終始一貫しており、ややもすれば退屈極まりないだの軟弱だのと陰口を叩く輩もいるのだろうが、そんな愚輩がいたとしたらチェレステはおろかイタリアン・ロックを聴く資格すら無いのかもしれない。
まあ…些か感情的な書き方になってしまい恐縮至極ではあるが、個人的な私見ながらもチェレステはイル・パエーゼ・ディ・バロッキ始めマクソフォーネ、ロカンダ・デッレ・ファーテと同系列な気質というか匂いを感じてならない。
冒頭1曲目から初期クリムゾンや初期ジェネシスばりの厳かで抒情的…尚且つ遥か彼方から残響の如く木霊するメロトロンをイントロダクションに、後を追いかけるかの様にヴァイオリン、アコギとピアノ、そして味わい深いヴォーカル、フルートが切々と畳み掛けながら展開する様はもはやチェレステ・ワールド全開と言わんばかりである。
仄かに明るくそしてどこか切ない序盤と中盤を経て終盤は憂いと寂寥感に満ちたアコギとフルート、そしてサックスに荘厳なるメロトロンで締め括られる展開は何度聴いても感銘を呼び起こされ心打たれる秀逸なナンバーである。
アープシンセサイザーが奏でるカリカチュアな音宇宙に導かれる2曲目も大作志向の印象的なナンバーで、不穏なコーラスワークと牧歌的なメロトロンが被さる一見アンバランスな危うさこそ感じるものの、クリムゾンの宮殿ばりのメロトロンで一気に集約され、しゃがれたヴォーカルと感傷的なアコギとフルートで高らかに謳われるフォークタッチな曲想はリリシズムの中にほろ苦さが感じられ、子供達の囁き…集落に住む人々の息づかいにも似た効果音と相まってメルヘンの中にも奥深さが感じられ、パイプオルガン風なシンセ(エミネント)によって演劇でいう場面展開が変わって、かのイル・パエーゼ・ディ・バロッキの唯一作にも似通った…再び現実の厳しい世界に引き戻された様な虚しさと寂しさすら禁じ得ないと思うのは私だけだろうか。
アナログLP盤でいうA面最後を飾る3曲目の小曲も意味深な佇まいの曲想で、アコギと幽玄なコーラスそしてフルートによって希望と虚無感が切々と謳われ、壮麗なメロトロンとアープによる転調を合図にアコギとベース、フルートが聴く者の脳裏に再び一筋の光明を与えてくれる事だろう。
雨音を連想させる様なアコギとピアノに導かれ、ベース、パーカッション、コーラス、アープ、ヴァイオリン、フルート、リコーダーメロトロンが矢継ぎ早に幾重にも折り重なる大曲志向の4曲目も実に素晴らしい。
同レーベル所属のピッキオ・ダル・ポッツォにも似たアコギの感傷的なアンサンブルに喧騒的なサックスの乱舞、そしてメロトロンが被さる様は何度聴き返しても理屈云々なんて抜きに筆舌し難い感動と溜息しか出てこない…。
ピアノにメロトロン、アコギ、ドラム、そしてアープによるスペイシーな空間と静寂によって収束されたかと思いきや、ここで初めて登場のエレクトリックギターで一変してカンタウトーレ風な歌物へと転調する流れに、改めてチェレステ・ワールドの引き出しの多さに、兎にも角にも感服する事しきりである。
4曲めのフェードアウトをブリッジに前触れもさり気も無くアコギとヴォーカルが入ってくる5曲目も秀逸である。
Ciroの巧みなパーカッション・ワークにメロトロンとアープが厳かに被ってくる絶妙なメロディーラインと落涙必至なリリシズムに筆者である私自身言葉が出てこないから困りものですらある(苦笑)。
鈴を主体としたパーカッション群の摩訶不思議な雰囲気に包まれた6曲目は、次第にアープによる神秘的な音色をバックにベースとアコギ、フルートが追随し、抒情で牧歌的なイタリアン・フォークが陽光の匂いを伴ってハートウォームに謳われる佳曲と言えよう。
ラストを飾る7曲目はチェレステらしい意外性を伴った僅か1分少々の小曲で、アコギをバックにしみじみと謳われながらも、フルートとパーカッションによるコミカルでユーモラスなリズムとアクセントが付けられた、さながら蚤の市でのコントなやり取りの一場面をも想起させ、全曲聴き終えた時にリスナー諸氏はきっとオーディオシステムの前で拍手喝采を贈る事だろう。
