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09,2020
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2020年、今年最初の「一生逸品」をお届けします。
今回はドイツ(旧西独時代)から、70年代最後の正統派シンフォニックの申し子にして…同国のアイヴォリーと共にジェネシス・チルドレンの最右翼という名誉と称号を得ていると言っても過言では無い、まさに「一生逸品」という名に恥じない金字塔的秀作を唯一遺した“ノイシュヴァンシュタイン ”に焦点を当ててみたいと思います。
NEUSCHWANSTEIN/ Battlement(1979)
1.Loafer Jack
2.Ice With Dwale
3.Intruders And The Punishment
4.Beyond The Bugle
5.Battlement
6.Midsummer Day
7.Zartlicher Abschied
Thomas Neuroth:Key
Klaus Mayer:Flute, Syn
Roger Weiler:G
Frederic Joos:Vo, Ac-G
Rainer Zimmer:B, Vo
Hans-Peter Schwarz:Ds
「初期及び中期のジェネシスに影響を受けたグループは世界中に数多く存在するものだが、それらのうち出来の良い例と余りにもお粗末な駄作の二つに大別されるケースがかなり見受けられる様だ。ここに登場するノイシュヴァンシュタインは、ゲイヴリエル在籍時のジェネシスの血筋を見事に脈々と受け継いだグループであると言える。が、それ以上にスリリングかつドラマティックな曲の展開や各パートの奏法において、オリジナルよりもはるかな力量を発揮している。朽ち果てた中世の城跡のカヴァーワークをそのまま音にしたと言ってもいいだろう。単なる物真似やコピーという低次元な目標にとどまらず、より以上に彼等の根底にはヨーロピアン古来の構築美と様式美が生き続けているのである。」 (マーキー刊・1987年版『ユーロピアン・ロック集成』より抜粋)
お恥かしい限りではあるが、上記の余りにも拙い文面…これは私自身がまだ若い時分マーキー在籍中にユーロ・ロック集成にて執筆したノイシュヴァンシュタインの紹介レヴューである。
改めて今読み返してみると、あの当時は情熱には燃えていたものの些か未熟な部分が散見出来る事この上ないなぁと思えてならない(苦笑)。
70年代~今世紀の現在にかけて、全世界中のプログレッシヴ・ロック・フィールドにおいて多大なる影響を及ぼしたジェネシス。
ゲイヴリエルないしハケット在籍時の黄金期の名作群『侵入』~『静寂の嵐』で培われた気運と精神、そして作風は後のプログレ停滞期(低迷期)の70年代末期~80年代のアンダーグラウンドなフィールドにおいて、その威光と気概を受け継いだ子供達=若きプログレッシャー達…顕著なところで、本家のイギリスからはイングランドやIQ、オーストリアのキリエ・エレイソン、スイスのデイス、アメリカのバビロン、我が日本からは新月やページェント…etc、etcの輩出に至ったのは最早言うまでもあるまい。
皮肉な話だが…プログレスする事を捨て去り安易なポップ化による商業路線に転換した本家ジェネシスとは対照的に、前述のジェネシス・チルドレン達は「プログレ冬の時代」と言われた苦難な時期において、自らのプログレス精神を初志貫徹の如く、嘘偽り無く貫き通し短命(昨今のイングランドやIQを除き)ながらも珠玉の名作を遺していった。
ドイツにおいても旧西独時代、ジャーマン・ロック(ハードロックやプログレッシヴも含めて)特有の臭さから漸く脱却が感じられつつあった70年代末期、ジェネシス影響下の最右翼アイヴォリーと共にその名を轟かせる事となる彼等こと、ノイシュヴァンシュタインは唯一の作品『Battlement』で79年ラケット(ロケット?)・レーベルより細々とデヴューを飾った次第である。
バンドの歴史はムゼアからのバイオグラフィーによると(私自身拙い語学力で誠に申し訳ないものの…)、1971年Saarlandという地方都市にて幼少の頃からクラシック音楽の教育を受けていたハイスクールのクラスメイトだったThomasとKlausの二人を中心にノイシュヴァンシュタインの母体となるべきバンドが結成される。
結成当初から、イエス始めリック・ウェイクマン、ジェネシス、ジェスロ・タル、キャラヴァン、ウィッシュボーン・アッシュ、果てはアトール、ノヴァリス…等から影響を受けたシンフォニック・ロックを目指していたとの事であるが、結成から3年後の1974年ルイス・キャロル原作の「不思議の国のアリス」をモチーフに曲を書き、同年に開催されたロックコンテストにてシンフォニック・スタイルのプログレッシヴなサウンドで聴衆を魅了し見事優勝を遂げ、これを機にアリスの世界観をステージで再現した演劇仕立てのロックショウで一躍注目を集め、以降2年近くドイツ国内並びフランスでギグを展開し(その間も若干メンバーの変動こそあったが)、基本インストオンリーでドイツ語による語りという作風で、初期の傾向としてはジェネシスよりもむしろノヴァリスやグローブシュニット、ヘルダーリンに近いジャーマン・シンフォニックを演っていたと捉えた方が妥当かもしれない。
同時期にホームレコーディングで収録された『不思議の国のアリス=Alice In Wonderland 』のデモ音源を完成させ、ドイツ国内の大小を問わず各方面のレコード会社に持ち込むものの、門前払いなのか方向性の相違なのかは定かではないが、結局諸般の事情等が運悪く重なってしまい『Alice In Wonderland』はお蔵入りという憂き目に遭い、以後数十年間寝かされたまま長い沈黙を守り続ける次第であるが、21世紀の後年『Alice In Wonderland』は意外な形で陽の目を見る事となる…。
バンド結成以降初めて挫折なるものこそ経験したが、その半面バンドにとっては最良の出来事が待っており、件のアリスツアーの途中でフランス人ヴォーカリストFrederic Joosとドイツ人ギタリスト
Roger Weilerとの出会いはバンドの音楽性を更なる飛躍へと向かわせ、ヴォーカルをメインとしたスタイルへと変えたノイシュヴァンシュタインは御大ジェネシスをリスペクトした楽曲へと自己進化(深化)を遂げ、当時既にビッグネームだったノヴァリスのオープニングアクトを務めながら、1978年10月かの名作級のデヴュー作『Battlement 』の録音に着手する事となる。
概ね10日間という限られた日数と分刻みのスケジュールで半ば突貫工事に近いレコーディングではあったものの、バンドメンバーは臆する事無く録音に臨み苦労の末漸くマスターテープの完成までに漕ぎ着けたのは言うに及ぶまい。
その後当初のミックスダウンに満足出来ず、翌1979年に再度リミックスを試みプレスの段階まで辿り着いたのも束の間、ヴォーカリストのFredericとベースのRainerの両名がバンドを抜けるという予期せぬ出来事が追い討ちをかけ、難産の末にデヴューリリースされた『Battlement』も成功にはやや程遠い6000枚近いセールスで終止するといった結果となってしまう。
オープニングの冒頭から12弦アコースティック・ギターのトラディッショナルでたおやかな調べに導かれ、分厚いキーボード群にリズム・セクションが軽快に加わると、そこはもう紛れも無くジェネシス・ワールド…或いはスティーヴ・ハケットないしアンソニー・フィリップさながらの音世界が繰り広げられ、続く2曲目以降もアコギとフルートによる雄大な調べにゲイヴルエル調の演劇がかった歌い回しに古のジェネシスの残像を見出す事が出来るだろう…。
然るに今回は全曲云々がどうとかの紹介は抜きに、全曲総じて徹頭徹尾に至る初期ジェネシスイズムで染め上げられ、ラストまで一気に中弛み無しに中世欧州浪漫が堪能出来る筈である。
