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09,2019
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8月もいよいよ後半…今週の「夢幻の楽師達」は、先日リリースされたばかりの須磨邦雄氏2枚目のソロアルバムのリリースに伴う形で、クリムゾン・フォロワー系に於いて日本古来に根付くであろう忌まわしい因習…或いは伝統美の裏に潜む妖しげな闇の深淵、真紅の迷宮に木霊する旋律(戦慄)を謳い奏でる、かのクリムゾン王の血筋と孤高の精神を異国の地で継承した、紛れも無い真紅の子供達でもある“美狂乱 ”に、今再び光明を当ててみたいと思います。
美狂乱 BI KYO RAN
(JAPAN 1973~)
須磨邦雄:G, Vo, Mellotron
白鳥正英:B
長沢正昭:Ds, Per
「キング・クリムゾンがあったから 今、美狂乱がある…」
今を遡る事37年前…1982年の11月21日、日本国内、否!全世界中のプログレッシヴ・ロックを愛する者達へ挑戦的或いは問いかけにも似たキャッチコピーを引っ提げ、鳴り物入りでセンセーショナルなデヴューを飾った、日本の真紅の子供達(Japanese Crimson Children )、その名は美狂乱。
真紅の鬼の如き形相で慟哭ないし咆哮を思わせる巨大な魔王の顔が描かれた本家御大キング・クリムゾンの衝撃的デヴューから数えて13年、よもや海を越えた東洋の地にてクリムゾン王の洗礼を受けた者達が覚醒するとは、あの当時いったい誰が予想し得たであろうか…。
漆黒の闇に赤の閃光に照らされた妖しくも禍々しい様相の狐面こそが、日本という風土の裏側に根付く因習と混沌を代弁し何者すらも寄せ付けない禁忌を物語る、美狂乱の音楽はそんな日本人の心の奥底に潜む闇と暗黒の深淵を内包し、狂暴と抒情そして正気と狂気の狭間で旋律(戦慄)を奏でる、唯一無比にして妥協無き孤高の楽師達と言っても過言ではあるまい。
美狂乱の今日までに至る歩みについては、過去にリリースした作品のライナー、各方面での専門誌、果てはバンドリーダー須磨邦雄氏運営の公式サイトでも詳細が語られているので、重複の無い様ここでは簡単に要約して触れる程度にとどめておきたい…。
60年代半ば…世界の幾数多ものロックミュージシャンの少年期がそうであった様に、静岡にて十代の小学生だった須磨氏が初めて接したロックはベンチャーズで、それ以来音楽とギターの面白さに取り憑かれた須磨少年は当時のGSブームと共に瞬く間に明けても暮れてもギター少年と化していったのは言うには及ぶまい。
小6の頃には学友と共にデュオスタイルのバンドを組んで、須磨少年はギターからドラムまでを手掛けるようになって、モンキーズ、ストーンズ、プロコルハルム、そして御大のビートルズからの洗礼を受けてますますロック少年としての加速度を高めていく次第である(余談ながらも当時の須磨少年にとってビートルズは音楽性の素晴らしさこそ認識すれど、所詮は女が聴く軟弱もんロックと敬遠していたというから面白い)。
中学に入りロック少年としてますます拍車をかけた須磨少年は、クリーム、ZEP、パープル、果てはヴァニラ・ファッジ、アイアン・バタフライ、グランド・ファンク・レイルロード、日本のモップス、そしてフェイヴァリット・バンドでもあるフラワー・トラヴェリン・バンドと多岐に亘って触れながら、併行して日に々々ギターの腕も上達していき、中学3年ともなると東京の某ロックコンテストに腕試しとばかりに大きなステージへと挑戦する事となる。
そのコンテスト時の審査員だったフライド・エッグの3人から賞賛され、須磨少年はステージ上に上がってきた成毛滋氏から直々にジミー・ペイジのギター奏法を伝授され、サプライズな感動の余韻と勢いを引きずったままその後地元静岡で開催されたロック・コンテストに参加。
以後、高校在学中には静岡のサンシャイン・フェスに参加し憧れのフラワー・トラヴェリン・バンドと共演し(スペース・サーカスとも共演)、以後須磨少年は高校を卒業するまでの間、静岡県内で一目置かれた存在のギタリストとして広く名が知られる事となる。
高校を卒業しプロ活動を目指して、当時活動を共にしていた初代美狂乱ベーシストの吉永伸二と共に上京するも志半ばで頓挫。
半年後二人とも失意を抱えて静岡へと帰郷するものの、そこで初代ドラマー山田義嗣との出会いによって運命の歯車は再び大きく動き始めるのである。
東京時代に書き溜めたオリジナル曲から15分強の大作「止まった時計」を完成させレパートリーに加えていった辺りから、徐々に須磨氏の音楽スタイルに変化の兆しが感じられる様になり、それこそ鶏が先か卵が先かではないが、半ば冗談交じりに名付けたバンド名だった美狂乱 が次第に須磨氏の目指す音楽像とイメージに歩み寄りつつあった事だけは確かな様だ。
1974年「止まった時計」を引っ提げて美狂乱名義で再び東京の某ロック・コンテストに参加し特別賞に輝くと同時期に、河口湖ロック・フェスティバルに参加しフラワー・トラヴェリン・バンドと二度目の共演を果たし、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いの多種多才なバンドに混じって白熱の演奏で聴衆からの喝采を浴びる事となる。
その時「止まった時計」に触れた聴衆からは
“クリムゾンのエピタフを思わせる”
“キング・クリムゾンのサウンドスタイルみたいだ”
そんな言葉に、須磨氏自身この時点で初めてキング・クリムゾンを意識する様になり、当時リリースされたばかりのライヴ盤『USA』に触れ、以降遡りながら『レッド』『暗黒の世界』『太陽と戦慄』といった後期クリムゾンの作品に傾倒し、それからというものロバート・フリップを師と仰ぎクリムゾン一辺倒への歩みを追加速させていくのであった。
程無くして音楽を生業とする事に抵抗を感じていた山田がバンドを去り、その後は82年の美狂乱正式メジャーデヴューに貢献したドラマー長沢正昭が加入。
一時的ではあるが長沢の提案でクリムゾン・フォロワーバンドとして専念するためにバンド名をまどろみ に改名し、クリムゾンの殆どの曲のコピーをこなしていく事となる。
その後まどろみは須磨氏、吉永、長沢の3人を核にキーボード、ヴァイオリン、トランペット、フルートのメンバー数名が出入りし、静岡のロック・フェスや多くのステージに出演し実績を積み重ねていくが、メンバー個々の諸事情やら音楽的方向性の相違、心身の疲弊を理由にまどろみは1977年解散の憂き目を見る事となる。
その翌年プログレ&ユーロ・ロック命でベースからキーボードまでを手掛け多重録音にも造詣の深い静岡大の学生だった久野真澄、そして女性ヴァイオリニスト杉田孝子との出会いを機に、須磨氏は再び長沢を呼び寄せ美狂乱再結成へと至る。
が、美狂乱再結成が軌道に乗り始めたと時同じくして長沢がまたしても諸事情で抜けてしまい、須磨氏と久野は途方に暮れるも、まどろみ時代の旧知の伝でベースの吉永が復帰し、久野はキーボードに専念、そして肝心要のドラマーの後釜として、須磨氏と旧知の間柄でもあった伝説的名プログレドラマー佐藤正治が加入。
美狂乱は漸く5人体制バンドとして確立し、1981年までこの不動の体制を継続し静岡県内での精力的な活動はおろか、東京のプログレ・ライヴハウスの老舗シルバーエレファントでのライヴにも定期的に出演する事となる。
前後してフールズメイトやマーキームーンといった当時のプログレ音楽誌を始め、後のキング/ネクサス設立に携わる高見博史氏との出会い、同年期の盟友的バンド新月との繋がりで美狂乱は着実にメジャーデヴューへの足掛かりを築いていく事となる。
この頃には名曲でもある「警告」始め「予言」「空飛ぶ穀蔵」「御伽世界」「都市の情景」といったレパートリーがライヴで大きな呼び声となっていたのは言うに及ぶまい(因みにこの当時カセットテープで収録されたライヴは、後述でも触れるが1987年にマーキー/ベル・アンティークよりリリースされた『Early Live vol.1~御伽世界』でも聴く事が出来る)。
80年のキング/ネクサスの設立でノヴェラ、アイン・ソフ、ダダに次ぐ4番手として美狂乱にも白羽の矢が刺さるものの、高見氏への返答、契約その他諸々を含めた保留の状態で、正式なレコーディングに向けたリハーサルに日々を費やす中、突如として個人的な諸事情で吉永と杉田がバンドを脱退。
が、しかし臆する事無く残された須磨氏、久野、佐藤の3人でデヴューアルバムに向けたデモ音源を完成させ、抜けた吉永の後任として白鳥正英を迎えて、いざ!メジャーデヴューに一直線と思いきや、須磨氏の結婚を機に東京でプロミュージシャンとしての活路を見出す久野と佐藤の両名とも袂を分かち合い、美狂乱はまたもや活動停止~解散への道を辿ってしまう。
それでも数ヶ月間に及ぶ高見氏の熱心な後押しと説得の末、2年間の限定期間で何枚かのアルバムを製作するという合意の末、須磨氏は前出の白鳥、そして再びドラマーとして長沢を呼び寄せ新曲を含めた正式なレコーディングを開始する。
更にはサポートメンバーとしてヴァイオリニストに当時芸大の学生だった中西俊博、キーボードに当時キング/ネクサスからデヴューを飾っていたヘヴィメタル・アーミーから中島優貴、リコーダー奏者の小出道也を迎え、プロデューサーにはジャパニーズプログレッシヴ黎明期の先駆者的作品『切狂言』で一躍話題となったチト川内という強力な布陣で臨み、長きに亘る紆余曲折と暗中模索の末…漸く美狂乱は1982年11月にバンド名を堂々と冠したデヴューを飾る事となる。
デヴュー作の評判は上々で国内外からも高い評価は得るものの、メジャーデヴューという当初の目的こそ達成した須磨氏にとって暫くは満足とも物足りなさともどっち付かずな焦燥感ともどかしさを感じていたのが当時の本心だったそうな…。
デヴュー記念ライヴを東京渋谷エピキュラス、新宿ACB、吉祥寺シルエレのみに限定し、以後美狂乱はスタジオワークへと尽力していく事となる。
むしろこの当時の須磨氏の疑心暗鬼にも似た己への自問自答が、翌1983年にリリースされる事実上の最高傑作『パララックス 』への原動力へと結実するのだから運命とはどう転ぶか解らないものである…。
アール・ゾイ始めユニヴェル・ゼロといったダークチェンバー系に傾倒していた時期だけに、文字通りかのスイスのアイランド『Pictures』にも匹敵する、瓦礫の山に宙吊りにされた壊れたマリオネットという不気味で意味深な意匠を如実に具現化した、ダークでカオス渦巻くジャパニーズ・チェンバー・ヘヴィシンフォの金字塔を確立させた怪作にして名作へと押し上げていったのは周知の事であろう。
新曲の「サイレント・ランニング」始め、伝説の名曲復活の気運漲る「予言」、そして看板に偽り無しの如くキャッチコピーの“このアルバムは聴き手を選びます… ”に相応しい大暗黒的真紅の戦慄が横たわる大作「組曲“乱”」を引っ提げた問題作にして最高傑作へと上り詰めていったのである。
ゲストサポートも充実感極まれりのラインアップで、前作同様ヴァイオリニストに中西俊博、キーボードに当時ノヴェラの永川敏郎、チェリストに今や大御所の溝口肇、トランペットに岡野等といった大盤振る舞いの製作布陣で臨んだ稀代の最高傑作は前デヴュー作をも上回る高評価を得て、四人囃子の『一触即発』始め新月のデヴュー作、ノヴェラ『聖域』、アイン・ソフ『妖精の森』、後年のケンソー『夢の丘』と並ぶジャパニーズ・プログレッシヴ史に燦然と輝く伝説的名盤として殿堂入りを果たしたのであった。
が…しかし、これだけ最高潮のテンションを保持しながらも結局大阪バーボンハウスでの伝説的ライヴを最後に、キング/ネクサスとの契約満了と時同じくして美狂乱は活動の一切合財全てを停止し、以後1994年の再結成まで長きに亘り沈黙を守る事となる…。
美狂乱活動停止から4年後の1987年、高見博史氏が記録保存と足跡を後世に遺す為に録り貯めしていた数本のライヴカセットから厳選し、新たに再構成したライヴ・アルバムが回数に分けられマーキー/ベル・アンティークよりEarly Live シリーズ としてリリースされるという大きなニュースが突如としてアナウンスメントされる。
87年末リリースの『Early Live vol.1~御伽世界 』、翌1988年に『Early Live vol.2~風魔 』の両作品は、新たな真紅の子供ともいえる幻想イラストレーターししどあきら の描く神秘的にして不気味、意味深で摩訶不思議な異世界は、かのイエス+ロジャー・ディーンとの図式同様に、まさしく美狂乱の音楽世界と見事にマッチングしていると言っても過言ではなかった。
ここではししど氏の功績を改めて振り返るという意味で『御伽世界』『風魔』そして1995年の再結成時ライヴを収録した『Deep Live 』に於ける素晴らしいアートワークを掲げておきたいと思う。
余談ながらも87年と88年にリリースされたEarly Live両作品についてのこぼれ話だが、未だCD化されておらず今や鰻上りな高額プレミアムすら付いているという『Early Live vol.1~御伽世界』であるが、須磨氏の頑固一徹な意向で残念な事に今後以降『Early Live vol.1』のCD化は一切考えていない との事。
そして『Early Live vol.2~風魔』に至ってはリリース予定当時の事を覚えていらっしゃる方々も多い事と思うが、当初は名曲の「警告」を含めて、ライヴでたった数回しかプレイしていないというクリムゾンの「突破口」をインスピレーションに書いた「ゼンマイ仕掛け」、そして吉祥寺シルエレでたった一度きりしか演奏した事がないという幻の大曲「組曲“美狂乱”」(1979年当時、地元静岡大学の演劇部とのコラボレーションで誕生した作品との事)が収録されたその名も『ゼンマイ仕掛けの美狂乱』なるタイトルでリリース予定だったものの、惜しい事に高見氏所有の件のライヴカセットテープにかなりの不具合が見つかり、高見氏自身も勢い余って見切り発車に近い形で告知したものの、改めて聴き直してみるとやはりこれは相当キツいなァ…と反省し、後々にリリース予定していた『Early Live vol.3~風魔』を急遽繰り上げ登板し2枚目のEarly Liveシリーズとして世に出る事となった次第である。
美狂乱活動停止から10年後の1993年、須磨氏の周辺が俄かに騒がしくなってきたのも丁度この頃である。
解散前夜の1983年7月の大阪バーボンハウスでのライヴを収録した『乱 Live』、そして翌94年にまどろみ時代にクリムゾンの曲をライヴ収録した『まどろみLive』が立て続けにリリースされ、過去の偉業ともいえるライヴリリースという追い風を受けて、須磨氏は新たなメンバーと時代に則したコンセプトで再び美狂乱再結成へと動き出す。
1994年、須磨氏を筆頭に酒屋の主人でもある三枝寿雅(B)、鈴木明仁(Per)、田口正人(Per)、影島俊二(Ds)、大塚琴美(Key)、望月一矢(G)、田沢浩司(Vo)という初顔合わせの大所帯8人編成のラインナップで再スタートを切り、度重なるリハーサルを経て翌95年東京のEgg‐manで復活ライヴ(後に『Deep Live』としてリリース)を行い大きな拍手と喝采を浴び、そのままの熱気と勢いを保持して、かの名作『パララックス』以来12年振りのスタジオ作品『五蘊(ごうん) 』をベル・アンティークよりリリース。
高見氏所蔵の兎の描かれた日本画をアートワークに用いたまたしても意味深なテーマで深く時代に切り込んだ異色にして時代相応の意欲作に仕上がっているのが特色と言えよう。
駆け足ペースで進めていくが、『五蘊』リリースから程無くして須磨氏、三枝、そして大塚を残し大幅なメンバーチェンジを経て、一時期はスーパードラマー菅沼孝三始め、マリンバ奏者に影島俊二が加わったり、大塚がバンドを辞め、菅沼が抜けて清水禎之が参加したりと幾数多もの人材の出入りが激しい時期でもあった。
それでも静岡を拠点に東京、名古屋と精力的且つ頻繁にライヴを行い、もはや一点の曇りも迷いも無い我が道を進むかの如く美狂乱は時代と世紀を邁進していった。
20世紀末の1997年に須磨氏、三枝、そして清水のトリオ編成で原点回帰の如く狂暴にして鮮烈なカオス全開なるヘヴィ・プログレの新作『狂暴な音楽 』をマイナーレーベルのFreiheitよりリリースし、その一見してあたかもかの五人一首ないし陰陽座風なジャケットをも彷彿とさせる意匠に周囲はただ驚くばかりだった…。
そして21世紀に入り2002年…かつてのEarly Liveシリーズでしか聴けなかった「都市の情景」「御伽世界」「空飛ぶ穀蔵」「未完成四重唱」、そして幻の未発曲「ゼンマイ仕掛け」がスタジオ新収録版として甦り、3曲の新曲(未発表曲?)を新たに加えた文字通りの回顧とアンソロジーがテーマの『美狂乱Anthology vol.1 』をリリース(下世話ではあるが、vol.1があれば当然vol.2も予定されていたのだろうか?)。
時代の推移と共に美狂乱も大きな変動を迎え、須磨氏を筆頭に再びドラマーとして長沢正昭が復帰し、須磨氏の息子さん須磨和声がヴァイオリンとして参加、神谷典行(Key)、桜井弘明(B)の両名の新メンバーを加えて、プログレッシヴのフィールドからアニメ音楽のフィールドへとシフトしていき、青春ギャグアニメ「クロマティ高校」のサントラBGMをメインに手掛けているのが記憶に新しい…。
その一方で須磨氏自身のソロ活動も併行して行われ、須磨氏自らが運営しているスタジオ兼レーベルのMountain North Recordsより2007年に初ソロアルバム『SOLOSOLO 』、息子の和声君も同レーベルより2012年に『組曲“蟻”』でソロデヴューを飾っている。
美狂乱が結成してから早40年以上もの歳月が経過し、今やライヴを含めて過去にリリースした殆どの作品がプログレッシヴ遺産並みのリスペクトクラスとして掲げられ、美狂乱のみならずスウェーデンのアネクドテンやパートス、アメリカのディシプリンといったクリムゾンDNAを真っ向から受け継いだ次世代が今もなお続々と輩出され、その流れはもはや止まるところを知らない。
クリムゾン亜流バンド云々と過去に散々陰口まで叩かれつつも、彼等美狂乱は決して意に介さずただひたすら真紅の迷宮と暗黒と混沌の深淵を彷徨い、自己の美学とロマンティシズムの追求のみに音を紡いできた。
須磨邦雄氏がこれから目指すであろう音楽の終着点が一体いつになったら見出せるのかなんて曖昧模糊めいた野暮な事はここではおそらく無意味な事であろう。
須磨氏…即ち彼自身が生き続ける限り美狂乱の音楽と精神は絶える事無く、その時代々々を見据えた視野と観点で未来永劫ますます進化し続けていく事であろう。
そして…長き沈黙を破って先日リリースされたばかりの須磨氏自身12年ぶりのソロワーク『ソロSIDE:森の境界 』を今こうして耳にしている次第である。
今回の2作目のソロに於いて須磨氏の研ぎ澄まされた孤高にして崇高な精神は更なる極みの境地に達しているかの様ですらあり、本作品はあたかも迷宮の音世界へと通ずる美狂乱の帰還ともいえる布石或いは予兆なのだろうか…?
