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01,2019
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11月第一週目、今月最初の「夢幻の楽師達」は80年代初頭のブリティッシュ・ポンプロック勃発時に於いて、極端なまでにゲイブリエル在籍時代のジェネシスイズムを継承した作風で瞬く間に注目を集め、アートワーク含めクールにしてダーク…そしてインテリジェントな研ぎ澄まされた知性を武器に、昨今リリースされた新譜で今や40年選手近いキャリアを誇る大ベテランにして、80年代ポンプロックシーンが生んだ屈強の頭脳集団とも言える“IQ(アイキュー) ”に焦点を当てて、改めてその38年間の長き道程を振り返ってみたいと思います。
IQ
(U.K 1981~)
Peter Nicholls:Vo
Mike Holmes:G
Martin Orford:Key
Tim Esau:B
Paul Cook:Ds
80年代初頭に大英帝国で勃発したプログレッシヴ・リヴァイバル…通称“ポンプ・ロック ”なるムーヴメントは、Pomp=豪華・栄華 といったその言葉とは裏腹に、往年の70年代プログレッシヴ黄金期を崇拝・敬愛する者達にとっては(当ブログで何度も言及してきたものの、今となっては一笑に伏される話ではあるが)、勃発当時なんてそれはもう嘲笑にも似た侮蔑或いは蔑みにも近い忌み嫌われの対象として捉われてきた感は否めない。
デヴューシングルが大ヒットとなって一躍注目の的となったマリリオンを突破口に、パラス、今は亡きトゥエルフス・ナイト、更には雨後の筍の如くペンドラゴン、ソルスティス、そして今回の主人公でもあるIQの登場は、80年代当初いろいろと賛否両論やら憶測こそ招いたものの、今世紀・今日までに至るシンフォニック・ロックへの礎と道程を築き繋いでいったのは紛れも無い確証たる事実と言えるだろう。
まあ…良し悪しを問わず当たらずも遠からず当時隆盛を誇っていたNWOBHM の波に乗って、マリリオンのデヴューアルバムみたくやや見切り発車とでも言うのか、未熟な域から抜け切れないまま青田刈りといった形容に相応しく大手メジャーなレコード会社の口車やおだてに乗せられた経営戦略の道具に利用され、“とりあえず唾付けとけ”といった商魂ミエミエ感に、自分自身少なからず今でもあの当時のネオ・プログレに対するぞんざいな扱われ方を思い返すと辟易してしまう。
そんなさ中においてクオリティー云々の良し悪しを抜きに自主リリースながらも、相応に高い好評価が得られたIQやソルスティスはまさしく奇跡の賜物にして稀有な存在だったと言っても過言ではあるまい。
悲劇のタイタニック号が出港した事で知られる、栄華を極めたかつての港湾都市の名残を残すサザンプトンにて1981年 Peter Nicholls、Mike Holmes、Martin Orford、Tim EsauそしてMark Ridoutの5人の若者達によってIQのオリジナルラインナップが出揃う事になるが、翌1982年はドラマーがPaul Cookに交代してIQの栄光の歩みはここに本格的に幕を開ける事となる。
彼等自身がフェイヴァリットとする初期から中期のジェネシス+スティーヴ・ハケットが持っていた方法論と精神を継承した、伝統と正統派ブリティッシュ・プログレッシヴの王道を地で行く真摯で頑なな姿勢で地元のクラブを始めロンドンのロックの殿堂マーキークラブにてレギュラーで定期的に出演回数を積み重ね、彼等の評判と知名度は瞬く間に上昇すると共に、82年に自主製作したカセット作品『Seven Stories into Eight』でバンドの人気は決定的なものとなる(後年『Seven Stories into Eight』も1998年にリマスタリングされCDリイシュー化へと至る)。
翌1983年、自主製作特有の粗削りで録音クオリティーが今一歩といった印象ながらも、ヴォーカリストPeterが手掛けた摩訶不思議なジャケットデザインに包まれた待望のフルレングス・デヴュー作『Tales from the Lush Attic 』は、極端に御大のゲイヴリエルを意識した歌唱法とメイクに加え、並々ならぬハケットやバンクスへの敬愛とリスペクトが感じられるギターにハモンドとメロトロンを大々的に駆使した鍵盤系の大活躍に、概ね見切り発車的だったマリリオンのデヴューに意気消沈していたファンは歓喜の唸りを上げ大々的に喝采を贈った。
余談ながらも少しだけ本作品にまつわるエピソードに触れておくと、初回プレス盤は淡い水色が下地でバンドロゴも異なっており、自分自身が某プログレ輸入盤店で入手した時にはもう既にレッド(小豆色)の下地でバンドロゴも変わったセカンドないしサードプレス盤のみが出回ってて、後にも先にも初回オリジナルプレスとは数年前にたった一度某店頭でお目にかかっただけという縁遠い存在となってしまったのが何とも惜しまれる限りである(内容等に全く変更が無かったのが幸いであるが、おそらく初めて日本の市場に出回った時はコバルトブルー地のセカンドプレスで、レッド地がサードプレスと思われる。ちなみに2013年にはデヴューアルバム30周年記念リミックス仕様CDもリリースされている)。
デヴューアルバムの好評は彼等の人気に拍車をかけイギリス国内外でもツアーサーキットの回数が増え、続く84年に12インチシングルのIQ流プログレレゲエともいえる異色作「Barbell Is In」のリリースを経て、翌1985年にデヴュー作の延長線上ともいえる2nd『The Wake 』をリリース。
Peterの手掛けるイラストデザインが幾分キム・プーアを意識したタッチであるという事に加え、デヴュー作から較べると気持ちの余裕と音楽的な幅の拡がりをも窺わせる、同時代的にしてアップ・トゥ・デイトなセンスが光る好作品に仕上がっている。
この当時に於いて彼等自身は国内外で年間200~300回以上ものギグを消化しつつフェスにも参加したりと、それに比例して人気もうなぎ登りに上昇していった次第であるが、そんな繁忙期に相反するかの如くメンバー間にはフラストレーションやストレスの蓄積が重なり、特にフロントマン的役割のヴォーカリストPeterが一番堪えていたらしく、医師からのドクターストップで活動休止までも余儀なくされてしまう有様だったそうな。
メンバー間の対立こそ無かったものの、穏やかな生活を望んでいたPeterは泣く泣くグループから離れ、本来の正業でもあるイラストレーターに専念し、仕事7に対し音楽活動3の割合でスローペースながらも自らのプロジェクトNiadem's Ghostで細々と地道な創作活動に留めていた。
幸か不幸か活動は軌道に乗る事無く作品すらもリリースされないままで終止したみたいだが、良い方に解釈すればそれが却って後々の為に備えたリハビリ兼充電期間だった事も頷けよう。
Peterがバンドを去った時期と前後して残された4人は旧知の間柄だったPaul Menel を迎え、セルフリリースで良質な作品ながらも音質的には弱体と指摘された面を強化する為、人伝を頼りに大手のヴァーティゴ傘下だった新興レーベルSQUOWKと契約を結び、2年後の1987年に『Nomzamo 』、そして89年に『Are You Sitting Comfortably? 』といった、メジャーな流通ながらも決して商業主義には陥っていない2枚の好作品をリリースし、同期的存在のマリリオンと共に次世代のネオ・ブリティッシュ・プログレの担い手として確固たる地位を築くまでに至る。
特に『Are You Sitting Comfortably?』にあっては、かのラッシュと共に多数の名作を世に送り出した名プロデューサーのテリー・ブラウンが起用され、シンフォニックなテイストとスピーディーな疾走感にも似たエモーションが結実した意欲作に仕上がっているのも特筆すべきであろう。
ヴォーカリスト交代後も決してクオリティーが下がる事無く、むしろ順風満帆な軌道の波に乗っていた彼等であったが、90年代に差しかかるという非常に大切な時期であったにも拘らずヴァーティゴ側からの一方的な契約解消を突きつけられ、IQはバンド結成以来最大の危機に見舞われ、それから以降2年間は大いなる挫折を味わい辛酸を舐めさせられつつバンド活動の一切合財を全て停止してしまう。
悪運と不幸は更に拍車をかけ、音楽的な方向性の食い違いからPaul Menelと長年苦楽を共にしてきたTim Esauの両名までもが脱退し、この時点で国内外の彼等のファン誰しもがIQはもう終わったものと落胆していたであろう…。
しかし…そんな彼等とて、そういとも簡単に終わる筈が無かった。
1991年、長らく待ち望んだバンドのフロントマンPeter Nichollsが心身ともにリフレッシュしてバンドに復帰合流した事により、今まで頭上に垂れ込めていた暗雲を振り払うかの如く、2年間もの停滞・低迷期から漸く脱したIQは新たな光明を見出すと共に、改めて90年代以降もその健在ぶりをアピールするかの様に再出発を誓うのだった。
新たなベーシストにバンドデヴュー以前からの旧知の間柄だったLes Marshallを迎えて新作の準備に取りかかるも、僅かたった2回もの復活ギグの後、不慮の事故(病気?)でLes Marshallは帰らぬ人となってしまう。
しかしこの事が逆に彼等を奮い立たせ、決して悲しみに臆する事無くまるで弔い合戦の如く新譜リリースへの原動力へと繋がったのは言うまでも無かった。
大いなる挫折をも乗り越えた彼等が精一杯出来る事…それこそ亡き友への友情に応える事しか頭に無かったと言っても異論はあるまい。
過去の失敗を払拭するかの様に、彼等自身のセルフレーベルGIANT ELECTRIC PEA(通称GEP) をも設立し、自らをコントロールし活動から運営に至るまで、全てに於いて彼等は自我に目覚め現在までもその飽くなき精神を貫き通している。
新たなベーシストとしてARKを抜けたJohn Jowitt を迎え、4年振りにリリースされた通算5作目の新譜『Ever 』は、Peterのイラストデザインを含めて原点回帰を踏まえ初心に帰るという意味合い通りIQの再出発を飾るに相応しい会心の一枚となり代表作となった(GEPの第一回配給作品となった事も付け加えておく)。
IQの復活劇は全世界中の多くのファンから大絶賛と共に温かく迎えられ、もうこの頃には単なる一過性のポンプ系バンドと蔑む者などおらず(最早この時点でジェネシスのフォロワーバンドと語る輩は皆無であろう)、名実共に70年代の大御所プログレバンドと並ぶ重要な存在へと認知される様になった。
4年後の1997年、実質上これが90年代最後の作品にして大きな節目=ターニングポイントとなった2枚組のヴォリューム感満載の2枚組超大作『Subterranea 』は、御大ジェネシスの『眩惑のブロードウェイ』とはまた趣が異なったロックオペラにも似たシンパシーを湛えつつも、シンフォニックなトータルアルバムとして最高峰級の完成度を誇る名作としてブリティッシュ・プログレ史に大きな足跡を残す偉業を為し遂げる。
そして時代は2000年を迎え、20世紀と21世紀に跨ぐ形でリリースされた(20世紀最後の作品でもある)『The Seventh House 』は意味深なデザインと相まって、ダークなイメージを纏った反戦というテーマすら想起させる今まで以上にシリアスな世界観を謳った異色作であると言えよう。
本作品に於いてMike Holmes(プロデューサーも兼ねる)とJohn Jowittの両名がメインライターとなって、実質上ギタリストとベーシストによるイニシアティヴが遺憾無く発揮された、硬質で荒涼たる不穏なイマジネーションが反映されたと言っても差し支えはあるまい。
同時期にキーボーダーのMartin Orfordが、自身のソロ作品『Classical Music and Popular Songs』に専念していた為、本作品に於いてはMartin自身あまりそう深く関与していないのがやや気になるところであるが、後々の事を考慮すればこれが彼とバンド側との拮抗というか軋轢の始まり(予兆)だったのかもしれない…。
皮肉な事にその小さな不安は量らずも大きく的中する事となり、長年ギタリストのMikeと共にIQのメインライターとしてバンドのイニシアティヴを担ってきたMartin Orfordが、2004年リリースの通算第8作目『Dark Matter 』を最後にバンドから去る事となったのは、バンドサイドのみならず多くのファンにも衝撃を与える事となった。
Martin自身、非常に勤勉で真摯なアーティストであるが故に、心身の疲弊と重なって今日のネット社会に付随した音楽配信やらダウンロードに不快感と不信感を募らせていた事で、納得出来ない許し難いところもあったのだろう。
そんなMartinの心の内の葛藤とは裏腹に『Dark Matter』の完成度はまさに最高潮と言わんばかりのテンションそのものだったというのも実に皮肉な限りである。
前作以上にダークな様相を湛えつつ、IQらしい高水準な音楽性とメロディーラインが濃縮還元された、Martin自身万感の思いの丈が込められた集大成的な趣すら窺わせる。
IQを辞めたMartinは、その4年後の2008年アーティストとしての最後のソロ作品『The Old Road 』というブリティッシュ・ロックスピリッツ溢れる素晴らしい好作品をリリースし、全世界中のファンから惜しまれつつ現役を引退し、現在はイギリス国内の某博物館の学芸員として招聘され多忙な毎日を送っているとの事。
主要メンバーだったMartinが抜けたIQは後任Key奏者の選考に奔走するものの、それと前後して今度は一身上の都合により長年ドラマーを務めていたPaul Cookまでもが脱退し、バンドは事実上暫しの活動休止を余儀なくされる事となる。
『Dark Matter』のリリースから5年後の2009年、IQは新たな2人のメンバーとしてドラマーにAndy Edwards 、そして肝心要のキーボーダーに新進のシンフォニック・グループDARWIN'S RADIOのメンバーも兼任するという形でMark Westworth を迎えて、スタジオ作品通算第9作目の『Frequency 』をリリース。
電波とネット、ウェブサイト、SNS…それを取り巻く人間と自然界といった実に意味深で先鋭なテーマで構成された意欲作に仕上がっており、前任のMartinとは違ったMarkのキーボードアプローチに当初は戸惑うファンも多かったとか(苦笑)。
こうして新たなメンバーを迎え、このまま上がり調子でバンドが続くものと予見していたファンの期待を他所に、バンドは結成から30周年を迎える事を機にまたしても大きな変革が訪れる事となる。
2010年にドラマーのAndy Edwardsが抜け再びPaul Cookが戻ってきた事を皮切りに、キーボーダーのMark WestworthからNeil Durant にチェンジ、そして翌2011年にはJohn Jowittが抜けた後任に再びオリジナルメンバーだったTim Esauが戻って、実質上IQはKeyを除き再びデヴュー時のメンバーが顔を揃えるという異例の展開を見せる事となる。
原点回帰…或いは初心に帰ったと言うべきなのか、彼等は結成30周年を節目にあのデヴュー当時の感性と気持ちに戻って発奮し、一心不乱に自問自答するかの如く新譜の製作に没頭した。
2014年バンド結成から33年…記念すべき通算第10作目の『The Road Of Bones 』、そして5年後の今年2019年には前作の流れを汲んだ続編的な解釈にして何とも意味深なタイトルの通算11作目の2枚組大作『Resistance 』をリリースしIQサウンドここに極まれりと言わんばかりな、重厚にして厳か…そしてダークなイマジネーションとリリシズムを湛えた最高傑作の両作品として多くのファンに迎えられ現在に至っている。
ここまで駆け足ペースで彼等の歩みを追ってきたが、スペースの制約の都合上…あまりダラダラと長ったらしい説明調的な回顧録みたいな文章だけにはしたくなかったが故、枝分かれみたいなIQファミリーツリーのバンド関連ジャディス始めビッグ・ビッグ・トレイン、アリーナ…etc、etcとの繋がり云々は敢えて省略させて頂いた事をお許し願いたい(その辺はIQを紹介しているウィキペディアのサイトを御参照頂きたい…)。
前述でも触れたが、70年代プログレッシヴ偏重主義といった感のファンからあたかも蔑みの対象として捉われていたポンプ・ロックアーティスト達も、振り返ってみればマリリオン始めパラス、ペンドラゴン、ソルスティス、そしてIQも数えたらもう30年選手というキャリアを誇り、プログレッシヴ・ロック史に燦然と輝く名作・傑作を多数世に送り出し、巨匠という名に相応しい年代に入っているという事に改めて頭の下がる思いですらある。
改めてIQというバンドに向かい合ってみて思う事は、過去一連の作品を再度繰り返し聴きながらも、彼等は決して天才肌でも熱血型の努力家タイプでも無く、バンドネーミング“IQ=知能指数”という言葉通りの天賦の才気に満ち溢れ、時の運や人脈と人望をも味方に付け大勢のファンに支えられ、様々な紆余曲折と試行錯誤を乗り越えて今日までの長い道程を歩んでこれたものであると信じて疑わない。
彼等とほぼ同世代でもある私自身、あともう何年…否!何十年彼等の行く末とその創造する音世界に付き合えるかどうかは神のみぞ知るところであるが、彼等の知能指数が永続する限り自ら喜んでしっかり見届けていけたらと心から願わんばかりである。
近い将来、クラブチッタで彼等の初来日公演の雄姿を思い描きながら…。
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02,2019
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11月最初の「一生逸品」は、晩秋近い時節柄に相応しく大英帝国屈指の名作・名盤にして、良質なるポップさと優雅でジェントリーな旋律を謳い奏でつつも、70年代後期のブリティッシュ・ロックシーンに於いて一抹の栄光を夢見つつ、かのイングランドと同様“運”に見放されながらも、唯一無比の音世界を構築し現在もなお音楽性が色褪せる事無く新鮮さに満ち溢れた伝説的存在として語り継がれている“ケストレル ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。
KESTREL/ Kestrel(1975)
1.The Acrobat/2.Wind Cloud/
3.I Believe In You/4.Last Request/
5.In The War/6.Take It Away/
7.End Of The Affair/8.August Carol
Dave Black:Lead&Rythym-G, Vo
John Cook:Key, Syn, Mtn, Vo
David Whittaker:Ds, Per
Fenwick Moir:B
Tom Knowles:Vo
1974年…あの『レッド』リリース前夜のクリムゾン解散声明を境に、ブリティッシュ・プログレッシヴは大きな転換期を迎えたと言っても過言ではあるまい。
『リレイヤー』発表後のイエスの活動休止=ソロ活動への移行、低迷期に差し掛かったEL&P、『狂気』の世界的大成功以降、巨万の富を得ながらもウォーターズとの軋轢が次第に表面化しつつあった感のフロイド、ゲイヴリエル脱退後に作風と路線の変革を余儀なくされたジェネシス…と、俗に言う5大バンドの猛者達が時代の波と共に少しずつ変わり始め、片やその一方でキャメル、GG、VDGG、エニドといった精鋭達は気を吐きつつ地道に好作品を発表し、パンク&ニューウェイヴ一色に染まりつつある当時のブリティッシュ・ムーヴメントに於いて、プログレッシヴ最後の砦の如く生き長らえていたと言えよう。
そんな時代の波に呼応しつつも、決して安易な商業路線・産業ロック系に妥協する事無く、かつてのビートルズをルーツとする純粋なブリティッシュ・ポップフィーリングを脈々と受け継ぎプログレッシヴのエッセンスを融合した、後々のメロディック・シンフォの源流ともなる新たなスタイルを模索していた…ドゥルイドを始め、イングランド、ストレンジ・デイズそして今回の主人公でもあるケストレルといった、単発・短命ながらも好バンドの輩出に至った次第である。
未だに多くの…ブリティッシュ・ロックのみならずユーロ・ロックの愛好者達の心を捉えて離さない、ケストレルの不思議な魅力と長きに渡って愛され続けている理由とは一体何なのだろうか?
