幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 10-

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 10月第一週目の「夢幻の楽師達」をお届けします。
 今回は過去に2度の来日公演を果たし、結成当初の70年代から21世紀の今日に至るまで、かのラッシュと同様、初期におけるキーボードレスという独自の一貫したスタイルから、如何にしてプログレスなスピリッツを構築する事が出来たのか?
 そのサウンド・スタイルの変遷から一時的な分裂劇、そして2003年のオリジナルメンバーによる再編から今日までの道程を経て、名実共にスカンジナビアン・ロック界きってのプログレッシヴ・ハードロックの雄としてその名を世に知らしめた“トレッティオアリガ・クリゲット”に今再び焦点を当ててみたいと思います。
 
TRETTIOÅRIGA KRIGET
(SWEDEN 1974~) 
    
  Stefan Fredin:B
  Dag Lundquist:Ds,Per
  Christer Akerberg:El & Ac‐G
  Robert Zima:Vo,G

 今更言及するまでもないが、70年代初頭から中期にかけてプログレッシヴもハードロックも全て、(良い意味で)一括りに“ロック”というカテゴリーの枠組みで片付けられていた様に思う。
 後にプログレッシヴやらハードロック、ヘヴィ・メタル、果てはグラム・ロックやらパンク、ニューウェイヴ…等と極端なまでに細分化され始めたのは概ね77年を境ではなかろうか…。
 21世紀の今にして思えば、プログレとかハードロックだからといった境界線の無い、ある意味においてボーダーレスとも言えた70年代のロック黄金時代の方が遥かに幸せで自由な独創性に満ち溢れていたのかもしれない。それは…イギリスにしろアメリカにしろ日本やヨーロッパ諸国然りであるが。
 そんな時代背景のさ中の1970年、北欧スウェーデンでも御多分に漏れず、首都ストックホルムを拠点にプログレッシヴやハードロックといったジャンルに縛られる事無く、それら全てを内包した独自の昇華したスタイルで真っ向から勝負を挑んだ4人の若者達…Stefan Fredin、Dag Lundquist、Christer Akerberg、そしてRobert Zimaは、“トレッティオアリガ・クリゲット=「30年戦争」”という何とも意味深なネーミングで一躍北欧のロックシーンに躍り出た次第である。
             
 なお上記4人のバンドメンバーに加えて…正式なクレジットこそされてはいないものの実質上5人目のメンバーでもある作詞担当のOlle Thornvailだけは結成当初から滅多に表舞台やフォトグラフに登場する事無く、クリムゾンのピート・シンフィールドよろしく彼もまた縁の下の力持ち的役割にして、あくまで黒子的、バックアップ・サポーターに徹する事を信条(身上)としたかったのかもしれない。
 ちなみにOlle自身、トレッティオアリガで作詞家に専念する以前はギターやハーモニカ等もプレイしていたそうな…。
 バンドそのものは70年の結成当初から、殆どの作曲を手掛けるベーシストのStefanと同じく作曲兼アレンジャーのドラマーDag、作詞のOlleの3人を中心に、何度かのメンバーチェンジを経て71年にオーストリア出身のヴォーカリストRobertが加入し、そして翌72年にギターのChristerが加入して、ここに黄金時代不動のメンバーが揃う事となる。
 彼等のサウンドのバックボーンとなっているのは、やはりブリティッシュ系…特に世界的ビッグネームとなったレッド・ツェッペリンないしユーライア・ヒープといったハードロックに、イエスやキング・クリムゾンといったプログレッシヴのエッセンスを融合した唯一無比の音世界を醸し出している…と言ったら当たらずも遠からずといったところだろうか。
 ヴォーカルのRobertの歌唱法は、時折モロにデヴィッド・バイロン入っているところが多々あるところも注目すべきであろう。そんな強力な布陣で1974年、“30年戦争勃発”の如くバンドネーミングを冠したデヴュー作『Trettioåriga Kriget』は厳かな戦慄(旋律)と共に幕を開けたのは言うまでもなかった。
 加えて余談ながらも…同年にはカナダのラッシュもデヴューを飾っている事も不思議な偶然といえば偶然ではあるが。
 ブリティッシュナイズされたヘヴィなサウンドに加え、スクワイアばりのゴリゴリなベースや怪しくも幽玄で儚げなメロトロン(恐らく演奏はStefanであろう)が融合する様は、後期クリムゾンで聴かれた金属的な時間の再現…或いはイル・バレット・ディ・ブロンゾの『YS』で感じられた悲壮感そのものと言っても過言ではあるまい。
          
 キーボードレスながらも高水準なプログレッシヴ系で思い出されるのは、イタリアのチェルベッロ始めフランスのイエス影響下のアトランティーデ、スイスのサーカスの特に2nd『Movin'On』なんて筆舌し尽くし難い音宇宙の緻密さには脱帽せざるを得ない。
 それら名バンドの傑作・怪作と並びトレッティオアリガの実質的なデヴュー作も、名実共にバンドとしても北欧ロックシーンを語る上でも最高傑作でもあり名作という称号を得ているが、一部のファンの間では既に有名になっている逸話…実はデヴュー作以前にデモ・プレス製作止まりながらも72年に『Glorious War』という幻のデヴュー作が存在している事も忘れてはなるまい。
 勿論、後年ちゃんとしっかりCD化されてはいるが、残念ながら今では入手困難でなかなか拝聴する事もままならないらしい、理由は定かではないが…。
 文字通り衝撃のデヴュー作で初陣を飾ったトレッティオアリガの快進撃は更に加速し、翌75年には更に攻撃度と抒情性を加えて以前にも増してリリシズムとメランコリックさが際立った、前作と同様甲乙付け難い位の傑作2nd『Krigssång』をリリースし、一見地味めなカヴァーながらもスウェーデンにトレッティオアリガ在りと知らしめるには十分なインパクトを持った会心の一枚と言えよう。
     
 しかし…これだけ精力的な創作・演奏活動をこなしてきたにも拘らず、2作目リリースを境に暫く約3年近い沈黙を守り、1978年新たにキーボード兼サックス奏者のMats Lindbergを加えた6人編成で製作された3rd『Hej På Er !』は、幾分リラックス的な雰囲気を漂わせつつ、ヘヴィでハードな要素は従来通りながらもMatsが加わった事でクロスオーヴァーな要素を融合させて新たな新機軸を模索しようとした試みは、周囲からは賛否両論の意見真っ二つに分かれ、ある方面からは時代に呼応した安易なポップ化などと揶揄される始末である。決して出来は悪くないが、明らかにバンド側の意向・思惑とファンの側が望むものとは相違の差が表面化した分岐点ともいうべき佳作である事に変わりはあるまい。
     

 以後、バンドは時代の波に流されるかの如く、『Mott Alla Odds』(79)、『Kriget』(80)といった…次々と良くも悪くも親近感というか如何にもセールス面やらヒットチャートを意識した作品を立て続けにリリースし、その結果1981年のバンド内部分裂劇まで招き、遂には最悪バンド崩壊という憂き目を迎える次第である。リーダーのStefan自身もこの頃が一番辛い時期だったに違いない。
 バンド崩壊と前後してライヴと未発表曲を中心に集めた『War Memories 1972-1981』、そしてベストセレクション的コンピ盤『Om Kriget Kommer 1974-1981』をリリースし、メンバーはそれぞれ独自の道を模索すると同時に活路を見出していく事となる。

 まずリーダーでもあるStefan自身、バンド崩壊以後はソロアルバム『Tystlatna aventyr』と彼が手掛けた音楽による数々のシングルを多数収録したFREDIN COMPなるグループを結成。
 ドラマーのDagは、地元のテクノポップ・デュオADOLPHSON-FALKと暫く活動を共にし、バンド解散以後はスウェーデンのジャンルを問わず幾数多のバンドをプロデュースと併行して、後進の育成並びストックホルムにてDecibel Studios と呼ばれる彼自身のスタジオとプロダクションを運営、今日まで至っている。
 ギタリストのChristerはGEORGET ROLLIN BANDというロック・ブルースバンドを組みシングル1作のみを録音し、ヴォーカリストのRobertはバンド崩壊以前の1979年にグループを離れ、以降は自身の事業の傍らIN CASEと名乗る彼自身のカヴァーバンドを継続していた。
 作詞担当のOlleに至っては先にも触れたStefanのバンドFREDIN COMPにて創作活動を共にし、その一方で彼自身の名義で多数もの書籍を出版。
 2005年に『Lang historia』というトレッティオアリガ・クリゲットについての回顧録を出版している。
 3作目から加入したキーボード兼サックスのMatsはアルバム3枚をリリースしたTREDJE MANNENと呼ばれるPockeと共にシンセ・デュオを結成。その一方で音楽学校にて講師も働いている才人でもある。

 トレッティオアリガ・クリゲットという一時代を築いたバンドが、このまま“あの人は今…?”的な状態で忘却の彼方に追いやられ、人々の記憶から少しづつ消え去りつつあった21世紀。

 しかし時代の流れはそう簡単に彼等を見捨てたりはしなかった。

 ロイネ・ストルトによるフラワー・キングスと再編カイパ→現カイパ・ダ・カーポへの精力的な活動に加え、後年のイシルドゥルス・バーネの世界的成功、パル・リンダー等を始めとする新世代によるプログレッシヴ・ロックリヴァイバルの気運の波は、安っぽいドラマ的な言い方で恐縮なれど再び彼等をスウェディッシュ・プログレッシヴのメインストリームへ呼び戻す事と相成ったのは最早言うまでもあるまい。
 2003年、オリジナルメンバーによる突如とも言うべき…トレッティオアリガ・クリゲットの劇的再結成は活況著しい北欧のシーンにとって更なる強力な追い風となった。
 同年新録音の実に23年振りの新譜『Elden Av År』、4年後の2007年『I Början Och Slutet』、翌2008年には待望の2枚組にして初のライヴCD『War Years』、2011年『Efter Efter (After After)』…と快進撃を続け、往年のハードでヘヴィな旋律の中にも怪しくも幻惑的なリリシズムに支配された、大ベテランならではの深みと味わいが堪能出来る事であろう。
             
 文字通り“30年戦争”の看板を再び背負って復活した彼等は地元スウェーデンのみならず、アメリカ、メキシコ、他のヨーロッパ諸国のプログレッシヴ・フェスでも大絶賛と共に迎えられ、まさに向かうところ敵無しの状態と言っても差し支えあるまい。
                    
 1970年のバンド結成から順風満帆な時期を経て、大いなる挫折と苦難を味わい、そしてまた再びプログレッシヴというフィールドに返り咲いた彼等。“30年戦争”というバンドネーミングながらも、もう活動年数も早30年以上も経過してきた次第であるが、どんなに彼等が年輪を積み重ねようとも、彼等自身の闘いはまだ終わってはいないのである。
 どうかもう暫く…彼等トレッティオアリガ・クリゲットの飽くなき追求と進撃を見守ろうではないか。

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一生逸品 ATLAS

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 10月最初の「一生逸品」、今回お届けするのは、70年代後期の北欧スウェーデンに於いて自主リリース系のマイナー流通ながらも大きな話題を呼び絶大な人気を誇ったダイスと共に同時代のリアルタイムを歩んだもう一方の抒情派シンフォニックの雄で、ギリシャ神話に語られる地球を支える神をネーミングにプログレッシヴ衰退・停滞期という厳しい時代を生きた“アトラス”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。

ATLAS/Blå Vardag (1978)
  1. Elisabiten
  2. På Gata
  3. Blå Vardag
  4. Gånglåt
  5. Den Vita Tranans Våg
  
  Erik Björn Nielsen:Key
  Björn Ekbom:Key
  Janne Persson:G
  Uffe Hedlund:B
  Micke Pinolli:Ds

 北欧プログレッシヴ=“スウェーデンがメインストリーム”といった、暗黙の了解めいた図式が大なり小なり認識されている昨今ではあるが、過去を遡れば…70年代初期から中期に於いて、スウェディッシュ・トラディショナルをベースに独特のプログレッシヴなアプローチを打ち出したケブネカイゼ始めサムラ(ツァムラ)・ママス・マンナを筆頭に、メジャーな流通で世に躍り出た本格的シンフォニックのカイパ、そしてHR/HM路線を踏襲したヘヴィ・プログレシヴ系のトレッティオアリガ・クリゲット、更にはラグナロク、ディモルナス・ブロ等が台頭していた頃であった。
 その後は言うまでも無くスウェーデンの音楽シーンも御多聞に漏れず、70年代後期に差し掛かる頃にはパンク・ニューウェイヴの波が押し寄せ、そして後々にはNWOBHMの余波を受けた北欧メタルの台頭で、プログレッシヴを志す者達にとっては肩身の狭い思いにも似た苦難で辛い時代を迎える事となる。
 メジャーな会社からはプログレッシヴ・ロック流通の規模すら縮小され、徐々に自主リリースとマイナーレーベルからの流通へと移行しつつも有名処のダイスを始め、ブラキュラ、ミクラガルド、80年代に入るとオパス・エスト、カルティベーター、ミルヴェイン、アンデルス・ヘルメルソン、そして今や国民的バンドへと成長したデヴュー間も無い頃のイシルドゥルス・バーネ、果てはトリビュート、ファウンデーション…等が、地道に細々とスウェディッシュ・プログレッシヴ存続の為に心血を注いでいったのである。
 本文でも後述するが今日までの21世紀北欧プログレッシヴがあるのは、70年代後期から80年代にかけての受難の時代を生き長らえてきたからこその恩恵と賜物と言っても何ら異論はあるまい。