我々聴き手側はその答えを求めつつ、美狂乱が再び目覚める時までただひたすら信じ続けて待つしか術はあるまい…。
否、もはや我々の知らない時間軸で美狂乱の新たなる胎動と覚醒がもう既に始まっているのかもしれない。
本文章に多大なる刺激とインスピレーションを与えてくれた、聡明な楽師でもある須磨邦雄氏に心から感謝と御礼を申し上げます。
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Zen on
10,2019
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今週の「一生逸品」は先日の美狂乱に続き、日本的なイマージュとリリシズムを謳い奏でるもう一方の雄でもあり、日本のプログレッシヴ・ロック史に於いて21世紀の今もなおカリスマ・神格化され、70年代と80年代との時代の境目を全身全霊で駆け巡った生ける伝説と言っても過言ではない、まさしく日本のジェネシス・チルドレンの代名詞でもある“新月 ”に焦点を当ててみたいと思います。
新月 (SHINGETSU) / 新月(1979)
1.鬼
2.朝の向こう側
3.発熱の街角
4.雨上がりの昼下がり
5.白唇
6.魔笛“冷凍”
7.科学の夜
8.せめて今宵は
北山真:Vo
花本彰:Key
津田治彦:G
鈴木清生:B
高橋直哉:Ds
70年代最後の1979年、プログレッシヴ・ファンの期待を一心に集め日本ビクター傘下のZenレーベルから鳴り物入りでデヴューを飾った新月。
当時プログレ専門誌時代のフールズ・メイトにあっては、吉祥寺のライヴハウス“シルバー・エレファント ”をメインストリームとする、新月を始め美狂乱、グリーン、アウター・リミッツ、観世音、スペース・サーカス、果てはデヴュー間もない頃のケンソーといった、80年代に向けた新たなるプログレッシヴ・ムーヴメントの波をこぞって取り挙げては熱心に紹介していた頃であった。
余談ながらも、新たなる波と同調するかの様に厚見玲衣率いるプログレ・ハード系のムーンダンサー、そして関西からは後にノヴェラへと移行するシェラザードが活躍していたのも丁度この時期である。
70年代初頭のジャパニーズ・プログレッシヴ黎明期…所謂日本のニュー・ロック勃発期に於けるエイプリルフール始めフード・ブレイン、ラヴ・リブ・ライフ+1、ピッグ、それ以降にかけて登場したファーラウト→ファー・イースト・ファミリー・バンド、ストロベリー・パス→フライド・エッグ、コスモス・ファクトリー、四人囃子といった70年代前期~中期にかけてのジャパニーズ・プログレ黎明期バンド。その大半が短命に終わるか、或いは時流の波とレコード会社側の意向で路線変更を余儀なくされるかといった困難な時代、イギリスや欧米の当時の諸事情と同様に日本でも御多分に洩れずプログレッシヴ・ロックはアンダー・グラウンドな領域でしか生き長らえるしか術が無かったのは言うまでもあるまい。
70年代後期ともなると、プログレの多くは自主製作(運が良くてレコード、最低でもカセット)ないし、大手レコード会社の良くも悪くもマニアックでマイナーな弱小レーベルからでしかリリースされなかった、そんな辛酸と苦汁を舐めさせられた…フールズ・メイトの新月レヴューでも触れられている通り“ロック音楽を媒介にした芸術活動 ”がいかに大変な時代であったかが想像出来よう。
新月の歴史は1972年に日大芸術学部音楽学科に在籍していた花本彰(Key)が同大学の学友達で始めたOUT OF CONTROLなるプログレ色を打ち出した(フォーカスのコピー含め)バンド活動から始まる。
OUT OF CONTROLは後に新月のメインフロントマンとなる北山真(Vo)を迎え、バンド名も(新月の母体となった)“セレナーデ”に改名後、度重なるメンバーチェンジを経て作曲とリハーサルに費やす事となる。その新たなメンバーの中に後の新月のベーシストにシフトするクリス・スクワイア似の鈴木清生も加わっていた。
その後セレナーデは、伝説的アーティスト鎌田洋一氏(彼は御大のエマーソン始めアイアン・バタフライから多大な影響を受けている…)率いる“HAL ”と共にライヴ出演するようになり、そのHALに在籍していた津田治彦(G)、そして高橋直哉(Ds)と意気投合した花本は、セレナーデの音楽性を更に発展昇華させた形で新月結成へと辿る次第である。
ちなみに…この頃は鎌田氏のHAL並び、小久保隆氏率いるフロイド影響下のRING といった強者的バンドとの出会いによって、後の新月の活動及びバンド解体後の創作活動に於いて今日まで強固な繋がりとなる次第だが、それはまた後半で綴っていきたい。
結成当初キーボード・トリオスタイルだった新月に、花本より先にセレナーデを抜けていたベースの鈴木が合流し、メイン・ヴォーカリスト探しは困難を極めたが(女性Voを入れたり、何とあのヒカシューの巻上公一氏も候補に挙がっていたとか)、結局満場一致で苦楽を共にしてきた北山を招き、漸くここに新月の正式ラインナップが揃う事となる。
本来ならもう一人のメンバーともいうべき…津田、高橋と同じ青山学院大の学友で、ギターからキーボードまで手掛けるマルチプレイヤーの遠山豊氏を加えた6人編成なのだが、新月が実質上のレコーディングに入ってからはマネージャーに転向し、新月の活動を陰ながら支える大きな助力となったのは言うには及ぶまい。
新月のアルバムの裏ジャケを御覧になってお気づきの方々も多いだろうが、ライヴ時にはサポート・キーボーダーとして、先にも触れたRINGの小久保隆氏が参加しているのも注目すべきであろう。
新月は江古田のマーキー、渋谷屋根裏、吉祥寺のDACとシルバー・エレファントといった4ヶ所のライヴハウスを拠点に精力的な演奏活動を積み重ねつつ、先にも触れたフールズメイトと当時の編集長北村昌士氏からの強力なバックアップを得てメジャーデヴューに向けた度重なるリハーサルをこなすという日々に追われた。
その中でも特に北山のヴォーカリストとしての技量にあっては、丑の刻参りを思わせる白装束から異様な電話魔、怪しげな黒覆面に、一人ミュージカル…etc、etcといった曲のテーマ毎に衣装と歌唱法を変えつつ、さながら“和製ゲイヴリエル”よろしくと言わんばかりの鮮烈なライヴ・パフォーマンスは大きな呼び物として定着し、ジャパニーズ・プログレ史に於ける独特なシンガースタイルの手法・元祖たるものを確立させたと言っても異論はあるまい。
和製シアトリカルなヴォーカルは、後のページェントや極端なところで筋肉少女帯といった系譜へと受け継がれていくのである。
冒頭1曲目の“鬼”は、日本古来の因習めいた背景に水木しげる或いは花輪和一の描く様な怪奇幻想譚、京極夏彦の妖怪譚にも通ずる世界が、仄暗い和旋律シンフォニックのダークさと奇跡の相乗効果を生み出した、美狂乱の“予言”と“警告”と並ぶ純然たる日本らしいプログレッシヴ・ロックの稀有な名曲として、今も尚世界各国のファンから高い評価を得て語り草にもなってて、とにかく妖しげなメロトロンの咽び泣きが胸を打つ事必至である。
当時のニュー・ミュージックにも相通ずる世界観の“朝の向こう側”の清々しい爽やかさ、“発熱の街角”で聴かれるリズミカルで摩訶不思議な世界を表した曲進行の面白さ、雨天の憂鬱さと気だるいヴィジョンが甘く切なく響く“雨上がりの昼下がり”といった旧アナログLP盤のA面の秀逸さも然る事ながら、旧B面もまさに本領発揮とばかりに抒情的且つ感傷的に繰り広げられる。“白唇”は“鬼”の対極とも言うべき和旋律に裏打ちされた恋情と詩情で綴られた透明感溢れる涙無くして聴けない秀逸と言えよう。私自身、年齢の積み重ねと共にこの曲を聴くと自然と目頭が熱くなってくるから困ったものだ(苦笑)。
全曲中唯一のインストナンバー“魔笛〝冷凍〟”は、サポートの小久保隆氏の手掛けるキーボード・シークエンスが縦横無尽に発揮された、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』をも彷彿とさせる、おどろおどろしいホラータッチと恐怖感さながらの凍てつく情景が目に浮かぶ事だろう。
初期ジェネシス風な“科学の夜”は、昔小学生の時分に学校の図書館で読んだファンタジーな児童文学の世界観をも思わせる、北山真の一人何役をもこなすシアトリカルさが傑出した佳曲。
新月デヴュー作の最後を締め括る“せめて今宵は”も、ムーディーで静かな月夜に一人佇む感動的にして寂寥感漂う、まさに幻想絵巻の大団円に相応しいナンバーと言えよう。
1979年7月のアルバムデヴューから概ね約一年間のサイクルで新月は精力的にライヴ活動をこなしつつ、次回作の為の構想とリハーサルに入っていたものの(ちなみに次回作のタイトル候補は『たけひかる』だった)、80年の秋にベースの鈴木とドラムの高橋の両名脱退をきっかけにバンド内の拮抗が崩れ、その後は次回作の為のラフテープを残しつつ新月はマテリアルを半ば放棄した形で、バンド自体も自然に消滅。
決してメンバー間の仲違いがあったとか、売れ行き云々といった低次元なレベルでバンドが解散したのではないという事だけは、現在のメンバーの方々の名誉の為にもそれはどうか御理解願いたい。
…それは私自身が察するにバンドという活動に皆が疲弊してしまったからではないのかと思うのだが、もし願わくば…機会があればメンバー本人達から直接聞いてみたいところだが、それも果たしていつになる事やら(苦笑)。
新月解体後の各々の動向に至っては、先ず北山真の方は劇団インカ帝国の伊野万太氏との交流があった事から、劇団関連の音楽製作に携わる一方で、カセットテープによる自身のレーベルSNOWを立ち上げ、地道に創作活動を継続しテープオンリーながらも最初のソロ作品『動物界之智嚢 』を1983年にリリース(後にPOSEIDONからCD-Rという形で復刻される)。
更にはSNOWから、劇団インカ帝国の役者時任顕示と小熊一実を中心に結成されたユニット“文学バンド”のテープ作品『文学ノススメ』をもリリースしている(これも後にPOSEIDONからCD-R化される)が、最後の曲“わが解体”は新月一連の作品の姉妹版といった感があって必聴と言えよう。
北山は後に“北山真&新●月プロジェクト”を立ち上げて『光るさざなみ』をマーキー/ベルアンティークからリリースし、2008年には25年ぶりのソロ『植物界之智嚢 』を発表し、現在はアーティスト活動と併行して登山家=クライマーとしての顔を持ち、日本フリークライミング協会元理事長、日本山岳協会理事、国際山岳連盟公認国際審判員として多忙の日々を送っている。
が、そんな多忙の合間を縫って昨今は自身の新たな新月系譜のプロジェクトとして北山真With真○日 を結成し、2015年リリースの『冷凍睡眠 』を始め、新月時代からの盟友花本彰と共にもう一つのプロジェクト静かの海 を結成し、2019年同プロジェクト名を冠したアルバムを発表し現在もなお精力的に活動している。
その花本彰は津田治彦と共にフォノジェニックスというユニットを組んで、如月小春女史の劇団及び舞踊活動の音楽製作に携わり、先の北山主宰のSNOWから、その舞踊パフォーマンスの楽曲集『ART COLLECTION 1』をリリース(但し残念な事に未だCD化されていない)。
フォノジェニックスはその後手塚眞監督の映像作品のサントラはじめ、テレビ関連の楽曲製作、大山曜氏主宰のアストゥーリアスへの参加等を経て、後年花本が離れてからのフォノジェニックスは津田のソロプロジェクトに近い形に移行し、2005年にPOSEIDONから『Metagaia』という一大抒情詩風の好作品を発表している。
その翌年の2006年、津田はドラマーの高橋直哉を誘ってHALの再編を試みると同時に、小久保隆にも声をかけて06年の暮れに“HAL&RING ”という形で復活を遂げ、HAL時代のナンバーの再演・再構築でPOSEIDONから復活作『Alchemy』をリリースしている。06年の年末渋谷で催されたHAL&RINGのライヴには花本のゲスト参加に加えて、HALのリーダーだった鎌田洋一氏も飛び入り復帰というサプライズに観客一同が湧いたのを未だに記憶している。
残りの鈴木清生は現在楽器メンテナンス兼修復という稼業を営みつつ、ジャズ畑で精力的に活動中である。私自身、HAL&RINGのライヴ終演後の打ち上げで鈴木氏にお会いして、“やっぱり、スクワイアに似てますね”と声をかけたら鈴木氏も苦笑いしていたのが実に印象的だった…。
現在新月関連の作品に至っては、高額プレミアムなアナログLP盤のデヴュー作を例外とすれば、CDとSHM-CDによる新録を含めた復刻盤(紙ジャケット仕様も含めて)『科学の夜』『赤い眼の鏡』『遠き星より』がリリースされている他は、数々の未発アーカイヴ作品、秘蔵級のライヴ音源、セレナーデ時代の貴重な音源、果てはボックスセットといった大盤振る舞いと枚挙に暇が無い位の数に上るのが現況といえよう。
79年の正式デヴューから僅かたった一年と少しの期間ながらも時代を駆け巡った新月という伝説は、現在も…否、これから数年先も語り継がれていくのだろう。
私自身時折思い返す事だが…もし新月のデヴューがあと一年遅かったら、たかみひろし氏に誘われてキングのネクサスからノヴェラ、アイン・ソフ、美狂乱、ケンソーと共に、80年代に何枚かの作品を残せたのではないかと非常に悔やまれてならない。
が、その反面…“これが自分達の進むべき道である”という潔さも誠に新月らしいと思えるのもまた然りなのである。
彼等の伝説は決して終わる事無くこれからも永遠に続くのであろう…。
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19,2019
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今週の「夢幻の楽師達」は、結成から今日に至るまで早40年選手という長大なるキャリアを誇りつつ、現在もなお孤高なまでの飽くなき創作精神とプログレッシヴ・ロックに対するストイックなまでの真摯な姿勢で自らの音楽世界を構築し、その健在ぶりを大きく示しているであろう…ジャパニーズ・プログレッシヴの栄光と誉れと言っても過言では無い“ケンソー ”の長き歩みを振り返ってみたいと思います。
KENSO
(JAPAN 1974~)
清水義央:G, Key
小口健一:Key
佐橋俊彦:Key
松元公良:B
山本治彦:Ds, Per
今回の本編を、故 牧内淳氏の魂と思い出に捧げます…。
ロック大国イギリスを始めイタリア、ヨーロッパ諸国、そして日本を含め全世界規模でプログレッシヴ・ムーヴメントの大きな波が席巻していた…文字通り70年代プログレッシヴ・ロック激動期と言っても過言では無かった1973~74年。
フロイドの『狂気』がメガヒットとなり、イエス、EL&Pの快進撃、クリムゾン、ジェネシスが大衆の心を鷲掴みにし、PFMやフォーカスといった欧州勢がヒットチャートに上り、果ては日本からはコスモス・ファクトリーの『トランシルバニアの古城』、四人囃子の『一触即発』が洋楽一辺倒だったロック少年達をも魅了するといった具合で、兎にも角にも猫も杓子もプログレ一色の様相だったのは言うに及ぶまい。
さながらそれは当時小学生の時分でロックの右も左も分からなかった私にとっては決して想像し得ない位の、今にして思えば夢物語にも等しい憧憬にも似た熱い青春時代が繰り広げられていたのかもしれない(苦笑)。
そんなプログレッシヴ真っ只中の1974年、神奈川県立相模原高校に在学中だった清水義央とその学友達を中心に、県立相模原高校=通称“県相 ”をもじってケンソーは産声をあげた。
幼少の頃からクラシックを学び、中学に入るとビートルズ、ストーンズ、パープル、そして清水氏の音楽人生のバックボーンともいえるツェッペリンの洗礼を受け、ギターの腕を磨きつつ高校入学と同時期にSPACE TRUCKINなるハードロックバンドを結成し、その後は前述の通り(プログレ夜明け前ともいえる)ケンソーへと改名。
文化放送主催のアマチュアバンドコンテストであれよあれよという間にグランプリを獲得し、関東圏に於いてケンソー+清水の名は瞬く間に知られる事となる。
グランプリ獲得時期と前後してイエス、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、PFM、フォーカス…等といった大御所に触れる機会も多くなり、御多聞に漏れず清水氏自身もプログレッシヴ道へと開眼し、ハードロック期のケンソーをリセットする為に一旦解散。
高校卒業→神奈川歯科大への入学と同時期にアマチュアバンドコンテストがきっかけで知り合ったドラマー山本治彦、そして人伝を通じてフルート奏者の矢島史郎、キーボード森下一幸、そしてベーシストに田中政行を迎えて1977年ケンソーはイエス影響下のプログレッシヴ・バンドとして活動を再開する。
歯科大軽音楽部を拠点に地道に音楽活動をしつつも、メンバー間の都合等で活動休止やら集散の繰り返しで清水氏自身も度重なる自問自答やら紆余曲折、試行錯誤を余儀なくされるが、メンバー間の結束が次第に固まると同時に周囲の支持者からの応援と懇意にしている音楽関係者とレコード店からの助言を得て、大学5年生となった1980年、町田市のプログレ専門店PAMからの後押しと全面協力の下、4トラックレコーディングで400枚限定の自主製作ながらも自らのバンド名を冠した念願のデヴュー作が満を持してリリースされる。
録音面から意匠を含めクオリティー的にはまだまだ未熟で素人臭さが残るものの、雷神が描かれた手描きの意匠の如く…日本人の作るプログレなるものを強く意識した志の高さに加え、収録曲の中でも特に「海」「日本の麦唄」「陰影の笛」は初期の名曲・代表曲と謳われ後年のケンソーの骨子・礎となって、未完の大器をも予感させる偉大なる可能性の新芽すら垣間見える好作品として各方面から高い評価を得られるまでに至った。
念願のデヴュー作が高い評価を得る一方でバンド自体は早くも次回作への曲作りと構想に着手するものの、リーダー清水の学業始め臨床実習といった多忙さに加えて、各メンバーそれぞれが大学生や社会人という身分であったが故に諸事情が重なってバンドは一時的な活動休止を余儀なくされる。
厳しいまでの病院実習に忙殺され、様々な人間関係の煩わしさ、度重なるレポート提出といった日常の繰り返しで、清水氏自身ですらも創作活動が出来ないもどかしさと焦燥感に苛まれ、理想と現実の狭間で意気消沈し憔悴しきってしまったのは言うまでもあるまい。