ちなみにオリジナルアナログLP原盤とムゼアからリイシューされたCDとで比較してみると、要所々々で楽曲に若干の変化が見受けられるが、バンドギタリストだったRoger自らが運営している音楽スタジオにて、ムゼアサイドのリイシューCDの為に、『Battlement』のマスターテープを再度リミックス・リマスターしたもので、その甲斐あってかオリジナルLP原盤をお聴きになって既に音を知っている方々でも、まるで全く別な新しい作品を聴いているかのような新鮮な気持ちになる事だろう。
音がムゼア流にきれいにキチッと整理されている分、オリジナルで感じられた牧歌的でトラディッショナルな趣、初々しくも荒削りな魅力の良い深味が半滅気味というきらいは無きにしも非ずではあるが作品としてのクオリティーは決して下がる事は無いので誤解無きように…。
付け加えておくと…冒頭1曲目のみドラマーがHans-Peterではなく、かのジャーマンメタルの大御所スコーピオンズに在籍していたHermann Rarebellであるとの事。
更にはオリジナルLP盤未収録でシングル向きに録音された“Midsummer Day”がボーナストラックとして6曲目に収録されているというのも実に嬉しい限りである。
ジェネシス影響下のテイストも去る事ながら、やはり一見地味な趣ながらもセピア色にくすんだ中世の城跡のフォトグラフにオリジナルLP盤の裏面のフォトグラフ…暗雲垂れこめる空の下、広大な山々に囲まれた湖畔の水面を思わせる悠久の調べと幽玄なまでの美を体感出来る事だろう(個人的にはもっとプログレッシヴを意識したそれっぽい意匠であれば、また違った評価を得られたと思うのだが…)。
FredericとRainerがバンドを去った後も、新たなヴォーカリストとベーシストを迎え音楽的方向性やら路線を変える事無く、デヴューアルバムのセールスこそ振るわなかったものの、ドイツ国内での人気は決して衰える事無く、以降もノヴァリスやルシファーズ・フレンドと共演しながら活動を継続していくものの、バンド内部での心身の疲弊に加え音楽活動に見切りを付けて生業に就きたいというメンバーの意向を汲んだ形で、ノイシュヴァンシュタインは1980年静かに人知れず自らの活動に幕を下ろすこととなる…。
ノイシュヴァンシュタインも他のプログレッシヴ・バンド達と同様御他聞に漏れず、バンドは解散した後に於いてもその素晴らしき唯一作だけが独り歩きし、人気と実力が鰻上りに再評価されて見直されるといった具合に、1992年にムゼアからのリイシューCDを経た後、更には21世紀ともなると1976年にデモ音源のマスターテープだけが遺された『Alice In Wonderland』がムゼアの尽力により、2008年遂にCD化されて陽の目を見るという快挙を成し遂げ、ノイシュヴァンシュタインは名実共にその名をプログレッシヴ・ロック史に刻む事となった次第である。
バンドが改めて再評価されるという機運を得たかつてのリーダー兼コンポーザーThomas Neurothは、再び創作意欲を取り戻しバンドの再建へと自らを奮い立たせ『Alice In Wonderland』リリースから8年後の2016年、Thomas主導で大所帯の新メンバーによるノイシュヴァンシュタイン名義実に37年ぶり現時点での珠玉の最新作『Fine Art 』をリリースし、正統派ユーロ・シンフォニックロックが持つ芸術性と美学、アーティスティックな感性が光り輝く、バンド本来の持ち味に加えて長年培われた実力と底力が垣間見える最高の贈り物となったのは最早言うまでもあるまい。
ノイシュヴァンシュタインが70年代に遺した…ジャーマン・シンフォニックシーン随一のロマンティシズムとリリシズムの結晶とも言うべき唯一作にして偉大なる遺産。
伝統美に裏打ちされつつも、ある種突き抜けた様な開放感を伴った明るく垢抜けた音楽性と方法論は、後々のエニワンズ・ドーターを始めとする80年代ジャーマン・シンフォニック…そして21世紀今日のメロディック系シンフォニックへと伝統の如く脈々と流れ、新たに生まれ変わったノイシュヴァンシュタイン共々ドイツ・ロマンティック街道さながらの美意識が今もなお生き続けているのである。
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16,2020
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3月もいよいよ半ば、今週の「夢幻の楽師達」は70年代ジャーマン・ロックシーンの一時代を駆け抜けていった唯一無比にして孤高の音楽集団でもあった“ヴァレンシュタイン ”に今一度栄光の光を当ててみたいと思います。
WALLENSTEIN
(GERMANY 1971~1982)
Jürgen Dollase:Key, Vo
Harald Grosskopf:Ds, Per
Jerry Berkers:B, Vo
Bill Barone:G
長きに亘るユーロピアン・ロックの歴史に於いて、70年代に於いてその頭一つ飛び抜けた音楽性と創造力でイタリアのシーンと共に人気を二分してきたドイツのシーン。
ジャーマン・ロックを語る上で必ずといって良い位に引き合いに出されるであろう、複雑怪奇に絡み合う雑多で様々なキーワード…サイケデリック、アヴァンギャルド、エレクトリック・ミュージック、トリップミュージック、クラウトロック、メディテーショナル、エクスペリメンタル、ドラッグカルチャー、LSD体験、フラワームーヴメント、ヒッピー&コミューン、ラヴ&ピース、etc、etc。
各方面でもう既に何度も語られてきた事であるが、ジャーマン・ロックはそのドイツ人らしい国民性と感性が反映された、知的探究心と観念の音楽そのものと言っても過言ではあるまい。
無論ドイツのロックシーンは決してそれらの精神的解放と革命を謳った系統ばかりだけではなく、ゲルマンのロマンティシズムとリリシズム溢れるシンフォニック・ロック、或いはブリティッシュ・ハードロックからの影響と流れを汲んだ大御所スコーピオンズやハロウィーンを輩出したジャーマンHR/HMとて、ジャーマン・ロック史の一時代を形成してきた上で見過ごす訳にはいかないであろう…。
70年代初頭、ジャーマン・ロック黎明期ともいえるその幕開けに呼応するかの如くその独特なサウンドカラーと個性、創造力を彩った3つのレーベルが産声を上げた。
耳のマークで数々の名作を世に送り出したOHR(オール) 、そのオールに相反する音楽性に加えジャーマントラディッショナルとフォークタッチで牧歌的な素晴らしい作風を誇り、後年のシンフォニック系にも相通ずるキノコのマークでお馴染みのPILZ(ピルツ) 、そしてオールとピルツそれぞれ良質なエッセンスを吸収し融合した短命ながらも数々の忘れ難い作品を輩出したKOSMISCHE(コスミッシェ) こそが、後々のジャーマン・ロックの根幹を位置付ける役割を担い一時代の形成にひと役買った事は最早言わずもがな周知の事であろう。
そんな時代の潮流と追い風を受けるかの様に、1971年…当時アートスクールの学生だったJürgen Dollaseを筆頭にドラマーHarald Grosskopf、オランダ人ベーシストJerry Berkers、そしてアメリカ人ギタリストBill Baroneの4人編成でヴァレンシュタインの前身でもあるBLITZKRIEG(ブリッツクレイグ=電撃戦) なるバンドが結成される。
バンド結成以降数々のライヴイヴェントに参加し腕と経験を磨きつつ、幼少期からバッハやベートーヴェンといった自国のクラシックに馴れ親しみ音楽教育に研鑽していたJürgenのリリカルで瑞々しいピアノを主軸としたその独特な音楽世界観が発足間もないPILZレーベルの関係者の目に留まり、まるで互いに引き合うかの如くバンドとレーベルサイドとの共鳴と思惑が一致し程無くして契約までに辿り着けたものの、折しもイギリス国内でBLITZKRIEGなる同名バンドが既に存在していたが為、バンドサイドは急遽シラーの戯曲でオーストリア傭兵隊長の名前で物語の主人公でもあるヴァレンシュタインへと改名し、同年末にかけてレコーディングされたデヴュー作はかつてのバンド名だった『Blitzkrieg 』を冠してリリースされる運びとなる。