ケストレル…直訳するとハヤブサ科で猛禽系の鳥類“チョウゲンボウ ”と名乗る彼等のスタートは1971年の夏、海岸沿いの小さな街ホワイトリーベイにてリーダー兼ギタリストDave Blackと盟友のキーボーダーJohn Cookを中心に、ドラマーのDavid WhittakerにベースのFenwick Moir、そしてメインヴォーカリストにTom Knowlesを加えた5人で結成された。
当時の彼等に多大な影響を与えたのは、イエス、ジェネシス、EL&Pに大御所のビートルズ(後の彼等のポップ・センスとフィーリングのルーツが見て取れよう)、ブリティッシュ系以外ではフォーカスにサンタナを挙げている。
彼等のホームタウンでもあるホワイトリーベイを活動拠点に地道にギグの回数を重ねてきた甲斐あって、73年名門大手デッカ・レコードのスカウトマンにして本作品プロデューサーのジョン・ウォルスに見出され、デッカ傘下のキューブ・レーベルより、大いなる期待を集めて珠玉の名作が生み出された次第である。
厳粛でジェントリーな部分と驚く程に明るく軽快且つポップな部分とが全く違和感無く融合した1、4、5、そしてラストの8曲目こそが彼等ケストレルの身上にして至高のサウンドと言っても過言ではあるまい。
特に4曲目、5曲目とラスト8曲目の終焉部分のメロトロン・オーケストレーションはブリティッシュ・プログレ史上、クリムゾンの“宮殿”とジェネシスの“サルマシス”と共に上位の部類に入る位の高揚感と荘厳さで圧倒される。
ビートルズやプロコル・ハルムばりの俗に言う“英国風”バラードの2曲目とオルガン・ロック風に始まりながらも、しっとりとしたピアノと甘いメロディーな7曲目も実に泣かせてくれて、国は違えどタイ・フォンを初めて聴いた時の衝撃と感動を思い出したと言っても過言ではあるまい。
プログレ=暗いといったイメージを払拭するかの様な爽快な3曲目と6曲目にあっては、まさにドライビング・ミュージック向きで…成る程ポップスなメロディーラインながらも魅力的で聴く者を惹きつける曲作りの上手さとセンスは時代と世紀を超越しても感嘆の思いですらある。
…が、運命とは皮肉なもので、期待を一身に集め鳴り物入りでデヴューを飾ったにも拘らず、最早イギリスの音楽シーンは世代交代の如くパンク・ムーヴメントの夜明け前であったのは言うまでもない。
当然の如くセールスは伸び悩み、バンド自体も活動が思うように行かず低迷に瀕する次第である。
結果…バンドは解散しリーダーのDaveはスパイダース・フロム・マースに加入し活路を見出そうとするも結局長続きする事無く、Dave自身も音楽業界の表舞台から遠ざかるに至った次第である。
ケストレルにせよ、イングランド、ストレンジ・デイズといった70年代後期のプログレ・バンドにとっては正に冷遇された、乱暴に言ってしまえば“時代遅れ”というレッテルが貼られたまま、音楽的に素晴らしい作品が必ずしも賞賛される訳ではない…という当時の軽薄短小な英国の音楽シーンの愚
考・浅はかさを如実に物語っているようですらある。
その後Dave Blackはセッション・ミュージシャン・作曲家に転身し成功を収め、故郷のホワイトリーベイにて現在も時々不定期ながらも自身のバンドを率いて活動中とのこと。
John Cookはテレビ局の音響関係の仕事に就き、ドラムスのDavid Whittakerはスティール・ドラマー奏者に転向し地方のパブやクラブでの演奏活動に加えてニューカッスルにて自身のバンドで活動中。
ユニークなところでヴォーカルのTom Knowlesは家族が営むベーカリー関係のビジネスに乗り出し、これが大当たりした後ダーハムにて家業の代表取締役兼コンピューター・システムのアナリストとして成功を収めている。
最後に残るベースのFenwick Moirの所在だが、1980年前後にフランスに移住した以降は残念ながらその所在や動向は不明である。
同じ70年代後期に活躍したイングランドが奇跡的な復活を遂げ、昨年新作をリリースし気を吐いている一方、ファンの心理上“ならば是非ケストレルも!”と大いに期待を寄せたいところだが、悲しいかな…やはりそればかりは不可能に近いようだ。
稀代の名演・名作と賞賛されながらも、決して成功という栄光の階段には上れなかったケストレル。
70年代という激動のブリティッシュ・ロックシーンに雄々しく放たれながらも、大きく羽ばたく事無く時代の彼方へ飛翔し消え去ってしまった彼等。
そんな彼等が遺した唯一の作品は、どんなに時代が移り変わろうとも決して色褪せる事無くこれから先数十年の時を経ても神々しく光輝き続けていく事だろう。
晩秋の青空と秋風に誘われて遠出する道中で久々にカーステレオでケストレルを聴いてみよう、冬の訪れはもう間近である…。
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05,2019
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11月第二週目、今回の「夢幻の楽師達」はFC2ブログに移行してから初の21世紀プログレッシヴ・バンドを取り挙げてみました。
時代を遡ること…90年代のイタリア国内にてヴァイニール・マジック並びメロウレーベルが新たな試みとして立ち上げたニュー・プログレッシヴの波及は、カリオペ始めシンドーネ、果てはシトニアといった新世代を輩出し、21世紀に移行してからもその波及は衰える事無く、今日までに至る新世代イタリアン・ロックの礎或いは指針にして完全復活の決定打となった、名実共にイタリアン・ロックの伝統と王道復古の先導にしてキーパーソン的な存在としてその名を轟かせている“ラ・マスケーラ・ディ・チェラ ”に焦点を当ててみたいと思います。
LA MASCHERA DI CERA
(ITALY 2001~)
Fabio Zuffanti:B,G
Alessandro Corvaglia:Vo
Agostino Macor:Key
Andrea Monetti:Flute
Marco Cavani:Ds,Per
今となってはとても想像がつかない…一笑に付される様な話かもしれないが、長い間イタリアン・ロックに慣れ親しんだ方々にとって、よもやこの様な形で伝統的旋律のイタリアン・ロックの息吹きなるものが、21世紀の今日に聴けようとは夢にも思わなかった事であろう。
事実、あの栄枯盛衰が隣り合った1973年の世界的なオイル・ショックを契機に、あれだけの栄華と一時代を築いたイタリアン・ロックの殆どが衰退・壊滅の一途を辿った事を考慮すれば、尚更の事であろう。
俗に言うロカンダ・デッレ・ファーテとセンシティーヴァ・イッマジーネの登場を最後に70年代末期から暫くの間は、イタリアン・ロック=イタリアン・プログレッシヴはアンダーグラウンドな範疇で地下深くに潜伏するかの如き、時代の片隅に追いやられた感が無きにしも非ずではあったが、それでも80年代初頭におけるイギリスからのポンプ・ロック勃発を契機に、ヨーロッパ諸国への波及と追い風を受け、御多分に漏れずイタリアにもプログレッシヴ・ロック復活を目論む…バロックを始めエツラ・ウィンストン、ヌオヴァ・エラ…等といった創作意欲旺盛なアーティストが80年代半ばから90年代全般にかけて再び多数輩出するに至った次第であるが、当時は母国イタリア語によるヴォーカルは全体の3~4割といった比率で、やや大半が英語によるヴォーカルを用いた無国籍風な音作りに終始する傾向があったのもまた然りでもある(当時、ワールドワイドに展開していたイタリアン・メタルの影響があった事と符合してはいるが…)。
90年代半ばになると、イタリアン・ロックのリイシューを一手に請け負っていたヴァイニール・マジック社が新人発掘の名目でニュー・プログレッシヴシリーズをスタートさせ、カリオペ、シンドーネ、カステロ・ディ・アトランテを世に送り出し、プログレに理解を示していた多方面の自主レーベルもこぞってイル・トロノ・ディ・リコルディ、ディヴァエといった往年のファンをも唸らせる高水準なレベルのアーティストが登場し、一時的とはいえあれだけ衰退したイタリアン・ロックを再興させた尽力たるや、頭の下がる思いである。
余談ながらも、離散集合を経たPFM始めバンコ、オザンナ、ニュー・トロルス、オルメ、果てはRDMやメタモルフォッシ…等といった往年の名手が再びプログレッシヴ・フィールドに返り咲いた事も、シーンの再興に一石投じた事を忘れてはなるまい。
前置きが長くなったが、そんなイタリアのシーンが再び熱気を取り戻しつつあった80年代末期から90年代全般にかけて、かつての70年代イタリアン・ロック黄金期の熱気と感動を取り戻すべく陰ながらもひたすら地道なる復興に尽力してきた一人の男の存在Fabio Zuffantiを忘れてはなるまい。
Fabio自身フィニステッレ始め自らのソロ・プロジェクトでもあるホストソナテンをも手掛け、イギリスのクライヴ・ノーラン始めブラジルのマルクス・ヴィアナ、更には近年のロイネ・ストルトやマティアス・オルスンと並んで多方面に活動している…所謂ワーカホリック系プログレッシヴアーティストとしても確固たる地位を築いた先駆者と言っても過言ではあるまい。
先のフィニステッレを始め、ソロ活動、ロック・オペラ“MERLIN”のプロジェクト、果ては畑違いなジャンルのチャレンジといった創作活動に携わりつつも、現状に決して甘んずる事も満足する事も無く、Fabio自身常に貪欲にロックの持つ可能性に対峙してきたが故に、いつの頃からか自らが為すべき事はイタリアン・ロック史の王道を守るべき“気概”であると言う事を自覚したと察するのが正しいだろう。
Fabioの言葉を借りれば「ムゼオやビリエット、バレット・ディ・ブロンゾみたいな栄光の70年代イタリアン・プログレッシヴの伝統を再生する為に、このバンドを作った」 、そんな宣言とも豪語ともとれる言葉通り、2001年初頭に「蜜蝋の仮面」なる如何にもダークな雰囲気を湛えた直訳の意で、本バンド…ラ・マスケーラ・ディ・チェラはジェノヴァにて産声を上げた次第である。
Fabio自身の手掛ける通算7つ目のバンドであるのも然る事ながら、推測の域で恐縮なれど…結成と同年かそれと前後して同じく70年代回帰型のもう一方の雄“ラ・トッレ・デル・アルキミスタ”がデヴューを飾った事もあり、Fabioにとっても良い意味で刺激にもなり対抗心が芽生えたと思うのは考え過ぎだろうか。
こうして周囲からの期待と注目を一身に背負い大いなる挑戦ともいうべき一歩を踏み出したラ・マスケーラ・ディ・チェラであるが、決してFabioのワンマンバンドに終始する事無く、彼を支えるべく強固なるバンドメイトが一丸となって70年代の模倣でも懐メロでもない原点回帰やリスペクトを超越した完全新生を目指してデヴューに臨んだと言っても過言ではあるまい。
ヴォーカルのAlessandro Corvagliaは先に紹介したロック・オペラ“MERLIN”で主役を務めた経歴を買われてそのまま活動に参加し、ハモンドやメロトロン、モーグといったヴィンテージ・キーボードのコレクターでもあるAgostino Macorと強固で的確なテクニックのドラマーのMarco Cavaniの両者が一番Fabioとの活動歴が長く、共にフィニステッレ→ホストソナテン→ラ・ゾナと渡り歩いてきた強者で、フルートのAndrea Monettiも意外な経歴の持ち主で何とあのドイツのエンブリヨのメンバーも経験したという、バンドメンバー各々が実力者揃いというのも頷けよう。
結成の翌年2002年のデヴュー作を経て、翌2003年には2作目に当たる『Il Grande Labirinto 』を立て続けにリリース。両作品共に全世界のプログレッシヴ関係のプレスやメディア等でも大絶賛され、70年代回帰型のイタリアン・ロックの作風に飢えていた各国の熱狂的ファンからも支持を得て空前のベストセラーにもなった事は未だ記憶に留めておられる方々も多いことだろう。
デヴュー作での怒涛の如き衝撃も然り、粘っこく絡みつくイタリアン独特なフルートの響きに、ヴィンテージな空気を湛えたハモンドにメロトロン、モーグ、重厚感溢れるヘヴィなリズム隊に、邪悪な中にも壮麗なイマジネーションを想起させる伊語によるヴォーカルといった揃い踏みに、全身が震え上がる位に震撼したのは言うまでもあるまい。
2作目にあっては前作の延長線上なれど、数名のゲストミュージシャンを迎え様々な音楽的素養にアヴァンギャルドなギミックさが加味された、シャレではないが確信犯的な革新さと貪欲なまでの創作心に満ちた意欲作に仕上がっている。
翌2004年には、待望の初ライヴ・アルバムをリリースしスタジオ作品と何ら変わらぬヴォルテージと熱気を帯びたパフォーマンスが繰り広げられるものの、翌2005年には次なる新展開と新作リリース準備の為一年間の沈黙期間に入る。
その間、フィニステッレ時代含めて長年住み慣れたメロウ・レーベルから離れ、ドラマーがMarco Cavaniから同じくFabio人脈の伝で招かれたMaurizio Di Tolloに交代し、バンドは心機一転し新興レーベルBTF傘下でPFMのフランツ・ディ・チョッチョが設立したImmaginificaから、同じくフランツのプロデュースの許で通算4枚目にしてスタジオ3作目に当たる実質上の3rd『Lux Ade 』をリリースする。
本作品も過去2作のスタジオ作を遥かに上回るヴォルテージを有し、前2作品の中から必要最小限に抽出された良質な部分を濃縮還元した内容に仕上がったと言えば分かり易いであろうか。ヘヴィな佇まいの音作りながらも要所々々に仄かなダークさと朧気なリリシズムが融合した唯一無比な世界観は、かつてのムゼオないしビリエットでは到底辿り付く事が出来ない位の領域にまで極まった感がある。
なるほどフランツのプロデュースが功を奏したせいからか、無駄な部分を極力削ぎ落としてスッキリと聴き易くしたのも特色であろう。
『Lux Ade』リリースから3年後の2009年、ギタリストMatteo Nahumをゲストに迎えた4th『Petali Di Fuoco 』、そして4年後の2013年にはかつてのレ・オルメの代表作にして名作でもある『Felona E Sorona』の続編的新解釈で製作した意欲的な試みの5th『Le Porte Del Domani 』(色違いの英語ヴァージョン『The Gates Of Tomorrow 』も同時期にリリース)を発表し更なる注目を集める事となる。
バンドはそれ以降活動を休止し新作リリースのアナウンスメントも聞かれなくなって実に久しい限りであるが、まあ所謂次なるステップに向けた充電期間というか開店休業に近い状態で今日まで沈黙を守り続けていると言った方が妥当であろうか。
Fabio自身も新人バンドの育成やらデヴューの為のレーベルを設立したり、多方面でのプロジェクトに関わったりと今もなお精力的に創作活動を継続し多忙を極めているといったところである。
今やイタリアン・シンフォの新進気鋭な輩の中にはマスケーラ・ディ・チェラをリスペクトしたいというのもチラホラと囁かれている昨今である。
70年代の栄光あるイタリアン・ロックの伝統を復興する為に結成された彼等ではあるが、よもやその存在にしてイタリアにマスケーラ在りとまで謳われるようになり、世界的にも堂々と胸を張れる大御所的な風格すら漂っている。
かつての黄金時代の気運の再生をも上回った彼等であるが、もはや伝統をも超越しイタリアン・ロック史の新たな一頁をこれからも更に枚数を増やしていく事であろう。
さて、彼等の待望の新作となるであろう次なる一手は、はたして…?