後年清水氏は「大学3年から卒業間近の数年間は自分の人生にとって二度と戻りたくない位の暗黒時代だった」と回顧しているが、そんな心身ともに疲弊しきった日々の中でもほんの僅かな空き時間が出来ると、白衣を着たまま軽音部部室のピアノに向かって若き自身の感情を鍵盤にぶつけるのが関の山であった。
その感情の発露が後の名作『KensoⅡ』に収録される名曲「空に光る」「氷島」「麻酔」、そして何かと誤解を招いている「さよならプログレ」へと繋がるのだから、つくづく苦しい人生どこで幸いするか計り知れないものである。
それはあたかも暗く長い出口の見えないトンネルに差す一条の希望の光をも思わせる…。
長く厳しい実習期間を終え、大学卒業と同時期に歯科医師の国家試験にも合格し、清水の音楽人生にとっても再び明るい光が差す春が訪れた。
勤務医として彼自身の多忙さは相変わらずであったが、大学時代と違い社会人相応に自由な時間を持てるようになったのが何よりも幸いだった。
1982年、前デヴュー作のメンバー山本、矢島と再び合流し、新たに伝説的キーボーダーの牧内淳、そしてベースに松元公良を加えてケンソーは再起動を開始した。
前任のベーシスト田中、そしてヴォーカルパートに音大の知り合い並び某劇団員だった女性をゲストに迎え前作と同様町田PAMの協力で、8トラックレコーディング限定1000枚プレスで同年12月に自主リリースされた2nd『KensoⅡ 』は、前デヴュー作を上回る格段の成長を遂げた名曲多数に及ぶ実質上素晴らしい名作と各方面で絶賛された。
2ndリリースに先駆けて母校の神奈川歯科大そして東京音大の学園祭に出演しその圧倒的なライヴパフォーマンスで聴衆を釘付けにし、更にはジャパニーズ・プログレッシヴの総本山でもある念願だった吉祥寺シルバーエレファントのステージにも立つ機会が多くなり、まさしくケンソーは次第に関東圏プログレッシヴの代表格的存在へと注目される様になった。
余談ながらも…2枚の自主製作盤での実績を携えて都内の大手レコード会社や音楽配給事務所に自ら売り込みを働きかけるものの、当然の如く商業主義と儲け優先しか頭の無い連中にとっては頭ごなしに“プログレなんて…”と相手にされる筈も無く、当時の事を清水自身「ポップな曲を入れろとか売れる様な曲作れとかうるさくて、連中は何か大きな勘違いしているみたいで不愉快だった」と振り返っている。
無論当時にはプログレ専門のキング/ネクサスという有力なレーベルがあったものの、推論ではあるが契約の都合上とか互いの諸事情が重なってたまたまタイミングが合わなかっただけなのかもしれないが…。
2ndの好感触という追い風と余波を肌で感じながらも、清水自身慢心する事無く自己の創作意欲に研鑽し切磋琢磨する日々は続いた。
1983~84年にかけてはバンドの方も大なり小なりの変動もあり、フルートの矢島が歯科医に専念したいという理由でバンドを抜け、入れ替わるかの様に当時音大生だった(後の名匠)佐橋俊彦がキーボードに加わり、現在までに至るツインキーボードスタイルの礎を築く事となる。
そんな佐橋も学業諸々の事情等で一時的にバンドを離れる事となるが、後任にキーボードトリオバンドのピノキオに在籍していた小口健一を迎えた事でバンドは更なる成長期へと突入する。
自らのスタジオ設営そして16チャンネルの録音器材を導入し、大手音楽会社に頼る事無く完全ホームメイドのスタイルを貫きケンソーは第3作目のアルバムに取りかかるものの、録音の途中で牧内が志半ばで病に倒れそのまま帰らぬ人となるという最大の悲劇に見舞われ、コンスタンスに継続していたエレファントでのライヴ活動一切合財を無期限休止し暫し喪に服する事となる。
牧内の喪が明ける頃には佐橋がバンドへ正式に復帰し、清水始め山本、松元、小口、そして佐橋の5人は故人の冥福に報いる為にも…鎮魂の祈りを込めて誓いを新たに霊前に向かって3rdアルバム完成という目標を掲げた。
生前牧内の在籍時に収録済みだった「精神の自由」「Turn To Solution」「胎動」という傑作曲を携え、約一年間近い月日を費やして新曲を収録し完成された3rdのマスターテープは、長年待ち続けたキング/ネクサス側の意向でレーベルが買い取ってリリースするという異例の形で、1985年ケンソーは遂に念願だったメジャーデヴューという目的をも達成させる事となる。
ニュースペーパーの折鶴が印象的な『Kenso 』というバンド名をそのまま冠した3rdは、改めて1stの頃の初心を忘れず原点回帰に立ち帰った意味合いを含め、軽快で且つ重厚なスタンスが反映された意欲に富んだ野心作に仕上がっており、インディーズ時代の総決算+メジャーへの新生が盛り込まれているのが特色といえよう。
極一部の辛口プログレファンからは「あんなものはプログレじゃない!カシオペアもどきのフュージョンだ!」といった否定的な言葉こそあれど、同時期にリリースされたジェラルドの2nd以上の好セールスを記録し、テレビのニュース番組でも一部の曲が二次的に使用されるなど評判は上々であった。
翌86年にはインディーズ時代から3rdまでを総括するという形で2枚組ライヴ『イン・コンサート』がリリースされ、その白熱のライヴパフォーマンスの凄まじさに単なるフュージョンもどきと陰口を叩いていた輩ですらも閉口し納得せざるを得ない力量を存分に見せ付けたのは言うまでもあるまい。
2枚組ライヴ盤をリリース後、例の如くライヴ活動を無期限休止し次回作への準備に取りかかるが、翌87年に長年苦楽を共にしてきた山本治彦と松元公良のリズム隊両名が抜け、山本は併行して活動していたポップス・グループLOOKに専念する事となる。
御存知の通り山本自身も後年は山本はるきちと改名しNHK人気アニメ「おじゃる丸」の音楽を担当し、以降は多方面での作曲やアレンジャーとして多忙な日々を送りつつも、ケンソーとは現在でもなお親交を深めている。
新たなリズム隊として佐橋からの紹介で芸大打楽器科に籍を置いていたドラマーの村石雅行が加入し、その村石からの紹介で新ベーシストに三枝俊治を迎えたケンソーは再び息を吹き返し、翌88年同じキングのプログレレーベルCRIMEから『スパルタ 』をリリース、事実上これが昭和時代最後の作品となった。
当時マーキー誌でのキングの告知欄で“悪いけど僕らはクオリティーの高い作品しか作らない” といった何ともカッコいいキャッチコピーが物議を醸したものの、看板に偽り無しの諺の如く有限実行通りに実践する高度な演奏に聴衆はただ舌を巻く思いだった。
しかし大なり小なり…それが後の1991年バンド史上最高傑作『夢の丘』へと繋がる、まだほんの予兆でしかなかったという事を私含め多くのファンはまだ気付いていなかった。
そして程無くしてケンソーでの自分の役目は全て終えたと言わんばかりに佐橋俊彦が脱退。その後の活躍は既に皆さん御存知の通り、数々のテレビドラマやアニメ、そして円谷プロの平成ウルトラシリーズや東映の平成仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズといった特撮物のスコアを数多く手掛けて今日までに至っている(個人的にはオダギリジョー主演「仮面ライダークウガ」の2枚の音楽集は、実質上佐橋のソロアルバム的な趣が強くて特撮ファンのみならずプログレファンにも推しておきたい)。
90年代に入ると共に時代が昭和から平成に年号が変わり、佐橋に代わる新たな後任として昔からのケンソーファンでもあった若手キーボード奏者の光田健一を迎え、文字通り“W健一キーボード”の布陣で、前作『スパルタ』での熱気が冷めやらぬままのテンションを持続し、1991年バンド結成史上最上級の最高傑作として呼び声が高い名作『夢の丘 』をリリースし、名実共に全世界に向けて日本のケンソーここにあり!と知らしめた金字塔を打ち立てた。
皆がそれぞれに思い描くヨーロッパ大陸への憧憬と浪漫、イマージュが渾然一体と化した時代と世紀をも超越した極上の音楽世界に、聴衆は暫し時が経つのも忘れて酔いしれるのだった。
前後して清水氏自身も開業医との兼任で岡山大学医学部にて医学博士の学位を取得したりと以前にも増して多忙さは極まるものの、メンバー各々が個々の本業の合い間を縫ってはコンスタンスにライヴ活動に勤しみ、92年のライヴ第二弾『Live '92』を挟んで、マーキー/ベルアンティークからも未発ライヴアーカイヴ集が何作かリリースされたりと枚挙に暇が無いが、1999年リリースの『エソプトロン 』までは比較的のんびりとした牛歩的なペースを維持したまま、黙々とバランス良く創作活動に邁進していた。
99年の『エソプトロン』は、ハイテンションMAX級の前最高傑作の『夢の丘』よりかはやや一歩引いた形で、比較的肩の力を抜いてリラックス気味な雰囲気に、改めてロックバンドであるという事を見つめ直すといった回顧録的な趣を持たせた、極端な話清水氏の私小説をも思わせる作風に仕上がっている(ネガフィルム調の意味深な意匠にも注目である)。
収録曲の「個人的希求」そしてラストの「気楽にいこうぜ」なんて最たる表れでもあり、清水自身2000年代に入る前に一度ケンソーをぶっ壊して再度リセットしたいなどと考えていたのではと思えるのは穿った見方であろうか。
…そして21世紀、結成25周年ライヴを皮切りにアメリカはロスで開催されたPROGFEST 2000に参加し、世界各国の並み居る強豪プログレバンドとの競演を経て聴衆を熱狂の渦に巻き込んで、その健在ぶりをアピールした。
2002年、アジアンテイストなエスニックな異国情緒と精神病理世界とが混在した21世紀最初にして問題作となった『天鵞絨症綺譚 』は聴く者を大いに困惑させた。
『夢の丘』の頃から全くかけ離れたと嘆く者もいれば、新たなケンソーの音楽世界が降臨したと言わんばかりに拍手喝采を贈る者と反応は様々であったが、いずれにせよ素晴らしい音楽作品であると同時にこの時期の幾分停滞気味な感だった日本のプログレに一石を投じた意味でもその存在意義は大きいと言えよう。
4年後の2006年、ジプシーの舞踊を思わせる女性のポートレイトが印象的な『うつろいゆくもの 』は、前作『天鵞絨症綺譚』の姉妹編ともいうべき趣を湛えていたものの、清水氏自身が読んでいた川端康成の短編集「掌の小説」に感銘を受けてインスパイアされた内容で、トータル17篇にも及ぶ多種多彩な音楽像を打ち出したケンソーらしさが浮き彫りになった好作品。
ちなみに前作リリース後ドラマーの村石雅行が抜け、難波弘之氏を始め山本恭司氏といった多くのベテラン・ミュージシャンと仕事を組んできた小森啓資に交代している。
そしてバンド結成から実に40周年に当たる2014年にリリースされた『内ナル声ニ回帰セヨ 』にあっては、長年ケンソーを信じて彼等の創作する音楽世界に付いていって本当に幸せだったと思える位、白磁の如き透明感を湛えた俯く女性の表情が美しく神秘的なイメージ通りのプログレ愛に満ち溢れんばかりな…私的な感情剥き出しな言い方で恐縮だが心の奥底から“ケンソー万歳!日本のプログレ万々歳!”と声高に叫びたくなる秀逸な作品であると思えてならない。
同年8月17日に川崎クラブチッタにて新作リリース記念兼バンド結成40周年記念ライヴを開催した彼等ではあるが、暫くはまた休息充電を兼ねて新作の準備期間に入る事と思うが、創り手側である清水氏を始めとするバンドサイド、そして彼等の音楽世界に大きな期待を寄せケンソーを愛して止まない私を含めた聴き手である側も、互いにまだまだ志半ばの夢の旅路の途中であるという事だけは確かであろう…。
早いもので今年で55歳となった私自身、人生を全うするまでこれからも末永く彼等の音楽にとことん付き合って行くであろうし、清水氏…否!清水先生の目指すものを最後まで見届けたい一心であることだけは事実である。
今日までのケンソーと清水先生を支えてきたのはバンドに携わってきた新旧のメンバーのみならず、難波弘之氏、宮武和広氏、作品に携わってきた沢山の協力者と賛同者、そして何よりも聴き手である大勢の皆さんがあってこそだと思います。
心から“ありがとう”の言葉を贈らせて下さい…。
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22,2019
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今週の「一生逸品」は、洋楽とプログレッシヴの方法論を用いながらも日本の風土と宗教観、アイデンティティーを違和感無く見事に融合させ、唯一無比なる音楽と精神世界を遺し来世に飛翔した感をも抱かせる、孤高にして清廉なる求道者の感をも抱かせる、ジャパニーズ・プログレッシヴ史に伝説の一頁を刻みマインドミュージックの祖とも言わしめる“ファーラウト ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
FAR OUT/ Nihonjin(1973)
1.Too Many People
2.Nihonjin
宮下フミオ:Vo, Ac‐G, Shinobue, Harmonica, Moog
左右栄一:G, Hammond Organ, Vo
石川恵:B, El‐Sitar, Vo
アライマナミ:Ds, Wadaiko, Vo
色鮮やかなコバルトブルーの背景に、洗濯ばさみで留められた軍手…今となっては“嗚呼、昭和はますます遠くになりにけり”とでも言わんばかりな時代感をも象徴する(下町の安アパートの物干しにでもぶら下がっていそうな)かの如く、さながらつげ義春の漫画のひとコマにでも出てきそうな如何にもといったあの当時の空気を醸し出した何とも意味ありげで奥深く、聴く者見る者に差異こそあれど多種多様なイマジネーションすらも想起させる、日本のプログレッシヴ・ロック黎明期に於いて名実共にかのフード・ブレインの唯一作と並ぶ異色作にして快作(怪作)の称号に相応しいファーラウト名義の最初で最後の唯一作。
私自身の頭の中で寄せては返す波の様にメビウスの輪にも似た自問自答が繰り返されつつ、毎度の事ながらも誠に恐縮ではあるが…21世紀の今となっては日本のプログレッシヴが世界に誇るなんて極々当たり前の様に認知されている昨今、(勝手な憶測の域で申し訳無いが)前世紀の…特に60年代末期~70年代なんて、日本の音楽→ロック(特にプログレッシヴ)があの当時のブリティッシュ・プログレッシヴ並びユーロピアンロック・ムーヴメントの厚く高くそびえる壁の域に辿り着こう近付こうなんて夢のまた夢、まさに暴挙にも等しい無謀な冒険で世間様から一蹴されるのがオチだったのは最早言うには及ぶまい。
『幻想神秘音楽館』にて何度も取り沙汰されてきた事だが、世界進出を夢見て果敢な挑戦で栄冠を勝ち得たフラワー・トラヴェリン・バンドというほんのひと握りの成功例を除けば、日本ロック黎明期の大半がGS崩れの寄せ集めだのと蔑まれた見方をされ、洋楽絶対偏重主義に凝り固まった者達からは出る幕無いから引っ込んでろと言わんばかりに冷笑嘲笑を浴びせられ、当時の歌謡曲偏重の商業路線な金儲け主義第一のレコード会社やマスコミ・マスメディアからは下の下な格下扱いで冷遇されていたのが正直なところで、そんな狂気じみて馬鹿げた風潮やら偏見を覆そうと、日本のロック黎明期の有名どころで故内田裕也始めエイプリル・フールが洋楽の模倣と英語の歌詞で自らの存在をアピールする一方、エイプリル・フール解散後に細野晴臣が参加したはっぴいえんどが提唱する日本のロックは日本語で謳おうぜといった二系統(二傾倒)に分かれる次第であるが、後年登場の短命バンドのピッグは日本語も英語も両方取り入れて絶妙なバランスを保ち、歌詞やヴォーカルを排したフードブレインは例外ながらも、ラヴ・リブ・ライフ+1、ストロベリー・パス→フライド・エッグは英米に右倣えに追随し英語の歌詞で謳って、後年のジャパニーズ・プログレッシヴへの礎となるべく足掛かりへと繋げていったのが何とも実に感慨深い…。
話がだいぶ横道に逸れてしまったが、肝心要のファーラウトに戻すと…戦後間もない1949年に長野市で生を受けた宮下フミオ(“文夫”ないし“富美夫”と漢字名諸説あるがここではカタカナで統一する)が、1965年グローリーズなるバンドで自身の音楽人生をスタートさせ、4年後の1969年ミュージカル『ヘアー』の日本版での出演を経て、バンド時代既に交流のあった頭脳警察の左右栄一を始め、柳田ヒロ・グループ、タイガース、スパイダース等で活躍し経験豊富でもあった石川恵、前田富雄と合流、宮下自らがかねてから理想とする音楽を形にすべく翌1970年のプログレッシヴ元年にファーラウトが結成される。
ちなみにバンドネーミングの意は、様々な文献や各方面のウェブサイトから拝読した限り、60年代後期に世界を席巻したフラワームーヴメント、ヒッピーカルチャー&サイケデリックな方面で使われていたスラングな隠語で“最高! ”或いは“絶頂 ”“ぶっ飛んだ ”を表しているそうな(苦笑)。
バンド結成後程無くして、日本国内の様々なロックイヴェントや学園祭に出演しライヴ活動に奔走する一方、デヴュー作に向けたスコアを書き溜め腕を磨きつつ、デヴューに向けた機会とタイミングを窺っていた彼等ではあったが、そんなファーラウト以外でもメンバー各々は精力的に活動し、72年宮下は旧交のあった元ランチャーズの喜多嶋修とのコラボでフミオ&オサム名義で、ワーナー/アトランティックよりシングル「百姓は楽し」とアルバム『新中国』をリリース。
宮下自身この頃から仏教にも通ずる精神世界へと開眼傾倒し、ファーラウト唯一作のコンセプトから後々のファー・イースト・ファミリーバンド、SFを経てマインドミュージックの第一人者となるのは説明不要であろう。
一方の左右栄一と石川恵の両名は、以前より親交のあった寺山修司氏主宰の天井桟敷の舞台や映画に音楽として参加し、ファーラウトはデヴューに先駆けて実質上の熟成と準備期間に入っていたといっても差し支えはあるまい。
が、宮下始め左右、石川がアーティスティックで求道的な道を志す一方で、ストレートなロックを目指していたドラマーの前田との間に音楽的嗜好の隔たりが生じ、結果的に前田はデヴューを待たずしてファーラウトを脱退。
1972年日本コロンビアと契約を交わした彼等は前ドラマー前田の後任として旧知の間柄でもあったアライマナミを迎えレコーディングを開始。
