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03,2019
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8月第二週目の「夢幻の楽師達」をお届けします。
過去のNECウェブリブログ時代の文章データをFC2へと移植し、加筆と修正を施して完全新生並び復刻リニューアル・セルフリメイクするという我ながら無謀ともいえる途方も無い作業に移行してからというもの、意外や意外…不思議と苦にならず何故だかとても楽しい気持ちで日々を過ごしている今日この頃です。
先週はイタリアン・ロックでしたので、今週はバリエーション豊かに自らの引き出しからフレンチ・ロックシーンきっての夢想家にして抒情派を謳う“ピュルサー ”に焦点を当ててみたいと思います。
PULSAR
(FRANCE 1970~)
Gilbert Gandil:G, Vo
Jacques Roman:Key, Mellotron
Roland Richard:Flute, Piano, Syn
Michel Masson:B
Victor Bosch:Ds, Per
思い起こせば…我が国に初めてフランスからピュルサー(当時はパルサーとも呼ばれていたが)なる存在が紹介されたのは、1978か79年頃ではなかろうか。
70年代末期に於いて、当時の新宿レコード…或いはエジソン、モダーンミュージック、ディスクユニオンといったマニア御用達の専門店でしかお目にかかれなかったであろうユーロピアン・ロックの名匠達。
大多数の名作・名盤で犇めき合っていたイタリア勢とドイツ勢とはまた違った異彩を放っていたフランスのロックシーン。
マグマ、アンジュといった両巨頭を皮切りにザオ、エルドン、クリアライト、タイ・フォン、モナ・リザ、後に我が国で爆発的な評判を得るアトール、そして夢想的な浮遊感ながらも堅実な作風を誇る今回の主人公ピュルサー辺りが、(ジャズロックとシンフォニックを総括した意味で)フレンチ・プログレッシヴの代表的な存在と言えるだろう。
大手のワーナーからワールドワイド・リリースでかなりの知名度を得ていたタイ・フォンを別格とすれば、日本の国内盤リリースでキングを経由してピュルサーの2nd『The Strands Of The Future(終着の浜辺)』が、松本零士氏の手掛けた特典イラストポスターというおまけ付きという相乗効果で、かなりの評判を得ていたのも丁度この頃であろう。余談ながらも、あの大御所アンジュでさえも日本フォノグラムから細々とお粗末な国内盤が出回る程度の扱いで…おまけにあの国内盤でのあんまりな装丁(知る人ぞ知る)には閉口せざるを得ない(苦笑)。
前置きが長くなったが、2作目の『The Strands Of The Future』での日本国内での好セールスで拍車をかけたピュルサーは、ユーロ・ロックコレクション元年ともいえる1980年、記念すべきデヴュー作『Pollen(脈動星) 』がキングからシリーズの第1弾としてめでたくラインナップに加えられた次第である。
時代を遡る事1966年…。当時地元リヨンの学生で、後々バンドの中枢的な立場ともなるGilbert Gandil(G)、Victor Bosch(Ds)、Jacques Roman(Key)の3人によってピュルサーの歴史は幕を開ける。
ビートルズ始めストーンズの洗礼を受けて音楽活動を始めた彼等は、その後も各々がクリーム、ジミ・ヘンドリックス、オーティス・レディング、ナイス…等に触発されるうちに徐々に自らの音楽スタイルを形成し、ピュルサーの前身でもあるソウル・エクスペリエンス→フリー・サウンドへとバンド名を変えながら68年頃まで活動していた。
ドラマーのVictorの言葉では、当時のバンド・カラーはサイケデリックでロマンティシズムなスタイルを追求していたとの事。
時代は70年代に入り、ピンク・フロイド始めソフト・マシーン、ジェスロ・タルといった当時のブリティッシュ・シーンの第一線で活動していた時代の先鋭なる寵児達に触発され、漸く自らの理想の音楽なる回答を得た彼等はバンド名をピュルサーと正式に改名し、この頃にはオリジナルのベーシストPhilippe Romanを加えた4人編成でオリジナルのナンバーに加えて尊敬していたフロイドの“原子心母”からの抜粋曲や“ユージン、斧に気をつけろ”といった曲の半々をレパートリーに、地元リヨンを拠点にフランス国内で精力的に活動していた。
1972年、彼等ピュルサーにとって後々の運命を決定付ける千載一遇の大きなチャンスが巡ってきた。フランスの老舗ライヴハウス“Golf-Drout”にて、国内各地の名立たる猛者が一同に会したロック・コンテストでベスト6圏内に見事に勝ち残った彼等は、当時デヴュー間もないアンジュと共に貴重なライヴ音源を残す事となる。そう…所謂これがかの有名な大手フィリップスからリリースされた『Groovy Pop Session 』である。
その後アルバム・デヴューを飾るまでの2年間は、イギリスのファミリーの前座を務めたりフランス国内で以前にも増して精力的に演奏活動に専念する事となり、日に々々知名度を上げながらも演奏するキャパシティーも大きくなりつつあった。もうこの頃ともなるとオリジナルのナンバーを中心に演奏してたのは言うに及ぶまい。
73年末、ツアーの終了後にデモを製作しフランス国内外のレコード会社数社にコンタクトを取ったものの、当時のフランス国内の会社は自国のアーティストには殆ど興味を示さず、マグマやアンジュのプロモートで手一杯だったフィリップスを例外としても、サンドローズのセールス不振で憂き目を見たポリドール然り、フランスにしろ日本にしろ…とどのつまりはどこの国でも似た様な話、フランスがシャンソンやフレンチポップアイドル、日本でも歌謡曲やらアイドル歌手に音楽産業として重点を置いていたあの当時は、まだまだロックが大々的に市民権が得られていない不毛の状況下で及び腰になっていたのも理解出来なくもない(苦笑)。
そんな厳しい状況のさ中、イギリスはデッカレーベル傘下のKingdomからキャラバンのプロデューサーを務めたテリー・キングの目に留まり、ピュルサーは74年の春Kingdomと契約しリヨン郊外はSaint Etienneスタジオにて1ヶ月間かけてレコーディングし、同年10月待望のデヴュー作『Pollen』をリリースする。
ちなみに遅れ馳せながらも、フルート始め管楽器系からストリング・シンセを手掛けるRoland Richardが5人目のメンバーとして正式に加わったのも丁度この頃である。
記念すべきデヴュー作『Pollen』、所謂“花粉”という意味深なタイトルと相俟って深遠な宇宙空間を浮遊する生命=種の源ともいうべき、荘厳にしてスペイシーでサイケデリックな名残をも感じさせつつ…あたかも夢遊病の如く朧気な彷徨にも似たイマジネーションを想起させ、多少粗削りな部分こそ散見出来るもののデヴュー作にして外宇宙と内面宇宙との饗宴と調和を謳ったテーマは、ある意味に於いて野心作でもあり傑作であるといっても過言ではあるまい。
『Pollen』の評判はフランス国内は元よりイギリスでも上々で、作品リリース直後彼等はイギリスへ渡り、概ね1ヶ月間のサーキットでプロモーションツアーを敢行し、ロックの殿堂マーキークラブを皮切りにイギリス国内の数ヶ所でギグを行い、それと併行してキャメルやアトミック・ルースターの前座を務めたりしながら、彼等の評判は次第にヨーロッパ諸国で注目を集める事となる。
翌75年、彼等はフランスに帰国し次なる新作への準備に取り掛かるが、それと前後してベーシストのPhilippeがツアーによる心身の疲弊と穏やかな暮らしと生活を送りたいというかねてからの希望によりバンドから離脱。後任ベーシストを入れない4人編成(KeyのJacques Romanがベースを兼任)で、スイスのジュネーブにて2nd『The Strands Of The Future』をレコーディング。サウンドエンジニアにはイエスの一連の傑作を手掛けた敏腕クリス・ペニィケイトを迎え、ベース不在のハンデを感じさせない位の渾身の力と気迫に漲ったテンションでバンドの危機を見事に乗り切って、翌76年9月に第2作目『The Strands Of The Future(終着の浜辺) 』をリリース。
本作品から漸く導入されたメロトロンを効果的に活かしたその前作以上の深遠で終末感漂う世界…哀愁と抒情が渾然一体となった彼等ならでは唯一無比の音空間は、最早バンドの人気を完全に決定付けたといっても異論はあるまい。
バンドの人気と実績が決定付けられた片やその一方で、以前からサウンド・クオリティーに不満を持っていたバンド側と、プロモショーンに余り乗り気で無いKingdomレーベルとの間に軋轢が生じ、結果ピュルサーはKingdomとの契約を解消し、より以上に理想的な環境が整った新天地を目指し、同時期に好条件を提示して移籍を持ちかけたフランスCBSと程無くして契約を結ぶ事となるのだが、後年Victor曰く“CBSとの契約は本当に恥ずべき大間違いだった… ”と回顧している。
尚…余談ながらも、この頃バンドツアーのライト・ショウを担当していたスタッフでベースも弾けたMichel Massonが正式に加入し、バンドは再び5人編成に戻っている。
先のVictorの後悔云々はともかくとして、大手CBSでの充実したサウンド・イクイップメントを含む好環境に乗じて、翌77年彼等自身の音楽の集大成と言っても過言では無い、20世紀のユーロ・ロック史に残る最高傑作にして名作として掲げられる『Halloween 』をリリース。
彼等自身が書き下ろしたオリジナル・ストーリーをモチーフに、本作品を構成する抒情性、美しさ、哀しみ、ミステリアス…等が見事なまでに集約・昇華された、文字通りプログレ衰退期に差し掛かっていた当時に於いて一抹の光明をも見出せる様なそんな趣すら窺える。
しかし…運命とは何とも皮肉なもので、素晴らしい好条件の許で全身全霊を注ぎ込んで作った傑作であるにも拘らず、当時世界的に勃発していたパンク&ニュー・ウェイヴといった産業音楽の波から疎外され、加えてCBSのプロモート不足という体たらくな原因が元で、『Halloween』はセールス不振に陥り、バンド側とCBSの関係は悪化の一途を辿ってしまう。
要は早い話…会社には入れてあげるけど、作品をリリースしたらあとは全部自己責任ですよと言わんばかりの遣り口に引っ掛かってしまった様なものである。
当然の如く、プロモートツアーでの援助からバックアップも無し、宣伝費用は全部自己負担…結果を残さなければ即放出という冷酷な音楽産業の仕打ちに、これにはメンバー全員心身共に辟易してしまうのも無理はあるまい。
おまけに『Halloween』をリリースする前、CBSは1stと2ndのリイシュー盤を出したものの、ここでも会社側はバンドには一銭も払っていないというから開いた口が塞がらない。
金銭的な困窮に喘ぎながらも、彼等は最後の力を振り絞ってポルトガルはリスボンで2日間のコンサートを開催。
トータル20000人を動員し大成功を収めるものの、フランス国内の音楽産業に不信感を抱いたまま活動意欲の低下に加え、ベーシストが照明関係の仕事に戻った事を契機にメンバーが一緒に顔を合わせる機会も徐々に少なくなり、各々が音楽以外の職種に就いた事も重なって、解散声明こそ出さなかったもののピュルサーは一時的に開店休業の状態に陥ってしまう。
そして時は流れ、時代は1981年…。公式な音楽活動こそしてはいなかったものの、Jacques、Gilbert、Victor、そしてRolandの4人は仕事の合間を縫っては時々顔を合わせ、(ほんのお遊び程度ではあるが)セッションやリハーサルといった、半ばリハビリに近い音楽活動で自己の再生と回復に努めていた。
そんな折、演劇とコンテンポラリーダンスとの融合による舞台『Bienvenue Au Consell D'administration! 』での劇伴用音楽としてピュルサーに白羽の矢が当たり、彼等4人は再び観衆の目の前で舞台での演者達と共に素晴らしいライヴ・パフォーマンスを披露し、その結果…リヨンでの一年間、果てはパリでの1ヶ月ものロングラン公演で予想を大きく上回る大成功を収め、フランス文化庁からの助成金で同舞台の音楽をレコード化するまでに至った次第である。
一般のレコードショップには出回る事無く、芸術作品の一環として舞台会場のみでしか流通しない特殊な事情を考慮しても、ある意味に於いて本作品こそがピュルサー復活の狼煙でもあり起爆剤となったのは紛れも無い事実であると同時に、正規のピュルサー名義としての作品では無い分、劇伴作品という制約上幾分散漫な印象は否めないが、原点回帰と言わんばかりに1stと2nd期の作風に立ち返ったかの様なシンセ系の使い方に“やはり…これこそがピュルサー”と賞賛する向きも決して少なくはなかろう。
この功績を機に、2年後の1983年にはラジオ・フランスからの企画と招へいで、地元リヨンでの一日限定ライヴを行い、限られたキャパシティにも拘らず新旧のファンを問わず2000人もの聴衆を動員するという大成功をも収め、まさにフレンチ・プログレにピュルサー有り!と強く健在振りをアピールした。
駆け足ペースで恐縮だが、その後ピュルサーの4人はイヴェントやら企画云々では無い正規のバンド再起動に乗り出す事となり、丁度運良く時同じくしてフレンチ・プログレッシヴ・リヴァイヴァルという合言葉の許、ムゼア・レーベルの発足に呼応するかの如く、各々が仕事の合間を縫っては新曲の製作とリハーサルに時間を費やしていく事となる。
1987年末、ムゼアからのシンフォニック系のコンピレーションアルバムとしてリリースされた『Enchantement』の中で、アンジュ、アトール(クリスチャン・ベアのソロ名義)といったベテラン勢、そしてエドルス、ミニマム・ヴィタル、J・P・ボフォ…等といった当時の新進気鋭に混じってピュルサーも久々に新曲を披露し、時代相応らしい軽快なプログレッシヴ・ポップス調の新たな側面をも垣間見せてくれたのだった。
そして2年後の1989年の秋にリリースされた通算第5作目の『Görlitz 』は、77年の名作『Halloween』に続くコンセプト・アルバムとして一躍脚光を浴び、前出のコンピアルバムで聴かれた軽快な新曲とはガラリと趣を変えた、ヨーロッパらしい悲哀感と寒々としたイマージュを湛えた80年代の最後を締め括るという意味合いをも含めた実に重厚感溢れる、ベテランらしい風格の傑作に仕上がっている。
