幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 03-

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 8月三週目…『幻想神秘音楽館』復刻リニューアルプランも着々と滞り無く進行し、漸く安定に入ったという実感が湧いてきました。
 連日の猛酷暑のさ中、帰省の有無を問わず皆さんお盆休みを如何お過ごしでしょうか?
 今週の「夢幻の楽師達」は、21世紀の現在に至るまで、ジェネシス、イエス等と並んで世界各国のプログレッシヴ・ロックを志す者達に多大なる影響を及ぼしたキング・クリムゾンという文字通り稀代の21st Century Schizoid Bandの許、大小なりの影響を受けたであろうクリムゾン王の子供達と言っても過言では無い位、世界各国に存在する幾数多ものクリムゾン・フォロワーバンド達。
 そんなクリムゾン影響下のリスペクトバンドの中でも、70年代に於いてその傑出した比類なき完成度を誇るであろう…スイス・シーンきっての至高にして孤高の代表格“サーカス”を取り挙げてみました。

CIRCUS
(SWITZERLAND 1976~1980)
  
  Fritz Hauser:Ds,Per 
  Marco Cerletti:B,B-Pedal,12Ac-G,Vo 
  Andreas Grieder:Flute,Alto-Sax,Vo,Per 
  Roland Frei:Vo,Ac-G,Tenor-Sax

 サーカスの結成は1972年、スイス地方都市のハイスクールの学友だったFritz Hauser(Ds,Per)、Marco Cerletti(B)、Andreas Grieder(Flute)、Roland Frei(Vo,Ac-G,Sax)、そしてStephan Ammann(Key)の当初5人編成で結成された。
 クリムゾン、イエスから多大な影響を受けつつも、各人の音楽的なバックボーン・嗜好は実に様々だったとの事。Fritzはジャズ、Marcoはロック、Andreasはクラシック、Rolandはフォーク、Stephanはポップス…etc、etcと音楽的嗜好の違いはあれど、5人の感性と創作意欲が見事に融合して、サーカスにとって唯一無比のサウンドが構築されたといっても何ら不思議ではない。 
 度重なるギグの積み重ねで、理由は定かではないがStephan Ammannが離脱し(80年の3rd『Fearless Tearless And Even Less』にて復帰するが、入れ替わるかの様にAndreasが脱退)、バンドは暫し4人編成での活動を余儀なくされる…。
 1999年末に奇跡の単独初来日公演を果たしたドラマーにしてオリジナルメンバーでもあるFritz Hauserの言葉を借りれば「キーボードが抜けて、元々エレキギター不在だったあの頃が一番困難な時期だった」と回顧している。 
 残された4人は改めてバンドをもう一度根本から立て直すが為に度重なるミーティングとリハーサルに時間を費やし、ペダル・ベースの導入にパーカッションの増強、エフェクター効果による音色の変化・選定・実験といった試行錯誤を繰り返し、1976年自らのバンドネーミングを冠した待望のデヴュー作『Circus』をスイス国内のZYTレーベルよりリリースに至る次第である。
     

 キーボードレス・スタイルながらもエフェクター系ギミックとディストーションを巧みに利かせたギター系の残響を効果的に配し、ヘヴィで鮮烈なパーカッション群とリズム隊にフルートの絡みつく様は、まだまだ粗削りな感こそ否めないものの、クリムゾンの亜流云々と揶揄する以前に独自のオリジナリティーが既に確立されつつあったバンド黎明期の快作でもあった。
 
 彼等の創作意欲はとどまる事無く翌77年、あの同国のアイランドの『Pictures』と双璧を成すユーロ・ロック史上に残る名作『Movin'On』をリリース。本作品で彼等の名声は更に高まったばかりか、キーボードレスでもこれだけのへヴィ・シンフォニックが構築出来る事を自ら証明した、ひとつの可能性を示唆した軌跡そのものといっても差し支えはあるまい。
          

 LPでもCDでも全編切れ目無く息つく暇をも与えない位、終始漆黒の闇夜を思わせる荒涼とした静寂の空気と張り詰めた緊張感が漲る演奏には、私自身が本作品と出会ってから今日に至るまで20数年以上もの間、決して色褪せる事無く現在でもその斬新で重々しい音世界に舌を巻く思いである。 
 ZYTから2枚の好作品をリリースした後、彼等4人は地元で旧知の9人のミュージシャン達(オリジナルメンバーのStephan Ammannを含めて)と共に競合し短い限定期間で“CIRCUS All STAR BAND”と名乗ってライヴ収録のみの為のギグを行う。
 ZYTよりリリースされた彼等唯一のライヴ音源…残念ながら、本作品にあっては筆者も未聴でしかも未だにCD化がされてないといった有様で、一刻も早くCD化されることを望みたい限りである。 

 大所帯での限定期間活動を経て、彼らは暫し沈黙を守るが、80年代に入りサーカスというバンド自体も大きな変遷を迎える事となった。長年フルートを担当していたAndreasが脱退し、程無くしてオリジナル・メンバーであったStephan Ammannが漸く復帰。
 重厚なキーボードを配した…まさしくクリムゾン+UKに追随するスタイルを踏襲した通算3作目にしてラスト・アルバムとなった『Fearless Tearless And Even Less』をリリースする。
 本作品の紹介当初は如何にも時流に乗ったかの様なジャケット・ワークに、旧A面で顕著に見られたメロディーラインに“時流のポップがかった!”などと早計し誤解していた輩も少なくなかった。
 …が逆に良くも悪くも「後期クリムゾンの亜流」といった印象から拭い切れないバンドにとって、事実上の本来のバンドカラーらしさ=オリジナリティーを漸く打ち出す事の出来た、まさに天晴れな快作・佳作にしてバンドの終焉に相応しい集大成とも言えよう。旧B面の大作“Manaslu”はあの2ndの大作“Movin'On”と並ぶ甲乙点け難い名曲である。
         

 サーカス解散後、FritzとStephanはもう一人のキーボード奏者Stephan Griederを迎え、ツインKeyにドラムスのトリオ編成であの伝説とも言うべき“BLUE MOTION(ブルー・モーション)”を結成。
 バンドネームと同タイトルの唯一の作品も80年代ユーロ・ロック史に残る名作にして名盤となり、初版の見開き原盤も今現在においても高額のプレミアムが付いている(初版原盤、見開き無しのシングル形態のセカンド・プレスLP、CDに至るまで、似ている箇所が多々あるもののジャケット・アートはかなり変遷を遂げている…)。
 喜ばしい事に近年マーキー/ベル・アンティーク尽力の甲斐あって、オリジナル見開き紙ジャケット仕様のSHM-CD化されたので、ファンにとっては当時の初回リリースと同じ雰囲気と趣が御堪能出来るだろう。
        

 その後のメンバーに関しては残念ながらその後の動向や所在等が殆ど不明ではあるものの、ドラマーのFritzそしてアコギとサックスのRolandが母国にて現在もなお創作活動に勤しんでいる事しか解っていない。
 特にFritz自身ロックというフィールドから離れて、今や芸術家・現代音楽家としての地位をすっかり確立させたかの様だ(多数の良質な作品をリリースしている)。
 改めて思うに…サーカスというバンド、そして尚且つFritz Hauserが辿った道程はユーロ・ロックという広大で夢幻の地平線に於いて、まさしく商業云々とは全く無縁な孤高の歩みそのものと言っても過言ではあるまい。 
 
 21世紀に入り来年で早20年となる次第だが、70年代のプログレッシヴ史を飾った往年の名バンドが次々と再結成される中、孤高の極みとも言うべきアイランド並び本編の主人公サーカスだけは、もう決して再結成される事は無いに等しいであろう。 
 暑い熱帯夜が冷めやらぬ今宵はサーカスの遺した3枚の作品を聴きながら、初秋を待ち侘びながら
クールでメランコリックな思いに馳せたい…そんな気分である。

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一生逸品 ISLAND

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 8月三週目の「一生逸品」、今回は少数精鋭の感が強いスイスのプログレッシヴ・シーンのみならず70年代後期のユーロ・ロック史に登場した数ある名アーティストの中でも“唯一無比”なるカリスマ的異彩を放ち続け、21世紀の現在もなお絶対的な存在にして孤高の極みに君臨する“アイランド”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。

ISLAND/Pictures(1977) 
  1.Introduction 
  2.Zero 
  3.Pictures 
  4.Herold And King(Dloreh) 
  5.Here And Now
  
  Benjamin Jager:Vo,Per 
  Guge Jurg Meier:Ds,Gongs,Per 
  Peter Scherer:Key,Pedal-Bass,Crotales,Vo 
  Rene Fisch:Sax,Flute,Clarinet,Triangle,Vo 

 悪夢の饗宴或いは暗黒の迷宮をも思わせる、ダークな旋律(戦慄)と才気に満ち溢れたミスティックな雰囲気漂う高度な演奏は、同じくスイス出身の鬼才(奇才)H.R.ギーガー描く不気味なバイオ・メカニカルなジャケット・アートとの相乗効果も手伝って、まるで一糸乱れる事無く機械的に構築された…アヴァンギャルド、エロス&タナトス、デカダンスな“時計仕掛けのオレンジ”ならぬ“時計仕掛けの一枚の絵画=Pictures”を彷彿させるかのようだ。
    

 本作品が製作される以前…遡る事3年前の1974年、スイス国内の5バンドを一挙にまとめたオムニバス編集盤『Heavenly And Heavy』にてアイランドは早くも登場を果たしている。
 当時はギター、ベースを擁した6人編成(キーボードもサックスも別人物)で活動しており、結成当初からのオリジナル・メンバーはBenjaminとGugeの2名のみである。
 後述でも触れるが、1975年にPeterが正式加入し、翌1976年にReneを迎えた布陣でギターやベースの出入りこそあったものの、アイランドの礎ともいえるラインナップでホームレコーディングによるデモ音源とコンサート会場で収録されたライヴ音源を録り貯めながら、各方面のレコード会社や音楽系メディアに自らを売り込みつつデヴュー作リリースの機会を窺っていた。
 その際にホームレコーディングで収録されたデモ音源と翌年のライヴ音源は、2005年に発掘アーカイヴ音源の2枚組CDという形で陽の目を見る事となり、デヴュー前のアイランドにて青春と情熱を燃やしていた若き日の彼等の初々しくも傑出した個性が垣間見える素晴らしい内容に仕上がっているが、それは後半にて綴りたいと思う。
 こうした紆余曲折もいえる苦労の連続と、ギーガーの邪悪な意匠という協力の甲斐あって半ばセルフレーベルに近い形で、1977年最初で最後のデヴューリリースともいえる『Pictures』を引っ提げ、アイランドは同国のサーカスに続けとばかり一躍スイスのシーンに躍り出た次第である。
          