デヴューの門出に伴い、更なるゲストサポートに喜多嶋修が琵琶を担当し、フラワー・トラヴェリン・バンドからジョー山中をヴォーカルに迎えた布陣で、翌1973年3月に待望のデヴュー作『Nihonjin(日本人) 』をリリース。
彼等のデヴュー作がリリースされた1973年はまさしくプログレッシヴ・ロック全盛の第一次黄金時代…フロイドの『狂気』空前のメガヒットを始め、イエス『海洋地形学の物語』、EL&P『恐怖の頭脳改革』といった大作主義プログレッシヴがチャートを賑わせ、果てはPFMがワールドワイドにデヴュー飾り、フォーカスがラジオでひっきりなしにオンエアされていたという、思い起こしただけでも夢の様な世の真っ只中に於いて、日本からはファーラウトそしてコスモス・ファクトリーが世に躍り出て、四人囃子が東宝映画『二十歳の原点』でサントラデヴューを飾ったりと、プログレッシヴ全盛の世の春に呼応するかの如く、まさしくジャパニーズ・プログレッシヴ・ファーストインパクトが世界に一歩近付いた証となったのは言うまでもあるまい。
前出でも触れた通り鮮やかなコバルトブルーを基調に洗濯ばさみに挟まれた軍手という、どこかしらユーモラスで一風変った現代アート風な意匠ながらも、不思議な緊迫感をも湛えた予想不可能な音楽世界に、彼等の無言のメッセージとおぼしき瞑想的な意味合いを内包した奥深い余韻すら漂わせた風体と佇まいに当時のリスナー諸氏は思わず身震いした事であろう。
本作品正式なバンドスタイルこそ銘打っているが、裏を返せば宮下自身のソロプロジェクト的な見方捉え方も散見出来て(プロデュースも宮下自身が担当している)、ファーラウト結成以前に宮下自身がヒッピーカルチャーから会得し提唱してきた“精神と魂の解放 ”或いは仏法の教えでもある“俗世からの解脱 ”をモチーフとした、(良い意味で)紛れも無くマインド・ミュージックの元祖にして端緒と見る向きも否めない。
気になる内容も然る事ながら、如何にプログレッシヴ全盛期であったにせよ…よもやイエスの『海洋地形学』ばりに日本のプログレッシヴで旧アナログLP盤時代のAB両面とも丸々1曲ずつというのも、快挙というべきか挑戦めいたアピール度の高みには、21世紀の今でも改めて溜飲の下がる思いですらある。
心臓の鼓動…或いは息づく大地の命の鳴動を思わせる様な残響と風の音に導かれ、38分近くに及ぶファーラウトの精神世界への旅(トリップ)は幕を開ける。
厳粛で静謐な余韻を纏ったアコギが何とも味わい深くも奥深い、日本音楽独特のわびさびの心を内包しつつも、当時の四畳半フォークとは一線を画した、所謂洋楽演っても心はニッポンを如実に表した歌メロが深く心に染み渡る。
エレクトリックギター&シタールによる見果てぬ悠久の無限世界を時に切なく時に力強く奏でる様は、あたかも『おせっかい』の頃のフロイドやオジー在籍期のサバスの面影すら垣間見えて、ヘヴィで不穏な緊迫感漂うリフが刻まれるパートに移行する頃には、もうすっかり聴く者の意識と魂は肉体を遊離し彼等の構築する音世界に誘われ無我と悟りの境地にも似た、光り輝く眩い神界への解脱に誰しもが目覚める事だろう。
続く第二章ともいうべきアルバムタイトル曲でもある「Nihonjin(日本人)」は、雅楽を思わせる厳かな銅鑼に心と魂は鷲掴みにされ、涅槃ないし極楽浄土の遥か彼方から鳴り響いているかの如きギターとベース、そしてシタールに、幽玄な趣と佇まい…それはあたかも古事記、日本書紀、魏志倭人伝をも彷彿とさせる古代の詩情と浪漫、果ては日処国の神話の世界の入り口に決して現世の者が立ち入ってはならない、そんな神仏の世界をも覗き見る様な禁忌すら覚えてしまう。
ドラムとも和太鼓ともつかない打楽器の古の音色にいつしか聴く者の脳裏に日本人古来の魂と血が目覚め、フロイドばりのフォーキーでたおやかなメロディーラインとヴォーカルに魂は穏やかな安らぎに満ち溢れ、ロックにアレンジされた読経の唱和に改めて日本古来からの仏教の教えでもある諸行無常をも禁じ得ない。
終盤に向けてのハモンドと篠笛と和太鼓による雅楽な佇まいが胸を打ち、筆舌し難い感動と余韻を伴って森羅万象と精神世界への旅はこうして静かに終わりを告げる…。
ファーラウトのデヴュー作は国内はおろか海外でも話題を呼び、上々の評判を伴って幸先の良いスタートを切った次第であるが、いつしか宮下自身の心の中で更なる高みを目指したい渇望と精神世界への希求が膨らみ始め、翌1974年あの日本のロック史上伝説にして最大最強のイヴェントとして名高い福島県郡山市開成山公園にて開催されたワン・ステップ・ロック・フェスティバル での出演を最後にファーラウトの解体を決意。
こうしてメンバー各々がファーラウトでの経験を糧にそれぞれが目指すべく音楽への道を歩み出し、宮下自身も程無くしてかねてから交流のあった伊藤明(伊藤祥)、高橋正明(喜多郎)、福島博人、高崎静夫、深草彰(後に観世音を結成)と合流し、ファーラウトでの音楽性を更に発展させた形で同74年新バンドファー・イースト・ファミリー・バンド(通称FEFB) を結成。
その後の活躍は既に御存知の通り、1975年にデヴューリリースした『地球空洞説』が国内外にて高い評価を得たのを皮切りに、翌76年にはジャーマン・ロック界の大御所クラウス・シュルツをプロデューサーに迎えて2nd『多元宇宙の旅』を発表し、これからという矢先に宮下と福島の両名を残し4名もの脱退という危機的状況の中、FEFBの1stと2ndからのチョイスを含めファーラウト時代の曲のリメイクと未発表曲をカップリングしたベストアルバム『NIPPONJIN』をリリース。
翌1977年新たなドラマーに原田裕臣を迎え、FEFBを抜けた深草をゲストに事実上のラストアルバム『天空人』をリリースしFEFBは4年近い活動に終止符を打ち、バンド解散後宮下は渡米永住。
その後自身の腰の持病が悪化し東洋医学との出会いを契機に仏教を始めとする東洋哲学に師事し、シンセサイザーを用いたミュージックセラピーの研究で、更なる精神世界への傾倒とマインド&ヒーリングミュージックの啓発と推進に尽力。
1980年にはファーラウト並びFEFBの夢よ今一度とばかりに数名の有志と共にワンオフながらもプロジェクトバンドでもあるSF を組んで、限定500本のカセット作品『Process』をリリース(ちなみに本作品は1998年にマーキー/ベル・アンティークより装丁をリニューアルしてCDリイシュー化されている)。
数年後の帰国を機に、生まれ故郷の長野に音楽製作スタジオ“琵琶”を兼ねた居を構えて日本各地の仏閣や寺院でのヒーリングコンサート並び奉納演奏に多忙を極める一方、映画音楽等でも手腕を発揮してその健在ぶりを力強く証明するものの、2003年2月6日志し半ばにして肺癌との闘病の末帰らぬ人となってしまう。
享年54歳、逝くにはまだまだ若く早過ぎるのが何とも悔やまれてならない…。
最後の締め括りになるが、宮下氏亡き後…彼の歩んだ足跡と築き上げた功績は、FEFB時代に苦楽を共にした伊藤祥、喜多郎、そして深草彰によって脈々としっかり受け継がれ、日本の風土と東洋の精神が育んだマインドミュージックとして昇華され、ヒーリングの分野に於いて今もなお世代と年齢を問わずに愛され続け、時代と世紀を越えて(楽器等のテクノロジー、ソフトとハード面こそ変れど)、人々の心に平穏と癒し、安らぎと至福を与え続け今日までに至っている次第である。
そこには紛れもなく、混迷と不穏に満ちた21世紀の世界が抱える様々なる病巣、我が国の政治不信始め一部の醜いまでの覇権争いや己の欲望にまみれた不浄にして不条理なる事象とは全く一切の無縁なる理想世界、まさしく現世から解脱し魂が解放された極楽浄土の神々しくも眩い光明にも似通った“慈愛”だけが存在していると言っても過言ではあるまい。
いつの日か我々もその精神の高みを目指して、悟りの境地なる無限の世界へと旅立とうではないか…。
今は亡き宮下富美夫氏の御霊に心から哀悼の意を表します。
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13,2020
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2020年新春第2弾の「夢幻の楽師達」を飾るは、劇的にして浪漫と美意識を備えた独自の音楽的スタイルを確立させ日本のプログレッシヴ・ロック史にジャパニーズ・プログレッシヴハードという新たな一頁を残し、激動の80年代ロック・シーンを駆け抜け、解散後も尚絶大にして根強い支持を得ている…ロマネスクの旗手にして最早“伝説”の域に達したと言っても過言ではない“ノヴェラ ”に今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
NOVELA
(JAPAN 1980~1986)
五十嵐久勝:Vo
平山照継:G, Vo
山根基嗣:G, Vo
高橋良郎:B, Vo
秋田鋭次郎:Ds, Per
永川敏郎:Key
私にとってジャパニーズ・プログレッシヴとの邂逅は紛れも無くノヴェラそのものであった。
70年代の日本のプログレッシヴのパイオニアがファー・イースト・ファミリー・バンド、四人囃子、コスモス・ファクトリーそして後年の新月を境とすれば、80年代は紛れも無くノヴェラであったと言っても過言ではあるまい。
70年代末期の関西は兵庫・神戸にて2つのバンドが産声を上げた。
ひとつは、ピーター・ハミル、ルネッサンス、エニド、クイーン、デヴィッド・ボウイ、イエス、UK等に影響を受けた平山照継、永川敏郎、そして当時の関西圏ではその名を轟かせていたアンジーこと五十嵐久勝を擁していたプログレッシヴ・ハード系の“シェラザード ”。
そして、もうひとつは高橋良郎(現ヨシロウ)、山根基嗣に秋田鋭次郎を擁していたキッスばりのド派手なメイクとライヴ・パフォーマンスで人気を誇っていたHM/HR系の“山水館 ”。
1979年という激動の70年代最後の年、日本のロック史において大きく時代が動き出そうとしていた。
かの…たかみひろし(現、高見博史)氏がキング・レコードを拠点に日本発の世界に向けた本格的ロック・レーベル“ネクサス(NEXUS) ”の設立と同時に、先のシェラザードがロッキンf主催の第一回アマチュア・バンド・コンテストにて優勝を飾った事を契機に、前後して山水館と合体したシェラザードはノヴェラと改名し、見事堂々とネクサスからの第1号バンドとして世に出る事と相成った次第である。
ノヴェラは、宣伝媒体においてミュージック・ライフやフールズメイト、キングのユーロ・ロックコレクション+洋楽新譜告知欄にて…まさに社を上げて大々的に告知され、関西圏においてはその鮮烈で且つ圧倒的なライヴ・パフォーマンスに加え、音楽性のみならず昨今のヴィジュアル系の走りともいうべき(良くも悪くも)アイドル的なルックスとファッションで人気を博していたのだが、デヴュー・アルバムに先駆け新宿ロフトでの東京初ライヴでは、キャパを遥かに上回る観客動員記録を樹立し、その人気はデヴュー作『魅惑劇 』がリリースされるや否や全国区へと拡大しつつあった。
余談なれど…『魅惑劇』の当時の告知欄にて、ノヴェラのライヴフォト中での永川氏は何となくリック・ウェイクマンを彷彿させる様な衣裳だったと今でも記憶している。
個人的な主観で誠に恐縮だが…片や五十嵐、平山氏、その他のメンツに至っては当時のライヴ・ファッションから、おおよそとてもプログレを演っているとは思えない…在り得ない…程遠い…そんな最悪な第一印象だった…改めてホントにゴメンナサイ!!!(苦笑)。
最悪な第一印象に拍車を掛けるかの如く、私自身…あの当時、最初見た目どことなくアイドル歌謡曲ロック・バンドみたく、初めて接したノヴェラの音というのも失礼ながらもテレビの特撮番組の主題歌(円谷プロ製作、テレビ東京で放送していた「ぼくら野球探偵団!」)“マジカル・アクション!
”“アイム・ダンディ”だったのが不運であった。
今でも鮮明に覚えているが、「ぼくら…」にノヴェラがゲスト出演していたのも今となっては懐か
しくも貴重でレアな…早い話がロックバンドによく有りがちな「まあ…こんな時代もありました」みたいで何とも微笑ましくも感慨深い。
話が横道に逸れたが…ノヴェラの音楽との最初の出会いが出会いだっただけに、ますます彼等との距離が遠退いたのは言うまでもなかった(苦笑)。
それでも不思議なことに…各音楽誌の新譜告知欄に時折目を通したり、行き付けのレコード店にて彼等の作品を結構と気にかけている、そんな当時の自分がそこにいたのは紛れも無い事実である。
そもそも自分自身…「ああ…このバンド(プログレに限るが)絶対自分の好みではないな」と思うのにかぎって、後からものすごくハマってのめり込んでいってしまうこんなお決まりのパターンを繰り返しながら今日に至っているのだから全く以って世話は無い。
「ぼくら…」を例外とすれば『魅惑劇』そして翌年の前作の延長線上ともいうべき佳作の2枚目『イン・ザ・ナイト 』、12インチ・シングルの『青の肖像 』(内田善美女史の美しいイラストが素晴らしい!)とも、本当に日本のロック作品にしてはジャケット・ワークの美しさ、センスの良さ、素晴らしさでは他の日本のバンドの作品とは一線を画した、一歩抜きん出た個性・煌きを感じずにいられなかった。
1981年、ノヴェラに対しそんなこんなを考えてた矢先にリリースされたのが、3rdアルバム『パラダイス・ロスト 』であった。
本作品にあっては、構築と破壊が隣り合ったようなロマネスク的雰囲気のジャケット・ワークの素晴らしさが音世界と見事に融合且つ相乗効果が作用し各音楽誌でも賞賛されたこともあって、自分自身も今度という今度ばかりは非常に内容が気になり興味を抱かずにはいられなかった。
ただ…あの当時は未だに「ぼくら…」のイメージが付き纏っていたのも正直なところであった。
が、もはや思い立ったら吉日とばかり当たり外れを抜きにとにかく買って聴くしかないと手に入れたのが、彼等との運命的・劇的な最初の出会いでもあった。
ジャパニーズ・プログレの先輩でもある四人囃子の森園勝敏をプロデューサーに迎えた本作品は、リーダー平山自身がノヴェラの全作品中最も気に入っている作品と言うだけあって、今までの自分自身が抱いていた「日本のバンドなんて…」といった誤解と偏見を完全に払拭するだけの世界観が見事に繰り広げられた珠玉の名作とも言える。
しかし皮肉なことに…聴き手側の思惑とは裏腹にバンド自体は、最初の危機ともいうべき平山、五十嵐、永川のシェラザード出身組と、高橋、山根、秋田の山水館出身組との二派に再び分裂という危なげな脆さが表面化していた…まさにバランスぎりぎりの緊張感漂う作品であったのも正直なところである。
分裂の兆候は恐らく『青の肖像』辺りからだと思うが、今にして思えば平山作の"メタマティック・レディ・ダンス"であれだけノヴェラ流ヘヴィメタルな側面を垣間見たのに"何故…?"と首を傾げたくもなる。
山水館組メンバーの意向を多少は(妥協ではないと思うが)汲んだからだろうか?決してあの当時、メンバー間は水と油の関係ではなかったものの、やはり互い同士がどこかしら遠慮していた部分があったのかもしれない、あくまで推測の域ではあるが…。
危ういバランスと緊張感の中『パラダイス・ロスト』にてバンド自体は音楽性を高めて、その後はリーダーの平山色をますます強くしていったと言っても過言ではあるまい。
予想外の分裂劇から1年間の活動休止期間を経て1983年の2月に新たなベーシストに笹井りゅうじ、ドラマーに西田竜一を迎え5人編成となったノヴェラ通算4作目『聖域 』はまさに待ち焦がれたとも言えるべき待望のジャパニーズ・プログレッシヴ史に燦然と輝く最高傑作だった。
セールスも評判も上々、当時のロッキンfやフールズメイト、マーキー誌でもこぞって大絶賛するが故に完成度の高い、イエスとジェネシスの血筋を見事に受け継いだ本格派のシンフォニック・プログレッシヴで“欧州浪漫”の唯一無比の世界がそこにあったのは言うに及ぶまい。
…であったが故に、『聖域』という大偉業を成し遂げた後、何でこの時点で漫画のイメージアルバムを手掛けなければならなかったのだろうか。
「最終戦争伝説」(第2弾も含めて)…これこそがノヴェラというバンドにとって唯一の方向性を見誤ったであろう、余計な遠回りに等しい失敗作だったと思えてならない(原作漫画含めてアルバムが好きな方々には申し訳ないが…)。
同じキング・レコード内部からの依頼要請とはいえ洋楽セクションのネクサスに対し、アニメのサントラや漫画のイメージアルバムを手掛けるスターチャイルドでは、月とスッポン…水と油のようなもの。
平山のインタヴューから知らされた時は「えっ!何で!?」という疑問を抱かざるを得なかったのが正直なところで、最低でも「最終…」の1作目に関してはアルバム・ジャケットにノヴェラの名は入れるべきではなかったと思うし、バンド名義の作品にすべきではなかったと思う。
当時どんなにノヴェラにのめり込んでいたとはいえ…自分自身さすがに「最終…」だけは手を出したくはなかったのが正直なところである。
後日、アニメや漫画が好きな友人が買ったということで聴きに行き、確かに2曲ほど良い曲はあったが、あとは殆ど覚えていない…ネクサスからの一連の作品と比較しても印象稀薄というのが率直な感想だった。
後年人伝に聞いた話だが…平山曰く「最終…」はバンドとしてやるべき仕事ではなかったし、余り乗り気ではなかったとのことである。
良い方に解釈すれば、新たなファン層の開拓=所謂少女漫画のファンをも更に獲得したかったみたいだが、悲しくも皮肉な話…やはり漫画のファンは漫画のファンでしかなかったのが現実である。
第2弾をリリースしたのはあくまで第1弾が好評だったからという理由だけでしかなかった。
さすが第2弾にあっては平山以外メンバーの殆どが間接的に関与するだけに止まった(ジャケットにもノヴェラの名前はクレジットされてなかった)。
前述で『聖域』という大偉業を成し遂げたと触れたが、もしもあの時点で「最終…」の仕事をきっぱりと断っていたら、あの5人のメンバーで『聖域』と並ぶ最高傑作がもう1枚出来ただろうに…そんなことを現在でも思い起こしては只々悔やまれるだけである。
「最終…」に余計な時間と才能を費やす位なら、(ライヴ・アルバムやソロ作品を出す前に…)もう1枚ネクサスで作品を手掛けて欲しかったと思うのは私だけだろうか?それは単に欲張りな我が儘なのだろうか?