第二次大戦のさ中…東独とポーランドの両国に跨る小都市ゲルリッツの分断という悲劇をモチーフに、旅客列車…時代の重みというキーワードを散りばめた、当時のベルリンの壁崩壊といった世相事情をも視野に入れた意味深な内容に仕上がっているという事も決して忘れてはなるまい。
全盛期の様な重厚感に若干欠けるきらいこそあれど、機材を含め時代相応のモダンでタイト、デジタリィーな作風の音で真っ向から新しいピュルサーのスタイルに挑戦した真摯で精力的な姿勢には大いに好感が持てる。
時代は更に流れて21世紀…。ピュルサーのメンバー4人もベテランの域を越えた円熟味を増して、各々が本職業で重要な役職やら、後進を指導する立場やポストに就いている…それ相応の年齢に達した頃であろう。
若い時分の様にあくせくする事無く、仕事も創作活動も慌てず焦らず地道にのんびりと楽しんでいる年齢であるという事を充分踏まえていても、やはり大御所としての風格とプライドは何ら変化する事無く健在であったのが嬉しい限りである。
2007年にリリースされた、実に18年振りの新譜で通算第6作目となる『Memory Ashes 』(個人的には『The Strands Of The Future』に次ぐ秀作だと思う)は、21世紀型ピュルサーの決定版として新旧のファンに驚きと賞賛で迎えられた、まさしく眼から鱗が落ちる様な会心の一枚と言えよう。
大ベテランだとか実績があるとか…そんな生温いポジションに安穏と胡坐を掻く事無く、彼等は常に飽くなき探究心を持った開拓者の精神で時代と向かい合い、今日まで歩みを止める事無く“夢想”という名の終わり無き宇宙空間を彷徨い続けている修道僧にも似通っているというのは、些か言い過ぎであろうか…。
大御所のアンジュ、そして復活したタイ・フォン…かつての栄華を極めた70年代フレンチ・シンフォニックの名匠達が21世紀のシーンに返り咲いている近年、見事復活を遂げたピュルサーもこのまま順風満帆に軌道の波に乗ってくれるのかと思いきや、『Memory Ashes』のリリース以降またもや再び沈黙を守り続ける事となった次第であるが、その一方でピュルサーサイドから思いもよらぬ吉報が届く事となる。
『Memory Ashes』から6年後の2013年、キーボーダーのJacques Roman、そしてギタリストのGilbert Gandil両名のオリジナルメンバーを中心に、旧知の間柄だったシンガーソングライターのRichard Pickを迎えて新たなる新バンドプロジェクトSIIILK(シルク) を結成する事となる。
ピュルサーの系譜と作風を踏襲したであろう…一見別動隊バンド的な見方こそ否めないが、あくまで過去の音楽経験と実績を活かして、21世紀に順応し時代にマッチしたオリジナリティー溢れるシンフォニックへと高めている事はもはや言うには及ぶまい。
脈々たるピュルサーの血筋を継承しながらも、見事にピュルサー別動隊バンドといったイメージからの脱却が感じ取れ、現時点でリリースされているデヴュー作『Way To Lhassa 』(2013)そして2作目『Endless Mystery 』(2017)といった2枚の作品こそ彼等ならではの真骨頂が窺い知れる好作品と言っても過言ではあるまい(余談ながらも、2nd『Endless Mystery』ではピュルサーの管楽器奏者Roland Richardもゲスト参加している)。
いずれにせよ、彼等ピュルサー…そしてその系譜達は時代の波に飲まれる事無く、妥協とは一切無縁な時間軸で今も現役で活動し生き続けている。
彼等…そして彼等の作品が未来永劫語り継がれていく事をこれからも切に願いながら、ピュルサーというバンドが生き続ける限り、聴き手でもある我々自身も“終着の浜辺 ”へと辿り着くまで、気長に末永く付き合っていきたいものである。
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04,2019
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8月第二週目の「一生逸品」をお届けします。
昨日は暦の上では“立秋 ”を迎えたものの、猛り狂ったかの如く連日真夏の猛酷暑が続くさ中、皆様如何お過ごしでしょうか…。
秋の兆しはまだまだ拝めそうもないものの、枯れ葉舞い散る晩秋の光景に思いを馳せながら、今週は古のセピアとモノクロームカラーに染まったフレンチ・ロック黎明期の申し子“サンドローズ ”に焦点を当ててみたいと思います。
SANDROSE/ Sandrose(1972)
1.Vision
2.Never Good At Sayin'Good-Bye
3.Undergraund Session(Chorea)
4.Old Dom Is Dead
5.To Take Him Away
6.Summer Is Yonder
7.Metakara
8.Fraulein Kommen Sie Schlaffen Mit Mir
Rose Podwojny:Vo
Jean-Pierre Alarcen:G
Christian Clairefond:B
Henri Garella:Org,Mellotron
Michel Jullien:Ds,Per
サンドローズのエピソードへ入る前に、この場をお借りしてちょっとした個人的な思い出話にお付き合い頂けたら幸いである…。
もうかれこれ20年以上も前に遡るが、当時自分が入り浸っていた地元新潟市内のカフェバーにて、以前から気になっていた一冊の写真集との出会いがあった。
その写真集のタイトルは「エルスケン巴里時代 1950~1954」(リブロポート刊)。
写真を志した方なら一度はその名を聞いた事があるだろう。
Ed van der Elsken (1925~1990) 、オランダ出身の稀代の名写真家にして映画監督でもあり来日経験も何度かあり、後年の写真家達に多大なる影響を与えたのは言うまでもあるまい。
当時24歳の若かりし頃の彼が、1950年から約5年間「芸術の都パリ」を創作活動の拠点にし、そこで生きる人々を被写体にファインダーを通して赤裸々なまでの“生”の姿を収めたモノクロームな時間だけが存在する記録写真集であった。
市井の人々始め当時の流行・風俗のみならず、彼…エルスケンを取り巻くボヘミアンな若者達(芸術家の卵を始め、彼の女友達、恋人、ヤク中にアル中といった怠惰な連中)はおろか、珍しくも貴重な一枚で女優の卵時代、若かりし頃のBB(ブリジッド・バルドー)も収められていたのが印象的だった…。
残念な事に、今はもうそのカフェバーは無くなったが、店をたたむ前にマスターからそのエルスケンの写真集を格安で譲ってもらったのが昨日の事のように鮮明に覚えている。
…ちなみにその店の名前も「エルスケン」だった。
サンドローズの音を耳にする度に、いつもエルスケンのモノクロームの時間が止まった写真を連想する。
そもそも、彼等の遺した唯一の作品…ペルシャ絨毯調なジャケット・デザインが目を引く、遥か昔それこそ一枚十ン万円の狂気乱舞でべらぼうなプレミアムが付いたオリジナル見開きLP原盤を開くと、メンバー5人のフォトグラフをぼかしてセピア色に彩られた装丁が実に印象的である。
私自身若い時分、マーキーの事務所にてたった一度だけ目にしたことがあり、先のエルスケンと同様今でも鮮明に記憶している…。
87年にムゼアを通じて再発されたLPも内側はセピア色ではなかったものの、5人のフォトグラフは白黒のモノクロ・トーンだった。
彼等のサウンドに色鮮やかなカラー写真は似つかわしくないだろうし、一度たりとも彼等のフォトグラフでカラーなものは一枚も確認されていない(母国でのレコード宣材用並びライヴ・フォトすらも…)。
早い話、サンドローズの写真で確認されているものは全部モノクロである。
エルスケンのパリでの5年間の創作活動から14年後…1968年、フランスはカルチェ・ラタンでの学生一斉蜂起(当時、日本にも学生運動の嵐が吹き荒れていた…)による「5月革命」を境に、国内でも新たな文化・芸術活動の息吹きが活発化しつつあった。
これまでのシャンソン、ジャズ、アイドル・ポップス主流だったフランス国内の音楽事情において、ロック・ミュージックが浸透するのに、そんなに時間を要とはしなかった。
70年以降…マグマ、アンジュの台頭でフレンチ・ロック黎明期の形成・席巻と同時期にサンドローズはその産声を上げた。
片や一方でサンドローズの母体とでも言うべきバンド“エデンローズ ”も忘れてはなるまい。
1969年に唯一の作品『On The Way To Eden』を残しバンドは解体。
ギターのJean-Pierre Alarcen、オルガンのHenri Garella、ドラムスのMichel Jullienの3人に、
ガルラの推薦でベースにChristian Clairefond、そしてAlarcenのパリのクラブ時代の旧知を介し女性ヴォーカルにRose Podwojnyを迎え、72年大手ポリドールより自らのバンド名を冠したデヴュー作をリリースに至った次第である。
エデンローズはHenri Garella主導のポップがかった軽快なジャズ・ロックにして、当時においては高水準な秀作(フレンチ・ロック黎明期の名作でもある)であったが、サンドローズは紛れも無くJean-Pierre Alarcen主導で、ロック色を更に強めジャズィーな面とフォーク・タッチな面とが違和感無く融合したまさに“稀代の名作”という名に恥じない珠玉の一枚である。
エデンローズは全曲インストだったが、本作品ではヴォーカル入り5曲、インスト・パートのみが3曲の構成で、ヴォーカルは決してお世辞にも上手い部類とは言えないが、Rose嬢の英語による歌いっぷりには、フランス臭さというかモノクロな風景、一種独特なけだるさ・アンニュイさが漂っていて、時折女の恋情にも似通ったエロティックさをも想起させ、聴く側も一瞬ハッとせざるを得ないのが困りモンであるが…まあ、それは御愛嬌。
冒頭1曲目の“Vision”始め“Never Good At Sayin'Good-Bye”、“Old Dom Is Dead”、“Summer Is Yonder”などが顕著な例で、Rose嬢の哀愁と情感漂うヴォイスにAlarcenのどこかメランコリックでストイックなギター、Garellaのリリカルで時にクラシカル、時にジャズィーな趣のオルガンとメロトロン・ワークが絡む様は感動の一語に尽きる思いである。
“To Take Him Away”後半部にかけての白日夢を思わせる朧気ながらも幽玄なメロトロンの響きは絶品である。インスト・パート部ではやはり“Undergraund Session(Chorea)”の曲構成が圧倒的に素晴らしく、名実共にAlarcenとGarella…二つの音楽的才能が見事にコンバインした秀作である。
残るインスト曲“Metakara”と“Fraulein Kommen Sie Schlaffen Mit Mir”に至っては、前者はジャズ・ロックの名残を残したGarellaのオルガン・ワークが炸裂した佳曲、後者はオルガンとメロトロンのギミックなエフェクトを多用したややアヴァンギャルドな小曲で意外性な面が表れていて面白いと思う。
かのAlarcenは当時の事を振り返りながら「あの当時の音楽的背景にはキング・クリムゾンとジョン・マクラフリンの存在と影響が大きかった 」と語っている。
しかし…ここまで順風満帆なバンドの思惑とは裏腹に、理由は不明であるがデヴュー作リリース直後にGarellaがバンドを去り、急遽Georges Rodiを加えるも僅かたった10回程度のギグを経てサンドローズは僅か1年足らずで解散への道を辿り幕を降ろした次第である。
解散後のメンバーのその後の動向は、Rose嬢は心機一転しRose Laurens と改名し、フレンチ・ポップス界にて近年まで多数のヒット作を世に送り出し多大な成功を収めているが、悲しむべき事に昨年残念ながら鬼籍の人となったのが実に惜しまれる…。
そして当のAlarcenはフランソワ・ベランジェ、ミッシェル・ザカ、ルノーといったシャンソン系ポップス界の大御所との共演・コラボを経てソロ活動も併行。
78年『Jean-Pierre Alarcen』、翌79年には本作品と並ぶフレンチ・シンフォニックの名作『Tableau N゚1』をリリースし再び高い評価を得るも、暫く沈黙を守り続けていたが、98年突然不死鳥の如く甦り20世紀末の傑作『Tableau N゚2』を発表するも、彼自身またもや沈黙状態に入り現在までに至っている。
Garellaを始めとする残る他のメンツの動向ですらも残念ながら消息を知る術は無い。
数々の賞賛を浴びつつも、度重なる不運続きで惜しまれつつも活動に幕を降ろしたサンドローズ。
サウンド的には、多少古めかしくも所謂時代がかった(良い意味で)骨董品級の音ではあるが、フロイドの『神秘』や『原子心母』と同様…趣や方向性こそ異なれど、サウンド自体のコピーは確かに可能かもしれないが、やはりその時代の空気・雰囲気まで再現出来ないのが唯一の強みである。
“珍しいだけでしかない骨董品!! 嗚呼…もういいや”
“ハイハイ…わかったわかった、時代の古臭い音でしょ”
“これが名作ゥ!!??ハッキリ言って金の無駄!!”
…と言う辛辣で罵詈雑言な意見の向きもあるにはあるが、だからと言って、ちゃんとまともに聴きもせずにCDラックへ無雑作に放り投げたままでは、これでは彼等5人の苦労と努力が報われないというものだ…!
もし…サンドローズの作品を未だに未聴の方がいるようであれば、どうか頭の中を空白まっさらににして作品と真正面に向かい合ってお聴き頂きたい。
紛れも無くそこには…不朽の名作・名盤だから云々を抜きに、“古臭い音”といった低次元さや時代性を遥かに超越した“心 ”がきっと見出せる筈である。
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24,2019
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9月第四週目の「夢幻の楽師達」は、深まる秋の時節柄に相応しくその奥深さと醍醐味を今もなお聴衆の耳と心へと不変に響かせる魂の楽師にして匠の中の匠と言わしめる、名実共にフレンチ・ジャズロック界きっての才能集団と言っても過言では無い、御大マグマと肩を並べるであろうカリスマ的な位置に今もなお君臨し続ける“ザオ ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
ZAO
(FRANCE 1973~?)