 たった唯一の本作品…兎にも角にも不気味なヴォイスとゴングの唸りに導かれるオープニング“Introduction”を皮切りにラストの“Here And Now”に至るまでの全曲において、中弛みや退屈さ云々等とは全く無縁でありつつも、さながら瞬きする間すら与えず有無をも言わせず一気に怒涛の如く聴かせる辺りは、PFM始めイタリアン・ロックの名作を多数手掛けたクラウディオ・ファビのプロデュース・手腕に依るところが大きいと言えよう(加えてレコーディング・スタジオも名作を多数世に送り出した、リコルディ・スタジオである)。
 終局の宴を思わせる高度な演奏の中にもReneの吹くサックスに、欧州的な悲哀・終末感とも言うべき泣かせ処をちゃんと兼ね備えてあるのは流石とも言えよう…。
 だが、何よりもPeterの作曲並びコンポーズ能力の卓越した非凡さには本作品を何度も何度も繰り返し聴く度毎に舌を巻く思いであると共に、緊迫感と不穏な空気すら醸し出すGugeのドラミングと金属質な時間と空間を演出するパーカッション群の使い方も実に見事である。 
 補足ではあるが、CD化の際のボーナストラック“Empty Bottles”もスタジオ・ライヴ一発録り(多分?)ながらも、フリーインプロヴィゼーションな趣を感じさせつつ、スタジオ録音とはまた打って変ってひと味違った魅力の秀作に仕上がっており、テクニック至上主義に陥ってないところも好感が持てる。 
 ユーロ・ロック史に残る“奇跡の逸品”を残した後、バンドは人知れず消滅しメンバー全員も消息を絶ち、もはや忘却の彼方へ追いやられたかの様に見えたが、1988年アメリカのアンビシャス・ラヴァーズの2作目『Greed』にてPeter参加の報を機に、アイランドが再びクローズアップされたのは周知の事であろう…。
    
 一見畑違いの音楽性に変貌したのかと思わせつつも、Peterの音楽への探求は更に自己進化(深化)を遂げたと解釈した方が正しいのかもしれない。
 1991年の『Lust』以降、新作のアナウンスメントが聞かれなくなって些か寂しい限りではあるが、もし可能であるならば…アンビシャスとはまた違った音楽形態で、Peterが我々の前に再び姿を現してくれる事を切に願いたい限りである。 
 90年のアンビシャス・ラヴァーズ二度目の来日の際、Peter曰く“アイランドのアルバムは、若い頃に出した未熟な作品。子猫が爪を出して引っ掻いたかのような未完成なものでしかない”と自らの経歴を否定するかのような寂しいコメントを残しているが、それとて彼自身が枠に収まる事を嫌う勤勉で且つ真摯な音楽家である所以。
    

 後年Peter自身知ってか知らずか…先に触れた1975年と1976年に収録されたホームレコーディングとライヴ・アーカイヴによるアイランドの未発表音源が、2005年2枚組CD『Pyrrho』として陽の目を見る事となり、この一大事ともいえる吉報で改めてアイランドの存在意義と絶対的なる地位が証明され、発表当時彼等を支持する多くの根強いファンは狂喜し喝采を贈ったのはもはや説明には及ぶまい。
 良し悪しを抜きに、たとえPeter自身がどんなにアイランドの若い時分を反論ないし否定しようとも、彼等が遺した唯一の作品は21世紀の現在でもなお神々しくも禍々しい煌きと孤高の眩さを放ち続けているのは紛れも無い事実であろう。

夢幻の楽師達 -Chapter 12-

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 今週の「夢幻の楽師達」はプログレッシヴ&ユーロ・ロック史において、現在もなおその強い個性と秀でた音楽性でプログレ・ファンのみならず各方面(特にギター関連方面)から絶大なる賞賛を得ているオランダの“フィンチ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

FINCH
(HOLLAND 1975~1977) 
  
  Joop Van Nimwegen:G
  Peter Vink:B 
  Cleem Determeijer:Key 
  Beer Klaasse:Ds,Per 

 海を隔てていながらにして、オランダという国そのものがまるでイギリスとは地続きではないかと錯覚する位に、音楽的な文化・ムーヴメントにあっては大いなる影響を受けていると言っても過言ではあるまい。
 60年代末期~70年代初頭にかけて台頭し、少なからず世界各国のミュージック・シーンをも席巻した、俗に言う“ダッチ・ポップス”の波は“ヴィーナス”を大ヒットさせたショッキング・ブルーを筆頭に、多数の名作を生んだアース&ファイアー、ゴールデン・イアリングによってダッチ・ロック・ムーヴメントは第一期を迎え、同時期に前後して登場のエクセプション(後のトレース)、世界的にビッグ・ネームとなるフォーカス、カヤック、スーパー・シスター、ソリュージョンとともに、フィンチも栄光の70年代の第二期ダッチ・ロックシーンを華々しく彩ったのは言うまでもあるまい。 

 フィンチの歴史は…サイケ・ポップ、ブルース、R&Rを基調としたヘヴィ・ロックがメインだった“Q65”なる伝説的バンドに属していた、ベーシストのPeter VinkとドラムスのBeer Klaasseの両名が、当時まだ弱冠19歳ながらも既にヤン・アッカーマンと並んで高い評価を得ていたギタリストのJoop Van Nimwegen、そしてキーボーダーのCleem Determeijerを迎え、その当初はヴォーカリストも迎えて5人編成でQ65名義として存続させるつもりだったが、彼等の創作する新たなサウンド・ヴィジョンに合うヴォーカリストが見つからなかった事に加え、バンドのアイディア並び全ての曲を手掛けていたJoopの案でインスト・オンリーのバンドとして、バンド名も新たにフィンチに至った次第である。 
          
 フィンチの音楽性とカラーは、まさにJoopとCleemの両名によって位置付けられたと言っても差し支えはあるまい。 
 以後この4名の布陣で75年デヴュー作に当たる『Glory Of The Inner Force』、続く翌76年に2nd『Beyond Expression』と立て続きにリリースし、大作主義ながらもそのテクニカルで高度な音楽性と完成度を持ってして、あのフォーカスとともにオランダにフィンチ在りと世界各国に知らしめる事に成功へと導いたのは言うに及ぶまい。
     

 ベーシストのPeterは当時の事をこう回顧している…。
 「俺達はメンバー間でお互いに敬意を持ち合ってたんだ。あの当時フィンチみたいなバンドは他のどこにも無かったと思うね…。ライヴで誰かが素晴らしいプレイをしたらそれを皆が認めてたし、例えば…JoopやCleemが演奏中にアドリヴで長いコード進行を弾いてる場合、毎回バック・ステージにて出番待ちで聴いていたけれど、数え切れない程のステージをこなしている俺ですらも時折トリ肌が立つ思いだったよ。とにかく…フィンチは毎回のライヴが自分自身との闘いみたいなもんだったよ」

 しかし、そんな順風満帆な彼等に重大な危機は突如として訪れる。クラシック音楽を更にもっと追究したいという理由でCleemが脱退し、その後を追うかの様にドラムスのBeerも脱退。
 バンドはすぐさま新たなメンバーを補充し、KeyにAd Wammes、DsにHans Bosboomを迎えて心機一転イギリスのBUBBLEレーベルに移籍し、77年3rdにして最終作そして最高傑作でもある『Galleons Of Passion』をリリース。
 全3作品中…内容的に前作、前々作以上に最もJoopが出来に満足し気に入っている作品に仕上がったとの事である。
     

 だが、運命とは皮肉なもので…オランダとは違いディストリビュートの不備でセールス的にも伸び悩み、Joopはこれを機に自分自身の目指す音楽像の追究の為バンドの解体を決意する。
 解散前夜、当時の事をJoopはこう振り返っている…。
「僕はいつだってフィンチというバンドの1/4でいたかったんだ。でも、結局は僕自身いつも90%を背負い込んでいたし…。自分の背中に当てられるスポットライトをもうそろそろ外して欲しかったしね」 

 メンバーのその後の動向は…Joopは現在もなお音楽関係の仕事に携わっており、音楽関係の学校の講師、後進の指導、ミュージカル等の舞台での音楽監督と多方面に活動中で多忙を極めているとの事。
 Peter Vinkも自身の音楽事務所・マネジメントとスタジオを経営し今も母国にて現役を続行し、Cleemは完全にロック業界から離れクラシック・ピアニストとして第一線で活動中である。

 そんなさ中の1999年に突如未発表曲と3rdの別ヴァージョン並び3rd発表前のライヴ・マテリアルを収めた2枚組CD『The Making Of… Galleons Of Passion / Stage'76』がリリースされ、Peterを中心に初代DsのBeer、二代目KeyのAd(彼はフィンチ加入当時、前任のCleemからメロトロン以外の鍵盤楽器を譲り受けている)、そしてミュージック・メーカーのJoopの黄金時代のラインナップでフィンチの再編を計画しているとの事だが、いかんせん当のJoopの気持ち次第やらスケジュールの調整次第にもよる…というのが何とももどかしい(苦笑)。
        
 未発マテリアルのリリースと共にメンバーの口から語られた、まさしく“21世紀版フィンチ再編”というまさに青天の霹靂、或いは寝耳に水ともいえる驚愕のアナウンスメントから、数えてもう今年で早20年…再編はおろか新作云々といった情報が未だに届く事無く、フィンチという存在自体も少しずつ人々の記憶から忘却の彼方へと消え去りつつあり幾久しい限りといった感ではあるが…まあ、これも全ては神のみぞ、ギタリストのJoopのみぞ知るといったところであろうか?

夢幻の楽師達 -Chapter 29-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、少数精鋭ながらも数々の名立たる名作・傑作を輩出しプログレッシヴ・ロック史に栄光の軌跡を刻んできたスイス勢から、先般取り挙げたサーカスやアイランドの登場以前にシンフォニックで崇高な音宇宙の空間を築き上げた、メイド・イン・スイスのロック・シーンに於ける伝説と栄光の象徴に相応しい“SFF”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

SFF
(SWITZERLAND 1976~1979)
  
  Eduard Schicke:Ds,Per
  Gerd Fuhrs:Key
  Heinz Frohling:G,B,Key

 「夢幻の楽師達」にてプログレッシヴ・トリオを取り挙げるのは、イタリアのラッテ・エ・ミエーレ、そしてカナダのFMに次いで今回のSFFが3番手になるだろうか…。
 キーボードを多用したプログレッシヴ・トリオといったら大方の見解として、当然とでも言うかEL&Pの名を挙げる方々が圧倒的であろう。まあ…プログレ・ファンによってはトリアンヴィラートとかレ・オルメ、トレース、レフュジー辺りを挙げる方もいるかもしれないが。
 兎にも角にも…ナイス→EL&Pが打ち出してきたサウンドスタイルは多種多様に全世界に波及してエマーソンのシンパ(リスペクト)とでもいうべきキーボーダー、そしてキーボード・トリオ系プログレを出来不出来に拘らず多数世に送り出してきた次第であるが、御多分に洩れず今回の主役とでもいうべきスイスのSFFも多かれ少なかれエマーソンのスタイルないし方法論、音世界に共鳴・共感したバンドであろう。
 私自身も大昔のまだ若い十代後半の時分に、初めてマーキー誌にてSFFなる存在を知った時は、極単純に“ああ…多分EL&Pみたいな類なんだろう”と高をくくって、そんなに興味を示した訳ではなかったのが正直なところである。
 その若さ故の先入観と浅はかな思いは、二十代前半にマーキー誌と関わってきた数年間ですらも変わる事無く、あるプログレ好きの知人が聴かせてくれた2作目の『Sunburst』のやや単調な作風に触れてからは、ますます余計に“このバンドのどこが凄いんだろう…?”と理解不能に陥ったから、今に
して思えば無知な青いガキみたいな思考回路で本当に困ったものであると恥ずかしくなる事しきりである(苦笑)。
 そんな若い時分の私の誤った認識と先入観を見事きれいさっぱり払拭してくれたのが、今はプログレ業界からすっかり足を洗った横浜の友人が聴かせてくれた彼等のデヴュー作『Symphonic Pictures』の圧倒的で重厚な音のうねりと波濤だったのは最早言うに及ぶまい。
 前置きがかなり長くなったが、SFFというバンドネーミングは言わずと知れたドラムとパーカッションのEduard Schicke、キーボードのGerd Fuhrs、ギターとベースそしてキーボードとマルチにこなすHeinz Frohling…といった3人の名うてのパーソネルの姓名の頭文字を取って命名された。