当時文通していたプログレ絡みでノヴェラのファンだった東京の女友達の口からも「最終…」に関しては完全に否定的であった事を今でも記憶している。
そんなこんなで83年末に、ネクサスから久々にリリースされたピクチャー・ミニアルバム『シークレット・ラヴ 』は「最終…」での失地回復、鬱憤を晴らすかの如くポップな作風ながらも気迫と気合いの篭った演奏は、ファンを安心させるかの様な会心の出来であったのが何よりも嬉しかった事を今でも記憶している。
新曲2曲は流石に少なめではあったものの廃盤シングル扱いだった“ジェラシー”と未発表曲の“怒りの矢を放て”が収録されたのはファンにとって最高の贈り物であった。
先の東京の女友達も「最終…」では落胆したが、『シークレット…』を聴いてホッとひと安心したと語っていた事を今でも鮮明に覚えている。
平山のファンタジック・ワールドの序章とでもいうべき『ノイの城 』、永川のソロ・バンド『ジェラルド 』といったプロセスを経て遂に第1期~2期の集大成とも言える2枚組ライヴ・アルバム『フロム・ザ・ミスティックワールド 』はノヴェラのファンで本当に良かったと納得の行く内容で且つ、私を含めファン誰しもが夢見心地を思い描く会心の出来栄えであった。
イエスの『イエス・ソングス』、カンサスの『偉大なる聴衆へ』、ラッシュの『神話大全』…等と堂々と肩を並べる位のプログレ系ライヴ・アルバム不朽の名作といっても過言ではないと思う。
しかし…ロック業界不変の諺“ライヴ・アルバム後のバンドはサウンド・スタイルが大きく変ったり、バンド内部に不和が生じる ”の通り、まさしくノヴェラとて例外ではなかった。
メインヴォーカリストの五十嵐、そしてジェラルドでの活動が好評だった永川の両名脱退のニュースは、山水館組の脱退そして「最終…」の時以上に衝撃的且つショックですらあった。
個人的に五十嵐久勝=アンジーさんはジョン・アンダーソン、ピーター・ゲイヴリエル、イタリアはバンコのジャコモおじさんと並んで好きなヴォーカリストだっただけに、尚更ショックだった…。
多分…大多数のノヴェラのファンはこの時点でバンドは終ってしまったものと確信していたに違いない。
個人的にもイエスやジェネシスの例だったらまだしも、この日本国内でアンジークラスの新たなヴォーカリストなんて絶対にいないと思っていたのも事実である(申し訳ないが、今でも絶対に無理だと思う!!)。
脱退当初、ロッキンfでのインタヴューで五十嵐が「僕とトシが抜ける事でテルの音楽性も新しく変わっていってほしいんです」と答えていたが、余計な詮索みたいで恐縮だが深読みすると、やはり「最終…」での一件が尾を引いていたのではと思うのだが…。
五十嵐と永川の脱退後、第3期ノヴェラのスタートから程無くして、平山はソロ第2弾『シンフォニア 』(後に自身のプロジェクト・バンド名にもなるが)をリリースするが、ラストの収録曲“イノセンス”はもしかしたらファンタジーを追求してきた今までのノヴェラへの訣別という意味合いが込められたラヴ・ソングだったのかもしれない。
もしも永川のみの脱退だけであれば、『ノイの城』にも参加していた仙波基(後にペイル・アキュート・ムーンを結成)を迎えていれば解決出来たものの、それでは以前と何ら変わり映えがしないではないか…当時は平山自身とて相当悩んだに違いない。
自問自答の末、平山は安易な解決策よりも新しい血を導入して、たとえファンから非難されようともバンドを前進させるという茨のような困難な道を選んだ次第である。
個人的に言わせてもらえれば平山の当時の思い切った決断は現在でも大いに評価出来ると思う。
宮本敦、岡本優史を加えたノヴェラが残した『ブレイン・オブ・バランス 』と『ワーズ 』の2枚は当時は賛否両論を巻き起こしたものの、今だったら難なく聴ける秀作だと思う。
ただ…残念な事に、バンド的にはクオリティーを更に高めたとしてもファンの側が意識と認識を改めなければ失敗作にもなりかねない…そんな危うさをも秘めていた作品であるのも事実(「最終…」よりかは完成度は遥かに高いが)。
新メンバーを迎えてのレコーディング時に平山氏が「今度のノヴェラはモダンで都会的な作風に仕上がってます。今のノヴェラは以前のノヴェラとは全く違う新バンドなんです。『ロンリー・ハート』のイエスがそうであるように」と答えていたが、その言葉は良くも悪くも当時のファンの心理をも迷わせていた事と思う。
結局…ファンの側はノヴェラの新たな挑戦を“否”とし、多くのファンがノヴェラから離れていってしまったのは言うまでもなかった。
バンドの新たな挑戦がファンから拒絶され、結果としてノヴェラは1986年末に解散(自然消滅)してしまい、平山はその後はスローペースながらも、奥方の徳久恵美をヴォーカリストに据えてテルズ・シンフォニアへと活動を移行していく訳だが、個人的には『エッグ・ザ・ユニバース 』『ヒューマンレース・パーティー 』…とネクサスからリリースされたこの2作品は、あの第2期ノヴェラの『聖域』に次ぐ最高作であると今でもその気持ちに変わりは無い。
ノヴェラ解散後のメンバー各々の活動はもう既に御周知の通り、平山は自らのシンフォニック・バンドテルズ・シンフォニア へと活路を見い出し、永川はアースシェイカーのサポートメンバーと併行しジェラルド を率いて国内外問わず活躍の幅を広げ、五十嵐は自らのソロ活動並び難波弘之氏と結成したヌオヴォ・イミグラート で自らの音楽世界観を展開するも、1992年平山とかつての盟友大久保寿太郎の一念発起でノヴェラのかつての前身バンドだったシェラザード 再結成に五十嵐と永川が呼応し(ドラマーには元ページェントの引頭英明が1stのみ参加し、2nd『All For One 』以降から現在までは元スターレスの堀江睦男が担当)、2011年ノヴェラ時代のアンソロジー的な趣=シェラザード時代に書き下ろした曲の再演ともいえる『Songs for Scheherazade 』まで順調に活動を継続するも、病に倒れた平山の長期活動休止でシェラザード自体も活動不能に陥り長きに亘って沈黙を守り続けていたが、平山が不屈の精神と気力で漸く復帰を遂げると同時期2017年の4作目『Once More 』で不死鳥の如く甦り今日までに至っている。
現時点で時折思い出したかの様に、五十嵐と永川、そして第1期時代の高橋ヨシロウ、秋田鋭次郎、そして山根基嗣の5人で復活ノヴェラ名義としてステージ上で元気な姿を見せてはいるが、肝心要の平山自身はノヴェラ時代にけじめを着けているというべきなのか…表立ってノヴェラ名義での活動に顔を出す事無く、自らが前進する為に敢えて過去を振り返らず訣別したと取る向きが正しいのだろうか、今はただひたすらシェラザードのみの活動に専念し自己進化(自己深化)の歩みを止める事無く邁進している。
平山照継…彼自身夢織人でありながらも、努力型で勤勉なアーティストであるが故、今もなお自問自答を繰り返しながら自らの音楽人生を謳歌或いは模索しているに違いあるまい。
それは寡黙である彼自身が黙して語る事の無い…全ては神のみぞ平山のみぞ知るといったところなのかもしれない。
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16,2020
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今週の「一生逸品」は先日のノヴェラと並ぶ秀逸なる存在にして、日本のプログレッシヴ史に於いて同時期の新月と共に70年代終わりから80年代への橋渡し役を担ったと言っても過言では無い…ノヴェラ登場以前より欧州浪漫を謳い大人の為の童話にも似た夢見心地なリリシズムとファンタジーを紡ぎ続け、21世紀に復活を遂げ今もなお聴衆の心を掴み魅了する夢織人“ムーンダンサー ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。
MOONDANCER/ Moondancer(1979)
1.鏡の中の少女/2.ダディ・マイケルの犯罪/3.銀色の波/
4.夢みる子供たち/5.アラベスク/
6.Fly Up ! 今/7.明日への行進/8.薔薇心中/
9.哀しみのキャンドル
Part 1:シェレの妖精/Part 2:クリスマス・イブの夜/Part 3:哀しみのキャンドル
厚見麗:Key, Vo
沢村拓:G, Vo
下田展久:B, Vo
佐藤芳樹:Ds, Per
かつて日本国内を席巻し栄華を極めたGSブームも60年代後期に引き潮の如く終焉を迎え、欧米からの新たな時代のロックの到来と共に右に倣えとばかり、GSから脱却した70年代初頭の俗に言うニュー・ロックへと変遷を遂げたのは周知の事であろう。
今もなお根強い人気を誇るジャックス始めフラワー・トラヴェリン・バンド、エイプリル・フール、ファーラウト、フード・ブレインそしてピッグといったサイケ、ヘヴィ・ロック、プログレッシヴといった様々な要素を内包した文字通り日本ロックの曙を告げるであろう先鋭的な逸材を輩出した70年代初頭から、プログレッシヴ・ムーヴメントに呼応するかの様にフライド・エッグ、コスモス・ファクトリー、四人囃子、ファー・イースト・ファミリーバンド等が誕生し、その後は歌謡曲やらフォーク=ニューミュージックの波に翻弄され、結局のところ日本のロック(特にプログレッシヴ)はどっち付かずな宙に浮いたままの状態で試行錯誤と紆余曲折を経て70年代後期を迎えつつあったのが正直なところであろう(苦笑)。
そんなアイドル歌手や軽快なポップスばかりがもてはやされていたであろう日本の芸能界…音楽業界…マスコミ…芸能・音楽事務所、その他諸々といった様々なしがらみやら矛盾に拮抗し、自らの頑なな信念と情熱を武器に対峙し闘いを挑んでいった日本のプログレッシヴも70年代後期ともなると大きな転換期を迎え、欧米のシーンと真っ向から勝負するべく、より以上に自らのアイデンティティーを携えた次世代が誕生したのもちょうどこの頃である。
難波弘之氏の台頭を皮切りにスペース・サーカス、プリズム、新月、そして今回本編の主人公でもあるムーンダンサーがデヴューを飾った1979年。
それはまさに80年代手前に差しかかっていた新たな時代への橋渡しとも言える軌跡の始まりでもあった。
当時まだ弱冠21歳という若さながらも将来が嘱望されていた厚見麗(現、厚見玲衣)を筆頭に、沢村拓、下田展久、そして佐藤芳樹という4人編成の布陣で結成された、後のムーンダンサーの母体とも言えるサイレンなるバンドで幕を開ける事となる。
厚見自身ビートルズ始めツェッペリン、イエス、クイーン、スパークスといったブリティッシュ・ロックの御大から多大な影響を受けており、結成当初からプログレッシヴ・ロックオンリーというよりも、ブリティッシュ・ロック本来の持ち味をベースにキャッチーなポップさが融合した、当初から彼の音楽嗜好が反映されたややアイドル的なアピール性をも打ち出していたとのこと。
大昔にロッキンf誌上にて厚見氏と難波弘之氏、そして永川敏郎氏との対談にて、厚見氏の思い出話で「当時僕は西城秀樹と同じ事務所に所属してて、秀樹さんの『YMCA』がメガヒットを飛ばして事務所にも当然莫大な収益が入ってきたんだけど、節税対策として事務所から“厚見、お前欲しい
楽器あるか?”と言われて、即答でハモンドC3、メロトロン、ミニムーグ、ソリーナが欲しいですって言ったら数日後には自分の許に届けられたからそりゃあ驚きだったよ… 」と語っており、まさに新人バンドとしては異例の待遇にして幸先の良い恵まれた音楽環境でスタートを切ったと言っても過言ではあるまい。
サイレンから程無くしてムーンダンサーに改名後、数々の音楽イヴェントやらロックフェス、ライヴ活動、テレビやラジオの音楽番組に出演していたと思われるが、残念ながらデヴュー当時のライヴフォトやら音楽誌等のメディア媒体での告知・インタヴューが極めて少なく、加えて私自身の乏しい知識で現時点で把握している情報・資料もここまでという、我ながら何とも頼りない文章ではあるがどうか御容赦願いたい。
様々な電波・紙媒体での登場、音楽番組への出演と併行しつつ度重なるリハーサルとレコーディングを経て、彼等は当時ソニーミュージック傘下の新興レーベルALFAから1979年3月にバンド名をそのまま冠したデヴューアルバムとシングル『アラベスク/鏡の中の少女』をリリース。
個人的な見解で恐縮だが、何と言ってもミュシャの絵画を思わせるアールデコ調な意匠の美しいジャケットは、後年のノヴェラの『魅惑劇』『聖域』、アイン・ソフの『妖精の森』と並ぶジャパニーズ・プログレッシヴ史上1、2を争う素晴らしい出来栄えではなかろうか…。
瑞々しくも美しいピアノの調べに導かれる流麗なプログレハード・ポップ全開のオープニングから大島弓子風な少女漫画チックで夢見心地なイマジネーションが想起出来るだろう。
アイドルロックばりなこの手の歌詞や音楽が苦手な向きには理解し難いかもしれないが、かのノヴェラがデヴューする一年前からもう既に先駆けともいえるプログレ・ハードの礎が関東プログレシーンに存在していたという事に溜飲の下がる思いですらある。
中間部でイタリアン・ロックを思わせるモーグの使い方が、流石プログレ・ファンのツボを押さえていると言っても過言ではあるまい。
ギタリストの沢村のペンによる男と女の哀しみに満ちた愛憎劇を描いた2曲目は、さながら初期ジェネシスのシアトリカルなシチュエーションをクイーン風に表現したと言ったら当たらずも遠からずといったところだろうか。
ストリング・セクションをバックに配したアコギとエレクトリックギターとのバランス対比が素晴らしい3曲目は個人的に一番好きなナンバーで、淡く切ない初恋にも似た少女的なリリシズムと感傷を湛えた、イタリアのカンタウトーレにも相通ずるものがある愛らしさと優しさに満ち溢れた佳曲と言えるだろう。
音楽ライター立川直樹氏のペンによる4曲目はややアメリカン・ロック調のイントロながらも、ノヴェラの『パラダイス・ロスト』を連想させるロマネスクな物語性を孕んだプログレ・ハードナンバーが聴き処。
今やムーンダンサーの代表曲と言っても異論の無い大曲の5曲目は、まるでクリムゾンの「エピタフ」が壮麗で仄明るい希望と慈愛に満ちた物語に変わったかの如き、ニュー・トロルスの『コンチェルト・グロッソ』ばりの怒涛で劇的なストリング・セクションが聴く者の心を打つ、日本のプログレ史上燦然と輝く名曲中の名曲であろう。
嬉しい事に、そのシングルカットされたヴァージョンの「アラベスク」が唯一映像で見られるフジテレビの某歌謡番組(多分『夜のヒットスタジオ』だろう)の動画があるので、こちらも是非御覧になって頂きたい。
6曲目からラスト9曲目までの(アナログLP盤時代のB面に当たる)流れが特に素晴らしくて、6曲目のプログレッシヴなマインドとリリシズムが疾走するキーボードワークと、聴く者の心の琴線に触れる様な曲作りの上手さに於いて、ここもで来るともはやアイドルロックバンドといった概念やら偏見なんぞ知らず知らずの内に消え失せている事だろう。
軽快なマーチングに導かれる7曲目は、同時期の新月の「発熱の街角」とはまたひと味違ったサウンドアプローチで、平山照継を思わせる様なギターワークに、トニー・バンクス風な小気味良いハモンドが存分に堪能出来る、文字通りプログレ・リスナーの心をくすぐるであろう好ナンバー。
“心中”という禁忌なキーワードで物騒な何とも只ならぬイメージを駆り立てる8曲目は、ヘヴィで鬱屈した感のモーグとハモンド、ピアノをイントロダクションに、さながらゴブリンよろしくと言わんばかりなユーライア・ヒープないしイタリアン・ヘヴィプログレテイスト全開の全曲中最もヘヴィ
&ハードなパワフルナンバー。
薔薇という耽美的な象徴と心中という刹那が隣り合った、背徳的ながらも愛に殉した生命の儚さが伝わってくる。
「アラベスク」と並ぶ3部構成の9曲目の7分以上に及ぶ大作にあっては、コスモス・ファクトリーの「神話」ばりのコーラスワークに、ジャパニーズ・プログレッシヴならではの哀感たっぷりな泣きのリリシズム、歌謡曲に通ずる歌メロとサビ、ストリングとホーンセクションとが渾然一体となった、まさしく大団円とも言うべきラストに相応しい最高潮な旋律が至福の時間を約束してくれる事だろう。
しかし彼等の80年代に向けた果敢な挑戦と努力も空しく、夢と浪漫が満ち溢れんばかりに詰め込まれたデヴューアルバムはセールス面での売り上げが思った以上に芳しくなく、当時の新月と同様の憂き目に遭うといった暗澹たる結果に終わり、デヴュー作セールスの次第によっては、かの大御所ミュージシャン兼俳優のミッキー・カーティスをプロデューサーに迎えた2ndも企画されていたとの事だが、万国共通に結果が重視されるメジャーな音楽業界であるが故…蜥蜴の尻尾切りの如く企画は白紙に戻され、ムーンダンサーは極一部のロック愛好家達から高い評価を得ながらも、ほんの僅かな短い活動期間を経て敢え無く解散の道へと辿ってしまう。
厚見始め沢村や他のメンバーは大御所売れっ子シンガー並びアイドル歌手のバックといった裏方、レコーディングメンバー、セッションミュージシャンへとそれぞれの活路を見出していくものの、プログレッシヴへの希望と夢が諦め切れない厚見と沢村は2年後の1981年、2名のアメリカ人のリズム隊を迎えた混成バンド“タキオン ”を結成。
ムーンダンサーの音楽性を発展させた、中近東サウンドや沖縄民謡音階を取り入れたより以上にグローバルなサウンド展開と拡がりを感じさせるクロスオーヴァー系プログレッシヴを構築するも、悲しいかな当時はさっぱり話題にならず敢え無く短命の道へと辿ってしまう(時代を象徴しているかの様なジャケットワークも災いしたのかもしれない)。
時代に果敢に挑戦してきた厚見自身もほとほと心身ともに意気消沈にも近い疲弊を感じ、創作活動したりしなかったりの日々を繰り返しながらも、1984年難波弘之率いるセンス・オブ・ワンダーのゲストに招かれ、平井和正原作の『真幻魔大戦』のイメージアルバムに参加。
以後センス・オブ・ワンダーを経てジャパニーズHM/HRの大御所VOW WOWのサポートキーボーダーとして招聘される。
私自身のローカルな話で恐縮だが、18歳の秋にVOW WOWの新潟市公会堂ライヴへ足を運んだ際に、その時初めて厚見氏の姿とステージ上のキーボード群とレズリースピーカーに思わず興奮したのを今でも記憶に留めている。
その後から21世紀の現在に至るまで厚見自身、年に数回に及ぶプログレッシヴ・フェスに招かれたり、プログレッシヴ系からHM/HR系までの垣根を越えた度重なるセッションと自らの創作活動に多忙を極めていたが、夢よ再びと言わんばかりなプログレッシヴ・リスナー達からの機運と復活の声が高まる中、2013年5月18日吉祥寺ROCK JOINT GBにて厚見、沢村、そして下田の3人が再び結集しサポートドラマーを迎えたムーンダンサー/タキオン復活ライヴが開催され改めて演奏クオリティーの高さが実証された。
まさしく奇跡でも夢でも無い演奏する側も聴き手の側も互いに万感の思いと拍手喝采の感動の波と渦に包まれた最高潮のステージと言っても過言ではあるまい(この吉祥寺ライヴの模様を収録したライヴは、翌2014年秋に2枚組ライヴCDとしてリリースされている)。
さらに翌2014年3月にはジャパニーズ・プログレッシヴファンの念願が遂に実現した、待望のJapanese Progressive Rock Fes 2014が川崎クラブチッタで開催され、この日の為に限定で再結成されたノヴェラ、新月といった同期バンドと共にムーンダンサーも出場し、難波弘之&センス・オブ・ワンダー、そして21世紀ジャパニーズ・プログレの旗手でもあるユカ&クロノシップ、ステラ・リー・ジョーンズと共に川崎の会場を熱気と感動と興奮の嵐に巻き込み、同年5月18日には高円寺HIGHにて再びムーンダンサー/タキオン名義のライヴで更なる健在ぶりをアピールし、同年秋には前述の吉祥寺復活2枚組ライヴと共に、ムーンダンサーとタキオンの唯一作も紙ジャケット仕様CDでリイシューされ(オンライン通販のみのリリース)今日までに至っている。
鶏が先か卵が先かみたいな喩えで恐縮だが、ムーンダンサーが時代に追い着いたのか…或いは時代がムーンダンサーに追い着いたのかは定かではないものの、才気に恵まれ天才肌のアーティストである一方、不遇と挫折の時代を経験してきた彼等は、大仰な言い方かもしれないが紆余曲折の末に不死鳥の如く甦った、紛れも無く勤勉で努力型のアーティストに他ならないと言えるだろう。
過去に何度も言及してきた事だが、もしもキング/ネクサスがもう一年早く発足していたら、新月やムーンダンサー等が参入しノヴェラやアイン・ソフと共に日本のプログレシーンを更に盛り上げていたのではと思うのだが如何なものだろうか?