Albrecht Von Wallenstein (1583-1634)
英語の歌詞をメインにJürgenの素晴らしいキーボードワークに加えて、ギタリストBillのアメリカ人ならではのヘヴィでゴツゴツとした硬質なギタープレイとが相まって、フォークタッチなカラーが謳い文句なPILZレーベルの作品には珍しく幾分ハードロック寄りな作風に仕上がっており、当時ドイツ国内のバース・コントロール、ネクター、フランピーといったジャーマン・ハードロック黎明期のバンドに準ずるところが多々感じられる。
デヴュー作が概ね好評でドイツ国内サーキットでも既に大きな実績を得ていた彼等は、翌72年早々と2作目の製作と録音に録りかかる事となる。
全4曲大作指向だったデヴュー作に於いて彼等自身も大なり小なり抱いていた不満とも言うべき散漫な感と粗削りな編集を改めて反省材料とし、2作目の録音では時間をかけて編集を積み重ね作風と曲をきちんと整然にまとめて、より以上に親近感を抱かせる傑作へと昇華させていった。
そして同年夏にリリースされた2ndは『Mother Universe 』として世に送り出され、初期ジャーマン・シンフォニックの傑作としてバンド共々確固たる地位を築き上げ、ドイツ国内でのヴァレンシュタイン人気を決定付ける契機となったの最早言うには及ぶまい。
ドラマティックで時に感傷的な激情すら思わせるピアノにメロトロン、オルガンを奏でるJürgenの素晴らしさはデヴュー作以上に冴え渡り、Jürgenの曲想を支えるメンバーの好演も見逃してはなるまい。
ちなみに今では有名な語り草となっているが、ジャケットワークに起用された高齢の御夫人の写真のモデルはバンドリーダーでもあるJürgenの祖母で撮影はドラマーのHaraldによるもので、何ともアットホームな温もりを感じさせる手作り感が微笑ましい限りである。
余談ではあるが、2ndリリースと前後してJürgen自身が主宰するコミュニティー“オルガニザツィオーン・ヴァレンシュタイン”が発足したのもちょうどこの頃で、音楽のみならず芸術関連、文学、科学の分野にまで幅広く活動範囲を広めていき、昨今のSNSといったネットワークツールが無かった
当時、もう既にそれらの先駆的な一歩を試みていたというのが何とも驚きでもある。
下世話な推測かもしれないが、奥ゆかしくも意味深なタイトルに加えてJürgenの祖母を起用した素朴な感のジャケットデザインに、多少なりともPILZレーベル側の意向にバンドサイドが沿ったと思えるのは私自身の考え過ぎであろうか…。
『Mother Universe』はドイツ国内外でも高い評価を受け、当時フランスの音楽誌BESTでも月間ベストアルバムに選出され、ヴァレンシュタインも意気揚々と志を高めていくものの、同年秋にオリジナルメンバーだったベーシストのJerry Berkersがソロ活動に専念する為バンドを脱退する(ちなみにJerryのソロ作品にはJürgenとBillがバックで参加している)。
残念な事にソロに転向したJerry Berkersは後年LSDの過剰摂取で端を発した精神的な疾患に悩まされ、ソロ作品を録音中に病から併発した不慮な事故がもとで他界してしまう、改めて合掌。
Jerry脱退後ヴァレンシュタインは後釜ベーシストを入れず、暫くの間はトリオ編成で活動しアリス・クーパーばりのド派手メイクでドイツ始めスイス、フランス国内のツアーサーキットを敢行し大きな話題と評判を呼ぶ事となる。
翌73年ともなるとヴァレンシュタインを取り巻く環境が大きく動き出し、先にも触れたKOSMISCHEレーベルが主催する“アシッド・パーティー”なるセッション活動に招聘されPILZとの契約満了と時同じくしてKOSMISCHEへの移籍を快諾。
新たな空気を取り入れるべく心機一転後釜ベーシストとしてDieter Meierを迎え、更にはヴァイオリニストにJoachim Reiserを加えた鉄壁を誇る5人編成となって、同年『Mother Universe』と並ぶジャーマン・プログレッシヴ史に燦然と輝く金字塔とも言える最高傑作『Cosmic Century 』をリリース。
製作環境が新しくなった事が幸いしたのか、今まで培われた経験と実績が思う存分如何無く発揮され、Jürgenそしてバンドの思いの丈がギッシリと詰め込まれた縦横無尽に繰り広げられる幻想音楽物語は、まさしくアナログLP時代のA面丸々費やした“The Symphonic Rock Orchestra”と銘打った組曲大作を含め全収録曲のどれもが一切の無駄や妥協が微塵も感じられず、Jürgenのキーボード群の活躍に加えて、Billの力強いギターに、新加入のJoachimの目を瞠る様な素晴らしいヴァイオリン、強固なリズム隊といった全てが集約され渾然一体となった燻し銀の如き至高と珠玉の芸術品に相応しい一枚に成り得たと言っても異論はあるまい。
勿論、芸術性が光る中にも程良いポップスなセンスと垢抜けたような明るい開放感、力強いロックな手応えも忘れてはなるまいが…。
鳴り物入りでリリースされた3rd『Cosmic Century』は国内外でも高い好評価と上々の評判を呼び鰻登りにセールスを伸ばしていくものの、レーベルの思惑とは裏腹にバンドサイドではベーシストのDieter Meierがリリース直後に脱退するといったゴタゴタが巻き起こっており、予定していたツアーがままならない状態に陥ってしまった。
程無くして後釜ベーシストにJürgen Plutaを迎えるも、メンバーの心身の疲弊が積み重なってしまったが為にヴァレンシュタインは半年近く活動を休止。
その間Jürgen Dollase発案によるプログラム・ミュージックなるアイディアを基に翌74年通算第4作目にしてプログレッシヴ・ロック時代最後の輝きを放つ『Stories, Songs & Symphonies 』をリリースし、ロック、クラシック、ジャズとの融合を試みるというコンセプトを明確に打ち出したものの、ファンタジックなアートワークに相反するかの如く休止期間が災いしたのかバンドのパワーダウンは否めないといった有様で、セールス的にも伸び悩みバンド結成以来の挫折と失敗を味わってしまう。
決して出来は悪くないがデヴューから前作『Cosmic Century』までに感じられた豪快さと重量感に欠ける嫌いは正直頷けよう…。
肯定的に綴ってしまえば『Cosmic Century』ばりの高度な完成度には及ばないが、楽曲の繊細さと実験的な試みばかりが際立っている佳作と言った方が正しい向きなのかもしれない。
4作目の商業的失敗に加えて同時期に於いて不運にもKOSMISCHEレーベルが経営難を含めた諸事情で消滅するという憂き目に遭い、ヴァレンシュタインというバンドとしての結束力は徐々に綻び始め、翌75年長年苦楽を共にしてきたドラマーのHaraldとギタリストのBillが揃って脱退し、ヴァレンシュタインのオリジナルメンバーはとうとうバンドリーダーJürgen Dollaseだけとなってしまい、Jürgen自身もバンドの建て直しを図るために止む無く一時的な解散を下す事となる。
翌76年後任のドラマーとしてNicky Gebhard、ギターにGerb Klockerを迎えるものの、バンドの方向性に疑問を抱いていたヴァイオリニストのJoachim Reiserが抜けてしまい、最早この時点においてヴァレンシュタインはプログレッシヴ・バンドから訣別していたと言っても異論はあるまい。
Jürgen Dollase、Jürgen Pluta、Nicky Gebhard、Gerb Klockerの4人編成で77年新生ヴァレンシュタインが始動し、過去での実績が買われて大手のRCAに移籍後かつてのプログレッシヴ期の名残を留めつつもエレクトリック・ポップ色を強めた『No More Love』をリリース。