こうしてチェレステの記念すべきデヴューアルバムは、内容の素晴らしさも手伝ってグロッグレーベルサイドによる懸命な販促の甲斐あってか、セールス的にも4000枚前後売り上げるというまずまずの成果は上げたものの、スタジオワークのみという想定だったが故にステージライヴ活動が行えないといったジレンマがチェレステの面々を悩ませたのは言うまでも無かった
そういったデヴュー作での反省点を踏まえ、次回作はデヴューとは全く異なったサウンドスタイルでライヴでもしっかりと演れる作風で行こうと発奮し、翌1977年セカンドアルバムの着手に取り掛かり、新たにドラマーとしてFrancesco Dimasi を迎えた5人の布陣で心機一転ジャズロックなアプローチを試み録音に臨んでいたものの、不運にもレコーディングを終えたと同時にStudio G並びグロッグレーベルの閉鎖(倒産)で、完成したマスターテープ自体も宙に浮いたままお蔵入りになるという憂き目に遭ってしまう。
レーベルとスタジオの閉鎖ですっかり意気消沈してしまった彼等は心身ともに疲弊しきっていた事も重なって、次第にシーンの表舞台から遠ざかる様になり、チェレステはあたかも櫛の歯が一本々々抜けていくかの様に空中分解への道を辿ってしまった次第である。
あれだけ我が世の春を謳歌し黄金時代という栄華を築いたプログレッシヴ・ロックやイタリアン・ロックシーンも、オイルショックから端を発した音楽業界の様変わりに加えて、商業路線やら産業ロックに右倣えとばかり時流の波に乗って、結果イタリアのみならず全世界中のプログレッシヴ・ムーヴメントは完全に停滞期に入ってしまい、今にして思えば純粋無垢なチェレステの解散と時代的にぴったりリンクしているみたいで、さながら滑稽とでもいうのか何とも皮肉な思いがしてならない…。
そんな悪夢の様なプログレッシヴ低迷期+アンダーグラウンド移行期を思わせる80年代初頭から徐々にイギリスのポンプロック勃発を皮切りに、プログレッシヴ・リヴァイヴァルの気運が一気に高まり、80年代中盤ともなるとイタリアにもプログレッシヴ復興の兆しが訪れ、極僅かにテープ作品のリリースで生き長らえていた次世代の台頭と共に70年代イタリアン・ロックが再び見直され、アナログLPないしCDへと移行した再発、90年代ともなるとプログレッシヴ専門のレーベルが軒並み発足され新旧のバンドが揃って店頭に並ぶなど、イタリアン・ロックは70年代と同じ位の熱気と創意を取り戻し再び息を吹き返して21世紀の今日までに至っている次第である。
イタリアン・ロック復活の思いと気運は当然チェレステサイドにも大きな転機と変化を及ぼし、グロッグレーベル閉鎖と共にお蔵入りしていた2ndアルバムが、時を経て1991年Mellowレーベル前身のM.M. Records Productionsより、実に14年振りに『Celeste II 』として陽の目を見る事となり、翌1992年にはMellowレーベル(Mellow発足と創設にあっては、かのCiro Perrino自身も大きく関わっていたのは有名な話)より前出の1974年に録音された映画のサントラ用音源も未発アイテム系の一環として『I Suoni In Una Sfera 』というタイトルでCD化され、その後は矢継ぎ早にチェレステのデヴュー作もイタリア盤或いは日本盤でCDリイシュー化へと見事に繋がった次第である。
当初アナログLPのみのリリースだった『Celeste II』も、2006年ジャケットアートの変更と共に装い新たにボーナストラックが収録された『Celeste Sec』としてリイシューされ、更には2010年リーダーCiro Perrino監修と編さんによるIL SISTEMA時代含めチェレステ、そしてバンド解散後にCiro自身が参加していたSt. Tropez期の音源が4枚組CDとして収録された『Celeste:1969-1977: The Complete Recordings』までもがマストアイテムとして世に出る事と相成って、いつしか自然と本家チェレステとしての復活を願う声が囁かれる様になったのはもはや言うには及ぶまい。
Ciro自身も若い時分、時代に翻弄されていたとはいえ2ndアルバムを良くも悪くもあの様なサウンドスタイルで創ってしまった事は不本意であったと思っていたに違いない。