日本のみならずイタリアやイギリス…その他諸外国の、たった一枚しかアルバムを残せず短命なワンオフバンドとして終えプログレッシヴの歴史に埋もれた幾数多ものバンド達が、21世紀という混迷の時代にこぞって続々と復活・再結成を遂げて新作をリリースしている昨今、金銭絡み云々を一切問わず…ただ単に年老いて人生を終える前にもう一花二花咲かせてやろうじゃないか!という衝動に駆られる熟年世代アーティストがこれからもシーンに返り咲いてくるのだろう(“若いモンにはまだまだ負けてられない!!”といった意地とプライドもあるのかもしれないが)。
21世紀に再び大輪の花を咲かせたムーンダンサーが、新作リリースを期待する声が高まる中これからどの様な道を模索し、我々の前に今度はどんな新たな創作世界を呈示するのか、今はまだ定かではないが…その答えの鍵を握るのは聴き手である私達とキーパーソンでもある厚見氏であるのかもしれない。
ムーンダンサーの機は今ここに熟しつつある…。
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03,2020
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3月最初の「夢幻の楽師達」は、知的でクールでジェントリーな英国カンタベリーサウンドの気概と心象風景を日本の神戸という異国の地で脈々と継承し紡ぎ奏でる唯一無比の存在にして、関東のケンソーと共にジャパニーズ・プログレッシヴジャズロックの両雄・両巨頭の片翼を担っていると言っても過言ではない、関西きってのカンタベリーマスターの称号に相応しい“アイン・ソフ ”に、今再び眩い光明を当ててみたいと思います。
AIN SOPH
(JAPAN 1977~)
山本要三:G
鳥垣正裕:B
名取 寛:Ds, Per
服部眞誠:Key
60年代末期、日本国内を席巻した世にいうGSブームが終焉を迎え、米英からのサイケデリック・ムーヴメント、アートロック台頭の余波で、有名無名問わず幾数多ものGSバンドが足並み揃えてサウンドスタイルの変化と転身を余儀無くされ、(プログレッシヴ・ロックのフィールド限定で恐縮ながらも)1970年フロイドの“牛”のジャケットが旗印の如くプログレッシヴ・ロック元年と歩調を合わせ、ワンオフながらもエイプリル・フール始めフード・ブレイン、ピッグ、ラヴ・リヴ・ライフ+1が世に輩出され、以降ブリティッシュ・オルガンロックないしEL&P人気に触発されたストロベリー・パス→フライド・エッグ、日本人なりのスペースロックへの見事な解釈・回答ともいえるファー・ラウト→ファー・イースト・ファミリー・バンド、70年代中期~後期にかけてはコスモス・ファクトリー、四人囃子、新月、ムーンダンサー、スペース・サーカスが果敢に時代に挑み、インディーズ・フィールドからも観世音、グリーンといった逸材も忘れてはなるまい。
時代は1980年…かのたかみひろし氏の鶴の一声で、大手キングレコードにて発足された日本から海外へと視野を広げた初の洋楽セクションの新興レーベル“NEXUS(ネクサス) ”は、日本のプログレッシヴ・ロック史に於けるルネッサンスでもあり新たなる時代到来を告げるに相応しいセカンドインパクトとなったのは言うには及ぶまい。
音楽産業のメインストリームともいえる東京とはまた違った形で、独自のミュージックシーンを形成していた関西圏のロックグループ達…後にノヴェラへと発展し今日までに至るジャパニーズ・プログレッシヴのスタイルと礎を築いたシェラザード始め、今回本篇の主人公でもあるアイン・ソフの前身でもあった天地創造、そしてカリスマ、ラウンドハウス、だててんりゅう、フロマージュ、夢幻といった80~90年代にかけて一気に花開いた百花繚乱なる逸材が犇めき合い、キング/ネクサスにとってはまさしく金の卵の宝庫にも似た願ったり叶ったりなお膳立てと好条件が揃ったと言わざるを得ない、そんな日本のプログレッシヴの将来を占う上でキング/ネクサスのスタッフは寝ても覚めても孤軍奮闘の日々を送っていた事であろうと想像してしまう。
悪い癖の如く前置きがついつい長くなってしまったが、本篇の主人公でもあるアイン・ソフに話を戻したいと思う。
遡る事1971年、バンドで唯一のオリジナルメンバーでもあるギタリスト山本要三を中心に神戸で結成された前身バンドの天地創造 で、当初は山本のギターとリズム隊によるトリオ編成のハードロックでスタートし、その後はヴォーカリストを加えた4人編成へと移行(かのシェラザード=ノヴェラのアンジーこと五十嵐久勝も一時的ながらも参加していたのは有名な話)。
その後度重なるメンバーチェンジを重ね、ヴォーカリストに笠原和彦、山本と共に大学時代から天地創造のサウンド面を支えた名キーボーダー藤川喜久男、1stデヴューにて名を連ねたベーシストの鳥垣正裕とドラマーの名取寛の充実した5人編成で、キャラヴァンやブリティッシュカンタベリー系に影響を受けたプログレッシヴ・ジャズロック寄りへと変遷を遂げた次第であるが、1976年暮れヴォーカリストの笠原の脱退を機に、完全にヴォーカルレスのインストゥルメンタルオンリーのサウンドスタイルとして確立させ、キャメル、ソフト・マシーン、ハットフィールド&ザ・ノース、エッグといったブリティッシュ・ジャズロック系を嗜好する唯一無比のサウンドは、当時の関西圏のシーンでもカリスマ、だててんりゅうと並ぶ異色の存在として認知され、まだクロスオーヴァーやらフュージョンといったジャンルネームが登場する以前のこと周囲から“ロックなんか?ジャズなんか?ようわからん”といった具合に奇異の眼差しで見られ、当時関西のロックフェスや音楽イヴェントの出演に於いても彼等のサウンドに首や頭を傾げる聴衆が多く、バンドメンバーサイドもなかなか自らの音楽像の理解が得られず大なり小なりの苦労を味わったそうな(苦笑)。
それでも彼等は臆する事無く、ツインキーボードスタイルになったりサックス奏者を加えたりと試行錯誤を繰り返し、精力的なライヴ活動に勤しむ一方で一念発起とばかり東京のたかみひろし氏に自らのデモテープを送り、彼等の飽くなき音楽探求心とプログレッシヴへの求道にいたく感激したたかみ氏と意気投合したメンバーは、たかみ氏の助言とアイディアで1977年にバンド名をアイン・ソフ(“最高のものを求める人々 ”という意)へと改名。
翌78年、カリスマから発展したエレクトリック・ユニットDADA(ダダ)と共にジョイントライヴを敢行し、たかみ氏の力添えで東京公演にも進出するも、長きに亘るライヴ活動による心身の疲弊でドラマーの名取が倒れ、更にはバンドの要でもあった藤川が一身上の都合でバンドを離れる事となり、アイン・ソフは暫し活動停止を余儀なくされる。
2年間の活動停止(活動休止)を経て、迎えた1980年春…キングのネクサス発足と時同じくして漸くアイン・ソフも活動再開させる運びとなり、名取の復帰に加えて、抜けた藤川の後任として関西圏でのライヴで顔馴染みだっただるま食堂並び増田俊郎&セプテンバーブルーでキーボードを務めた服部眞誠(ませい)が加入し、アイン・ソフは漸く満を持してネクサスより待望のデヴューアルバムに向けレコーディングに臨む為のリハーサルを開始する事となる。
…が、デヴュー作に辿り着くまでの産みの苦しみとはよく言ったもので、製作期間中のレコーディング・スタジオといったら、不安と緊迫、前途多難と一触即発、紆余曲折とメンバー間の軋轢といった日々の繰り返しが続き、力の入り過ぎで熱くなってエキサイトしてしまいスタジオからメンバーが出て行く事なんて日常茶飯事、喧嘩寸前の掴み合いなんて事もあったが故に、ディレクターを兼任するたかみ氏でさえもメンバーを落ち着かせなだめながらも、レコーディングとは異なった意味で精神面での疲弊が続いていたとの事。
新たなメンバーとなった服部自身に限った話、音楽性の差異・違和感に加えて年齢的にも山本や鳥垣よりも若かった分自己主張が強いというか幾分(若さ故の)尖っていた性分が災いし、加入してまだ間もない服部にとってはバンドの和(輪)に馴染めなかった、所謂コミュニケーション不足を解消するにはまだまだ時間が足りなかったのかもしれない…。
そんな一歩間違えればデヴュー完成前にバンド崩壊をも招かれかねないといった人間関係含めた危ういバランスとピリピリとした張り詰めた空気の中、彼等はただひたすら真摯に自問自答を繰り返しながらややもすれば突貫作業にも似た録音作業に臨み、1980年6月5日難産の末に待望のデヴューアルバム『A Story Of Mysterious Forest(妖精の森) 』をリリースする。
そのあまりに日本人離れした超絶で卓越した演奏技量に、アルバムタイトルでもある組曲形式の大作「妖精の森」の圧倒的な世界観に、数多くもの洋楽プログレッシヴ一辺倒だったファンやリスナーは言葉を失い驚愕したのは言うに及ぶまい。
無論ごく一部からは「単なる洋物プログレッシヴの真似事」なんぞと揶揄され陰口を叩かれた事が多々あったものの、「これってキャメルの新作!?」と驚いた輩もいた位で、ミステリアスで幻想的な意匠の効果と相まって、先陣切ってデヴューを飾ったノヴェラの『魅惑劇』と並んでアイン・ソフのデヴュー作も予想を遥かに上回る大成功を収める事が出来、こうしてキング/ネクサスの果敢なる飽くなき挑戦は商業第一主義の日本の音楽業界に一石を投じ勝利を手中に収めた次第である。
だがデヴューアルバムの成功とは裏腹に、音楽性の相違を含めメンバーとの溝を埋める事が出来なかった服部は結局バンドを去る事となり、幸先の良いスタートを切ったと同時にアイン・ソフは不運にも予期せぬ活動休止に陥ってしまう。
余談ながらもアイン・ソフのデヴューのみならず、これは不思議な連鎖とでもいうのだろうか…過去に於いてもジェネシスの『眩惑のブロードウェイ』、イエス『海洋地形学の物語』、果てはフロイド『ザ・ウォール』といったプログレッシヴ・ロック史上に残る素晴らしい作品が、実はレコーディングの過程上メンバー間の反目、軋轢、衝突の末、世に送り出されているというのだから業界不変のあるある話とはいえ何とも実に皮肉な限りである。
アイン・ソフと袂を分かち合った服部はその後御周知の通り、ウェザー・リポートを始めとするアメリカン指向のジャズ・ロック(クロスオーヴァー)を目指した99.99(フォーナイン)を結成。
残されたメンバーの内、ドラマーの名取までもがバンドを離れ、実質上アイン・ソフは「素晴らしいデヴューアルバムをリリースした」という肩書きのまま開店休業の状態で長きに亘り暫し沈黙を守り続ける事となる。
時代は流れキング/ネクサスの功績の甲斐あって、その波に乗じてマーキーのベル・アンティークを始めメイド・イン・ジャパンといったプログレッシヴ・ロック専門のインディーズレーベルが一気に活性化し、フロマージュ、ネガスフィア、夢幻、アウター・リミッツ、ページェントが世に躍り出た時同じくして、その余波を受けキング/ネクサスが企画したジャパニーズ・プログレッシヴコレクションを機にスターレス、ケネディ、ブラック・ペイジ…等が雨後の筍の如くデヴューを飾る事となり、そのコレクションのラインナップの中に6年振りの新譜2ndを引っ提げて再びシーンに返り咲いたアイン・ソフの名前にファンの誰しもが一様に驚いたのは言うまでもあるまい。
下手すれば『妖精の森』たった一枚のみ遺してシーンの表舞台から姿を消したと思われていたが故に、ジャパニーズ・プログレッシヴ隆盛期と見事にリンクしたとはいえ、まさに青天の霹靂とも言える見事な復活劇にファンや周囲は驚愕と拍手喝采を贈らんばかりであった。
何よりも長年バンドと苦楽を共にしてきたキーボーダー藤川喜久男の復帰にファンは歓喜の涙を流した事であろう…。
ドラマー名取の後任として、兄弟的存在のプログレッシヴ・バンドだったベラフォン の名ドラマーとして関西圏では早くから注目されていたタイキこと富家大器の加入はアイン・ソフにとって心強い存在となったのも特筆すべきであろう(ベラフォンが唯一遺したアルバムには鳥垣がベースで参加しているのも縁である)。
6年振りの新作2nd『Hat And Field(帽子と野原) 』は、まさに読んで字の如し彼等が敬愛して止まないハットフィールド&ザ・ノースへのオマージュとリスペクト(パロディーな要素も含めて)が精一杯込められた渾身の力作にして会心の一枚となり、改めて天地創造時代の頃の原点回帰に立ち返ったかの様なカンタベリーサウンドは前作の『妖精の森』とはまた違った意味合いで、幾分リラックスした環境と雰囲気の中、漸く本来のアイン・ソフらしいサウンドカラーを打ち出せた文字通り面目躍如ともいえる傑作へと昇華した。
その後は山本を筆頭に鳥垣、藤川、富家という不動の4人のラインナップで地道で牛歩的ながらもマイペースでライヴと創作活動を継続し、5年後の1991年にはメイド・イン・ジャパンより天地創造時代の楽曲を再構築したアンソロジー的な趣の3rd『Marine Menagerie(海の底の動物園) 』、前後してマーキー/ベル・アンティークからは同じく天地創造時代の録音で発掘音源ながらも初のライヴ・マテリアルとなる『Ride On Camel(駱駝に乗って) 』、そして翌92年当初はキングからリリース予定だったものの諸事情が重なって結局メイド・イン・ジャパンからリリースとなった4th『5 Or 9 / Five Evolved From Nine(五つの方針と九つの展開) 』がリリースされ、コンスタンスなペース維持と順風満帆な軌道の波に乗って、このまま上り調子で行くものであると誰もが予想していた…。
1995年の春にマーキー/ベル・アンティークからリリースされる筈であった、まだタイトル未定の5thアルバムのインフォメーションが伝えられ、少年少女の2人の妖精が描かれたジャケットアートも決定し否応無しに期待が高まる中、あの未曾有の大災害が全てをなし崩しにしてしまった…。
1995年1月17日 阪神・淡路大震災発生。
あの当時の事は本文を綴っている私自身でさえも二度と思い出したく無い位、20世紀末最大にして最悪な自然災害でもあり、高速道並びJR線、阪急線三宮駅周辺の倒壊、ことごとく崩壊し焼け野原となった神戸の街並みとビル群、多くの尊い人命が失われてしまった悲劇と悲惨な光景はテレビ画面を通じて未だに鮮明に自身の目と脳裏に焼き付いて離れないのが正直なところでもある。
そんな災禍の中、彼等の録音・リハーサルスタジオとて滅茶苦茶になったのを想像しただけでも言葉が出なくなってしまうのはいた仕方あるまい…。
アイン・ソフのみならず同じ地元のクェーサーも甚大な被害に見舞われ、あの震災発生から数日経っても空虚な心の痛みと傷は癒える事無く、数多くの神戸のロック・バンドが音楽どころではない位に活動休止状態へと追い込まれ、先の見えない不安感だけが重く圧し掛かるばかりであったのは言うに及ぶまい。
しかしそれでも一年また一年経過していく毎に、アイン・ソフを含めた多くの神戸のロック・バンド達が災害に屈する事無く立ち上がり、復興と復活の為に前を向いて再び歩き始め“がんばろう神戸!”を合言葉に息を吹き返し、哀悼の祈りを込めて各々が謳い奏で始めたのである。
アイン・ソフも5thアルバムのマテリアルが立ち消えて白紙にこそ戻ったものの、彼等4人は生き長らえた生命をそのまま音楽への情熱に置き換えて20世紀…そして21世紀へと駆け巡り、今日に至るまで不定期ながらも国内外数多くものプログレッシヴ・フェス並びライヴに出演し未だその健在ぶりを強く大きくアピールしている(2004年には吉祥寺にてかの憧れ的存在リチャード・シンクレアとの共演をも果たしている)。
彼等のリリースした数多くもの作品がCDリイシューないしリニューアル化され、更には未発のライヴマテリアルまでもがリマスタリング紙ジャケットCD化されるといった、もはや何時でも復活・復帰に向けてのお膳立てが整いつつあるさ中、迎えた2018年12月…アイン・ソフを長年支え続けてきたたかみ氏始め多くのファンと支援者、キング/ネクサスを含めた周囲のスタッフとクルー共々、皆一丸となって力を合わせて世に送り出した待望の新譜『Seven Colours 』こそ、名実共に期待を一身に背負って世に問うであろう…まさしく「お帰り!アイン・ソフ…待ってたよ 」の賛辞と合言葉に相応しい、満を持しての最高傑作となったのは言うに及ぶまい。
最新作を引っ提げて21世紀プログレッシヴシーンへの復活凱旋を果たした彼等が、この先如何なる展開を見せ化学反応を起こし、日本のみならず世界中のプログレッシヴと向かい合い活性化させていくのだろうか…と、下世話ながらも期待と痛快感の入り混じった不思議な余韻とでもいうか威風堂々たる彼等の気概と姿勢に心の奥底が熱くなってしまう今日この頃ですらある。
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06,2020
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3月最初の「一生逸品」は、今は亡き関西プログレッシヴ界の重鎮にして日本のロック・キーボーダーの第一人者でもあった小川文明氏に改めて哀悼の意を表するという意味合いを込め、1985年彗星の如き衝撃的デヴューから僅か一年足らずでキング/ネクサスより唯一作でもあるアルバムをリリースし、当時吹き荒れていたジャパニーズ・プログレッシヴブームに於いて一躍時代の寵児になったと言っても過言では無い、70年代のスペース・サーカスと並ぶ今もなお日本のテクニカル・プログレッシヴのマストアイテムとして数えられる“ブラック・ペイジ ”に再び焦点を当ててみたいと思います。
在りし日の小川氏の功績を振り返りつつ、ほんのささやかながらも魂の供養になれれば幸いである。
BLACK PAGE/ Open The Next Page(1986)
1.Go On !/2.A Stick & The Moon Man/ 3.Lap Lap/
4.From A Long Distance/5.Elegy (Ode To S.I.)/
6.Suite:A Story Of Music Stone/
A)Prelude
B)Looking For (Drum Solo)
C)A Long Journey
D)So Long Mz
7.Paranoia/8.Interlude/9.Oyasumi