 そしてここに登場する今回本編の主人公でもあり、たった一枚の作品を遺したアトラスとて例外ではあるまい…。
 彼等アトラスが初めて我が国に取り挙げられ紹介されたのは、1980年5月刊行のフールズメイト誌Vol.12にて羽積秀明氏のペンによるディスクレヴューが最初であろう。
 当時は少ないまでの入荷枚数に加え乏しい流通ながらも、プレミアム云々も付いていないリーズナブルなレギュラープライスで比較的入手し易かったにも拘らず、(良くも悪くも)極一部のマニアのみしか行き渡らず、結果その後の再入荷も無く物珍しさも手伝って、一見するとややニューウェイブ然とした余りに貧相な…お世辞にもプログレッシヴの作品にしては美的センスの欠片も無いジャケットの意匠とは裏腹に、その内容と出来栄えの素晴らしさに売却したり手放さなかった輩が多かった為か、一時期はダイスと並ぶ幻の逸品と称されプログレ専門店の店頭ですらもお目にかかるのも至難で重宝がられた曲者級の一枚でもあった。
 仮に運良く目にする機会があっても5桁ものプレミアムは当たり前であったが故、90年代後期にたった一度だけCD化された事に心の底から現在でも有難みを痛感していると言っても過言ではあるまい。
 アトラス5人のメンバーのバイオグラフィーとその後の経歴と足取りにあっては、毎度の事ながらも誠に申し訳無く恐縮至極であるが、兎にも角にも全く解らずじまいなのが正直なところである(苦笑)。
 写真の感じからしてメンバー共々20代半ばから30代前半といったところだろうか…。
 楽曲の構成と展開を含めたスキルとコンポーズ能力の高さ、演奏テクニックの巧さと高水準な録音クオリティーから察するに、相当の熟練者…或いはスタジオ・ミュージシャンの集合体といった説もあるがそれも定かでは無い。
 彼等のサウンドを耳にする度に連想するのは、やはりイエスやキャメル…果ては同国のカイパからの影響が大きいと言えるだろう。
 イエスのポップなキャッチーさとキャメルの抒情性、カイパの北欧色を足して3で割ったと音楽性と作風と言ったら些か乱暴であろうか…。
 同時代性という意味ではオランダのフォーカス辺りからも触発された部分があるのかもしれない。
 フィンチやセバスチャン・ハーディー、果てはクルーシスといったインストゥルメンタルに重きを置いたリアルタイム世代バンドと聴き較べてみるのも良いかもしれない。
          
 冒頭1曲目、街の静寂それとも白夜の黄昏時…或いは雪深い森の遥か彼方から聞こえてくるかの様なピアノに導かれ、アトラスの音楽世界は静かに幕を開ける。一転してイエス調の軽快な変拍子満載なメロディーに変わると知らず知らずの内にいつの間にか貴方(貴女)達の心はアトラスの音楽の術中に嵌ってしまっている事だろう。
 曲後半の如何にもといった感のキャメル風な甘美でメロウな心地良さの中にも、泣きのメロトロンに寂寥感すら垣間見える心憎さに目頭が熱くなりそうだ。
 14分超えの2曲目の大曲は、これぞ誰もが思い描くユーロ・ロックの理想の形にして美意識と構築的な様式美、北欧独特のイマジネーション、クラシカルとジャズィーな側面が端々で顔を覗かせ、音楽的な素養の深さが存分に堪能出来る全曲中最大の感動的な呼び物と言えるだろう。
          
 3曲目はアルバムタイトルにもなっている、たおやかで穏やかなフルート調のモーグに導かれ北欧の田舎町の佇まいとそこに住む人々の温もりをも想起させる優しくて心温まる、ゆったりとした時間の流れと北欧の風情と抒情美が横たわっている好ナンバー。
 ちなみにBlå Vardagは英訳・直訳すると“Blue Living=青色の生活”という意である(成る程、ジャケットの色合いが淡い青色というのも頷ける。…にしても伝統ある街並みがショベルカーで壊されるイラストというのはちょっと辛いところでもある)。
 4曲目は先の3曲目の穏やかさとは対を成す、幾分都会的で洗練されたポップで軽快にしてジャズィーなカラーを打ち出している。フェンダーローズの小気味良い調べが印象的で、改めて当時のアナログなキーボードの音色の良さに酔いしれてしまいそうだ。
 ラストの5曲目は、モーグとローズとのアンサンブルをイントロに、ハモンド、メロトロンそしてギターと強固なリズム隊が綴れ織りの如く被さって、幾分フロイドめいたフレーズが顔を覗かせる辺りは御愛嬌といったところだろうか…。
 静と動、柔と剛との対比とバランスが絶妙で穏やかさと疾走感とが違和感無くコンバインされた、あたかも天にも昇る様な高揚感が体感出来る、まさしくラストを飾るに相応しい零れ落ちる様なリリシズムと躍動感溢れる感動的なナンバーと言えるだろう。
 全曲を通し聴き終えて感じられた印象は、幾分派手さを抑え比較的抑制の効いた緻密に構築された強固なアンサンブルの集合体で、誰一人として前面に出る事無く整合された秀逸な作品であるという事だろうか。
 彼等が遺した唯一作のオリジナル・アナログ原盤は、私自身過去に某プログレ廃盤専門店で壁に掛けられていた現物を2度お目にかかった程度であるが、流石に中身云々までは十分確認していたという訳ではない。
 後年マーキー・ベルアンティークから国内ディストリビューションでリリースされたリイシューCDにて三輪岳志氏のライナーでも触れられていたが、オリジナル原盤はシングルジャケットで、インナーバッグ(内紙袋)にプリントされた壊れたタイプライターのイラストから察するに、バンドは当初からヴォーカルレスのインストゥルメンタル指向を目指していたそうで、歌詞=言語・言葉を排するという意味合いがあの様な意味深なイラストとして如実に表れたとの事。
          
 そういった意味合いを踏まえて、あの一見ニューウェイヴ風寄りで少々悪趣味丸出しなヨーロッパの伝統家屋ぶっ壊しのパワーショベルが描かれた淡いタッチのジャケットの意匠も、良い風に解釈すれば旧い伝統を打破して次なる新しい時代へ進もうとも取れるだろうし、悪い風に解釈すれば先の三輪氏の言葉を拝借して「明らかなメッセージの発露にして、冷徹且つ寒々しい画風・色彩。ニューウェイヴの台頭、メタル系の復興も重なってシンフォニック・プログレッシヴにとっては、あの当時の時代背景に夢も希望も見出せなかった象徴の表れ」とも取れるが真偽の程は定かではない…。

 その後のアトラスの動向にあっては、メンバーの何人かが残って4年後の1982年にMOSAIKと改名し、MOSAIK名義で一枚アルバムを発表しているが、アトラス時代から較べると幾分落ち着いたクロスオーヴァー風な作品に変化したが、後年リリースされたアトラスのリイシューCDには未発表を含むプラス3曲のボーナストラックがクレジットされているが、その内の一曲にMOSAIK時代のフルートがフィーチャーされた北欧特有の泣きの抒情が聴けるのが何とも嬉しい限りである。
     
 残りのアトラス時代で書かれた未発2曲も、もしデヴュー作の売れ行きが好調で次回作にまで話が及んでいたとしたら、この未発曲もきっと陽の目を見たであろうと思わせる位に素晴らしい内容である。
 唯一のリイシューCDもオリジナル原盤と同様、21世紀の今となっては入手困難なアイテムとなってしまい、お目にかかれる可能性も比較的低くなってしまって個人的には誠に残念な限りである…。
 仮にもし運良く中古盤専門店で巡り会えたのなら一も二も無く迷わず買って欲しいと願わんばかりである。何よりもボーナストラック3曲の為に買っても決して損は無いだろう!
 重ねて願わくば、オリジナル原盤仕様の紙ジャケットSHM‐CDで再度リイシューして欲しいと思うのは私だけであろうか(ディスクユニオンさん、どうかお願いしますね!)。

 21世紀の現在…北欧のプログレッシヴ・シーンは紛れも無く、ロイネ・ストルト率いるフラワーキングスに新生したカイパ・ダ・カーポを筆頭に、復活したトレッティオアリガ・クリゲットにイシルドゥルス・バーネ、加えてアングラガルド、アネクドテン、パートス、ムーン・サファリ…等といったスウェーデン勢を旗頭に盛況著しく時代相応のプログレッシヴ・シーンをリードしている今日この頃である。
 70年代後期のかつての困難な時代を生き、北欧プログレッシヴ・ロック史の一頁に人知れず埋もれていった彼等が、今の順風満帆な昨今の北欧のシーンを目の当たりにしたらどう思うのだろうか…。
 だが彼等はきっとこう言うに違いない。“自分達が遺した足跡と礎は決して無駄じゃ無かったし後悔もしていない。だからこそ現在(いま)があるのだ”と。
 私だけはせめてそう信じたい思いですらある…。

一生逸品 KULTIVATOR

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 2019年もいよいよ終盤に差し掛かり今年も残すところあと一ヶ月とほんの僅かとなりました…。
 11月最後の今回の「一生逸品」は北欧プログレッシヴ界きっての最強なる孤高の個性派集団にして、80年代というプログレッシヴ冬の時代に拮抗し…北欧らしいトラディッショナル、チェンバー、アヴァンギャルド、リリシズムといったキーワードとスキルを内包した自らの音楽を武器に闘いを挑んでいった、唯一無比のカリスマと言っても過言では無い“カルティヴェイター”に今再び焦点を当ててみたいと思います。

KULTIVATOR/Barndomens Stigar(1981)
  1.Höga hästar/2.Vemod/3.Småfolket/ 
  4.Kära Jord/5.Barndomens Stigar/ 
  6.Grottekvarnen/7.Vårföl/8.Novarest
  
  Stefan Carlsson:B, Bass-Pedals
  Johan Hedrén:Key
  Jonas Linge:G, Vo
  Ingemo Rylander:Vo, Recorders, Rhodes
  Johan Svärd:Ds, Per  

 たまに思い出したかの如くレコード棚やCDラックから引っ張り出して聴きたくなる様な作品が年に何度か巡ってくる事がある…。
 今回取り挙げる本編の主人公カルティヴェイターもその内の一枚であり、大昔の若い時分に買ったアナログLP原盤にしろリイシューCDを問わず、たった一度でも耳にして以降癖になるというか病みつきになるとでも言ったら良いのか…あの一種独特の個性的な曲調やフレーズやらがずうっと脳裏に焼き付いて離れないのが、まあ良い意味で困りものといえば困りものなのかもしれない(苦笑)。
 まあ、ただ単純に晩秋の肌寒い時節柄には、やはり寒い北欧産のプログレッシヴが聴きたくなるという動機も無きにしも非ずではあるが…。

 カイパ始めダイス、アトラス、ブラキュラといった、70年代の名立たるスウェディッシュ・シンフォニックが解散ないし路線変更を余儀なくされた70年代の終わりから80年代初頭。
 サムラ・ママス・マンナやラグナロクが時代相応に細々と活動し続けてはいたものの、実質上80年代以降のスウェディッシュ・プログレッシヴはアンダーグラウンドな領域へと追いやられてしまった感は否めないのが正直なところであろう。
 それでもイシルドゥルス・バーネやトリビュート、ファウンデーションといった時流の波に拮抗しつつ、時代相応にクリアーで聡明な北欧らしさを保持した素晴らしい作品が世に出た事は大いに評価せねばなるまいし、70年代の置き土産とでも言うべき発掘系のミスター・ブラウン、ミクラガルドに加えて、80年代マイナーレベル系のオパス・エスト、ミルヴェイン、そして現在もなお現役バリバリに活躍しているアンデルス・ヘルメルスンのデヴュー作とて決して忘れてはならない逸品であるのは言うに及ぶまい。
 そんな80年代初頭というスウェディッシュ・プログレッシヴの転換期を迎えていたさ中、まるであたかも“稀代のカリスマ”をも目論むべく一躍シーンに躍り出たカルティヴェイターは、当時の他のプログレッシヴ系バンドとは一線を画するかの如くアンダーグラウンドな範疇をも超越しその一種異彩を放つ独創的な音楽性を武器に、21世紀の現在もなおカルト的で根強い人気を博していくのである。
 今や各方面でカリティヴェイターの詳細なバイオグラフィーが紹介されているので、ここでは出来る限り重複を避けて簡単に彼等の歩みについて触れていきたいと思う。
 1975年にドラマーのJohan SvärdとベーシストのStefan Carlssonを中心に後のカルティヴェイターの母体ともなるTUNNELBARN(スウェーデン語で地下鉄の意味)が結成され、ギターにオーボエ奏者を加えた4人編成でインストゥルメンタル・オンリーのプログレッシヴ・ロック志向で経歴をスタートさせている。
 当時からもう既にクリムゾン始め、マグマ、GG、ハットフィールド&ザ・ノース、アール・ゾイ、果てはR.I.O.系列のヘンリー・カウ、アート・ベアーズ…等といった硬派な路線を嗜好していただけに、ジャズロック愛好のお国柄といえども当時はなかなか周囲の理解を得られず受け入れ難いところもあったみたいで結構難儀な思いをしたみたいである。
 その後はオーボエ奏者が学業に専念する為に脱退したり、音楽的にもっと幅を持たせてシンフォニックなスタイルをも導入しようと紆余曲折と試行錯誤の末、高校時代の学友でピアノの腕に覚えのあったJohan Hedrenをキーボーダーに迎え、ギタリストの兄弟関係だったヴァイオリニストを加えた5人編成で様々なギグやロックフェスに相次いで参加しそれなりに知名度と感触を得るものの、バンドの継続と維持は予想外に困難を極め…とどのつまりTUNNELBARNは敢え無く解散という憂き目に遭ってしまう。
 TUNNELBARN消滅後、ドラマーとキーボードの2人のJohanは、様々なギグやフェスですっかり顔馴染みになって以後親交を深めていたギタリストのJonas Lingeを迎えて、TUNNELBARNでの経験を糧に新たなプログレッシヴ・バンドの編成を模索していたところ、一時期プログレッシヴから離れて商業系のロック&ポップスに活路を求めていたStefan Carlssonが、売れ線狙いロックのあまりのつまらなさにほとほと嫌気が差して再び合流する事となり、1979年彼等は心機一転バンド名を新たにカルティヴェイターとして再出発を図る事となる。
 ちなみにカルティヴェイターというバンド名の意は、KULTIVATOR(文化人)CULTIVATOR(耕運機)を掛け合わせた彼等らしい皮肉っぽさと洒落の効いた狙いがあったみたいだ。
 成る程、彼等の唯一作にエッチングで農夫達が描かれていたのも意味深で頷けよう…。