心の中で葛藤し何とかして自らの心の中のわだかまりを消し去るには、自らが納得した形と音楽環境で明確な答えを出さなければならないと決意し、こうしてCiro自身孤軍奮闘の日々が始まり、自身以外のメンバー全てを刷新した10名近い大所帯でチェレステは復活再結成され、2019年の新しい年の始まりと共に届けられた、1976年のデヴューアルバムに続く正統の流れと作風を汲んだ、実に43年振りの実質上の新作『Il Risveglio Del Principe 』を今こうして何度も繰り返しては聴いては感動の大海に身を委ねている今日この頃である。
宣伝めいた書き方で些か気恥ずかしさを感じているが、お陰様で日本盤SHM=CD並びイタリア輸入盤CDとLPも大変嬉しい事に今もなおロングセラーを記録している昨今である。
更に喜ばしい事に、Ciroが1970年代後期に作曲として携わったSOLARE なる音楽プロジェクトの未発テープ音源が、装いも新たにCiro自身のソロワークプロジェクト「PLANETS(SOLARE)/ EARLY TAPES 」として復刻CD化されるという吉報までもが舞い込んで、近年のCiro並びチェレステ周辺はまぎれもなく活況著しく賑やかであるといった今日この頃である…。
あの日夢見た純白の世界の白馬の王子が再び大勢の聴衆の前で帰還する日が来る事を願って止まないと共に、昨年突然のメッセージを送ってくれたCiro Perrinoとの友情と信頼に何とかして応えてやらねば…そんな思いが日々募る2019年末12月の暮れの空の下である。
Sono sinceramente grato per la mia amicizia e fiducia con Ciro Perrino.
Grazie mille.
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24,2020
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今週の「一生逸品」は、70年代イタリアン・ロック黄金時代に於いてひと際異彩を放ち、21世紀現在もなお熱狂的にしてカリスマさながらな人気を誇り続け、近年再結成を果たしながらもイタリアン・ヘヴィプログレッシヴ孤高の雄にして頂と言っても過言では無い“ビリエット・ペル・リンフェルノ ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
BIGLIETTO PER L'INFERNO
/ Biglietto Per L'inferno(1974)
1.Ansia/2.Confessione/ 3.Una Strana Regina/
4.Il Nevare/5.L'Amico Suicida/6.Confessione(Strumentale)
Giuseppe“Baffo”Banfi:Key
Marco Mainetti:G
Claudio Canali:Vo, Flute
Giuseppe Cossa:Key
Mauro Gnecchi:Ds
Faust Branchini:B
21世紀の現在もなおカリスマ的人気・絶大なる支持を得ている、イタリアン・ロック界きってのヘヴィ・プログレッシヴの雄ビリエット・ペル・リンフェルノ。
直訳で「地獄への片道切符」と名乗る彼等の詳しい経歴・バイオグラフィーは、現時点で判明している限りの情報で恐縮だが、1972年にミラノからやや北側に位置する地方都市レッコで活動していたハードロック系の2バンドGEEとMACO SHARKSが翌73年に合体して結成されたもので、イタリア国内で度重なるギグをこなしつつ人気と実力を付けた後、翌年の1974年新興レーベルのトリデントから唯一の作品をリリース。
デヴュー作リリース以降も更に精力的な演奏活動をこなしつつ、このまま順風満帆な軌道の波に乗って次なる2作目までに漕ぎつけたかと思いきや、肝心要のホームグラウンドでもあったトリデント・レーベルの倒産閉鎖という憂き目に遭い、活動年数もたった僅か1年経過したかしないかみたいな…2作目に向けた録音がほぼ9割方終わっていたにも拘らず宙ぶらりんな状態のまま、メンバーは失意とどん底の狭間に苦悩しつつ解散せざるを得ない状況にまで追い込まれたのは最早言うまでもあるまい。