小川文明:Key,Vo
小川逸史:G
小嶺恒夫:B
菅沼孝三:Ds
日本のロック…ことプログレッシヴ・ロックという一種特異な分野にとって80年代は大きな転機ともいうべきターニングポイントとなった事は最早言うまでもあるまい。
80年代の夜明け前ともいえる1979年にリリースされたムーン・ダンサーや新月を皮切りに、キング/ネクサスの発足を機にノヴェラ、アイン・ソフ、ダダ、美狂乱、ケンソーが輩出され、そんな時代の流れの空気に呼応するかの様に、84年プログレッシヴ専門誌として再出発を図ったマーキー主宰のベル・アンティークからフロマージュ、イースタン・ワークスから夢幻、LLEからはネガスフィアがこぞってデヴューを飾り、以後85年のメイド・イン・ジャパンからアウター・リミッツ、ページェント…等が登場すると同時に、(一時期とはいえ)日本のロック・シーンはメジャーやインディーズを問わずジャパニーズメタルと並んで、あたかもブリティッシュ・ポンプ勃発時を思わせるかの如く、百花繚乱さながらを思わせるプログレ一色に染まったと言っても異論はあるまい。
これを綴っている私自身ですらも、当時は仕事の傍ら大なり小なりそれらジャパニーズ・プログレに関わる執筆に携わっていた時分でもあったので、懐かしい云々の一語ではそう簡単に片付けられない懐旧の思いを巡らせているのも事実本音ではあるが(苦笑)。
そんなバンド側とレーベルを運営する側、そしてそれらの動向を伝える雑誌媒体を含めて様々な思惑が交錯する当時のシーンのさ中、ライヴ関係者の口コミやらプログレミニコミ誌を経由して“お世辞抜きで凄いバンドが現れた! ”と一躍話題の的となったのが今回の本編の主人公ブラック・ペイジであった。
ブラック・ペイジ=小川文明氏の詳細なバイオグラフィーに関しては、キング/ネクサス関連の再発シリーズやウィキペディアでも触れられているので、ここでは重複を避ける意味を踏まえ事細かに触れず簡略的に綴っていきたい。
1960年7月に地元大阪で生を受けた小川文明は5歳の頃からピアノのレッスンを始め、クラシックからビートルズに至るまで幅広い音楽素養を身に付けつつ、73年の中学一年生の頃NHKの『ヤングミュージックショウ』で目にしたEL&Pに衝撃を受け触発された彼は、キース・エマーソンを大いなる目標に掲げて以降音楽の世界で人生を生きていく事を決意する。
高校時代にシェーンベルク、バルトーク、ライヒといった現代音楽にも傾倒し、その飽くなき音楽への探究心と巌の様に堅い志を胸に抱きつつ大阪芸術大学音楽学科作曲専攻に進学。
4年間勉学に励む傍ら自らが理想とするプログレッシヴな音楽スタイルを目指して研鑽に勤しむ日々を送り、大学卒業と同時期に後年日本の名ドラマー・パーカッショニストとして名を馳せる元99.99(フォー・ナイン)の菅沼孝三と運命的な出会いを経て、実弟の小川逸史(当時は兄文明と共にスパイラルを組んでいた)そして知人の伝で紹介された元ドラゴンズ・バクの小嶺恒夫を迎えて、1985年フランク・ザッパの数ある代表曲の一つからバンド名を冠したブラック・ペイジが結成される。
御大ザッパからの影響も然る事ながら、やはり小川文明の根底でもあるキース・エマーソン、果てはクリムゾン、UKといったプログレッシヴからの要素と、ウェザー・リポート、日本のカシオペアといったフュージョン&クロスオーヴァーからのエッセンスとの融合といった感は無きにしも非ずではあるが、個人的な見解で恐縮ではあるが…日本のプログレッシヴ・ジャズロックという視点からすれば、同じ関西圏のアイン・ソフや関東圏のケンソーに決して準ずることの無い、独自の路線と方法論で自らのスタイルを確立させたと捉えるべきであろう。
本場イギリスのカンタベリー系に有りがちな難解さとは無縁な、ファンタジックなカラーを湛えつつもあくまで都会的に洗練されたライトでポップな感性を纏った、良い意味でジャズィーとシンフォニックな両面性を兼ね備えた唯一無比のサウンドスカルプチュアのみが存在している。
彼等の唯一作でもある86年リリースの『Open The Next Page 』は、インストオンリーが6曲と歌物3曲によるトータル9曲で構成されており、7曲目を除いて殆どが小川文明のペンによるものである。
軽快でリズミカルなややアジアンテイストな小気味良いキーボードが印象的なオープニングを飾る1曲目に於いて、もう既にブラック・ペイジのアイデンティティー全開が堪能出来よう。
小川氏の日本語調っぽい英語のヴォーカルに好みの差が分かれるところではあるものの、それを差し引いても日本的なイマージュとカラーが反映されたセンス・オブ・ワンダーな曲想は、素人臭さ皆無な彼等にしか出来ない熟練技=プロフェッショナルな仕事っぷりが存分に垣間見える…まさに挨拶代わりといったところであろうか。
摩訶不思議な印象を抱かせるジャケットのイメージをも想起させるオールインストゥルメンタルの2曲目は、まだまだ本領発揮するには早過ぎると言わんばかりな硬派で重厚感満載なテクニカル・シンフォニックが聴き処。
決してエコヒイキという訳では無いが…全曲とも素晴らしい中で、この2曲目と大作の6曲目だけを目当てにブラック・ペイジに触れて頂けるだけでも“買い”であると声を大にして言いたい。
3曲目は1曲目に準ずる歌物パートであるが、オープニングとは打って変わってアップテンポなバラード調で夜の帳が下りたイルミネーション瞬く都会の片隅の物語といった、あたかも男のダンディズムにも似た美学が光る佳曲とも言えるだろう。ゲスト参加のスキャット調の女性Voが曲に美しいアクセントを添えているところも聴き逃せない。
4曲目の喜多郎を思わせる悠久なイマージュと、アンビエントで瞑想的なシチュエーションのシンセに身を委ねつつ、遠くから鳴り響く物悲しげでエモーショナルなギターに導かれてまさにタイトル通りの5曲目の“哀歌”へと繋がる展開と絶妙なまでの間が何とも筆舌し難い。
まさしく曲想のイメージとしては男と女の別れでもあり、刹那的でアダルトな風合いながらも曲の終盤にかけて悲しみの雰囲気の中に一筋の新たな希望の光が見出せる様な、マリオ・ミーロにも相通ずる哀愁漂う泣きのギターが何とも素晴らしい。さしずめオリジナルアナログ盤のA面ラストを飾るに相応しい劇的な瞬間であるとも言えよう。
本作品の呼び物と言っても過言では無いプログレッシヴ・マインド全開な6曲目は、小川氏の音楽性とメンバーの力量が存分に発揮された7分強の4部組曲形式の大作で、バッハのオルガン曲を彷彿とさせるオープニング始めドラムソロ、ボレロのフレーズを盛り込んだりと、終盤にかけてのドラマティックな大団円を思わせる展開が感動を呼ぶ。
ギタリストの実弟小川逸史氏のペンによる7曲目は、後期クリムゾン+UKへのオマージュが全面的に打ち出された唯一ヘヴィなナンバーで、『太陽と戦慄』『レッド』をも匂わせるフレーズアプローチに思わずニヤリとする方々も多いことだろう。
7曲目がいきなり断ち切られたと同時にインサートされる、美しくも甘く切ないデジタルキーボードによるヴァイオリンとオーケストレーションが厳かに響き渡る小曲の8曲目に導かれ、ラスト9曲目のヴォーカルナンバーはまさにタイトル通り小川氏の言葉を代弁するかの如く“僕達の音楽を聴いてくれてありがとう、おやすみ”と言わんばかりな感傷的で寂寥感漂う、月夜の響宴は静かに幕を下ろしたというエピローグに相応しいスローバラードに仕上がっている。何よりも小川氏と女性Voとの対比が素晴らしい…。
鳴り物入りで堂々とリリースされた『Open The Next Page』の評判は上々で、アイン・ソフと並ぶ新たな関西プログレ・ジャズロックの新鋭として期待されるものの、関東関西で数回のギグを経たその後はメンバー各々が多忙を極めバンド名義の活動としては、2年後の1988年メイド・イン・ジャパンからリリースされたジャズロック・オムニバスアルバム『Canterbury Edge』に収録された秀作「Just A Little Dream」がバンドとして最後の作品となってしまったのが何とも惜しまれる限りである。
小川氏自身は1990年の『Open The Next Page』初CD化に際し、インナーのレヴューにて“そろそろ新譜も出さないとね…”と語っていたものの、メンバー各々が個々の活動で多忙を極めていたが為に開店休業状態もしくは自然消滅に近い形で、バンド名と唯一作の素晴らしい高評価ばかりが独り歩きのまま時間と時代だけが静かに過ぎていくばかりだった…。
21世紀を迎え既にブラック・ペイジに終止符を打った小川氏自身は、昭和音楽大学の講師として教壇に立ちながらも、一音楽家或いは一創作者として自らの理想の音楽に向かって邁進し、地元で親交のあったROLLYに誘われすかんちのキーボードに参加する一方で様々なジャンル違いのアーティストやアイドル等(SMAP始め筋肉少女帯、モーニング娘。、松浦亜弥、真心ブラザース…etc、etc)のレコーディングに参加したりライヴステージのサポートに立つなどして、ますます音楽家としての地位を築きつつあった。
が、運命の神様は時として残酷な試練をお与えするものであり、2014年の4月から体調を崩して休養していた小川氏自身、病魔との闘いも空しく同年6月26日に容態の急変により逝去してしまう。
享年53歳、病名不明、逝くにはまだまだ早過ぎるとしか言いようがない…。
「4月末より入院、闘病しておりました小川文明ですが、6月25日未明より容態が急変し、午後永眠いたしました。音楽に囲まれながらの安らかな最期でした」 ※小川文明公式サイトより原文ママ。
私自身もFacebookの友人を経由して小川氏の訃報を知った次第であるが、同年春にバンコのフランチェスコ・ディ・ジャコモ氏が不慮の交通事故で逝去されて以後…精神的にもショックが癒えてない時分だったもので、寝耳に水の如き続くプログレ関係者の訃報に、天を仰いではつくづく運命の神様がいるのなら恨みつらみや呪いの言葉すらも叫びぶつけてやりたい気分に駆られたものである。
逝去前の6月5日には、小川氏からのメッセージが更新され「突然の体調不良で、ひと月前に入院することになり、多くの方々にご迷惑、ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。おかげさまで現在は落ち着いております。また皆さんと笑顔で逢えるように、僕も今度こそ焦らずじっくりと治療に専念したいと思います 」、と復帰を目指していただけに、私自身返す々々も悔やまれてならないのが正直なところである。
生前、小川氏の創作精神を継承するであろう新進女性キーボーダー小川真澄 の2010年のデヴュー作『Asterisk* 』に対し大いなる賞賛を贈っていたのが非常に印象に残っている(下世話な話で恐縮であるが…同じ小川姓という事で当初は何らかの血縁関係者ではないかと思っていた。結局はたまたま同じ小川姓というだけであったが)。
小川真澄、そして関東のLu7に受け継がれ、天国の小川氏の魂と高らかな創作精神という唯一無比の音楽財産は今でもなお生き続けている…その事を思うだけで感慨深く胸が熱くなる。
聴き手である側の我々も小川氏の心と魂に精一杯応える為にも、プログレッシヴ・ロックの未来を担う後継者や新進達を育て見守り続けていこうではないか!
改めてこの場をお借りして、今は亡き小川文明氏の御霊に慎んで御冥福をお祈り申し上げます。
そして素晴らしい作品と思い出を有難うございました、合掌。
小川さん…どうか天国からプログレッシヴ・ロックのこれからの将来を見守ってて下さい。
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26,2020
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5月最終週にお送りする「夢幻の楽師達」は、80年代ジャパニーズ・プログレッシヴシーンの牽引を担ったと言っても過言では無いネクサスレーベルから世に躍り出たノヴェラ、アイン・ソフ、ダダ、美狂乱、ケンソー、ジェラルドに追随するかの如く、90年代にクライムレーベルへ移行してからの立役者として栄光の一時代を築き上げシーンを駆け巡っていった唯一無比なる存在として、21世紀の今もなお絶大なる支持を得ている“ヴィエナ ”に今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
藤村幸宏:Vo, G
塚本周成:Key
永井敏巳:B
西田竜一:Ds, Per
全世界規模に於けるプログレッシヴ・ロックにとってあの80年代という時代は、栄光に輝かりし70年代の呪縛から未だ逃れられない…文字通りヴィンテージ系の名作・名盤ばかりがもてはやされ見直されながらも、原盤・廃盤のプレミアム高騰で、結果キングのユーロ・ロックコレクションを始めとする再発ラッシュの波が一気に押し寄せた、所謂良くも悪くも“再発に始まり再発で明け暮れた80年代”とまで揶揄されるまでになったのは流石に否めない(苦笑)。
誤解の無い様に断っておくが、私は時代や年代・世紀を問わずプログレッシヴと名の付く良い作品素晴らしい作品なら、嘘偽りの無い賛辞で称えてはいるが、まあ…あの80年代当時は未だに70年代の名作・名盤に慣れ親しみ…どっぷりと骨の髄まで味わった筋金入りリスナー=まさに時が止まったままのマニアクラスにとっては、80年代とは食い足りない物足りなさというか歯応えはおろか味も素っ気も無い、優しく喩えればプログレ・ファンにとってはまだまだ空寂しい一時代だったのかもしれないが。
そんな再発ラッシュの嵐が吹き荒れる片やその一方で、80年代は“プログレッシヴ・リヴァイヴァル”というイギリスのポンプ・ロック勃発を契機とするプログレ再帰(再起)と復興、まさしくそれは21世紀の今日までに繋がり至るプログレの可能性ともいうべき試金石にして大いなるターニングポイントともなった、とても重要な意味合いを含んだ時代だったのではなかろうか…。
前置きが長くなって申し訳無いが…昔も現在もプログレッシヴ・ロック最大のマーケットともいえる我が国日本に於いても、80年初頭キングレコードから発足したネクサスレーベルを契機に、新たなジャパニーズ・プログレッシヴ・ムーヴメントの新たなる第一歩は、イギリスのポンプ・ロック勃発とはまた違った独自のシーンを形成し、後にフランスのムゼアレーベルと共に一時代を築いたベル・アンティークやメイド・イン・ジャパン、そして前出のネクサス→クライムへと移行していったレーベルからも多種多彩な秀でた逸材を輩出するまでに至った次第である。
ノヴェラを始めそこから枝分かれして派生したジェラルド、メイド・イン・ジャパンの顔ともいえるアウターリミッツ等といった当時名うての存在だったバンドから選りすぐりの才能が結集し、80年代末期…80'sジャパニーズ・プログレッシヴの絶頂期にして、昭和から平成へと年号が変わる激動の時代の真っ只中に今回の主人公でもあるヴィエナは産声を上げた。
以降はかのたかみひろし氏のライナーの記述と重複するかもしれないが、恐縮なれどどうかお許し願いたい次第である(苦笑)。
ヴィエナ結成の経緯はノヴェラ解散後に西田がジェラルドの永川敏郎と藤村に(お遊び程度ながらも)ラッシュのコピーバンドへ誘いを持ちかけた事から始まる。
前出のたかみひろし氏の音頭と仲介もあって、ネクサスとメイド・イン・ジャパンの両方のファンとリスナーに強くアピール出来る本格的なバンドを目指そうという意向もあり、キングの新レーベル“クライム”発足と併行して大々的に世に送り出そうと水面下で着々と準備が進められていたものの、ジェラルドと掛け持ちでアース・シェイカーに参加するため永川が離脱し、その後任に人伝を介してアウターリミッツからメロディーメイカーとして塚本が参加。
ヴィエナの核ともいえるラインナップが出揃う中、それでもデヴュー前の難産とでも言うのか試行錯誤は更に続き、音楽的な趣味嗜好の違いから、ベーシスト候補としてテルズ・シンフォニアの井上やアウターリミッツの荒巻隆の名が出たり、ページェントの中島一晃氏をギタリストに迎えてリハーサルまで行うも結局私生活を含めた諸事情で不参加になったりと、ヴィエナ(…だけに限らず、国を問わずどこのプログレ系バンドでも似た様な話だが)の船出は前途多難で兎にも角にも難航を極めつつあった…。
数々の紆余曲折を経て、某ライヴ会場でアフレイタス(テープ作品のみリリースして解散)のギグに接した西田がベーシストの永井の演奏に惚れ込んで、半ば強引にバンド加入要請で説得し漸くめでたくベースが正式に決まってからはあの前途多難がまるで嘘の様に順調にレコーディングは進められ、1988年5月遂にヴィエナは『Overture=序章 』で華々しくデヴューを飾る。
デヴュー当初、私自身“企画物スーパーバンド”的な匂いが感じられて、あの当時は正直余りピンと来なかったのだが、今改めて何度も繰り返し聴いてみるとバンドのメンバー全員が長年の実績と演奏経験が豊富なだけに、UKをモダンでタイトな感じにした様な的確で且つ強固な演奏技量とテクニックで、ししどあきら氏の幻想的なイラストデザインも手伝って、世界的なレベルからしても遜色無く堂々と亘り合える安心して聴ける高水準な作品だったと声を大にして言いたい。
かのエイジアを意識したかの様なプログレッシヴにしてシンフォニック、程良いポップさが加味された、今でのジャパニーズ・プログレによく有りがちだった匂いや歌メロ等を極力排し、新たなる日本のプログレの模索に成功し大きな足掛かりを築いた傑作だったと思える。
何よりもメンバー4人の技量も然る事ながら、やはりアウター時代からの長い経験が活かされ存分に発揮された塚本の功績は大きいと言えよう。
そして同年末の12月、大好評だったデヴュー作からの流れをそのまま踏襲し…ジャパニーズ・プログレ史上類を見ない圧倒的にして奇跡とも言うべき完成度を誇る2nd『Step Into… 』をリリース。
私自身、当時マーキー誌からの依頼で関係筋から渡された完成前のデモ音源カセットを聴いた時は、余りに圧倒的な音の壁と迫力、複雑にして構築美と抒情的な旋律に“凄い…!!”のひと言のみで言葉を失った事を今でも鮮明に記憶している。