François Cahen:Key
Dedier Lockwood:Violin
Gerard Prevost:B
Yochk'o Seffer:Sax
Jean My Truong:Ds
70年代ユーロピアンロックに於いて、バンコやPFM、ニュー・トロルス等が台頭していた所謂プログレッシヴの定石ともいえるクラシカル・シンフォニック、ジャズロックが主流だったイタリア、片や一方でタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールⅡ、カン、ポポル・ヴフ等といったサイケデリア、トリップミュージック、エレクトリック、エクスペリメンタルが犇めき合っていたドイツという両極端(二対極)の流れの狭間で、70年代初頭から本核的に勃発したフランスのロックシーンは、(個人的には否定したいところだが)良くも悪くもパッと見イメージ的に線が細いとか軟弱っぽいとか抒情的で弱々しいメロディーラインで印象が稀薄…etc、etcと、まあ…何というかあまりにも無責任で不遜な扱いというか散々な言われ様で、イタリアとドイツの両極端から見れば些か分が悪いところは否めないものの、そんな一般論めいたユーロロックファンの見識を跳ね除けるかの様に、フレンチ・ロックシーンはシャンソンや大衆演劇、大道芸といった流れを汲んだロック・テアトルを確立させたマルタン・サーカス、そしてアンジュ、フランスは基よりイギリス、オーストラリアからの多国籍メンバーを擁してヒッピーカルチャーとサイケ、トリップをも内包して独自の音楽性を形成したゴング、そしてフランス=ジャズロックの総本山というイメージを定着させたであろう最大の功労・功績者でもあり後年の多くのフォロワーをも輩出したマグマ、そしてそのマグマから細分の如く枝分かれした今回本篇の主人公でもあるザオを世に送り出し、我が世の春を謳歌するとばかりに栄華を誇る一時代を築いていったのは言うに及ぶまい。
1968年の5月革命を機にフランス国内の文化や時代が大きく動き始めていた60年代末期、ハンガリー出身のサックス奏者Yochk'o Seffer、そしてパリ出身で音楽一家の家系だったキーボード奏者François Cahenとの出会いで、ザオの歴史は幕を開ける事となる。
1956年のハンガリー動乱をきっかけにフランスへ生活拠点を移し、パリの音楽院でクラシック音楽の実践と経験を積み重ね、卒業後ジャズやロック畑でのセッション活動で生計を立て、1969年ラジオ局の音楽番組でセッションに参加していた際に、かのマグマのクリスチャン・ヴァンデの目に留まり、クリスチャンからマグマへ参加しないかという鶴のひと声で1970年というプログレ元年にマグマへ加入する。
そこには一年早くマグマに参加していたFrançois Cahenが既に在籍しており、リハーサルとセッションを何度も積み重ねていく内に、SefferとCahenは次第に親交を深め意気投合する様になり、良し悪しを抜きにクリスチャンの独裁体制的なマグマ(並び72年のユニヴェリア・ゼクト名義の唯一作を含めて)に於いてアドリブプレイやら即興演奏も儘ならなかった雰囲気に違和感を感じていた両者は、マグマとの袂を分かち合い自らのバンド編成への構想実現へと動き出す。
1973年、マグマ周辺で旧知の間柄でもあったJean-Yves Rigaud(Violin)、Jean My Truong(Ds)、Joel Dugrenot(B)、そして女性ヴォーカリストのMauricia Platonを迎えた6人編成で、SefferとCahen共通の音楽家の友人(おそらくはかなりの日本通か親日家と思われる)の助言で、山形県の蔵王という地名から着想されたZAO(ザオ)と命名され、東欧人というルーツにして東洋的な趣味嗜好を持つSefferにとっては願ったり叶ったりなバンドとしてスタートを切る事となる。
ちなみにザオと併行してSefferとドラマーのJeanはアヴァンギャルド系ジャズロックのパーセプションとしても活動しており、ザオ結成当初はパーセプションとの掛け持ちで東奔西走の多忙な日々を送っていたそうな。
脱マグマ色を目指しつつ地道なライヴ活動に重点を置き、演奏の回を重ねる毎にファン層の数を獲得し支持を得てきた彼等にレコード会社から声が掛かるのはほぼ時間の問題で、程無くして大手ヴァーティゴから結成同年の8月待望のデヴューアルバム『Z=7L 』をリリースし、かつてのマグマの名残と佇まいすら感じられるものの、ウェザー・リポート、ソフト・マシーン、果てはリターン・トゥ・フォーエヴァーをも彷彿とさせる一歩抜きん出た好作品に仕上がっており、名実共にフレンチ・ジャズロックの歴史に新たなる一頁を加えた最重要作として、今もなおリスナーやファンから絶大なる支持を得ている。
だが悲しいかな…充実した素晴らしい内容を誇るデヴュー作であったにも拘らず、当のヴァーティゴ・サイドが彼等の音楽性に難色を示し販売促進に積極的で無かったが故、自らの力で連日連夜プロモート活動に近いライヴ活動やクラブの出演に奔走し、デヴュー作は好評で迎えられ相応の成果を収める事が出来たものの、精神と肉体面で疲弊が重なって、デヴューツアーのさ中交通事故に遭うという憂き目に加えて、静かに穏やかな生活を望んでいたヴァイオリニストのRigaud、そして女性ヴォーカルのPlatonがバンドを辞める事態へと陥ってしまう。
当然の事ながらヴァーティゴサイドからはたった一枚きりのアルバムリリースだけで、契約は白紙となって事実上ザオは放逐されるという結果となってしまうが、バンドは臆する事無く新たなメンバーを補填せず残された4人で新たな2作目へのリリースに向けて動き出す。
2名のパーカッショニストに加えてゲスト参加ならばと了承してくれたRigaudのヴァイオリンを迎えて翌74年Disjuncta(初期エルドンの一連のアルバムをリリースし、後にUrus=ウーラスレーベルへと改名)よりエジプトの神々をモチーフにした2nd『Osiris 』をリリースし、前デヴュー作の延長線上ながらも徐々にオリジナリティーを窺わせる意欲作へと昇華させる。
しかしこの本作品を以ってオリジナル・ベーシストだったJoel Dugrenotが、自分がザオでやれる事や自らの役目は終えたとばかりにバンドから離れてイギリスへと活動拠点を移してしまう。
バンドはDugrenotの後釜としてGerard Prevostをベースに迎え、前作2ndでゲスト参加したPierre Guignonそしてクワトール・マルガン弦楽四重奏団をゲストに迎え、1975年大手RCAからの支援と契約を交わしてクラシックとジャズロックとのコラボレーションによる3rdの意欲作『Shekina 』をリリースし漸くザオとしてのオリジナリティーが確立された好作品へと仕上げ、翌1976年にはマグマから離れた名ヴァイオリニストのDedier Lockwoodを加えた完全無欠な最強の布陣で臨んだ…フレンチ・ロックのみならずプログレッシヴ・ロック、ジャズ・ロックとして最高傑作クラスの名盤名作の4作目『Kawana 』をリリースしバンド自体のポテンシャルとボルテージは最高潮へと達する。
まさにこれぞフレンチ・ジャズロックの真髄(神髄)であると言わんばかりな各パートによる演奏の応酬始めインタープレイのやり取りも然る事ながら、 Lockwoodが加入した事でテクニックに重きを置いたかの如く、聴き手に息をもつかせぬくらい熱気を帯び力強さが強調された音楽空間は、ザオの新たな側面と可能性が示唆されたエポックメイキングな一枚としてフランス国内外でも大きな反響を呼んだのは言うまでもなかった。
事実、80年代になるとザオの『Kawana』は万単位な高額プレミアムが付いた入手困難な作品として、都内のプログレ中古廃盤専門店でも展覧会の絵よろしく壁に掲げられた一枚として数えられる様になったのだから、フレンチ・プログレッシヴ=軟弱というイメージを払拭するには申し分の無いアイテムであった事に異論はあるまい。
しかし…悲しいかなというか皮肉なもので、最高のテンションとポテンシャルを有する最高傑作を世に送り出した矢先、今度は肝心要のYochk'o Sefferが3rdの『Shekina』での手応えを機に自らの音楽経験を発展させたいが故に、彼自身のプロジェクトチームへの構想にと着手していたNEFFESH NUSIC に専念するが為にバンドの脱退を表明。
更にはSefferの右に倣えとばかり、遂には一介のプレイヤーとして飽き足らなくなっていたドラマーのJeanとヴァイオリニストのLockwoodまでもが脱退を表明し、後にザオ以上のストレートな音楽表現の希求を目指しSURYA(スルヤ) を結成。
残されたCahenとPrevostの両名はサックス、トロンボーン、ドラムス、パーカッションの4人の新メンバーを迎え、翌77年『Typhareth 』なる5枚目をリリースするが、かつての精細感を欠いた時流の波に乗ったかの様な作風は言わずもがな、メンバー全員が上半身裸のポートレイトで臨んだ如何にもといった感の商業路線にシフトしたジャケットワークが災いし、とどのつまりRCAとの契約履行以外の何物でもない…早い話ザオという名前だけが冠されただけの惨めで暗澹たる結果だけが残った紛い物同然みたいな扱いで、その事が拍車をかけた末Cahen自身もザオ解散への決意を固める事となる。
ザオ解散以後、各々がそれぞれの音楽を模索する道を歩み始めYochk'o Sefferは数多くのソロ作品ないし自らのプロジェクトへと着手しつつも、かつての盟友だったFrançois Cahenと手を組み、Cahen自身もソロ活動に専念する一方、スルヤ解散以後(レコード会社並びプロダクションの不良債権やらプロモート不足で、結局たった一枚のみアルバムを発表して解散した)Dedier LockwoodもCahenを迎えてデュオアルバムをリリースしたりと、ザオ解体以降も親交を深めつつ…所謂付かず離れずの良好な関係を継続していた次第であるが、1986年の6月記念すべきデヴュー作『Z=7L』の復刻LP再発を機に一夜限りのザオ再結成を果たし、それから90年代以降にかけてはムゼアからザオ一連の作品がCDリイシューされ、爆発的なセールスを記録した事に発奮したSeffer、Cahen、そしてドラマーのJeanの3人は、栄光の時代よ今再びとばかりに新たなベーシストとヴァイオリニストを迎え、1994年…解散から実に17年ぶりの新譜『Akhenaton 』を発表。
確かに全盛期の勢いのあった頃と比べると、(時代の流れという意味合いで配慮すれば)幾分リラックスした穏やかでたおやかな雰囲気に包まれた、ややもすればこじんまりとした感こそ否めないが、本作品の底辺にある旧交を再び温め直しているといったフレンドリーでハートウォーミングな、まさに90年代という時代に則した新生ザオの片鱗すら窺える復帰作と捉えた方が正しいのかもしれない。
そして2000年から21世紀以降にかけて時代の追い風に後押しされるかの様に、2004年に発掘リリースされた1976年Seffer不在時に収録されたライヴCD『Live ! 』を皮切りに、ザオ一派のフランス国内でのライヴを始め同年6月待望の初来日公演でのSefferとCahenぼ雄姿にオーディエンスの熱気と感動は一気に高まり(この時の模様は2007年にライヴCD『Zao In Tokyo 』としてリリースされている)、翌2005年にはSeffer/Cahen名義によるデュオスタイルで2度目の来日公演を果たし喝采を浴びた後、フランスに帰国してからはSeffer/Cahen7重奏団を編成しその発展形的スタイルのザオ・ファミリー名義でLockwoodを再び招聘し新譜をリリース。
国内外の多くのファンはその後の彼等の動向を見守り続けたが、SefferとCahenは再び各々の道に分かれて独自の創作活動へと歩み出したものの、残念ながら…2011年、長年ザオの主導役でもありブレーンでもあったFrançois Cahenが突然の心臓の病で帰らぬ人となってしまい、片翼を失ったザオは無期限とも思える活動休止を余儀なくされ、今もなお沈黙を守り続けているところである。
2018年2月にはかの名ヴァイオリニストだったDedier Lockwoodまでもが天に召されてしまい、ザオ復活と再開の鍵を握るのはいよいよ残されたYochk'o SefferとJean My Truongの2人だけとなってしまった次第である。
安易にバンドの再結成を願うのは些か愚かしくも我が儘な願いなのかもしれないが、才気(再起)と意欲があればこそ天は運に味方するものであると信じて止まない。
Sefferがミュージシャンシップで人生最期に聴衆へ微笑みかけるのは果たしていつになるのだろうか…。
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27,2019
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9月第四週目、今回の「一生逸品」は70年代ブリティッシュ・ロックの持つプログレ前夜のサイケでアートロックなフィーリングに、フレンチ・ロックのアンニュイなエスプリと気概が違和感無く融合した、一見して異端のポジションに位置しながらもフレンチ・ロック黎明期の一端をも担い、その生ける伝説の軌跡と称号に相応しく後々のフランスのシーンに於いて、その多方面で広範囲に及ぶ系譜と根幹に一役買ったと言っても過言では無い、個性派の中の更なる個性派集団“クルシフェリウス ”に今一度スポットライトを当ててみたいと思います。
CRUCIFERIUS/ A Nice Way Of Life(1970)
1.Big Bird/2.What Dio You Do/
3.Let's Try/4.A Nice Way Of Life/
5.Gimme Some Lovin'/6.It's Got To Be A Rule/
7.Jungle Child/8.Annabel Lee
Bernard Paganotti:B, Vo
Francois Breant:Org, P, Vib, Vo
Marc Perru:G, Vo
Patrick Jean:Ds, Per
クルシフェリウスという何とも聞き慣れないバンド名に大概の方々なら「?」と思われるかもしれないが(苦笑)、ジャケット写真を御覧になって漸くここで「ああ…!!」と頷かれる事だろう。
21世紀今日のフランスの音楽シーンに於いて最早言わずもがなビッグネームな存在でもあるBernard Paganotti、そしてFrancois Breantという両巨頭の若き青春時代の一頁が、このたった一枚の作品に凝縮されていると言っても過言では無いくらい、フレンチ・ロック黎明期でほんの一瞬ながらも煌めきを放っていた実に初々しくも野心的に満ちた稀有な作品ではなかろうか。
1968年の5月革命…カルチェ・ラタンでの学生一斉蜂起という歴史的大事件を契機に時代の流れが大きく変わりつつあった頃を境に、シャンソン一辺倒だったであろうフランス国内の音楽シーンも、英米のロック・ミュージックに触発されて伝統と革新とが融合した多種多才な若き才能が芽吹き出したのは言うには及ぶまい。
俗に言うフレンチ・ロックの黎明期を彩ったであろう…ゴング、カトリーヌ・リベロそしてマグマのデヴューを皮切りに、マルタン・サーカス、トリアングル、アリス、ムーヴィング・ゼラチン・プレーツ、演劇との融合を試みたシェン・ノワール、単発組ながらもオメガ・プラス、レッド・ノイズ、エデン・ローズ、72年以降ともなるとアンジュのデヴュー、そしてイリス、サンドローズといった名作・傑作が目白押しといった、まさに百花繚乱な様相を呈し各々の独創性と個性が色濃く反映された、今日までに至る後々のシーンへの基盤となるべく大いなる礎を築いた誠に有意義な時代だった様に思える。
今回の主人公でもあるクルシフェリウスも御多聞に漏れず、リアルタイムに前出のフレンチ黎明期のアーティスト勢と肩を並べる実力を兼ね備え、後年のフレンチ・ロックの根幹をも担う大きな逸材を輩出した意味に於いても、良い意味で日陰な存在ながら燻し銀の如き光沢と卓越した技量とスキルを秘めた、文字通り“一生逸品”の名に相応しい傑出した一枚であると断言出来よう。
クルシフェリウスは60年代半ばジョン・コルトレーン影響下のクルシフェリウス・ロボンズ(CRUCIFERIUS LOBENZ)なる母体バンドで幕を開ける事となる。
かのクルシフェリウス・ロボンズにはベーシストのPaganotti、そして後に大御所マグマのブレーンとなるChristian Vander が既に在籍しており、コルトレーン死去の1967年と同時期にバンドが解散後、PaganottiとVanderはCHINESEというR&Bバンドでプレイしていたものの各々の音楽的嗜好の相違で結局バンドは空中分解。
CHINESE解散後Paganottiは知人の伝を頼りに新たなメンバーを募り、才能開花手前のFrancois Breant(ちなみに彼の父親は画家兼ピアニストで母親は劇場の衣装係という芸術一家である)を始めギタリストのMarc Perru、ドラマーにPatrick Jeanと共に、コルトレーンの思いよ今再びと言わんばかりにクルシフェリウス結成へと歩みだす。
余談ながらもその頃ともなるとコルトレーン影響下のジャズ路線よりもむしろ、当時主流のブリティッシュ・サイケデリックやアートロック影響下の作風へと傾倒していた事も付け加えておかねばなるまいが…。
結成から程無くして1970年初頭に来日を果たし、“ムゲン ”なるライヴハウスにて約3ヶ月もの間滞在…所謂箱バン生活を送った後、フランスへ帰国した彼等を待ち受けていたのは設立されたばかりの新興Egg レーベルからの招聘でデヴュー・アルバムに向けた正式契約だった。
母国フランスでの活動よりも日本での箱バン生活という思いがけない大きな回り道こそしたものの、全てが結果オーライの如く良い方向に向いて待望のデヴューに恵まれた彼等は、70年代の幕開けという時代の追い風に乗ってまさに世の春到来といった雰囲気に包まれていたのは言うまでもあるまい。
良い意味で手作り感満載な温かみを思わせるチープな印象のジャケットアートと相まって、フロイド、ナイス、コロシアム、トラフィック…等といったブリティッシュ・ロック界の名立たる個性派からの影響を窺わせ、あたかもサイケ、プログレ、ヘヴィロック、アートロックのゴッタ煮状態と乱暴に言ってしまえば当たらずも遠からずといった感ではあるが、決して思いつきやら行き当たりばったりなサウンドという訳ではなく、様々な音楽経験と素養に培われた的確な演奏技量とスキルに裏打ちされ、その一朝一夕では成し得ないであろう曲作りの巧みさ緻密さ、そしてコンポーズ能力の高さには何度も繰り返して聴く度に新たな発見を覚えると共に舌を巻く思いですらある。
個人的な思い出話で恐縮であるが、過去に何度か上京する度に西新宿の某中古廃盤専門店で壁に掲げられた高額プレミアムなフレンチ・ロックの名作…前述したエデン・ローズ、サンドローズ、イリス、レッド・ノイズ、オメガ・プラス、果てはシャンソン系シンガーで高嶺の花だったエマニュエル・ブーズ始め、フランソワ・ベランジェ、フランソア・ヴェルテーメ、ジル・ジャネランのアナログ原盤を何度かお目にかかった事があっても、かのクルシフェリウスの変形ジャケット仕様アナログ原盤だけは未だに見た事が無いというのが何ともお恥かしい限りである(苦笑)。
蛇足ながらも…マーキーでもユニオンでも、いずれかで構わないからクルシフェリウスの変形紙ジャケット仕様のSHM‐CDをリリースしてくれないだろうか(汗)。
1970年にリリースされた彼等の唯一作は全曲英語の歌詞によるもので、凡そマグマや後年のFrancoisのソロ作品に類似した作風を期待すると肩透かしを喰らうかもしれないが、真逆な意味ではマグマ云々だとか後年のエレクトリックミュージック一辺倒に変遷を遂げるEggレーベルのカラーを意識せずに、それらの系統の作品に接した事が無い方でも無難にスンナリと聴けて、純然たるロックの醍醐味が端々で堪能出来る事請け合いであろう。
冒頭1曲目のイントロからサイケデリック風味満載で不穏な雰囲気を湛えるギターとドラム、ヴァイヴに導かれ、爆発的な展開と同時にメンバーとゲスト参加の女性コーラス隊による“ビッグバード~♪”と高らかに謳われ、ブーズを思わせる様な渋くしゃがれたPaganottiのヴォイス…等が渾然一体となった、如何にもオープニングに相応しい力強さと繊細さが背中合わせに隣り合った印象的な好ナンバーと言えるだろう。
Francoisの荘厳さの中にアグレッシヴさが漂うハモンドとアクセント的にさり気なく挿入されるヴァイヴの上手さも然る事ながら、Marcの泣きのギター、リズム隊の好演も忘れてはなるまい。
タイトルからして一瞬あの『セサミストリート』に登場するビッグバードを連想してしまい…まあそれはいくら何でも考え過ぎではないかとは思うのだが真相は定かではない。
憂いと悲しみを湛えた感傷的なピアノをイントロに、ラテン的でファンク調なリズムへと転調する切れと乗りの良さが滲み出ている2曲目も実に印象的である。
Patrickのファンキーなパーカッション群に加えて、ここでもFrancoisのピアノとハモンドが大活躍の秀作でブリティッシュナイズな作風でありながらも時折感じるフレンチ・ロックの感触と風合いの心地良さは何とも刺戟的且つ官能的ですらある。
全曲中おそらく唯一ヘヴィな印象を湛えた3曲目は、Marcの重厚なギターにPaganottiのゴリゴリなベースとのブルーズィーなグルーヴ感が聴き処でFrancoisのヴァイヴが要所々々で不思議なインパクトとアクセントを与えており、単なるヘヴィロックには終止させたくないといった彼等の心憎さが感じ取れる。
ナイス時代のエマーソンを彷彿とさせるハモンドのイントロに思わず心奪われそうな、アルバムタイトルでもある4曲目の素晴らしさと凄まじさといったら収録された全曲中、後述の6曲目と共に1、2位を争うプログレッシヴでアートロックなスピリッツ全開の傑作と言えるだろう。
それにしても後年のFrancoisのソロ作品からは想像もつかない位の繊細で且つ豪快なハモンドのプレイには只々驚嘆する思いのひと言に尽きる…。
全曲中唯一のカヴァーナンバーでもある5曲目は、スティーヴ・ウィンウッドのペンによるThe Spencer Davis Group1966年のシングルヒット曲が彼等風にアレンジされており、幾分オリジナルよりも収録時間が長めに収録されているので、是非ともオリジナル原曲と聴き比べてほしい。
摩訶不思議でミスティックなハモンドの響きに誘われ、サイケ調なリリシズムを湛えた時代の空気をたっぷりと含んだ幻惑的で妖しげなメロディーラインが楽しめる6曲目の刹那な雰囲気といったら、この手の曲が持つ夢想的で朧気な浮遊感と雰囲気が好きな方なら必聴必至と言わんばかりであろう。
頭の中と心の中を真っ白にして全ての雑念を取り払って聴いてほしい屈指の名曲と言えるだろう。
ジャズィーでポップな洒落た雰囲気に彩られたサロンミュージックの感を思わせる7曲目のさり気ない曲進行の上手さといい、エドガー・アラン・ポーの文学作品にインスパイアされた黄昏時の映像をも彷彿とさせるラストナンバーでのPaganottiのダンディズム溢れる歌いっぷりといい、兎にも角にも彼等クルシフェリウスの最初で最後の唯一作は徹頭徹尾全収録曲どれを取っても全てに於いて無駄や捨て曲等が一切無い、フレンチ・ロック黎明期に於いて最高作の部類に位置するであろう…単なる青春の思い出の一頁云々といったカテゴリーで片付けられない、フレンチ・ロックの歴史の片隅に追いやり埋もれさせるには何とも勿体無い位に惜しまれる最高傑作ではなかろうか!
