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02,2020
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今月最初の「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロックシーンに於いて珍しくブルース系をバックボーンとしたその特異な音楽性と個性的なサウンドアプローチで独自の生きざまを貫きつつも、多々ある大御所クラスのバンドの陰に隠れてしまいがちで…なかなかこれまで正当な評価が得られていなかったであろう、唯一無比にして孤高なる存在感を今なお醸し出している“ジャンボ ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。
JUMBO
(ITALY 1972~)
Alvaro Fella:Vo, Ac‐G, Per
Vito Balzano:Ds, Per, Vo
Sergio Conte:Key
Daniele“Pupo”Bianchini:G
Dario Guidotti:Flute, Harmonica, Ac‐G, Vo
Aldo Gargano:B, Vo
今を遡る事30年以上も前に、太陽と情熱の国イタリア国内に於いて先に名を挙げたPFM、オザンナ…等といったバロック音楽の伝統と血筋を脈々と受け継いだクラシカル・シンフォニック系、ユーライア・ヒープばりのハードでヘヴィな系列、果てはジェスロ・タル影響下を思わせるイタリアン・ロックお得意な唾吹きフルートをフィーチャーしたバンド…etc、etcが幾数多も犇めき合っていた、まさしく将来を嘱望された期待の有望株に混じって、数々のロック・フェスティバル・野外コンサートに於いて、その余りにもブリティッシュ・ブルース然としたひと癖もふた癖もある特異の音楽性と存在感を放っていたジャンボ。
バンド名の由来は諸説あれども(アフリカ特有のスワヒリ語の挨拶からという向きもあるが…)、大方の見解でバンドリーダー兼ヴォーカリストのAlvaro Fella(見た目、野暮ったいロバート・フリップみたいな風貌である)のニックネームから取ったというのが有力だと思われる。
ジャンボの母体は60年代半ばに結成されたラ・ヌオヴァ・エラ(奇しくも80年代にプログレッシヴ・フォーク系、90年代にヘヴィ・シンフォニック系の2つの同名バンドが存在するが、全く人脈的には関係無し)なるバンドが母体となっており、残念ながら作品そのものを遺す事無く解散してしまうが、当時は後にイル・ヴォーロのキーボードとして参加のVincenzo Temperaや、Alvaroと共にジャンボに加わるキーボーダーSergio Conteが在籍していた。
ラ・ヌオヴァ・エラ解散後AlvaroとSergioは、Vito Balzano、後にマクソフォーネに参加するRoberto Giuliani等を誘いロ・スタート・ダニモなるバンドを結成。
イギリスのブルース・ブームに乗じる形で、ブリティッシュナイズされたブルース系バンドへと活路を見出し、更にその後はブリティッシュ・アンダーグラウンドの洗礼を受けつつも、クリムゾンやフロイド、イエスといったプログレッシヴ・バンドがイギリス国内外で話題と評判を呼んだ1970年、時代の流れに敏感に呼応するかの様に…バンドは数回のメンバーチェンジを経てそのバンドネーミングをジャンボへと改名し大手ヌメロ・ウーノから“In Estate/Due Righe Da Te”と“Montego Bay/Due Righe Da Te”のシングルを2作リリース。
時は前後してジェネシスやジェントル・ジャイアントがイタリア国内で絶大な人気を誇り、PFMやバンコ等がめきめきと頭角を表しつつあった1972年、イタリア国内に吹き荒れるプログレッシヴ・ムーヴメントに呼応するかの如くジャンボもフィリップス・イタリアーナから自らのバンド名を冠した1stデヴュー作の『Jumbo 』をリリース。
Alvaroのしゃがれた癖のあるヴォーカルにブリティッシュナイズされたブルース・フィーリングをベースとしながらも、彼等の後の名作『DNA』と『Vietato Ai Minori Di 18 Anni ?』に繋がるプログレッシヴで光る部分とが違和感無くコンバインされた、ボール紙であしらったペーパー・クラフトレリーフが意匠の一見地味ながらも何かしら予感させる未知数の佳作に仕上がっている。
ちなみにギタリストのDaniele Bianchiniは、前述した前身バンドのロ・スタート・ダニモに参加したRoberto Giulianiが後に加わるマクソフォーネにて、管楽器を担当したMaurizio Bianchiniと兄弟という血縁関係であり、ジャンボとマクソフォーネ共に縁浅からぬ関係である事が判明している。
地味な装丁ながらもなかなか渋味を感じさせる好作品でデヴューを飾りつつも、バンドの創作意欲は止まる事を知らず、同年末に更なるプログレッシヴ色を強めたジャンボの全作品中に於いて1、2を争う名作の2nd『DNA 』をリリースする。
ペーパー・クラフトがやや地味な印象だったデヴューから一転して、場違いで不釣合いなド派手メイクで洒落込んだ老婦人が振り返る、見た目悪趣味丸出しながらもタイトルが意味深な本作品は、あたかも72年当時のイタリアン・ロック全盛期の空気を象徴した…ラッテ・エ・ミエーレ、イル・バレット・ディ・ブロンゾ、イル・パエーゼ・ディ・バロッキ、フォルムラ・トレ、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ、デリリウム…等といった当時に於いて新進気鋭な熱い連中が続々と秀作を発表していた時期に追随するかの様に、デヴュー作で感じられたブルース・フィーリングの面影を残しつつも、イタリアン・プログレッシヴらしさが更に際立った傑作へと仕上がっている。
何よりも特筆すべきは当時においてまだ一般に浸透していなかった“DNA”という遺伝子配列を表記した言葉を、作品タイトルに採用した点にあっても先鋭的であるという事。
21世紀の今でこそ医療関係、犯罪捜査、遺伝子関係といった分野で浸透している単語を、よもやあの当時に堂々と列記していた事に意外性は隠せない…。(私を含めて大半のイタリアン・ロックファンの方々は、初めて本作品を目にした時は“ドナ ”と読んだのではなかろうか?)