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08,2019
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11月第二週目の「一生逸品」、今回は21世紀プログレッシヴバンドには珍しいワンオフ作品の中から、PFMやアレアといったイタリアの大御所級の名匠から多大なる影響を受けた、超絶バカテクなプログレッシヴ・ジャズロック伝承者の名に相応しい、2001年に唯一作をリリースし、イタリアン・ロックの歴史にその伝説的な名前を刻んだ“ジェットラグ ”を取り挙げてみたいと思います。
JETLAG/ Delusione Ottica(2001)
1.Il Camaleonte/2.King Of Fools/
3.Illusione Prospettica/4.Castelli Di Rabbia/
5.Delusione Ottica/6.Audiopoker/
7.Re Nudo/8.Elusione Ottica/9.Mare Nostrum
Fabio Itri:G
Saverio Autellitano:Key
Luca Salice:Vo, Flute
Bruno Crucitti:Ds, Per
Marco Meduri:B
70年代にその輝かしい栄華と引き潮の様に衰退を経たイタリアン・ロックであるが、80年代にイギリスから勃発したポンプロックの洗礼を受けてポツポツと自主製作のテープ作品レベルながらも、イタリアン・プログレッシヴ再興の契機・端緒となるべく、あたかも雨後の筍の如く続々と新世代の担い手が登場し、テープ+アナログLPの時代から90年代のCD時代への移行と同時に、70年代物のリイシューが主力だったヴァイニール・マジックやメロウが新人の輩出・育成に力を注ぐ様になり、更にはカリフォニア、ブラックウィドウ…等といったイタリア国内のプログレッシヴ専門レーベルまでもが発足、果てはフランスのムゼアからも強力なバックアップを得て、21世紀の今日までに至る新世代イタリアン・ロックへの紆余曲折の道程は確立されたと言っても過言ではあるまい。
以降は皆さん御周知の通り、70年代のリコルディやフォニット・チェトラ、ヌメロ・ウーノ、果ては大手ポリドール、RCAイタリアーナにも匹敵すべく、21世紀の現在に於いて様々なプログレッシヴ専門レーベルが百花繚乱に競合しあい…筆頭格のAMS始め、ma. ra. cash、Altrock/Fading Records、そして新進のAndromeda Relixに、Lizard傘下のLocanda Del Vento…etc、etc、極小な自主製作インディーズ系と合算しても枚挙に暇が無い。
ややもすると21世紀のイタリアン・ロックの現在(いま)は、70年代をも遥かに上回る位のプログレッシヴ・オンリーのレーベルが存在しているのではあるまいか…。
前置きが長くなったが、90年代を境に多種多彩なプログレッシヴ・レーベルが発足した中でも当時の我が国に於いてはまだ無名に近い存在のレーベル、今でこそイタリア国内の様々なプログレレーベルと連携とリンクを密にして多方面で大きな展開を見せている、蜥蜴マークのレーベル“Lizard” 。
1996年の発足以降、現在ジェネシス・フォロワーの最右翼として活躍中のウォッチ(その前身だったナイト・ウォッチ時代を含めて)を始め、バンコ影響下のイマジナリア、ロックテアトラーレ調のフィアバ、イタリアン・チェンバー系のガトー・マルテ、単発系のワンオフ的なスピロスフェア、そして今回本篇の主人公でもあるジェットラグもその内の一つに数えられる。
ジェットラグの詳細なバイオグラフィーについては、誠に残念ながら各メンバーの経歴並び音楽経験、バンド結成の経緯に至っては全くと言って良いほど分からずじまいで、唯一判明している事は1995年に結成し度重なるギグとセッション、リハーサルを積み重ね、結成から3年後の1998年に自主製作EP“Difference”をリリースし、それを足掛かりに当時新興のレーベルとして勢いのあったLizardと契約し、2001年に現時点での唯一作『Delusione Ottica 』で正式にフルレングスのデヴューを飾る事となる。
彼等自身も御多聞に洩れずクリムゾンやフロイドといったブリティッシュの大御所からの影響も然る事ながら、やはり根底にはイタリアンの大御所にして御大でもあるPFMからかなり大きな影響を受けており、マウロ・パガーニ脱退後にリリースされた佳作『Jet Lag』からバンド名を採ったのは紛れも無い事実と言えよう(ちなみにJetLagの意は“時差ボケ ”とのこと… )。
但し本家との決定的な違いはヴァイオリンは一切使用しておらず、あくまでパガーニ影響下の強いフルートを大々的にフィーチャリングしている事であろう。
クラシカル・シンフォニックな要素も希薄で、やはり後期のPFM然り地中海サウンドのエッセンスを巧みに盛り込んで、アレアやアルティ・エ・メスティエリと同傾向のジャズロック風味を存分に効かせたインタープレイを得意としており、デウス・エクス・マッキーナやDFAといった90年代イタリアンの代表格の名作にも匹敵するであろう、彼等の唯一作『Delusione Ottica』を耳にしたリスナーの方なら、その攻撃的で超絶バカテクな演奏技量と高水準なスキルの高さに舌を巻くこと必至であると言っても過言ではあるまい。
一見してポーキュパイン・ツリーの『Fear Of A Blank Planet』を思わせる様な意匠(厳密に言えば、ポーキュパイン・ツリーの作品の方が後出であるが)に包まれた唯一作の冒頭1曲目、70年代から脈々と流れるイタリアン・ロックスピリッツ全開の何とも狂騒的でせわしなくもけたたましい、フルート…キーボード…ギター…リズムセクションの互い同士が闘いながらもせめぎ合いヘヴィでスピーディーな疾走感と超絶バカテクプレイが堪能出来る事だろう。
皮肉屋風な某プログレ・ライターが自らのネット上でPFMが躁鬱気味になったらこんなサウンドになったと揶揄しているが、的を得ている様な当たらずも遠からずといったところだろうか。
続く2曲目もオープニングと同傾向の作風ながらも、寄せては返す波のように緩急を持たせて英語の歌詞を存分に活かした歌物ナンバーであるという性格上、歌メロと楽曲との対比が絶妙で且つ、要所々々で意表を搗いたかの様に展開するイタリアン・ロック独特のメロディーラインに時折ハッとさせられる。
この時点でもう彼等の術中に完全にハマっているという事に改めて溜飲の下がる思いですらある…。
抒情的なピアノのイントロダクションに導かれて70年代風なギミックを効かせたユニークなシンセに転調する僅か1分にも満たない3曲目の小曲から、いきなり断ち切られるかの様にフルートとヘヴィなサウンドが怒涛の如く雪崩れ込んでくる2曲目に次ぐ歌物ナンバーの4曲目はイタリア語による正調イタリアン・ロックを楽しませてくれる。
地中海を思わせるたおやかなエレピに、パガーニへのリスペクト調のフルートとアレア風のメロディーラインが渾然一体となった、寸分の隙すらも与えない超絶音空間に舌を巻く思いですらある。
ジェットラグの音世界が絶え間無く続く5曲目で脳内はもうすっかりリラックスムードと快適なグッドトリップの夢への疾走感を満喫している途端、断ち切られたかの如く任天堂ゲームボーイないしゲーセンのアーケードゲーム風な電子音が突如乱入し、快適な音空間のトリップ体験が一気にプログレとサイバースペースとがミクスチャーされた空間に放り出されたかの様な錯覚すら覚えてしまう6曲目の小曲に戸惑いは隠せない。
余談ながらも…GGの“Time To Kill”冒頭のテーブルテニスのゲーム音を連想したのは私だけだろうか(苦笑)。
“チョコレート・キングス”があたかも荒々しくヘヴィに転化しストイックでクールな印象すら与える感の7曲目の凄まじさを経て、8曲目は収録されている全曲中で唯一静的な異彩を放つアコギによるソロパートがフィーチャリングされた、押しの印象が強い本作品に於いて牧歌的ながらもメディテラネアなイマジンと情熱が色鮮やかに甦る、一服の清涼剤にも似た郷愁すら抱かせる好ナンバー。
ラスト9曲目はモンゴルのホーミー風な些か不気味な印象を抱かせる呪術や呪文にも聴こえそうなボイスのイントロダクションに一瞬困惑すら覚えるが、徐々にイタリアン・ロックならではの節回しや曲調へと転じていく6部パート構成のトータル16分以上に亘る、まさにラストナンバーとして相応しい大曲に仕上がっており、物悲しさを湛えたピアノソロに、クリムゾンやバンコ…等の多才なヴァリエーションをも盛り込んだ、アルバムの大団円へと一気に突き進む心地良い潔さと気概が実に好印象を与える素晴らしい出来栄えを誇っている。
リリース直後イタリア本国でもかなりの好感触と手応えを得て、新人ながらもかなりの成果を得た彼等ではあったが、ここまで秀でた素晴らしい完成度とハイテンションを有していたにも拘らず、不思議な事に日本では当時あまり話題に上らなかったのが意外といえば意外である。
都内のプログレ専門店でも当時は多分極限られた枚数で入荷したものの、その後はパッと話題に上る事無くこぞって当時主流だったメロディック・シンフォ系へのセールスに重きを置いたのかどうかは定かではないが、以後再入荷する事無く数年前ストレンジ・デイズ刊行の「21世紀のプログレッシヴ100』にて漸く取り挙げられ再びその脚光を浴びるまでの10数年間…人知れずLizardレーベルの倉庫で静かに眠っていたのかと思うと、申し訳無い気持ち半分と自身の無知さ加減に何とも悔やまれてならない…。
話がすっかり横道に逸れてしまったが、高水準な完成度を誇るデヴューを飾り今後の動向が注目されつつ期待を一身に集めていたにも拘らず、彼等はそれ以降次回作のアナウンスメントすることも新作準備に向けたリハーサルやプロモーションをすることも無く、たった一枚のデヴュー作で完全燃焼しましたかの如く…自らが演りたい事はもう全て出し尽くしたと言わんばかりに、誰に知られる事も無く静かに表舞台から遠ざかってしまう。
ただ…それ以降の唯一表立った活動を述べるとすれば、3年後の2004年にメロウレーベル主催のキング・クリムゾン・トリヴュート・ライヴへ参加している旨のみが伝えられており、以後今日に至るまで解散声明を出すこと無く所謂“開店休業”に近い状態で、各メンバーがそれぞれの音楽活動ないしプロジェクト活動に携わっているとのこと…。
秀でた才能を有しているにも拘らず、どこか臍曲がりで歪なニヒリズムを漂わせて、“潔さが無い”などと陰口を叩かれながらも常に冷静沈着でクールに振舞っている彼等の巌の様な創作意欲とプログレッシヴ・パイオニアに対し、聴き手側である我々自身も“こいつら、まだまだ何かしらやってくれそうな気がする!?”などと、決して当てにならない匙を投げたかの様な諦め感を覚えつつも、心の片隅ではまだ何かしらの期待感を抱きつつあるのだから全く世話は無い(苦笑)。
でも…解散してン十年間音沙汰無かったバンドが、いきなり再結成して新譜を出すといった事が日常茶飯事起こっているプログレッシヴ業界、何が起こっても不思議では無い御時世であるが故、ちょっとした“もしかしたら!?”みたいな期待感を寄せているのも流石に否めないから困ったものである。
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11,2019
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今週の「夢幻の楽師達」は、21世紀今日のフレンチ・ロックシーンにおいて、70年代以降の大御所クラスでもあるアンジュ、アトール、ピュルサー、果ては現在のロック・テアトルの雄ネモと並び、今やフランスの代表格にまで上り詰めた“ミニマム・ヴィタル ”に焦点を当ててみたいと思います。
MINIMUM VITAL
(FRANCE 1983~)
Jean Luc Payssan:G,Per,Vo
Thierry Payssan:Key,Per,Vo
Eric Rebeyrol:B
Christophe Godet:Ds,Per
今となってはもうだいぶ語り尽くされた感があるが、1968年の5月革命を境にフランスのロックシーンはその産声を上げたと言っても過言ではあるまい。
黎明期のマルタン・サーカス、エデンローズ、レッド・ノイズ、コミンテルン…等を皮切りに、アール・ゾイから派生した大御所のマグマ、そしてザオ、多国籍の混成によるゴング、本格的なロック・テアトルの租とも言えるアンジュが台頭しつつ、ことシンフォニック系列にあっては後にクリアライト、ワパスー、ピュルサー、アトール、タイ・フォン、モナ・リザ…等を輩出し、70年代後半までフレンチ・シンフォはその隆盛を極めるまでに至った次第である。
80年代以降になると、ムゼアレーベル発足までの間、プログレッシヴ=シンフォニック系は良くも悪くも一気にマイナー指向なアンダーグラウンドへと活動の場を移し、その当時の殆どが自主製作にとどまる事となるのは最早説明不要であろう。
そんな厳しい状況下、アジア・ミノール始め、アラクノイ、テルパンドル、オパール、ウルド、ネオ、ウルタンベール、ステップ・アヘッド…等は、自主製作という範疇・制約にも拘らずフレンチ・ロック史に燦然と輝く名盤を遺していき、その輝かしいフレンチ・シンフォの系譜は、後の1986年…プログレッシヴ・オンリーのムゼア・レーベル発足と共に、今日にまで至る多種多彩にして十人十色、百花繚乱の如きシンフォニック・ロックシーンのメインストリームとして確立していく事となる。
そして…レーベル発足当時のジャン・パスカル・ボフォ、エドルスと共に一躍ムゼアの顔として台頭したのが本編の主人公ミニマム・ヴィタルである。
1983年。フランス南西部のワイン生産地でもあり輸出港として名高いボルドーにて、一卵性双生児でもある双子の兄弟…ギターを担当の兄Jean Lucとキーボード担当の弟ThierryのPayssan兄弟を中心に、ミニマム・ヴィタルは結成された。
当初は彼等も他のフランス国内のプログレッシヴ系バンドと同様に、ブリティッシュ系に触発された形(特にジェントル・ジャイアント辺りからと思われるが…)で創作活動を開始するが、年数を重ねていく毎に自国のマリコルヌやアラン・スティーバルといったフレンチ・トラッド系の要素と融合を試みつつ、独自のバンドのカラーとオリジナリティー、方向性、アイデンティティーを確立するまでに至った次第である。
2年間もの度重なるリハーサルと録音期間を経て1985年、彼等は実質的なバンドのデヴューに当たるテープ作品『Envol Triangles』をリリースする。完成度から言っても、まだ多少荒削りでアマチュア臭さこそあれど、後々の洗練されたヴィタル・サウンドの磨かれる前の光沢を放つ原石をも思わせ、新人離れした感のサウンドスカルプチュアは、まさしく未完の大器を思わせると言っても差し支えはあるまい。
当時のメンバーは先に紹介したPayssan兄弟に加え、結成当初からのオリジナル・メンバーでもあるベーシストのEric Rebeyrol、そしてドラマーにAntoine Fillon、女性フルート奏者Anne Colasの5人編成であったが、テープ作品をリリース後ドラマーとフルートが脱退、後任のドラマーとしてChristophe Godetを迎えた4人編成で新たな再スタートを切る事となる。
デヴューリリースしたテープ作品はフランス国内外にて高い評価を得、同時期に発足したムゼアの目に留まるまでにそんなに時間を要しなかった。
1987年にムゼアからリリースされたシンフォニック・コンピレーションアルバム『Enchantement 』にて、大御所のアンジュ、ピュルサー、アトール(クリスチャン・ベヤのソロ形式)、ジャン・パスカル・ボフォ、エドルス…等と共に参加し新曲1曲を提供。その一方で同時併行して正式なデヴューアルバム製作に時間を費やす事となる。
同年末にリリースされた正式なデヴューアルバム『Les Saisons Marines 』は期待に違わぬ、まさにミニマム・ヴィタルというバンドの幕開けに相応しい、テープ作品以上のポテンシャルと完成度を持った記念すべき第一歩と成り得たのである。