ちなみにデヴューと同時期にリリースされたアルバム未収録で唯一のシングル「Music Town/Mister Magoo」の出来栄えも素晴らしい。
アルバムと比べると本来彼等の持ち味ともいえるポップなジャズロックの側面を前面に押し出した印象を受ける。
ちなみにブログ作成上YouTubeにて見つけた、当時彼等が出演したフランスの音楽番組の貴重なテレビ映像も併せて貼っておくので是非とも御覧になって頂きたい。
これだけハイクオリティーな完成度を持ったデヴューアルバムをリリースしたにも拘らず、彼等は次回作を出す事無くまるであたかも全てを演り尽くし達観したかの如くバンドをあっさり解体させ、各々が進むべき道へと歩んでいった次第であるが、皮肉にもクルシフェリウス解散と前後して新興レーベルだったEggも活動を休止せざるを得ない状況に陥ってしまい、以後バークレイレコード傘下で1976年にエレクトリックミュージック専門のレーベルとして再興するまでEggレーベルは暫しの沈黙を守り続ける事となる。
クルシフェリウス解散以後のメンバーの動向にあっては、皆さん既に御存知の通りBernard Paganottiは旧友Christian Vanderからの招聘で74年~76年半ばまでマグマに参加し、以後はヴィードルジュを経て自らのバンドでもあるパガグループを率いて1993年までに不定期なペースで3枚のアルバムをリリースして現在までに至っている。
ついでと言っては恐縮であるが、70年に日本のムゲンで箱バン時代を経験してから以降、親日家となったPaganottiは一時期おときさんこと加藤登紀子のバックでベースを弾いていた事もあり、そのツアーの途上北海道の某空港にて加藤登紀子さん共々乗っていた旅客機がハイジャックされるという予期せぬハプニングに遭遇しているから何ともはやである(苦笑)。
私自身当時テレビでニュース映像を拝見してて驚きで唖然としたのを未だに昨日の事の様に記憶しているから困ったものである…。
Francois BreantとギタリストのMarc Perruの両名は、1973年にポップな要素を強めたジャズロックバンドのNEMO(ネモ) に参加し、2枚のアルバムを遺して解散後Francois Breantは再興したEggレーベルから再度招聘され1978年『Sons Optiques 』、翌1979年にはキングのユーロロックコレクションからも邦題『千里眼 』としてリリースされた『Voyageur Extra-Lucide 』の2枚の作品を発表し、以降は舞台、映画、ヴィデオクリップ…etc、etcの音楽作家として多忙の日々を送っている。
なおFrancoisとMarcが参加したネモは、現在活躍中の21世紀フレンチ・シンフォのネモとは全く関係ない別バンドであるということを誤解の無い様に付け加えさせて頂きたい。
PaganottiとFrancois以外のメンバーMarcとPatrickにあっては、残念ながら現在までに至る足取りが全く解らずじまいである…。
ここまでクルシフェリウス一連の歩みを辿っていった次第であるが、肝心要の彼等の唯一作も2012年ドイツの新興レーベルO-Music(オリジナル・ミュージック)レーベル からリイシューCD化されるまで、全く誰からも見向きもされず時代の片隅に追いやられ埋もれたままだったというのが何とも悔やまれてならないのが正直なところである(2014年に同レーベルからリイシューされたフレンチ・レアアイテム級のイリスとて然り)。
単にマスター音源とか版権といった交渉やら問題やらの厚い壁云々といった諸事情が絡んでいるのかもしれないが、よりにもよってフランス大手のムゼアからスルーされてしまったというのが実に憤懣やるせない気持ちで一杯であるという事もお解り頂けたらと思う。
過去にサンドローズ始めピュルサー『Halloween』、アラクノイ、テルパンドルのリイシューで実績を作ったムゼアだからこそ自国の伝説的存在ををもっと早急に甦らせてほしかったと思うのは決して私だけではあるまい。
そうする事によって少なくとも彼等クルシフェリウスが単なるもの珍しさでは無くて、これほどまでに当時は素晴らしい逸材だったという事がもっと早く世間から認められていた筈なのにと思うのは、私自身の穿った我が儘なのだろうか…。
心を打つ良い作品は決して時代の流れなんぞに黙殺なんてされない。
私たちがそれを望み求める限り、時代の片隅に埋もれる事無くいくつもの伝説が甦り続ける事をこれから先も切に願わんばかりである…。
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23,2019
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今週の「夢幻の楽師達」は、涼やかな秋風と青空という時節柄のイメージに相応しい70年代フレンチ・ロックきっての抒情派の旗手にして、21世紀の今もなお硝子細工の様に壊れやすく繊細な情感を瑞々しく歌う“タイ・フォン ”を取り挙げてみたいと思います。
TAÏ PHONG
(FRANCE 1975~)
Khanh Mai:Vo, El-G, Ac-G, Slide-G
Tai Sinh:Vo, B, Ac-G, Syn
Jean-Jacques Goldman:Vo, El&Ac-G
Jean-Alain Gardet:Key
Stephan Caussarieu:Ds, Per
「我々はフランス人のグループではない。フランス出身のグループであり、イギリスのイエス、イタリアのPFM、或いはギリシャのアフロディティス・チャイルド等と同じジャンルの音楽を演奏している」
プログレッシヴ・ファンなら、もう既にお馴染みのプログレッシヴ・ロック史上に残るであろうキャッチコピーにして名台詞、当時の有力な音楽誌“ROCK&FOLK”のインタヴューに応えているバンドの中心的存在Khanh Maiの言葉である。
ベトナムとフランスのハーフKhanh MaiとTai Sinhの兄弟を中心にJean-Jacques Goldman(本職業は銀行マンで、彼もポーランドとドイツのハーフである)、Jean-Alain Gardet(エルトン・ジョン始めジェネシス、クラシック、ジャズから多大なる影響を受けている)、Stephan Caussarieu(ビル・ブラッフォードのファン)の5人編成で、75年1st『Tai Phong 』とシングル・カットの名曲“Sister Jane ”で、大手のワーナーから期待を一身に背負って華々しくデヴューを飾り、“Sister Jane”の世界的な大ヒットが功を奏し(皮肉な事に大御所アンジュ以上に)、俄かにフランス産プログレッシヴの旗手として注目を浴びる次第となった。
鮮烈なデヴューを飾ったタイ・フォン(日本では当時“タイ・フーン”と紹介)であるが、彼等を紹介するに当たって必ずといっていい位“Sister Jane”が引き合いに出される事に…まあこれも有名税であるが故にいた仕方の無い事であると思うものの、決してそれだけで終始している訳ではなく“Goin'Away”始め“Crest”みたいな軽快で且つ抒情的な歌メロとのバランスがしっかりと取れたリリシズム溢れるナンバー然り、独特のタイ・フォン節全開な“For Years And Years”、“Out Of The Night”、かの“Sister Jane”と互角に渡り合える最大の呼び声高い“Fields Of Gold”の美しくも泣き泣きのリリシズムも忘れてはならないだろう。
CD化に際しボーナス・トラック収録されたアルバム未収録のシングル2曲“(If You're Headed)North For Winter”、“Let Us Play”の素晴らしさといったら…(特に“Let Us Play”なんてPFMの“セレブレイション”も真っ青である)。
続く翌76年の『Windows 』もデヴュー作と同様のメンバー編成で製作されているが、前デヴュー作以上の抒情的な高揚感に哀愁漂う甘く切ない泣きのメロディーとリリシズムが、もうこれでもか…と言わんばかりに高波の如く押し寄せてくる様は、まさに圧巻とでもいうか彼等の最高傑作の一枚に恥じない内容に仕上がっており、全曲甲乙付け難くどれを取っても素晴らしいが、特に2曲目の“Games”は“Sister Jane”に一歩も引けを取らない、否!出来映えとしては“Sister~”以上ではないだろうか。
1st並び2ndのカヴァー・アートに登場の…ジャパニメーション的なSFメカロボット風鎧武者からも取って分かるが、東洋人の血筋も流れているKhanhとTaiのエキゾチックなバック・ボーンもサウンド・スタイルに反映されていると言ったら言い過ぎだろうか?
顕著な例として『Windows』に収録のラスト“The Gulf Of Knowledge(邦題:探求の淵)”の東洋的趣味・志向性を思い出して頂きたいと共に、『Windows』のカヴァー・アートの色鮮やかな色彩感なんて、まさに由緒正しき日本庭園の春(鎧武者に桜の木々)を象徴しており、諸外国で売れていた当時にあっても一番日本人好みにして日本人に愛されたフランスのバンドではないかと思うが、如何なものだろうか…?