ブルース+プログレッシヴなアプローチへの転換に成功したジャンボの躍進は、翌1973年発表の3rdにして彼等の最高傑作でもある『Vietato Ai Minori Di 18 Anni ? 』で一気に開花する
読んで字の如し…直訳すると“18歳未満お断り”という意ながらも、20代始めにマーキー誌のイタリアン・ロック・カタログで紹介された当時、白黒で遠目から見ても解らない位小さく不鮮明なジャケット写真にちんぷんかんぷんで何を意図したデザインなんだろうと疑問に思ったものの、実際にプラ
ケースないし紙ジャケットCDを手にして思わず苦笑いしたくなる位、プログレッシヴな作品にしては…どことなく卑猥でエッチな妄想心を駆り立てるやや不謹慎丸出しなデザインに、御年配や若年層の女性のプログレ・ファンが見たら思わず赤面すること必至であろう(苦笑)。
そんな余計な下世話にも拘らず、作品の内容たるやブルース色はやや後退しつつも、かのFranco Battiatoを始めとする当時名うてのゲストプレイヤーを数名迎え、モーグ・シンセサイザーやメロトロンもところどころに配した、文字通りプログレッシヴ・スピリッツ全開で流石名作・傑作に相応しい至高なる最高な一枚であると言っても過言ではあるまい(不動とまでいわれた6人のメンバーだったが、本作品ではドラマーがVito BalzanoからTullio Granatelloに交代している)。
しかし…あれだけ順風満帆で軌道の波に乗っていた当時に於いて、これからの躍進が期待されていたにも拘らずジャンボは最高傑作の3作目を最後に、プッツリと表舞台から消息を絶ってしまう。
理由は定かではではないが、所謂プログレッシヴ業界の不文律の法則の如く…ライヴアルバムを出すと次回作は必ず作風が変わると同様に、ノルウェーのアント・マリーやオランダのフィンチ然り、サードアルバムで最高の極みに達した傑作は即バンド解散をも意味しているという事と同じなのであろうか。
程無くしてジャンボ解散直後、リーダーのAlvaro Fellaはプレネスタム・ブロッコ452を結成し、ユニヴァーサルからシングル数枚と唯一のアルバムを発表するも、後年プレネスタムでの在籍期間はたった数ヶ月のみで直接バンドそのものには関与していなかったと明言している。
その後Alvaroは心機一転しアリエスを率いてPDUレーベルから2枚のシングルをリリースするも、惜しくもアルバム製作までには至っていない。
その一方でアリエスでの活動と併行して、かつてのジャンボのメンバーだったDaniele BianchiniとDario GuidottiそしてAlvaroの3人でジャンボ名義で76年、数年振りの新曲シングル一枚を発表し、更に数年後の1983年の前述の3人ジャンボ名義で、スタジオ新録音源に未発ライヴをカップリングし
た『1983 Violini D'Autunno』をリリースし、時流の波に寄ったポップなアプローチで健在ぶりをアピールするも流石に主要なメンバーを欠いているだけに、やや説得力に欠ける嫌いもあるから要は好みの違いが分かれるであろう。
そして7年後の1990年、フランスはパリで開催されたライヴ・フェスにて収録されたライヴ音源(大部分が名作3rdを中心とした選曲!!)が2年のインターバルを経て1992年Mellowレーベルからリリースされた以降、Alvaroを始めとするジャンボの足取りはもうここで消息不明になったのかと思いきや、何と!2016年Alvaro Fella自身思いもよらぬ形で21世紀のイタリアン・ロックシーンへ現役第一線に復帰する事となった次第であるが、それは次週の「夢幻の楽師達」で取り挙げる通称CAPことCONSORZIO ACQUA POTABILE で改めて触れたいので乞う御期待願いたい。
更に補足すると、2007年には『Anthology Live - Due salti nel passato 』なるDVDまでもがリリースされ、つい昨年2019年には期間限定ながらも再結成を果たしており、バンド結成周年記念形式の如くリユニオン・ライヴを開催し拍手喝采と大歓声に包まれてその健在ぶりを大々的にアピールしているのが実に喜ばしい限りである。
イタリアン・プログレッシヴという大きなムーヴメントの波で黄金期の一時代を築き、まさに走馬灯が駆け巡るかの如く青春時代を謳歌した、唯一無比にして孤高で異色な存在とまで言わしめたジャンボ。
ジャンボについて大半のイタリアン・ロックのファンに尋ねると即座に“ああ、あれはブルース系でしょ”と即答で一蹴され、それ程の評価が正当に得られていないのが正直なところであろう。
かく言う筆者である私自身もいかんせん“ブルース”という言葉が引っかかって、正直なところ数年前までは余り聴く気になれなかったのが本音である(ゴメンナサイ…)。
が!しかし…いざ改めて心の中を空白にして聴き直してみると、違和感あり気なブルース・フィーリングが逆に心地良くフィットし、1stを含めた全作品の完成度の高さに、つくづく考え方が浅はかな自分に対し猛省する事しきりで、私が言うのも何だが…イタリアン・ロックに一度でも魅入られた方々も、今一度心を真っ白にしてジャンボの音に接して頂きたいと願わんばかりである。
もうここまでくれば…Alvaro Fellaの復帰といい、ジャンボの再編成といい、一切合財まるごとひっくるめて夢と奇跡よ今再びと言わんばかりジャンボのサプライズな初来日公演すらも期待して止まないと思うのは私だけであろうか(苦笑)。
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05,2020
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6月最初の「一生逸品」は、名作・名盤大多数を誇るイタリアから、まさに知る人ぞ知る存在にして、ジャケットの奇異で珍妙な意匠で今までに正当な評価を得る事無く、音楽性とその完成度、作品の内容の素晴らしさが見過ごされてきた…まさしく伝説的でもあり悲劇的な存在にして名匠の称号を欲しいままにしてきた“カンポ・ディ・マルテ ”が70年代イタリアン・ロック黄金期に遺した唯一作に、改めて今一度輝かしき光明を当ててみたいと思います。
CAMPO DI MARTE/ Campo Di Marte(1973)
1.Primo Tempo
2.Secundo Tempo
3.Terzo Tempo
4.Quarto Tempo
5.Quinto Tempo
6.Sesto Tempo
7.Settimo Tempo
Enrico Rosa:G, Mellotron, Vo
Alfredo Barducci:Horn, Flute, Key, Vo
Richard Ursillo(Paul Richard):B, Vo
Carlo Felice Marcovecchio:Ds, Per, Vo