変幻自在にして音楽的素養・教義の深さを感じさせる兄Jean Lucのギターも然る事ながら、ヴィタル・サウンドに色彩と奥行きを添える弟Thierryのリリシズム溢れるキーボード、強固で且つ堅実なリズム隊、ゲストの女性ヴォーカルを縦横無尽に駆使した音空間は、時に中世宮廷音楽を思わせ、フレンチ・トラッドに裏打ちされたアコースティックなカラーとクロスオーヴァーが違和感無く融合した唯一無比な“音の壁”だけがそこにあった。
ちなみに後年の1992年、先に紹介した正式デヴュー以前リリースのテープ作品とLPでリリースされたデヴュー・アルバム共に2in1の形でCD化されデヴューアルバムのデザインを基に若干意匠と装丁に変化が加えられている事も付け加えておく。
フランス国内外にて好評を博したデヴュー作を追い風に、本格的なCD時代に突入した90年代。時同じくして1990年発表の第2作目『Sarabandes 』は、彼等にとっても非常に意味のあるエポックメイキングな完成度を伴った名作級に仕上がったと言えよう。
デヴュー作以上に洗練された楽曲に緻密に綴れ織られたアレンジ能力、ディジタリティーながらもアコースティックな感触、90年というアップ・トゥ・デイトな同時代的感覚がバランス良く盛り込まれた意欲作に仕上がっている。
彼等の創作意欲はとどまる事無く、3年後の1993年リリースの3作目『La Source 』においては、デヴュー当初から続いていた演奏重視のインストゥルメンタル・オンリーなスタイルから、ヴォーカルとのバランス良い比率を融合したスタイルに移行した、なかなか冒険的で且つ意欲的な作風に仕上がっている。
冒頭1曲目で一瞬軽快なダンサンブル路線に変わったかと思いきや、そこには従来通りのヴィタル・サウンドがしっかりと根付いている事を忘れてはなるまい。
そもそも3rdの本作品、リリース当初のプランでは創作舞踊劇をモチーフにした作風になるとの事だったそうな…。
その証拠を裏付けるかの様に、95年にムゼアから発売されたビデオテープ・オンリーのプロモ映像では3rdの収録曲“Ann Dey Flor”の冒頭で女性舞踊家が華麗に舞うシーンが曲のイメージ通り実に印象的ですらある。機会があれば是非御覧になって頂きたい…。
しかし、この…ほんの僅かな路線転換が本当の理由かどうかは定かではないが、長い間苦楽を共にしてきたドラマーのChristophe Godetがバンドを脱退してしまう。
この思いもよらぬ青天の霹靂の如き出来事はバンド活動に多かれ少なかれ影響を及ぼし、ミニマム・ヴィタルが一時的とはいえ、あわや解体寸前という危機にまで陥ったのは余り知られてはいない。
そんな直面した難局を無事に乗り切り今日にまで至る背景には、やはりミニマム・ヴィタルにとって心強い新戦力としてのみならず、バンドの更なる新たな方向性を見出す契機にもなった女性ヴォーカリストSonia Nedelecの存在を抜きには語れないであろう。
新加入のSoniaと共に、ドラマーとしてCharly Bernaを迎えた5人の編成で臨んだと同時期に、アメリカやメキシコ、ヨーロッパ各国で開催されたプログ・フェスの招聘が彼等を更に勇気付け、プログ・フェスでの各国のプログレッシヴ系バンドとの新たな出会いと交流が更なる新作へのインスピレーションへと結び付けたのは言うまでも無い。
前作から5年後の97年にリリースされた通算4作目の『Esprit D’Amor 』は、歌姫Soniaと共にゲストで参加した女性Voとのハーモニー+ヴィタル・サウンドとの相乗効果が存分に発揮された快作に仕上がっており、プログ・フェスでの経験が活かされたワールドワイドな視点と拡がりを想起させる“Brazilian Light”や“Modern Trad’”といった歌曲は、今までに無かったヴィタル・サウンドの新たな可能性と新機軸を見出せる事が出来る。
翌年、彼等初の1CDライヴ・アルバム『Au Cercle De Pierre 』がリリースされる。ヴォリューム的には1CDというのが物足りない感がするもののエンハンスド方式にパソコン経由でライヴ画像とフォトの閲覧が出来るという画期的なものであった。
ただ…やはり本音を言えばミニマム・ヴィタルの様なベテランクラスともなれば2CDライヴの方が(ヴォリューム的にも)似合っていると思うのだが…。
バンドそのものは充電期間とも停滞期間とも揶揄されつつ暫し沈黙を守り続けるが、21世紀を迎えた2001年、新たな動向として双子のPayssan兄弟を中心としたプロジェクト“VITAL DUO”をスタートさせ、より中世古謡色とフレンチ・トラディッショナルを強めた『Ex Tempore』をリリースする。
ここでは単なる“もう一つのミニマム・ヴィタル的”な捉え方よりも改めてPayssan兄弟の創作する音楽の根源と礎を再確認する上での、ある意味重要なファクターだったのかもしれない(後の2003年、VITAL DUO名義でプロモーション映像とライヴが収められたDVDもリリースされている)。
2004年、間にライヴを挟みつつも実に7年振りのスタジオ作『Atlas 』では、またしてもドラマーがDidier Ottavianiに交代し、歌姫Soniaと共に新たに男性ヴォーカリストとしてJean Baptiste Feracciを迎えた6人編成となっている。
ギリシャ神話に登場する地球を背負う神アトラスと天文学とがインスパイアされた、壮大なイメージとクラシカルな中世古謡とのコンバインが絶妙にマッチした秀作とも言えよう。
その後2005年には双子の兄Jean Luc Payssan名義でアコースティック・ギター、マンドリン、ブズーキのみを主体としたソロ作品『Pierrots & Arlequins』をリリース。
レトロチックな感の意匠と音楽的な素養の深さを感じさせるアコースティックな音空間とがセピア色なイマジンを掻き立てる良質な作品に仕上がっており、改めてPayssan兄弟としての実力を見せつけた好作品としてそのコンポーズ能力には脱帽ものである。
2008年末にリリースされた通産6作目『Capitaines 』では、もう完全にドラムレスで臨んだPayssan兄弟(兄弟でPerも兼ねる)、Eric Rebeyrol、Sonia Nedelecという少数精鋭の4人体制(MIDIドラムとハープ奏者が一部ゲスト参加)で、マーメイド或いはセイレーンをモチーフとした意匠に加え、前作の天文学に引き続き今作は海洋学がコンセプト・キーワードとなっている。
ややコンパクトに変化したかの様な印象を受けつつも、その実…前作と前々作で培われた音楽的経験が濃縮還元された、彼等の全作品中最も“今、自分達の演りたい音が完全に出来た”会心(渾身)の一作であるといっても過言ではなかろう。
現時点での最新作として記憶に新しい2015年の7作目にして初のCD2枚組となった『Pavanes 』では神秘的な森で音楽を奏でる動物の楽師達といった風な、一見するとコミカルでさながら洋菓子のCM映像(!?)を思わせる様な意匠ながらも、本作品ではとうとうPayssan兄弟とEric Rebeyrolによるトリオ編成で各々がメインの楽器にパーカッションや管楽器に持ち替えたりといった本家GGをも意識した、少数精鋭にして音の壁が更に重厚で且つ濃密になったであろう…更なる極みの完成度を誇る傑作となったのは言うに及ぶまい。
そして昨年の2018年、4作目『Esprit D’Amor』に参加していたドラマーCharly Bernaが復帰し、バンドは久々に4人編成としてあたかも原点回帰したかの如く、現在次なる新譜リリースに向けて新曲のリハーサルとレコーディングに臨んでいるとの事。
年輪を積み重ねつつ今もなお現役にして、非商業ベースで独自の音楽観と世界観を形成し、弛まぬ創作意欲は決して衰える事無く現代(いま)を生きる彼等ミニマム・ヴィタルこそ、夢幻(無限)の地平線を歩む“匠”そのものではないだろうか。
彼等の「終わり無き旅路」はまだまだ続く…。
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14,2019
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今週の「一生逸品」はユーロ・ロックファン垂涎のメロトロンとリリシズム溢れるヴァイオリンを大々的にフィーチャーし、時季を問わないセピアな暮色を音楽にしたと言っても過言では無い、抒情的で感傷にも似たヴィジュアルを聴く者の脳裏に織り成す、フレンチ・シンフォニック屈指の伝説にして唯一無比の存在として、その名を現在に至るまで刻銘に留めている“テルパンドル ”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。
TERPANDRE/ Terpandre(1978)
1.Le Temps
2.Conte en vert
3.Anne Michaele
4.Histoire D'un Pecheur
5.Carrousel
Bernard Monerri:G, Per
Jacques Pina:Piano, Key, Mellotron
Michel Tardieu:Key, Mellotron
Patrick Tilleman:Violin
Paul Fargier:B
Michel Torelli:Ds, Per
悪夢にも似た70年代後期のかつてない位なプログレッシヴ・ロックの衰退・停滞は、イギリスやイタリア…果てはアメリカも然る事ながら、御多聞に漏れずフランス国内でもマグマやアンジュを除く殆どのプログレッシヴ系アーティストがことごとく解散或いは路線変更するしか術が無いといった、文字通り悪魔との取引にも似たいずれかの選択肢を取らざるを得なかったのは御周知の事だろう。
アンダーグラウンドの領域へと追いやられた純粋なまでのプログレッシヴの信奉者達は、そんな70年代後期の悪夢に抗うかの如く限られた製作環境と極僅かな資金を頼りに、ある者はマイナーレーベルから、またある者はセルフレーベルを興し自主製作リリースへと移行しつつ、80年代半ばのムゼアレーベル発足までの間、苦難に耐え続け自らの夢と希望を紡ぎながら来たるべき時に向けて待ち続けたのは言うに及ぶまい。
前置きが長くなったが、70年代後期~80年代初期の苦難な時代を生き抜いた多くのフレンチ・プログレッシヴの担い手達…アジア・ミノール、ウリュド、シノプシス、アシントヤ、ウルタンベール、ネオ、オパール、ファルスタッフ、ステップ・アヘッドといった70年代に負けず劣らずな一時代を築き上げた傑出された逸材を始め、聴き手側各々の好みや出来不出来の差こそあれどヴァン・デスト、イカール、ニュアンス、グリム、エロイム、マドリガル、オープン・エア、トレフル…etc、etcが百花繚乱の様相を呈していた、所謂良質で素晴らしい作品こそアンダーグラウンドな範疇にありきと言われた中で、その独特な音楽性で一歩二歩も抜きん出ていた特異な存在にして二大傑作を輩出したのが、クリムゾンイズムを継承しダークサイドな佇まいで一躍話題となったアラクノイ、そしてフレンチ・ロック特有のたおやかな抒情性を醸し出したメロトロンとヴァイオリンで注目を集めた今回本編の主人公でもあるテルパンドルの2バンドであった。
テルパンドルの詳細なバイオグラフィーにあっては、マーキー/ベル・アンティークよりリリースされた国内盤CDのライナーにて、それ相応に詳細なバイオグラフィーがきっちりと解説されていると思うのでどうかそちらを参照して頂きたく、ここでは極々触り程度で綴っていきたいと思う。
テルパンドルの幕開けはギターのBernard MonerriとキーボードのJacques Pinaの2人を中心に、1975年を境にリオン、グルノーヴルからメンバーが集結して誕生したとの事。
各メンバーの音楽的なバックボーンは多種多様で、ジミ・ヘンドリックス始めジョン・メイオール、ディープ・パープル、クリーム、イエス、キング・クリムゾン、VDGG、果てはマーラー、バルトーク、サティ、バッハ、ラヴェルといったクラシック畑まで多岐に亘るが、中でもツインキーボードの片割れでプログレッシヴに造詣の深かったMichel Tardieuの存在が後々のバンドの方向性に大いに貢献していたと言っても過言ではあるまい。
何より彼等全員とも相当なまでの手練にして一朝一夕では為し得ない熟練された音楽経験者でもあり、それぞれが長年渡り歩いた経歴が強みであることをまざまざと物語っている…。
一日の始まりを告げる日の出の朝焼け、或いは一日の終わりを告げる夕暮れの黄昏時なのかは定かでは無いが、いずれにせよセピア色に彩られた空と水面と大地のフォトグラフを起用した、実に意味深な意匠に包まれたバンド名を冠しただけの極めてシンプルな唯一作は、人伝とコネを頼りに1978年スイスのジュネーヴにあるアクエリウス・スタジオという比較的恵まれた環境で録音された。
ジャケットアート含め名は体を表すというが、決してメロトロンとヴァイオリンを多用した重厚なシンフォニックというだけでは収まりきれない、さながらECM系のジャズにも相通ずるヴィジョンとイマジネーションが感じられるのも彼等の身上とも言えよう。
オープニングを飾る1曲目は柱時計が時を刻むかの様なカウント音に導かれ、厳かにして流麗なシンセとピアノに先導され、リズム隊、ヴァイオリン、ギターが順を追って絡む怒涛のアンサンブルで幕を開ける。
メンバー全員によるテクニカルで力強い演奏の動的な押しの部分と、ピアノとエレピ、ヴァイオリンによるムーディーで幽玄な佇まいの静的な引きの部分との対比が絶妙且つ素晴らしいのひと言に尽きる。
中間部から漸くメロトロンが顔を出す辺りから、これぞユーロ・ロックらしい真骨頂が垣間見えてフレンチ・ジャズロックとシンフォニックの最良なエッセンスが融合し濃縮還元されて終盤へと突き進む展開は感動以外の何物でもあるまい。
メロトロンフルートとエレピ、リズム隊をイントロダクションに、季節感を問わない穏やかなイメージと浮遊感すら覚えてしまう2曲目の何とも甘美で抒情的、時折刹那な雰囲気すら想起しそうな、優しくも儚い季節の移り変わりを表した、まさしく“緑の物語”というタイトルに相応しい好ナンバーと言えよう。
2曲目とは打って変わって、3曲目は同じメロトロンフルートのイントロダクションでも寂しくも物悲しさが色濃く漂っており、タイトルでもあるAnne Michaeleなる人物(女性?)の人生を物語っているかの様な泣きのメロトロンの洪水に、ピアノとシンセの印象的なアクセントが、純粋なまでの愛しさの中に誰も侵し難い気高さすら感じられる、アナログ時代のA面ラストを飾るに相応しいテルパンドル流ラヴバラードと思っても異論はあるまい。
4曲目はセンシティヴでテクニカルな…良い意味で絵に描いた様なシンフォニック・ジャズロック調を思わせるシンセとピアノに導かれ、1曲目に匹敵するくらいに動と静のバランスが巧妙なリズミカルで小気味良いナンバーを聴かせてくれる。
途中不穏な雰囲気を湛えたメロトロンに意表を突かれるが、美しいピアノと効果的なパーカッション群のオブラートに包まれて、さながら月光の下で真夜中の街角を彷徨う様な妖しさすら思い浮かべてしまうが、いきなり力強い演奏へと転調し終盤へと雪崩れ込む辺りは、あたかもタイトル通りのラスト5曲目へと繋がるかの如く狂ったように回り続けるメリーゴーラウンドが脳裏をよぎるそんな思いですらある。
そんな4曲目の流れのイメージを受け継ぐかの如く、ラストは幾分ダークでニヒリズム漂う心象風景を構築した、ヘヴィでシリアスな13分強の大曲で、序盤に於いて不協和音的なメロトロン、ギター、リズム隊をバックにジャズィーなピアノが淡々と奏でられる様はテルパンドルのもう一つの顔というか側面をも覗かせる、別な意味で実に印象的ですらある。
…かと思いきや、力強いティンパニーに導かれ仄明るい感のメロトロンが奏でられると何だかホッとするかのような演出に粋な心憎さをも覚えてしまうから何とも困ったものである。