 カルティヴェイターの起動から程無くして、Johan Hedrenが参加していた音楽プロジェクトで知り合った女性マルチプレイヤーIngemo Rylanderにも声をかけ、渡りに舟と言わんばかり…ヴォーカルからリコーダー果てはフェンダーローズまで弾きこなせるという多才さが助力となり(紅一点という意味も含めて)、彼等が目指すべく音楽性並び思惑と一致するのに時間を要する筈も無く、かくしてカルティヴェイターはIngemo Rylanderを加えた5人のラインナップで、80年代スウェディッシュ・プログレッシヴの新たな一頁となるべく伝説を切り拓く事となった次第である。

 TUNNELBARN時代から引き続き彼等のホームタウンでもあるLINKÖPINGを活動拠点にし精力的に活動を行っていたかと思いきや、実際のところは1981年に唯一作をリリースするまでの間は殆どこれといった表立った活動が出来ない状態が続き、早い話が不遇の時代はなおも続いていたと見る向きが正しいと言えよう…。
 現時点にて把握出来ているだけで僅かたった3回前後しかライヴが行えず、80年代初頭という悪夢の様な時期がプログレッシヴ・ロックそのものを求めていなかったという暗澹たる様相が浮き彫りになっていた事を如実に物語っている。
 日本の様に最低限シルバーエレファントの様なプログレッシヴ専門のライヴスペース一つでもあれば多少なりともまだ救われていたのかもしれないが、今となっては時代の冷遇さというものをつくづく恨みたくもなる。
 結果的にバンドとしての活躍期間は2年弱という短命に終わり、カルティヴェイターは敢え無く解散の道を辿る次第であるが、このままでは終われないと意を決した彼等は、困難な時代での輝かしき青春の一頁と言わんばかり自らの生きた証として“カルティヴェイターの音楽”を遺そうと思い立ちPA関連含む音響機材の一切合財を売却して資金を捻出し、そんな苦労を積み重ねた末1980年の7月ホームタウンのLINKÖPINGのAVOスタジオにて漸くアルバムの為の録音に着手する事となる。
 資金面といった経済的な事情で録音期間含めてスタジオが使えるのは概ね4ヶ月間という強行スケジュールで、大半がスタジオ・ライヴ一発録りに近い形のレコーディングであったものの、彼等は臆する事無く全身全霊を傾け精力的に取り組んだ。
 オーヴァー・ダブやらミキシング云々込みで何とかギリギリの期限内にマスターテープを完成させたものの、演奏技量の面で不足気味だった箇所やら自分達が望むべく理想の音作りとは程遠かった事に、大なり小なりの不満やら失望感とが入り混じったやるせない気持ちが勝っていたとの事だが、決して満足とは言えない状況の中…兎にも角にもやれるべきところは全てやったと日に々々感慨深い気持ちへと傾いていったのが何よりといえよう。
 マスターテープのコピーをスウェーデン国内の各方面のレコード会社へ送ってはみたものの何の返答が得られないまま無しの礫の状態が続き、翌1981年漸く苦労の甲斐あって友人知人達からの資金援助と助力で当時発足間もない新興レーベルだったBAUTAからのリリースまでに漕ぎ着けたカルティヴェイターは、地道で牛歩なペースでセールスを継続しスウェーデン国内でも次第に注目され始め、最初で最後のデヴュー作でもある『Barndomens Stigar』は初版200枚が完売、最終的にはスウェーデン国外へと輸出される頃には累計500枚ものセールスとなった。
          
 ヘヴィなリフのベースとドラムに導かれ無機質でカンタベリーサウンドの面影を垣間見せるオルガンとエレピが怒涛の如く押し寄せるオープニング1曲目から彼等の面目躍如と言わんばかりである。
 一転してのどかでほのぼのと牧歌的な北欧トラッド調のギターとリコーダーが顔を覗かせつつ再びヘヴィなリフが絡み付くともなると、あたかも曲のイメージ通り大自然の中を疾走する暴れ馬の勇壮な姿が脳裏に鮮明に甦る事だろう。
 紅一点Ingemo Rylanderの歌唱力と魅力が光る2曲目は、彼女が奏でるミスティカルなフェンダーローズに導かれ、これまたミスティックで愛らしくキュートというか或いはアンニュイでコケティッシュなIngemoのウィスパーヴォイスに惑わされつつも緩急のメリハリが効いた妖しくもヘヴィなナンバー。
 後半パートの彼女のリコーダーに被るカトリシズムな憂いと悲哀感を帯びたオルガンが何とも刹那で印象的ですらある。
 深みを帯びたフェンダーローズの残響音が効果的なイントロダクションの3曲目は、あたかも漆黒の闇に包まれた北欧の森を闊歩する小人の集団をも彷彿とさせる、力強さと繊細さが同居したしいて言うならば初期のソフト・マシーンないしハットフィールズ辺りの曲想に近いものを感じさせる。
 クリスタルできらびやかな感のローズの音色が美しい、全曲中唯一北欧ポップス的なカラーを強めに打ち出した4曲目も聴き逃してはなるまい。
 ジャズロック然とした小気味良いメロディーへと転調し、Ingemoのポップス的な側面が垣間見える陽気で楽しげなファンキーさが堪能出来るヴォーカルラインが実に心地良い。
 後半のフリップ調を思わせるギターに一瞬聴き手をニヤリとさせる様な嬉しい演出が何とも心憎い。
 絵に描いた様なトラディショナルな森の音楽を連想させるリコーダーとアコギの音色に誘われて夢見心地な浮遊感に包まれた5曲目は、いきなり力強い変拍子のアンサンブルに転ずるとジャケットのイメージと違わない汗水流して働く農夫達の日々の生き様が目に浮かんでくるかの様だ…。
 牧歌的で高らかに鳴り響くリコーダーにサイケ風がかったオルガンを耳にする度、かのフロイドの名作「原子心母」の(良い意味で)チープな短縮版みたいだと思えてならないのは私だけだろうか(苦笑)。
             
 Ingemoの一種エロティックで毒々しく何かに憑かれたかの様な妖しげな狂気の片鱗すら窺えるハイテンションなスキャットに加えて、マグマやアレアばりの偏屈なクロスリズムと攻撃的でアグレッシヴなメロディーラインが凄まじい6曲目も実に素晴らしい。
 静寂と衝動、ロゴスとパトス、狂気と正気、動と静、剛と柔といったキーワードが混在するカオス渦巻くサウンドスカルプチュアは、筆舌し尽くし難い位に足を踏み入れてはならない禁断の領域にまで達しているまさしく齧り聴き厳禁の全曲中に於いて最大最強の聴き処と言っても過言ではあるまい。
 前の5曲目と並んでこの曲の為に彼等の唯一作に是非とも接して欲しいと切実に願わんばかりである。
 風情溢れる様な朗々たるメロディーラインながらも、ほろ苦いリリシズムと抒情性を帯びたジャズィーでメランコリックな側面をも覗かせる小曲の7曲目、そしてラスト8曲目にあってはシンフォニックなエッセンスを加味したローズピアノにシンセのギミックを多用し、メンバー全員が持て得る力を全編に注ぎ込んだパワフルでメリハリの効いたヘヴィ・シンフォニックなジャズロックを奏でつつ大団円に向かって幕を下ろすという趣向すら匂わせている…。

 これだけの高度なクオリティーと完成度を有しながらも、たった数回のギグで短命への道を辿った彼等に冷酷にも時代の運は味方してくれなかった事が何とも悔やまれてならないというのが率直なところでもある…。
 カルティヴェイターの解散を機にJohan SvärdとJonas LingeはホームタウンだったLINKÖPINGを離れ、Stefan Carlssonは新天地を求めてスウェーデン国外へと移住、Ingemo RylanderはそのままホームタウンのLINKÖPINGに残ったらしく、Johan HedrénはBAUTAレーベルの主要スタジオミュージシャンとして現在もなお精力的に活躍しているとの事。
 1991年にはスウェーデン出身の数々のプログレッシヴ・アーティストの為に設立されたAD PERPETUAM MEMORIAM (通称APM)レーベルから70年代のアトラスやブラキュラと共にカルティヴェイターもリイシューCD化され、その時のボーナストラックとして当時のライヴレパートリーで未収録マテリアルだった「Häxdans」の新録の為一時的ではあるがバンドが再結成される運びとなる。
 が、これを契機にかつてのバンドメンバーが頻繁に顔を合わせる機会が増え、APMレーベル倒産でバンドメンバーへの支払いが未払いになるといった予想外なアクシデントこそ見舞われたものの、気持ちを切り替えてアングラガルドを世に送り出したMellotronenレーベルの関係者と何度も接触を図り、21世紀の2005年二度目の再結成を果たす事となる。
 APMレーベルからリリースされた2曲のボーナストラック(未発マテリアル「Häxdans」と、デヴュー前にライヴ収録された「Tunnelbanan Medley」)収録のマスターに更なるリマスターを施し、新たに数少ないライヴ音源から1980年の公演の際に録られた名曲「Novarest 」のライヴヴァージョンを加え、2008年Mellotronenレーベルより27年振りとなる新曲4曲が収録されたミニアルバムCD『Waiting Paths』が付された2CD三面デジパックの豪華仕様で再々リイシューCD化される運びとなり、更なる今年2016年には母国のプログレッシヴ専門レーベルTRANSUBSTANSより3度目のCD化と初のリイシューLP盤までもがリリースされ、改めて彼等カルティヴェイターの根強い人気とカリスマたる健在ぶりをアピールしたのは記憶に新しい…。

 カルティヴェイター関連のネットの情報筋によると新曲4つをレコーディングした2006年に再び活動を停止し10年経った今もなお長きに亘る沈黙を守り続けている昨今であるが、彼等がこのままで終わる筈が無いと信じているのは決して私だけではあるまい…。
 10年間という長き眠りから目覚めて、来たる2017年を境にそろそろ彼等が新たなる胎動を起こしそうな予感をも抱いているのは些か穿った見方であろうか?
 いずれにせよ21世紀のプログレッシヴ・ムーヴメントは何が起こっても不思議ではないというのが昨今の相場と決まっているが故に、カルティヴェイターの次なる復活劇の鍵を握っているのはバンドのメンバーでもあり、あるいは北欧の凍てつく大地と森林の神々のみぞ知るといったところであろうか…。

夢幻の楽師達 -Chapter 38-

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 4月最終週の「夢幻の楽師達」は、北欧デンマークより60年代末期から70年代初頭にかけてブリティッシュ・ロック影響下ながらも、その特異で唯一無比な音楽性で神々しい光明を放ち続け、21世紀の現在もなお根強いファンと支持者を獲得している、名実共にスカンジナビアン・ロック黎明期の草分け的存在としてその名を刻み付ける“エイク”に、今一度スポットライトを当ててみたいと思います。


ACHE
(DENMARK 1968~)
  
  Torsten Olafsson:B, Vo
  Finn Olafsson:G, Vo
  Peter Mellin:Organ, Piano, Vo
  Glenn Fischer:Ds, Per

 西欧ドイツの隣国でもあり、海峡を挟んでスウェーデン、フィンランド、ノルウェーの北欧三大国に準ずる小国デンマーク。
 デンマークのロックシーンと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、今やすっかり国民的バンドとして定着し世界的にもその名が認知されているサベージ・ローズであろうか。
 ロジャー・ディーンが手掛けたイラストでお馴染みのミッドナイト・サンを始め、ジャズロックで名声を馳せたシークレット・オイスター、通好みであればサメのジャケットが印象的なザ・オールドマン&ザ・シーも忘れ難いだろう。
 さながら70年代デンマークのロックシーンは、かつてのスイスのシーンよろしく負けず劣らず少数精鋭揃いといった感が無きにしも非ずといったところであろうか…。
 
 遡る事60年代末期、全世界規模で席巻していたビートルズ人気の熱気と興奮は御多聞にも漏れずデンマークにも飛び火していたのは言うには及ぶまい。
 その波及は首都コペンハーゲンを拠点に音楽活動をしていた2人の若者FinnとTorstenのOlafsson兄弟にも多大なる影響を与え、ロックンロールやブルース等をベースとしつつ新たなる時代へと向けた音楽表現への契機となった。
 Olafsson兄弟を中心としたVOCESを始め、後にエイクのメンバーとなるPeter MellinとGlenn Fischerを擁していたTHE HARLOWSをルーツにバンドメンバーが集散を繰り返し、Torstenが加入したTHE HARLOWSそしてFinnが参加していたMCKENZIE SETの2バンドを母体に1968年エイクは結成される事となる。
 1968年は折しもイギリスに於いてレッド・ツェッペリン始めディープ・パープル、そしてイエスがデヴューを飾った年でもあるのが何とも実に興味深い…。
 音楽活動を始めてから早3年という実績も然る事ながら、エイクは異例の早さでフィリップス・デンマークと契約を交わし、国内のロック・フェスへの参加を始めテレビやラジオでの電波媒体にも積極的に出演し知名度を上げていく一方、彼等のヘヴィで独創的、時にシンフォニックな荘厳さを纏ったアートロックの音楽性に着目した地元の前衛舞踊団THE ROYAL THEATRE OF COPENHAGEN並びTHE ROYAL DANISH BALLET COMPANYの招聘と相互協力により、概ね一年半もの製作期間とリハーサルを費やして1970年にデヴュー作となる『De Homine Urbano』をリリースする。
    