 バンドの結成に至る経緯は(私自身の乏しい語学力も加えて)現時点では定かではないが、おおよそ1975年を境とした辺りが有力であろうと思われる。
 まあ…手抜きという訳ではないがその詳細辺りはマーキー/ベル・アンティークがリリースした国内盤紙ジャケCDのライナーに譲る事にして、ここでは彼等がリリースした作品を年代順に追って私論めいた解説に留めておきたいと思う。
 彼等SFFが創作する音世界のバックボーンは、70年代ドイツ=俗に言うジャーマン・ロックから…エロイ、ノヴァリス、ポポル・ヴフ、ノイといったジャーマン・ロック史の一時代を築いた影響下が及ぼしていた。
 基より彼等の目指す方向性が、クラシカルな素養をベースにスペース・ロックとアヴァンギャルド、そしてエレクトリック・ミュージックをコンバインさせた唯一無比の世界観だったことが、76年の鮮烈なデヴュー作『Symphonic Pictures』を孤高にしてシリアスなシンフォニック・ロックへと集約させた要因と言っても差し支えあるまい。
  
 『Symphonic Pictures』以降から一貫してSFFサウンドを支えているのは、Schickeの多彩なパーカッション群に、クラシックの素養が遺憾無く発揮されたFuhrsの端整なピアノ・プレイにクラヴィネット、メロトロン、モーグのアンサンブルの壮麗さ、そしてFrohling奏でる流麗にして幽玄+エモーショナルなギターは、並み居るキーボード・トリオ系プログレとは一線を画す事をアピールする上で強力な武器にして自己主張を物語っているかの様ですらある。
 Frohling自身もメロトロンを弾きFuhrsを好サポートするポジションとして自覚しているのも好感が持てる。
 まあ…兎にも角にも何よりギブソン・レスポールとリッケンバッカーのベースとを半々にドッキングさせたFrohlingのオリジナル仕様には何度見ても感心するやら溜息が出るやら(苦笑)。

 荘厳でシリアス・シンフォニックな内容にも拘らずデヴュー作『Symphonic Pictures』の評判は上々で、ドイツ国内と母国スイスで精力的なライヴをこなしてきた甲斐あって12000枚ものセールスを記録し、翌77年にはデヴュー作を手掛けたブレイン・レーベルの名プロデューサーDieter Dierksを再び起用し、2作目に当たる『Sunburst』をリリースする。
 前作の荘厳且つシリアスで堅さの感じられた硬派な作風から一転して、肩の力を抜いて幾分リラックスした雰囲気と環境下すら伝わってくる2作目は、昔聴いた時分は今一つピンと来なかったものの、年齢的に成長して耳が肥えた今なら無難に聴ける、『Symphonic Pictures』のエッセンスを濃縮還元した、凝った作風から脱却したアーティスティックで渋味を感じさせる作風ながらも、曲の端々で緻密なリリシズムすら想起させる全曲オールインストながらもポエジーな側面をも垣間見せる、やや人間味溢れる内容に近付いたと言ったら言い過ぎだろうか。
 ちなみに本作品では、ベーシストにEduard Brumund-Rutherをゲストに迎えて最初で最後の4人編成で製作に臨んでいるが、Frohlingがギターオンリーに専念したかったのかどうかは定かではないが、SFF自体“ロックバンド”という意識に改めて立ち返って自己を見詰め直したかった意味合いも含まれているのだろうか…。
    
 そして1978年、SFFは今までの思いの丈をぶつけるかの如く…創作意欲と自己の活動の集約を意識していたかの様な3作目に取り掛かり、Dieter Dierksを再びプロデューサーに迎えて実質上のラストアルバム『Ticket To Everywhere』をリリースする。
    
 好みの違いと差こそあれど、前作並び前々作に負けず劣らず彼等の音楽的素養が存分に活かされ発揮された素晴らしい完成度であるという評価を得ている一方で、商業ベースに乗ったとか垢抜け過ぎてSFFらしくないといった苦言を呈する輩がいたのもまた然りであった。
 結果的に本作品リリースを最後に、SFFは(音楽的な方向性の相違も含めて)解体し、Schickeはヘルダーリンの後任ドラマーとして参加し、残ったFuhrsとFrohlingは“Fuhrs & Frohling”というデュオ形態へと移行し、よりアーティスティックで且つアコースティックで内省的な方向性の作風を
目指し、SFF解体の同年『Ammerland』をブレインからリリース。以後、同傾向な作風の『Strings』(79年)、『Diary』(81年)をリリースした後、ブレイン・レーベルの路線変更も重なって)人知れず表舞台から姿を消し以後消息を絶った次第である。
 …が、そんな終息期の真っ只中、一時はSFFの評判を聞きつけた生前のフランク・ザッパが一緒にコラボレート・セッションしないかと持ち掛けられた事もあったそうな。
 残念ながら契約面といった諸問題が絡んで結局実現までには至らなかったが、もしもこの時点でザッパと何らかのセッション等の機会に恵まれていたならば、SFF自体も今後の展望に向けて何らかの新たな活路を見出せたのではと思うのだが…。
 加えて…1992年11月にキーボーダーのFuhrsが逝去する(死因は不明)という不幸に見舞われ、この事でSFFはもう実質上消滅したと言っても異論はあるまい。

 SFFという存在が無くなった現在、彼等が遺した3枚の作品は国境やレーベルこそ転々としつつも、時代と世紀を超えて何度もリイシューされては新たなファンをまた増やしつつあるみたいだ。
 3人の男達が歩み築き上げた軌跡こそ伝説となってこれからも語り継がれていくだろうが、伝説は決して伝説のままで終わらないだろう…。
 彼等の生き様と魂がプログレッシヴを愛する者達の心に生き続ける限り、SFFはこれからも未来永劫神々しく輝き続けていく事だろう…私はそう信じたい。

夢幻の楽師達 -Chapter 30-

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 今回2月最終週の「夢幻の楽師達」で数える事連載30回目に達しました。
 これも単に支持して頂いている皆さんあってのお陰です。
 改めて本当に有難うございます…。
 これからも臆する事無く常に前向きで、自分が続ける限り精一杯綴っていきたい所存です。
 今後も慌てず焦らず自らのペースを保持しつつのんびり気長に続けていければと願わんばかりです。
 連載30回記念を飾るのは、先週のスイス勢と同様少数精鋭の感が強いヨーロッパ中部はオーストリアから、数少ない実力派にして、ある意味オーストリアのプログレッシヴ・ムーヴメントの礎を築いたと言っても過言では無い孤高の道程を辿ったであろう、正真正銘…夢幻の楽師達という言葉に相応しい“イーラ・クレイグ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。

EELA CRAIG
(AUSTRIA 1971~ ? )
  
  Hubert Bognermayr:Key,Vo
  Fritz Riedelberger:G,Piano,Vo
  Hubert Schnauer:Key,Flute
  Gerhard Englisch:B,Per
  Harald Zuschrader:Key,Flute,G
  Frank Hueber:Ds,Per
  Alois Janetschko:Mixing Engineer

 ヨーロッパ中部に於いて、音楽の都というアカデミックな佇まいが現在もなお色濃く根付いている首都ウィーンを擁する国オーストリア。
 印象的には…さぞやクラシックに根付いたプログレッシヴ・バンドが数多く存在していると言いたいところではあるが、各専門誌でも過去に何度も触れられている通り、オーストリアというお国柄然り一種独特にして特異な音楽芸術環境の下ではプログレッシヴを含めてなかなかロックというジャンルが育ち難いというのが現状である。
 今回取り挙げるイーラ・クレイグ始め、ヴィータ・ノーバ、アート・ボーイズ・コレクションといったサイケデリア色の強い黎明期を皮切りに、ジェネシス影響下のキリエ・エレイソン→インディゴ、オパス、クロックワーク・オランゲ、そしてスティーヴ・ハケットとの度重なるコラボで21世紀の現在も尚精力的に活動している大御所ガンダルフ…といった具合で、同じ少数精鋭の隣国スイスのシーンと比べてみても小粒な頭打ちで印象がやや薄いのは正直否めない(苦笑)。
 自国のオーストリアそしてヨーロッパ近隣諸国に於いて、相応の知名度と実力、そしてその秀でた唯一無比の音楽性で現在も尚根強い支持を得ているイーラ・クレイグ。
 知名度と認知度こそあれど、我が国ではどうも今一つ正当な評価が為されておらず、悪く言ってしまえば…所謂B級止まり(断っておくが私自身余りA級だB級だとかいった扱いが好きではない)の不遇な扱いのままで終始している様な気がしてならない。
 何度も触れるが…そもそもイーラ・クレイグとの最初の出会いからして最悪と言わざるを得なかった。
 言わずと知れた事だが、80年代にキングに倣えとばかり日本フォノグラムが手掛けたユーロ・コレクションのお粗末っぷりと言ったら、ジャケットの裏がモノクロ印刷でそのままライナーノーツになっていたという、一瞬見た目“これって廉価版!?”と疑いたくもなる様な俄かに信じ難いセールス手法で、今ならさしずめ非難轟々責任者を呼べ!とでも言いたくなる装丁で、今回のイーラ・クレイグ然り、オルメにアンジュもこれで皆泣かされたのが何とも手痛いというか口惜しい限りである。
 そんなややトラウマに近い事もあってか、折角のイーラ・クレイグ日本デヴューも手抜きジャケットのお陰で肝心要の音楽も全体像も殆どが散漫で印象がボヤけてしまったのが非常に悔やまれる(零細企業の日本フォノグラムさんは、あの当時のポリドール・イタリアンロック・コレクションの精神を大なり小なり見習ってほしいものである)。
 お恥かしい話だが…当時高校卒業間近な私ですらも、あんな手抜きジャケットのユーロ・コレクションをライブラリーに加えるのだけは絶対許せなかっただけに、イーラ・クレイグ始めアンジュ、オルメの手抜き国内盤を全部2週間後には売却処分してしまったという、そんな悲しい思い出ばかりが今でも記憶の奥底にヘドロの如く残っている。
 イーラ・クレイグなんてたった数回針を落としただけで手放したのだから最大の痛恨でもあり、その後も彼等の名前をユーロ専門店で目にする度に、本当につくづく申し訳無いという気持ちと共に、あの当時の嫌な思い出が甦るのだから困ったものである…。
 前置きがかなり長くなったが、彼等イーラ・クレイグに話が及ぶといつもあの手抜き国内盤の悲しい思い出が、まるで昨日の事の様に甦ってくるのだから本当に始末に悪い(苦笑)。
 CD化時代の極最近ですらも、どこぞの訳の解らないブート紛い的レーベルから2nd「One Niter』と3rd『Hats Of Glass』の2in1形式で、ジャケットの装丁も『One Niter』の裏ジャケットのバンド写真を引き伸ばしただけというお粗末極まりない扱いだから、不遇扱いの連鎖続きに辟易しているのも事実である。
 まあ…宣伝というわけでは無いが、数年前にマーキー・ベルアンティークから紙ジャケット・オリジナル仕様の完全復刻盤CDがリイシューされているから、彼等の苦労と不遇な時間も少しは報われたのではなかろうか。