皮肉にもSF的でポルノチックなアダムとイヴのフォトグラフを起用したジャケットワークが、当時かなりの話題を呼んだとの事だが、いかんせんここでの新生ヴァレンシュタインはもはや別バンドとして捉えた方が賢明だと思う。
以後、Jürgen Dollaseを残しメンバーの総入れ替えやら増減を繰り返し、当時世界的規模で席巻していたディスコティック路線を意識した『Charline』(1978 )を始めとし、『Blue Eyed Boys』(1979 )、『Fraüleins』(1980 )、『Ssssssstop!』(1981 )と1982年の解散に至るまでコンスタンスに作品をリリースするも、よもやヴァレンシュタインはゲルマンのロマンティシズムやリリシズムを完全に捨て去った、シングルヒット連発のコマーシャリズムと商業路線重視のポップスバンドとして成功を収め、かのスコーピオンズと共にヨーロッパツアーをサーキットするが、ラストとなった『Ssssssstop!』がセールス不振で不発に終わり、Jürgen Dollase自身もミュージシャン活動からきれいさっぱり足を洗い引退を宣言し、バンド結成から11年後の1982年ヴァレンシュタインはその長きに亘る活動から静かに幕を下ろす事となる。
ヴァレンシュタイン解散後のメンバーのその後の動向として現在判明している限りでは、先ず音楽的リーダーでもあったJürgen Dollaseは音楽を含めた創作活動から完全に退き、現在はドイツ国内にて料理評論家として名を馳せて大成功を収め、今もなおグルメ業界の第一線の現役として精力的に東奔西走の日々を送っているとの事。
ヴァイオリニストのJoachim Reiserは現在メンヒェングラートバッハにて居を構え、そこの地元音楽学校にてヴァイオリン講師として今もなお勤続しており、80年代半ばにはロックとオーケストラとの融合の為に多数ものスコアを書き下ろし、それら一部の楽曲が母国ドイツの音楽出版社による編さんで楽譜集として刊行されており、営利目的では無い流通手段を通じCDとしてもリリースされている。
ちなみに一部ではJoachim Reiserは多量のアルコール摂取による健康障害で亡くなってしまったと報じられているが、それは全くの誤りで…極度のアルコール依存症に陥ったのはJoachim Reiserではなく2代目ベーシストのDieter Meierであって、1986年にメンヒェングラートバッハの病院で逝去したというのが正しい。
アメリカ人ギタリストのBill Baroneはヴァレンシュタインから離れた後、母国アメリカに帰国しそこでいくつかのバンドでプレイした後、フィラデルフィアにて土建業の重機関係の仕事にも携わる様になり今も何人かの社員を雇って忙しい日々を送っている。
ちなみにBill自身、初代ドラマーのHarald Grosskopfとは現在も親交があり、インターネットを経由して互いに近況の連絡を取り合ったり、ドイツとアメリカを行き来している間柄であるとの事。
その初代ドラマーHarald Grosskopfと3代目ベーシストのJürgen Plutaの両名が現在もなお音楽業界の第一線として活躍しており、特にHarald Grosskopfにあってはヴァレンシュタインから離脱後はクラウス・シュルツ始めアシュラに参加し、80年代全般ともなるとニューウェイヴ関連やテクノポップの分野にて後進の育成やらプロデュース業に貢献し、21世紀の今もなお併行して自身のソロ作品で精力的に活動しているのが嬉しい限りでもある。
ヴァレンシュタイン解散から早30年以上が経過し、プログレッシヴ・ロックを巡る世界的規模の情勢も大きく様変わりしている昨今、今や外野的な立場としてプログレッシヴのOB的な視点で、現在(いま)を生きる21世紀のプログレッシヴの担い手に対し、かつてヴァレンシュタインのメンバーだった彼等の目にはどう映っているのだろうか…。
もし、仮に何らかの機会でSNS等のネットにてかつてのリーダーだったJürgen Dollaseに、開口一番“『Cosmic Century』はプログレッシヴ・ロックの歴史に残る名盤で最高傑作でした!”と切り出したら、“あれはもう過去の事”と一蹴ないし苦笑されるのがオチなのだろうか…。
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27,2021
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2021年、また新たな一年が始まりました。
14年目を迎える『幻想神秘音楽館』、どうか本年も宜しくお願い申し上げます…。
コロナ禍が未だ収束の兆しが見られないまま新たな一年を迎え、外出制限やら緊急事態宣言が何かと取り沙汰され物議を醸すさ中、ワクチン接種という一縷の望みが待たれる…そんな焦燥と希望の狭間で困惑している昨今、ほんのささやかながらも文化と芸術の力が、人が生き続ける為の大いなる可能性と希望に繋がってくれる事を願わんばかりです。
さて…本年最初にお届けする「夢幻の楽師達」は、70年代のジャーマン・シーンに於いて定番ともいえるクラウトロックやエクスペリメンタル、エレクトリック系とは一線を画し、ドイツならではの伝統と抒情性に裏打ちされたロック&フォークスタイルを地で行く、短命な活動期間ながらもリスナーの心に深く刻み付ける珠玉の2枚の名作・名盤を遺し、21世紀の今もなお孤高の存在として認知されている、ジャーマン・プログレッシヴ黎明期の名匠に位置する“ウインド ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
WIND
( GERMANY 1971~1972)
Steve Leistner:Vo, Per
Thomas Leidenberger:G, Vo
Andreas Bueler:B, Per, Vo
Lucian Bueler:Key, Per, Vo
Lucky Schmidt:Ds, Per, Mellotron, Piano
80年代半ば…自分自身がまだ20代前半だった時分のこと、年に数回上京しては当時豊島区にあった小さなアパートの一室で運営していたマーキー編集部に足繁く顔を出し、その流れの延長で西新宿界隈のUK.EDISONや新宿レコード、キニー始め、東新宿のディスクユニオン、果ては下北沢のモダーン・ミュージック、目白のユーファにも足を運んでは知り合った友人達との情報交換やら、展覧会の絵の如く店舗内の壁に掛かった、一枚ン万円単位という高額プレミアム付の稀少盤・廃盤を垂涎の眼差しで凝視していた、まあ所謂若さ故のプログレッシヴ愛で熱く燃えていた良い意味で血気盛んな青い若造だった事を、今でも時折懐かしくて気恥ずかしくなる思いに捉われることしきりである(…その分自身が歳を取ったということだろうか)。
壁に掛かった高額レコード盤といえば、あの当時既に至宝の称号を欲しいままにしていたイタリアのクエラ・ベッキア・ロッカンダ始めオパス・アヴァントラ、イギリスのクレシダ『Asylum』、グレイシャス『!』、スプリング、そしてフランスのエマニュエル・ブーズ『Le Jour Où Les Vaches…』…etc、etcと枚挙に暇が無い位、文字通り宝の山さながらの様相だったことを今でも鮮明に記憶している。
そんな中でも犬も歩けば棒に当たるの諺通り、必ずと言っていい位の確率で壁に掛かっていたりレコード棚に鎮座していたのが、今回本篇の主人公でもあるウインドの『Morning』だったのは言うに及ばず。