バンド本体はこのまま順風満帆で進んでいくのかと思いきや、キーボード奏者のJean-Alainが(後にタイ・フォンの兄弟的バンドと言われる)アルファ・ラルファ 結成の為バンドから離れ、加えてシングル曲の音楽的方向性を巡って従来路線派のTaiとポップ指向のGoldmanとの対立が表面化し、結果的にTaiの脱退というバンドにとって最大の危機が訪れる。
バンドはベーシストにMichael Jones、キーボードにPascal Wuthrichの新たな2名を迎えて、79年3rdにして最終作の『Last Flight 』(“最期の飛翔”とは何とも皮肉なタイトルであるが…)をリリースするが音楽的にはGoldman主導のポップがかった内容ながらも、それなりに聴き処がある佳作に仕上がっている。
過少評価で決して出来は悪くはないが、やはり1stと2ndの鮮烈さと感動の度合いひとつ取っても見劣りは否めないものの、そんな中でも以前のタイ・フォンらしい名残を感じさせるシングル曲の“Back Again”のリリシズム溢れるメロディーラインはもっと評価されても良いのではと思えてならない。
結果的に…タイ・フォンはGoldmanのソロ活動が本格化し、バンドは一時的に解体してしまうが、86年に突然KhanhとStephan両名によるタイ・フォン名義の時流の波に乗ったシングル“I'm Your Son”をリリースし(多数のゲストを迎えた中には、かのGoldmanも名を連ねている)、数年ぶりの新作アルバム発表という期待も囁かれていたものの、かのシングルリリース以降タイ・フォンは諸般の事情でまたもや再び長き沈黙を守る事となり、多くのファン誰しもが言葉を失い意気消沈し落胆の長い年月を送る事となったのは言うまでもあるまい…。
だが、月日は流れ…突如急転直下で運命の歯車は大きく動き出し、ミレニアムイヤーの2000年KhanhとStephanの2人がいよいよ本格的に活動を再開し、2人を中心に新たなるメンバーを加えたタイ・フォンは完全なる新生復活を遂げ、ムゼアから再結成アルバム『Sun 』をリリース。
アートワークも再び鎧武者の威風堂々たるが姿が描かれた、作風楽曲総じてさながら70年代タイ・フォンの原点回帰に立ち返ったかの様な再出発を飾る事となる。
そして13年後の2013年、タイ・フォンはKhanhを主導とした(残念ながらStephanは脱退)、所謂Khanhの半ばソロ・プロジェクトに近い形で、多数にも及ぶゲストプレイヤーを迎えて通算5枚目の新作『Return Of The Samurai 』を12曲入りCD-Rという意外な形でリリースするも、発表当初のアートワークに多分ファンの誰しもが呆然とした事だろう(苦笑)。
たしかに看板とタイトルに偽り無しといわんばかり、大太刀をかざしてアクションをとっている…さながらサムライウーマン或いはニンジャガールを連想させる格ゲーみたいなヒロインが描かれた意匠に微妙というか変な違和感を覚えた筈である(早い話があまりにも飛躍し過ぎてタイ・フォンらしくないという事だろうか)。
余談ながらもゲームソフトのパッケージ(!?)思わせる場違いみたいな雰囲気もよろしくないというのが正直なところでもあった(YouTubeの動画はまだニンジャガールのイラストのままだが)。
但し後日Khanh自身の口から語られた、誤解を解くかの様な説明を拝読すれば大なり小なりの納得が出来よう。
そもそも前作『Sun』をリリース以後に、Khanh自身が書き溜めていた楽曲をCD-Rサンプラーという形(テストプレスみたいなものだろうか)で1000枚限定で急ごしらえみたいなデザインで流通したもので、収録された曲もかなり出来不出来とバラつきがあった事も踏まえ、翌2014年改めて再リリースされた正規のワールドワイドプレス盤はリミックスとリマスターを施したKhanh自ら厳選した8曲を残し、アートワークも装いも新たにデヴューアルバムへのオマージュとおぼしき鎧武者の再登場と相成った次第である。
デヴューアルバムや2ndの頃の作風を期待するには多少無理があるものの、『Return Of The Samurai』という気概と精神を継承した21世紀サウンドスタイルのタイ・フォンともいうべき、ありのままの姿勢と決意がこの一枚に凝縮されているといっても異論はあるまい。
同年秋に待望の初来日公演を果たし、長年待ち続けたファンや聴衆はステージ上の彼等の雄姿に歓喜と感動の涙を流しつつ惜しみない拍手と喝采を贈った事は今も記憶に新しいところであろう。
近年にリリースされる最新作の準備を控えて、Khanhを中心に現在曲作りとリハーサルの真っ最中との事だが、人間味というか円熟を帯びた彼等がこの先どんな曲想と展開で私達に夢見心地を与えてくれるのか…その時まで暫し期待して待とうではないか。
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24,2019
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10月第四週目…今回「一生逸品」を飾るのは、70年代イタリアン・ロックに負けず劣らずたった一枚きりというワンオフ的な珠玉の名作・名盤を数多く輩出してきたフレンチ・ロックより、一種独特にして詩情豊かな音世界を紡ぎ、あたかも混迷に満ちた昨今の時代観を予見しながらも浄化の精神で静謐に奏で彩る、そんな意味深めいたイマージュすら想起させるアートワークに包まれたリリシズムと夢想の申し子と言っても過言では無い“パンタクル ”が遺した唯一作に焦点を当ててみたいと思います。
PENTACLE/ La Clef Des Songes(1975)
1.La Clef Des Songes
2.Naufrage
3.L'âme Du Guerrier
4.Les Pauvres
5.Complot
6.Le Raconteur
Gerald Reuz:G, Vo
Claude Menetrier:Key, Violin
Michel Roy:Ds, Vo
Richard Treiber:B
「一生逸品」で取り挙げてきた…否、これからも取り挙げていくであろう、数多くのたった一枚きりというワンオフな唯一の作品達…。
ことフレンチ・ロックにあっては、シーンの層が厚いイタリアン・ロックと比べてお国柄を反映している所以からか、技巧的で音の厚み云々を重視するというよりも詩的なフィーリング或いは流れるような抒情の調べを重視した傾向の作風が見受けられるというのは穿った見方であろうか(苦笑)。
ハモンドとメロトロンを駆使し古色蒼然とした時代の音ながらも大名盤という地位すら確立した感のサンドローズを始め、ダークな佇まいとアヴァンギャルドさとクリムゾンイズムを継承したアラクノイ、メロトロンにヴァイオリンといった重厚なハーモニーでシンフォニックとジャズロック互いのエッセンスを程良く融合させたテルパンドル、サイケデリックな風合いとブリティッシュナイズでフランス独特のアンニュイさを醸し出した若き日のベルナール・パガノッティとフランソワ・ブレアンの熱演が堪能出来るクルシフェリウス…決して数としては多くはないものの、それ相応に栄華を誇り時代を彩っていた“たった一枚 ”という自らの証と青春の記録に、私達プログレッシヴファンとリスナー諸氏は時代と世紀を越えて互いに惹かれあう様にアルバムというファクターを通じ耳にし、彼等が思い描いてきた理想の音楽世界観を共有してきた事は言うに及ぶまい。
フレンチ・シンフォニック史に於いて歌心とポエトリーなリリシズムを湛えた唯一無比の存在として名高いパンタクルの歩みは遡る事60年代末期、今やロック・テアトルの祖にしてフレンチ・シンフォ界の大御所という地位に君臨しているアンジュを輩出したフランス東部の地方都市ベルフォールにて幕を開ける。
60年代末期のベルフォールはアンジュの前身バンドLE ANGEを始め、かのパンタクルの前身バンドだったOCTOPUSが人気を博しており、ベルフォールという(良い意味で)ローカルな土地柄の所為からか、後年アンジュに参加するメンバーが出入りしたりと、いつしかパンタクルを含めた所謂アンジュ人脈一派(とでもいうのか)のバンド相関図が成り立っていたのも必然的と言えるだろう。
さて、そのOCTOPUSだが70年代初頭に地元ベルフォールで開催されたロックコンテストで優勝を飾る等の輝かしき経歴を誇ってはいたものの、いかんせんよくある話だが音楽だけでは絶対食えないというアマチュアイズムを優先しメンバー各々が定職に就いていた事もあってか、フランス・ミュージックの本拠地パリの大手レコード会社並び音楽業界関係からプロにならないかといった勧誘のオファーがあっても“僕達アマチュアですから”といった理由で一蹴するのが関の山だった様で、結局諸般の事情でOCTOPUSは1971年に解散する事となる。
OCTOPUS解散後、様々な音楽ジャンルでの活動を経てきたギタリスト兼ヴォーカリストのGerald Reuz、そしてドラマーのMichel Royはアマチュアイズムに捉われていた音楽への取り組み方を考え直し、どっちつかずで中途半端にあやふやだったミュージックスタイルから心機一転し、大成功を収めたベルフォールの雄アンジュに続けとばかり完全オリジナルなプログレッシヴ・スタイルへと意思を図り、新たなるメンバーを募って一致団結し1974年バンド名もパンタクルへと改名し再スタートを切る事となる。
同年の秋に地元ベルフォールのユースセンターにてデヴューお披露目を飾った彼等は、折しも運良くベルフォールに帰省していたアンジュのクリスチャン・デカンの目に留まり、クリスチャンからの口添えと人伝で、かの
ワーナーフランス傘下だったアルカンレーベル(後のクリプトレーベル) の設立者でもあり多方面で辣腕を振るっていた敏腕名マネージャーのジャン・クロード・ポニャンを介された彼等は、クリスチャンの鶴のひと声と鳴り物入りのプロデュースでアルカンレーベルと契約し、その後程無くしてとんとん拍子でデヴューアルバムに向けたリハーサル始め録音と製作に取り掛かる事となる。
なお余談ながらもアルカンレーベルからは1974年にモナ・リザがデヴューリリースし、パンタクルと同年にカルプ・ディアンがデヴューを飾っている事も付け加えておかねばなるまい。
絵本や童話の扉絵を思わせるカラフルな色彩を背景に、大きな鍵を抱いてさながら座禅を組んで宙に浮く御仏(仏陀?)が描かれた、何とも意味深で一種の東洋思想とオリエンタルでエキゾティックな趣とが相まったアートワークでパンタクルは1975年の5月にめでたくデヴューを飾る事となった。
技量を含め演奏力こそ及第点レベルといった課題こそ残したものの、未完の大器をも予感させるデヴュー作に見合った彼等の初々しさと新鮮な感性が際立った佳作といったところであろうか。
クリスチャン・デカンのプロデュース能力による賜物といえる部分も散見されるが故に、バンドのメンバーサイドも感謝と恩義を感じてはいるものの、下世話で余計ながらも「アンジュの弟分」的な見方と扱われ方には大なり小なり些か抵抗感はあったのかもしれない。
これでもしクリスチャン・デカンの様な専任ヴォーカリスト(欲を言えばフロントマンとパフォーマーをも兼ねた)を加えていたら、もしかしたらそれはそれでまた評価が大きく変わっていたのかもしれないが…。
オープニングを飾る冒頭1曲目、アルバムタイトルでもあり直訳通りの“夢想への鍵”というイメージに相応しく、神秘めいたオリエンタルな雰囲気をも醸し出した、如何にも日本人が好みそうなギターとストリングアンサンブルによる泣きのメロディーラインが紡がれるイントロダクションに導かれ、ギタリストのGerald Reuzの切々とした歌心と情感溢れるヴォイスにいつしか惹き込まれており、朗々たるモーグシンセサイザーの荘厳なる木霊と時折ハッとさせられるメロディーラインの転調に、フレンチ・プログレッシヴならではの深さと妙味が存分に堪能出来ることだろう。
寂寥感と荒涼たる雰囲気の海風が吹き荒れるSEに導かれる2曲目、フォーキーなアコギとモーグとのアンサンブル、憂いを帯びたヴォイスで悲哀に満ちた世界観が謳い奏でられ、いきなり堰を切ったかの如く仄暗くてミステリアスな曲調に変わり高鳴るハモンドの躍動感とリズム隊の強固な活躍が光っている。
進軍のマーチを思わせるハモンドとモーグそしてドラミングの強打によるイントロダクションが心打つ3曲目も実に素晴らしい。
ストリングアンサンブルとチェンバロ(エレピ)、そしてアコギによるヴォーカルパートはイタリアン・ロックの中堅クラスのバンドにも引けを取らない位に、心の琴線を揺さぶるであろうユーロロックの本懐たるものを窺わせ、リスナーにじっくりと哀歌を聴かせるクリスチャンのプロデュース力と手腕には脱帽ものである。
哀愁漂うアコギとモーグが導入部の4曲目、ピアノとエレクトリック・ギターソロによるバラード調へと変わるといった意外性をも孕んだ泣きのメロディーラインが何とも切なくて堪らない。
プロコル・ハルム風なブリティッシュ調の音を思わせるハモンドの残響が印象的な5曲目、ヴォーカルパートと各演奏パートとの絶妙なる応酬と掛け合いにも似た流麗なハーモニーが寄せては返す波の様にリフレインする様はもはや感動以外の何物でもあるまい。
収録された全曲中10分超の大曲でもあるラストの6曲目は、パンタクルが紡ぐ音世界の大団円を飾るに相応しいリリシズムとファンタジー、そしてプログレッシヴ・ロックの持つ美意識と詩情が一気に集約された、荘厳なるドラマティックさとエモーショナルなイマージュが聴く者の脳裏に克明且つ鮮明に刻まれる事だろう。
終盤近くにフェードアウトして締め括られる様は、あたかも夢語りの世界から現実に引き戻されて目を覚ます…そんなイメージといったところだろうか。
こうして記念すべきデヴューアルバムのリリースから程無くして始まった国内プロモートに於いて、クリスチャン・デカンのプロデュースというネームヴァリューの箔が付いた甲斐あって、演奏会場は拍手喝采の大盛況に包まれると共に、アンジュのメンバーが入れ替わり立ち替わりで飛び入り参加したりやら、果てはアンジュのライヴのオープニングアクトを務めたりといった幸運の追い風に後押しされる形で、良い意味でポッと出の無名の新人バンドが注目を集めるには申し分の無い環境が整いつつあった。
アルカンレーベルサイドの尽力でフランス国内だけで初回プレス3000枚が完売し、遠い海を越えた北米カナダのフランス語圏でも5000枚近い好セールスを記録するまでに上り詰め、こうして順風満帆な軌道の波に乗り始めた彼等であったが、昔も今も変わる事無く人は皆最良な時こそ必ず足許を掬われるもので、何とギタリストでフロントマンのGerald Reuzが件のライヴツアー中にておそらくは機材の搬入の途中で何らかの負傷をしたのであろうか、傷口からばい菌が入って(所謂破傷風ですね)しまったが為に高熱と体調不良を発症し長期の入院を余儀なくされるという予期せぬアクシデントに見舞われてしまう。
これをきっかけにパンタクルは絵に描いた様な未来予想図やら思惑とは裏腹に失速への道を辿ってしまうのだから運命とは何とも皮肉なものである…。
入院も然る事ながら一歩間違えれば生命にかかわる疾病になったとはいえ、ツアーを含め大きなロックフェスやステージ(カナダのケベック州ツアーも計画されていた)に大きな穴を空け、兎にも角にもすったもんだが重なってしまった事で(早い話、興行的にも大きな損失を与えたしまったことも含めて)、すっかりプロモーター並びマネジメントサイドとの間に大きな溝と隔たりが生じてしまい、バンドメンバーはすっかり愛想を尽かしやる気すら失ってしまう結果となってしまう。
補足をすれば…ライヴツアー中に於いてもスタッフサイドから曲が長過ぎるとイチャモンを付けられたり、ツアーにローディーを付けて貰えなかったが為に機材の撤収に至ってもバンドのメンバー自らで行わなければならなかった事も不平不満が鬱積し、加えて直接の引鉄となったのはやはりギタリストの入院と治療費は全部自腹で支払えといわんばかりな、今日のブラック企業さながらの冷たい言葉を投げつけられたからだろうか。
ただ…個人的な余談で申し訳無いが、バンドのメンバー御自ら機材を撤収するなんてそれ位は極当たり前であると思うのだが、よくよく考えたらポッと出の新人バンドがローディーを付けて欲しいなんて、些かそれは贅沢というか我が儘だと思うのは変だろうか?