 英訳すると“Urban Man”の意となるが、その意味深なデヴュータイトル通り男女2人によるバレエダンサーのフォトグラフがコラージュされたジャケットアートは、当時主流だったドラッグ体験的なサイケデリックという向きよりも幾分趣が異なる、所謂…音楽、光と影、舞踊とが渾然一体となった総合芸術の域に留めている辺りが彼等の目指す方向性でもあり自らの身上とでも解釈すべきではなかろうか…。
 古色蒼然とした所謂時代の音ではあるが、重厚でクラシカルなハモンドとヘヴィでブルーズィーな雰囲気を湛えたギターを核に、おおよそサイケデリックとは縁遠いアートロックとプログレッシヴの中間を行き交う、欧州の伝統とロマンティシズムに裏打ちされた彼等でしか成し得ない音楽だけがそこにはあった。
 ロックミュージックと前衛バレエとのコラボレイションは、かのピンク・フロイドも当時『原子心母』でも試みていただけに、エイクもそういった時代の波に触発されて良い意味で上手く相乗効果に乗る事が出来た稀有のバンドとして実に幸先の良いスタートを切ったと言えるだろう。

 デヴュー作『De Homine Urbano』の評判は上々で、すぐさま次回作への構想が持ち上がった彼等は2nd製作の準備に先駆けて初のシングル『Shadow Of A Gipsy』(2ndのB面にも収録されている)をリリース。
 ヨーロッパの哀愁と抒情を湛えた歌物系作品ではあるが、プロコル・ハルムばりのクラシカル・オルガンロックの真骨頂ここにありと言わんばかりな泣きのリリシズムがせめぎ合う秀作と言えるだろう。
 翌1971年、前作での成功の流れを汲んだ前衛舞踊劇向けに製作された姉妹作にして彼等の代表作となる『Green Man』をリリース(ちなみに下の写真がその『Green Man』を題材にした舞踊劇の一場面である)。
 
 アメリカSFスリラーTVの草分けともいえる『トワイライトゾーン』に登場しそうな異星人風なテーマを思わせる、不気味でミスティックな雰囲気と寸分違わぬヘヴィ・オルガンシンフォニックが縦横無尽に繰り広げられており、イギリスのアードバークやインディアン・サマーに負けず劣らずな徹頭徹尾作品全体を埋め尽くしたPeter Mellinのオルガンプレイには目を瞠る思いですらある。

 ここまで順風満帆且つ精力的に活動をこなしてきた彼等ではあるが、成功への階段を上りつつあるさ中の翌1972年…突如としてロックバンドとしてのエイクを休止して、Olafsson兄弟を中心としたアコースティック・ユニットへと移行。
 メンバー間同士の精神面での疲弊が生じたのか、或いは舞踊団込みの劇バンであるというレッテルを貼られてしまいそうな危惧を恐れたのか、理由を知る術は定かでは無いが兎にも角にもロックというスタイルから一時的に離れた彼等は以降4年間は作品らしい作品をリリースする事無く、ただひたすら沈黙を守り続けて表舞台から遠ざかってしまう…。
 そして1976年、Peter MellinとFinn Olafssonを中心にStig Kreutzfeldt(Vo, Per)、Johnnie Gellett(Vo, Ac‐G)、Steen Toft Andersen(B)、Gert Smedegaard(Ds)の4人の新メンバーを迎えた6人編成で、エイクはデヴュー当初の荘厳で硬派なアートロック+舞踊劇バンドといったイメージから一転し、(良い意味で)時代相応にアップ・トゥ・デイトされたロックバンドとして純粋なるヨーロピアン・フレイバーに根付いたクラシカル&プログレッシヴ・ポップスという新機軸を打ち出した通算第3作目に当たる『Pictures From Cyclus 7』を大手CBSよりリリースし再出発を切る事となる。
    
 ケストレル、カヤック或いは1st~2ndのタイ・フォンにも相通ずるシンフォニックでメロディアス、リリカルなポップス路線へと回帰した、あたかもこれが本来演りたかった音楽であると言わんばかりな人懐っこくて親近感溢れるサウンドへの変化に聴衆は驚きを隠せなかった…。
 エイクは本作品で良くも悪くも全くの別バンドとして捉えられる様になってしまい、デヴュー時の重厚で厳ついイメージを期待していた向きには正直余り受けが良くなかったのもまた然りで、彼等の新たな船出は前途多難といった方が正しいのかもしれない(苦笑)。
 とは言っても決して出来の悪い作品では無く、今の時代ならおしゃれに洗練されたメロディック・ロックさながらに聴けてしまう歌物プログレッシヴとして最上位に位置する秀作だと思えてならない(やはり時代と運が悪かったのだろうか…)。
 未聴の方はデヴュー時のイメージを一旦置いて、どうか気持ちを新たに頭の中を真っ白にしてお聴き頂き、今一度彼等の斬新なサウンドアプローチを見つめ直して欲しい事を切に願わんばかりである。

 そして翌1977年、Stig KreutzfeldtとJohnnie Gellettの2人のヴォーカリストが抜けてバンドは再びメンバーチェンジを迎え、何とTorsten Olafssonが再びベーシストとして合流し、Steen Toft Andersenが二人目のキーボーダーとして転向しバンドは更なるツインキーボードスタイルで、前作でのポップでキャッチーなサウンドアプローチにややプログレハードがかったエッセンスを加味した4枚目の好作品『Blå Som Altid』をKMFなるローカルレーベルよりリリースする。
    
 作品内容は実に素晴らしいものの、肝心要のジャケットが何とも貧相で地味な装丁だったのが災いしたのか、それほど話題に上る事無くセールス的にも伸び悩んだが、当時全世界規模を席巻していたパンク/ニューウェイヴの波にもめげる事無く、彼等は1980年まで我が道を進むかの如く自らのスタイルを貫き通し(その間に長年の盟友だったPeter Mellinが抜けPer Wiumへと交代)、以後エイク名義のシングル一枚とカセットテープオンリーの『Stærk Tobak』と『Passiv Rygning』の2作品をリリースし、Finn Olafssonのソロ活動(彼はエイク解散後も数枚のソロ作品をリリース)と併行させながらも、惜しまれつつバンドは自然消滅への道を辿っていく事となる(私的な意見で誠に恐縮だが、『Blå Som Altid』は確かにジャケットのお粗末ぶりこそ否めないものの、それでも内容としては従来のエイク・サウンドが楽しめる充実した内容であるが故に、本作品が未だCD化されてないのが何とも惜しまれる…)。

 そして時代は1985年、Olafsson兄弟を中心にPer Wium、そして新たな面子にAlex Nyborg Madsen (Vo)とKlaus Thrane (Ds)を迎え、エイクは突如として8年振りにリバイバル・ライヴをデンマーク国内にて敢行。
 バンドの復帰を待ち望んでいた多くの聴衆から盛大な喝采を浴び、熱気と興奮に包まれながらもたった一度きりしかないであろう彼等の復活祭にデンマークのロックファンは湧きに湧き上がった。
 そして21世紀の現在…年輪を積み重ねた彼等は、2003年Olafsson兄弟を中心に発足したプロジェクト・チーム兼サウンド・コミュニティー“CHRISTIANIA(1976年にCBSよりリリースされたOlafsson兄弟によるデュオ作品タイトルから引用された)”の許で、エイク名義の作品の著作権管理やらライヴ活動、後進の育成・指導、デンマークの音楽業界の屋台骨的な役割を担い現在までに至っている。
 CHRISTIANIAの許に集うは…ギターとプロデューサーも兼ねるFinn Olafsson、そしてベースのTorsten Olafsson、更にはかつての盟友Peter Mellinを筆頭に、Per Wium、Gert Smedegaard、Steen Toft Andersen、そしてJohnnie Gellettといったエイクの歴史をしかと刻んできた名うての面子に加え、新たな女性メンバー二人も創作活動に大きく携わっている。
           

 デンマーク・ロックの祖として長きに亘り、今もなおこうして現役バリバリで精力的に活躍している彼等の逞しくも力強い真摯な姿勢を垣間見た…そんな思いに捉われると共に、理屈と感動をも越えた男のロマンティシズムに触れた私自身あたかも勇気付けられる思いにも似た「我々はまだ夢の途中…」と言わんばかりな、彼等の生粋なロックスピリッツに否応無しに共鳴してしまう今日この頃である。
 CHRISTIANIA…或いはエイク名義の最新作が、いつの日にか我々の目の前に突如送り届けられるのもそう遠くは無い様な気がする。

一生逸品 DICE

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 4月最終週の「一生逸品」は、名実共にシンフォニック・ロックの王道を地で行く北欧スウェーデン珠玉の名作にして現在もなおその類稀なる高水準な完成度を誇り、根強いファンはおろか新たなファンをも生み出している、かのカイパと共に70年代後期の至高の匠的存在である“ダイス”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


DICE/Dice(1978)
  1.Alea Iacta Est 
  2.Annika 
  3.The Utopia Suntan 
  4.The Venetian Bargain 
  5.Follies 
   a)Esther
   b)Labyrinth
   c)At The Gate Of Entrudivore
   d)I'm Entrudivorian
   e)You Are?
   f)You Are… 
  
  Leif Larsson:Key,Vo 
  Orian Strandberg:G,Vo 
  Per Andersson:Ds,Per,Vo 
  Fredrik Vildo:B,Vo 
  Robert Holmin:Vo,Sax 

 個人的な思い出話みたいで恐縮ではあるが、86年秋にマーキー誌のコレクターズ・コーナーにて彼等=ダイスが取り挙げられてから、以来…自分の頭の中には、入手困難で99%手が届かず無理とは分かっていても、粗悪なテープ・ダビングでも構わないから是非聴いてみたい存在になったのは最早言うまでもあるまい。 
 誌面に掲載の白黒で不鮮明なジャケ写ながらも、“プログレッシヴ・ロック演ってます!”と言わんばかりのどことなく自信に満ちた、一見ロジャー・ディーンを思わせるようなファンタジックなイラストに、兎にも角にも大いに興味をそそられた22歳当時の若く燃えていた自分がそこにいた。 
 だが…運命とはどこでどう転ぶか分からないもので、彼等の唯一の作品との御対面は意外にも早く半年後の春に訪れるのである。マーキー誌のワールド・ディスク経由の稀少盤扱いで25,000~30,000円。当時の自分にとっては清水の舞台から跳び降りるかの如く結構高い買い物ではあったが、それでも値段が高いから云々なんてお構い無しに、夢にまで見た念願のダイスを手に入れた無上の喜びの方が大きかった。 
 恐る恐る盤をターン・テーブルに乗せ針を落とす…ダイス=サイコロの転がる音に導かれ、軽快なメロディーと共にオルガンとメロトロンが木霊した瞬間、あのドラゴンフライ以来久々に思う存分自室で感動の涙でむせび泣いた事を今でも記憶している。
          
 ダイスの出発は1966年、スウェーデンの首都ストックホルムの進学校にて二人の少年Leif LarssonとOrian Strandbergの運命的な出会いで幕を開ける。
 二人とも既に当時からクラシック音楽の正式な教育(Leifはピアノ、Orianはチェロ)を受けてはいたものの、当時の若者と同様このままありきたりな現状に満足する訳ではなく、お決まりの如くビートルズにのめり込み、その後は当然の如くプロコル・ハルム、ナイス、クリムゾン、イエス、EL&P、GG…等から多大なる影響を受け、まさにプログレ道一直線とばかりに、自分達でバンドを組み場所を問わずに幾多ものライヴ活動を積み重ね、互いの家を行き来しては作曲活動に明け暮れたとの事。 
 「今でもそうだけど、プログレッシヴな音楽を作り演奏する事に快感と喜びを覚えたんだ」とは、当時を振り返ったLeifとOrianの弁であり、嗚呼…まさにプログレッシャーの鑑たる姿勢がここにある! 
 本作品のデヴュー作に収録された殆どの曲、並び数年後未発マテリアルとして世に出る『The Four Riders Of The Apocalypse』の全曲とも1973年に既に完成させ、本格的なレコーディングに臨む為、知り合いの音大生でパーカッションを専攻し作詞作曲も出来るPer Anderssonを迎え、2年後の1975年には、楽器店に貼ったメンバー募集の告知を見て応募してきた、同楽器店員にして様々なローカル・バンドも経験してきたFredrik Vildoをベーシストに迎えて、ダイスのラインナップはほぼ整った次第である
 この不動の4人編成で国内ツアーを行い、ライヴハウス始め野外コンサート、ハイスクールでの積極的なギグが次第に注目され、国営ラジオでもその模様がオンエアされ“カイパに次ぐ新星”とまで言われたとか。 
 その後メンバーの共同出資で自らのスタジオを設立し、決定的なヴォーカリスト不在ということを踏まえ、オーディションでサックスも吹けるRobert Holminを抜擢し、1978年インディーズながらも遂に自らのバンド名を冠した念願のデヴュー作をリリースする。
          