 イーラ・クレイグの歩みは、遡る事1970年…オーストリア中北部はドナウ川に面した地方都市リンツで産声を上げた2つのバンド…ビートルズのカヴァー・バンドMELODIAS、そしてサイケデリック・ポップスがメインのTHE JUPITERSとの出会いから幕を開ける。
 地元テレビ局主催のジャムセッション番組での出会いを機に、MELODIASからHorst Waber(Ds)、Harald Zuschrader(Org,G,Flute,Sax)、THE JUPITERSのHeinz Gerstmair(G,Org,Vo)、Hubert Bognermayr(Key)、Gerhard Englisch(B)の5人が意気投合しイーラ・クレイグは結成された。
 彼等も御多分に漏れずクリムゾン始めフロイド、プロコル・ハルム、果てはジェントル・ジャイアントといったブリティッシュ・プログレッシヴに触発・影響されつつ、そのサイケデリアな時代性を纏ったジャズィーにしてブルーズィー、クラシック、エレクトリックとが渾然一体となったプログレッシヴな息吹を感じさせる特異な音世界を見出していき、バンドは更なるサウンド強化の為ヴォーカリスト兼サックス奏者Wil Orthoferを迎えた6人編成へと移行する。
 程無くして数ヵ月後にはオーストリア国営放送局ORFの音楽番組に出演し、オーストリア国内でも大いに賞賛され期待の新星として話題と評判を呼び、デヴュー作に向けて大いなる一歩を踏み出していった。
 バンドのマネジメントも当時国内で前衛音楽家として名を馳せ博士号を持っていたアルフレッド・ペシェク氏が担当する事となり、アルフレッドの存在と助言が後々バンドにとって大きなサジェッションとなり、翌71年リリースされるバンド名を冠した幻とも言うべきデヴュー作に於いて大きな刺激と影響力を及ぼしたのは言うまでも無かった。
 なお…もう一人のバンドメンバーと言っても過言では無い、イーラ・クレイグの専属サウンド・ミキシングエンジニアAlois Janetschkoも、バンド結成と同時期に行動を共にしているという事も付け加えておきたい。
 ロールシャッハ試験を思わせるやや不気味な意匠の見開きジャケットのデヴュー作(当初1500枚のみのプレスだった)は、そのアヴァンギャルドな意匠のイメージと寸分違わぬサイケデリアな空気に支配された重々しい曲想で、クラシカルなオルガンにヘヴィなギターとリズム隊、時代感が色濃く反映されたフルートとサックス、ブルーズィーな佇まいのヴォーカルに、耳をつんざく様な悲鳴の効果音…等がふんだんに鏤められたカオス一色のサイケなヘヴィ・プログレッシヴが繰り広げられている。
 リリース当時オーストリア国内では同年にリリースのEL&P『タルカス』以上に評価を受け、彼等イーラ・クレイグは瞬く間にカリスマ的人気を得て世に躍り出たのであった。
 後々の『One Niter』以降のクラシカル・シンフォニック色とは雲泥の差を感じさせ、初めて彼等の音楽世界に触れられる方なら、この幻にして衝撃のデヴュー作は余りに的外れな感を受けるか、面食らって言葉を無くし呆然とするかのいずれかであろう。
 ただ…逆に返せば、このカオスでヘヴィなデヴュー作に触れた事で個人的には彼等のサウンドの根源やらバックボーンを知り得た様な気持ちに立ち返って、怪我の功名という訳では無いが改めて彼等の音楽世界に再び足を踏み入れるきっかけに成り得たのが実に幸いだった。
    

 衝撃のデヴューから翌1972年、バンドメンバーの間で音楽性の相違と食い違いが徐々に表面化し、結果ブルース路線に活路を見出すべくHorst Waber、Heinz Gerstmair、Wil Orthoferの3人が抜け、残されたHarald Zuschrader、Hubert Bognermayr、Gerhard Englischの3人でイーラ・クレイグを継続する事となり、時代に呼応する形で彼らもサイケ色から大幅にプログレッシヴ・シンフォニックへとシフトしていく。
 同年Joe Droberを新たなドラマーに迎え、4人編成で「Irminsul/Yggdrasil」というシングルをリリースし、デヴュー作の延長線上ながらも、より以上にプログレッシヴなアプローチを押し出していく。
 同年秋にはオーケストラとのジョイントで彼等の地元リンツとスイスのチューリッヒでギグをこなしつつ、次なる方向性への模索を積み重ねていく一方、同年末にHarald Zuschraderが一身上の都合でバンドから離れ、翌73年バンドはその後釜として新たにギターとキーボードを兼ねるFritz Riedelbergerとフルート奏者にHubert Schnauerを迎えた5人編成でリハーサルとギグを こなしつつ、翌74年シングル「Stories/Cheese」をリリース。
 この頃ともなるとメロトロンやシンセサイザーを導入し、音的にも幅が広がり温かい親しみ易さを持った上質なポップス感を身に付けていく。
 地道な演奏活動と努力の積み重ねが実を結び、国営放送ORFラジオでの音楽番組でコンスタンスなレギュラー出演への切符を手にするまでに至るが、ここで再びドラマーが交代し新たにFrank Hueberを迎え、更にはバンド活動から離れていたHarald Zuschraderが復帰し、イーラ・クレイグは再びミキシング・エンジニアを含めた7人編成の大所帯となって第二の快進撃時代を迎える事となる。
 1975年大手のヴァーティゴと契約し、5年振りの新譜製作に向けて彼等は精力的に情熱を注ぎ、思いの丈を込めて新たなサウンドスタイルを身に纏ったイーラ・クレイグとして再び世に降臨した。
 翌76年リリースの待望の新作2nd『One Niter』は、期待に違わぬ上々の仕上がりを感じさせる素晴らしい完成度で各方面から賞賛され、ヨーロッパ近隣諸国に於いても瞬く間に注目の的となったのは言うに及ばず。
          

           
 イマジネーションとリリシズム豊かなクラシカルでシンフォニックなカラーの中にも、ジャズィーでファンキーな要素と、良質なポップスのフレーバーが加味された、夢見心地な至福のひと時を約束してくれるには余りある位に充実した内容となっている。
 とりわけブラス系メロトロンと生のブラスセクションのコンバインによるオープニングのファンファーレで心を鷲掴みにされた方々が果たして何人いる事だろうか。
 シンフォニックロック・オーケストレーションとひと口に言っても、決してエニドとかマンダラバンドの様なクラシカル寄りな荘厳さや趣とは異なる、しいて挙げるならキャメルやセバスチャン・ハーディーにも相通ずるメロディーラインをより以上にムーディー且つメロウでポップなシンフォニックで加味したと言えばお解り頂けるだろうか。
 かく言う私自身も最初はエニドばりのシンフォニックを期待していたクチだったのだが、その結果は本文の書き出しで触れた通りの惨めな結果に終わったものの、今ならば無難に納得出来る極上のプログレッシヴ・ポップスとして聴けるのだから、人間の音楽嗜好の成長とはつくづく素晴らしいものである…。
 余談ながらも、ジャケット裏面の屋外で使用機材を並べて御満悦に写る彼等の写真を眺める度に、『ウマグマ』期のフロイド…或いは日本のファー・イースト・ファミリー・バンドをモロに意識しているのが(良い意味で)痛いくらいに伝わってくる。

 1977年、時代の波はパンク・ニューウェイヴやらディスコ向けの売れ線ポップスが巷を席巻しつつあった。
 プログレッシヴ・ロックにとっては、まさにこの当時こそ肩身の狭い思いをひしひしと感じていた受難の時代ではなかろうか…。
 彼等イーラ・クレイグも御多分に漏れず、時代の厳しい波の到来に戸惑いを覚えつつも、時流に抗うかの様に彼等なりの上質なポップさとシンフォニックなエッセンスとカラーを身に纏ったプログレッシヴを構築していった。
    
 同77年、かつてのオリジナル・メンバーだったWil Orthoferがヴォーカリストとしてバンドに復帰し、(ミキサーを除いて)新たな7人編成という大所帯で臨んだ3rd『Hats Of Glass』は、レトロSFムービー風な意匠とは相反するかの様に、幾分リラックスした製作環境が良い具合に反映された親近感溢れる穏やかな印象のプログレッシヴ・ポップスな好作品に仕上がっている。
 続く翌1978年の4th『Missa Universalis』も、時流の波を意識したかの様なジャケットではあるが、音的には前作の延長線上とも言うべき彼等ならではの“美しい透明感”が際立ったサウンドワークが成されており、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語でミサを歌い分けるという意欲的で異色な
試みが功を奏し、70年代最後の作品にしてプログレッシヴ時代最後にして有終の美を飾る傑作として今でも語り継がれている。ちなみに本作品で特筆すべきはFritz Riedelbergerの泣きのギターワークが聴きものである事も付け加えておきたい。
    

 70年代の激動期を全力で駆け巡ってきたイーラ・クレイグであったが、80年を境に急転直下の大きな転換期が訪れた…。
 オリジナルメンバーで長年苦楽を共にしてきたメロディーメーカー的役割のHubert Bognermayrが音楽的な意見の相違で脱退し、Hubertに続きドラマーのFrank Hueberが難聴の疾患で音楽活動休止を余儀なくされバンドから去る事となった。
 バンドはヴォーカリストのWil Orthoferがドラマーも兼ねる形で5人編成へと移行し、長年住み慣れたヴァーティゴから心機一転アリオラに移籍し、1980年ポルノグラフィー的なアダムとイヴがジャケットに描かれた『Virgin Oiland』をリリースするも、主力的存在のHubert Bognermayrを欠いたマイナス面を補う事もままならずセールス的にも不振に終わってしまう。
 キングのユーロ・コレクションでも国内盤がリリースされたが、皮肉な事に正直なところ余り話題にもならず結局未だCD化もされずに今日までに至っている。
    