Mauro Sarti:Ds, Per, Flute, Vo
時代や世紀を問わず古今東西、そして音楽的なジャンル問わず奇妙奇天烈で珍妙なジャケットアートなるものは実に数多く存在するもので、有名な音楽評論家並び音楽ライター諸氏の言葉を借りれば…改めてレコードジャケット+ジャケットアートとはその創り手側の音楽世界の代名詞にして顔的な役割を果たしていると言っても過言ではあるまい。
ことプログレッシヴ・ロックに限定した話…私自身の乏しい記憶やら数少ない情報で思い起こしてみれば、ヴァニラ・ファッジのKey奏者マーク・スタインが結成したった一枚のみを遺したブーメランの原始人ジャケットといい、フランス(モナコ公国)出身のエドルスのデヴュー作の初回LP盤に至っては間違いだらけな日本のイメージがそのまま反映されてて、あまりに褒められたものではない悪趣味満載な意匠にはもはや怒りすら通り越して苦笑いせざるを得ない。
奇妙奇天烈ではないが思わず“ビージーズかよ!”とツッコミたくもなるレフュジーの唯一作、安易なAOR感覚満載なEL&Pの『ラヴビーチ』といった類も、当時のアートディレクターに対し何を意図としたのか?どういう発想なのか?はたまた何を血迷ったのか?と疑問すら投げかけたくもなる(苦笑)。
まあ…兎にも角にもサウンドの構成面やら完成度は素晴らしいのに、どういう訳かジャケットで損をしているといった具合にトホホな作品とは結局いつの時代に於いても不変であるあるなのだと言い聞かせるしかあるまい。
前置きが長くなったが、今回本篇の主人公でもあるカンポ・ディ・マルテも、些かトホホで残念感満載のジャケットであるにも拘らず、70年代イタリアン・ロック史にその名を刻む伝説的な存在へと後年から現在今日までに知らしめているのは最早言うには及ぶまい。
大航海時代の中南米のインディオか、はたまた異国の地の大道芸人なのか…傍から見れば“びっくり人間大集合”と言わんばかりな、様々なイマジネーションをも想起させる奇異で珍妙を通り越した意匠(本作品のライナーを執筆した宮坂聖一氏の言葉を借りれば、古代トルコの傭兵が描かれたとの事)で、1973年にデヴューを飾った彼等カンポ・ディ・マルテではあるが、ジャケット云々はともかく肝心要な音楽性に至ってはかのRDM始めアルファタウラス、果てはリコルディ・ディファンツィア…等に匹敵するであろう重厚で硬派なヘヴィ・プログレッシヴを構築しており、戦争の愚かさを皮肉った題材を扱ったものの当時は難解な手合いを敬遠するレコード会社とかなり揉めたらしいそうな(歌詞の差し替えやら何度も録り直しを要求されたらしい)。
結成の経緯に至っては些か不明確であるが、1971年のイタリアン・ロック黎明期のさ中彼等の活動拠点でもあったフィレンツェにて、イタリアとデンマークを往復しセッションマン兼コンポーザーとして活動を行っていたギタリストのEnrico Rosaを中心に結成され、ドラマー兼フルート奏者のMauro Sarti、音楽院にて正規の教育を受けていたキーボード兼管楽器担当のAlfredo Barducci、アメリカ生まれでPaul Richard という変名でクレジットされているベーシストの本名Richard Ursillo、そしてリズムの強化を図る為にイ・カリフィに在籍していたドラマーCarlo Felice Marcovecchioを迎えたツインドラムを擁する5人編成でカンポ・ディ・マルテは幕を開ける事となる。
ツインドラムという異色さも然る事ながら、結果的に片方のドラマーMauro SartiはAlfredoと共にフルートパートとして専念出来るというタナボタみたいなポジションに落ち着く事となる。
バンドネーミングの由来は諸説あるが、古くはマーキー誌面にてローマ神話に登場する農耕と戦の軍神マールスを奉ったフィレンツェのマールス広場(おそらくはカンポ・ディ・マルテ庭園)から取られたものと推定される(余談ながらもフィレンツェにはカンポ・ディ・マルテなる地名と駅名もちゃんとしっかり存在している)。
決して一朝一夕ではない名うてのプレイヤー達がこぞって集結しただけあって、リコルディやヌメロ・ウーノといったイタリア老舗大手レコード会社ではない外資系のUNITED ARTISTSとの契約はむしろ必然的といっても異論はあるまい。
前出で歌詞の差し替えやら作品の方向性を巡ってレーベルサイドとすったもんだがあって、楽曲の完成から録音に至るまでかなりの歳月と時間を要する事となったが、元々ロックをベースにクラシックとジャズ…等といった様々な音楽的素養を融合させたいという意向で始められたバンドであったが故、メンバー間との衝突や軋轢は殆ど無く、時間をかけて製作した甲斐あってバンドサイドとしてはほぼ満足のいく出来栄えであったと言えよう。
アーティストサイドには誠に申し訳無いが、本来ならイタリアのヴァイニール・マジックないしマーキー/ベル・アンティークからリリースされたCDを基に、曲順改変(アーティスト側の意向に沿った形で本来の曲順に戻されたのは既に御周知であろう)されたヴァージョンで綴っていきたいところであるが、ここはあくまで1973年リリース当時のオリジナルLP原盤の曲順に立ち返るという意味で各曲を紹介していきたい。
重ねてオリジナルLP盤の曲順と、曲順改変されたヴァージョンのCDとを聴き比べてみて、何故曲順が変ったのかと推察してみるのも一興であろう。
冒頭1曲目のブリティッシュナイズながらもイタリアン・スピリッツ全開なギターとオルガンのヘヴィなリフに、思わず握った拳が熱くなりそうなパワフルで力強い…緩急自在で押しと引きとのバランスの対比が絶妙なまさしくオープニングを飾るに相応しい、カンポ・ディ・マルテの世界観を雄弁に物語っている一方で、後半部にかけてのオザンナやチェルベッロばりの妖しげで幻惑的なフルートの音色とアヴァンギャルドに転調する終盤も聴き逃せない。
2曲目、アコギとフルートに追随するかの様にフレンチホルンが絡む何とも穏やかで牧歌的、平和でのどかな光景が目に浮かぶ様な小曲に心癒される思いに捉われてしまう。
静寂から徐々にけたたましくかき鳴らされ、あたかもフリップ御大ばりなギターの即興に導かれる3曲目にあっては、ヘヴィとリリシズムとが互いにせめぎ合いながらも、哀感漂うピアノが実に効果的で歌心と情感溢れるヴォーカルとの相乗効果を醸し出し、ダイナミズムでクラシカルな曲想に転ずると同時にピアノ、ハモンド、そしてメロトロンとのアンサンブルが何とも実に心地良い佳曲。
クラシカルでバロックさながらの教会音楽風ハモンドが心の琴線に触れる4曲目にあってはまさしく溜飲の下がる思いですらある。
オルガンの荘厳な余韻を残しつつも3曲目のリフレインが再び被さり、一瞬の静寂を経てアコースティックギターの独奏で第一幕が終わりを告げる。