それでも淡々とジャズィーなピアノは進行しつつ、ヴァイオリンを先導にムーディーで欧州の香り漂うクロスオーヴァーな曲調へと変わり、あれよあれよという間に厳かなメロトロンの大河に身を委ねている頃には、いつの間にかテクニカルでリリシズム溢れる彼等ならではの巧妙な罠にも似た術中にはまっている思いで、何度聴いても“嗚呼!またやられた”といった感が否めないから世話は無い(苦笑)。
これだけ高水準な演奏技量とスキル、コンポーズ能力やら録音クオリティーを含め作品を完成させたにも拘らず、その直後に記念すべきデヴュー作はリリースされる事無く、理由並び原因は不明であるが3年間もお蔵入りというか寝かされてしまった形となって、こうしてテルパンドルの作品は1981年に漸く陽の目を見る事となり(過去にプログレ専門誌及び関係各誌にて、テルパンドルがデヴューリリースした年数でそれぞれのバラつきがあったのはそれら諸般の事情が原因であると推認される )、極限られた枚数でしかプレスされなかったが為に、メロトロン入りという触れ込みと内容が高水準で素晴らしいといった評判から、世界中のプログレ・マニアがこぞって入手し、バンドの手持ち分でさえも即完売となり、以後1988年にムゼアから再プレスされるまでの間は極めて入手困難で高額プレミアムなレアアイテムとして数えられ、お決まりの如く専門店の壁に掲げられて垂涎の的へと辿った次第である…。
バンドは78年にデヴュー作をプレス以降、ヴァイオリニストの交代と僅か数回のギグを経てあえなく解散し、内のメンバーだったBernard Monerriと数名は伝説的ジャズロックバンドVORTEXに何度か関与しギグにも参加。
後々は解散したテルパンドルから移行してVORTEXでの3rd製作をも視野に入れた形で準備が進められてはいたものの、結局諸事情が重なり計画は頓挫しVORTEX自体も解散という憂き目に遭ってしまう。
その後唯一判明している事といえば、オリジナル・ヴァイオリニストのPatrick Tillemanが1994年に再結成したザオの新メンバーとして招聘され新作レコーディングにクレジットされたぐらいであろうか。
残念ながら21世紀のFacebookを始めとするSNS隆盛時代の昨今に於いてもメンバーの消息を知る由も無く、音楽から足を洗って堅気の仕事に就いたか、或いは陰ながらも音楽業界に身を置いて裏方稼業として人生を送っているかのいずれかと思えるが、21世紀という…いつ何が起こってもおかしくない時代であるが故に、いきなり突然テルパンドル再編の報が飛び込んできても、そんな想像に笑う奴もいないだろうしバチが当たる訳でも無し、僅かばかりながらも相応に期待したいところではあるのだが(苦笑)。
世に秀でた素晴らしい音楽作品が決して必ずしも売れるとは限らないというのが、悲しいかな厳しい現実と言うべきか世の常とでも言うべきか、御多聞に漏れずテルパンドルも辛い時代に抗いながらも世に敗れ散ってしまった次第であるが、作品の高潔さとその純粋なまでのプログレッシヴな精神と魂は、21世紀というネット社会の今日に至っても未だ永久不変の如く、セピアの光沢を纏いつつも決して色褪せる事無く今もなお神々しく光り輝いている。
“世に敗れても、高貴な魂だけは死なず生き続けている…”
一部のファンからは「スプリングやサンドローズみたいに、古臭いメロトロンだけが売りの平凡なB級作品」だとか、「ヴァイオリンがポンティやロックウッドと比べたら今イチ」だとか、散々な言われようであるのもまた紛れも無い事実ではあるが、創作者を嘲り侮辱してあたかも話しのネタの如く酒席の肴にしている…そんな真っ赤な顔をして居酒屋でくだらない与太話をするだけが関の山みたいな阿呆な輩に、テルパンドルの持っている良さと本質が到底決して理解なんぞ出来はしまい…。
だからこそ我々プログレッシヴを愛する者達は、高潔で純粋なる気持ちを持ち続けて“高み”を目指していかねばならないと思う。
まさしくテルパンドルのジャケットの如く、希望の陽光を目指して終わり無き旅路をこれからも信念を持ち続けて歩んで行こうではないか。
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19,2019
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今週の「夢幻の楽師達」は、結成から今日に至るまで早40年選手という長大なるキャリアを誇りつつ、現在もなお孤高なまでの飽くなき創作精神とプログレッシヴ・ロックに対するストイックなまでの真摯な姿勢で自らの音楽世界を構築し、その健在ぶりを大きく示しているであろう…ジャパニーズ・プログレッシヴの栄光と誉れと言っても過言では無い“ケンソー ”の長き歩みを振り返ってみたいと思います。
KENSO
(JAPAN 1974~)
清水義央:G, Key
小口健一:Key
佐橋俊彦:Key
松元公良:B
山本治彦:Ds, Per
今回の本編を、故 牧内淳氏の魂と思い出に捧げます…。
ロック大国イギリスを始めイタリア、ヨーロッパ諸国、そして日本を含め全世界規模でプログレッシヴ・ムーヴメントの大きな波が席巻していた…文字通り70年代プログレッシヴ・ロック激動期と言っても過言では無かった1973~74年。
フロイドの『狂気』がメガヒットとなり、イエス、EL&Pの快進撃、クリムゾン、ジェネシスが大衆の心を鷲掴みにし、PFMやフォーカスといった欧州勢がヒットチャートに上り、果ては日本からはコスモス・ファクトリーの『トランシルバニアの古城』、四人囃子の『一触即発』が洋楽一辺倒だったロック少年達をも魅了するといった具合で、兎にも角にも猫も杓子もプログレ一色の様相だったのは言うに及ぶまい。
さながらそれは当時小学生の時分でロックの右も左も分からなかった私にとっては決して想像し得ない位の、今にして思えば夢物語にも等しい憧憬にも似た熱い青春時代が繰り広げられていたのかもしれない(苦笑)。
そんなプログレッシヴ真っ只中の1974年、神奈川県立相模原高校に在学中だった清水義央とその学友達を中心に、県立相模原高校=通称“県相 ”をもじってケンソーは産声をあげた。
幼少の頃からクラシックを学び、中学に入るとビートルズ、ストーンズ、パープル、そして清水氏の音楽人生のバックボーンともいえるツェッペリンの洗礼を受け、ギターの腕を磨きつつ高校入学と同時期にSPACE TRUCKINなるハードロックバンドを結成し、その後は前述の通り(プログレ夜明け前ともいえる)ケンソーへと改名。
文化放送主催のアマチュアバンドコンテストであれよあれよという間にグランプリを獲得し、関東圏に於いてケンソー+清水の名は瞬く間に知られる事となる。
グランプリ獲得時期と前後してイエス、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、PFM、フォーカス…等といった大御所に触れる機会も多くなり、御多聞に漏れず清水氏自身もプログレッシヴ道へと開眼し、ハードロック期のケンソーをリセットする為に一旦解散。
高校卒業→神奈川歯科大への入学と同時期にアマチュアバンドコンテストがきっかけで知り合ったドラマー山本治彦、そして人伝を通じてフルート奏者の矢島史郎、キーボード森下一幸、そしてベーシストに田中政行を迎えて1977年ケンソーはイエス影響下のプログレッシヴ・バンドとして活動を再開する。
歯科大軽音楽部を拠点に地道に音楽活動をしつつも、メンバー間の都合等で活動休止やら集散の繰り返しで清水氏自身も度重なる自問自答やら紆余曲折、試行錯誤を余儀なくされるが、メンバー間の結束が次第に固まると同時に周囲の支持者からの応援と懇意にしている音楽関係者とレコード店からの助言を得て、大学5年生となった1980年、町田市のプログレ専門店PAMからの後押しと全面協力の下、4トラックレコーディングで400枚限定の自主製作ながらも自らのバンド名を冠した念願のデヴュー作が満を持してリリースされる。
録音面から意匠を含めクオリティー的にはまだまだ未熟で素人臭さが残るものの、雷神が描かれた手描きの意匠の如く…日本人の作るプログレなるものを強く意識した志の高さに加え、収録曲の中でも特に「海」「日本の麦唄」「陰影の笛」は初期の名曲・代表曲と謳われ後年のケンソーの骨子・礎となって、未完の大器をも予感させる偉大なる可能性の新芽すら垣間見える好作品として各方面から高い評価を得られるまでに至った。
念願のデヴュー作が高い評価を得る一方でバンド自体は早くも次回作への曲作りと構想に着手するものの、リーダー清水の学業始め臨床実習といった多忙さに加えて、各メンバーそれぞれが大学生や社会人という身分であったが故に諸事情が重なってバンドは一時的な活動休止を余儀なくされる。
厳しいまでの病院実習に忙殺され、様々な人間関係の煩わしさ、度重なるレポート提出といった日常の繰り返しで、清水氏自身ですらも創作活動が出来ないもどかしさと焦燥感に苛まれ、理想と現実の狭間で意気消沈し憔悴しきってしまったのは言うまでもあるまい。
後年清水氏は「大学3年から卒業間近の数年間は自分の人生にとって二度と戻りたくない位の暗黒時代だった」と回顧しているが、そんな心身ともに疲弊しきった日々の中でもほんの僅かな空き時間が出来ると、白衣を着たまま軽音部部室のピアノに向かって若き自身の感情を鍵盤にぶつけるのが関の山であった。
その感情の発露が後の名作『KensoⅡ』に収録される名曲「空に光る」「氷島」「麻酔」、そして何かと誤解を招いている「さよならプログレ」へと繋がるのだから、つくづく苦しい人生どこで幸いするか計り知れないものである。
それはあたかも暗く長い出口の見えないトンネルに差す一条の希望の光をも思わせる…。
長く厳しい実習期間を終え、大学卒業と同時期に歯科医師の国家試験にも合格し、清水の音楽人生にとっても再び明るい光が差す春が訪れた。
勤務医として彼自身の多忙さは相変わらずであったが、大学時代と違い社会人相応に自由な時間を持てるようになったのが何よりも幸いだった。
1982年、前デヴュー作のメンバー山本、矢島と再び合流し、新たに伝説的キーボーダーの牧内淳、そしてベースに松元公良を加えてケンソーは再起動を開始した。
前任のベーシスト田中、そしてヴォーカルパートに音大の知り合い並び某劇団員だった女性をゲストに迎え前作と同様町田PAMの協力で、8トラックレコーディング限定1000枚プレスで同年12月に自主リリースされた2nd『KensoⅡ 』は、前デヴュー作を上回る格段の成長を遂げた名曲多数に及ぶ実質上素晴らしい名作と各方面で絶賛された。
2ndリリースに先駆けて母校の神奈川歯科大そして東京音大の学園祭に出演しその圧倒的なライヴパフォーマンスで聴衆を釘付けにし、更にはジャパニーズ・プログレッシヴの総本山でもある念願だった吉祥寺シルバーエレファントのステージにも立つ機会が多くなり、まさしくケンソーは次第に関東圏プログレッシヴの代表格的存在へと注目される様になった。
余談ながらも…2枚の自主製作盤での実績を携えて都内の大手レコード会社や音楽配給事務所に自ら売り込みを働きかけるものの、当然の如く商業主義と儲け優先しか頭の無い連中にとっては頭ごなしに“プログレなんて…”と相手にされる筈も無く、当時の事を清水自身「ポップな曲を入れろとか売れる様な曲作れとかうるさくて、連中は何か大きな勘違いしているみたいで不愉快だった」と振り返っている。
無論当時にはプログレ専門のキング/ネクサスという有力なレーベルがあったものの、推論ではあるが契約の都合上とか互いの諸事情が重なってたまたまタイミングが合わなかっただけなのかもしれないが…。
2ndの好感触という追い風と余波を肌で感じながらも、清水自身慢心する事無く自己の創作意欲に研鑽し切磋琢磨する日々は続いた。
1983~84年にかけてはバンドの方も大なり小なりの変動もあり、フルートの矢島が歯科医に専念したいという理由でバンドを抜け、入れ替わるかの様に当時音大生だった(後の名匠)佐橋俊彦がキーボードに加わり、現在までに至るツインキーボードスタイルの礎を築く事となる。
そんな佐橋も学業諸々の事情等で一時的にバンドを離れる事となるが、後任にキーボードトリオバンドのピノキオに在籍していた小口健一を迎えた事でバンドは更なる成長期へと突入する。
自らのスタジオ設営そして16チャンネルの録音器材を導入し、大手音楽会社に頼る事無く完全ホームメイドのスタイルを貫きケンソーは第3作目のアルバムに取りかかるものの、録音の途中で牧内が志半ばで病に倒れそのまま帰らぬ人となるという最大の悲劇に見舞われ、コンスタンスに継続していたエレファントでのライヴ活動一切合財を無期限休止し暫し喪に服する事となる。
牧内の喪が明ける頃には佐橋がバンドへ正式に復帰し、清水始め山本、松元、小口、そして佐橋の5人は故人の冥福に報いる為にも…鎮魂の祈りを込めて誓いを新たに霊前に向かって3rdアルバム完成という目標を掲げた。
生前牧内の在籍時に収録済みだった「精神の自由」「Turn To Solution」「胎動」という傑作曲を携え、約一年間近い月日を費やして新曲を収録し完成された3rdのマスターテープは、長年待ち続けたキング/ネクサス側の意向でレーベルが買い取ってリリースするという異例の形で、1985年ケンソーは遂に念願だったメジャーデヴューという目的をも達成させる事となる。
ニュースペーパーの折鶴が印象的な『Kenso 』というバンド名をそのまま冠した3rdは、改めて1stの頃の初心を忘れず原点回帰に立ち帰った意味合いを含め、軽快で且つ重厚なスタンスが反映された意欲に富んだ野心作に仕上がっており、インディーズ時代の総決算+メジャーへの新生が盛り込まれているのが特色といえよう。
極一部の辛口プログレファンからは「あんなものはプログレじゃない!カシオペアもどきのフュージョンだ!」といった否定的な言葉こそあれど、同時期にリリースされたジェラルドの2nd以上の好セールスを記録し、テレビのニュース番組でも一部の曲が二次的に使用されるなど評判は上々であった。
翌86年にはインディーズ時代から3rdまでを総括するという形で2枚組ライヴ『イン・コンサート』がリリースされ、その白熱のライヴパフォーマンスの凄まじさに単なるフュージョンもどきと陰口を叩いていた輩ですらも閉口し納得せざるを得ない力量を存分に見せ付けたのは言うまでもあるまい。
2枚組ライヴ盤をリリース後、例の如くライヴ活動を無期限休止し次回作への準備に取りかかるが、翌87年に長年苦楽を共にしてきた山本治彦と松元公良のリズム隊両名が抜け、山本は併行して活動していたポップス・グループLOOKに専念する事となる。
御存知の通り山本自身も後年は山本はるきちと改名しNHK人気アニメ「おじゃる丸」の音楽を担当し、以降は多方面での作曲やアレンジャーとして多忙な日々を送りつつも、ケンソーとは現在でもなお親交を深めている。
新たなリズム隊として佐橋からの紹介で芸大打楽器科に籍を置いていたドラマーの村石雅行が加入し、その村石からの紹介で新ベーシストに三枝俊治を迎えたケンソーは再び息を吹き返し、翌88年同じキングのプログレレーベルCRIMEから『スパルタ 』をリリース、事実上これが昭和時代最後の作品となった。
当時マーキー誌でのキングの告知欄で“悪いけど僕らはクオリティーの高い作品しか作らない” といった何ともカッコいいキャッチコピーが物議を醸したものの、看板に偽り無しの諺の如く有限実行通りに実践する高度な演奏に聴衆はただ舌を巻く思いだった。
しかし大なり小なり…それが後の1991年バンド史上最高傑作『夢の丘』へと繋がる、まだほんの予兆でしかなかったという事を私含め多くのファンはまだ気付いていなかった。
そして程無くしてケンソーでの自分の役目は全て終えたと言わんばかりに佐橋俊彦が脱退。その後の活躍は既に皆さん御存知の通り、数々のテレビドラマやアニメ、そして円谷プロの平成ウルトラシリーズや東映の平成仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズといった特撮物のスコアを数多く手掛けて今日までに至っている(個人的にはオダギリジョー主演「仮面ライダークウガ」の2枚の音楽集は、実質上佐橋のソロアルバム的な趣が強くて特撮ファンのみならずプログレファンにも推しておきたい)。