 イエス、ジェントル・ジャイアントを彷彿とさせる変拍子全開にして変幻自在で煌くようなシンフォ・ナンバーの1曲目と4曲目、『ハンバーガー・コンチェルト』期のフォーカスを想起させる2曲目、ラグタイム・ピアノに導かれ軽妙且つコミカルな曲展開が微笑ましい3曲目、そして全曲中最大の呼び物、22分に渡る組曲形式の5曲目は、イエスの“危機”、ジェネシス“サパーズ・レディー”、フォーカス“ハンバーガー・コンチェルト”と並び負けず劣らずのシンフォニック大作で、不思議な余韻と感動を残して締め括られる。 
 しかし…バンド側は、音楽配給のパブリシング会社並びレコード会社側の方針に今ひとつ満足が行かず、デヴュー作以後は自分達の理想たる創作環境を求め奔走する一方で、後に未発マテリアルとして1992年満を持して世に出る事となる『The Four Riders Of The Apocalypse』の録音並び新曲の製作にも着手するが、広い様で何かと狭い音楽業界に於いて交流・人脈絡みでジャンル違いなバンドやシンガーにも力を貸していくのである。
    
 結果的には、バンド本隊は現在もなお開店休業状態で、バンドの各メンバーも著作権・版権関係の会社に就いたり、広告関係並びテレビ・舞台・映画音楽関係、ライヴ・エンジニア、セッションマン、ツアーミュージシャンとして現在もなお多忙を極めているとのこと…。(実は、有名なところで35年前の「つくば万博」にて、ギタリストのOrianのみが環境音楽家として一度来日を果たしているとのこと。ちなみにマーキーのワールド・ディスク経由で彼のソロも何枚か販売されたこともあるとのこと。) 
 開店休業状態ながらも、Leif始めOrian、Per、Fredrik、Robertの5人は現在も一生涯の友として強固な友情の元で定期的に顔を合わせ、お互いに仕事をし合ったりセッションに参加しているとのこと。
 余談ながらも…LeifとOrianは1982年にお互いの妹さんと結婚し義兄弟になっている。 

 北欧諸国並び日本、世界各国でも根強いファンを獲得している彼等ではあるが、メンバー同士お互いの時間的余裕が作れて、周囲の状況が好転し次第、新作の準備に取り掛かれるとの事だが…果たして?
 何が起こっても不思議ではない21世紀のプログレッシヴ・ロック業界…カイパ(+カイパ・ダ・カーポ)、トレッティオアリガ・クリゲットの再結成~現役復帰という奇跡を目の当たりにしている昨今の事であるから、不可能がいつ可能になってもおかしくはないのである。
 一笑に伏されるかもしれないが、今はただ“奇跡はいつの日にか必ず”という事を信じて止まないばかりである。

夢幻の楽師達 -Chapter 41-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、70年代スカンジナビアン・ロック黎明期の雄でもあり、ノルウェーのロック史にその名を刻むまさしく伝説という称号に相応しい、今もなお絶大且つ数多くもの根強い支持を得ている“アント・マリー”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


AUNT MARY
(NORWAY 1969~)
  
  Bjørn Kristiansen:G,Vo 
  Svein Gundersen:B,Piano,Vo
  Kjetil Stensvik:Ds,Per,Vo 
  Bengt Jensen:Key

 ノルウェーの伝説的且つスカンジナヴィアン・ロック黎明期の草分け的存在でもあるアント・マリー。
 彼等の結成の経緯は21世紀の今もなお定かではないものの、後年の公式ウェブサイトから察するに1969年2月に結成されたという以外は残念な事にバンド自体のバイオグラフィーに至っては少なくも乏しい資料しかないため細部に至るところまでは不明であるが、ある程度判明している事として…結成からアルバムデヴューに至るまでの間は、度重なるメンバーチェンジを始め、極々限られた運営資金を元手に北欧並び西欧果ては中東イスラエルといった遠方にまでギグを行い紆余曲折と失意と不遇の日々を過ごしたりと、まあ…枚挙に暇が無いと言った方が正解だろう(苦笑)。
 無論バンド結成当初は所謂時代の流行に乗ったビート、サイケ、ソウル、ブルースをベースにしたポップ&ロックを演奏しており、おおよそガチガチのプログレ・シンフォ系のファンからすれば、下手すりゃそっぽも向きかねない作風ではあるが、 あの古き良き時代の独特の空気が好きな方々には好まれるサウンドではなかろうか…。
 1970年のアルバム・デヴュー前にシングル『Did You Notice?/The Ball』(デヴューアルバムにも収録されている)をリリースし、その半年後に自らのバンド名を冠した1st『Aunt Mary』で大手のポリドールからデヴューを飾る。
           
 ちなみにデヴュー当初のラインナップはJan Leonard Groth(Key,G,Vo)、Per Iver Fure(Flute,Sax,Harmonica,Vo)、Svein Gundersen(B,Vo)、Bjørn Kristiansen(G,Vo)、Kjetil Stensvik(Ds,Per,Vo)の5人編成で、前述の通り時代を象徴したサイケデリック色の強いビート・ポップス&ブルース・ロックを演っていて、好き嫌いの差はハッキリと分かれると思うが、古色蒼然としたクラシカルな響きのオルガン、独特の浮遊感が漂うフルートに、オーケストラ、ブラスセクションをバックに配したデヴュー作にして豪華な内容になっている。
    

 デヴューから程無くして彼等5人はノルウェー国内及び北欧諸国にてツアーを行うが、1年も満たないうちに音楽的な嗜好と意見の食い違いが生じ、結果的に同年秋にフルート兼サックスのPerが抜け、バンドは暫し残された4人で活動を継続しギグに明け暮れる事となる。
 その後ディープ・パープル始めジェスロ・タル…等との共演を経て大いに触発された彼等は(リッチー・ブラックモアからのサジェッションが大いに拍車をかけたみたいだ)、サウンド面でも徐々にヘヴィロック、プログレッシヴなスタイルへとシフトしていく事となり、ノルウェー国内に於いても最強のロックバンドとして称賛され『Jimi, Janis And Brian』そして『Rosalind』といったヒットシングルを立て続けに連発していくが(ちなみに『Jimi, Janis And Brian』は薬物を礼賛しているからといったくだらない理由でイギリスBBCラジオが放送禁止ソングにしてしまったそうな)、もともと敬虔なクリスチャンだったキーボーダーのJan自身、音楽と自身のライフスタイルや信念を組み合わせるのはますます困難であると悟り1972年春にバンドを去る事となる。
 余談ながらも当時この4人でスウェーデンのラジオ局の音楽番組に出演した際、この時収録されたスタジオライヴの音源が後年2009年にCDリリースされたのは既に御周知の事であろう。
          
 残された3人は新たなキーボード奏者としてBengt Jenssenを迎え再出発を計り、ポリドールからフィリップスへと移籍し度重なるリハーサルを繰り返し、曲作りに没頭し72年に2nd『Loaded』をリリースする。
 作風自体もツェッペリン、パープル、ユーライア・ヒープといった当時のブリティッシュ・ハードロックに触発された、ややプログレッシヴ寄りの硬派なハードロックへと変貌を遂げており、事実2ndの本作品はノルウェー及び北欧諸国でベストセラーを記録し、本家本元のイギリス始めドイツやオランダからも注目され始めたのは言うまでもない。
    
 現在でも北欧ロック史に残る最高傑作の一枚として、聴く人によっては第2期パープルにキース・エマーソンが加わった様なサウンドと評する向きもあるが、それは当たらずとも遠からじであろう。
 上がり調子の彼等は慢心する事なく、バンド自体も更に創作意欲を高めて大々的にモーグシンセサイザーを導入し、翌1973年遂に文字通りの最高傑作にしてプログレッシヴとハードロック両方面のファンからも圧倒的支持を得ている、ヘヴィ・シンフォニックの不朽の名作にして今もなお名盤と名高い3rd『Janus』をリリース。
          
 クリムゾンの“21st Century~”を彷彿させるイントロダクションに導かれる12分強のヘヴィ・シンフォ組曲始め、バンコやEL&P、ナイスからの影響下を思わせるような曲…等、さらに多彩(多才)な面を強く打ち出した意欲作にして野心作でもある。このまま本格的に世界進出を果たすのかと思いきや「自分達のやるべき事は全てやりつくした…!」と言わんばかり、僅か数回のギグを経て何事も無かったかの如く静かに表舞台を去りアント・マリーは僅か4年の活動を経て自らの幕を降ろした次第である。

 それ以降アント・マリー名義としての表立った動きこそ無かったものの、翌74年には2枚のベストアルバムがリリースされ、同年秋以降からは年に一度のペースでBjørn Kristiansen、Svein Gundersen、そしてKetil Stensvikによるトリオ編成でキーボード奏者不在ながらもリユニオンライヴを敢行し、1982年にはオリジナルキーボード奏者のJan Leonard Grothが再びバンドに合流してリユニオンなスタイルで年中行事の如く開催していくものの、2012年ベーシストのSvein Gundersenの引退を機にバンドは大きな変動を見せ始め、Sveinの後任に70年代同じく苦楽を共にしてきたベテランバンドHØSTからBernt Bodalが加入し、翌2013年には癌が見つかったJan Leonard Grothが闘病の為バンドを辞める事となり後任にGlenn Lyseを迎えて活動を継続し、と同時に一時的な解散から実に40数年ぶりの新作リリースに向けたリハーサルとレコーディングに着手する事となる。
 惜しむらくは翌2014年に癌との闘病の甲斐無くJan Leonard Grothが逝去し、新作録音準備のさ中にはドラマーKetil Stensvikにも癌が見つかり翌2015年4月にはKetil自身も帰らぬ人となってしまう。
 それでもBjørn Kristiansen、そしてBernt Bodalを中心に亡き友への弔い合戦の如く不幸に臆する事無く新作レコーディングは着々と進められ、ヴォーカリストのGlenn Lyse、ドラマーにOle Tom Torjussen、キーボードにOla Aanjeを迎えた5人編成の布陣で2年の歳月をかけ2016年待望の新譜『New Dawn』をリリース。
           
 現在オリジナルギタリストのBjørn Kristiansenを筆頭にBernt Bodal、Ole Tom Torjussen、Ola Aanje、そして2018年春にヴォーカリストがGlenn LyseからMorten Fredheimに交代し、昨年2019年にはアメリカとメキシコのツアーを敢行し今もなお現役バリバリの第一線で気を吐き続けている昨今である。
 こうなってくると俄然待望の初来日公演の可能性にも大いに期待したいところだが、先ず今は何よりも彼等に対する思いとして…決して諦めずに信ずれば夢と希望は必ず叶うという事であろうか。

一生逸品 THE GROUP

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 今週の「一生逸品」を飾るは、北欧随一の(ECM系含む)ジャズロックのメッカともいえるフィンランドより、自国のロックシーンを長きに亘り彩ってきた名うてのベテラン・プレイヤーの猛者達が集結した、北欧プログレッシヴ・ジャズロックの頂点にして至高の極みすら窺わせる、70年代後期のスカンジナビアン・ムーヴメントを飾る名作・名盤として誉れ高い、神髄にして真髄の唯一無比なる存在と言えるであろう“グループ”に、今再び眩いスポットライトを当ててみたいと思います。


THE GROUP/The Group(1978)
  1.Thai
  2.Ripple Marks
  3.Berenice's Hair
  4.Gado Gado
  5.Annapurna
  
  Olli Ahvenlahti:Key
  Pekka Pohjola:B
  Seppo Tyni:G
  Vesa Aaltonen:Ds

 さてフィンランドの一生逸品な一枚ものからセレクトしようと思い立ったは良いものの、大御所クラスのウィグワム始めタサヴァラン・プレジデンティ、ハイカラ、フィンフォレスト、果てはタブラ・ラーサといった割と名の知れた存在はユーロロックファンの間ではポピュラーな部類で流通しているものの、一枚っきり出して解散ないし停止したバンドともなると極々最近の発掘物を含めて些か複雑怪奇な様相だから、前述の言葉通り一枚ものを選ぶというのは兎にも角にも至難な業というのが正直なところである。
 ニムバスを始めノヴァ、ファンタジア、カーモス、セッション、そしてスカパ・フロウ…概ねこの辺りがフィンランド一枚ものの秀作といった手合いであるが、考えあぐねた結果…それならば「一生逸品」でいつかは是非取り挙げねばと絶好の機会を窺っていたウィグワムを抜けた国民的音楽家Pekka Pohjola、そしてタサヴァラン・プレジデンティを経て一時期かのメイド・イン・スウェーデンにてドラマーを担当しフィンランドに帰国したばかりのVesa Aaltonenによって結成され、たった一枚の唯一作をリリースし解散した後にPekka Pohjola BANDへと発展形を遂げる礎ともなったグループに白羽の矢を当てた次第である。
 ウィグワム在籍時と併行してソロマテリアル『Pihkasilmä Kaarnakorva』、そして『Harakka Bialoipokku』をリリースして以降、73年にウィグワムの4作目にして最高傑作『Being』を最後にバンドを抜けたPekka自身、最高作でもある『Keesojen Lehto』をリリースする一方で、ジャズロック・プロジェクトのUNI SONOで共演したキーボーダーOlli Ahvenlahtiを誘い、最後に選出したメンバーとしてPekka自身旧知の間柄で後にPekka Pohjola BANDのギタリストを務める事となるSeppo Tyniによる基本的な4人編成によるラインナップでスタートを切る事となる。
 フィンランドを代表する名うての強者プレイヤー達が集結した…ある意味かの英国のUK(まあ後のエイジアも然り)を意識したかの如く、フィンランド国内の音楽プレス誌始め各方面のメディアはこぞって、名実共にスーパーバンドが誕生したと銘打って、グループに寄せる未知なる期待のみならず当時世界中を席巻していたプログレッシヴ・ムーヴメント停滞という負の連鎖を打破してくれる大きな原動力に繋げたい一心で、彼等を称賛し大々的な支援へと持ち上げたのは言うには及ぶまい。
 余談ながらもグループというバンドネーミングにまつわる…虚々実々というか真偽の程は定かではないものの、当初はPekkaを始めとするバンドメンバー4人の連名のみでリリースするか、或いはそもそも音楽を創作するチームにバンドネーミングって必要なのか?と芸術家肌なPekkaらしいごもっともな意見と疑問から名前無しバンドのままリリースしようという半ば悪い冗談めいた案すら提示されたものの、リリースサイド大許でもあるワーナー側がそれでは困るといった、まあそんなすったもんだの末…結局Pekkaサイドが折れて、半ばやっつけ仕事というかヤケクソ気味に極々単純明快にグループと命名したそうだが…その真実は如何にといったところである(苦笑)。
 ジャケットアートも神秘な趣を湛えたピラミッドの頂点に輝く一筋の光明になりたいといった意味合いすら感じられるものの、一見するとジャーマン・エクスペリメンタル的にも見えるし、アメリカのフリーメイソンのシンボルっぽく見まがいそうな変な誤解感を与えてしまいかねない…出来る事ならジャケットの意匠はもうひと工夫欲しかったと思えてならないのは私を含めた聴き手側の我が儘なのであろうか。
          