LP原盤の旧B面に当たり、さながら第二幕の始まりを告げるであろう5曲目はアコースティックギターとフルートによる中世宮廷音楽ないし初期ジェネシスやフォーカスをも彷彿とさせ、草原の香りと温かな微風すら想起させるイマジネーションを湛えた前半部と、GGやPFMばりのプログレッシヴな変拍子が展開されるハモンドにメロトロン、フルートとの後半部がとても素晴らしいの言葉に尽きるのはいた仕方あるまい。
突如メロディーの破綻と共に5曲目が断ち切られたかと思いきや、絵に描いた様なイタリアン・ロックさながらなイントロがミステリアスに絡み付く6曲目へと繋がって、GGがヘヴィプログレッシヴへと転じた様な曲構成の中で厳かに響き渡るフレンチホルンとフルートが、かの後年のマクソフォーネをも連想させる辺りは流石にイタリアン・ロックが為せる技であると感服しきりである。
中盤にかけてのクリムゾンとオザンナばりのヘヴィで且つミステリアスさを醸し出したジャズィーな隠し味も聴き処であるといえよう。
ラストで聴けるテープの逆回転をも思わせるフルートとメロトロンフルートとの妖しげな調べが不穏な雰囲気を醸し出している。
最後の7曲目は時代感を湛えたギターが怒涛の如くに雪崩れ込んだかと思いきや、小気味良いリフレインと複雑に入り組んだ音の迷宮とが互いに交錯し、さながら終焉に向けてのカタストロフィーとシンフォニーが一点に集約されるかの如く大団円を迎えるかの様相で、カンポ・ディ・マルテが紡ぎ出すシニカルでリリカルな音世界はこうして幕を下ろすのである。
こうしてめでたくアルバムデヴューを飾った彼等ではあったが、リリースと前後して数回のギグを行いつつも、これといってさっぱり話題に上る事無く、レコード会社のプロモート不足が災いしてか決定的なヒットに結び付く事無く、メンバー側もほぼカンポ・ディ・マルテでの活動意欲が薄れてしまうばかりか、悪い事は連鎖的に重なるもので、デヴュー作と同時期に収録していたシングル曲も、次回作の為に録音していたマスターテープも会社側が望む音楽性の相違とセールス云々が望めないという安易な理由でお蔵入りとなってしまい、リーダーのEnrico自身もほとほと愛想が尽き果ててしまい、失意を抱いてバンドの解体を決意…結果的に活動の拠点と生活の居をデンマークへと移し、カンポ・ディ・マルテはそのあまりに短い活動期間に幕を下ろす事となる。
時代は移り変り、80年代から21世紀の今日に至るまでイタリアン・ロックやプログレッシヴ・ロックを巡る周囲とそれを取り巻く環境が激変し、いつしかカンポ・ディ・マルテが遺した唯一作もジャケは最悪だが音楽性はずば抜けて素晴らしいという評価だけが独り歩きし、1985年前後にイタリア現地にて大量に発見されたカンポ・ディ・マルテの唯一作がマーキー運営のワールド・ディスクでリーズナブルなレギュラープライスで流布され、彼等の評価は瞬く間に鰻上りに上昇し、その後90年代になると先にも触れた通りイタリアのヴァイニール・マジックから、バンドサイドの意向を汲んだ本来の曲順に改変されたリイシューCDが全世界に流通し、73年当時に正当な評価が得られないまま苦汁を舐めさせられたカンポ・ディ・マルテは、かくしてムゼオやイルバレ、RDM…等と並ぶ名匠として確固たる評価と地位を得られるまでに至った次第である。
デンマークへと拠点を移したEnrico Rosaはその後北欧諸国にてソロアーティストとして多大なる成功を収め、クラシック始め、ジャズ/クロスオーヴァーの分野で精力的な活動を経た後、劇場や舞台関連の音楽監督にも就任し、ジャンルを問わず多岐に亘るセッション活動に勤しむ一方、2001年には細君のEva Rosaと共にプロジェクトを編成し、そこから派生した形でEnricoとEvaを中心にカンポ・ディ・マルテを2003年に再結成し、オリジナルメンバーだったドラマー兼フルート奏者のMauro Sarti(一時期ベラ・バンドにも在籍し素晴らしい作品をリリースしている)を再び呼び寄せ、新たなキーボーダーとベーシストを迎えて限定された期間ながらもイタリアはトスカーナ地方で再結成ライヴを敢行し大成功を収めている(その時の模様を収めたライヴと、73年当時の音質粗悪なライヴが2枚組のカップリングCD『Concerto Zero』としてリリースされている)。
ベーシストだったRichard UrsilloはPaul Ursilloと改名しセンセーションズ・フィックスを結成、もう一人のドラマーだったCarlo Felice MarcovecchioもPaulに誘われバンドに参加している。
残る一人のAlfredo Barducciは残念ながら現時点に於いて消息は解らずじまいであるのが、何とも悔やまれてならない…。
最悪でセンスが疑われるといった珍妙なジャケットアートが災いし、悪評ばかりが先行して正当な評価すら得られなかった彼等ではあったが、もしこれがUNITED ARTISTSではなく、リコルディやヌメロ・ウーノ、フォニット・チェトラ、果ては悪名高きRCAからリリースされ、それ相応のプッシュやプロモートが得られていたなら彼等の命運や道程も変っていたのかもしれないが、それでも彼等は孤高なる道を突き進み…試行錯誤でもがき苦しみながらも自らの手で栄冠を掴み取っていたのかもしれない。
カンポ・ディ・マルテがまだ活動を存続させ、虎視眈々と新たなる次回作に向けてのリハーサルを行い、マテリアルを構想中なのであれば、私達は彼等を信じ続け今はただ黙って何も言わず静かに見守り続けていくしかあるまい…。
夢や希望はまだまだ終わりそうもない…これからも未来永劫続くのであろう。
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08,2020
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今週の「夢幻の楽師達」は70年代前半のイタリアン・ロック黎明期に結成され、その後デヴューはおろかレコードリリースされる事無く紆余曲折と試行錯誤を経て、90年代のイタリアン・ロック復興期に漸くデヴューを飾り、以降地道な活動ペースながらも出す作品毎に燻し銀の如き風格と深い印象を湛えつつ、70年代のイタリアの名作群と何ら遜色無い位…まさしく珠玉の音世界を紡ぐ職人芸の域と言っても過言ではない、現代(いま)を生きる伝承者とも言える“コンソルツィオ・アクア・ポタビーレ ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。
CONSORZIO ACQUA POTABILE
(ITALY 1971~)
Maurizio Mercandino:Vo
Massimo Gorlezza:G
Enrico Mercandino:G
Romolo Bollea:Key
Silvia Carpo:Recorders, Vo
Maurizio Venegoni:MIDI Controller (Electronic Winds)
Luigi 'Gigi' Secco:B
Luca Bonardi:Ds