まだまだ青かったプログレ若葉マークみたいな自分でも、既に高校時代フールズメイトのスペシャル別冊編集エディションにて掲載されていたプログレッシヴ・ロック100選の中でお目にかかっており、その如何にもドイツ然としたメルヘンチックで一見ややもすると海外からのお土産のクッキーの缶をも連想させる様なイラストレーションに面食らうやら苦笑いするやら、それだけ印象インパクト共に大だった事に加え、クリムゾンばりのメロトロンが聴けるという触れ込みもあって、店内の友人知人に片っ端から感想と評判を伺ったものの「ジャケットだけが売りで、音的にはそんな大したこと無いよ…」といともあっさり冷淡に切り捨てられたものだから、結局のところ「嗚呼…そうなんだ」と自分に言い聞かせつつも、話のやり取りを聞いていた店長が「じゃあ、試しに聴いてみる?」と言いつつターンテーブルに掛けてくれたら…やはり結果的には「嗚呼、なるほどね」のひと言で終わって店を後にしたものだからつくづく世話はない(苦笑)。
そんな若い時分の苦い思い出がありつつも、今こうしてウインドを『幻想神秘音楽館』で取り挙げているのだから、年輪を積み重ねて自身の音楽的嗜好が変わって成長(?)したのかどうかは定かでは無いにせよ、昔はともかく今はこうして無難に親近感を持って聴けるのだから、やはり彼等の音楽性の素晴らしさは単なる一過性では無かったことを如実に物語っているのだろう。
彼等の音楽経歴とルーツは1964年までに遡り、ウインドの母体となった名無しに近いバンドは当時ドイツ国内に駐留していた米軍基地内のパブやクラブでギグをする、所謂箱バンに近い活動を行っており、当時のメンバーはリードヴォーカリストのSteve Leistnerを欠いたThomas、Andreas、Lucian、Luckyの4人のみで、地道な演奏活動が実を結んだ甲斐あって程なくして1969年当時の戦火激しいベトナムで従軍慰問という破格の好機会を得たものの、高温多湿で酷暑なベトナムという異国の地で体調不良と高熱に悩まされ、挙句の果てにはツアーマネージャーが彼等のギャラを持ち逃げして行方をくらますという悪夢の様な出来事が重なって、結果4人のメンバー共々が心身ともに落胆・疲弊をきたし、最終的には所持していた楽器とPA機材の全てを売り払ってドイツ帰路への航空代に充てたのだから言葉が出ない…。
最悪な従軍慰問から帰国した後、多額の借金と引き換えに再び楽器を揃えた彼等は気持ちを切り換えて、新たな曲想と音楽スタイルを模索し、それと前後して新たなリードヴォーカリストとして数多くのバンド活動と音楽経験豊富なシンガーだったSteve Leistnerを迎え、1971年漸くバンドとしてのラインナップが整いバンド名も装いを新たにウインドへと改名。
同年ケルン近郊のスタジオを借り切って、正式なデヴューアルバム『Seasons 』をマイナーレーベルのPLUSからリリースするも、レーベルサイドの意向で廉価盤扱いによるリリースで正規のルートによるレコードショップに出回らない形で、郊外のスーパーマーケットとかガソリンスタンドで売られたのだから、ウインドの面々にしてみれば正直屈辱以外の何物でもなかった事であろう。
とは言うものの…やはりデヴューアルバムというちゃんとしたレコードという形で世に出た喜びの方が勝っていただけに、メンバーが思っていた以上の売り上げセールス累計30000枚という成功基準を満たし、その硬質で重厚なハモンドをフィーチャリングしたジャーマン特有のヘヴィロック路線が功を奏したのを契機にドイツ国内の各音楽誌がこぞってウインドを絶賛し、早くもライヴ関連並びロックフェス関係者からも出演オファーが殺到。
PLUSレーベル主催のライヴイヴェントでも、同レーベル所属で既に脚光を浴びていたトゥモローズ・ギフトやイカルスと共にステージに立った彼等は聴衆からの喝采を浴び、その人気と実力を不動のものとし、別のロックイヴェントでも当時人気絶頂だったカンはおろか、フロイドの前座としても招聘され、これを追い風に彼等のライヴバンドとしての実績と評判は鰻上りな上昇カーブを辿って行く。
翌1972年、彼等の人気に乗ずる形で多数もの大手音楽レーベルから2ndリリースに向けた契約オファーが舞い込むものの、成功を手にしている実情とは裏腹に彼等の財政面や台所事情は相も変わらず火の車に近い状態で、俄かに信じ難い話ではあるがメンバー各々の細君や恋人が手に職を持っていた甲斐あってバンド活動に於いても大きな助力になっていたというから、正直今となってはこんな話を聞かされると改めて彼等は根っからの苦労人バンドだったと、別な意味で苦笑混じりに溜め息が出てしまう…。
彼等の名誉の為にあらかじめ断っておくが、カミさんや彼女にある程度養ってもらっていたからといって、決して女から食わせて貰っているとかヒモみたいな見方や偏見だけはどうか止めて頂きたい。
話は戻って…そんなバンドの懐事情を知ってか知らずか定かでは無いが、程無くして大手のCBSとリリース契約を結んだ彼等は、同年の夏にユーロプログレッシヴ屈指の名作・名盤として後世まで語り継がれる『Morning 』をリリース。
前デヴュー作で見受けられたヘヴィなオルガンロック路線とは打って変わって、かのピルツレーベルの有名格イムティディの『Saat』、ヘルダーリンのデヴュー作にも匹敵する…良い意味でドイツの田園風景や田舎の雰囲気を醸し出した、メロトロンの導入が功を奏した事もあってフォーキーでシンフォニックな佇まいとハートウォーミングな抒情性が全面的に反映された、まさしくメルヘンチックで童話的なアートワークのイメージと寸分違わぬ、名実共にジャーマン・プログレッシヴ史に刻まれる最高傑作へと押し上げたのはもはや言うには及ぶまい。
このまま順風満帆に上昇気流の波に乗ってバンドとして創作活動が軌道に乗ってくれるものと誰しもが頭に思い描いたであろう…。
しかし理想と現実のギャップというか、どんなに成功と名声を手にしても結局はバンド内の財政面は困窮に瀕し、バンドやスタッフ共々日に々々疲弊と限界を感じ始め、更に運の悪い拍車を掛けるかの様にバンドマネージャーが彼等の許を去り機材の殆どを持ち去って行くといったトラブルまでも引き起こす始末である…。
バンドは結局最後の力を振り絞り1973年に細々と“Josephine”というシングルをリリースした後、人知れず静かに表舞台から去りウインドとしての活動に幕を下ろす事となる。
バンドの終焉後、Steve Leistnerはミュージシャンとして活動を継続し、1985年に自身の為のレーベルを設立後、自身の活動に加えて多方面での音楽関連のプロデューサー兼エンジニアとして今もなお第一線で手腕を発揮しており、Lucian Buelerはヴォイストレーナー兼プロデューサーに転身、Andreas Buelerはクラブやカフェ、キャバレーの経営者として成功を収め、残るThomas LeidenbergerとLucky Schmidtの両名はセッション・ミュージシャンへと転向したとのことだが、その後の動向は音信不通に近い状態となっている。
70年代初期ジャーマン・ロックきっての名匠と謳われ続けてきたウインドであるが、彼等の歩んだ道程は決して平坦ではない、時代に翻弄され信頼していた者からも裏切られ(特にマネジメント関連で金銭や機材等を持ち逃げされるといった憂き目を二度も味わっている)、成功の陰では常に財政難に付きまとわれていたという、つくづく悲運で残念なバンドだったと思えてならない。
演奏や構成力、楽曲のコンセプト等も秀でて相応に実績や高い評価があったにも拘らず、運とツキだけに見放され、時代の移り変わりといった空気感と相まって疲弊と限界を感じて泣く々々解散の道へと辿ったのが悔やまれてならない…。
やはり時の神様は時として残酷な試練と運命をお与えになさるものであると、天上を仰いで恨みつらみながら睨みつけたくなる思いですらある。
それでも彼等ウインドが遺した2枚の財産は、今もなお神々しく燻し銀の如く輝きを放ち続けており、時代と世紀を越えて新旧多くのリスナーに愛され、彼等が紡いだ楽曲の精神と心は立派に受け継がれつつ、後年のエデンを始めエニワンズ・ドーター、ノイシュヴァンシュタイン、アイヴォリー、果ては昨今の幾数多もの21世紀プログレッシヴ並びメロディック系シンフォへと伝承されているのである。
そう…彼等は時代にこそ負けてしまったが、プログレッシヴ・ロックという未来永劫にして悠久なる音楽史に於いては紛れも無く完全なる勝者に他ならないと断言出来よう!