 本作品のサウンド全体としては、かつてのウィグワムないしタサヴァラン直系のプログレッシヴ・ジャズロックなフィーリングが根幹にあるのも然り、彼等が敬愛して止まないリターン・トゥ・フォーエバー、そしてウェザー・リポートといったクロスオーヴァーサウンドに追随するかの様なワールドワイドな視野をも見据えた…軽快で疾走感に溢れ、ECMにも相通ずる北欧ならではのイマジンとリリシズムが脳裏をよぎるといった、プログレッシヴ下火ともいわれた当時に於いて時代相応の表現と語法を身に付けたモダンなジャズ・ロックと捉えた方が差し支えあるまい。
 所謂、当時で言われ始めた“フュージョン”系の部類ではあるが、商業路線に走りファッショナブルなムードミュージックへと地に堕ちた連中とは違い、彼等4人の音楽世界はあくまでプログレッシヴな方法論を守り続けたジャズ・ロック/クロスオーヴァーへと昇華していった事に他ならない。

 実力全開でオープニングを飾る冒頭1曲目から彼等の面目躍如たる片鱗が垣間見え、軽快でスピード感満載なけたたましく強打されるドラミングに導かれ、ザ・グループの華々しいショータイムは幕を開ける。
 タイトル通りの東洋的なオリエンティッドな空気と人々の雑多な息づかいすら感じられ、押しと引きのバランスといった緩急自在な曲構成と展開に圧巻・圧倒されると共に、当時そんじょそこらのポッと出の一介のフュージョン・バンドなんぞとは比べものにならない位の高水準なハイテンションとテクニカルさに、聴き手はあたかも先制のカウンターパンチに見舞われ溜飲の下がる思いに捉われる事必至であろう。
          
 Olli奏でる詩情溢れるピアノの響きが印象的なイントロダクションの2曲目も素晴らしく、ジャズィーな趣を湛えながらもやはり時折ロックなスピリッツすら垣間見せ、スローテンポでメロウな雰囲気を醸し出しながらもアーバンな佇まいや北欧のナチュラルな映像美すらも想起させる本作品中ラスト曲と並ぶ聴き処満載な好ナンバーと言えよう。
 Pekka のベースプレイも然る事ながら追随するかの様なSeppoの泣きのギターが実に冴えまくっている。             
 いきなり唐突に炸裂するサウンドの拡がりにややアメリカンな趣すら感じさせる3曲目は、一見ミスマッチを思わせる様な意外性を孕みながらもやはり要所々々で北欧のリリシズムというスパイスの効いた、ハートウォームでどこか人懐っこく、良い意味で陽気なファンキーさが隠し味になっていて、改めてPekkaとOlliの音楽嗜好の懐の幅広さとコンポーズ能力の高さには感服する思いですらある。
 ある種の緊迫感すら伝わって来る4曲目にあっては、エッジの利いたバリバリ変拍子全開な硬派で骨太なこれぞ北欧ジャズロックの真髄たるものが存分に堪能出来る、オープニング1曲目と双璧を為す出来栄えを誇っている。
          
 収録された全曲中、長尺なラストナンバーの大曲ともなると、もはやジャズロックだのクロスオーヴァー云々だのすらをも超越した、まさしく70年代北欧プログレッシヴ&ジャズロックの完成形にして頂点ともいうべき集大成さながらに、タイトル通りのネパールの山々の頂或いは神々の懐に抱かれ身を委ねるかの如き、聴き手の意識と感情は異国の山脈と紺碧の天空へ飛翔すると言っても過言ではあるまい…。

 スタッフを含め周囲からの期待を一身に受け、鳴り物入りで堂々たるデヴューを飾ったグループであったが、プログレッシヴ・ロックなのか?フュージョンなのか?といった賛否やら物議を巻き起こしながらも、ウィグワム時代からの古いファンからはそっぽを向かれ、流行に敏感な新たなファンからは賞賛で迎えられるといった両極端な塩梅ではあったが、セールス面は上々の成果でリリース直後のフィンランド国内ツアーでは拍手と喝采を浴び、次回作への構想やら新曲の準備も併行して進められていたものの、聴衆や周囲のスタッフからの期待を余所にバンド自体は思惑とは裏腹にキーボーダーのOlliが精神的な疲弊に悩まされ、輪をかけるかの様にバンドを逼迫する財政難が彼等を追い詰め、結果的にOlli Ahvenlahtiが惜しまれつつバンドを去る事となり、残されたPekka始めSeppo、Vesaの3名はグループ名義での活動並びマテリアルの一切を放棄し、Pekka主導の許で心機一転Pekka Pohjola BANDにシフトして生まれ変わり再スタートを切る事となる。

 その後のPekkaの活動にあっては御周知の通り、ベーシストのみならずマルチプレイヤーへと転向し…ロック、ジャズ、ニューエイジへとジャンルの垣根を越えた多岐に亘る創作活動で本領発揮とばかりに自ずと才気を発揮し(かつてのチームメイトSeppo並びVesa両名の出入りの変動こそあったものの)、『Visitation』始め『Urban Tango』、『Everyman』、『Space Waltz』そして『Changing Waters』といった屈指の傑作と名曲を多数を連発し、迎えた1995年にはフィンランド大使館賛助・協賛による最初で最後の初来日公演を行い大成功を収め(当時マーキー誌のインタヴューで、『Keesojen Lehto』のレコーディング中ゲスト参加したマイク・オールドフィールドと大喧嘩して以降犬猿の仲になってしまい、その話に及ぶや否や“アイツまだ生きてんのかよ!”といった悪態を突いてスタッフを凍りつかせたのは有名な話)、その後に於いても97年の『Pewit』、そして2001年の(最後の遺作となった)『Views』リリース後の翌2002年突如のPekka急逝の悲報が全世界中を駆け巡り、彼の栄光と伝説…そして音楽世界と創作の大海への長い旅巡りはこうして静かに幕を下ろす事となる…。
             
 Pekka逝去から早18年、彼の遺した大いなる音楽遺産の素晴らしさは今もなお時代と世紀を越えて語り継がれ、今やフィンランド音楽界の偉人として讃えられている昨今、ウィグワム時代での名演含めソロアーティスト&バンドプロジェクト名義が殆どリイシューCD化され、肝心要のグループにあっては2017年に漸くリイシュー化され陽の目を見るといった吉報が届いたのは記憶に新しいところであろう。
 ボーナストラックが収録されたCD2枚組仕様となっており、次回作の為に収録されたであろうシベリウス・アカデミーオーケストラとの共演による未発表曲が収められた、改めてPekkaファン垂涎のマストアイテムであると言っても異論はあるまい。
 当時、時流の動向が好転に向かっていれば、グループとてまだまだ大いなる可能性と飛躍が見込まれていたと思うのだが、今となっては天に召されたPekkaと神のみぞ知るといったところであろうか…。

一生逸品 THE FOUNDATION

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 風薫る5月も終盤に差し掛かる今週の「一生逸品」は、北欧スウェーデンより80年代初頭~中期にかけて唯一の作品を遺し時代相応の彩りとディジタリィーな趣を湛えた、北欧特有のバンドカラーながらも良い意味でワールドワイドな作風を兼ね備えた“ファウンデーション”を取り挙げてみたいと思います。

THE FOUNDATION/Departure(1984)
  1.Walking Down The Avenue
  2.Crossing Lines
  3.Migration Time
  4.D‐Day Dawn
   a) Forces On The Way
   b) The Last Of All Battles
  5.Final Thoughts,Departure
  
  Johan Belin:Key
  Jerker Hardänge:G,Cello,Vo
  Roger Hedin:B, Stick
  Jan Ronnerstrom:Ds, Per,Vo

 北欧のプログレッシヴ・シーンの全容が紹介・解明されたのは、凡そ70年代末期から80年代初頭ではないだろうか…。当時にあっては、西新宿の『新宿レコード』で“今度、北欧からこんな作品が入荷します”といった程度扱いながらも、スウェーデンからはサムラ(ツァムラ)・ママス・マンナ始めボ・ハンソン、ケブネカイゼ、シンフォニック系の草分けでもあったトレッティー・オワリガクリゲット、ディモルナス・ブロ、フィンランドからビッグネームのウィグワム、タサバラン・プレジデンティ、ノルウェーからはアント・マリー、ルーファス、デンマークのサベージ・ローズ…位が関の山ではなかっただろうか。
 後にマーキーを経由に、カイパやダイス、イシルドゥルス・バーネといった多数の名作・秀作を輩出した存在を発掘するまでに至る次第であるが、これらバンド・アーティスト(グループ然りソロ活動も含めて)の貢献は後々にまで多大な影響を及ぼし、21世紀の今日まで多種多彩な個性を持った創作者・創造者を世に送り出しているのは言うに及ぶまい。
 そんな中…先に挙げた70年代のカイパ、80年代~現在のイシルドゥルス・バーネとの間(狭間)に輩出され短命な活動期間ながらも、独創的なスタイルで秀逸な作品を遺したアーティストも決して忘れてはなるまい。
 アンデルス・ヘルメルソン始めミスター・ブラウン、カルティヴェーター、ミルヴェイン、ミクラガルド、オパス・エスト…等、前後してフィンランドのタブラ・ラーサやノルウェーのケルス・ピンクが発掘されたのも丁度この頃であった。
それら発掘組に混じって、80年代に登場したニューフェイスとして鳴り物入りで華々しくデヴューを飾った、マイク・オールドフィールド系の正統な後継者トリビュートと共に我が国に入ってきたのが本編の主人公ファウンデーションである。
           
 後年ムゼアからのリイシューCDに付されていた詳しいバイオグラフィーを参照すると、バンドは1980年スウェーデンの小都市ノルコピンにて結成されたとの事。時期的にも筆者自身の青春時代と前後するから、個人的にも70年代のダイスと並んで80年代産のワンオフ的北欧シンフォニックの中では一番思い入れが強い(悪しからず…)。
 彼等自身影響を受けたアーティストに、スティーヴ・ライヒ、クラウス・シュルツェ、マイク・オールドフィールド、ヴァンゲリス、ジェネシスにゲイヴリエル、ポリス、EL&P、果てはストラヴィンスキーと多岐に渉る。
 バンド・ネーミングの意は“出発”或いは“財団”と二つの説があるが、後年バイオグラフィを参照すると、かのSF作家アイザック・アシモフの小説“The Foundation”にインスパイアされたとの事。いずれにせよ80年代のスタイリッシュな感覚を取り入れた時代相応の音色を得意とするバンドであるが故、まあなかなか的を得た命名であると言っても過言ではあるまい。
 使用している楽器…特にシンセ系にあっては、ミニモーグ始めモーグソース、ヤマハのCS80(ドン・エイリーも愛用の!)に当時リアルタイムの名器とも言われたDX7、ローランド・ジュピター6といずれも筆者にとっても非常に馴染み深いものばかりで、そういった点でも親近感を覚える要因であったのもまた然りである(忘れてはいけない、チャップマン・スティックも)。
 クールでモダンなシンフォニックを得意とする作風の中にも、そこはやはり北欧特有な抒情性と冷たくも爽やかな清涼感、天空を突き抜ける様な疾走感が見事に兼ね備わっていて、一朝一夕の新人バンドらしからぬ熟練ぶりが存分に堪能出来る事であろう。
          
 当時のポンプ・ロックを意識したかの様なフィーリングをまぶしながらも、カイパの1stにも相通ずる非凡なセンスをも感じる1曲目始め、果てしない地平線を疾走する様な感覚のシンセとギター、リズム隊の活躍が素晴らしい大作の2曲目、北欧という風土と佇まいが香るチェロの響きが美しくも渋い小曲の3曲目、クラシカルで壮麗なシンセとアコギに導かれ構築と破壊、平和と闘争をテーマにした音の緩急のバランス対比が絶妙な4曲目、LP原盤時代のB面ラストを飾る5曲目の大作にあってはマイク・オールドフィールドの作風と精神を継承しつつも、当時でいうニュー・エイジ・ミュージックやマインド・ミュージック、ヒーリングサウンドに近い趣が、只々儚く朧気ながらも美しいの一言に尽きる。
 改めてキーボーダーのJohanとギタリストのJerkerの非凡な才能と音楽スキルに裏打ちされた素晴らしい仕事っぷりには感服する思いである。
 アルバムリリース後、次回作の為に収録されたであろう2曲のボーナストラック“Red Roses (and my very best wishes)”と“Don't Wake Me Up”の出来も誠に素晴らしく、スイスのドラゴンフライの時と同様この2曲の為にCDを入手される事を躊躇なくお薦めしたい。
           
 改めて返す々々も次回作の為にこれだけのクオリティーがあったにも拘らず、結局様々な諸事情で新譜が世に出る事無くバンドは自然消滅という道を歩む事となる…。
 その後の各メンバーの動向にあっては現在でも音楽関係の仕事に携わっており、ドラマーのJanはバンド解体後、先に名前を挙げた同国のトリビュートと交流を深めつつも後年ドイツに渡り、そこを拠点に新たなKey奏者とサックス奏者と共にファンデーションをリスペクトしたクロスオーヴァーなバンドを立ち上げて音楽活動を継続中。
 キーボーダーでサウンドメーカーでもあったJohanは解体してから3年間は音楽活動を完全停止するも、現在はストックホルムにて自身が運営する音楽事務所兼プロデュース業と併行して後進の育成に携わっている。
 ギタリストのJerkerは同じくストックホルムのロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックにて音楽教師として教壇に立ち、プライヴェートでもR&B系のバンドに参加したり自身のチェロ・リサイタルを催すなど多忙を極めているとの事。
 残るベーシストのRogerは現在7人(!?)の子供の父親にしてストックホルムのスカラー・ミュージック・スクールにてコンテンポラリージャズ始めスウェーデンの伝承音楽を教える講師として多忙な毎日を送っている。
 ファンデーションというバンドの物語は一応ここで幕を閉じるが、彼等4人の夢と物語はまだ終わってはいない。
 それはあたかも唯一の作品に描かれた見果てぬ地平線へと目指す旅行者の如く…彼等もまた私と同様に終わりの無い旅路の途中なのかもしれない。

夢幻の楽師達 -Chapter 61-

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 「夢幻の楽師達」、久々の新たな書き下ろしによる正規の月イチ掲載ペースで帰って参りました!