今や語り尽くされた感が無きにしも非ずではあるが、70年代に栄華を誇ったイタリアン・ロックは、70年代中期~後期には様々な諸事情(オイルショックを始め、国内の政情不安…等)で衰退し、大御所のPFM、バンコ、ニュー・トロルス、オルメといったベテラン勢に至っては路線変更を余儀なくされ、所謂金銭の為に商業音楽=産業ロックを泣く泣く演らざるを得ない、まさに絵に描いた様な辛酸を舐めさせられた辛い時期であったと思う。
77年のロカンダ・デッレ・ファーテがまさに70年代イタリアン・ロック最後の煌きであったと同時期に、それ相応の実力と能力を兼ね備えながらも、資金面やら台所事情でデヴューの機会すらも恵まれず、地道に細々と半ば開店休業に近い形で活動を維持していた幾数多のバンドがどれだけ存在したであろうか。
それらを考慮しても、思い返せば我々ロックファンは80年代初頭に「イタリアン・ロックはもう死滅した!」とは、何て残酷な言葉を並べてきた事だろうか…とつくづく反省する事しきりである。
まあ、21世紀の今となっては笑い話に近いと言うには些か失礼ではあるが、情報量の少なかったあの70年代末期~80年代半ばまでは、本当にそう思わざるを得なかったから致仕方無いといえば仕方無かったのであるが…。
前置きがだいぶ長くなったが、今回の主人公…水道の蛇口という意を持つ通称CAP ことコンソルツィオ・アクア・ポタビーレは、詳細含めバイオグラフィー、結成に至るまでの経緯がやや不明瞭ながらも、大方の見解で70年代前半のイタリアン・ロック黎明期に、ロンバルディア州の小さな村の地元高校に通うクラスメート数人で結成され、学校の音楽室や友人自宅の地下室や納屋で各々が楽器を持ち寄って、当時話題に上っていたブリティッシュ・プログレッシヴ…イタリアで人気を博していたジェネシス始めGG、フロイド、イエス、EL&Pといったコピーを日が暮れるまでセッションに明け暮れていたとの事。
同時期にイタリア国内のビッグネームPFM、バンコ、果ては後年のロカンダ・デッレ・ファーテといったイタリア国内のバンドに触発され、先人達からの多岐に亘るリスペクトとバックボーンを糧に自らのオリジナルレパートリーを書き溜めてはギグを積み重ね、次第にCAPはその卓越した演奏力が評判を呼びまだデヴュー前であったにも拘らず徐々に知名度を得ていく事となる。
そうこうしている内に70年代後期に差しかかるとプログレッシヴ停滞期に呼応するかの様にイタリアン・ロックシーンも冬の時代に突入し、前後してデヴューの機会を窺っていたCAP自体も悲しいかな、結局良運と好機に恵まれる事無く1977年前後にたった唯一のライヴ音源をマスターテープという形で残したまま、暫しの永きに亘る活動休止に入ってしまう。
なお余談ながらもCAPと同時期にデヴューはおろか作品リリースされる事無く活動に甘んじていたバンドに、今でも現役のイル・キャスティッロ・ディ・アトランテ、バロック、唯一の作品を遺して消息を絶ったセンシティーヴァ・イッマジーネがいた事も忘れてはなるまい。
バンドは後の1993年正式に活動を再開するまでの間、実質上完全なまでの沈黙を守り続け、中心人物でもあったRomolo Bollea、Maurizio Venegoni、Massimo Gorlezza、そしてドラマーだったPippo Avondoの4名はそれぞれの生業に就きつつも、何らかの形で創作・音楽活動に携わっていたものと思われるが、80年代というイタリアン・ロック冬の時代の長い余波は、CAPという存在自体ですらも最早忘却の彼方へ追いやってしまうのも時間の問題…実質上風前の灯火さながらといった感であったのは言うには及ぶまい。
…しかし運命とはどこでどう転ぶか解らないもので、長い冬の時代を乗り越えたイタリアン・ロックが90年代を境に瞬く間に息を吹き返すや否や、時代に呼応するかの如くプログレッシヴ・リヴァイバルを合言葉に、70年代にデヴューの夢が叶わなかった幾数多ものバンドがこぞって再浮上を遂げ、ベテランクラスのみならずニューカマーですらもプログレッシヴ専門の新興レーベルからリリースされ、CAPも御多聞に漏れず新たに発足した新興レーベル“Kaliphonia ”より、かのデウス・エクス・マッキーナと共に満を持して鳴り物入りで華々しいデヴューを飾った次第であるが、最早77年当時のライヴ音源で大なり小なり感じられた“ややアマチュア臭の匂うプログレ・バンド”というかつての面影は微塵にも感じられなかった。
77年唯一のライヴを収めたマスターテープにリマスターを施した『Sala Borsa Live '77』の初リリースと同時に、ライヴで演奏した幾つかのナンバーをスタジオ録音で見事に甦らせた正式なデヴュー作品『…Nei Gorghi Del Tempo 』での堂に入った貫禄たっぷりの演奏は、70年代ヴィンテージの感触と90年代の録音技術、演奏機材が見事にコンバインしたデヴューにして珠玉の名作として数えられるであろう(通常プレスCDに加えて、初回プレスの特典として、三面開きのデジパック仕様盤CDに、学習雑誌の付録を思わせるペーパークラフトのオマケ付きという豪華盛り沢山な内容だった)。
ちなみにこのデヴュー作ではRomolo、Maurizio、Massimo、Pippoのオリジナルメンバーに加えて、専任ヴォーカリストのPaul Rosette、もう一人のギタリストRiccardo Roattinoを迎えたベースレスの6人編成となっており、サウンド的にはバンコの『自由への扉』を彷彿とさせつつも、幾分抑え気味な重厚感のシンフォニーにアンジュのクリスチャン・デカンを思わせるシアトリカルな語りが融合したと言えば解り易いだろうか…。
デヴューから5年後の1998年、2作目に当たる『Robin Delle Stelle 』をリリースするが、ここでは長年苦楽を共にしたドラマーのPippoが抜けており、ヴォーカリストともう一人のギタリストも交代しており、ツインキーボーダーの片割れだったMaurizioがウインドコントローラーに転向し現在までに至っている。
Romolo、Maurizio、Massimoに加えて、新たにMaurizio Mercandino、Chicco Mercandinoの兄弟と、Fabrizio Sellone、Luigi “GIGI” Secco、Luca Bonardiを迎えた、文字通りイタリアン・ロック特有のアンサンブルを重視した向きの計8人編成による大所帯バンドへと移行し、録音技術の向上に加えてサウンド面でも前作の延長線上にプラスして更に繊細さと抒情さが加味されジャケットのイメージ通りの幽玄さと荘厳さが全面に押し出されている。
バンドは5年後の2003年、今まで所属していたKaliphoniaレーベルの閉鎖に臆する事無く、彼等自身が興したレーベルから初リリースされた第3作目『Il Bianco Regno Di Dooah 』は、前作、前々作から抽出した必要な部分を更に濃縮還元し複雑に構築した音世界が聴ける名実共に彼等の最高傑作と言っても過言ではあるまい。