昨今日本のシルエレ等で活躍するバンド始め世界中のプログレバンドの大半が機材の撤収は自分達で行うのが当然であるが故に、ローディー付けて欲しいなんて言おうものなら「えっ…何考えているの !?」と反論されるのが関の山であろうから。
話が横道に逸れてしまったが、結局バンドサイドとレーベル並びマネジメントサイドとの溝は後々まで埋まる事無く、パンタクルはたった一年弱もの短い活動期間で、1976年自らに幕を下ろしフレンチ・ロックシーンの表舞台からあっさりと去って行ってしまう。
その後のバンドメンバーの動向にあっては21世紀の今もなお消息不明のまま、どうやら居心地の悪い音楽業界とは完全に縁を切ってフェードアウトしてしまった様だ。
今となっては良し悪しを抜きに彼等はあくまでただ単純明快に音楽を心から楽しみたいアマチュアイズムのままでいたかったのかもしれない。
彼等を擁護するという訳ではないが、パンタクルというバンドにとって自らの音と言葉で夢想の世界を語るには当時のフランスのロックシーンや音楽業界はあまりにも狭すぎて息が詰まりそうな位に窮屈だったのかもしれない。
それでも、たった一枚だけ遺された…最初で最後のデヴューアルバムだけがプログレッシヴ・ロック史に永遠に刻まれただけでも唯一の救いなのかもしれないが。
あくまでフランス人らしい(良い意味で)気まぐれさと気難しさとが同居した、孤高の詩人でもあり夢想家でもあった彼等の素直且つ正直に生きた青春の証と軌跡というには、あまりにも寂しさと虚しさを禁じ得ない。
パンタクルの世界観は哀しみと憂いに満ちた孤独なる道程、決して終わる事の無い夢幻のファンタジーなのかもしれない。
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14,2019
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今週の「一生逸品」はユーロ・ロックファン垂涎のメロトロンとリリシズム溢れるヴァイオリンを大々的にフィーチャーし、時季を問わないセピアな暮色を音楽にしたと言っても過言では無い、抒情的で感傷にも似たヴィジュアルを聴く者の脳裏に織り成す、フレンチ・シンフォニック屈指の伝説にして唯一無比の存在として、その名を現在に至るまで刻銘に留めている“テルパンドル ”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。
TERPANDRE/ Terpandre(1978)
1.Le Temps
2.Conte en vert
3.Anne Michaele
4.Histoire D'un Pecheur
5.Carrousel
Bernard Monerri:G, Per
Jacques Pina:Piano, Key, Mellotron
Michel Tardieu:Key, Mellotron
Patrick Tilleman:Violin
Paul Fargier:B
Michel Torelli:Ds, Per
悪夢にも似た70年代後期のかつてない位なプログレッシヴ・ロックの衰退・停滞は、イギリスやイタリア…果てはアメリカも然る事ながら、御多聞に漏れずフランス国内でもマグマやアンジュを除く殆どのプログレッシヴ系アーティストがことごとく解散或いは路線変更するしか術が無いといった、文字通り悪魔との取引にも似たいずれかの選択肢を取らざるを得なかったのは御周知の事だろう。
アンダーグラウンドの領域へと追いやられた純粋なまでのプログレッシヴの信奉者達は、そんな70年代後期の悪夢に抗うかの如く限られた製作環境と極僅かな資金を頼りに、ある者はマイナーレーベルから、またある者はセルフレーベルを興し自主製作リリースへと移行しつつ、80年代半ばのムゼアレーベル発足までの間、苦難に耐え続け自らの夢と希望を紡ぎながら来たるべき時に向けて待ち続けたのは言うに及ぶまい。
前置きが長くなったが、70年代後期~80年代初期の苦難な時代を生き抜いた多くのフレンチ・プログレッシヴの担い手達…アジア・ミノール、ウリュド、シノプシス、アシントヤ、ウルタンベール、ネオ、オパール、ファルスタッフ、ステップ・アヘッドといった70年代に負けず劣らずな一時代を築き上げた傑出された逸材を始め、聴き手側各々の好みや出来不出来の差こそあれどヴァン・デスト、イカール、ニュアンス、グリム、エロイム、マドリガル、オープン・エア、トレフル…etc、etcが百花繚乱の様相を呈していた、所謂良質で素晴らしい作品こそアンダーグラウンドな範疇にありきと言われた中で、その独特な音楽性で一歩二歩も抜きん出ていた特異な存在にして二大傑作を輩出したのが、クリムゾンイズムを継承しダークサイドな佇まいで一躍話題となったアラクノイ、そしてフレンチ・ロック特有のたおやかな抒情性を醸し出したメロトロンとヴァイオリンで注目を集めた今回本編の主人公でもあるテルパンドルの2バンドであった。
テルパンドルの詳細なバイオグラフィーにあっては、マーキー/ベル・アンティークよりリリースされた国内盤CDのライナーにて、それ相応に詳細なバイオグラフィーがきっちりと解説されていると思うのでどうかそちらを参照して頂きたく、ここでは極々触り程度で綴っていきたいと思う。
テルパンドルの幕開けはギターのBernard MonerriとキーボードのJacques Pinaの2人を中心に、1975年を境にリオン、グルノーヴルからメンバーが集結して誕生したとの事。
各メンバーの音楽的なバックボーンは多種多様で、ジミ・ヘンドリックス始めジョン・メイオール、ディープ・パープル、クリーム、イエス、キング・クリムゾン、VDGG、果てはマーラー、バルトーク、サティ、バッハ、ラヴェルといったクラシック畑まで多岐に亘るが、中でもツインキーボードの片割れでプログレッシヴに造詣の深かったMichel Tardieuの存在が後々のバンドの方向性に大いに貢献していたと言っても過言ではあるまい。
何より彼等全員とも相当なまでの手練にして一朝一夕では為し得ない熟練された音楽経験者でもあり、それぞれが長年渡り歩いた経歴が強みであることをまざまざと物語っている…。
一日の始まりを告げる日の出の朝焼け、或いは一日の終わりを告げる夕暮れの黄昏時なのかは定かでは無いが、いずれにせよセピア色に彩られた空と水面と大地のフォトグラフを起用した、実に意味深な意匠に包まれたバンド名を冠しただけの極めてシンプルな唯一作は、人伝とコネを頼りに1978年スイスのジュネーヴにあるアクエリウス・スタジオという比較的恵まれた環境で録音された。
ジャケットアート含め名は体を表すというが、決してメロトロンとヴァイオリンを多用した重厚なシンフォニックというだけでは収まりきれない、さながらECM系のジャズにも相通ずるヴィジョンとイマジネーションが感じられるのも彼等の身上とも言えよう。
オープニングを飾る1曲目は柱時計が時を刻むかの様なカウント音に導かれ、厳かにして流麗なシンセとピアノに先導され、リズム隊、ヴァイオリン、ギターが順を追って絡む怒涛のアンサンブルで幕を開ける。
メンバー全員によるテクニカルで力強い演奏の動的な押しの部分と、ピアノとエレピ、ヴァイオリンによるムーディーで幽玄な佇まいの静的な引きの部分との対比が絶妙且つ素晴らしいのひと言に尽きる。
中間部から漸くメロトロンが顔を出す辺りから、これぞユーロ・ロックらしい真骨頂が垣間見えてフレンチ・ジャズロックとシンフォニックの最良なエッセンスが融合し濃縮還元されて終盤へと突き進む展開は感動以外の何物でもあるまい。
メロトロンフルートとエレピ、リズム隊をイントロダクションに、季節感を問わない穏やかなイメージと浮遊感すら覚えてしまう2曲目の何とも甘美で抒情的、時折刹那な雰囲気すら想起しそうな、優しくも儚い季節の移り変わりを表した、まさしく“緑の物語”というタイトルに相応しい好ナンバーと言えよう。
2曲目とは打って変わって、3曲目は同じメロトロンフルートのイントロダクションでも寂しくも物悲しさが色濃く漂っており、タイトルでもあるAnne Michaeleなる人物(女性?)の人生を物語っているかの様な泣きのメロトロンの洪水に、ピアノとシンセの印象的なアクセントが、純粋なまでの愛しさの中に誰も侵し難い気高さすら感じられる、アナログ時代のA面ラストを飾るに相応しいテルパンドル流ラヴバラードと思っても異論はあるまい。
4曲目はセンシティヴでテクニカルな…良い意味で絵に描いた様なシンフォニック・ジャズロック調を思わせるシンセとピアノに導かれ、1曲目に匹敵するくらいに動と静のバランスが巧妙なリズミカルで小気味良いナンバーを聴かせてくれる。
途中不穏な雰囲気を湛えたメロトロンに意表を突かれるが、美しいピアノと効果的なパーカッション群のオブラートに包まれて、さながら月光の下で真夜中の街角を彷徨う様な妖しさすら思い浮かべてしまうが、いきなり力強い演奏へと転調し終盤へと雪崩れ込む辺りは、あたかもタイトル通りのラスト5曲目へと繋がるかの如く狂ったように回り続けるメリーゴーラウンドが脳裏をよぎるそんな思いですらある。
そんな4曲目の流れのイメージを受け継ぐかの如く、ラストは幾分ダークでニヒリズム漂う心象風景を構築した、ヘヴィでシリアスな13分強の大曲で、序盤に於いて不協和音的なメロトロン、ギター、リズム隊をバックにジャズィーなピアノが淡々と奏でられる様はテルパンドルのもう一つの顔というか側面をも覗かせる、別な意味で実に印象的ですらある。
…かと思いきや、力強いティンパニーに導かれ仄明るい感のメロトロンが奏でられると何だかホッとするかのような演出に粋な心憎さをも覚えてしまうから何とも困ったものである。
それでも淡々とジャズィーなピアノは進行しつつ、ヴァイオリンを先導にムーディーで欧州の香り漂うクロスオーヴァーな曲調へと変わり、あれよあれよという間に厳かなメロトロンの大河に身を委ねている頃には、いつの間にかテクニカルでリリシズム溢れる彼等ならではの巧妙な罠にも似た術中にはまっている思いで、何度聴いても“嗚呼!またやられた”といった感が否めないから世話は無い(苦笑)。
これだけ高水準な演奏技量とスキル、コンポーズ能力やら録音クオリティーを含め作品を完成させたにも拘らず、その直後に記念すべきデヴュー作はリリースされる事無く、理由並び原因は不明であるが3年間もお蔵入りというか寝かされてしまった形となって、こうしてテルパンドルの作品は1981年に漸く陽の目を見る事となり(過去にプログレ専門誌及び関係各誌にて、テルパンドルがデヴューリリースした年数でそれぞれのバラつきがあったのはそれら諸般の事情が原因であると推認される )、極限られた枚数でしかプレスされなかったが為に、メロトロン入りという触れ込みと内容が高水準で素晴らしいといった評判から、世界中のプログレ・マニアがこぞって入手し、バンドの手持ち分でさえも即完売となり、以後1988年にムゼアから再プレスされるまでの間は極めて入手困難で高額プレミアムなレアアイテムとして数えられ、お決まりの如く専門店の壁に掲げられて垂涎の的へと辿った次第である…。
バンドは78年にデヴュー作をプレス以降、ヴァイオリニストの交代と僅か数回のギグを経てあえなく解散し、内のメンバーだったBernard Monerriと数名は伝説的ジャズロックバンドVORTEXに何度か関与しギグにも参加。
後々は解散したテルパンドルから移行してVORTEXでの3rd製作をも視野に入れた形で準備が進められてはいたものの、結局諸事情が重なり計画は頓挫しVORTEX自体も解散という憂き目に遭ってしまう。
その後唯一判明している事といえば、オリジナル・ヴァイオリニストのPatrick Tillemanが1994年に再結成したザオの新メンバーとして招聘され新作レコーディングにクレジットされたぐらいであろうか。
残念ながら21世紀のFacebookを始めとするSNS隆盛時代の昨今に於いてもメンバーの消息を知る由も無く、音楽から足を洗って堅気の仕事に就いたか、或いは陰ながらも音楽業界に身を置いて裏方稼業として人生を送っているかのいずれかと思えるが、21世紀という…いつ何が起こってもおかしくない時代であるが故に、いきなり突然テルパンドル再編の報が飛び込んできても、そんな想像に笑う奴もいないだろうしバチが当たる訳でも無し、僅かばかりながらも相応に期待したいところではあるのだが(苦笑)。
世に秀でた素晴らしい音楽作品が決して必ずしも売れるとは限らないというのが、悲しいかな厳しい現実と言うべきか世の常とでも言うべきか、御多聞に漏れずテルパンドルも辛い時代に抗いながらも世に敗れ散ってしまった次第であるが、作品の高潔さとその純粋なまでのプログレッシヴな精神と魂は、21世紀というネット社会の今日に至っても未だ永久不変の如く、セピアの光沢を纏いつつも決して色褪せる事無く今もなお神々しく光り輝いている。
“世に敗れても、高貴な魂だけは死なず生き続けている…”
一部のファンからは「スプリングやサンドローズみたいに、古臭いメロトロンだけが売りの平凡なB級作品」だとか、「ヴァイオリンがポンティやロックウッドと比べたら今イチ」だとか、散々な言われようであるのもまた紛れも無い事実ではあるが、創作者を嘲り侮辱してあたかも話しのネタの如く酒席の肴にしている…そんな真っ赤な顔をして居酒屋でくだらない与太話をするだけが関の山みたいな阿呆な輩に、テルパンドルの持っている良さと本質が到底決して理解なんぞ出来はしまい…。
だからこそ我々プログレッシヴを愛する者達は、高潔で純粋なる気持ちを持ち続けて“高み”を目指していかねばならないと思う。
まさしくテルパンドルのジャケットの如く、希望の陽光を目指して終わり無き旅路をこれからも信念を持ち続けて歩んで行こうではないか。
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10,2019
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今週の「夢幻の楽師達」は、暮れの時節柄に相応しく仄暗い夕闇の冬空と重く垂れ込める曇天の寂寥感を湛えたエキセントリックでリリカルな調べと旋律を奏でる、フレンチ・ロック界きっての職人芸の域にも似た、伝説云々をも超越し現在(いま)を生き続ける…魂が震える位に渾身の楽師達でもあり、名匠ともいえる位置に君臨する“カルプ・ディアン ”に、今再び輝かしいスポットライトを当ててみたいと思います。
CARPE DIEM
(FRANCE 1976~)
Christian Trucchi:Key, Vo
Gilbert Abbenanti:G
Claude-Marius David:Flute, Sax, Per
Alain Bergé:B
Alain Faraut:Ds, Per
70年代初頭のフレンチ・ロックシーンに於いて、コバイアストーリーを引っ提げてジャズロック界のの巨人となったマグマ、多国籍編成ながらもスペイシーでサイケデリックカラーのゴング、そして後年のフレンチ・シンフォニックへと繋がる潮流の源となったロックテアトルの大御所アンジュといった三巨頭によって、名実共にフレンチ・プログレッシヴは本格的な幕開けを告げる事となったのは最早言うには及ぶまい。
三巨頭に追随するかの如く、ザオ、エルドン、クリアライト、トランジット・エクスプレス、ラード・フリー、マジューン、アール・ゾイ、ワパスー、アトール、モナ・リザ、ピュルサー、タイ・フォン…etc、etcが世に輩出され、各々が異なったサウンドスタイルと独創性を打ち出しつつもフレンチ・プログレッシヴはイタリアやドイツとはひと味ふた味も違った独自のシーンを形成し、多種多彩で百花繚乱…大雑把に言ってしまえば雑多でカテゴライズ的にも捉えどころの無い、まさしく国民性とお国柄が如実に反映されたロック繁栄期の一時代を築いたと言っても異論はあるまい。
そんな70年代フレンチ・プログレッシヴが最も熱気を帯びて隆盛を誇っていたであろう1973~1976年頃を境に、今回本編の主人公でもあるカルプ・ディアンも御多聞に漏れず、自らの音楽人生と信念を携えてフレンチ・ロックのメインストリームに身を投じる事となった次第である。
フランスきってのリゾート観光地で諸外国からもバカンスに訪れるニースを拠点に、1969年当時ハイスクールの学生で若かりしティーンエイジャーでもあったキーボーダーのChristian Trucchi を中心にカルプ・ディアンの母体ともいえるバンドが結成される。