 昨年夏よりブログサービスの移転に伴う心機一転で、過去に綴ってきた「夢幻の楽師達」と「一生逸品」に加筆修正を施し、毎週2回の掲載スタイルで『幻想神秘音楽館』のリニューアル…或いはセルフリメイク&リブートをお届けしてきましたが、60回目という節目を機会に週間掲載スタイルのリメイクを終了し、今回の61回目より本来正規の月イチ掲載スタイルに戻しての、ある意味本当の再出発を図った次第です。
 皆様これからも何卒御愛顧御支援頂きます様、改めて叱咤激励のほど宜しくお願い申し上げます。
 さて、冒頭でもお伝えした通り実に一年半ぶりに近い新しい書き下ろしによる、コロナ禍に見舞われた2020年今年最後の「夢幻の楽師達」は、栄えある再出発と新規再開に相応しく、21世紀プログレッシヴへと繋がる完全復興への礎を築いたと言っても過言では無い、70年代ヴィンテージ・プログレッシヴのスタイルと精神をリスペクト・踏襲し、今やかの同国のアネクドテンやパートス、フラワー・キングス、果てはカイパ・ダ・カーポと共に北欧スウェーデンの先鋒的存在として、今日に於いてなおもカリスマ的な神々しくも妖しい輝きを放ち続けている絶対的存在“アングラガルド”に焦点を当ててみたいと思います。

ÄNGLAGÅRD
(SWEDEN 1991~)
  
  Tord Lindman:G, Vo
  Jonas Engdegård:G
  Thomas Johnson:Key
  Anna Holmgren:Flute
  Johan Högberg:B, Mellotron
  Mattias Olsson:Ds, Per

 彼等との出会いはもうどれ位になるだろうか…?
 今を遡る事…もう27年も前のこと、自分自身あの当時は公私共にというべきか心身ともに決して良い状態とはいえない、まさしく絵に描いた様なバッドコンディションに近い状態で、その日その日を無作為に過ごしていた所謂抜け殻にも似た自己閉塞に陥っていたのを未だ鮮明に記憶しているのだから全く以って世話は無い(苦笑)。
 そんな心神耗弱ともいうべきスランプから一刻も抜け出そうと休暇を取り意を決して上京し、違う空気と環境に触れて少しでも気分転換を図ろうと、下北沢ザ・スズナリにて当時公演していた知り合いの劇団に顔を出したり、新宿歌舞伎町の今は無きTSミュージックにてストリッパーのお嬢さんを観たり、あとはお決まりの如く当時目白の某賃貸マンションにて運営していたマーキー誌の編集部とワールド・ディスクに足繁く顔を出したりといった、あたかも俄か東京人の如く三泊四日の漂白生活を過ごしつつ辛辣だった日常から逃れていたのは言うまでも無かった。
 そんなマーキー誌編集部に顔を出した折の事、当時編集長を務めていた山崎尚洋氏から最近スウェーデンから入ってきたニューバンドのデヴュー作なんだと見せられたのが、言わずもがなアングラガルドの記念すべき衝撃のデヴュー作『Hybris』(邦題「シンフォニック組曲」)で、マーキー/ベル・アンティークが手放しイチ推しで国内盤ディストリヴュートを決めただけあって、編集部内で初めて聴かされた時のインパクトの大きさとあまりの感動に言葉を失い、疲弊しきっていた心身も綺麗に洗い流され、何だか漸く救われた気持ちになったあの当時の忘れ難い記憶として今も留めている。
 残念ながら肝心要のCDは今手許にあるサンプルの一枚だけしかなくて、初回リリース分は既に完売し店頭にあったのはノルウェーの新興レーベルColoursからリリースされたアナログLP盤のみという状況ながらも迷う事無く喜び勇んで購入し、その数時間後には西新宿の某輸入盤店まで出向き漸く国内盤CDを入手し、宿泊先のビジネスホテルのベッドに横たわりながら両方の音源を眺めつつ一人ニンマリと悦に入っていたから、我ながらあの時はまだ本当に若かったんだなァと思う事しきりである。
 ああ…そうそう、母国スウェーデンプレスCDのリリース元が名器メロトロン(通称:プログレ骨董音楽箱)をもじったMellotronenなるレーベルというのも大いに頷けたよなぁ。

 1991年スウェーデンの首都ストックホルムにて、ヴォーカリストのTord Lindman、そして盟友的存在のベーシスト(メロトロンのエフェクト担当も兼ねる)Johan Högbergの2人を中心に、キーボーダーのThomas Johnson、ギタリストのJonas Engdegårdが加わり、70年代イズムのブリティッシュ・プログレッシヴスピリッツをリスペクトしたバンドスタイルを確立させ、それに呼応するかの如くドラマーのMattias Olsson、そして紅一点のフルート奏者Anna Holmgrenが参加し、翌1992年の春に至るまでリハーサルと録音に費やした末、驚愕と奇跡をも孕んだ屈指のデヴュー作『Hybris』が満を持してのリリースとなる。
 かつての70年代スウェディッシュ・プログレッシヴの一端を担ったカイパやダイス、アトラスにも匹敵する感動と興奮を携えた純然たるシンフォニーの結晶は、国内外のプログレッシヴ・リスナー達から歓喜と賞賛の声を集めると共に、一躍にして20世紀末のプログレッシヴ・マストアイテムとして数えられる様になった本デヴュー作。
 スイスのSFFはおろかアメリカのカテドラルの音楽世界観を更に深く重く仄暗くしたかの様な、クラシカル且つ陰影と憂いを帯びたピアノと不穏で緊迫感漂うコーラスメロトロンに導かれ、あたかもイエス始め初期のクリムゾンやジェネシスをも彷彿とさせながらも、北欧ゴシック調でヘヴィネスなシンフォニック空間はリスナー諸氏が思い描く通りの北欧のイメージそのままを醸し出しており、月光輝く妖しくも幻惑的な漆黒の森と湖、精霊の息遣いをも想起させるダイアモンドダスト、北欧神話やトロール伝説がまざまざと甦る様相は、まさしくこの一枚のアルバムに集約されていると言っても過言ではあるまい。
  
 名器のハモンドオルガンも然ることながらメロトロンにソリーナ、クラヴィネット、フェンダーローズといった鍵盤群に加え、リッケンバッカーにモーグのタウラスペダル、クラシカルなナイロン弦ギターに多種多彩なパーカッション、フルートといった、かつての70年代の黄金期よろしくと言わんばかりな雛形通りの編成に、たとえ時代錯誤だ逆行だと言われようとも徹頭徹尾に我を貫き通した真摯で高邁な姿勢に感服し、当時イタリアの新鋭だったカリオペすらも遥かに凌駕する位の大いなるプログレッシヴ再興への道筋を切り拓き、後々の70'sヴィンテージスタイル路線を継承したシンフォニックの先駆け的な礎として認知され、今日の21世紀プログレッシヴの一端へと繋がる架け橋的な指針となったのは最早言うには及ぶまい。
 ちなみにLPとCD両方に共通している意匠だが、ジャケット裏面にフォトグラフされた北欧の深き森にポツンと佇みながらも威風堂々と鎮座したメロトロンが、何ともいえない渋さと味わい深さを醸し出しててデジタリィーな風潮一辺倒だった当時のプログレッシヴ業界への意味深な宣戦布告をも思わせるみたいで、実に痛快極まってて面白い。
 余談ながらもバンド名をスウェーデン母国語通りの発音だとエングラゴーと呼称し、失礼ながらもリリース当初“シンフォニック組曲”なんて取って付けた様な安易な国内盤タイトルであったが、『Hybris』そのものをGoogle翻訳で直訳すると自信過剰という大いに的を得た意に苦笑することしきりである(後年ディスクユニオン/アルカンジェロから国内盤紙ジャケットCDでリイシューされた際は、“傲慢”なるタイトルに変更されたのも納得)。

 デヴュー作が国内外で高い評価を得た事を追い風に、スウェーデン国内含む北欧圏でのライヴサーキットを始め、翌1993年にはアメリカはロサンゼルスで開催のProgfestからの招聘を受けフェス出演と同時進行で北米ツアーを敢行し聴衆から歓声と熱狂で迎えられ、アングラガルドは名実共に確固たる世界的な地位を得る事となる。
 アメリカから帰国後の興奮冷めやらぬまま、次回作の為の準備と入念なるリハーサルに取りかかった彼等は、翌1994年デヴュー作での収益を活かして自らのバンドネームを冠したセルフレーベルを設立し、デヴュー作の延長線上ながらもストリングセクションをバックに配し、より以上にシリアスで内省的な路線となったヴォーカルレスの2作目『Epilog』という、文字通り“終焉”ともいうべき意味深なタイトルを引っ提げて、良くも悪くも国内外のプログレッシヴ・リスナー諸氏から大いに物議を醸す事となる。
    
 セピアカラーに染まった鬱蒼とした森林をバックに、あたかもコクトー・ツインズやデッド・キャン・ダンスを擁する4ADレーベル風な意匠を含め、不気味な心霊写真をも想起させるフォトコラージュにやや作り込み過ぎという意見もある中、『Epilog』は前作以上のセールスを伸ばしつつある一方で、バンド内では(決して不協和音という訳ではないが)一種悟りの境地よろしくアングラガルドとして演れる事は概ね演り尽くしたといわんばかりに、メンバー各々が独自の方向性と歩みを見い出し、同年の北米Progfest出演を最後にバンドを解体する事を決意。
 件のProgfestでのラストステージの模様を収録したレクイエム的な趣の『Buried Alive』と銘打ったライヴアルバムを2年後の1996年にリリースし、公言通り第一時期アングラガルドは静かに幕を下ろす事となる。

 バンド解体後ヴォーカリストのTord Lindmanは、完全にロック畑から身を引いた形で映画音楽界に身を投じ現在もなおそのキャリアを継続。
 その一方で残されたメンバー5人はそれぞれ独自の創作活動に勤しみつつも、2003年一時的ながらも期間限定でアングラガルドを再編し国内ツアー敢行で改めてその存在感たるものを実証するものの、再結成期間の終了と共に再び沈黙を守りつつ、ドラマーのMattias Olssonは旧知の間柄だったPar Lindh主宰のシンフォニック・プロジェクトへの参加を始め、スウェーデン国内外問わず世界を股に架けたプログレッシヴ系ミュージシャンとのジョイント・コラボやマテリアルでその名を馳せ現在もなお精力的に活動中。
 キーボーダーのThomas Johnsonは自身の音楽プロジェクトに勤しむ一方で国内のポストロック・プロジェクトのアンバサダーとして多忙の日々を送っているとのこと。
 ベーシストにしてバンドの中心人物でもあったJohan Högbergに至っては後年Johan Brandとしてアーティストネームを改名し、近年は自身が主宰するシンフォニック・プロジェクトALL TRAPS ON EARTHを結成、そのデヴュー作『A Drop Of Light』(Thomas Johnsonもキーボードで参加している)が大きな注目を集めたのも記憶に新しい。

 個々での創作活動が表立って、肝心要なアングラガルド本隊の復帰が長年待たされ続けたものの、バンドを支持する大勢のファンやリスナーの呼び声に呼応するかの如く、予期せぬ吉報が突如舞い込んだ2012年、Johan Brand(Johan Högberg)を筆頭に、Jonas Engdegård、Mattias Olsson、Thomas Johnson、Anna Holmgrenのオリジナルメンバー5人の布陣で、実に18年ぶりとなる通算3作目の新作スタジオアルバム『Viljans Öga』(“ウィルの目”という意。邦題は「天眼」)という、Johan Brand自身の手によるアートワーク総じて実に彼等らしさが際立った不変で妥協無き傑作を世に送り出す事となる。
    