彼等の活動拠点近くの幼稚園(保育園?)から沢山の園児達が合唱隊で参加しているのも聴きもので、前作のみに参加したFabrizioが抜け本作品では新たに紅一点のリコーダー兼バックヴォーカルのSilvia Carpoを迎えてバンド自体にも華を添えている。
上り調子を維持したままバンドは順風満帆な軌道の波に乗ってコンスタンスに作品をリリースしていくのかと思いきや、3作目のリリース以降CAPは何故かまた再び活動を休止し長きに亘る沈黙を守る事となる…。
もはやイタリアン・ロックファンの誰しもがCAPに対し“解散!?”という二文字を頭に浮かべつつも、否定と肯定に葛藤し簡単に諦め切れないもどかしさというか焦燥感と不安の入り混じった長い年月と日々を送る事となるのだが、そんなファンの不安と心配なんぞ杞憂だったかの如く…2016年若干名のメンバーチェンジを経て突如ながらも実に13年ぶりに4作目の新譜リリースとなる『Coraggio E Mistero 』に歓喜と喝采の声が沸き上がったのは言うまでもあるまい。
加えて驚きともいえる超弩級のサプライズに、先週取り挙げた70年代イタリアンの大御所ジャンボで一時代を築いた名ヴォーカリストAlvaro Fella の電撃的復帰とコラボーレーション的な参加に、兎にも角にも全世界中のイタリアン・ロックファンはまさしく度肝を抜かれる思いであった。
駆け足ペースで彼等CAPの今までの道程を綴ってきたが、同期のイル・キャスティッロ・ディ・アトランテと同様、(良い意味で)70年代からの生き残り組が21世紀の現在に至るまで臆する事無く尚も精力的に活動しているからこそ、新世代のフィニステッレ、ラ・マスケーラ・ディ・チェッラ、ラ・トッレ・デル・アルキミスタ等が発奮・リスペクトし、互いに刺激・影響し合ってイタリアン・ロックの伝統を形成しているのかもしれない。
音楽とはまさに伝承の連鎖でもある。
数奇な道程を辿ってきたCAPことコンソルツィオ・アクア・ポタビーレではあるが、確固たる揺るぎない音楽像の方向性と基盤を築き上げた今、2016年の電撃的復帰以降を経て次はどんな世界が構築され繰り広げられるのか非常に気になるところである。
彼等の未来永劫へと繋がる航海はまだまだ続く…私を含め多くのファンもそれを見届けねばなるまい。
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11,2020
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今週お送りする「一生逸品」は、名実共に栄華を極めた70年代イタリアン・ロックにおいて、燻し銀の如き秘宝にして今もなお眩い輝きを放つ至高の名作・傑作と誉れ高い“レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ ”が遺した、純粋無垢なまでの素朴さと牧歌的な佇まいを秘めたデヴュー作に改めて焦点を当ててみたいと思います。
風薫る初夏から本格的な夏へ…木々の緑が陽光に映える時節柄に相応しい、イタリアという風土と自然の香り、優しい空気の中に時折憂いを帯びた魂の調べに触れて頂けたら幸いです。
REALE ACCADEMIA DI MUSICA
/ Reale Accademia Di Musica(1972)
1.Favola
2.Il Mattino
3.Oguno Sa
4.Padre
5.Lavoro In Citta
6.Vertigine
Federico Troiani:Key,Vo
Nicola Agrimi:G
Pierfranco Pavone:B
Roberto Senzasono:Ds
Henryk Topel Cabanes:Vo
冒頭で触れた通り、栄華を極めた黄金時代の70年代イタリアン・ロックシーンにおいて、1972年は特に大きな転換期を迎えた非常に重大な意味を持つ時期だった様に思う。
現在でも尚大御所のPFM始めバンコが華々しくデヴューを飾り、フォニット・チェトラからはニュー・トロルスの『UT』、オザンナの『Milano Calibro 9』、更にはデリリウムの『Lo Scemo E Il Villagio』といった珠玉の傑作が誕生し、当時の活況著しいシーンの熱い流れに呼応するかの如くラッテ・エ・ミエーレ『Passio Secundum Mattheum』、イル・バレット・ディ・ブロンゾ『YS』、RDM『Io Come Io』、オルメ『Uomo Di Pezza』、果てはクエラ・ヴェッキア・ロカンダ、イル・パエーゼ・ディ・バロッキ、RRR…etc、etcが次々と輩出され、後年から現在までに至るイタリアン・ロックの脈々たる流れ・礎ともなるべきアイデンティティーが確立されたと言っても過言ではあるまい。
今回本編の主人公レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカも、そんなイタリアン・ロック黎明期の熱い時代に、華々しさとは無縁でありながらも、ひっそりと佇む一輪の花の様にデヴューを飾った名グループと言えよう。
1970年にリコリディから唯一のシングルを遺したプログレ・ハード系でイルバレや初期RDMに近い、I FHOLKSのKey奏者だったFederico Troianiを中心に結成され、72年に同リコルディからバンド名を冠したデヴュー作をリリース。
ちなみに当時はプロモート用の宣材にカラーフォトも撮られ、後述でも触れるがイタリアの音楽誌CIAO 2001の表紙を飾った事から、リコルディサイドの並々ならぬ期待感と一押しの力の入れようが窺い知れる。
だいぶ以前に辛口な批評でイタリアン・ロックを語っていたプログレ仲間が、彼等のデヴュー作に対して“クラウス・ノミ(故人)みたいなマリオネット(!?)が印象的”と評しながらも、裏読みすれば実に印象的なイタリア然とした味わい深いカヴァーに彩られた本作品。
“プログレはジャケットが命”と同様、“カヴァーアートがバンドの音楽を表わす”の言葉通り…何とも摩訶不思議なイラストレーションが、彼等レアーレの描き出す音世界が醸し出す映像的な視覚効果に一役買っていると言ったら言い過ぎだろうか。
本作品の聴き処は、やはり何と言ってもKey奏者にしてバンドの要とも言えるFedericoの流麗にして劇的、リリシズム溢れる演奏の中にもヘヴィでブルーズィーな翳りと憂いさを湛えたピアノとオルガンに尽きると言えよう。
無論、ギターを始めリズム隊の堅実なプレイに、バンドの音色を鮮やかに彩るかの様に切々とした哀感が込められたヴォーカリストの歌いっぷりも忘れてはなるまい。
レコーディング時の6人のメンバー(デヴューアルバムのリリース前にギタリストの片割れPericle Sponzilliが脱退)に加え、ゲストギタリスト1名そしてストリング・セクションをバックに配し、約40分に亘るレアーレの音世界の旅は幕を開ける。