…とは言えひっきりなしにメンバーの交代やら出入りが激しかったさ中、音楽性やら方向性すら曖昧模糊で手探りと紆余曲折の足踏み状態が続き、1970年に加入したベーシストのAlain Bergéからの提案と助言で次第にプログレッシヴ色を強めた作風へと移行し、更にギタリストのGilbert Abbenanti を迎えバンド名も正式にカルプ・ディアンへと改名する頃には、プロコル・ハルム始めムーディー・ブルース、ジェスロ・タル、そして彼等の後々の音楽性の方向をも決定付けた御大のクリムゾンといったサウンドレパートリーやカヴァー曲でステージに立つ機会が多くなる(ちなみにバンド名の意は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句“その日を摘め ”を表している)。
と、同時にカヴァー曲をプレイする一方で徐々に彼等自身の手による大作主義のオリジナルナンバーがステージ上で披露される回数も増していき、この時点でもう既にデヴューアルバムに向けたトラックナンバーやアイディアが立ち上がっていたものと思われる。
余談ながらもキーボーダーのChristian自身、まだ素人に毛の生えたアマチュアの域だった当時、限られた使用機材を如何に有効活用してプログレッシヴな音域と幅の拡がり方が出来るのか…試行錯誤の末彼が所有していたオルガンをデイヴ・スチュアート風なスタイルに改造したというのだから並大抵の苦労の程が窺い知れよう(苦笑)。
1971年、僅か数枚のプレスで自主流通によるセルフシングルをリリースし、同年夏にはフランス国内でのアマチュア・バンドコンテストで見事に優勝を飾りバンドは遂にパリに進出、数々のギグに参加し聴衆から拍手喝采で迎えられ、軌道の波に乗り始めたカルプ・ディアンは漸く船出の準備へと漕ぎ着けるまでに至った次第である。
それ以降は地元ニースでの高い知名度の甲斐あって日々ギグに明け暮れつつ、デモテープを製作してはレコード製作と契約に繋がるきっかけを求めて多方面のレコード会社に音源を送ってはなしの礫やら門前払いを喰らうといった繰り返しで数年間は辛酸を舐めさせられ不遇の時期を送る事となる。
ChristianとGilbertの主要メンバーを残し相も変わらずメンバーの交代劇(ヴォーカリストが居たり居なかったり、ヴォーカルレスのインスト中心で活動していたなんて事も…)が続いてはいたものの、かのヴィジターズに参加の為一時的にバンドから離れていたベーシストのAlain Bergéがバンドに復帰したのを契機に、今までの素人臭い考えやらアマチュア意識を全て排しカルプ・ディアンは本格的にプロへの道を歩む事を決意する。
ドラマーも正式なメンバーとしてAlain Farautが加わり、サウンド面での更なる強化を図る為サックス兼フルート奏者のClaude-Marius Davidを迎えた5人編成にプラスして、ライトショーと作詞を担当の表には出ない6人目のメンバーとしてYves Yeuを加えた布陣でカルプ・ディアンは大いなるプログレッシヴ・フィールドの大海原へと船出に臨んだ次第である。
1975年、フランス全土にてオンエアされていた若手アーティストの発掘番組(日本でいうところの『イカ天』みたいなものだろうか…)で、カルプ・ディアンはデヴューアルバムの冒頭となった“ Voyage du Non-Retour”を演奏し聴衆並び番組の視聴者から大絶賛され、偶然にもこの模様を拝見していたフレンチ・プログレッシヴの仕掛け人にして、アンジュのマネジメントのみならず幾数多もの前途有望なフレンチ・プログレッシヴバンドを発掘し、蠍を模したギターマークで御馴染みのArcane/Cryptoレーベルのオーナーでもあった Jean-Claude Pognantに見い出され、お互い呼応するかの如く程無くしてArcaneレーベルと契約を交わし、バンドサイドの意向でセルフプロデュースによる10日間のスタジオ使用期限という条件の下でデヴューアルバムの録音に臨む事となる。
彼等のデヴュー作を語る上で忘れてはならない、あたかもエッシャーやマグリットを彷彿とさせる騙し絵の如き幻想的な意匠にあっては、ニース在住のバンドの友人のほぼ無名に近い素描画家の手によるもので、フレンチ・プログレッシヴの歴史に於いて個人的な嗜好で申し訳無いが…ピュルサーの『Halloween』、エマニュエル・ブーズの『Le Jour où les Vaches...』と並ぶ逸品に仕上がっていると思う。
白と黒との醸し出すエクスタシー、漆黒の闇に木霊する音宇宙の残響、ヘヴィネスとリリシズムとの狭間に流れる唯一無比な孤高なる調べ、それらが渾然一体化しアートワークの世界観を綴り物語っている様はロックテアトルでも抒情派シンフォニックでもない、人間の心の奥底の深淵に潜む混沌(カオス)と情念(パッション)とのせめぎ合いと発露に他ならない。
しいて言ってしまえば、クリムゾンのエッセンスにシャイロックのセンス、ピュルサーの持つ音宇宙の微粒子の煌めき、儚くも美しい…仄暗く朧気な回廊を夢遊病者が彷徨うかの様なシチュエーションすらも禁じ得ない。
迎えた1976年2月、待望のデヴュー作『En Regardant Passer le Temps 』の初回プレス5000枚は瞬く間に完売し、以後ArcaneからCryptoレーベルへと改名してからもリリースされたものの悲しいかな見開きジャケットではない単なるシングルジャケットに移行してしまったのが何とも惜しまれる。
ちなみに評判を聞きつけたカナダのレーベルSterlingがアルバムを200枚買い取り、それに端を発した権利云々のすったもんだで、最終的にはカナダのローカルプレスオンリーならば許諾するという条件で一応の決着までに至り『Way Out As The Time Goes By』なる英訳タイトル盤がリリースされた逸話まで残っている。
デヴューアルバムリリースに先駆け76年1月にナンシーで開催されたロックフェスで、アンジュ、モナ・リザ、タンジェリーヌと共演したカルプ・ディアンはフランス国内で完全に認知され人気を博すまでに成長を遂げ、デヴューアルバムも最終的にはフランス国内で10000枚以上、諸外国でも1000枚以上の好セールスを記録し、同時期にリリースされたアトールの『L'Araignée-Mal(夢魔)』と共に音楽誌で高評価を得られるまでに至ったのは言うまでもなかった。
デヴュー以降バンドは精力的に活動し、フランス国内のサーキットツアーに加えてArcaneレーベル主催のロックフェスへの参加、果ては大御所マグマとの共演を果たし彼等カルプ・ディアンは前途洋々且つ順風満帆の絶頂期を迎えつつあった。
同年夏には次回作の為のアイディアと曲作りに着手し、その為の準備期間とスタジオの確保に至るまで前作とは打って変わって環境の違いと余裕を持たせたタイムラグのお陰で比較的ゆったりとしたペースで進行させる事となった。
その間も交友関係のあったシャイロックのメンバーとの楽器の貸し借りやら機材の搬送協力に至るまでコミュニケーションと連携を深めていきつつ、76年12月にスタジオ入りし翌77年3月に2nd『Cueille le Jour 』をリリース。
前作と同様に黒の下地というジャケットスタイルこそ変わっていないが、雨粒…或いは水泡の集まりを人の横顔(女性なのだろうか)に見立てた意匠通り、サウンド的にもややシンフォニック寄りの傾向が散見され前デヴュー作で感じられた荒削りながらも硬質なヘヴィ感が薄まったというきらいもあってか、セールス的には前作には及ばなかったという向きが正しいところであろう。
出来栄えを含め総じて内容自体は決して悪くは無く、そこそこのセールスと収益は得られたものの、やはり直接的な原因を辿れば70年代末期に全世界を席巻しつつあったパンクとニューウェイヴの台頭の余波を受け、当時既にプログレッシヴ・ロックバンドが活躍する場が減少しつつあった時代背景に加えて音楽誌や各メディアもプログレッシヴ・ロックを取り挙げなくなった事も一因していたのかもしれないが、時代の流行り廃りとはいえ何とも実に嘆かわしい限りである。
同年夏に開催のロックフェスでの参加に招聘されるものの、2ndアルバムのセールス不振や今までのロードツアーとオーヴァーワークによる心身の疲弊に加えて、音楽に対する情熱が消え失意に苛まれていたギタリストのGilbertがバンドを去る事となり、バンドは急遽ベーシストAlainの旧知の間柄でもあったGérald Maciaを迎えた新布陣でフェスに臨み、そんな彼等に聴衆は惜しみない拍手と歓声で迎え入れてくれたのは言うまでもなかった。
特に新メンバーGéraldのアコギを含めたギタープレイも然る事ながらヴァイオリンまで手掛ける多才なマルチプレイに詰めかけたオーディエンスは只々驚嘆するばかりであった。
起死回生にGéraldという新戦力を加えた布陣で、更なる展望と3枚目の次回作に向けての気運が高まりつつある中、それでもカルプ・ディアンを取り巻く諸問題は山積している状態は続き、特にマネジメント不足という問題は彼等を大いに悩ませた。
が、不退転の決意表明よろしくとばかりに、バンドの窮地を救う為ベーシストのAlain Bergéは意を決しベーシストの座から離れてカルプ・ディアンの専属マネージャーへとシフトする事となる。
Alainの後釜としてアコギとベースを兼任するGeorges Ferreroを迎えた彼等は、2ndでの反省と経験を糧に失地回復へと躍起になり、かねてからCryptoレーベル側のバンドへの待遇に疑心暗鬼を抱いていた彼等は、一念発起で所属会社のスタッフ並びオーナーのJean-Claude Pognantに対し、製作環境並び待遇の改善要求を求めて直談判へと乗り込んだ。
しかし…悲しいかな、所属会社とバンドサイドとの折り合いがそう簡単に決着する筈も無く、結局は平行線のまま半ばCryptoサイドとの衝突と喧嘩別れに近い形で自ら契約解除を申し入れ、カルプ・ディアンはセルフレコーディングで録った新作3rdの為に準備したデモテープ一本を携えて、パリ市内のレコード会社、音楽事務所を奔走するのだった。
しかし…時既に遅く当時吹き荒れていたパンク・ニューウェイヴの波及は、フランス国内の音楽誌やメディアを席巻しプログレッシヴ・バンドが活躍する場も大幅に激減しているという有様で、この事が彼等の創作意欲を極度に奪う形となってしまい、最早カルプ・ディアン自体も意気消沈以上にほとほと心身ともに疲れ果ててしまうという憂き目に遭ってしまう。
3rdの新作という夢も潰えてしまい、失意を抱えたままマネージャーのAlainが企画主催したロックフェス、シンガーソングライターのバック、そして地元ニースでの20分間に及ぶテレビショウへの出演をこなしつつ、1979年の10月カルプ・ディアンはその活動に自ら幕を下ろし静かに表舞台から去って行ってしまう。
時代は移り変わり…80年代に入ると、当時地元ニースの新進プログレッシヴバンドだったステップ・アヘッドからChristian Trucchiに是非とも参加して欲しいとの要請があったものの、音楽産業に対し疑心暗鬼とトラウマを抱いていたからなのか、Christian自身その申し出をあっさりと断ってしまい、結局Christianの代わりに妹のClaudie Truchiが加入する(フルート奏者のClaude-Marius Davidが一曲だけゲストで参加している)というオマケ話を除けば、カルプ・ディアンの各々のメンバー達は音楽業界の裏方ないし音楽以外の正業に就き暫し長きに亘る沈黙を守り続けたまま時代の推移を見守るしか術が無かったのである。
そして21世紀を迎えた頃には時代に呼応する形で(時代が彼等に追い着いたと言った方が正しいのか)、かつてのカルプ・ディアンのメンバーは再びフレンチ・プログレッシヴのフィールドへ集結する様になり、93年に鬼籍の人となったClaudeを除き、Christian Trucchi、Gilbert Abbenanti、Alain Faraut、そして解散までの新メンバーだったGérald Macia、Georges Ferreroの両名が合流し、2015年カルプ・ディアンはムゼアより復活再結成にして3人の管楽器奏者とパーカッションを兼ねる女性ヴォーカルをゲストに迎え待望の3作目の新譜となった『Circonvolutions 』をリリース。
良い意味で相も変わらず白と黒を基調としたジャケットアートワークは彼等の一切の妥協を許さない硬派な音楽スタイル、創作に対する敬意と真摯な姿勢、頑なまでの身上を物語っており、大半がスタジオ新録によるナンバーがメインであるが、天国へ旅立った今は亡きClaudeへの哀悼と鎮魂を込めた意味合いで1978年のライヴから収録されたClaudeの最後の熱演が聴ける2つの未発表曲が収録されているのも嬉しくもあり感慨深いものである…。
再結成し今もなお精力的に活動を継続している彼等に対し、安易な気持ちで初来日公演にクラブチッタでその雄姿を観たいとはここでは敢えて言わず、今だからこそ他言無用のまま彼等の行く末をこのまま黙って静かに見守ってやりたいというのが正直なところである。
プログレッシヴ・ロック関連の記述でちょくちょく“伝説”という語句を冠しては美化しがちな傾向であるが、彼等は決して伝説で終わる事の無い、彼等の現在(いま)の生き様…現在進行形の歩む姿こそがリアルにして伝説そのものであるという事を結びに本文を締め括りたいと思う。
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13,2019
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2019年師走も半ばに差しかかった今週の「一生逸品」は、70年代後期フレンチ・プログレッシヴきっての異彩(異才)にして、ダークサイドな凝視で漆黒の闇夜を彷徨うかの様な幻夢を堪能させてくれる、名実共に暗黒の申し子に相応しい闇のエナジーを現在もなお神々しく放ち続ける“アラクノイ ”に焦点を当ててみたいと思います。
ARACHNOID/ Arachnoid(1978)
1.Le Chamadere/2.Piano Caveau/
3.In The Screen Side Of Your Eyes/
4.Toutes Ces Images/5.La Guepe/
6.L'adieu Au Pierrot/7.Final
Patrick Woindrich:B, Vo
Nicolas Popowski:G, Vo
Francois Faugieres:Key, Vo
Pierre Kuti:Key
Bernard Minig:Ds
Marc Meryl:Vo, Per
個人的な見解で恐縮だが…アラクノイの音楽に接する度に横溝正史の『夜歩く』を連想してしまう。
それはあたかも意識が無いまま何かに取り憑かれたかの如く彷徨う(今でこそ禁句であるが)夢遊病者を思わせて、狂気と錯乱、苦悩と戦慄、悪夢と現実の狭間を聴く者の脳裏にまざまざと映し出す、そんなミスティックでカルトな香りすら禁じ得ない。
70年代全般のフランスのプログレッシヴ・ロックは、花の都パリをも思わせる“百花繚乱”の言葉通り、マグマ、ゴング、ザオを筆頭格とするジャズ・ロック系、アンジュ、アトール、モナ・リザ、ピュルサー、タイ・フォン、ワパスー…等といったロック・テアトル路線を含んだシンフォニック系の
2つの動きが主流を占めていたのは周知の事であろう。
時は流れ70年代に隆盛を誇ったフレンチ・プログレも、極一部を除いて活動休止ないし解散に近い状態にまで追い込まれ、イギリスやイタリアと同様…活動範囲をアンダーグラウンドな領域へと移行しつつ地道に生き長らえるしか術が無かった冬の時代を迎えたのである。
そんな70年代後期と80年代の境目であるエアポケットともいうべき一種独特な時代背景のさ中、今回の主人公でもあるアラクノイは自らのバンド名を冠した唯一作を世に送り出した。
アラクノイが初めて世に知れ渡ったのは、80年代初頭マーキー誌を経由して片翼とも言うべきもう一方の雄テルパンドルと共に70年代後期フレンチ・プログレの隠れた傑作として紹介されたのが契機であった。
その死語にも等しいニューウェイヴ然としたジャケットの装丁と意匠に、多くのプログレ・ファンは困惑しある者は疑心暗鬼にならざるを得なかったというのも仕方あるまい。
そんな余計な下馬評を覆すかの如く、半ば諦めにも似た期待と不安を抱いて作品を耳にした者達は皆一様に感動と興奮で高揚し、『太陽と戦慄』『暗黒の世界』の頃のクリムゾンの再来にも似た旋律(戦慄)とカタルシスが再び呼び覚まされ驚愕したのは最早言うに及ぶまい。
バンドネーミングも“蜘蛛”という如何にも毒々しいイメージを孕んだ相乗効果(蜘蛛を表現した手のフォトグラファーのジャケット意匠含めて)が功を奏し、アラクノイは入手が極めて困難な高額プレミアムが付いてしまったにも拘らず、瞬く間に人伝を介して評判と話題を呼ぶに至った次第である。
バンド結成の経緯に至っては、残念ながら私の拙くも乏しい語学力ではなかなか解する事が出来ず、ここは概ねある程度掻い摘んで分かったところで、ベーシストでリーダー格と思われるPatrickが、1972年に学友達と結成したバンドがルーツと思われる。