せめてもの思いで恐縮であるが、私はそう信じてやりたいと思う。
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28,2022
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9月終盤に差しかかり、日に々々深まる秋…プログレッシヴの秋到来に、高まる期待感で感慨深くも胸が熱くなりそうな今日この頃です。
思えば2022年も残すところあと3ヶ月余…。
厳しい残暑に加え異常気象と台風に見舞われた晩夏の終わりから本格的な秋への移り変わり、果ては遠い海の向こう側ではエリザベス女王の崩御という一つの時代の終焉、イタリア初の女性首相の誕生、激動のウクライナ情勢といった…まさしく着実に世界は大きく動いているという事が実感される思いさながらです。
願わくばこれから先…どうか世界が悪い方へ転ばぬよう、慎んで心から祈りたい次第です。
今回お送りする『夢幻の楽師達』は、そんな昨今の世界情勢とかなり似通っていた70年代という激動の時代に於いて、当時東西に分断されていたドイツ (当時でいう西ドイツ時代) で、一種のコミューン或いは大道芸人の域 (粋) すらも感じさせつつ、インテリジェントとクレイジーな狭間で時代を謳歌し、何者にも束縛される事なくロック=フリーダムな精神で、自ら理想とする音楽世界観で時代を闊歩した痛快極まる唯一無比の存在として認知され、今なお根強い支持と絶大なる称賛を得ている、鬼才にして奇才集団という名に相応しい“オイレンシュピーゲル ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
EULENSPYGEL
( GERMANY 1971~1983)
Rainer 'Mulo' Maulbetsch:Vo, Harmonica
James "Till" Matthias Thurow:G, Violin
Detlev Nottrodt:G, Vo
Karlheinz Grosshans:Organ, Vo
Cornelius Hauptmann:Flute
Ronald Libal:B
Günter Klinger:Ds, Per
俗にいう70年代ドイツのロック…所謂ジャーマン・ロック=クラウトロックとひと口で述べても、その人脈やら相関図、音楽会社並びレーベルを含め、何とも複雑怪奇に入り組んだ迷宮さながらな様相を呈しており、70年代ユーロロックシーンに於いてイタリアと人気を二分してきただけの突出した個性と独創性を誇る当時のムーヴメントをここのスペースで語るには、あまりに無謀で膨大な時間と日数を費やす事となるだろう (苦笑) 。
エクスペリメンタル、メディテーショナル、エレクトリック、東洋的思想、オカルティック、LSD含むドラッグカルチャー、サイケデリック、アヴァンギャルド…etc、etcといった多種多様なキーワードがちりばめられ、それに輪をかけてブルース系やハードロック、アシッドフォーク、クラシカルといった音楽スタイルが覆い被さるものだから、その全容は計り知れないというのが正直なところでもある。
ストレートに解り易いイタリアン・ロック寄りだった若い時分の私自身にとって、ジャーマン・ロックとは形而上の世界と観念、幾何学的な音楽で難解といったイメージが付き纏って、二十歳前後の頃はなかなか入り込むことが出来なかった難攻不落の城塞そのものでしかなかった事を未だに記憶しているから世話は無い…。
大御所のタンジェリン・ドリームは別格として、当時世界的に絶大なる人気を誇っていたHR/HMのスコーピオンズ、それ以前より人気と知名度を得ていたルシファーズ・フレンド、本筋のシンフォニック系プログレッシヴならトリアンヴィラート始めノヴァリス、
エニワンズ・ドーター といった感じで徐々に距離を縮めて接するようになり、プログレッシヴ・ロック専門誌時代のマーキーを通じて漸くジャーマン・ロックに開眼した頃には、多少の難解なイメージこそまだ残ってはいたものの、興味を持ったアーティストや作品にはとことん自ら進んで接する様に努めていったのは言うまでもあるまい (まあ、あくまで許容範囲内ではあるが…)。
意外と思われるかもしれないがポポル・ヴフに触れたのは30代後半、アモン・デュール (Ⅱの方ね) に接したのも50代半ばに入ってからであるから、我ながら何とも気恥ずかしい限りである。
話が些か脱線気味になったが、そんな遅咲きめいたジャーマン系への開眼と同時期に出会ったのが、今回本篇の主人公でもあるオイレンシュピーゲルである。
遡る事1965年…当時の西ドイツの地方都市シュヴァーベンにて結成されたサイケデリック&フリーク・ビート系を演っていたROYAL SERVANTS なるバンドが母体となっており、その時のメンバーだったJames "Till" Matthias Thurowを始め、Detlev Nottrodt、Ronald Libal、Günter Klingerが、後にオイレンシュピーゲルへと移行する事となるのはもはや言うに及ばず。
バンド結成から5年後の1970年、ROYAL SERVANTS名義で独Turicaphon傘下のElite Specialレーベルより『We』という唯一作をリリースし、ビート系スタイルを基本にサイケデリック&アートロックな作風で、一躍ジャーマン・ロックムーヴメントの渦中に飛び込む事となる。
セールス的にはまずまずといった感じで精力的なライヴ経験を積み重ねていきつつ、次第に知名度を得ていった彼等は、バンドの発展と音楽性含めスタイルの強化を図る上で、活動の拠点をシュトゥットガルトに移し、新たに3人のメンバーRainer 'Mulo' Maulbetsch、Karlheinz Grosshans、
Cornelius Hauptmannを迎え、1971年に7人編成という大所帯に移行し、バンドネーミングもROYAL SERVANTSから心機一転しオイレンシュピーゲルへと改名。
同年には当時の新進レーベルでもあった目玉焼きマークでお馴染みSpiegeleiに移籍し、新たなバンドネーミングを引っ提げてハンブルク近くのMaschenスタジオで、再デヴューに向けた曲作りとリハーサルを重ねつつレコーディングに臨む事となる。
果たしてその出来栄えは…ROYAL SERVANTS時代から一転してフリーク・ビート色は後退し、ブルース系ヘヴィロック、ハードロック、サイケデリック&アートロック…等といった、フランク・ザッパよろしくあたかも何でもありといった感のごった煮的な様相を呈しており、風刺とパンチの効いた政治的なアジテーションが見え隠れしている社会批判的な歌詞も含め、アメリカ国歌の一節をも盛り込んだ、如何にもドイツ人らしい反骨精神とでもいうのか、皮肉たっぷりな韻をも含んだ意欲作にしてしたたかな野心作に仕上がっていると言えよう。
当初はROYAL SERVANTS名義の2nd用に使用される筈だったアルバムタイトルの『2 』をそっくりそのまま引用し、かのテレ東の『モヤモヤさまぁ~ず2』ではないが (苦笑) 、こうしてオイレンシュピーゲル名義のデヴューアルバムとしてめでたく世に出る事となる。
…と言いたいところではあるが、ジャケットを御覧になって既に御存知の方々も多いと思われるが、本デヴュー作が市場に出回るまでの間、とんだすったもんだがあった事も忘れてはなるまい。
1971年当時SpiegeleiからリリースされたオリジナルLP盤では、フライパンに目玉焼きとヒヨコが乗っかっているといった、一見ユーモラスで微笑ましくもブラックジョークな感覚満載で彼等なりの遊び心に満ちた意匠ではあったが、実は本当のオリジナルデザインでは…何と!目玉焼きと一緒にヒヨコがもう一羽丸焼き (焼死体!?) の状態でそっくりそのまま添えられた、見た目にもグロテスクで悪趣味満載なフォトグラフであったのが大問題となった。
当然の如くテストプレスを見たSpiegeleiの上層部は怒り心頭、バンドサイドと担当ディレクター、製作スタッフ全員を呼び出し「お前らは動物愛護教会に喧嘩を売ってるのか!!世間様を敵に回してんじゃねぇよ!!!!!」と言わんばかりのエライ剣幕で怒鳴りつけ、アルバムが市場に出回る前にデザインを差し替えるか修正を施すかのどっちかにしろの大号令で、写真の撮り直しが不可能である以上何とか修正を施して誤魔化す (!?) しかないという英断の許、現在みたいにパソコンやデジタル処理が無かった当時、アートディレクターは泣く泣く「ったく!余計な仕事増やしやがって…」とボヤいたかどうかは定かでは無いが、何とかヒヨコの丸焼きを丁寧にペイント処理で塗りつぶし漸く市場に流通させたのだから御苦労様でしたと言うべきなのか、何ともつくづく頭の下がる思いですらある。
だがオイレンシュピーゲルの当の本人達にとっては、そんなヒヨコの丸焼きだの動物愛護だのなんてどこ吹く風と言わんばかり、我が道を行くマイペースぶりは相も変わらずといった調子で、丸焼けヒヨコが塗り潰されたという皮肉にも似た意趣返しなのか、デヴューアルバムの見開き内側並びシングルカットされた「Till/Konsumgewäsche」にて、ヒヨコの丸焼きを小さな棺に納め墓地に埋葬するといった葬式ごっこめいた写真を引用するといった悪ノリが物議を醸すのだから、もうここまで来ると匙を投げるしかあるまい (苦笑)。