名実共に本作品はムゼオ・ローゼンバッハ『Zarathustra』、イル・バレット・ディ・ブロンゾ『YS』と並ぶイタリアン・ヘヴィ・プログレッシヴ系の傑作にして名作であるが、決して技巧的なテクニックを持ち合わせているという訳でもなく、録音状態も時代性背景云々やらお世辞を抜きにしても決してベストとは言えないだろう…。
にも拘らず、現在でもなお多くの根強いファン並び新たなファン層を獲得し名声を得ているのは、本作品の根底にある邪悪な雰囲気の中にも抒情的な美しさが混在している処にあるのかもしれない。
それはあたかも…激しくも攻撃的なアグレッシヴさとどこか崇高で浪漫深いリリカルさの二面性を如実に表しているかの様だ。
一部では、昨今のゴシック・メタルないしドゥーム・メタルの元祖的存在と謳われているものの、安易に形を繕った表層的且つ見てくれそのもの的な類よりも、技術的マイナス面を差し引いても彼等の方が数段強い邪悪なインパクト丸出しながらも楽曲的に完成度が遥かに高いのも頷ける。
余談ながらもイタリア原盤のLPでは全5曲の収録だが、近年のCD化に際しボーナス・トラックとして2曲目“Confessione”のインスト・リミックス・ヴァージョンがラストに収められているが、恐らく当時は大人の事情とでもいうか、収録時間と製作予算諸々等の関係で泣く泣くカットされたものではと推測される。
本作品収録の全曲とも、ツインKeyが…ギターが…フルートが…リズム隊が互いにぶつかり合い・せめぎ合いながらも、寄せては返す波の如く…押しと引きのバランスが見事に調和しており、いかにもイタリア的なたおやかさと抒情味たっぷりな出だしから、いきなり転調し牙を剥いて襲いかかるかの如くヘヴィで攻撃的、邪悪な雰囲気を醸し出していると言ったらお分かり頂けるであろうか…。
特にその傾向が顕著に見られる2、3、5曲目は背筋が凍りつく位に震撼し感動・興奮すること受け合いにして聴きものであり、改めてビリエットというバンドの面目躍如にして真骨頂と言えよう。
ビリエット解体後の各メンバーのその後の動向は、一番有名なところでツインKeyの片方でもあるGiuseppe“Baffo”Banfiが、ドイツのクラウス・シュルツェのレーベルからシンセサイザー・メインのソロを何作か出しスタジオ・ミュージシャンへ転向後、更にはサウンド・エンジニアを経てそれと併行して自らの映像製作会社を設立し現在に至っている。
もう一人のKey奏者でもあるGiuseppe Cossaは音楽学校で教鞭を取り後進の育成に当たっており、ギタリストのMarco Mainettiは音楽業界から身を引いてコンピューター・エンジニアへ、ベーシストのFaust Branchiniはバンド解体後一時兵役に就き、除隊後幾つかのジャズ・グループに参加するも現在はすっかり音楽界から身を引いて音信普通との事。
ドラマーのMauro Gnecchiは今もなお現役のジャズドラマーとして、PFMのフランコ・ムッシーダのソロに参加したり数々のジャズセッションに参加している。
そしてビリエットの邪悪な部分の要ともいえるClaudio Canaliに至っては1990年近くまで音楽活動していたとの事だが、現在は音楽界のみならず俗世間からも離れて、何とも実に意外な転身を遂げキリスト教会の修道士として布教活動に勤しんでいるというから意外といえば意外である。
かつては“地獄”やら“邪悪”をテーマに謳って(歌って)いたClaudio自身がよもやその真逆ともいえる神に仕える神父として従事しているのだから、改めて人生や運命とはどこでどう転ぶか解らないものである。
余談ながらも…デヴュー作のジャケットでペインティングされた飛び上がる男のフォトグラフのモデルは、かのClaudio自身であるという事も付け加えておかねばなるまい。
かつては…入手が極めて困難で、幻のレーベルからのまさに幻と伝説的(カリスマ的)な存在とまで言われた彼等ではあったが、バンドそのものが既に消滅し不在と言われながらも、現在までもなお燻し銀の如く光り輝き私達をも惹き付けているその魅力とはいったい何であろうか…?