 バンドはこれを機に表立った活動から退き、プログレッシヴからは程遠い商業向けロック&ポップ路線へと活路を見出し数枚のシングルと1~2枚程度のアルバム製作だけに止まり、ライヴ活動を含めた表舞台から完全に遠ざかってしまう。
 1995年11月には母国オーストリアにてリユニオン・コンサートが開催され、その模様も録音されているとの事だが、それも未だにCDリリースされていないといった暗澹たる現状である。
 バンドから離脱したHubert Bognermayrに至っては、1982年にドイツの大手TELDECから自身のレーベルErdenklangを興し、当時最新鋭のデジタルキーボードの最高峰フェアライトCMIを駆使した、ニューエイジ・ミュージックの先駆けとも言うべきソロ作品『Erdenklang』(キングのユーロ・コレクションでも国内盤がリリースされている)を発表し、そのシリーズは断続的ながらも現在まで継続しているとの事。  

 駆け足ペースで彼等の歩みを綴ってきたが、イーラ・クレイグは現在表立った活動こそしてはいないが、かと言って正式な解散コメントも出ておらず、結局のところどっち付かずな印象は否めないのが現状と言えよう。
 環境音楽=ヒーリング・ミュージック畑の第一人者となったHubert Bognermayrを別としても、個々のメンバーに至っては残念ながら現時点で足取りこそ掴めなかったものの、今でも地道に音楽活動を続けているのか、或いはカタギの仕事に就いて自身が楽しみ為の音楽活動として割り切っているのか…いずれにせよ定かでは無いが、もしFacebookという手段で今後メンバーの誰かと繋がる事が可能であるならば、その時こそ21世紀のイーラ・クレイグ新章に大いに期待を寄せたいところではあるが、それはそれで誇大妄想にも似た私の我儘なのかもしれない…。

 大御所のガンダルフが一人気を吐いて孤軍奮闘しているといった感の余りにもお寒いオーストリアのシーンではあるが、嬉しい事にそんな現状を打破すべく…21世紀の今日に於いて、2008年に彗星の如くデヴューを飾ったBLANK MANUSKRIPT並び、2013年デヴューのMINDSPEAKの両バンドともその新人離れした完成度の高いシンフォニック・ワールドたるや、まさしく新世代のイーラ・クレイグとも言うべき伝統と作風を継承した期待の新進気鋭と言っても過言ではあるまい。
 イーラ・クレイグが残し築き上げた大きな足跡は、今でも尚こうして新たな若い世代へとしっかり受け継がれ、紛れも無く彼等の歩みと軌跡は決して無駄では無かったのというのが何よりも嬉しい限りである…。

一生逸品 KLOCKWERK ORANGE

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 2月最終週の「一生逸品」は、近年国内盤SHM-CDにてリイシューされめでたく陽の目を見る事となったオーストリアきってのカルト的存在でもあり、長い年月もの間…幻と謎のベールに包まれていた孤高にして珠玉のプログレッシヴ・バンド“クロックベルク・オランジェ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。

KLOCKWERK ORANGE/Abrakadabra(1975)
  1. DuonyunohedeprincesR
  2. The Key
  3. Abrakadabra
   a) Abrakadabra
   b) Temple Sh.Thirty Five
   c) Mercedes Benz T 146.028
  
  Hermann Delago:G, Trumpet, Key, Vo
  Guntram Burtscher:B, Vo
  Markus “WAK” Weiler:Key
  Wolfgang Böck:Ds, Per

 先ず冒頭初っ端から、このバンドの名前にまつわる由来の誤りを正さねばなるまい…。
 クロックベルク・オランジェ…英訳読みに解せばクロックワーク・オレンジ、所謂かの故スタンリー・キューブリック監督のカルトSF映画の名作『時計じかけのオレンジ』からバンド名を採ったものと長年解釈されてきたが、ネット時代である昨今バンドリーダーにして中心人物でもあったHermann Delagoの言葉を引用すると…当時バンドで使っていたオレンジ色のドラムセットがバンドネーミングの由来との事。
 ドイツ語でいうKlocken=“叩く”+オレンジ色のドラムセットでクロックベルク・オランジェという訳である。
 名前の由来をお聞きになって幾分肩透かしを喰らった様な気持ちにもなるが、それ故に長年謎のベールに包まれていた存在というのも頷けよう。
 まあ、今となっては彼等が遺した唯一無比の素晴らしい音楽性の前では、キューブリックの映画であろうとドラムキットの色云々であろうとも、もうこの際どうでも良いのではと思えてならない(苦笑)。

 些か乱暴な書き出しから始まったが、ヨーロッパ大陸中部オーストリアの秘宝とも言えるクロックベルク・オランジェは、60年代末期から70年代前半にかけて地元チロルのハイスクールバンドから派生したSATISFACTION OF NIGHT、ORIJIN、そしてPLASMAといったサイケ系やビートロック系のバンドが母体となっている。
 当時は専らストーンズを始めフロイドのカヴァー等がレパートリーで、クロックベルク・オランジェへと移行してからは時代の空気に呼応するかの様にEL&Pやオランダのエクセプション等に触発された本格的プログレッシヴ路線へとシフトしていく事となる。
 当時の黎明期に於けるオーストリアのロックシーンは、隣国のドイツやイタリア、ハンガリーといった現在もなお脈々と続くユーロ・プログレ系譜の大国に囲まれた…実に条件的・環境的にも恵まれていたであろうにも拘らず、古くから根付いていたクラシック音楽の拠点ともいえる土壌が強かったが故に、認知度から支持率にあってもなかなかこれといった決定打に欠ける向きが無きにしも非ず、その封建的な雰囲気は今日に至るまで一向に変化が無いというのも実に口惜しい。
 日本の歌謡曲と同様、オーストリアの英才教育的クラシックの前ではロックやポップスなんぞは多かれ少なかれまだまだ格下だったのかもしれない…。
 それでも自主リリースでデヴューを飾ったイーラ・クレイグを始め、今やオリジナル盤が世界的な高額レアアイテムとなったヴィータ・ノーヴァそしてアート・ボーイズ・コレクションが俗に言う第一世代だとすると、彼等クロックベルク・オランジェやキリエ・エレイソンなんかは第二世代に当たると言えよう。

 クロックベルク・オランジェとは、ギターからトランペット、鍵盤系をマルチに駆使するHermann Delagoの特異な個性やら音楽性そのものが反映されつつも決してワンマンオンリーに陥る事無く、メンバー4人それぞれ互いの個性とが程良い具合に呼応し合って絶妙な音楽世界を醸し出している稀有な存在ではなかろうか…。
 バンド結成から程無くして、エルビゲナルプ地区で至極マイナーなれどスタジオ運営を兼ねたレーベル(イギリスのヴァージンよろしくと言わんばかりに)Koch Recordsを興したフランツ・コッホとの出会いによってバンドは更なる大きな転機を迎える事となる。
 そして1974年、フランツの運営するスタジオにて当時10代後半から20代前半だった彼等が、なけなしの貯金と全財産を投げ打って、魔法の呪文めいた意味深な記念すべき(最初にして最後の)デヴュー作『Abrakadabra』の録音に取りかかる。
 サウンドエンジニアはフランツが担当。そして妖しげな如何にも自主製作然といった感のカヴァーアートを手がけたのはドラマーのWolfgangとRoland(バンドのスタッフも兼ねる)のBöck兄弟という、まさに絵に描いた様なホームメイド指向で製作に臨んだ事が窺い知れよう。
          
 抒情と哀愁を帯びた物悲しげなトランペットと、クラシカルで荘厳なハモンドに導かれて幕を開ける記念すべきデヴュー作『Abrakadabra』は、フロイド、クリムゾン、EL&P、ジェネシス、果てはVDGGからGG、フォーカスといった名立たる大御所達をリスペクトした作風が色濃く反映されてて、惜しむらくはホームメイドな録音が災いして音質が今一歩といったマイナス面こそあれど、ユーロ・ロック史にその名を刻むに恥じない位の素晴らしいクオリティーを有している事を念押しで断言しておかねばなるまい。
 冒頭1曲目のタイトルの意に至っては、余りにも人を喰ったかの様な長ったらしい…あたかもジェネシスのゲイヴリエルを意識したかの様な言葉遊びの影響下すら思わせる。
 変拍子を多用したハモンドの響きとトランペットとのぶつかり合いと応酬、それを強固に支えるリズム隊の絶妙さが堪能出来る。
 お国柄を反映したかの様なシンセとハモンドの高らかなるファンファーレのイントロが好印象を与えている2曲目に至っては、フォーカス+フロイドを思わせる曲調に加えキーボードの早弾きのパッセージが目まぐるしい(個人的にはフランスのWLUDを連想した)秀曲である。
           
 そしてラストのトリを飾るアルバムタイトルでもある21分強の大曲の素晴らしさと言ったら…。
 緻密な曲構成に加えてスキルとコンポーズ能力の高さを耳にして、改めて単なる物珍しさだけでは無かった、幻の一枚と言われ続け今までロクに正当且つ真っ当な評価がされてなかった彼等の面目躍如ともいうべきこの大作だけでもかなり高ポイントな“買い”と言えるだろう。
 どうかキワモノ的な捉え方で彼等の音楽に接するのを一切合財止めて、今一度頭の中を空白にして彼等の描く音楽世界の細部に至る隅々まで聴いて欲しいと願わんばかりである。

 一年間かけて録音し完成した『Abrakadabra』のマスターテープを携えて、当初はドイツのベラフォンへのリリースアプローチを試みたものの、結局は無しのつぶてにも等しい返事しか得られず、結局Hermann自らが一念発起で遠路遥々首都ウィーンのCBSオーストリア支社へマスターテープを持参し直談判へと駆け込む。
 幸いチロルでのバンドの評判を耳にしていたCBSにとっては、まさに渡りに舟と言わんばかり願ったり叶ったりが舞い込んだものだから、即決1000枚プレスという条件付きでレコードディールを快諾し、1975年3月バンドは晴れて漸くデヴュー作のリリースに辿り着ける事が出来た次第である。
 店頭には少数しか出回らない関係上、地元チロルでのお祭り(付近の村祭りを含め)の際のライヴイベントやロックフェス等でメンバー達による直接の手売りが専らの流布手段であった。
 決して辛く苦しいとまでは言わないが、結構難儀な思いをしつつもそれなりにライヴ活動等を含めて楽しい青春時代を謳歌していたのではあるまいか…。
 メンバー4人とも当時はまだ学生という身分であったが故に、74年から解散までの76年の2年間地元チロルのみで概ね20回ものライヴしか出来なかったのが惜しまれる。
 その辺りはマーキー/ベルアンティークからリリースされた国内盤SHM-CDのライナーで宮坂聖一氏が事細かに詳細を記しているので是非とも御参照頂きたい。
 ピート・シンフィールドばりのライティング・ショウに加えて、消防関係者が読んだら思わず呆れて怒り心頭になる様な危険な化学実験ばりのライヴ演出に苦笑いせざるを得ないエピソード満載である(苦笑)。

 主要メンバー兼リーダーのHermannの進学とインスブルックへの転居を機にバンドはあえなく解散し、その後Hermannを含めメンバー全員音楽活動から離れたカタギの職業に就き、クロックベルク・オランジェは静かにその幕を下ろした次第だが、実は仕事の傍らHermannは地元オーストリアと東南アジアを股にかけ、如何にも才人らしい彼自身の創作活動が現在もなお継続進行中で、その延長線上と言わんばかり1994年にはバンド結成20周年ライヴなるものを開催し、カルト的バンドの復帰を祝ってヨーロッパ諸国始め世界規模のプログレ・ファンから熱狂的に迎えられたそうな…。
 そして現在、音楽活動を継続していたHermannとMarkusの2人に加え、オリジナルメンバーのリズム隊GuntramとWolfgangもめでたくバンドに合流復帰し2014年には久々の新作発表と併せて40周年記念のギグ等も多数企画されているとの事だったが真偽の程は定かではない(苦笑)。