21世紀の現在ならさしづめ炎上商法だのと騒ぎ立てるのだろうが、私自身がもし当時の担当ディレクターなら失笑しながらも「おめぇら、本当エエ加減にせーよ!!」と怒鳴りつけていた事だろう、多分…。
そんなすったもんだの末にデヴューを飾ったオイレンシュピーゲルであったが、あまりに痛快極まりない悪ノリエピソードが功を奏したのか、デヴューアルバムが評判を呼びSpiegeleiサイドにとってもかなりの合格点なセールスを伸ばし、馬鹿みたいなおふざけが悪目立ちで鼻に付くものの、ライヴでは一転して真摯に力強い演奏を繰り広げるというギャップが、彼等の心象を引き立てたのは言うに及ぶまい。
デヴューから程無くして次回作への構想が持ち上がるのはもはや時間の問題では無かったものの、メンバーの内の誰かが言い出したのかは定かでは無いが…
“次回作はロンドンで録ろうぜ!ビートルズのApple Studios が良いんじゃないの…”
といったやり取りがあったとか無かったとかはともかくとして、数日後にはほんの一時のノリとジョークで言った事が現実化し
“おー、お前らなApple Studios行き、正式に決まったからな”
そんな朗報というか吉報がもたらされ、冗談でも言ってはみるものだと歓喜に沸き上がる彼等は感激と興奮冷めやらぬまま、舞い上がった気分で渡英する事となる (まあ…改めて馬鹿なのか、単純なのか、純粋で利口なのかは解らないが) 。
ロンドンの名門Apple Studiosにて2nd次回作へと臨んだ彼等は、デヴューから一転して心根を入れ替えたのかは定かでは無いが、自らの持てる力と音楽的素養、スキルを余す事無く心血を注ぎ込むかの如く一点集中の言葉通り、良い意味で演りたい放題に没頭し、1972年名実共に彼等の最高傑作にしてジャーマン・ロック史に燦然と光り輝く名作・名盤でもある『Ausschuss 』を世に送り出す事となる。
メロトロン始めシンセサイザー、果てはリコーダーにシタールまでも導入し、ジャーマン・ロック特有のカオス渦巻くサイケでシンフォニックなヘヴィロックを構築した、まさしく彼等自身にとっても面目躍如が見事に表面化された快作或いは怪作として、当時世界中を席巻していた70年代プログレッシヴ・ロックの黄金時代を象徴する一枚へと押し上げた次第である。
…と言いたいのは山々であるが、この最高傑作の本作品に於いてもまたまた彼等は突拍子も無い事をやらかしてしまうのだから、全く以って失笑以外思い浮かべないから困ったものである。
ジャケットを御覧になってお解かりの通り、ただ単に凸凹のダンボール紙のみを貼り付けただけで、バンド名はおろかアルバムタイトルですらも表記されていない、良い意味で現代アート風、悪い意味で手抜きとも取られかねない意匠に、Spiegeleiサイドの上層部も、購買層のリスナーサイドをも困惑させたのは言うまでもあるまい。
賛否を招きつつも物珍しさと話題性が手伝ったのか、デヴュー作と同等のセールスを上げたものの、肝心要の彼等自身…上から叩かれ下から突かれといった負の連鎖的ジレンマ (所謂、自分達が理想とする世界観と芸術観が全く理解されない) に陥った事に加え、音楽活動に疲弊を感じていた事が起因し、『Ausschuss』リリース以降急降下の如く活動そのものを停止する事となり、挙句の果てSpiegeleiとの契約解除、入れ替わり立ち代わり繰り返されるメンバーの変動、新たなレコード会社との交渉に及ぶも契約は白紙になるという憂き目に遭い、暗中模索と紆余曲折を経て1979年…オリジナルメンバーのDetlev Nottrodtのみが残り、メンバーを一新した4人編成による布陣で自らのバンド名『Eulenspygel』と冠した3rdアルバムをBellaphonからリリースするも、ファンタジックでエロティックな感の印象的なアートワークに相反して、プログレッシヴな作風とは程遠い極ありきたりなロック&ポップスに成り下がってしまい、4年後の1983年にリリースされた実質上のラストアルバム『Laut & Deutlich』でも同傾向の作風となってしまい、かつての攻撃的でニヒリズム漂うアイロニカルな音楽世界観はすっかりと影を潜め、セールス重視とコマーシャリズムに走った挙句の果て…あまりに見るも無残な終焉となってしまった事が返す々々も残念でならない。
オイレンシュピーゲルがジャーマン・ロック史の表舞台から去って以降、かつてのメンバーの動向やら何やらが、SNS全盛の21世紀の今もなお消息が分からずじまいで皆目見当が付かないのが、何とも不思議というかやるせない気持ちでいっぱいなのが正直なところでもある。
オイレンシュピーゲル時代の過去の栄光やら何やらを完全に拭い去り、音楽活動に訣別し終止符を打った潔さこそ感じ取れるものの、そのまま極々平凡な市井の民衆となって堅気の人生を送っているのか…、或いは破天荒な彼等らしく世捨て人になったのかは神のみぞ知るといったところであるが、彼等が遺した黄金時代の『2』と『Ausschuss』の2作品がめでたくもCDリイシュー化され、新旧のリスナー問わず今もなお絶大なる支持を得ている事に加え、『2』のデザインがヒヨコの丸焼きオリジナルバージョンで完全復刻された事にあっては、さながら彼等が“ざまぁみろ!”と言わんばかりな快気炎で、未来の為に壮大なる悪ふざけを仕掛けてくれた様に思えてならない…そんな今日この頃ですらある。
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30,2022
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10月終盤を迎え、樹木の緑がいつしか紅葉に染まり、路上には落葉がちらほらと見受けられる様になりました。
朝晩と日に々々冬の足音が近付きつつある…そんな肌寒さすら感じられ、改めて深まる秋の様相がひしひしと五感で伝わり、これから先…晩秋から初冬へ季節の移り変わりといった様変わりを目の当たりにする機会が多くなる事でしょう。
激動の2022年も残すところあと2ヶ月少々、素晴らしい音楽と芸術作品に国境は無いと思いつつも、心のどこかで何とも割り切れないもどかしさと、やるせない憤りにも似た引っ掛かりを今もなお抱いている今日この頃というのが正直なところです。
芸術の秋、文化の秋にしてプログレッシヴの秋真っ只中、今回お届けする「一生逸品」は先回の「夢幻の楽師達」に引き続き、70年代ジャーマン・ロック=クラウトロックから、当時オーディエンスや各方面から絶大なる称賛と賛辞を得ながらも、たった一枚きりの唯一作を世に遺しシーンの表舞台から去っていった、文字通り不世出の逸材でありながらも運とツキに恵まれる事無く決してドイツのシーンとカラーに染まり切らない、あくまでブリティッシュ寄りな作風と気概で、独自の孤高なる個性を貫き一時代を駆け巡っていった、クラシカル・ジャーマンオルガンロックの雄として呼び声が高く…まさに知る人ぞ知る存在として今なお燻し銀の如き光彩を放っている“テトラゴン ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
TETRAGON/ Nature(1971)
1.Fugue
2.Jokus
3.Irgendwas
4.A Short Story
5.Nature
Hendrik Schaper:Organ, Clavinet, Piano, Electric Piano, Vo
Jürgen Jaehner:G
Rolf Rettberg:B
Joachim Luhrmann:Ds
いやはや…正直なところ、今回ばかりは困った参ったの狼狽ぶりな言葉が矢継ぎ早に出てきてしまうから、我ながらお恥ずかしいやら情けないやら (苦笑)。
過去にも「一生逸品」で、
アイヴォリー 始め
ノイシュヴァンシュタイン 、
アメノフィス …と、何度かワンアンドオンリーな単発系ジャーマン・プログレッシヴを取り挙げたものの、傾向的にはシンフォニック系が占めていたのが正直なところで、こと70年代初期の所謂クラウトロック黎明期の頃ともなると、いろいろと考えあぐね散々迷ったところで私自身ですらもぶっちゃけ「何を取り挙げようか…?」というのが本音ですらあったのだから全く世話は無い。
マニアックにしてカリスマ的な人気を誇りコレクターズ・アイテムの頂ともいえるネクロノミコンを筆頭に、ドム、ゲア、アモス・キイ、トロヤ、ミノタウロス、ポセイドン、ゾンビー・ウーフ、エピダウラス、チベット、エル・シャロム…etc、etc、思いつく限り知っている名前を列挙しただけでも枚挙に暇が無い。
無論あまりにマニアックマニアックし過ぎた作品を仮に取り挙げたとしても、閲覧拝読されてドン引きされたのでは元も子もないからね…。
御多分に漏れず、今回紹介する本篇の主人公テトラゴンもその内の一つで、さながらウルトラシリーズに登場しそうな怪獣みたいなネーミング (ちなみにバンドネーミングの意は四角形 ) ではあるが、そんな下世話なジョークとは裏腹に彼等も然りジャーマン・レア物扱いで時代に埋もれさせるには惜しまれる位の才気と独創性を持ったマエストロであったのは言うに及ぶまい。