トリデント・レーベルに唯一の作品を遺し解散してから18年後の92年には、かのお蔵入りしていたままの幻の2nd音源がメロウレーベルの尽力により『Il Tempo Della Semina 』なるタイトルでCDリイシュー化され、それと前後してビリエットのファン・クラブの手により、本作品もリミックス・リマスタリングされジャケも若干装いを新たにLP盤による再発を遂げている。
その後、未発の2作目と同様にデヴュー作もヴァイニール・マジックからもCD再発され、2作品共後々年数と回を重ねる度にデジタルリミックス→紙ジャケット→SHM-CDへと移行し時代にマッチした音質として改善・向上され、果ては先のファン・クラブが中心になって…1st~2ndからの選曲+未発表曲も含めた、当時の秘蔵ライヴ映像・未公開映像・プロモ云々を収めたCD+DVDボックスもリリースされており、それらの作品媒体がリリースされる度に時代を超えて新たなファン層をも開拓し増やしているといった様相を呈している。
ちなみに、そのCD+DVDボックスのビデオ撮影はKey奏者だったGiuseppeが一切合財手掛けたものである。
終わることの無い伝説に拍車が掛かり、熱狂と興奮の坩堝はラブコールとなって彼等の復帰再結成の原動力へと変わり、カムバックに必要な時間を要としなかったのは言うまでも無い。
2010年の幕開けと共に届けられた再結成の復帰第一作でもある『Tra L'Assurdo E La Ragione 』は、かつての主力メンバーだったGiuseppe“Baffo”Banfi始め、Giuseppe Cossa、Mauro Gnecchi3人を核に、女性ヴォーカリストのMariolina Salaを含む新メンバーを加えバンド名を装いも新たにBIGLIETTO PER L'INFERNO.FOLKと改名し、イタリア北部地方のトラッド・ミュージックのエッセンスと往年のヘヴィ・プログレを融合させた、21世紀に相応しい新機軸を打ち出している。
更にはかつてのヴォーカリストで現在修道士に勤しんでいるClaudio Canaliが緊急ゲスト参加し、彼のペンによる新曲及び未発曲が収録されているのも実に興味深い…。
5年後の2015年には前作のメンツだったMariolina Sala、Giuseppe Cossa、Mauro Gnecchiに加え、オリジナルヴォーカリスト兼フルートにClaudio Canaliが正式に参加し、多数ものゲストプレイヤーを迎えた現時点での新作『Vivi. Lotta. Pensa. 』をリリース(バンドネーミングも再びビリエット・ペル・リンフェルノ名義に戻している)。
収録されている曲の大半がかつてのナンバーのセルフリメイクで占められており、時代の変遷と共に幾分穏やかになった感を与え、かつての邪悪さこそやや薄れたものの、そのカラフルながらも毒々しい胡散臭さを思わせるアートワークの意匠に、イタリアン・ロック40年選手らしいプライドと底力が垣間見れて、新旧アーティストが混在している今日のイタリアのシーンに於いてもその異色たる健在ぶりを示しているのが実に嬉しくも頼もしい限りである。
この本文を御覧になっている方々…並び地獄への片道切符を手にした者、そして地獄への入り口に魅入られた者…ビリエット・ペル・リンフェルノの描く地獄絵図の如き音の迷宮世界は、麻薬に溺れる危険な魅力にも似た、時代と世紀を越えた決して終わる事の無い無限地獄の回廊へと続き、これからも聴く者の脳裏に漆黒の闇と禁忌でエロスな時間と空間を刻み付けていく事だろう…。
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11,2020
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今週の「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロックの第一次黄金時代に於いてニュー・トロルスやオザンナと共に名門大手のフォニット・チェトラレーベルの一時代を支え、ヒッピーカルチャームーヴメントの申し子だったデヴュー期から、紆余曲折を経て自らのスタイルで時代を切り拓きつつプログレッシヴへの信条と真髄を貫いた、唯一無比なる孤高の個性派集団“デリリウム ”に再びスポットライトを当ててみたいと思います。