個人的な見解で恐縮だが…特に3曲目の“シュベール”からLP時代の旧B面全面にかけての流れが素晴らしくて、ラストの“フォール・イン・アローン”は数々の名立たるジャパニーズ・プログレの名曲と堂々と並ぶ超絶テンションが聴きどころでもあり、このラストナンバーだけでも本作品は買いと言っても過言ではあるまい。
…しかし、あれだけ大好評だった2ndの素晴らしさを含め周囲から寄せられたこれからの期待とは裏腹に、バンド自体は既に疲弊の末期ともいうべき空中分解に近い状態へと陥り、翌89年1月早々にヴィエナは惜しまれつつ解散。
その後、アーカイヴ音源による『Progress/Last Live 』がリリースされ、日本のプログレッシヴ・シーンも時代と共にフォーマット自体もLPからCDへと大々的に移行し、90年代を待たずして表舞台から去っていったヴィエナ以降のシーンは、テルズ・シンフォニア並びプロヴィデンス、ケンソー、アイン・ソフ、ジェラルド、ページェントファミリーといった一部を除き、90年代後期に21世紀へと視野に入れた新たなプログレッシヴ系レーベルのポセイドンが発足するまでの間、シーンは沈静・停滞という長き眠りにつくのであった(特に関西のプログレシーンにあっては95年の阪神大震災もあって、これがかなりの痛手となった事を付け加えておきたい)。
そして21世紀以降、今は無きポセイドンレーベル始め大阪のミュージック・タームの貢献度の甲斐あって、日本のプログレッシヴ・シーンは再びあの熱き80年代と並ぶ多種多彩(多才)なスタイルに枝分かれし、シンフォニック、ジャズロック、プログメタル、アヴァンギャルド、ポスト系…etc、etc
、枚挙に暇が無い位にアーティスト数が乱立し、今やかつてない位に盛り上がりと熱気を取り戻していると言っても過言ではあるまい。
そういった時代の流れに呼応するかの様に、関東始め関西、名古屋からは続々と期待の新鋭が登場してきている。
それらニューカマーの精力的な活動に応えるかの如く、往年の名手ノヴェラもシェラザードとして再結成復活し、ヴィエナやアウターリミッツも自身のレーベルを興して近年再結成を果たしているのが実に喜ばしい限りである。
何よりも彼等ヴィエナが遺したであろうプログレスピリッツとDNAが、時代の変化・推移と共にマウマウを始めマシーン・メサイア、アイヴォリー・タワーといった現在(いま)を生きる21世紀の担い手達ヘ脈々と確実に受け継がれているのである。
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Zen on
16,2020
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今週の「夢幻の楽師達」は、実に意外なところで日本のロック史に於いて独自の作風と路線をひた走り、ほんの僅かな活動年数と少ない作品リリース数であったにも拘らず、大きな足跡を残しまさしく伝説的な名バンドとして、今でも尚プログレッシヴ系を含め多くの洋楽・邦楽のロックファンから絶大な賞賛と支持を得ている、文字通り孤高の存在として名高い“あんぜんバンド ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
あんぜんバンド ANZEN BAND
(JAPAN 1970~1977)
長沢博行:B, Vo
相沢民男:G, Vo
伊藤純一郎:Ds, Per
相沢友邦:G
中村哲:Key, Sax
今回「夢幻の楽師達」にて彼等を取り挙げた事に、当ブログを閲覧されている方々の極一部からは“えっ!あんぜんバンドってプログレなの…!?”と大なり小なりの疑問を抱かれる事であろう。
が、紛れも無く彼等あんぜんバンドは活動期間が僅かたった数年間であったにも拘らず、日本のロック史に於いて確実に揺るぎ無き大きな足跡を残し、俗に言う“伝説のバンド”などといった安易なカテゴリーには収まりきれない位のカリスマ性を秘めた唯一無比の存在として、解散してから30年以上経過してもその燻し銀の如き光沢と輝きは今でも失われていないと言っても過言ではあるまい。
私個人が彼等の存在を初めて知ったのは…遡る事1982年、当時リットーミュージック出版の「ロッキンf」夏の臨時増刊号として刊行された“日本のロック”で取り挙げられたのが最初だったと記憶している。
あの当時は飛ぶ鳥をも落とす勢いのあったRCサクセション始めYMO、子供ばんど、ピンク・クラウドを始め、デヴューしたばかりのラウドネスや、ベテランのバウワウ、そして当時のジャパニーズ・プログレの代名詞でもあったノヴェラなんかもカラー写真で紹介されてて、薄手の別冊誌ながらもそれ相応に内容が充実しており、資料性としての役割もかなり大きかったと思う…。
その“日本のロック”の中の、歴史を飾った名作セレクションなるモノクロ写真のページの中で、はっぴいえんど始め頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド、村八分、四人囃子…等と並んで紹介されていたのが、彼等あんぜんバンドの代表作にして最終作でもあった『あんぜんバンドのふしぎな
たび』だった。
モノクロ写真のアルバムフォトだったので、余りお世辞にも鮮明とは言い難かったものの、ルネ・マグリットの絵画を彷彿とさせる印象的な意匠に、初めて出会ってから年月を積み重ねても心の片隅で気に留めていた事だけは確かだった。
どういう音楽性なのか?とか、プログレッシヴの範疇に入るのか?といった予備知識すらもろくに無いのに、ジャケットのイラストのみで気になってしまうと言うのも些か強引で破れかぶれな言い方かもしれないが、そういった第六感が働いてくれたお陰で運命的な出会いやら、ハズレ無しの大当たりだったなんて事が結構とあったのもまた事実だった。
前置きが長くなったが、バンドのルーツを遡る事1970年…フロイドの『原子心母』が巷を席巻し、かのフード・ブレインがデヴューを飾ったロック激動の年に、今やかの青山学院大と共に箱根駅伝の名門校となった東洋大学の学生で軽音楽部に所属していた長沢博行(氏は何と同郷の新潟市出身!)、相沢民男、伊藤純一郎の3人によってあんぜんバンドは結成される。
中心人物にして音楽的リーダーでもあった長沢の言葉を借りれば“昔は今みたいに練習スタジオなんて無い時代だったから、授業そっちのけで部室に直行していた”そうな。
今では日本のプログレの範疇でも語られる彼等ではあるが、当然の如く最初からプログレッシヴなアプローチを試みていたという訳では無く、彼等のバックボーンにして音楽的な影響を与えたのが、グランド・ファンク・レイルロードやクリーム、エリック・クラプトン、ザ・バンドといったゴリゴリハード系王道のブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックだったというのも実に興味深い。
骨太系のアメリカン・ロックに傾倒していた相沢と伊藤をまとめていた長沢の手腕と才能も然る事ながら、スポンジの様に多種多彩な音楽要素を吸収し自らの音楽性として昇華してしまう長沢の柔軟なスタイルがあってこそ、あんぜんバンドの躍進と成長に繋がったと言っても異論はあるまい。
長沢自身“一種の開き直りですね。自分が影響を受けた音楽を、たとえ消化不良であっても外へ出さずにいられない前がかりの状態だったんです ”と言いつつも“それ相応にプレッシャーもありましたが、他のバンドがやっていない日本のロックを演っているという自負はありましたね”と、数年前の
インタヴューで当時を懐かしみながら回顧していた。
バンドは銀座スリーポイント始め渋谷のジアン・ジアンやBYGといったライヴスポットでの地道な演奏活動、学園祭出演、練習を積み重ねた努力の賜物の甲斐あって、次第に多方面から注目を浴びる様になり、多いときは一日に4つの学園祭での演奏を掛け持ちするなどの精力的な活躍が高く評価され、同時期に埼玉の浦和市(現さいたま市)を拠点とするロックコミュニティーURC(浦和ロックンロール・センター) という強力な後ろ盾からの支援を得てからは、以前にも増して水を得た魚の様に音楽活動に奔走する様になり、四人囃子や頭脳警察と共にURCの顔的存在として確固たる地位を築いていった。
前後して1974年8月に福島県郡山市で開催された伝説的なジャパニーズ・ロックフェスとして語り草になっているワンステップ・フェスティバル にも参加し、あんぜんバンドは名実ともに確固たる人気と名声を博したのは言うに及ぶまい。
補足ながらも…はっぴいえんどによる日本語のロック派と、フラワー・トラヴェリン・バンドによる本格的洋楽志向の英語のロック派とで二分していたあの当時に於いて、あんぜんバンドはブリティッシュ系洋楽のメロディーラインに日本語の歌詞を融合させる事に挑戦し成功した数少ない存在だったという事も付け加えておきたい。
地道な音楽活動が実を結んだ1975年、あんぜんバンドは徳間音工傘下の新興レーベルでもあったBourbon(バーボン)と契約を交わし、デヴュー作『アルバムA 』の録音に着手する事となる。
そもそもBourbonレーベル独自のポリシーというのが“地方都市のロックシーンに焦点を当てて取り挙げていく”という概念で設立され、埼玉のあんぜんバンド、石川のめんたんぴんといった地方都市で孤軍奮闘している実力派が、その気運の波に運良く乗る事が出来たというのも実に幸いであった(80年代のプログレ系の代名詞的存在だったキングNEXUSよりも先駆者的存在のレーベルだったのかもしれない)。
この頃ともなるとライヴ活動に於いてサポートとして相沢民男の実弟友邦と、長沢と共にメロディーメーカー的キーパーソンの役割を担った名マルチプレイヤー中村哲が正式にバンドメンバーとして加入していた。
試行錯誤と紆余曲折、そして過度のプレッシャーと自問自答の狭間に悩みながらも難産の末に産み落とされた待望のデヴュー作『アルバムA』は、ストレートにして疾走感溢れるハードロック色の濃い作風と、フォークタッチにソフィスティケイトされた温かみと和やかさが同居した後のニューミュージックにも相通ずる良質なポップス性とが違和感無く融合した、初々しさと斬新さの中にも殺伐としたメッセージ性を孕んだ意欲的な野心作に仕上がっている。
頭脳警察から触発されたかの様な当時のレパートリーナンバーでもあった“殺してやる”とか“あんたが気にいらない”といったヤバイ危険性を帯びた作品もあったが、残念ながら諸般の事情によりレコード化されることなくお蔵入りしてしまったものの、その反動で録音された収録曲の“けだるい”といった危険な匂いプンプンなナンバーから、某カルト教団みたいな顛末を謳った“ドアをしめろ”、ストレートな詞と曲調の“怒りをこめて”、そして次回作への布石にして橋渡し的な意味が込められたラスト曲の“月までとんで”では、浦和ロックンロール・センターの皆さんとの合唱をコラボレートした意欲的な秀作に仕上がっており、単なる凡庸なハード・ロックとは一線を画した多彩で奥深い側面までもが垣間見れる。
あんぜんバンドと言ったら、後にも先にも唯一シングルカットされた名曲“13階の女”を忘れてはなるまい。
曲名からして儚くも危うげな雰囲気漂う中で、どこかのどかでほのぼのとした曲調の中にも精神病院といったキーワードやら、「彼女にはもうこうするしかないのだ…13階の屋上から身を投げること 」といった自殺を幇助・助長させるかの様な皮肉と毒の込められた歌詞に、メジャーデヴューとの引き換えで得たもの失ったものとを相殺した彼等のささやかな反抗と抵抗が込められていて何とも意味深ですら感じさせる。
まあ…これが21世紀の現在だったら間違い無くレコ倫やらJASRAC始め、アホウな教育委員会とPTAが黙っている事無く発禁処分か放送禁止に持ち込んでいた筈であろう(苦笑)。
ちなみにシングル盤の“13階の女”のジャケットは、ヨーロピアン・デカダンス調に全裸の外国人女性が横たわっているモノクロセピアな写真なので一見の価値は大である。更に補足すると“13階の女”は、アルバム収録ヴァージョンとシングルヴァージョンとでは若干アレンジが違っており、シングルの方ではかの佐藤允彦がシンセサイザーとメロトロンでゲスト参加しているので、御興味のある方は是非ともお聴きになって頂きたい。
『アルバムA』で得られた高い評価を追い風に、1975年フジテレビでオンエアされていた東映製作の刑事ドラマ『新宿警察』のオープニングとエンディングをシングルリリースし、同時進行で早々に新作の準備に取り掛かるも、ここで長年苦楽を共にした相沢民男が諸般の事情でバンドを抜ける事となるが(目指す音楽の方向性の違いを感じていたのかもしれない…)、バンドは音楽性の更なる強化を図る上でこのまま4人編成の布陣で次回作へと臨む事となる。
この事がプラスの方向へと大いに功を奏し、前作で感じられた荒削りで刺々しいイメージを払拭した“これぞ、あんぜんバンドの音”と言わしめる位のインパクトを持った、名実共に彼等の最高傑作にして日本のロック史に燦然と輝く名盤と名高い『あんぜんバンドのふしぎなたび 』が、翌76年9月1日にリリースされた。
前述したマグリットを思わせるファンタジックなイラストに包まれたイメージに違わぬ、1stでの厳つい危険なイメージから180度転換した、長沢の目指す創作性を重視した純粋なまでの音楽的感動が見事に昇華結実した日本ロック奇跡の産物と言っても過言ではあるまい。
ジャズ・ロック的なアプローチを試みた2曲のインストナンバー“果てのない旅”と“ANOTHER TIME”の充実さも然る事ながら、前作の延長線上にしてどこか寂寥感漂うダークで偏屈なナンバー“時間の渦”(ヴォーカルにエフェクトをかけたギミックさが不気味)、軽快でストレートなプログレ・ポップス調な“夕陽の中へ”と“貘”、鳥の囀りや動物の声といった効果音を多用した楽しくて爽やかなイマージュを想起させる“おはよう”、四人囃子の「おまつり」のアンサーソングとして呼び声が高く言葉遊びが実に小気味良い“お祭り最高”(「嗚呼…サイケデリックだなァ」の台詞は爆笑必至)、そして本作品がプログレッシヴの最重要作品として言わしめている要因として最も秀でた2曲“闇の淵”とラストナンバーの“偉大なる可能性”の素晴らしさだけでも、本作品最大のセールスポイントと言えるだろう。
“闇の淵”は、イタリアのレーアレ・アカデミア・ディ・ムジカを思わせるピアノワークにビリーバンバンを思わせる長沢の抒情的で哀愁を帯びたヴォーカルは落涙必至であるし、ラストの“偉大なる可能性”は、作品全体に漂う夢と希望を綴った人間賛歌そのものであると同時に、曲終盤で聴ける広大な地平線の広がりを想起させるクリムゾンの宮殿ばりのメロトロンの洪水は、最早感動以外の何物でも無い…。
これだけ高水準な作品をリリースし、さあ!いよいよこれからという矢先であったにも拘らず、数回の公演を消化したその翌年、バンドは急に活動を一切停止しそのまま自然消滅へと辿っていった次第であるが、アルバムのセールスが好評で、尚且つメンバー間にも不和など無かった様にも思えるのだが、長沢自身にしてみれば「自らが演りたいと思っていた事を、『ふしぎなたび』で全力を出し切った」と万感の思いで、バンドがベストな状態の時だからこそ…敢えてあんぜんバンドと訣別するべきだと断腸の思いだったのかもしれない。
バンド解体以降…所在と後の動向が判明しているのは長沢と中村哲だけで、長沢は本名の博行からヒロへと改名し、自らの名を冠したHIRO…そしてPEGMOといったバンド活動を経て、80年代にかけてはアイドル関係の作詞作曲を手掛けつつ、それ以後は和太鼓をフィーチャリングしたGOHANなる音楽創作集団に所属する一方で、アニメーション、CM関連での作曲とアレンジャーで多忙を極めつつ、年に何度かかつてのバンドのオリジナルメンバーが集って(限定期間ながらも)再結成ライヴを催したりと今なお現役第一線で活動しており、昨年2019年2月には生まれ故郷の新潟市で帰郷ライヴを行い伝説の名曲“13階の女”を演奏している。
日本版のイアン・マクドナルドを目指していたであろう中村哲は、その後スペクトラムに参加し瞬く間に脚光を浴び、スペクトラム解散後は長沢と同様に彼もまた音楽業界に身を置いて独自の活動を継続している。
バンド関連のアーカイヴに関しては…URC(浦和ロックンロール・センター)主催の1974年から76年にかけてのライヴを収録した、貴重な高音質のマスターテープが偶然にもURCの関係者宅から発見され、2006年にCD化が成されているが、惜しむらくは現在は廃盤に近い状態なのが悔やまれる。
貴重な未発表曲もあるばかりではなく、四人囃子の坂下秀実がゲスト参加したツインキーボード編成によるライヴ音源もあるとの事なので、それも非常に気になるところである…。
駆け足ペースで進めてきたが、活動期間がたった僅か数年間であったにも拘らず、あんぜんバンドが遺した偉大なる足跡とその方法論にあっては、後々の今日にまで至る数多くのジャパニーズ・プログレバンド達にそのDNAが受け継がれたりリスペクトされようとも、容易に近付ける様に見えてなかなか辿り着けない頂の極みに今でも君臨しているのが正直なところと言えるだろう。
喩え彼等の楽曲がコピー出来たとしても、その時代性とイディオム、アイデンティティーにあっては誰も真似出来ないし二度と再現出来ないのもまた現実でもある。
日本語による日本のロックに真正面から真摯に向かい合ったあんぜんバンド。
それはリーダーの長沢自身にとってもただの青春の一頁では決して終わらないだろうし、単なる思い出で留めておく事など出来やしない、まさしく彼等なりの「俺達の時間」でもあり「生きた証」そのものであったと言えないだろうか…。
現在の安易でお手軽コンビニ感覚な、毒にも薬にもならないJポップという名で商業音楽化した日本のミュージック・シーンが失った“魂の叫び”が彼等の音楽には脈々と息づいていて、バンドが解散して早40年以上経った今でも色褪せる事無くリアルに体感出来る稀有な存在と言っても過言ではあるまい。
よくある例え話で誠に恐縮ではあるが、仮にもしも長沢氏に“あんぜんバンドの最新作”なんて話を持ち掛けたところで、謙遜で一笑に伏されたとしてもやはり彼等の音楽を愛して止まない者にとっては、喩えほんのコンマゼロに近い低い確率でも一縷の望みとして再結成の希望を託してみたいと思いたいところだが、果たして…?
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