その頃はもうバンドの核とも言うべきFrancoisと、東欧・ロシア系の血筋と思われるNicoiasが既に参加しており、影響を受けたアーティストというのも多種多彩で…クリムゾンも然る事ながらピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックス、ニール・ヤング、果てはビートルズにソフト・マシーン、ジェファーソン・エアプレーンといったところで、当然の事ながらその当時のバンドの方向性たるやまだまだあやふやなところが散見出来そうだが、1975年を境にバルトークを始めとするクラシックから影響を受けたPierre始め、Bernard、Marcが参加する頃になると、バンドの方向性も徐々に確立される様になった。
肝心要の本作品のサウンドは、聴く者の脳裏に不安と緊張を促すかの様な機械的なシンセに導かれ流麗ながらもどこか仄暗く陰鬱なイメージのギターとファルフィッサ・オルガンが被ると、まるで罠の如く張り巡らされた蜘蛛の巣に絡まれた獲物がもがき苦しむかの様に、アラクノイが紡ぎ出す約50分近い悲劇と狂気の物語は幕を開ける(ちなみにYouTubeでは未発表曲とライヴアーカイヴを含めた1時間以上に亘る音世界が堪能出来る)。
お国柄を反映したロックテアトル風な語りに近い演劇的なヴォイスに、徹底的に陰影を帯びたマイナー調の重苦しくもクリムゾンの言うところの金属的な旋律(戦慄)に支配された音の迷宮を彷彿とさせる緻密で複雑怪奇な曲進行…感情を捨て去ったメカニカルな曲展開に幼児の囁き、さざなみの様に寄せては返す悲しみのメロトロン等といった回廊の様な冥府巡りに、聴く者の心と魂は身体から遊離して(ウルトラQみたいだな…)完全に蜘蛛の巣の術中にはまり込んで抜け出せなくなっている事だろう。
時に物悲しく嘆き、時に何かに取り憑かれたかの様に激昂しわめき散らす様なMarcのヴォイスの表現力は全編に亘って本当に素晴らしい。
2曲目の機械的で無機質な感のピアノに導かれつつ暫し穏やかに聴き入っていると、いきなり“地獄の一丁目へようこそ”と言わんばかりなサディステックな旋律が畳み掛ける様に襲いかかり、貴方の魂はもう完膚無きまで蜘蛛の毒牙の餌食になってしまっている事だろう。
本家クリムゾンの“人々の嘆き”を彷彿とさせる様なエロティックなギターの残響と唯一聴ける軽快なメロディーラインが印象的な3曲目も素晴らしい。
ゲスト参加しているフルートの甘くどこか切なく渋味を帯びた演奏も味わい深い。
余談ながらも実はこの3曲目にはちょっとした逸話があって、78年当時に初めて自主盤でリリースされた際、編集とマスタリングの段階でどういう訳か何らかの手違いが生じて、ジャケット裏にはちゃんとしっかり3曲目がクレジットされながらも、初出の原盤にはA面ラストの3曲目だけ丸々ごっそりと抜け落ちていたというから笑うに笑えない…。
結果、1988年にムゼアから待望のLP再発された際に、この幻の3曲目が収録された完全版として漸くやっと陽の目を見る事となったのだが、まあ兎にも角にも何ともお騒がせなエピソードだった事に変わりはあるまい(苦笑)。
3曲目フェードアウトの後を受けて4曲目のイントロは3曲目終盤部のフェードインから再び冥府巡りは幕を開ける。
無機質+無感情でメカニカルな印象を湛えながらも金属質でヘヴィな旋律は更に加速しつつ、抒情と狂暴の狭間を応酬するメロトロンにオルガン、ギターの残響が無間地獄の宴を奏でている様は最早鳥肌ものと言えよう。
冥府巡りも終盤近くに差し掛かると、蚊の鳴くようなか細くノイズィーで耳障りなシンセをイントロに、ジャズィーでシニカルな趣のロックンロールをバックに、台詞による語り部達の発狂を思わせる寸劇と狂騒が繰り広げられる異様な宴は、思わず耳を塞ぎたくなる怖いもの見たさと不安感が煽り立てられる。
そして冥府巡りという悪夢から覚めたラスト“Final”に於いては、穏やかな朝もやの中の目覚めを思わせるギターとシンセの平和で詩情溢れるシチュエーションを思わせ、さながら美狂乱の“組曲「乱」~最終章〈真紅の子供たち〉”にも相通ずる唯一ピースフルなナンバーで締め括られるのかと思いきや、突如糸が断ち切られるかの如く不意を付く様に再びサディスティックにしてへヴィで狂暴な旋律と不協和音に襲われ、改めて出口の無い堂々巡りの悪夢は更に続くという驚愕な幕切れで本作品は終焉を迎える。
さながら国こそ違えどイタリアのイル・バレット・ディ・ブロンゾ『YS』やビリエット・ペル・リンフェルノのラストをも想起させる邪悪なエナジーで終始した、フレンチ・ロックのアンダーグラウンドに於いて僅かたった一枚の作品だけで唯一孤高にして稀有な存在に昇り詰めたと言っても過言ではあるまい。
理由を知る術こそ無いが、これだけのクオリティーとポテンシャルを持ちながらも彼等は唯一の作品を遺して自らを解体した次第であるが、リーダー格のPatrick Woindrichがその後ジルベール・アルトマン率いるアーバン・サックスの音響スタッフチームとして参加し、現在も数多くの音楽関連の仕
事をこなして多忙を極めており、Bernard MinigもPatrickと同様に後年数々のミュージシャン達とのセッションやバック等を務め今日までに至っている。
ギタリストのNicolas Popowskiは音楽学校の講師、Pierre Kutiは弁護士への道を進み音楽活動から完全に退いている一方、Francois FaugieresとMarc Merylの両名は残念ながら既に鬼籍の人となっている。
Marc Merylは1987年、そしてFrancoisは1995年移住先のブラジルで亡くなっており死因は定かではない…。
徹頭徹尾なまでに漆黒の闇のエナジーを纏い邪悪なオーラを放ち、蜘蛛の毒牙に犯されたかの様な禁忌に満ちた唯一作を遺して、忘却の彼方へと去っていったアラクノイ。
フレンチ・プログレッシヴという領域で、ティアンコ、ハロウィン、ネヴェルネスト、そしてシリンクスといったダークサイドなカラーを身上とした後継者が輩出されている昨今ではあるが、アラクノイに迫る禍々しさを伴ったバンドは未だ現れていないのが正直なところでもある。
あの麻薬にも似た強迫観念なサディスティックで狂おしい戦慄の美学に再び出会える時は果たして巡ってくるのだろうか…?
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06,2020
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5月最初にお届けする「夢幻の楽師達」は、70年代フレンチ・シンフォニックの雄にして大御所アンジュと共にロックテアトルというカテゴリージャンルに大きな軌跡と足跡を残した“モナ・リザ ”に再び焦点を当ててみたいと思います。
MONA LISA
(FRANCE 1974~?)
Dominique Le Guennec:Vo,Flute,Syn
Pascal Jardon:G
Jean‐Paul Pierson:Key
Jean‐Luc Martin:B,Vo
Francis Poulet:Ds,Per,Vo
70年代のフレンチ・プログレッシヴシーンにおいて、シアトリカルなステージングと奇抜なライヴ・パフォーマンスで“ロック・テアトル”なる一ジャンルを確立し、日本でも「フランス版ジェネシス」という当たらずも遠からずな称号を得ている(苦笑)大御所アンジュと共にその片翼を担ったもう一方の雄モナ・リザ。
バンドのルーツは66年まで遡り、出身地のオルレアンにてFERNANDO'S GROUPに在籍していたJean‐Paul Pierson、Francis Poulet、そしてJean‐Luc Martinの3人が結成したTHE THUNDER SOUNDなるバンドが母体となっている。
程無くしてモナ・リザの初代ギタリストとなるChristian Gallasが加入し、ヴォーカリストにJean-Jacques Foucherを加えたTHE THUNDER SOUNDは、地元オルレアンのクラブにてブリティッシュ・ロックやR&Bに触発された、ツェッペリンやパープルばりのヘヴィロックなサウンドで徐々に知名度と注目を集め、当時オルレアンの人気バンドだったN.S.U.と共に一時代を築いていった。ちなみにそのN.S.U.に在籍していたのが後にモナ・リザのフロントマンとなるヴォーカリストDominique Le Guennecである。
激動の70年代に突入すると、幾数多に及ぶフランス国内のロック・バンドにとって、フランス語によるアイデンティティーとオリジナリティーが真に問われる時代となったのは周知の事実(サンドローズやタイ・フォンといった成功例は別として…)。
オルレアンのシーンとて例外では無く、先のTHE THUNDER SOUNDやN.S.U.も時代の波と変革に倣えとばかりフランス語の歌詞によるオリジナル・ナンバーが多くなるのにそんなに時間を要しなかった。時の流れと変革はTHE THUNDER SOUNDの作風のみならず、新たなる方向性への模索を込めてバンド名をモナ・リザと改名するに至った。
Jean‐Paul、Francis、Jean‐Luc、Christian、Jean-Jacquesの5人はバンドの改名を機に71年初頭まで積極的に演奏活動、リハ、作曲を積み重ね、更にはオルレアンでアンジュのライヴに接した彼等は、今後の自らの創作活動、音楽的方向性に強い確信を得て徐々に青写真を描きつつあった。
翌72年に各メンバーが兵役義務に就かなければならない関係上、一年間活動を休止・中断を経て、73年の春に活動を再開する頃には、初代ヴォーカリストのJean-Jacquesが抜け、と同時にN.S.U.解散後モナ・リザへ新たな活路を求めてDominique Le Guennecが正式に加入。
モナ・リザは今まで以上にリハと作曲に時間を費やす一方で、オルレアンの地元小劇団への楽曲も提供し、この経験が後にアンジュと双璧を成すシアトリカルなステージ・スタイルへと活かされたのは言うまでも無かった。
地道で堅実な活動が実を結び、73年秋にはアンジュのマネージャーからワーナー傘下の新興レーベルArcaneを紹介され、Dominiqueの友人でもあったアンジュのギタリストJean-Michel Brézovarのプロデュースで74年12月にデヴュー作『L'escapade 』をリリース。この頃になると先輩格のアンジュやアトールといった飛ぶ鳥をも落とす勢いのあるアーティストと同じステージに立つ機会が多くなった。
『L'escapade』はもう一人のギタリスト、Gilles Solves(録音終了直後に脱退)を迎えた唯一6人編成で臨んだ意欲作だったが、様々な効果音を配しシアトリカルな側面やら中世古謡、ハードロックといった側面をいろいろと詰め込み過ぎたきらいこそあるが、今なら難無く聴ける良質な作風ではないかと思う。
…が、皮肉な事にデヴューは商業的な成功とは程遠い結果で終わってしまい、翌75年の2作目『Grimaces 』リリースまでの間、バンドは前作での反省を踏まえた形で単独ライヴとツアー、そして作曲活動、演劇用の楽曲提供に明け暮れた。
こうした試行錯誤、自問自答の末に製作された『Grimaces』は、前デヴュー作以上に演奏と曲構成が向上し、前作を上回る成功と評価を得るが、漸く順風満帆な軌道に乗ろうとしていた矢先、今度はJean‐PaulとChristianの口論と対立がきっかけでバンドは一時解散という憂き目に遭う始末である。
Jean‐Paul、Francis、Jean‐Lucの3人はバンド解体後暫くは様々なセッション活動やらバックバンドを経て生活を凌いでいたが、やはり自分達にとってモナ・リザは必要不可欠であるという事を改めて悟り、Dominiqueに再び声をかけバンド再編の賛同を得るも、Christianだけは頑として首を縦に振らず、結果セッション活動時期に運命的に出会った2代目ギタリストのPascal Jardonに白羽の矢を立ててモナ・リザは再び甦った次第である。
このPascalとの出会いがバンドにとって大きなターニング・ポイントとなったのは言うまでも無かった。事実…所属していたArcaneレーベルがCrypto に改名した時同じくして、まるで呼応するかの様に77年から78年にかけてモナ・リザの絶頂期と言っても過言では無かった。
77年にリリースされた通産3作目の『Le Petit Violon De Mr Grégoire 』は、名実共に彼等の最高作・代表作となったと同時に、70年代のフレンチ・シンフォニックシーンを語る上で欠かせぬ名作として数えられる様になった。
翌78年には更なる音楽性が向上した秀作『Avant Qu'il Ne Soit Trop Tard 』をリリースし、最早この時点で“フランスのジェネシス”とか“アンジュの二番煎じ”といった余計な肩書きなど不必要と言わしめる位のポテンシャルと地位を確立させつつあった。
が、そんなバンドの上り調子とは裏腹に、モナ・リザというバンドにとってまたしても大きな危機を迎える事になろうとは…誰が予想し得たであろうか。
ロード生活にほとほと疲れ果てたベースのJean‐Luc抜けJean Betinに替わった事を皮切りに、バンドは一挙に様々なアクシデントに見舞われる事となる。
78年夏に予定されていたパリのオリンピア劇場での公演前に、長年の過労がたたってJean‐Paulが倒れた事を機に、ツアーのキャンセル並びバンド自体も活動意欲が失速し、結果長年苦楽を共にしたDominiqueが抜け、更には個人的な諸事情でPascalも脱退。
Jean‐Paulが闘病生活を経て退院した頃には、モナ・リザのオリジナルメンバーはとうとうJean‐PaulとFrancisの2名のみとなってしまう。
Francisをメインヴォーカリストに据えて、Jean‐Paul、Jean Betin、そしてPatrick Morinière、Michel Grandetを迎えた新体制で臨んだ79年の通産5作目の『Vers Demain』は、当時のプログレッシヴ・シーンが皆こぞってやや商業路線に走った背景になぞらえるかの様に、アンジュやアトールが親しみ易い作風に移行した便宜上の理由と同様に演奏こそ従来のモナ・リザらしさを留めているが、時流の波に乗ったポップなアプローチは決して前2作の緻密な完成度を上回る事は出来なかったと言った方が正しいだろう。
作品のセールス不振とCryptoレーベルの閉鎖(倒産)と時同じくして、モナ・リザというバンド自体も自然消滅=解散という末路を辿ったのは言うに及ぶまい。
それ以後…フランスのプログレッシヴ&シンフォニックは、86年にムゼアが発足するまでの間、全くのアンダーグラウンドな範疇でしか生き長らえる事が出来なかった次第であるが、その当時に於いても大御所のアンジュ関連だけが孤軍奮闘していた感は否めなかった。
その後追随するかの如くアトールやピュルサー、タイ・フォンといった70年代選手が細々と活動を再開させつつ、90年代~21世紀現在までの礎ともいえる先導的役割を担った訳であるが、モナ・リザ関連の面々だけは残念な事にそれ以降の目立った活動が確認される事無く、シーンからも自然淘汰の如く静かに消え去っていく運命の様に思われていた。
…が、運命とはどこでどう転ぶか解らないもので、90年代初頭にデヴューを飾った新鋭のフレンチ・シンフォでアンジュとモナ・リザの正統的な後継者ともいえるVERSAILLES(ヴェルサイユ) のライヴ公演に、突如あのモナ・リザのヴォーカリストだったDominique Le Guennecが飛び入りでゲスト参加した事から運命はまたしても一変する。
ヴェルサイユ自体もヴォーカリストと他のメンバーとの間で音楽的な意見の相違・食い違いで揺れ動いていた時期だったが故に、かつての名ヴォーカリストのDominiqueが参加した事が渡りに舟でこれ幸いとばかり、ヴェルサイユというバンドもかつて憧れていたバンドにリスペクトするかの如く、Dominiqueを迎えた事で再びモナ・リザへと改名し復活を遂げた事は周知であろう…。
かつてのフレンチ・シンフォニック=ロック・テアトルの大御所アンジュにしろモナ・リザにしろ、前者にあってはChristian Décampsとその息子によって活動を継続中であり、後者にあっては不定期ペースながらもモナ・リザの一枚看板を背負ったDominique Le Guennecを主導に一応開店休業中ながらも活動を存続させている。
改めて思うに…フレンチ・プログレッシヴの心髄とは、こういった職人芸にも近い伝統と粋、頑ななまでのある種のこだわりあってこそなのだと痛感する次第である。
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