 『キューブリックは天国に逝ったが、俺達はまだ終われない!』

 そんな軽いノリのジョークさえ聞こえてきそうな…まだまだこれから先も何かしらやってくれそうな彼等の今後に期待しつつ、気長に末永く見守り続け付き合っていきたいものである。

一生逸品 KYRIE ELEISON

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 風薫る初夏の雰囲気真っ只中、今月最初の「一生逸品」は、先般取り挙げたクロックベルク・オランジェと並ぶオーストリア出身の名匠に恥じない、ジェネシス・チルドレンの申し子或いはジェネシスフォロワーの代名詞にして、まさしく決定版ともいえる伝説的存在としてその名を高めている“キリエ・エレイソン”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


KYRIE ELEISON
 /The Fountain Beyond The Sunrise(1977)
  1.Out Of Dimension
  2.The Fountain Beyond The Sunrise
   a)Reign
   b)Voices
   c)The Last Reign
   d)Autumn Song
  3.Forgotten Words
  4.Lenny
  
  Gerald Krampl:Key, Vo
  Karl Novotny:Ds, Per, Vo
  Michael Schubert:Vo, Per
  Manfred Drapela:G, Vo
  Norbert Morin:B, Ac-G

 昨今の21世紀プログレッシヴ・ムーヴメント…その源流を遡るとメロディック・シンフォ或いは80年代のポンプ・ロックをも内包し経由しているとはいえ、やはりその大元でもあり根底とは言うまでも無くフロイド始めクリムゾン、イエス、EL&P、そしてジェネシスといったブリティッシュ・プログレッシヴの大御所、所謂“ブリティッシュ5大バンド”であると言っても異論あるまい。
 それら5大バンドを核(コア)に根幹を伸ばし枝分かれしつつプログレッシヴ・ムーヴメントは細分化を辿り、各国のアイデンティティーとトラディッショナルとを巧みに融合させつつ、その国々相応にマッチした作風を確立しリスペクトとフォロワーという形で継承・踏襲を積み重ね、今日に至るまでプログレッシヴ・ロックは伝統を絶やさず生き続けていったと思えてならない…。
 今や世界各国に輩出された多種多様にして多彩な顔ぶれとも言えるであろう、プログレッシヴの代名詞と言っても過言ではないジェネシス影響下のフォロワーバンドとて例外ではあるまい。
 初期並び中期ジェネシスが持っていたロマンティシズム、リリシズム、中世寓話趣味…等といった様々な要素を独自に解釈・咀嚼し、自らの音楽性と作風に反映させたイングランド、アイヴォリー、ノイシュヴァンシュタイン、デイス、バビロンといった70年代~80年代にかけての単発系ジェネシス・チルドレン達。
 今回の本編の主人公キリエ・エレイソンも御多聞に漏れず、ゲイヴリエル在籍時のジェネシスから洗礼を受けつつも、プログレ停滞期に差し掛かっていた悪夢の前兆とも言うべき70年代後期に於いて、出来の良し悪しを抜きに自主製作というスタンスを保持し自らの音楽世界を構築していった孤高の存在と言えるだろう。

 キリエ・エレイソン(「主よ、憐れみたまえ」という意)は、オーストリアの首都“音楽の都”ウィーン出身でクラシック音楽の教育を受けたキーボーダーGerald Kramplを中心に彼の学友でもあったバンドの初代ドラマーKarl NovotnyとFelix Rausch(G)の3人によって1974年に結成され、前後してWolfgang Wessely(Vo)とGerhard Frank(B)を迎えて活動を開始。
 地道にリハを積み重ね、曲作りから地元でのギグをこなしつつ、翌1975年にはMichael Schubert(Vo)、Manfred Drapela(G)、Norbert Morin(B)にメンバーが交代し、キリエ・エレイソンはこうして正式なラインナップが集う事となる。
 各メンバー個々が嗜好する音楽性もジェネシスのみならず、VDGGからコロシアム、アモン・デュール、果ては同国のイーラ・クレイグ、オパスと多岐に亘り、大昔マーキー誌にて初めて彼等の作品が紹介された当初は“『怪奇骨董音楽箱』や『フォックストロット』期のジェネシスを彷彿させる作風ながらも、いかんせん自主製作に有りがちな詰めの甘さに加えて音が割れている”と、散々な言われようではあったが、今にして思えば…ただの単なるジェネシスの模倣・物真似的サウンドに陥る事無く、敢えて類似性を避けた点でも逆にプラスの方向に作用したと思えるのだが如何なものだろうか。
 1976年に入ると彼等はシアトリカルなプログレッシヴをコンセプトテーマに、様々な人伝を頼りにデヴューアルバムの製作に奔走するが、自主盤デヴューで既に実績を持っていたイーラ・クレイグがフィリップスからメジャー再デヴューを飾ろうとして以外は、殆どの大手レコード会社は時代の空気に呼応した商業主義に移行…方針・方向転換を図っていた当時、誰しもが見向きする事なんぞ当然望むべくも無く、以前当ブログでも取り挙げたクロックベルク・オランゲが自費で製作した自主盤さながらのマスターテープをウィーンのCBS支社へ持ち込んで漸くプレスに漕ぎ着けたという事を、彼等自身も間接的に耳にしていた事を踏まえれば、大手メジャーへの不信感を募らせると共に、泣く泣く辛酸を舐める覚悟で製作に臨み、否応も無しに自主流通という手段に踏み切った事も頷けよう。
 失礼ながらも…21世紀の現在ならたとえどんなプロはだしのアマチュアバンドやセミプロ・ポジションのバンドでも、最新デジタルの録音器材でいとも簡単にレコーディングし自らがプロ顔負けにミキシング編集出来るから、そんなひと昔前ふた昔前の自主リリースの苦労なんて浦島太郎の如き遠い昔話の様な隔世の感を抱いてしまうのは、我ながら綴っている自分自身ですらもそれだけ歳を取ってしまったという事だろうか(苦笑)。

 ヨーロッパ大陸ならではの神がかったバンドネーミングも然る事ながら、アーサー王伝説に登場する魔術師マーリンの名を冠したセルフレーベルMERLINを発足し、ハミルの『Fool's Mate』を想起させる意匠にしてロジャー・ディーンとポール・ホワイトヘッドを足して2で割った様な摩訶不思議な魔法と神秘の世界を描いた、もう如何にもといった感のプログレッシヴ・ファン好みのアートワークに包まれた、待望のデヴューアルバム『The Fountain Beyond The Sunrise』は、幾多もの苦難を乗り越えた末1977年の年明け1月早々にリリースされた。
          
 冒頭1曲目の畳み掛けるように小気味良いギターのイントロに導かれメロトロンとリズム隊の哀愁を帯びたメロディーライン、そして極端なまでにゲイヴリエルを強く意識したヴォイスが絡み、最初こそ淡々と地味めな印象の曲調ながらも、徐々に聴き手をもグイグイ引き込んでいく説得力溢れる展開は彼等ならではの妙味すら抱かせる。
 アルバムタイトルでもある組曲形式の大作2曲目は、物悲しさ漂うメロトロンチェロ(実際Gerald自身が弾いているチェロかもしれないが…)と乾いた音色のアコギに導かれ、徐々にバンクスさながらなオルガン始めキーボード群が奏でる圧倒的な音の洪水が最大の聴き処で、アルバム全曲中のメインとも言うべき好ナンバーに仕上がっており、Michael Schubertのゲイヴリエル愛に満ちた語りとも歌とも付かないヴォイス・パフォーマンスも面目躍如よろしくとばかりに冴えまくっている。
           
 吹き荒れる夜の嵐のSEと寂寥感に彩られたピアノが切々と奏でられMichaelの悲哀の歌唱が印象的な3曲目も聴けば聴き込むほど陰影と深みを増していき、本家の“ファース・オブ・フィフス”とまでにはいかないにせよ、それに迫るかの様な泣きのリリシズムが際立っている佳曲と言えるだろう。
 4曲目の大曲ラストナンバーも前出の大作2曲目に負けず劣らずなサウンド・スカルプチュアを構築・展開しており、まさしくラストナンバーに相応しい…演劇的に喩えるなら大団円とエンディングさながらの全編ジェネシス愛に満たされた本家へのリスペクトに終始応える様な頑なな姿勢とこだわりが何とも微笑ましい。

 録音の質は今一つというマイナス面こそ否めないものの、自主リリースデヴューに甘んじながらも国内外で高い評価を得た彼等は、それを自信に励みとし次回作への準備を推し進めるが、ここで長年苦楽を共にしてきたオリジナルメンバーだったドラマーのKarlが脱退、更にはギタリストのManfredもバンドを去ることとなり、翌1978年に新たなドラマーOtto SingerとギタリストのGerhard Ederを迎えて活動を継続。
 国内で数回ギグをこなしつつ2ndアルバムに向けた新曲作りに勤しんでいたが、結局ヴォーカリストMichael自身様々な諸事情でバンド活動を辞めざるを得なくなり、それを機にバンドは活動休止を余儀なくされ結果的にキリエ・エレイソンは表舞台から遠ざかり、あえ無く解散の道を辿る事となる。
 その後キーボーダーのGeraldはもう既に御存知の通り1982年キリエ・エレイソンの流れを汲むINDIGOを結成し、再びプログレッシヴ・フィールドに返り咲き90年代半ばまで活動を継続するものの、2000年以降からは愛妻と共に設立発足したニューエイジ・スピリチュアルのプロジェクトAGNUS DEIで複数に及ぶCDをリリースし、以後クラシック、シリアスミュージックに原点回帰すると共に、ネオクラシカル・アンビエント、エレクトロニック室内音楽を作曲しつつコンポーザーとして国内外で高い評価を得て現在に至っている。
 ちなみにGerald以外の他のメンバーのその後の動向にあっては、残念ながらネット社会という今日でありながらも現時点で全く分からずじまいで消息すらも掴めなかったのが何とも悔やまれる…。

 余談ではあるが…現在、キリエ・エレイソン並びINDIGO、そしてGerald Krampl名義の作品は、1984年以降に発足した、Gerald自身のセルフレーベルINDIGOMUSICによって流布されており、加えて2004年にはイスラエルのMIOなるレーベルから24ビットデジタルリマスターが施された1000枚限定BOX仕様(当時のステージ/メンバー写真、歌詞、ジャケット、バイオ・グラフィー/INDIGO時代を含めたディスコグラフィー、ファミリー・トゥリー、Gerald Kramplによる回想録を掲載した詳細なブックレットが添付された豪華仕様)で『The Complete Recordings(1974 - 1978) 』がリリースされるも、現在は既に完売し入手困難となっている。