リリカルなアコースティック・ギターの重奏にオルガン、メロトロン、オーケストラが畳み掛ける様に優しい調べを奏でる冒頭1曲目に深い感銘を受け、作品中最も一番の聴き処ともいえる2曲目は、Federico奏でる劇的にしてイタリアの慕情、喜び、悲しみを絵に描いた様なピアノはまさしく落涙必至と言えよう。
この名曲“Il Mattino”無くしてレアーレは語れないと言わしめる位に、恐らくはイタリアン・ロックの名曲5本の指に入るであろうと誰しもが異論はあるまい。
3曲目は一転して仄かに明るめで純粋なイタリアン・ポップス感覚に裏打ちされた佳作、ここでもFedericoのピアノが聴きものである。
4曲目(旧LP盤ではB面1曲目に当たる)はVDGGを彷彿とさせる荘厳なクラシカルさとヘヴィでブルーズィーな哀愁を纏ったオルガンが胸を打ち、追随するかの様にヴォーカリストのHenrykの切々と語りかけるヴォイスも良い。
作品の中でも異彩を放つ5曲目は、抑揚の無い無感情なヴォイスとややアヴァンギャルドさが加味された前半と、カンタウトーレ的な歌物に相通ずる牧歌的な後半との対比が面白い。
飾るラストは元々プログレ・ハード系が出発点だったFederico自身の荒々しい心の側面をも強調した鍵盤系の演奏が素晴らしく、迫る不安と緊張感を暗示するかの様な、ミステリアスな雰囲気漂う展開はレアーレ=Federico Troianiの面目躍如とも言えよう。
馬の蹄が立ち去るかの様な得も言われぬ不思議な効果音で幕を閉じる、まさにほんの僅かな隙すらも与えない…牧歌的で郷愁と哀愁を湛えつつも、適度な緊張感を兼ね備えた珠玉の逸品と言えよう。
バンド自体はほんの僅かにしてたった数回のギグを行った後に、ギター、ベース、ヴォーカリストが去り、この当時の時点で実質レアーレはFederico TroianiとドラマーのRoberto Senzasonoの2名にとどまった次第である。
この二人によるレアーレは後の74年、カンタウトーレでギタリストのAdriano Monteduroとの連名共作でまたしてもイタリアン・ロック史に燦然と残る名作を遺す事となり、ここでもFedericoのピアノの調べは流麗で美しく奏でられている。
この共演作品を境にレアーレは僅か2年という短いサイクルで一旦その活動に幕を下ろし、残ったFedericoは77年に往年のレアーレを彷彿とさせる演奏とヴォーカルでカンタウトーレ系のソロ作品を発表する。
その他にも彼名義の作品が2枚確認されているが、流石時流に合わせたかの様な、これといって掴み処やハッとする様な印象は皆無みたいだ。
Federico自身も御多分に洩れず、スタジオ・ミュージシャンないしポップシンガーのバックを渡り歩くといった裏方へとシフトしていく一方、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカそのものは意外にもかつてバンドと共演したAdriano Monteduroの主導により血縁関係にあたるAntonello Monteduroをキーボードに迎え2008年に『R.A.M.:Il Linguaggio Delle Cose 』でバンド復活を果たし、翌2009年には前作と同じラインナップで『R.A.M.:Il Linguaggio Delle Cose 』と立て続けにリリースし、レアーレ事実上の復活劇は当時大きな話題となったのは御周知の事であろう。
しかし4年後の2013年レアーレは思いもよらない新展開を見せ、何とオリジナルヴォーカリストのHenryk Topel Cabanesを迎え、Federico Troiani、そしてドラマーのRoberto Senzasonoというかつてのオリジナルメンバーに、新たなギタリストとベーシストを迎えた布陣で『La Cometa 』をリリースし、このままFederico Troiani主導のままバンドが継続されるのかと誰しもが思っていた…それから5年後の2018年には今度はオリジナルギタリストの片割れだったPericle Sponzilliの主導で、バンド史上初となる紅一点の女性ヴォーカリストErika Savastani始め新たなキーボーダーとリズム隊を擁する新布陣で『Angeli Mutanti 』という近年稀の無い傑作アルバムをリリースしベストセラーをも樹立、大いなる話題と評判を呼び今日までに至っている。
締め括りの最後に…我々が思っている以上に70年代イタリアのワンオフ的な短命バンドは、その当時は(失礼ながらも)結構な話題と人気を博していおり、今回の主人公レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカも御多聞に漏れず、1972年発行のイタリアのロック&ポップス専門誌CIAO 2001の10月号で、ちゃんとしっかり子豚を抱いたバンドの面々が表紙を飾っているのが何とも微笑ましい。
与太話ついでに、皆さんは覚えてらっしゃるだろうか?洋式トイレの便座を模したジャケットが人気のHUNKA MUNKAの唯一作『Dedicato A Giovanna G.』も、一時期あれはFederico Troianiの変名ではないかという噂があった事も付け加えておきたい(本当はアノニマ・サウンド・リミテッドのKey奏者Roberto Carlottoの変名によるもの)。
今回「一生逸品」を綴ってて、そんな何とも笑い話じみた昔の思い出までもが甦って、改めて思い返せば昨今のネットやらSNSといった情報過多すら無かった、とどのつまりイタリアン・ロックの情報ひとつ取っても様々な思いを巡らせていたあの頃が本当に微笑ましくも懐かしくて良い時代だったと思えてならない…。
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16,2020
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今週の「夢幻の楽師達」は、実に意外なところで日本のロック史に於いて独自の作風と路線をひた走り、ほんの僅かな活動年数と少ない作品リリース数であったにも拘らず、大きな足跡を残しまさしく伝説的な名バンドとして、今でも尚プログレッシヴ系を含め多くの洋楽・邦楽のロックファンから絶大な賞賛と支持を得ている、文字通り孤高の存在として名高い“あんぜんバンド ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
あんぜんバンド ANZEN BAND
(JAPAN 1970~1977)
長沢博行:B, Vo
相沢民男:G, Vo
伊藤純一郎:Ds, Per
相沢友邦:G
中村哲:Key, Sax