DELIRIUM
(ITALY 1971~)
Ivano Fossati:Vo, Flute, Ac‐G, Recorder, Harmonica
Mimmo Di Martino:Ac-G, Vo
Marcello Reale:B, Vo
Ettore Vigo:Key
Peppino Di Santo:Ds, Per, Vo
イタリア音楽界老舗大手のリコルディ始めヌメロ・ウーノ、果ては外資系のポリドール・イタリアーナ、数々のレアアイテムを輩出したRCAイタリアーナ…等を含め、有名無名大なり小なり数々のレコード会社からの後ろ盾で、イタリア国内から長命短命を問わず幾数多ものプログレッシヴ・バンドが世に躍り出て、文字通り70年代のイタリアン・ロックの栄華と隆盛は前述のレコード会社とレーベルが貢献した(ひと役買った)と言っても過言ではあるまい。
前出のリコルディやヌメロ・ウーノに引けを取らず、数々の傑作級名盤を世に送り出したワーナー傘下の老舗フォニット・チェトラも然り、ニュー・トロルスやオザンナ、果てはRRRといった現在もなお現役バリバリで精力的に活動しているアーティストを抱え、第一次イタリアン黄金時代の片翼を担った役割は大きいと言えるだろう。
当時チェトラレーベルが擁していたニュー・トロルス、オザンナと並ぶ人気バンドで、実力と演奏技量、知名度共に申し分無く、イタリア国内では今もなお絶大なる根強い人気を誇っている今回本篇の主人公デリリウムも、チェトラ・レーベルが持つ多種多才な音楽色に更なる彩りを与えた存在として、その名を克明に刻み付けているのは周知の事であろう。
イタリアとの温度差とでも言うのだろうか…日本ではトロルスやオザンナと比べると今ひとつパッとしない印象は拭えないのが正直なところであるが、多分にクラシカル・ロック、カンタウトーレ、ジャズといった様々な素養を内包しつつ、良い意味でオールマイティーにソツ無くこなしており…悪い意味でどっち付かずな散漫な印象を与えているのかもしれない。
まぁ…良し悪し抜きにそれこそがデリリウムらしいスタイルと言ってしまえばそれまでであるが(苦笑)。
デリリウム結成当時のオリジナルメンバー兼リーダー格でもあり、21世紀の今もなおイタリア音楽界の重鎮にしてカンタウトーレ界の大御所と言っても過言では無い大ベテラン中の大ベテランIvano Fossati。
デリリウム結成前夜ともいえる60年代末期、Ivano Fossatiは自身の出身地ジェノヴァにて後にニュー・トロルスのメンバーとなるNico Di Paloと共にザ・バッツなるバンドで経歴をスタートさせる事となるが、バッツ時代は主にストーンズや自国のディク・ディクのカヴァーを中心に活動するも、後にニュー・トロルス結成へと向かうNicoと袂を分かち合い、Ivanoは旧知の間柄でもあったMimmo Di Martinoを始めとする4人のメンバーと共に、射手座を意味するI SAGITTARI(イ・サジッターリ)なるバンドを結成し、その後理由は定かではないが程無くしてIvanoの提案でデリリウムへと改名、同年の1971年ラジオ・モンテカルロ主催のロック・コンテストで優勝を獲得し、その後数々のロック・コンテストで立て続けに入賞を連発させる。
ちなみにこの時のオリジナルデヴュー曲に当たるタイトルはバッツ時代にNicoとの共作でもあった「Canto Di Osanna」で、改めて思うにこの当時からトロルス始めオザンナ、デリリウムも既に見えない運命の糸で結び付けられていたかの様な、不思議な縁とでもいうのか繋がりを感じてならない…。
デリリウムの人気と知名度が一気に高まり、バンドサイドもその追い風を受けて漸く軌道に乗り始めた時同じくして、フォニット・チェトラ側のフロントマンの目に留まった彼等は、チェトラとの契約を交わし1971年『Dolce Acqua 』で堂々たるデヴューを飾る事となる。
Ivanoの優しくも憂いを帯びたヴォーカルとタル影響下を彷彿とさせるフルートに追随するかの如く、ロック、ジャズ、クラシック、カンタウトーレといった音楽的素養を内包した抒情的なメロディーラインが彩る独特の音世界は、同時期にリリースされたPFM『Storia Di Un Minuto』、オルメ『Collage』、そしてオザンナのデヴュー作と並んでチャートを争う事となり、結果セールス面で4位を獲得するというデヴュー作にして大健闘を成し遂げたのは言うに及ぶまい。