 キリエ・エレイソン、クロックベルク・オランジェ…そしてオーストリアの代表格でもあったイーラ・クレイグがプログレッシヴ・シーンの表舞台を去り、以後オーストリアは巨匠とも言えるガンダルフのみが孤軍奮闘し、次世代を担うニューフェイス、ニューカマーの登場が待たれて幾久しくなるものの、近年漸くイーラ・クレイグ影響下のブランク・マニュスクリプト、そして昨今注目株の若手ホープでもあるマインドスピークといった新たな次世代の登場に、21世紀のオーストリアのプログレッシヴ・シーンは再び活気を取り戻しつつあるみたいだ。
 心無い一部の輩からは“ただの一発屋”だとか“下手ウマB級プログレ”なんぞと誹謗中傷され、何とも不遇にして不遜な扱われ方見方をされてきたキリエ・エレイソンではあるが、そんな戯言やら陰口悪口に臆する事も怯む事も無く、今もなお名盤・名作として賞賛を得ているのは、きっと古き良き時代にあった温かみのある”手作り感覚あってこそのプログレッシヴ”という名残を大事に留めているからではなかろうか。

夢幻の楽師達 -Chapter 40-

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 今週の「夢幻の楽師達」はポーランドの大御所にして唯一無比、ハンガリーのオメガと共に東欧プログレッシヴ黎明期の草分け的存在にして、共産主義という政治体制と闘いつつも自由たるものを求道し孤高の道程を辿った、プログレッシヴの鉄人“SBB(エス・ベー・ベー)”を取り挙げてみたいと思います。


SBB
(POLAND 1969~)
  
  Józef Skrzek : Vo, Key, Syn, B
  Apostolis Anthimos : G
  Jerzy Piotrowski : Ds, Per

 1969年、共産主義真っ只中の首都ワルシャワにて、Józef Skrzek、Jerzy Piotrowski、そしてギリシャ人の血筋を持つApostolis Anthimosの3人の若者達の出会いがSBB誕生の契機となった。
 70年代東欧のプログレッシヴ・シーンにおいて、ハンガリーのオメガと並んでその一時代を築いたSBB。彼等の歩みこそ波乱に富んだポーランドの歴史と地続きだったと言っても異論はあるまい。 
 結成当初のバンド名の意、SBB=シレジアン・ブルース・バンドだったことから、当時のポーランド国内において西側諸国の退廃の象徴とも取られた“ロック”という言葉、代名詞の全てが制圧且つ弾圧されていた事も考慮して、極端な話…西側の情報が入って来る事もままならない状況下、彼等3人はブルースとジャズを演るグループとして自らを偽りつつも苦汁と辛酸を舐めさせられた次第である。
 無論、彼等とて結成当初からブルースなんぞ演るつもりは毛頭無かったのは今更言うまでもあるまい。 
 結成してから2~3年近くは、一介のブルース・バンドとして、本来自らが目指す音楽への自問自答、試行錯誤を繰り返しつつもブルースという枠から逃れられない事への苛立ち・焦燥感に苦悩する反面、バンドの方向性への確立、模索・追求に費やされた。
 幾数多のポーランド国内のシンガー系アーティスト、ジャズ・ミュージシャンとの共演、バック・バンドとしての活動に追われつつも、彼等にとって決定的な分岐点となったのは、ポーランド国内の絶対的存在にして東欧のボブ・ディランことCzesław Niemen(04年没)との劇的な出会いが運命を大きく変えたのは言うまでもあるまい。
           
 彼等3人は2年間Niemenの専属バックとしてツアーにレコーディングに多忙を極め更なる時間を費やす事となるが、73年にNiemen自身からの助言で独立。
 翌74年にワルシャワにて念願の単独ライヴを収録した『SBB』でデヴューを飾る次第である(後年、母国ポーランドのMetal Mindなるレーベルから、デジパック仕様で再発されるが、通常リリース盤ともう一つ、完全にライヴを収録した2枚組CDによるスペシャル盤が現時点で確認されている)。
 そして同時に彼等SBBはシレジアン・ブルース・バンドという意から…SEARCH(探求)、BREAK(破壊)、BUILT(構築)という3つの言葉を結合させた意へと変貌を遂げたのである。
   
 ただ悲しいかな…記念すべきデヴュー作もジャズ、ブルース、エレクトロニクスといった様々な音楽要素を詰め込み過ぎて統一感に欠けるといった嫌いがあるのも事実だった。
 翌年、初のスタジオ収録作となる2nd『Nowy Horyzont』にて、前作の無駄な部分を削ぎ落とし更なる進歩の跡を見せ、続く3rd『Pamięć』で漸く独自のSBBサウンドの礎たるものを確立させ、ポーランド国内外でも確固たる地位を築く事に成功する。
 そして翌77年に妖精物語をモチーフにした彼等の初期の傑作『Ze Słowem Biegnę Do Ciebie』をリリース以降は文字通り彼等の黄金時代の到来である。
          
 翌78年には旧チェコスロバキアのみリリースされた5th『SBB』にて改めて初心表明の如き原点に立ち返ったアプローチを試み、同年旧西ドイツに渡りインターコードよりワールドワイド向けに6th『Follow My Dream』と立て続けにリリースする次第である。
          
 が、実質的なワールドワイド成功の王手を決めたのは、続く79年同じくインターコードよりリリースされた『Welcome』であるのは最早言うまでもあるまい。若干ダークな雰囲気で一見した限り引いてしまいそうな装丁ではあるが、SBB70年代の総決算にして頂点とも言える最高傑作と言っても差し支えあるまい。
    
 ここまでの作品に至るまで、終始一貫してSkrzekの力強くもどこか幽玄的で儚い哀愁感漂うシンフォニックなキーボード・ワークに、Anthimosの刻むどこかしら異国情緒とエキゾチック感溢れるギター、Piotrowskiの堅実且つ的確なテクニックに裏打ちされたドラミングといった、強固で絶対的にして絶妙なバランスのトライアングルで歩み続けて来た彼等のスタイルは、同じトリオ編成のEL&P、トリアンヴィラート、オルメ、SFF、ラッシュ…等とはまたひと味ふた味も違ったロック・ミュージックの醍醐味とダイナミズムをも堪能させてくれた事は紛れもない事実である。 
 しかし…80年代に入ると、SBBにも大きな変革の波が押し寄せて来る。Anthimosに次ぐ新たなギタリストSławomir Piwowar加えた4人編成で臨んだ久々の母国ポーランドでの録音となった8作目『Memento Z Banalnym Tryptykiem』は80年代を迎えた最初の作品で、意欲作且つ傑作にして渾身の一枚ながらも、事実上彼等の信頼関係にある種の破綻をきたした最終作となった次第である。
    
 それと前後して中心人物のSkrzek自身のソロ『Pamiętnik Karoliny』(1979)と『Ojciec Chrzestny Dominika』(1980)が国内外にてセールス好調であった事も一因していた。 
 こうして『Memento~』にて自分達の演りたい事は全て出し尽くした感を悟った彼等はバンドの解体を決意。 
   
 Skrzekはその後国内にてソロ活動と併行して映画や舞台の音楽製作に携わる傍ら、ポーランド国内のアーティストとのコラボ、後進アーティストの育成と指導に尽力を注いでいた。
 Anthimosはポーランドとアメリカを股にかけECM系のアーティスト並び、パット・メセニー・グループとの共演で独自のソロ活動に移行。
 PiotrowskiはSBB解散後、SBBとは全く畑違いなポップ系のバンドを渡り歩き商業ベースな路線へと活路を見出したとの事。 
 そして…ポーランド国家自体も永きに渡る共産・社会主義時代が崩壊し終焉を迎え、民主主義の道へと再び歩み始めると同時に、プログレッシヴ・シーンもコラージュの一派(サテライト、ビリーヴ…等)を始めとする、リザード、クィダム…etc、etcといった新世代のメロディック系シンフォが続々と台頭し活況著しい昨今となった事はよもや説明不要であろう…。 
 90年代に入ってからは、SBBの過去のライヴ含むアーカイヴ音源が続々と発見され、Skrzek監修の許で雨後のタケノコの如く続々とCD化が進められつつも、一方でSkrzekの脳裏にSBB再編という青写真も出来つつあった。 
 それに呼応するかの様に、ギタリストのAnthimosが再びSkrzekと合流し、新たなドラマーにパット・メセニー・バンドと併行するPaul Werticoを迎えて、22年振りの2002年大手のポーランドEMIに移籍して、再結成第一弾『Nastroje』を発表し21世紀版SBBサウンドを確立させ、更に3年後の2005年『New Century』をリリースし益々脂の乗った円熟味と大ベテランの域の滋味たるものを感じさせ、その健在ぶりをアピール知らしめ、ヨーロッパとアメリカにてツアーを敢行し大盛況のもと成功を収めている。 
 しかし…これだけ恵まれた製作環境が整ったにも拘らず、ポーランドEMIからリリースされた新たなアプローチを試みた筈の新路線が思っていた以上の評価が得られず、流石にこれにはSkrzekとAnthimos、並び長年の多くのファンの間では“ダイナミズムに欠けるきらいがある”といった不満が鬱積し、それ以後EMIとの契約も切れ加えて新ドラマーのPaulが抜けてしまった事がバンド休止に更なる拍車を掛け、SBBは再び2年近く沈黙を守る事となる。
 相も変わらず蔵出しのライヴ・アーカイヴ音源に至っては立て続けに好セールスを上げるものの、肝心要のバンド本隊は停滞気味といった感で、正直もはやこれまでか?といった憶測も流れるといった始末である。
 が、そんな暗中模索と自問自答の如き停滞は、新たなドラマーであるGabor Nemethを迎え、2年後の2007年に新興のMetal Mindからリリースされたバンドの原点回帰を彷彿とさせる、ヘヴィ&シンフォニックに立ち返った『The Rock』で新たな光明を見い出す事となる。
    
 (ジャケットから察するに、岩=Rockとロックを掛け合わせた…まさしく我々はロックバンドである!という初心表明の表れと思っても差し支えはあるまい)
 以降09年の『Iron Curtain 』、『Blue Trance』(2010)、『SBB』(2012)、そして2014年にオリジナルドラマーのJerzy Piotrowskiが再び合流してからは『Za Linią Horyzontu』(2016)、『FOS』そして『Sekunda』(両作品とも2019年リリース)という破竹の勢いで意欲的な作品を立て続けにリリースし、特筆すべきは3人のオリジナルメンバーが集結して以降は、作風並びアートワーク総じてあたかも原点回帰を思わせるスタイルに立ち返った姿勢は(失礼ながらも)老いても尚創作意欲の衰えを感じさせない確固たる信念と情熱でポーランドのシーンをリードしている生き様と健在ぶりに、私自身心から拍手を送りたい次第である。
   
 結成・デヴュー、一時的な解散…そして再編を通して実に40年以上ものキャリアを誇るSBBではあるが、70年代のあの政治体制に拮抗するかの如く熱く燃えていた彼等ではあるが、あの当時が音楽を通した闘いであったならば、現在の彼等は精神性こそ不変ではあるが、セールス云々を抜きに心の底から音楽を楽しみ創造しようという…良い意味でベテランのロックおじさん的な、自由・平和を勝ち取った者でしか味わえない、余生への楽しみというのは少々穿った言い方であろうか…。
 あとは…少なからずも私自身、否!他の大勢のSBBファンにとって彼らの来日公演を是非共切望したい限りである(そうでしょ!?クラブチッタさん)。