90年代に入ると共に時代が昭和から平成に年号が変わり、佐橋に代わる新たな後任として昔からのケンソーファンでもあった若手キーボード奏者の光田健一を迎え、文字通り“W健一キーボード”の布陣で、前作『スパルタ』での熱気が冷めやらぬままのテンションを持続し、1991年バンド結成史上最上級の最高傑作として呼び声が高い名作『夢の丘 』をリリースし、名実共に全世界に向けて日本のケンソーここにあり!と知らしめた金字塔を打ち立てた。
皆がそれぞれに思い描くヨーロッパ大陸への憧憬と浪漫、イマージュが渾然一体と化した時代と世紀をも超越した極上の音楽世界に、聴衆は暫し時が経つのも忘れて酔いしれるのだった。
前後して清水氏自身も開業医との兼任で岡山大学医学部にて医学博士の学位を取得したりと以前にも増して多忙さは極まるものの、メンバー各々が個々の本業の合い間を縫ってはコンスタンスにライヴ活動に勤しみ、92年のライヴ第二弾『Live '92』を挟んで、マーキー/ベルアンティークからも未発ライヴアーカイヴ集が何作かリリースされたりと枚挙に暇が無いが、1999年リリースの『エソプトロン 』までは比較的のんびりとした牛歩的なペースを維持したまま、黙々とバランス良く創作活動に邁進していた。
99年の『エソプトロン』は、ハイテンションMAX級の前最高傑作の『夢の丘』よりかはやや一歩引いた形で、比較的肩の力を抜いてリラックス気味な雰囲気に、改めてロックバンドであるという事を見つめ直すといった回顧録的な趣を持たせた、極端な話清水氏の私小説をも思わせる作風に仕上がっている(ネガフィルム調の意味深な意匠にも注目である)。
収録曲の「個人的希求」そしてラストの「気楽にいこうぜ」なんて最たる表れでもあり、清水自身2000年代に入る前に一度ケンソーをぶっ壊して再度リセットしたいなどと考えていたのではと思えるのは穿った見方であろうか。
…そして21世紀、結成25周年ライヴを皮切りにアメリカはロスで開催されたPROGFEST 2000に参加し、世界各国の並み居る強豪プログレバンドとの競演を経て聴衆を熱狂の渦に巻き込んで、その健在ぶりをアピールした。
2002年、アジアンテイストなエスニックな異国情緒と精神病理世界とが混在した21世紀最初にして問題作となった『天鵞絨症綺譚 』は聴く者を大いに困惑させた。
『夢の丘』の頃から全くかけ離れたと嘆く者もいれば、新たなケンソーの音楽世界が降臨したと言わんばかりに拍手喝采を贈る者と反応は様々であったが、いずれにせよ素晴らしい音楽作品であると同時にこの時期の幾分停滞気味な感だった日本のプログレに一石を投じた意味でもその存在意義は大きいと言えよう。
4年後の2006年、ジプシーの舞踊を思わせる女性のポートレイトが印象的な『うつろいゆくもの 』は、前作『天鵞絨症綺譚』の姉妹編ともいうべき趣を湛えていたものの、清水氏自身が読んでいた川端康成の短編集「掌の小説」に感銘を受けてインスパイアされた内容で、トータル17篇にも及ぶ多種多彩な音楽像を打ち出したケンソーらしさが浮き彫りになった好作品。
ちなみに前作リリース後ドラマーの村石雅行が抜け、難波弘之氏を始め山本恭司氏といった多くのベテラン・ミュージシャンと仕事を組んできた小森啓資に交代している。
そしてバンド結成から実に40周年に当たる2014年にリリースされた『内ナル声ニ回帰セヨ 』にあっては、長年ケンソーを信じて彼等の創作する音楽世界に付いていって本当に幸せだったと思える位、白磁の如き透明感を湛えた俯く女性の表情が美しく神秘的なイメージ通りのプログレ愛に満ち溢れんばかりな…私的な感情剥き出しな言い方で恐縮だが心の奥底から“ケンソー万歳!日本のプログレ万々歳!”と声高に叫びたくなる秀逸な作品であると思えてならない。
同年8月17日に川崎クラブチッタにて新作リリース記念兼バンド結成40周年記念ライヴを開催した彼等ではあるが、暫くはまた休息充電を兼ねて新作の準備期間に入る事と思うが、創り手側である清水氏を始めとするバンドサイド、そして彼等の音楽世界に大きな期待を寄せケンソーを愛して止まない私を含めた聴き手である側も、互いにまだまだ志半ばの夢の旅路の途中であるという事だけは確かであろう…。
早いもので今年で55歳となった私自身、人生を全うするまでこれからも末永く彼等の音楽にとことん付き合って行くであろうし、清水氏…否!清水先生の目指すものを最後まで見届けたい一心であることだけは事実である。
今日までのケンソーと清水先生を支えてきたのはバンドに携わってきた新旧のメンバーのみならず、難波弘之氏、宮武和広氏、作品に携わってきた沢山の協力者と賛同者、そして何よりも聴き手である大勢の皆さんがあってこそだと思います。
心から“ありがとう”の言葉を贈らせて下さい…。
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22,2019
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今週の「一生逸品」は、洋楽とプログレッシヴの方法論を用いながらも日本の風土と宗教観、アイデンティティーを違和感無く見事に融合させ、唯一無比なる音楽と精神世界を遺し来世に飛翔した感をも抱かせる、孤高にして清廉なる求道者の感をも抱かせる、ジャパニーズ・プログレッシヴ史に伝説の一頁を刻みマインドミュージックの祖とも言わしめる“ファーラウト ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
FAR OUT/ Nihonjin(1973)
1.Too Many People
2.Nihonjin
宮下フミオ:Vo, Ac‐G, Shinobue, Harmonica, Moog
左右栄一:G, Hammond Organ, Vo
石川恵:B, El‐Sitar, Vo
アライマナミ:Ds, Wadaiko, Vo
色鮮やかなコバルトブルーの背景に、洗濯ばさみで留められた軍手…今となっては“嗚呼、昭和はますます遠くになりにけり”とでも言わんばかりな時代感をも象徴する(下町の安アパートの物干しにでもぶら下がっていそうな)かの如く、さながらつげ義春の漫画のひとコマにでも出てきそうな如何にもといったあの当時の空気を醸し出した何とも意味ありげで奥深く、聴く者見る者に差異こそあれど多種多様なイマジネーションすらも想起させる、日本のプログレッシヴ・ロック黎明期に於いて名実共にかのフード・ブレインの唯一作と並ぶ異色作にして快作(怪作)の称号に相応しいファーラウト名義の最初で最後の唯一作。
私自身の頭の中で寄せては返す波の様にメビウスの輪にも似た自問自答が繰り返されつつ、毎度の事ながらも誠に恐縮ではあるが…21世紀の今となっては日本のプログレッシヴが世界に誇るなんて極々当たり前の様に認知されている昨今、(勝手な憶測の域で申し訳無いが)前世紀の…特に60年代末期~70年代なんて、日本の音楽→ロック(特にプログレッシヴ)があの当時のブリティッシュ・プログレッシヴ並びユーロピアンロック・ムーヴメントの厚く高くそびえる壁の域に辿り着こう近付こうなんて夢のまた夢、まさに暴挙にも等しい無謀な冒険で世間様から一蹴されるのがオチだったのは最早言うには及ぶまい。
『幻想神秘音楽館』にて何度も取り沙汰されてきた事だが、世界進出を夢見て果敢な挑戦で栄冠を勝ち得たフラワー・トラヴェリン・バンドというほんのひと握りの成功例を除けば、日本ロック黎明期の大半がGS崩れの寄せ集めだのと蔑まれた見方をされ、洋楽絶対偏重主義に凝り固まった者達からは出る幕無いから引っ込んでろと言わんばかりに冷笑嘲笑を浴びせられ、当時の歌謡曲偏重の商業路線な金儲け主義第一のレコード会社やマスコミ・マスメディアからは下の下な格下扱いで冷遇されていたのが正直なところで、そんな狂気じみて馬鹿げた風潮やら偏見を覆そうと、日本のロック黎明期の有名どころで故内田裕也始めエイプリル・フールが洋楽の模倣と英語の歌詞で自らの存在をアピールする一方、エイプリル・フール解散後に細野晴臣が参加したはっぴいえんどが提唱する日本のロックは日本語で謳おうぜといった二系統(二傾倒)に分かれる次第であるが、後年登場の短命バンドのピッグは日本語も英語も両方取り入れて絶妙なバランスを保ち、歌詞やヴォーカルを排したフードブレインは例外ながらも、ラヴ・リブ・ライフ+1、ストロベリー・パス→フライド・エッグは英米に右倣えに追随し英語の歌詞で謳って、後年のジャパニーズ・プログレッシヴへの礎となるべく足掛かりへと繋げていったのが何とも実に感慨深い…。
話がだいぶ横道に逸れてしまったが、肝心要のファーラウトに戻すと…戦後間もない1949年に長野市で生を受けた宮下フミオ(“文夫”ないし“富美夫”と漢字名諸説あるがここではカタカナで統一する)が、1965年グローリーズなるバンドで自身の音楽人生をスタートさせ、4年後の1969年ミュージカル『ヘアー』の日本版での出演を経て、バンド時代既に交流のあった頭脳警察の左右栄一を始め、柳田ヒロ・グループ、タイガース、スパイダース等で活躍し経験豊富でもあった石川恵、前田富雄と合流、宮下自らがかねてから理想とする音楽を形にすべく翌1970年のプログレッシヴ元年にファーラウトが結成される。
ちなみにバンドネーミングの意は、様々な文献や各方面のウェブサイトから拝読した限り、60年代後期に世界を席巻したフラワームーヴメント、ヒッピーカルチャー&サイケデリックな方面で使われていたスラングな隠語で“最高! ”或いは“絶頂 ”“ぶっ飛んだ ”を表しているそうな(苦笑)。
バンド結成後程無くして、日本国内の様々なロックイヴェントや学園祭に出演しライヴ活動に奔走する一方、デヴュー作に向けたスコアを書き溜め腕を磨きつつ、デヴューに向けた機会とタイミングを窺っていた彼等ではあったが、そんなファーラウト以外でもメンバー各々は精力的に活動し、72年宮下は旧交のあった元ランチャーズの喜多嶋修とのコラボでフミオ&オサム名義で、ワーナー/アトランティックよりシングル「百姓は楽し」とアルバム『新中国』をリリース。
宮下自身この頃から仏教にも通ずる精神世界へと開眼傾倒し、ファーラウト唯一作のコンセプトから後々のファー・イースト・ファミリーバンド、SFを経てマインドミュージックの第一人者となるのは説明不要であろう。
一方の左右栄一と石川恵の両名は、以前より親交のあった寺山修司氏主宰の天井桟敷の舞台や映画に音楽として参加し、ファーラウトはデヴューに先駆けて実質上の熟成と準備期間に入っていたといっても差し支えはあるまい。
が、宮下始め左右、石川がアーティスティックで求道的な道を志す一方で、ストレートなロックを目指していたドラマーの前田との間に音楽的嗜好の隔たりが生じ、結果的に前田はデヴューを待たずしてファーラウトを脱退。
1972年日本コロンビアと契約を交わした彼等は前ドラマー前田の後任として旧知の間柄でもあったアライマナミを迎えレコーディングを開始。
デヴューの門出に伴い、更なるゲストサポートに喜多嶋修が琵琶を担当し、フラワー・トラヴェリン・バンドからジョー山中をヴォーカルに迎えた布陣で、翌1973年3月に待望のデヴュー作『Nihonjin(日本人) 』をリリース。
彼等のデヴュー作がリリースされた1973年はまさしくプログレッシヴ・ロック全盛の第一次黄金時代…フロイドの『狂気』空前のメガヒットを始め、イエス『海洋地形学の物語』、EL&P『恐怖の頭脳改革』といった大作主義プログレッシヴがチャートを賑わせ、果てはPFMがワールドワイドにデヴュー飾り、フォーカスがラジオでひっきりなしにオンエアされていたという、思い起こしただけでも夢の様な世の真っ只中に於いて、日本からはファーラウトそしてコスモス・ファクトリーが世に躍り出て、四人囃子が東宝映画『二十歳の原点』でサントラデヴューを飾ったりと、プログレッシヴ全盛の世の春に呼応するかの如く、まさしくジャパニーズ・プログレッシヴ・ファーストインパクトが世界に一歩近付いた証となったのは言うまでもあるまい。
前出でも触れた通り鮮やかなコバルトブルーを基調に洗濯ばさみに挟まれた軍手という、どこかしらユーモラスで一風変った現代アート風な意匠ながらも、不思議な緊迫感をも湛えた予想不可能な音楽世界に、彼等の無言のメッセージとおぼしき瞑想的な意味合いを内包した奥深い余韻すら漂わせた風体と佇まいに当時のリスナー諸氏は思わず身震いした事であろう。
本作品正式なバンドスタイルこそ銘打っているが、裏を返せば宮下自身のソロプロジェクト的な見方捉え方も散見出来て(プロデュースも宮下自身が担当している)、ファーラウト結成以前に宮下自身がヒッピーカルチャーから会得し提唱してきた“精神と魂の解放 ”或いは仏法の教えでもある“俗世からの解脱 ”をモチーフとした、(良い意味で)紛れも無くマインド・ミュージックの元祖にして端緒と見る向きも否めない。
気になる内容も然る事ながら、如何にプログレッシヴ全盛期であったにせよ…よもやイエスの『海洋地形学』ばりに日本のプログレッシヴで旧アナログLP盤時代のAB両面とも丸々1曲ずつというのも、快挙というべきか挑戦めいたアピール度の高みには、21世紀の今でも改めて溜飲の下がる思いですらある。
心臓の鼓動…或いは息づく大地の命の鳴動を思わせる様な残響と風の音に導かれ、38分近くに及ぶファーラウトの精神世界への旅(トリップ)は幕を開ける。
厳粛で静謐な余韻を纏ったアコギが何とも味わい深くも奥深い、日本音楽独特のわびさびの心を内包しつつも、当時の四畳半フォークとは一線を画した、所謂洋楽演っても心はニッポンを如実に表した歌メロが深く心に染み渡る。
エレクトリックギター&シタールによる見果てぬ悠久の無限世界を時に切なく時に力強く奏でる様は、あたかも『おせっかい』の頃のフロイドやオジー在籍期のサバスの面影すら垣間見えて、ヘヴィで不穏な緊迫感漂うリフが刻まれるパートに移行する頃には、もうすっかり聴く者の意識と魂は肉体を遊離し彼等の構築する音世界に誘われ無我と悟りの境地にも似た、光り輝く眩い神界への解脱に誰しもが目覚める事だろう。
続く第二章ともいうべきアルバムタイトル曲でもある「Nihonjin(日本人)」は、雅楽を思わせる厳かな銅鑼に心と魂は鷲掴みにされ、涅槃ないし極楽浄土の遥か彼方から鳴り響いているかの如きギターとベース、そしてシタールに、幽玄な趣と佇まい…それはあたかも古事記、日本書紀、魏志倭人伝をも彷彿とさせる古代の詩情と浪漫、果ては日処国の神話の世界の入り口に決して現世の者が立ち入ってはならない、そんな神仏の世界をも覗き見る様な禁忌すら覚えてしまう。
ドラムとも和太鼓ともつかない打楽器の古の音色にいつしか聴く者の脳裏に日本人古来の魂と血が目覚め、フロイドばりのフォーキーでたおやかなメロディーラインとヴォーカルに魂は穏やかな安らぎに満ち溢れ、ロックにアレンジされた読経の唱和に改めて日本古来からの仏教の教えでもある諸行無常をも禁じ得ない。
終盤に向けてのハモンドと篠笛と和太鼓による雅楽な佇まいが胸を打ち、筆舌し難い感動と余韻を伴って森羅万象と精神世界への旅はこうして静かに終わりを告げる…。
ファーラウトのデヴュー作は国内はおろか海外でも話題を呼び、上々の評判を伴って幸先の良いスタートを切った次第であるが、いつしか宮下自身の心の中で更なる高みを目指したい渇望と精神世界への希求が膨らみ始め、翌1974年あの日本のロック史上伝説にして最大最強のイヴェントとして名高い福島県郡山市開成山公園にて開催されたワン・ステップ・ロック・フェスティバル での出演を最後にファーラウトの解体を決意。
こうしてメンバー各々がファーラウトでの経験を糧にそれぞれが目指すべく音楽への道を歩み出し、宮下自身も程無くしてかねてから交流のあった伊藤明(伊藤祥)、高橋正明(喜多郎)、福島博人、高崎静夫、深草彰(後に観世音を結成)と合流し、ファーラウトでの音楽性を更に発展させた形で同74年新バンドファー・イースト・ファミリー・バンド(通称FEFB) を結成。