明けて翌1972年、イタリア国内外で異例の大ヒット曲となった「Jesahel(ジェザエル) 」を引っ提げてサンレモ音楽祭に出演したデリリウムは聴衆からの絶大なる喝采を浴び、音楽祭以降も様々なロック・フェスティヴァルに出演し彼等自身の人気はますます鰻上りに上昇し一躍スターダムへの座へと上り詰めた次第である。
が、そんな上り調子のさ中Ivanoが一時期の間イタリア軍の兵役に就かなければならなくなり、リーダー格でもありフロントマンを欠いたデリリウムはデヴュー間もなく大きな岐路と転換期を迎える事となる。
余談ながらも、デヴュー作で描かれた摩訶不思議で一種独特のアートワーク…さながら当時世界中を席巻していたヒッピーカルチャーと神への帰依を示唆した様なユートピア志向も然る事ながら、改めてYoutubeで72年当時のサンレモ音楽祭でデリリウムが謳った「Jesahel」の画像を見直してみると、バックコーラス隊のインディオ風ないでたち=ヒッピームーヴメントの片鱗というか、時代の大らかさと空気感が窺い知れて非常に興味深い。
話は戻って兵役の為デリリウムを去ったIvanoではあったが、音楽への情熱は決して冷める事無く程無くして軍楽隊に所属しフルート奏者として活躍した後、兵役を終えて除隊後の活躍は既に御存知の通りカンタウトーレとして大成功を収め、現在もなおソロシンガーとして20枚以上ものアルバムをリリースし、イタリア国内の様々なアーティストに楽曲を提供、プロデュースからアレンジャーと多方面で活躍し現役バリバリに活躍している。
一方のデリリウムは72年Ivanoの抜けた後釜としてイギリス人のサックス兼フルート奏者Martin Griceを迎え、曲によってメンバー全員が代わる々々々持ち回りでヴォーカルを担当するというスタイルへと移行し、同年2ndの『Lo Scemo E Il Villaggio(愚者と村) 』、そして間を置いて同メンバーで1974年に3rd『Delirium Ⅲ:Viaggio Negli Arcipelaghi Del Tempo 』という2枚の素晴らしい好作品をリリース。
前者の2ndはオーケストラパートを一切配せずあくまでバンドオンリーの演奏が主体となっており、デヴュー作では幾分抑え気味だったハモンドやメロトロンといったキーボードパートが2枚目の本作品ではかなり前面的に押し出した形でフィーチャリングされ、新加入のMartin Griceの白熱の演奏も聴き処満載である。
後者の3rdはデリリウムとオーケストラパートが渾然一体となった、より以上にドラマティックでシンフォニック・ロック色を強めた作風で、さながらニュー・トロルスの『Concerto Grosso』シリーズやRDMの『Contaminazione』とはまたひと味もふた味も違った、ロックとオーケストラとの融合美と更なる可能性、或いはバンドの意欲的な姿勢すら垣間見える秀逸な一枚に仕上がっている。
しかし悲しいかな…バンドサイドの思惑とは裏腹に、Ivanoというフロントマン無き後決して臆する事無く心機一転+脱ヒッピーカルチャーを目指してリリースした2ndと3rdも、楽曲の素晴らしさとは相反するかの如く予想外にセールスが伸び悩み、彼等の果敢な努力も空しく敢え無く失敗に終わってしまう(早い話、素晴らしい音楽が決してヒットと好結果に結び付くとは限らないという事であろう、実に悔しい限りではあるが…)。
2ndと3rdリリース時にシングルカット向きの曲を出さなかった事も一因している向きもあるが、安易にシングルを売りにする様な生温い姿勢のままでは流石に彼等とて我慢ならなかったのかもしれない。
結局彼等デリリウムは恩義を受けたフォニット・チェトラの面子を潰したくなかったが故に自主的にレーベルを離れる事となり、以後は新設されたばかりのAGUAMANDAなるレーベルに移籍しアルバムを製作する事無くシングルヒット向きのナンバーをリリースしバンドの起死回生を図るものの、結局は成功とは程遠く深い痛手を負うばかりの失意と不遇の日々を送るという憂き目に遭ってしまう。
そして迎えた1975年、サウンドの要ともいえるキーボーダーEttore Vigoの脱退を機に、櫛の歯が一本ずつ抜け落ちるかの様にバンドは空中分解し、70年代末のイタリアン・ロック衰退期と時同じくしてデリリウムはこうして幕を下ろす事となる…。