 期待に違わぬ完全無欠に近い復活作を携えて、再び21世紀のプログレッシヴ・シーンに帰還した彼等であったが、翌2013年オリジナルメンバーのAnna HolmgrenとJohan Brand以外のメンバーをまたもや一新する事となる。
 何とギタリスト兼ヴォーカリストとしてオリジナルメンバーだったTord Lindmanが再びバンドに復帰する事となり、新加入の2人のメンバーとしてキーボードにLinus Kåse、そしてドラマーにErik Hammarströmを迎えた更なる新布陣となり、同年の3月には遂に待望の初来日公演を果たし、その公演の模様が収録された2枚組ライヴ『Prog På Svenska - Live In Japan』を翌2014年にリリース。
 更に翌2015年にはオリジナルギタリストのJonas Engdegårdが再び合流復帰し、改めて6人編成で臨んだノルウェー公演を収録したDVDとBlu-rayの2枚組豪華仕様の映像ソフト『Made In Norway』を2017年リリースし今日までに至っている。

 アングラガルドが復活並び活動再開してから早8年が経過し、今や2020年のコロナ禍という未曾有の災厄が世界中に蔓延震撼している昨今であるが、そんな過酷な状況の21世紀のプログレッシヴ・シーンではあるものの、北欧のみならずイギリス始めイタリア、フランス、ドイツ、西欧、東欧、果ては北米大陸、南米諸国に極東ロシア、そして我が国日本もソーシャル・ディスタンスやオンライン・ネットワークを駆使しつつ、各々が距離を保ちながら新生活スタイルを取り入れた揺ぎ無い創作活動に勤しんでいるのが実に頼もしくも誇らしい。
 おそらくは…遅かれ早かれこのコロナ禍の収束と共に、彼等アングラガルドも再び本腰を入れて新作の準備に取りかかる事だろうと私自身信じて疑わない。
 その時こそコロナ禍を巡る様々な人の心の奥底に潜む暗部と闇を抉り出すようなテーマになるのか、或いは純粋なる文芸路線をテーマに旋律(戦慄)を謳い奏でるのかは、今はまだ皆目見当が付かないものの、必ずや聴衆とリスナーの期待を裏切らない(むしろ良い意味で期待を裏切る様な)心を鷲掴みにする様な野心に満ちた衝撃作を世に送り出してくれる事を願わんばかりである。

一生逸品 BLÅKULLA

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 心なしかコロナ禍の収束に向けて少しずつではありますが漸く明るい兆しが見られつつある昨今、皆様如何お過ごしでしょうか…。 
 暗澹たる御時世さながらに凍てつく様な厳冬も日に々々薄らいで、あたかも春の訪れの喜びにも似通った温かさと雰囲気が朧気ながらも仄かに感じられる様になりました。
 今年最初の「一生逸品」は、そんな季節の移り変わりに相応しい北欧スウェーデンより、かねてから70年代中期~後期にかけて登場したカイパ始めダイス、そしてアトラスと並んで高い評価を得ながらも、惜しむらくは短命に終わってしまったスウェディッシュ抒情派シンフォニックの隠れた逸材として、まさに知る人ぞ知るであろう…21世紀の今なお数多くの賛辞を得ている“ブラキュラ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

BLÅKULLA/Blåkulla(1975)
  1.Frigivningen 
  2.Sirenernas Sång 
  3.Idealet 
  4.De får La Stå Öppet Tess Vidare 
  5.Maskinsång 
  6.I Solnedgången 
  7.Drottningholmsmusiken 
  8.Världens Gång 
  9.Erinran 
  
  Dennis Lindegren:Vo, Per
  Mats Ohberg:G
  Bo Ferm:Key
  Hannes Råstam:B
  Tomas Olsson:Ds

 個人的な思い入れながらも恐縮であるが、このアルバムとの付き合いも早いものでもう20年以上になるだろうか…。
 当然の事ながらオリジナルのアナログLP原盤云々ではなく、1997年に母国スウェーデンにてリイシューされたCDをマーキー誌のベル・アンティークより国内盤にディストリヴュートされたもので、更に遡ればマーキーが刊行したユーロ・ロック集成の再版時に、半ば未紹介発掘レアアイテムといったプラスアルファな補填という形で急遽紹介された作品群に於いて今回本篇の主人公でもあるブラキュラも取り挙げられており、まさしくグッドタイミングな渡りに舟といった感で彼等ブラキュラは多くのユーロ・ロックリスナーにその名が広範囲に知られる事となった次第である。
 ネーミングからして(失礼ながらも)かの吸血鬼ドラキュラの類似とお思いになられる方々もおられるかもしれないが、当たらずも遠からず(苦笑)吸血鬼ではないが、当時国内盤のライナーを担当執筆された祖父尼淳氏のお言葉を拝借すれば「英訳するとBROCKEN(東西のドイツに跨るブロッケン山)でもあり、スウェーデン流に解釈すると“古き妖精物語”の意でもある」とのことで、更に解釈を突き詰めるとスウェーデンとエーランド島の間のバルト海に浮かぶBLAKULLAなる小さな島の名で、そこでは魔女達がイースターの日にティーポットを小脇に抱え黒猫をお供にほうきに乗って集った場所でもあるそうな…。
             
 まあ…ドラキュラも魔女もいかんせん似たり寄ったり西洋の妖(あやかし)みたいなものだからねぇ(苦笑)。

 前置きはさておき、彼等が辿った歩みに遡ってみたいと思う。
 1971年に世界的規模で花開いたばかりのプログレッシヴ・ムーヴメント真っ盛りのさ中、スウェーデンは地方都市イヨテボリで結成された、ブラキュラの前身バンドKENDALこそが彼等の出発点である。
 当初のラインナップはヴォーカルのDennis Lindegren、ギターMats Ohberg、キーボードBo Ferm、ドラマーTomas Olsson、そしてベースはSteiner Anderssonの5人で、結成当時はハードロック転換期前夜の初期ディープ・パープルに触発されたヘヴィなアートロックをレパートリーに、徐々にプログレッシヴな方向性へとシフトした、クラシカル且つスペイシーな作風のオリジナルナンバーをも手掛ける様になり、1974年までの間はセミプロながらもスウェーデン国内のロックフェスティバルや様々なステージで音楽経験を積み重ね、国内ではかなり名の知れた存在へと上り詰めていく。
 その後人気の追い風に乗るかの如く、1974年の春に落成した地元イヨテボリの新しい音楽スタジオTal & Ton Studioからの懇意というか、落成記念のよしみでデモテープ製作の依頼を受けた彼等は3曲の音源を録音し、この機を弾みに本格的デヴューに向けての地固めに奔走し更なる新曲作りとリハーサルに日々を費やす事となる。
 だが幸先の良いスタートを切ったにも拘らず、音楽性の食い違いが表面化しベーシストのSteiner Anderssonがバンドを抜けるといったバンド存続を揺るがす危機が訪れ、KENDALはあわや空中分解一歩手前までに陥るところであったが、人伝というかコネが活きたというべきかポップス専門のレーベルAnette Recordの目に留まった彼等は、レーベルサイドの尽力で旧知の間柄だったHannes Råstamを新しいベーシストに迎え、バンドネーミングもプログレッシヴな気運に呼応するかの様にブラキュラと新たに改名しデヴューに向けての再出発を図る事となる。
 この頃ともなると初期のパープルのみならずイエス、ジェネシス、そしてフォーカスといった当時のプログレッシヴ・シーンのパイオニアからの影響が大きく反映されたサウンドスタイルへと転化していた彼等は、同時期にデヴューを飾ったかのカイパと並びスウェーデン国内のプログレッシヴシーンを担う期待の新星として注目を浴びたのは言うに及ぶまい。
          
 冒頭からイエスの「同志」を思わせるレコーディングスタジオ内での“OK?”の言葉で始まるアコースティック・ギター弾き語りによる、何とも優しくて温かみすら感じさせるスウェディッシュ・フォーキーなナンバーに彼等の音楽性のバックボーンというか身上が垣間見える。
 ハウやハケットにも負けず劣らずなトラディショナルでアーティスティックなアコギの爪弾きに心が和む思いですらある。
 如何にもといったプログレッシヴな感に溢れたハモンドの響鳴に導かれ、ヘヴィなギターとリズム隊が畳み掛ける様に被さってくる2曲目も聴き処満載で、初期パープルに触発されたルーツも然る事ながらデヴュー期のイエスさながらをも彷彿とさせるメロディーラインに北欧のフィーリングが程良く溶け合った非凡なセンスに脱帽せざるを得ない。
 2曲目と同系列ながらも続く3曲目の満ち溢れんばかりなプログレッシヴ・フィーリングには、感嘆の溜め息と共に溜飲の下がる思いですらある。
 4曲目は一転してヴォーカルレスな乗りの良いプログレッシヴなジャムセッションばりの小曲インストナンバーで、この辺りは概ねフォーカスからのサジェッションがそこはかとなく滲み出ており良い意味で意外性があって面白い。
 イタリアン・ロックばりに近い硬質で重厚な作風に加え、小気味良いメロディーの刻み方が印象的な5曲目にも要注目なナンバーで徹頭徹尾にハモンドの大活躍が素晴らしい。
 プログレッシヴなハモンドの使い方はやっぱりこうあって欲しいよなぁ…と思わず頷きたくなる様な渾身の一曲であろう。
 御大のキャメル或いは同国のカイパをもやや意識したかの様な、リリカルさとユニークさが同居したメロディーラインが実に心地良い6曲目、前出の4曲目に次ぐインストナンバーでもある7曲目に至ってはクラシカルな宮廷音楽さながらのフォーカス並びGGばりのサウンドシチュエーションながらもソフトでライトでポップなエッセンスすら散見出来る楽しくて愉快なナンバー。
 味わい深くて切々とした歌心溢れる抒情的でメランコリックな北欧トラディッショナルが心に染み入る、エレジーなアコースティック弾き語りナンバーの8曲目には目頭が熱くなる。
 ラストを飾る9曲目は気楽でラフなインプロビゼーションをも想起させるジャムセッション風のイントロデュースを皮切りに、深みのあるハモンドの響きに相対してヘヴィなギターとリズム隊との対比と応酬から一気にクールダウンの如く収束し、爪弾かれるアコギに先導されてエピローグへの大団円へとなだれ込む様は、(まあいつでもそうなのだが…)お世辞抜きで良いプログレッシヴのアルバムに出会えて本当に良かったなぁと心底思える感激以外の何物にも代え難いものがある。

 Anette Recordの後押しの甲斐あって、記念すべきデヴューアルバムはセールス的には概ね好評な成果を残す事が出来たものの、レーベルサイドの方針とバンドサイドとの音楽性が今ひとつ噛み合わず、やや中途半端で物足りなさは否めないという課題が露見しつつも、ブラキュラは精力的にギグをこなし次回作に向けてのプランと反省点の埋め合わせをこなしていく日々を送っていたが、運命とはつくづく残酷なもので1975年12月一身上の都合でキーボーダーのBo Fermがバンドを抜けてしまい、サウンドの要を失った彼等はバンドを運営する経済面での悪化やメンバー間の心身の疲弊が重なって、悲しいかな1976年を待たずしてやむなくバンドの解散を決意し、知らず々々々の間に表舞台から去って行く事となる…。
 片やその一方で同年にデヴューを飾ったカイパが大々的な成功を収め、精力的な活動でスウェーデン国内のみならず北欧圏を代表するバンドへと成長し快進撃を成し遂げるといった真逆な道程を辿った事を思えば、カイパに負けず劣らずバンドとしての演奏力やらオリジナリティー総じて申し分の無い位の実力を誇っていたにも拘らず、ただ単に運とツキが無かっただけの事が皮肉でもあり恨めしく思えてならない。
           
 バンド解散後の各々のメンバーの動向として分かっている範囲内で恐縮であるが、リズム隊として活躍したHannesとTomasの両名はその後フォーク&トラディッショナル路線へとシフトし、Tomas自身にあってはセッションドラマーとしての活動も併行しているとのこと。
 ヴォーカリストのDennisは1978年にKaj Kristallというアーティストとして改名し何枚かのスウェディッシュ・ポップス系のアルバムを発表、ギタリストのMatsとは何度も共演しており、その当のMatsにあっては医師として医療の現場に従事しており余暇があればクラシックギターをプレイしている人生を謳歌しているそうな。
 そしてキーボーダーだったBoにあっては、驚くべき事に大手フィリップス・レコードのアメリカ支社長に就任するという大出世を遂げたのだから、まあ…良い意味で開いた口が塞がらないとはこの事である(苦笑)。
 そんなかつてのメンバー達のその後の動向を余所に、ブラキュラが唯一遺した一枚のアルバムは同国のダイスやアトラスと同様に高額なプレミアムが付いたまま、ユーロロックコレクターや一部のマニア達からの口コミでその後大きな話題と評判を呼び、バンド解散から22年後の1997年…デヴュー前に収録された3曲の未発表デモ音源がボーナストラックとして復刻された正規のCDリイシューとして世に出る事となり、これを機にブラキュラの評価は一気に高まったと言っても過言ではあるまい。
 何よりも前出で触れたボーナストラック3曲のデモ音源“Mars”、“Linnéa”、“Idolen”にあっては、よもやデヴュー以前にこんな凄いクオリティーを有する未発音源があったのかと驚嘆することしきりで、この貴重な素晴らしい秀曲に触れられるだけでも一聴の価値はあると声を大にして言いたい。
 一部からはメロトロンやモーグ、アープが使用されていないとか、楽曲的に物足りなさが感じられるといった何とも手厳しいお言葉もあるにはあるが、それでは彼らに対しあまりも理不尽でもあり早計であるというもの…。
 一見して地味目なジャケットアートながらも、あの当時の若き彼等の純粋なる無垢な夢と希望が思いの丈にぎっしりと詰まった、苦労の末ほろ苦くも楽しかった青春時代の思い出の一頁に他ならない…ブラキュラ唯一のアルバムに触れる度毎に、あの70年代の素敵で良質な時代の断片をも反芻する思いに捉われるのは(年齢の所為かもしれないが)もはやいた仕方あるまい。
 何度も言及するが、思い出とは未来永劫決して色褪せないものなのである…。

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