その後の活躍は既に御存知の通り、1975年にデヴューリリースした『地球空洞説』が国内外にて高い評価を得たのを皮切りに、翌76年にはジャーマン・ロック界の大御所クラウス・シュルツをプロデューサーに迎えて2nd『多元宇宙の旅』を発表し、これからという矢先に宮下と福島の両名を残し4名もの脱退という危機的状況の中、FEFBの1stと2ndからのチョイスを含めファーラウト時代の曲のリメイクと未発表曲をカップリングしたベストアルバム『NIPPONJIN』をリリース。
翌1977年新たなドラマーに原田裕臣を迎え、FEFBを抜けた深草をゲストに事実上のラストアルバム『天空人』をリリースしFEFBは4年近い活動に終止符を打ち、バンド解散後宮下は渡米永住。
その後自身の腰の持病が悪化し東洋医学との出会いを契機に仏教を始めとする東洋哲学に師事し、シンセサイザーを用いたミュージックセラピーの研究で、更なる精神世界への傾倒とマインド&ヒーリングミュージックの啓発と推進に尽力。
1980年にはファーラウト並びFEFBの夢よ今一度とばかりに数名の有志と共にワンオフながらもプロジェクトバンドでもあるSF を組んで、限定500本のカセット作品『Process』をリリース(ちなみに本作品は1998年にマーキー/ベル・アンティークより装丁をリニューアルしてCDリイシュー化されている)。
数年後の帰国を機に、生まれ故郷の長野に音楽製作スタジオ“琵琶”を兼ねた居を構えて日本各地の仏閣や寺院でのヒーリングコンサート並び奉納演奏に多忙を極める一方、映画音楽等でも手腕を発揮してその健在ぶりを力強く証明するものの、2003年2月6日志し半ばにして肺癌との闘病の末帰らぬ人となってしまう。
享年54歳、逝くにはまだまだ若く早過ぎるのが何とも悔やまれてならない…。
最後の締め括りになるが、宮下氏亡き後…彼の歩んだ足跡と築き上げた功績は、FEFB時代に苦楽を共にした伊藤祥、喜多郎、そして深草彰によって脈々としっかり受け継がれ、日本の風土と東洋の精神が育んだマインドミュージックとして昇華され、ヒーリングの分野に於いて今もなお世代と年齢を問わずに愛され続け、時代と世紀を越えて(楽器等のテクノロジー、ソフトとハード面こそ変れど)、人々の心に平穏と癒し、安らぎと至福を与え続け今日までに至っている次第である。
そこには紛れもなく、混迷と不穏に満ちた21世紀の世界が抱える様々なる病巣、我が国の政治不信始め一部の醜いまでの覇権争いや己の欲望にまみれた不浄にして不条理なる事象とは全く一切の無縁なる理想世界、まさしく現世から解脱し魂が解放された極楽浄土の神々しくも眩い光明にも似通った“慈愛”だけが存在していると言っても過言ではあるまい。
いつの日か我々もその精神の高みを目指して、悟りの境地なる無限の世界へと旅立とうではないか…。
今は亡き宮下富美夫氏の御霊に心から哀悼の意を表します。
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25,2019
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11月最終週の今回の「夢幻の楽師達」は、今を遡る事6年前の冬…私自身の目と脳裏に未だあの時の記憶が鮮明に焼き付いているであろう、初来日公演でありながらも観客席の私達に鮮烈なイメージを残し素晴らしいライヴ・パフォーマンスを繰り広げてくれた、今やイタリアのラ・マスケーラ・ディ・チェラと共に21世紀シンフォニック・ロックの旗手に成り得たと言っても過言では無い、スウェーデンの“ムーン・サファリ ”にスポットライトを当ててみたいと思います。
MOON SAFARI
(SWEDEN 2003~)
Johan Westerlund:B, Vo
Petter Sandström:Vo, G, Harmonica, Harp
Simon Åkesson:Vo, Key
Anthon Johanson:G, Vo
Tobias Lundgren:Ds, Per, Vo
2013年1月12日、私達プログレッシヴ・ロックファンはあの日を一生忘れないだろう…。
2013年の幕開けと共に北欧スウェーデンからフラワー・キングス、トレッティオアリガ・クリゲット、アネクドテンといった、まさに飛ぶ鳥をも落とす勢いの強者級大御所プログレッシヴ・ロックバンドが大挙来日し、1月11・12日の両日に亘ってプログレライヴの総本山と言っても過言では無い川崎クラブチッタでの劇的で最高なるライヴ・パフォーマンスを繰り広げた事は今もなお記憶に新しいところであろう。
その大御所達と共に混じって、21世紀の2003年に結成された新進気鋭の存在ながらも、自らの信念に基づき着実に高みを目指して歩みつつ、その秀でた音楽性と頑ななプログレ愛を身上(信条)に抜群の人気と知名度を得て、遂に漸くこの東洋の日本という地に降り立ったムーン・サファリ。
イタリアのラ・マスケーラ・ディ・チェラと同様、まさしく彼らこそ現代(いま)を伝える夢幻の楽師達そのものと言っても過言ではあるまい。
ステージの幕が上がったと共に、オープニングアクトに相応しく若々しくも初々しさを随所に漂わせながらも決して物怖じする事無く、それこそ客席側から観ている私自身すら照れ臭くなって良い意味で本当にもう嫌になってしまう位、実に軽快且つ堂々と楽しく演奏を繰り広げるライヴ・パフォーマンスに、もう兎に角お恥かしい話…我を忘れて熱狂と興奮の渦にいつしか巻き込まれていたあの時の事は今でも鮮明に記憶している。
失礼ながらも大トリのフラワー・キングスの事なんぞどうでも良くなってしまう位、トップのムーン・サファリ、そして二番手のトレッティオアリガ・クリゲットの円熟味と渋味の増した白熱の饗宴に聴衆は酔いしれ、私自身も久しく忘れかけていたロックへの感動と情熱が甦ってくる様なそんな思いに捉われたのも正直なところである。
偶然にも私の隣の席には、名古屋からやって来た旧知のプログレッシヴ関係のプロモーターを運営している夫妻だったので、久し振りの再会を喜びつつ音楽談義に花を咲かせ、各々の視点から観たムーン・サファリの印象についても、“フラキンやカイパからの影響も大きいけれど、やはり総括的にはイエスからの影響が大きいよね…”とお互いに一致したのが実に面白かった。
コーラス部分ではクイーン…或いはプログレ寄りで喩えるならGGの影響下を感じさせ、上質のポップス的なセンスでは後期ジェネシス、タイ・フォン、マニアックな範疇ならケストレルをも彷彿とさせ、21世紀プログレの片一方の主流でもあるメロディック系にはそんなに染まり切ってはいないというのが大方の見解であろう。
各方面でのプレス関係誌、並び国内盤CDのライナーでも既に何度か触れられていると思うが、簡単にバンドの結成から今日に至るまでの経緯を辿ると、地元のレコーディング・スタジオのスタッフ研修員だった、ベーシストのJohan WesterlundととヴォーカリストのPetter Sandströmを中心に、Simon Åkesson(Vo,Key)、Anthon Johanson(G,Vo)、そしてTobias Lundgren(Ds,Per,Vo)を誘って、2003年春にムーン・サファリとしてのキャリアをスタートさせている。
意外な事にムーン・サファリとして一緒にプレイする以前の各々の経歴は、殆どがプログレ系のHM/HRをメインだったそうで、メタル寄りから一転してどうしたらこんなに明るく爽やかで軽快な極上のプログレッシヴ・ポップスが生み出されるのか何とも不思議でもある…。
程無くして彼等ムーン・サファリは、長年の盟友にしてプログレ系の横の繋がりでもあったフラワー・キングスのKey奏者Tomas Bodinとのセッション・レコーディングに参加した折に、彼等の高い音楽性スキルと演奏技量に着目したTomasに見出され、周囲からの惜しみない支援と後押しを受けて、結成から2年後の2005年『A Doorway To Summer 』で待望のデヴューを果たす事となる。
前述でも触れた通り、御大のイエス或いはカイパ、フラワー・キングスからの大きな影響を窺わせつつも、北欧出身ながらも(失礼ながらも)アネクドテン等で見受けられがちな深く重く畳み掛けるような陰鬱な色合いとは全く真逆な、ジャケットのイメージ通りと違わぬ…その清々しく爽快で明るい曲調の純然たるブリティッシュ系ポップスに裏打ちされた唯一無比なシンフォニック・ロックに、世界各国のプログレ・ファンから瞬く間に賞賛され、素人臭さが皆無で新人離れした驚愕の新世代期待のニューフェイス登場で俄かに沸き返ったのは最早言うまでもあるまい。
加えて言うのであれば…ラジオでオンエアされてもプログレ云々を問わず何ら違和感すら感じさせない良質極上なポップス感覚で聴けて、それこそ昔からプログレに付き纏う暗さやら重さなんぞとは無縁な、早い話が老若男女問わず季節や時と場所を選ばずに楽しめる、親近感溢れるプログレッシヴ・シンフォニックとして大々的にアピールしているという事であろうか。
ちなみにデヴュー作の初回オリジナル仕様は淡いイエローが下地であるが、アメリカ盤仕様と国内盤を含めた後発プレスでは濃厚なブルーカラーを基調とし月のマークも若干変更が加えられているが、それでも作品の内容の素晴らしさは不変で尚且つボーナストラック付きであるから、ファンであれば是非とも意匠パターンの違う両作品を押さえておきたいところだ。
デヴュー作リリース以降、スウェーデン国内外のプログ・フェス等での精力的な演奏活動で自らに磨きをかけ実力を蓄えていった彼等が、3年間もの製作期間を経て熟成させ、2008年満を持して自らの思いの丈をぶつけた超大作『Blomljud 』はデヴュー作で得た自信と長年培われた音楽経験が一気に発露・昇華された彼等ならではの夢見心地な幻想絵巻が繰り広げられ、2枚組CDというヴォリューム感といった話題性も手伝ってデヴュー作に続き瞬く間にベストセラーを記録。
下世話な話で恐縮なれど…作品リリース当初は、たとえ相応の実力を兼ね備えた彼等とて2枚組の大作は、いくら何でもまだ時期尚早ではないのか?という懸念というか心配・不安を少なからず抱いていたものだが、いざ作品の蓋を開けてみたら彼等の創作する従来通りの音楽性は何ら変わる事無く、否!デヴュー作以上にポテンシャルとテンションが高揚し、レコーディング中でのギタリストの交代劇(Anthon Johansonが抜け、後任にKey奏者のSimon Åkessonの身内兄弟でもあるPontus Åkessonが加入)すらも微塵に感じさせず、ヴァイオリンやフィドルを含む数名のゲストサポートを迎え、成る程確かにこれ位の世界観とヴォリュームであれば2枚組となる事は必至であるという説得力のある充実した内容で、名実共に21世紀プログレッシヴのマストアイテムとなった事を如実に物語っている。
惜しむらくは、素人臭さ丸出しな何とも稚拙でトホホなイラストには苦笑せざるを得ないものの、それ以上に彼等の素晴らしい演奏力と目くるめくフェアリーテイル風なイマジネーションが余りある位見事に補填されている辺りにも着目せねばなるまい。
本作品での成功と実績を機に、21世紀の北欧シンフォにムーン・サファリここに在りという事が見事に確立され、彼等の動向はますます世界各国のプログレ・ファンから注視されたのも、あながち言い過ぎではあるまい。
大作の2ndリリース以降、彼等は以前にも増して精力的に演奏活動をこなしつつ、次回作の為のサウンド強化を図りSimon Åkessonの身内兄弟から新たにSebastian ÅkessonをKey奏者に迎え、ツインキーボードを擁する6人編成というまさに鉄壁のラインナップで更なる最高傑作『Lover's End 』の製作に臨む事となる。
前作から約2年間の製作期間を経た2010年、デヴュー作並び超大作の2ndを遥かに上回るかの様に彼等の持ち味と音楽性が濃縮還元の如く昇華され遺憾無く発揮された『Lover's End』は、期待通りにして期待以上の完成度で文字通り世界的ベストセラー作品として賞賛され、一見能面を思わせる(苦笑)様なファッションモード誌の挿絵・扉絵風な意味深な意匠と、インナーに刷り込まれたアメリカン・ライフなフォトグラフとの相乗効果も相俟って、彼等が目指す新たなヴィジュアルな一面をも垣間見る思いですらある。
誤解の無い様に解釈すれば、ただ単純にアメリカン・ミュージックの模倣に終止する事無く北欧人が思い描くピースフルにしてハートウォーミングなアメリカを思い描いたという事であろうか…。
『Lover's End』の世界的な大成功を機に、翌2011年初夏の北米大陸ツアーに加えロスで開催されたプログフェスでの模様を収録したライヴ盤『The Gettysburg Address 』、そして続く翌2012年秋にリリースされた『Lover's End』の続篇とも言える24分のミニアルバム『Lover's End Pt.Ⅲ 』は、まさしく彼等の順風満帆で充実した現在(いま)を象徴しているかの様ですらあり、翌2013年1月の川崎クラブチッタで開催された北欧プログフェスにて待望の初来日公演を果たした彼等は、大勢の熱狂的なファンに迎えられ一夜の夢の如き素晴らしきライヴ・パフォーマンスを繰り広げ、観客席を感動と興奮の渦に巻き込んだのは最早言うには及ぶまい…。
個人的で蛇足ながらも、ライヴで魅せてくれた『Lover's End』中の好ナンバー“New York City Summergirl ”と“Heartland ”を、帰宅してから自宅でスタジオ盤で改めて何度も繰り返し聴きながら…あの時の感動と興奮を自らの頭の中で反芻しつつ、クラブチッタでのライヴ終演後“これから渋谷へカラオケに行くよ!”と茶目っ気たっぷりな言葉を残しつつ、チッタのフロアにてファンサービスのアカペラ合唱大会という素敵な思い出を残してくれた彼等の事を思い返す度に、いつの間にか無意識の内に身体が歓喜に震えて目頭が熱くなるものだから、いやはや良い意味で我ながら困ったものである(苦笑)。
初来日公演を終えた後の同年、彼等は前出のミニアルバム『Lover's End Pt.Ⅲ』を布石とした意味深なアートワークが描かれた意欲作の4枚目『Himlabacken Vol.1 』をリリースし、バンドとしての自己進化(深化)も然る事ながら、自らの音世界を更なる昇華と構築へと押し上げた事を物語る秀逸なる傑作に仕上げ、翌2014年にはライヴアルバムとしては2作目に当たる『Live In Mexico 』を発表し今日までに至っている次第であるが、それ以降の新作リリース発表のアナウンスメントが聞かれなくなって些か寂しくもあり久しい限りであるが、彼等自身の長い充電期間と取るか…或いは無期限の活動休止期間と取るか…ファンやリスナー・業界側といったそれぞれ千差万別捉え方や思惑の差異こそあれども、まあ彼等の事であるからそのうち忘れた頃にいきなり突然サプライズ級の新譜リリースなんて事も容易に考えられよう(それこそ『Himlabacken Vol.2』 となるのだろうか…)。
いずれにせよ、夢への希求にも似た彼等の終わり無き旅路はまだまだこの先も続くに違いあるまい…温かくも長い目で末永く見守っていきたいものである。
本編の締め括りに…彼等の音楽を一聴して歌物プログレ・ポップス調で爽やか過ぎて、アネクドテンやアングラガルドみたいなダークとヘヴィに欠けるから好きになれないという一部の臍曲がり的な輩も確かにいるかもしれない。
…が、彼等ムーン・サファリに対し、ダークで陰鬱な音世界を期待する者が果たしてこの世界中にどれだけ存在するのだろうか?それこそ明らかに愚問でもあり陳腐ですらある。
彼らの創作する世界に小難しい評論や理屈なんぞは無用の長物にしか過ぎないのである。
彼等を愛して止まない多くのファン…そして彼等自身の為に“夢”を紡ぐその真摯な姿にこそ、心打たれ胸を熱くする位の感動を覚えるのである。
えっ!何だって…ライヴのステージでキーボード群に囲まれた壁が無い?ギタリストが前面に出てこない?そんな事はどうだって良いさ。
大丈夫…回数を重ねて何度も聴き込めばすぐに慣れる事だし、きっと彼等の事が好きになれるさ。
心から有難うの言葉と共に、あの日の時と同じく…またいつの日にか再来日公演でお会いしましょう!