皮肉な事にバンドは解散しても遺された作品群ばかりが後年再び見直されて、プログレッシヴ・ファンないしイタリアン・ロックの愛好家達から高い評価を受け相応な高いプレミアムで市場に出回る頃ともなると、フォニット・チェトラサイドからは1978年にシングルヒットした「Jesahel」を含めたベストアルバムがリリースされ、日本国内でもキングレコードのユーロ・ロックコレクションに於いて、ワーナーから一時的に権利が離れたチェトラレーベルの作品群(ニュー・トロルスやオザンナ)が大挙リリースされる運びとなるものの、惜しむらくはデリリウムの国内盤LPが遂にリリースされなかった事が何とも恨めしい(候補にはちゃんとしっかり挙がってはいたのだが…)。
後年マーキーのベル・アンティークやワーナー・ミュージックジャパンから国内盤CDがリリースされる時同じくして、イタリア国内でも80年代イギリスのポンプロック勃発から10年経過した90年代に再び巻き起こったイタリアン・プログレッシヴリヴァイバルに呼応する形で、70年代のレジェンド達がこぞって再結成・復活を果たし、御多聞に漏れず1999年デリリウムもドラマーPeppino Di SantoとベーシストMarcello Realeのオリジナルメンバーのリズム隊に加えて新メンバーのRino Dimopoli をキーボードに据えたトリオ布陣でヒット曲の「Jesahel」を含めた再録と新曲による復帰作『Jesahel』で久々にイタリアン・ロックシーンに返り咲く事となる。
まあこの頃ともなるとチェトラレーベルを含む様々な各方面よりデリリウム関連の編集盤、ベストコンピ企画物が大挙出回るという背景もあっていろいろと情報整理するだけでも至難の業である(苦笑)。
結果的には一時的な復帰作『Jesahel』も企画物系の一環として、正式な復帰とは程遠い体裁であるのが正直なところであろう。
が…イタリアン・ロック復興という時代の流れを追い風に、21世紀を迎える頃ともなるとデリリウムのメンバー周辺が俄かに慌しくなってくる。
ドラマーPeppino Di Santoの鶴の一声よろしくの呼びかけで、ミュージカルや舞台関係で手腕を発揮してきたEttore Vigoを始め、Martin Griceが再び集結し、新たなギタリストとベーシストに加えて、一曲のみのゲスト参加として長年苦楽を共にしてきたMimmo Di Martinoという布陣で、2009年かのダーク・プログレッシヴ系を多く抱えるBlack Widowからの招聘で遂に正式な再復活作『Il Nome Del Vento 』をリリースし、並み居る70年代レジェンド・イタリアンの復活劇に於いて強烈なインパクトを与えたのは最早言うには及ぶまい。
6年後の2015年にはEttoreとMartinの2人を核に新たなドラマーとギタリスト、そして(現時点では正式なメンバーか否かは定かではないが)ラ・マスケーラ・ディ・チェラよりヴォーカリストのAlessandro Corvaglia を迎えた6人編成で最新作の『L'Era della Menzogna 』をリリースし、翌2017年の8月12と13の両日プログレッシヴ・ライヴの殿堂川崎クラブチッタにて開催の“ザ・ベスト・オブ・イタリアン・ロック サマー・フェスティヴァル 2017 ”にて遂に待望の初来日公演を果たした次第である。
デリリウム初来日公演から早いもので3年が経とうとしているが、現時点に於いて彼等からの新作リリースに関する情報やらアナウンスメントが聞かれなくなって実に久しい限りである(ネットやらSNS全盛という御時世であるにもかかわらず…)。
あたかもそれは新たなる動きへの予兆なのか、或いは熟考と熟成を重ねた更なるデリリウムの進化系としてリハーサルとレコーディングの真っ只中なのか、それを知る術は誰しもが皆目見当付かないのが正直なところではあるが、確実に言える事は…今はただ彼等を信じて待ち続けるしかないという言葉に尽きるであろう。
そしていつの日かまたシーンに返り咲きその雄々しき姿を現すまで、彼等が目指す飽くなき挑戦を我々は長い目で見守り続けていこうではないか…。
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