一生逸品 PANTHÉON

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 10月も終盤を迎え、いよいよ待望の芸術の秋…プログレッシヴの秋が迎えられるのかと思いきや、いきなり予期せぬ寒波に見舞われ、あたかも晩秋或いは初冬を思わせる曇天の冬空に見舞われてしまい、とんだ想定外で時期外れな冬支度に右往左往しているさ中、皆様如何お過ごしでしょうか。

 そんな冬将軍の足音が日に々々感じられつつある今月お送りする「一生逸品」は、昨今大いに話題を呼んだオリオン座流星群に呼応するかの如く、偶然というかあまりにタイムリーな出来事に引き寄せられる様に、70年代のオランダが生んだ=通称ダッチ・プログレッシヴがまさに熱気を帯びていた時代、かのギリシャ神話に登場のオリオンをモチーフにした唯一作を遺し、その独創性溢れるオリジナリティーと音楽性で今なお伝説的神格で称賛されている“パンテオン”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

PANTHÉON/Orion(1972)
  1.Orion        
  2.Daybreak        
  3.Anaïs     
  4.Apocalyps          
  5.The Madman  
  
  Albert Veldkamp:G, B
  Ruud Woutersen:Key, Vo
  Hans Boer:Flute, Sax, Vo
  Rob Verhoeven:Ds, Per

 海峡に隔てられながらも、あたかもまるで水の無い地続きすら錯覚させる様な、かの大英帝国のブリティッシュ・ロックとオランダ産ダッチポップスとの関係性。
 自分自身が物心付いた幼少の頃には、既にテレビ画面からショッキングブルーの名曲「ヴィーナス」が流れていた事を鮮明に記憶し、友達との遊びに夢中で音楽なんて一切の興味を示さなかった小学生の時分には、フォーカスが「悪魔の呪文 (Hocus Pocus)」の空前の大ヒットで世界的な大成功と名声を手中に収めていた70年代、名実共にユーロロックが世間に認知される以前からオランダのダッチ・ロック&ポップスは英米のミュージックチャートにさり気なく (と言うには些か語弊はあるが) 溶け込み上手く紛れ込む事で世に躍り出たと言っても過言ではあるまい。
 世界進出に成功した前出の2バンドに続けとばかりアース&ファイアー、エクセプションそして後のトレース、フィンチ、カヤックといった70年代ダッチ・プログレッシヴシーンを彩った精鋭達が注視される片やその一方で、イギリスのカンタベリー系に触発されたスーパー・シスターにソリューションといったジャズロックが輩出された事も忘れてはなるまい。
 そんな百花繚乱の様相を呈していた70年代プログレッシヴ・ムーヴメント一色のオランダのシーンに於いて、成功を夢見つつ栄光を追いかけながらも僅かな短い活動年数で、たった一枚のアルバムを世に遺して表舞台から静かに去っていった類稀なる存在達も無きにしも非ずである。
 今回本篇の主人公でもある、神殿という意の神々しくも荘厳なイメージを想起させるバンド名パンテオンを冠した4人の若者達、彼等もまた自国の大御所フォーカスやスーパー・シスター、ソリューションに触発影響されて世に躍り出た次第であるが、1971年のバンド結成当時に於いて…俗に言うまだまだ青臭い二十歳前後のティーンエイジャーで、高校時代に組んだ学生バンドから派生した (言い方は悪いが) 所謂生意気盛りな一介の若造達であったそうな。
 アムステルダムで開催された数々のミュージック・フェスティヴァルで多くの音楽経験を積み、そのヴァラエティーに富んだ独創性と非凡な才能が瞬く間に注目を集め、若くしてオランダ・フォノグラムと契約を結び、1972年デヴューシングル「I Want To know/Masturbation」(B面の曲タイトル、何とかならんか) をリリース。
          
 デヴューシングルのセールスが上向きになるに伴い、メディア各方面がこぞって彼等に着目し、同時期フォーカスを始めとする飛ぶ鳥をも落とす勢いのバンドやアーティスト達との共演・前座を務めつつ基盤の地固めに躍起になっていた頃、同年ヴァーティゴから2ndシングルで後に最初で最後のアルバムにも収録される「Daybreak/Anaïs」をリリース。
 この2ndシングルがオランダ国内のテレビやラジオで大々的に取り上げられ、スーパー・シスターやソリューションに次ぐ有望株と称賛されたのを機に、彼等は同年ヴァーティゴから最初で最後のアルバム唯一作『Orion』を世に送り出す事となる。

 オープニングを飾るはアルバムタイトルにもなっている19分超の大曲で、いきなり壊れかかった調子の悪いオルゴールをも彷彿とさせるチェレステ、フルートにハモンドとコーラスが被さる格調高くもどこかユニークなイントロダクションに導かれ、ドラマティックなサックスが切り込んでくるや否やシンフォニックでジャズィーな佇まいのユーロロックがリリカル且つエキセントリックに展開し、寄せては返す波の如く引きと押し、柔と剛、静と動といった対義同士がせめぎ合い、初期フォーカスの大作「Eruption」にも迫る勢いと言わんばかりな、深遠で怒涛なる星座と神話世界が聴き手の脳裏に壮大に繰り広げられること必至であろう。
    

 オリジナルアナログLP盤の旧A面丸々費やした大作を経て、旧B面では4つの小曲で占められた幾分小粒な印象は否めないものの、それでもA面の大曲の流れを汲んだであろう多才な趣向と展開が窺える秀作と佳作揃いである。
 明るめな曲調の「Daybreak」にあっては、如何にもといった感の…さながらひと昔前のNHKの教育テレビ (現Eテレ) の情報番組ないしラジオ放送向けに流しても何ら違和感を覚えないくらい、番組のオープニングにピッタリな作風で、クラシカルでアカデミックなハモンドとフルートに軽快なリズム隊とコーラスが堪能出来る好ナンバー。
 事実、80年代にオランダのラジオでオンエアされた曲名と同名の番組「DAYBREAK」のオープニングテーマで使用されたのも頷けよう。
          
 シングルとして先行リリースされながらもアルバム向けに5分近い長さで再録された「Anaïs」にあっては、室内楽的な序盤のフルートとアコギが印象的で、いつの間にかフォーカス影響下を意識した曲進行へと転調する小気味良さが絶妙ですらある。
 黙示録という何やらタダナラヌ雰囲気と印象を抱かせる10分強の長尺「Apocalyps」は「Orion」に負けず劣らずの力作で、暗さや重さといった陰鬱なテーマ感が微塵も感じられないくらいソフト且つ軽快なメロディーラインで占められながらも、ヴァーティゴレーベルらしさが如実に表れたブリティッシュ系オルガンロックばりのハモンド全開とジャズィーなエッセンス、果てはイエスをも意識した様なコーラスパートが顔を覗かせたりと、ヴァラエティー豊かで多岐に亘るバンドの音楽性と側面が存分に楽しめるのが実に微笑ましい。
          
 アルバムラストを飾る「The Madman」は、Ruud Woutersen奏でるキーボードを大々的にフィーチャリングした概ね1分弱な小曲で、Rob Verhoevenのドラムがバックに色を添える体のデュオスタイルが、まさしくラストに相応しい…印象的で何とも意外なアッサリ感も拭えない不思議な余韻を残す名曲 (迷曲) といったところだろうか(苦笑)。
 ちなみに本作はバンド解散後から25年後の1999年、一度粗悪な音源によるブートレグ紛いなCDリイシュー化を果たしているが、21世紀を迎えた2001年漸く正式な形でリマスターが施された正規のリイシューCD (シングル用3曲がボーナストラックとして収録された) がリリースに至った次第で、理由は定かではないが旧A面と旧B面が入れ替わった曲順でオープニングが「Daybreak」で5曲目が「Orion」という構成で変更されている。

 デヴューアルバムのセールス並びライヴの評判も上々で、まさに世の春を謳歌するかの如く順風満帆で意気揚々とした状況下でありながらも、やはり青二才らしい未熟で若さ故の誤った考え方とでもいうのだろうか…レコード会社とバンドサイドとの思惑の相違に加え、運営面で折り合いが悪く何かと衝突していたであろう、その溜まりに溜まった鬱積とでもいうのか全てに於いて丸投げ (匙を投げた) をした会社がパンテオンに対し全面的に支援を止めた事がきっかけで、結局新作並び新曲製作の機会を失った彼等パンテオンは徐々に活動意欲の低下と共に失速し、結果1974年バンド解散の憂き目に遭う事となる。
 余談ながらも、解散から数年後…かのトレースのRick Van Der Lindenの実弟でフォーカスの元メンバーだったPierreに声をかけてパンテオン再編を目論むも結局これは上手くいかず、再編話は空中分解と物別れで終わるものの、パンテオン自体は時折オリジナルメンバーが集まっては、同窓会ライヴよろしくとばかりに90年代初頭まで不定期に公演を行っていたとのことである。 
 バンドメンバーのその後の動向と消息にあっては、判っている範囲内で恐縮であるが…ギタリスト兼ベーシストのAlbert Veldkampはギター講師への道を歩み、キーボーダーのRuud Woutersenはレコーディング・スタジオのオーナーを兼ねて舞台と映画音楽のスコアをも手掛けるコンポーザーへと活路を見い出し、ドラマーのRob Verhoevenとフルート兼サックスのHans Boerの両者にあっては音楽とは全く無関係な業種の道を歩み、Robは広告代理店のオーナー、Hansは経営コンサルタントへと華麗な転身を遂げたそうな。
           

 こうしてパンテオンの物語は幕を下ろした次第であるが、彼等の名誉の為に断っておくが決して日本の芸能界やお笑い業界に付きものの…所詮は一発屋の類みたいな扱いだけは、どうかやめて頂きたいと願わんばかりである。
 バンド解散後においても、ヴァーティゴレーベルB級作品の極みなどと悪口陰口誹謗中傷と謂れ無き悪評で叩かれて不遇なる時代こそ送ったものの、やはり正真正銘彼等の作品の真価は紛れも無く揺らぐ事無く、今なお伝説の名を欲しいままにしているのが率直なところである。
 時代が悪かったとか運とツキに見放されたなんて安易な言葉で片付けたくもないし、正直なところ彼等の場合若さ故のタイミングの悪さとボタンを掛け違えただけの悲運だったと言わざるを得ないと思うのだが如何なものであろうか…。
 失礼ながらも老齢に差し掛かった彼等が、もはや21世紀のプログレッシヴ・シーンに再浮上する事は皆無に等しいと思うが、それでも一縷の望みを託して…ある程度の期待と希望だけは持ち続けたいものであると信じて止まない。

      “なあ、また久し振りに演らないか!”

 そんな鶴のひと声の如き彼等の復帰第一声を、昨今のオリオン座流星群に願いを託し、冬の夜空を彩り神々しく光り輝き続けるオリオン座の瞬きに更なる思いを重ねたいものである。

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