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26,2019
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2019年もいよいよ終盤に差し掛かり今年も残すところあと一ヶ月とほんの僅かとなりました…。
11月最後の今回の「一生逸品」は北欧プログレッシヴ界きっての最強なる孤高の個性派集団にして、80年代というプログレッシヴ冬の時代に拮抗し…北欧らしいトラディッショナル、チェンバー、アヴァンギャルド、リリシズムといったキーワードとスキルを内包した自らの音楽を武器に闘いを挑んでいった、唯一無比のカリスマと言っても過言では無い“カルティヴェイター ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。
KULTIVATOR/ Barndomens Stigar(1981)
1.Höga hästar/2.Vemod/3.Småfolket/
4.Kära Jord/5.Barndomens Stigar/
6.Grottekvarnen/7.Vårföl/8.Novarest
Stefan Carlsson:B, Bass-Pedals
Johan Hedrén:Key
Jonas Linge:G, Vo
Ingemo Rylander:Vo, Recorders, Rhodes
Johan Svärd:Ds, Per
たまに思い出したかの如くレコード棚やCDラックから引っ張り出して聴きたくなる様な作品が年に何度か巡ってくる事がある…。
今回取り挙げる本編の主人公カルティヴェイターもその内の一枚であり、大昔の若い時分に買ったアナログLP原盤にしろリイシューCDを問わず、たった一度でも耳にして以降癖になるというか病みつきになるとでも言ったら良いのか…あの一種独特の個性的な曲調やフレーズやらがずうっと脳裏に焼き付いて離れないのが、まあ良い意味で困りものといえば困りものなのかもしれない(苦笑)。
まあ、ただ単純に晩秋の肌寒い時節柄には、やはり寒い北欧産のプログレッシヴが聴きたくなるという動機も無きにしも非ずではあるが…。
カイパ始めダイス、アトラス、ブラキュラといった、70年代の名立たるスウェディッシュ・シンフォニックが解散ないし路線変更を余儀なくされた70年代の終わりから80年代初頭。
サムラ・ママス・マンナやラグナロクが時代相応に細々と活動し続けてはいたものの、実質上80年代以降のスウェディッシュ・プログレッシヴはアンダーグラウンドな領域へと追いやられてしまった感は否めないのが正直なところであろう。
それでもイシルドゥルス・バーネやトリビュート、ファウンデーションといった時流の波に拮抗しつつ、時代相応にクリアーで聡明な北欧らしさを保持した素晴らしい作品が世に出た事は大いに評価せねばなるまいし、70年代の置き土産とでも言うべき発掘系のミスター・ブラウン、ミクラガルドに加えて、80年代マイナーレベル系のオパス・エスト、ミルヴェイン、そして現在もなお現役バリバリに活躍しているアンデルス・ヘルメルスンのデヴュー作とて決して忘れてはならない逸品であるのは言うに及ぶまい。
そんな80年代初頭というスウェディッシュ・プログレッシヴの転換期を迎えていたさ中、まるであたかも“稀代のカリスマ”をも目論むべく一躍シーンに躍り出たカルティヴェイターは、当時の他のプログレッシヴ系バンドとは一線を画するかの如くアンダーグラウンドな範疇をも超越しその一種異彩を放つ独創的な音楽性を武器に、21世紀の現在もなおカルト的で根強い人気を博していくのである。
今や各方面でカリティヴェイターの詳細なバイオグラフィーが紹介されているので、ここでは出来る限り重複を避けて簡単に彼等の歩みについて触れていきたいと思う。
1975年にドラマーのJohan SvärdとベーシストのStefan Carlssonを中心に後のカルティヴェイターの母体ともなるTUNNELBARN(スウェーデン語で地下鉄の意味)が結成され、ギターにオーボエ奏者を加えた4人編成でインストゥルメンタル・オンリーのプログレッシヴ・ロック志向で経歴をスタートさせている。
当時からもう既にクリムゾン始め、マグマ、GG、ハットフィールド&ザ・ノース、アール・ゾイ、果てはR.I.O.系列のヘンリー・カウ、アート・ベアーズ…等といった硬派な路線を嗜好していただけに、ジャズロック愛好のお国柄といえども当時はなかなか周囲の理解を得られず受け入れ難いところもあったみたいで結構難儀な思いをしたみたいである。
その後はオーボエ奏者が学業に専念する為に脱退したり、音楽的にもっと幅を持たせてシンフォニックなスタイルをも導入しようと紆余曲折と試行錯誤の末、高校時代の学友でピアノの腕に覚えのあったJohan Hedrenをキーボーダーに迎え、ギタリストの兄弟関係だったヴァイオリニストを加えた5人編成で様々なギグやロックフェスに相次いで参加しそれなりに知名度と感触を得るものの、バンドの継続と維持は予想外に困難を極め…とどのつまりTUNNELBARNは敢え無く解散という憂き目に遭ってしまう。
TUNNELBARN消滅後、ドラマーとキーボードの2人のJohanは、様々なギグやフェスですっかり顔馴染みになって以後親交を深めていたギタリストのJonas Lingeを迎えて、TUNNELBARNでの経験を糧に新たなプログレッシヴ・バンドの編成を模索していたところ、一時期プログレッシヴから離れて商業系のロック&ポップスに活路を求めていたStefan Carlssonが、売れ線狙いロックのあまりのつまらなさにほとほと嫌気が差して再び合流する事となり、1979年彼等は心機一転バンド名を新たにカルティヴェイターとして再出発を図る事となる。
ちなみにカルティヴェイターというバンド名の意は、KULTIVATOR(文化人) とCULTIVATOR(耕運機) を掛け合わせた彼等らしい皮肉っぽさと洒落の効いた狙いがあったみたいだ。
成る程、彼等の唯一作にエッチングで農夫達が描かれていたのも意味深で頷けよう…。
カルティヴェイターの起動から程無くして、Johan Hedrenが参加していた音楽プロジェクトで知り合った女性マルチプレイヤーIngemo Rylanderにも声をかけ、渡りに舟と言わんばかり…ヴォーカルからリコーダー果てはフェンダーローズまで弾きこなせるという多才さが助力となり(紅一点という意味も含めて)、彼等が目指すべく音楽性並び思惑と一致するのに時間を要する筈も無く、かくしてカルティヴェイターはIngemo Rylanderを加えた5人のラインナップで、80年代スウェディッシュ・プログレッシヴの新たな一頁となるべく伝説を切り拓く事となった次第である。
TUNNELBARN時代から引き続き彼等のホームタウンでもあるLINKÖPINGを活動拠点にし精力的に活動を行っていたかと思いきや、実際のところは1981年に唯一作をリリースするまでの間は殆どこれといった表立った活動が出来ない状態が続き、早い話が不遇の時代はなおも続いていたと見る向きが正しいと言えよう…。
現時点にて把握出来ているだけで僅かたった3回前後しかライヴが行えず、80年代初頭という悪夢の様な時期がプログレッシヴ・ロックそのものを求めていなかったという暗澹たる様相が浮き彫りになっていた事を如実に物語っている。
日本の様に最低限シルバーエレファントの様なプログレッシヴ専門のライヴスペース一つでもあれば多少なりともまだ救われていたのかもしれないが、今となっては時代の冷遇さというものをつくづく恨みたくもなる。
結果的にバンドとしての活躍期間は2年弱という短命に終わり、カルティヴェイターは敢え無く解散の道を辿る次第であるが、このままでは終われないと意を決した彼等は、困難な時代での輝かしき青春の一頁と言わんばかり自らの生きた証として“カルティヴェイターの音楽”を遺そうと思い立ちPA関連含む音響機材の一切合財を売却して資金を捻出し、そんな苦労を積み重ねた末1980年の7月ホームタウンのLINKÖPINGのAVOスタジオにて漸くアルバムの為の録音に着手する事となる。
資金面といった経済的な事情で録音期間含めてスタジオが使えるのは概ね4ヶ月間という強行スケジュールで、大半がスタジオ・ライヴ一発録りに近い形のレコーディングであったものの、彼等は臆する事無く全身全霊を傾け精力的に取り組んだ。
オーヴァー・ダブやらミキシング云々込みで何とかギリギリの期限内にマスターテープを完成させたものの、演奏技量の面で不足気味だった箇所やら自分達が望むべく理想の音作りとは程遠かった事に、大なり小なりの不満やら失望感とが入り混じったやるせない気持ちが勝っていたとの事だが、決して満足とは言えない状況の中…兎にも角にもやれるべきところは全てやったと日に々々感慨深い気持ちへと傾いていったのが何よりといえよう。
マスターテープのコピーをスウェーデン国内の各方面のレコード会社へ送ってはみたものの何の返答が得られないまま無しの礫の状態が続き、翌1981年漸く苦労の甲斐あって友人知人達からの資金援助と助力で当時発足間もない新興レーベルだったBAUTAからのリリースまでに漕ぎ着けたカルティヴェイターは、地道で牛歩なペースでセールスを継続しスウェーデン国内でも次第に注目され始め、最初で最後のデヴュー作でもある『Barndomens Stigar 』は初版200枚が完売、最終的にはスウェーデン国外へと輸出される頃には累計500枚ものセールスとなった。
ヘヴィなリフのベースとドラムに導かれ無機質でカンタベリーサウンドの面影を垣間見せるオルガンとエレピが怒涛の如く押し寄せるオープニング1曲目から彼等の面目躍如と言わんばかりである。
一転してのどかでほのぼのと牧歌的な北欧トラッド調のギターとリコーダーが顔を覗かせつつ再びヘヴィなリフが絡み付くともなると、あたかも曲のイメージ通り大自然の中を疾走する暴れ馬の勇壮な姿が脳裏に鮮明に甦る事だろう。
紅一点Ingemo Rylanderの歌唱力と魅力が光る2曲目は、彼女が奏でるミスティカルなフェンダーローズに導かれ、これまたミスティックで愛らしくキュートというか或いはアンニュイでコケティッシュなIngemoのウィスパーヴォイスに惑わされつつも緩急のメリハリが効いた妖しくもヘヴィなナンバー。
後半パートの彼女のリコーダーに被るカトリシズムな憂いと悲哀感を帯びたオルガンが何とも刹那で印象的ですらある。
深みを帯びたフェンダーローズの残響音が効果的なイントロダクションの3曲目は、あたかも漆黒の闇に包まれた北欧の森を闊歩する小人の集団をも彷彿とさせる、力強さと繊細さが同居したしいて言うならば初期のソフト・マシーンないしハットフィールズ辺りの曲想に近いものを感じさせる。
クリスタルできらびやかな感のローズの音色が美しい、全曲中唯一北欧ポップス的なカラーを強めに打ち出した4曲目も聴き逃してはなるまい。
ジャズロック然とした小気味良いメロディーへと転調し、Ingemoのポップス的な側面が垣間見える陽気で楽しげなファンキーさが堪能出来るヴォーカルラインが実に心地良い。
後半のフリップ調を思わせるギターに一瞬聴き手をニヤリとさせる様な嬉しい演出が何とも心憎い。
絵に描いた様なトラディショナルな森の音楽を連想させるリコーダーとアコギの音色に誘われて夢見心地な浮遊感に包まれた5曲目は、いきなり力強い変拍子のアンサンブルに転ずるとジャケットのイメージと違わない汗水流して働く農夫達の日々の生き様が目に浮かんでくるかの様だ…。
牧歌的で高らかに鳴り響くリコーダーにサイケ風がかったオルガンを耳にする度、かのフロイドの名作「原子心母」の(良い意味で)チープな短縮版みたいだと思えてならないのは私だけだろうか(苦笑)。
Ingemoの一種エロティックで毒々しく何かに憑かれたかの様な妖しげな狂気の片鱗すら窺えるハイテンションなスキャットに加えて、マグマやアレアばりの偏屈なクロスリズムと攻撃的でアグレッシヴなメロディーラインが凄まじい6曲目も実に素晴らしい。
静寂と衝動、ロゴスとパトス、狂気と正気、動と静、剛と柔といったキーワードが混在するカオス渦巻くサウンドスカルプチュアは、筆舌し尽くし難い位に足を踏み入れてはならない禁断の領域にまで達しているまさしく齧り聴き厳禁の全曲中に於いて最大最強の聴き処と言っても過言ではあるまい。
前の5曲目と並んでこの曲の為に彼等の唯一作に是非とも接して欲しいと切実に願わんばかりである。
風情溢れる様な朗々たるメロディーラインながらも、ほろ苦いリリシズムと抒情性を帯びたジャズィーでメランコリックな側面をも覗かせる小曲の7曲目、そしてラスト8曲目にあってはシンフォニックなエッセンスを加味したローズピアノにシンセのギミックを多用し、メンバー全員が持て得る力を全編に注ぎ込んだパワフルでメリハリの効いたヘヴィ・シンフォニックなジャズロックを奏でつつ大団円に向かって幕を下ろすという趣向すら匂わせている…。
これだけの高度なクオリティーと完成度を有しながらも、たった数回のギグで短命への道を辿った彼等に冷酷にも時代の運は味方してくれなかった事が何とも悔やまれてならないというのが率直なところでもある…。
カルティヴェイターの解散を機にJohan SvärdとJonas LingeはホームタウンだったLINKÖPINGを離れ、Stefan Carlssonは新天地を求めてスウェーデン国外へと移住、Ingemo RylanderはそのままホームタウンのLINKÖPINGに残ったらしく、Johan HedrénはBAUTAレーベルの主要スタジオミュージシャンとして現在もなお精力的に活躍しているとの事。
1991年にはスウェーデン出身の数々のプログレッシヴ・アーティストの為に設立されたAD PERPETUAM MEMORIAM (通称APM)レーベルから70年代のアトラスやブラキュラと共にカルティヴェイターもリイシューCD化され、その時のボーナストラックとして当時のライヴレパートリーで未収録マテリアルだった「Häxdans」の新録の為一時的ではあるがバンドが再結成される運びとなる。
が、これを契機にかつてのバンドメンバーが頻繁に顔を合わせる機会が増え、APMレーベル倒産でバンドメンバーへの支払いが未払いになるといった予想外なアクシデントこそ見舞われたものの、気持ちを切り替えてアングラガルドを世に送り出したMellotronenレーベルの関係者と何度も接触を図り、21世紀の2005年二度目の再結成を果たす事となる。
APMレーベルからリリースされた2曲のボーナストラック(未発マテリアル「Häxdans」と、デヴュー前にライヴ収録された「Tunnelbanan Medley」)収録のマスターに更なるリマスターを施し、新たに数少ないライヴ音源から1980年の公演の際に録られた名曲「Novarest 」のライヴヴァージョンを加え、2008年Mellotronenレーベルより27年振りとなる新曲4曲が収録されたミニアルバムCD『Waiting Paths』が付された2CD三面デジパックの豪華仕様で再々リイシューCD化される運びとなり、更なる今年2016年には母国のプログレッシヴ専門レーベルTRANSUBSTANSより3度目のCD化と初のリイシューLP盤までもがリリースされ、改めて彼等カルティヴェイターの根強い人気とカリスマたる健在ぶりをアピールしたのは記憶に新しい…。
カルティヴェイター関連のネットの情報筋によると新曲4つをレコーディングした2006年に再び活動を停止し10年経った今もなお長きに亘る沈黙を守り続けている昨今であるが、彼等がこのままで終わる筈が無いと信じているのは決して私だけではあるまい…。
10年間という長き眠りから目覚めて、来たる2017年を境にそろそろ彼等が新たなる胎動を起こしそうな予感をも抱いているのは些か穿った見方であろうか?
いずれにせよ21世紀のプログレッシヴ・ムーヴメントは何が起こっても不思議ではないというのが昨今の相場と決まっているが故に、カルティヴェイターの次なる復活劇の鍵を握っているのはバンドのメンバーでもあり、あるいは北欧の凍てつく大地と森林の神々のみぞ知るといったところであろうか…。
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