過去に何度かプログレッシヴ系メディアにて紹介される度毎に、傾向や音楽性として喩えられていたのは、ドイツ出身ながらもサイケで瞑想的で難解なイメージとは真逆なブリティッシュナイズされたオルガンロック系…強いて挙げるならかのエマーソンを擁していたナイスからの多大なる影響下が窺える事であろうか。
ドイツ北部のオスナブルック出身、自らが生まれ育った地を拠点に活動していたTRIKOLONなるトリオスタイルのバンドを母体に、キーボーダーのHendrik SchaperとベーシストのRolf Rettbergを中心に、新たにギタリストJürgen Jaehner、そしてTRIKOLONから抜けたドラマーの後釜としてJoachim Luhrmannを迎えた4人編成の布陣で結成され、TRIKOLON時代からの名残を残しつつもギターを加えた事で更なるサウンド強化を図り、クラシカルで且つヘヴィ&ジャズィーな音楽性を全面に押し出した、さながら同国のオルガンハードロックの雄フランピーに近いシンパシーを有していたと言えば当たらずも遠からずといった感であろうか。
TRIKOLON時代からの地元ファンの後押しという甲斐あってか、ライヴを含めた地道で精力的な音楽活動が実を結び、結成から程無くしてホームタウンに近い農場の納屋を改装した簡易的なリハーサル兼録音スタジオを得た彼等は、試行錯誤と手探りの状態を繰り返しつつデヴュー作に向けたレコーディングに臨む事となり、1971年唯一のデヴュー作に当たる『Nature 』をリリースする事となる。
全面にグリーンを基調としたカラーに押し花というかドライフラワーで彩られた、一見すれば単調で地味な印象を与えながらも、意味深で自然回帰な韻をも踏んだネイチャリング・テイストなメッセージ性すらも孕んだ、ジャケット裏面に描かれた煤煙を吐き出す工場の煙突=自然破壊に対する警告…或いは産業主義への皮肉と文明批判とも捉えかねない痛烈なシニカルさとニヒリズムといった、当時で言うところの公害反対が叫ばれていた時代性すら浮き彫りになっている点も見逃してはなるまい…。
オープニング冒頭1曲目からタイトル通りいきなりバッハのスコアをモチーフにした16分近い大曲である。
クラシック音楽のロックアレンジと言ったら、さながら安易な発想だのチープな香り云々といったお叱りやら批判をも受けかねないが、着想としてはやはりナイスのセンスに近いところが多々感じられ、決してベガーズ・オペラの1stみたいな全編能天気なパロディー化までには至っていない、あくまでクラシックな優雅さを留めつつヘヴィでジャズィーなテイストでセッションしているという向きが正しいだろう。
先ずはお手並み拝見といったところだろうか。
余談ながらも…個人的な見解みたいで恐縮ではあるが、バッハのモチーフといい、先にも触れたアルバムタイトル含めデザインとテーマに触れる度、かのイタリアのRDMの『Contaminazione (汚染された世界)』にも相通ずる共通点というか類似性が感じられると言ったら、些か考え過ぎであろうか…。
大曲を経て矢継ぎ早にヴォーカルのみを不気味にサイケ風なエフェクト・コラージュ化した概ね20秒足らずの2曲目に至っては、もう如何にもといった感のジャーマン系ならではのトリップ感+アヴァンギャルド性が脈々と息づいている事すら禁じ得ない。
3曲目からラスト5曲目までに至っては、もう申し分無い位に彼等の本領発揮と言わんばかりな怒涛の曲展開目白押しである。
ヴァレンシュタインばりの軽快で力強いピアノの連打に導かれ、70年代プログレッシヴテイスト全開なジャズィーな変拍子の綴れ織り、意表を突いて出てくるハモンドとギターとの応酬、後半部でのアコギとピアノとの応酬ともなると、もはやジャーマンというよりむしろオランダのフィンチかと錯覚しかねない高揚さと熱気が全編を包み込んでいる。
厳かさとミスティックさが醸し出されたオルガンの残響に導かれ、サスペンスタッチなBGMをも想起させるメロディーラインが印象的な4曲目も、1曲目と並ぶ13分越えの大曲で聴き処満載である。
中間部から終盤にかけてのジャズテイスト溢れる一連の流れが小気味良くて素晴らしい。
ECMレーベル作品の雰囲気にも近い、強いて挙げるならジョン・アバークロンビーの名作『Timeless』(ヤン・ハマーのキーボードプレイにジャック・ディジョネットの名演が素晴らしい) をも連想させるなんてコメントは言い過ぎであろうか。
ラストを飾る5曲目は唯一Hendrik Schaperのヴォーカル入りで、ハモンドとクラヴィネットとのアンサンブルの絶妙さも加味されて、もはやここまでの流れともなるとクラウトロックというより、クロスオーヴァーなノリに近い第一級品なプログレッシヴ・ジャズロック珠玉の名演が存分に堪能出来て、さながらビール片手にゆったりとした気分で至福な時間が味わえそうだ。
こうして彼等はデヴュー作リリース直後、精力的な演奏活動と併行しながら次回作の為のレコーディングに取りかかり、幾多の困難の末漸くマスターテープ完成までに漕ぎ着けたものの、様々な資金面やら財政難が被さり、リリースしてくれるレコード会社すら見つけられず、結局心身ともに疲弊が重なりバンドとしての活動に限界を感じた彼等はバンドの解体を決意し、翌1972年次回作リリースが陽の目を見ないまま周囲から惜しまれつつシーンの表舞台から静かに去り自ら幕を下ろす事となる。
その後のバンドメンバーの消息に至っては現時点で判明しているところで、キーボーダーのHendrik SchaperとドラマーのJoachim Luhrmannの両名のみがテトラゴン解散以降も音楽活動を継続しており、特に前者のHendrik Schaperにあっては、その後ドイツ国内のクロスオーヴァー&ジャズロック界の大御所パスポートに1978年から1981年まで在籍し、その後は地道にフィルムミュージック等に活路を見い出し、近年ではUdo Lindenberg & Das Panik-Orchesterにも参加し、今なお現役として第一線で活躍中である。
Joachim Luhrmannにあっては数多くものセッション活動を続けてきたとの事であるが、近年では音信不通であるというのが現況みたいだ。
意外と思われるかもしれないが、テトラゴン解散以後たった一度だけバンドメンバーが再集結する機会に恵まれ、1973年最初で最後のバンド再編に向けての動きがあり、ベーシストのRolf Rettbergを除きHendrik Schaper、Joachim Luhrmann、そしてギタリストのJürgen Jaehnerの3名が一同に会し、新たなベーシストにNorbert Wolfを迎えた新布陣で新曲製作と録音に臨みライヴを数回行うものの、結局は期間限定的なノリによる短期間再結成だけに止まってしまったのが何とも悔やまれてならない。
時間だけが悪戯に過ぎ去った後の21世紀は2009年…2ndとしてリリースされる筈だったお蔵入りのマスターがリマスタリングを施された形で『Stretch』なるタイトルで突如としてリリースされる事となり、『Nature』のCDリイシュー化に追随する追い風となって大いに話題と評判を呼んだのは言うまでもあるまい。
更に3年後の2012年には、1973年に期間限定的に再結成された際に収録済みの新曲録音マスターが『Agape』なるタイトルでリリースされたのは記憶に新しいところであろう。
『Nature』と『Agape』の両作品、リマスタリング処理されただけに音質が格段に向上し内容自体の素晴らしさが手伝ってか、一時期かなりの評判と話題をこそ呼んだものの、いかんせん両作品ともデジタルペインティングを施したメンバーのフォトグラフを使用しただけという、やっつけ仕事にも似たジャケットが貧相過ぎるという嫌いがあるのがやや難点でマイナス面といったところであろうか (苦笑)。
当時遺された唯一のデヴュー作『Nature』も、過去に何度かフランスのムゼア始め、ロシアのMALS、果てはアメリカのLION ProductionsからCDリイシュー化され、ボーナストラックとして1973年再結成時に録られた14分強の貴重なライヴ音源“Doors In Between”が収められており、こちらの出来栄えも感動的で驚嘆に値する白熱の演奏が聴ける事請け合いである。
駆け足ペースでテトラゴンの唯一作を語ってきたが、改めて何度も反芻して聴き込む度に彼等の個性と音楽性、そして作品の持ち味の良さに感服する次第であるが、手作り感溢れるジャケット総じて…この本作品決して物珍しさとかレアアイテム級な範疇云々で語ってはいけない様な、そんな扱いをしたら逆に失礼ではないかと思えてならないのも、また正直なところですらある。
肩に変な力入れずどうかすんなりと音楽を楽しんでよと言わんばかりな、至極一般的な目線で万人に向けられたミュージシャンシップな精神で、尚且つポピュラー性に根付いた作品ではあるまいか。
21世紀を迎えた今のこの時代だからこそ、燦々とした陽光の下…美しい花々に囲まれながら自然回帰の精神に立ち返って、エコロジカルな視点と感性で改めて彼等の作品に接してみたいと思う今日この頃である…。
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