今回「夢幻の楽師達」にて彼等を取り挙げた事に、当ブログを閲覧されている方々の極一部からは“えっ!あんぜんバンドってプログレなの…!?”と大なり小なりの疑問を抱かれる事であろう。
が、紛れも無く彼等あんぜんバンドは活動期間が僅かたった数年間であったにも拘らず、日本のロック史に於いて確実に揺るぎ無き大きな足跡を残し、俗に言う“伝説のバンド”などといった安易なカテゴリーには収まりきれない位のカリスマ性を秘めた唯一無比の存在として、解散してから30年以上経過してもその燻し銀の如き光沢と輝きは今でも失われていないと言っても過言ではあるまい。
私個人が彼等の存在を初めて知ったのは…遡る事1982年、当時リットーミュージック出版の「ロッキンf」夏の臨時増刊号として刊行された“日本のロック”で取り挙げられたのが最初だったと記憶している。
あの当時は飛ぶ鳥をも落とす勢いのあったRCサクセション始めYMO、子供ばんど、ピンク・クラウドを始め、デヴューしたばかりのラウドネスや、ベテランのバウワウ、そして当時のジャパニーズ・プログレの代名詞でもあったノヴェラなんかもカラー写真で紹介されてて、薄手の別冊誌ながらもそれ相応に内容が充実しており、資料性としての役割もかなり大きかったと思う…。
その“日本のロック”の中の、歴史を飾った名作セレクションなるモノクロ写真のページの中で、はっぴいえんど始め頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド、村八分、四人囃子…等と並んで紹介されていたのが、彼等あんぜんバンドの代表作にして最終作でもあった『あんぜんバンドのふしぎな
たび』だった。
モノクロ写真のアルバムフォトだったので、余りお世辞にも鮮明とは言い難かったものの、ルネ・マグリットの絵画を彷彿とさせる印象的な意匠に、初めて出会ってから年月を積み重ねても心の片隅で気に留めていた事だけは確かだった。
どういう音楽性なのか?とか、プログレッシヴの範疇に入るのか?といった予備知識すらもろくに無いのに、ジャケットのイラストのみで気になってしまうと言うのも些か強引で破れかぶれな言い方かもしれないが、そういった第六感が働いてくれたお陰で運命的な出会いやら、ハズレ無しの大当たりだったなんて事が結構とあったのもまた事実だった。
前置きが長くなったが、バンドのルーツを遡る事1970年…フロイドの『原子心母』が巷を席巻し、かのフード・ブレインがデヴューを飾ったロック激動の年に、今やかの青山学院大と共に箱根駅伝の名門校となった東洋大学の学生で軽音楽部に所属していた長沢博行(氏は何と同郷の新潟市出身!)、相沢民男、伊藤純一郎の3人によってあんぜんバンドは結成される。
中心人物にして音楽的リーダーでもあった長沢の言葉を借りれば“昔は今みたいに練習スタジオなんて無い時代だったから、授業そっちのけで部室に直行していた”そうな。
今では日本のプログレの範疇でも語られる彼等ではあるが、当然の如く最初からプログレッシヴなアプローチを試みていたという訳では無く、彼等のバックボーンにして音楽的な影響を与えたのが、グランド・ファンク・レイルロードやクリーム、エリック・クラプトン、ザ・バンドといったゴリゴリハード系王道のブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックだったというのも実に興味深い。
骨太系のアメリカン・ロックに傾倒していた相沢と伊藤をまとめていた長沢の手腕と才能も然る事ながら、スポンジの様に多種多彩な音楽要素を吸収し自らの音楽性として昇華してしまう長沢の柔軟なスタイルがあってこそ、あんぜんバンドの躍進と成長に繋がったと言っても異論はあるまい。
長沢自身“一種の開き直りですね。自分が影響を受けた音楽を、たとえ消化不良であっても外へ出さずにいられない前がかりの状態だったんです ”と言いつつも“それ相応にプレッシャーもありましたが、他のバンドがやっていない日本のロックを演っているという自負はありましたね”と、数年前の
インタヴューで当時を懐かしみながら回顧していた。
バンドは銀座スリーポイント始め渋谷のジアン・ジアンやBYGといったライヴスポットでの地道な演奏活動、学園祭出演、練習を積み重ねた努力の賜物の甲斐あって、次第に多方面から注目を浴びる様になり、多いときは一日に4つの学園祭での演奏を掛け持ちするなどの精力的な活躍が高く評価され、同時期に埼玉の浦和市(現さいたま市)を拠点とするロックコミュニティーURC(浦和ロックンロール・センター) という強力な後ろ盾からの支援を得てからは、以前にも増して水を得た魚の様に音楽活動に奔走する様になり、四人囃子や頭脳警察と共にURCの顔的存在として確固たる地位を築いていった。
前後して1974年8月に福島県郡山市で開催された伝説的なジャパニーズ・ロックフェスとして語り草になっているワンステップ・フェスティバル にも参加し、あんぜんバンドは名実ともに確固たる人気と名声を博したのは言うに及ぶまい。
補足ながらも…はっぴいえんどによる日本語のロック派と、フラワー・トラヴェリン・バンドによる本格的洋楽志向の英語のロック派とで二分していたあの当時に於いて、あんぜんバンドはブリティッシュ系洋楽のメロディーラインに日本語の歌詞を融合させる事に挑戦し成功した数少ない存在だったという事も付け加えておきたい。
地道な音楽活動が実を結んだ1975年、あんぜんバンドは徳間音工傘下の新興レーベルでもあったBourbon(バーボン)と契約を交わし、デヴュー作『アルバムA 』の録音に着手する事となる。
そもそもBourbonレーベル独自のポリシーというのが“地方都市のロックシーンに焦点を当てて取り挙げていく”という概念で設立され、埼玉のあんぜんバンド、石川のめんたんぴんといった地方都市で孤軍奮闘している実力派が、その気運の波に運良く乗る事が出来たというのも実に幸いであった(80年代のプログレ系の代名詞的存在だったキングNEXUSよりも先駆者的存在のレーベルだったのかもしれない)。
この頃ともなるとライヴ活動に於いてサポートとして相沢民男の実弟友邦と、長沢と共にメロディーメーカー的キーパーソンの役割を担った名マルチプレイヤー中村哲が正式にバンドメンバーとして加入していた。
試行錯誤と紆余曲折、そして過度のプレッシャーと自問自答の狭間に悩みながらも難産の末に産み落とされた待望のデヴュー作『アルバムA』は、ストレートにして疾走感溢れるハードロック色の濃い作風と、フォークタッチにソフィスティケイトされた温かみと和やかさが同居した後のニューミュージックにも相通ずる良質なポップス性とが違和感無く融合した、初々しさと斬新さの中にも殺伐としたメッセージ性を孕んだ意欲的な野心作に仕上がっている。
頭脳警察から触発されたかの様な当時のレパートリーナンバーでもあった“殺してやる”とか“あんたが気にいらない”といったヤバイ危険性を帯びた作品もあったが、残念ながら諸般の事情によりレコード化されることなくお蔵入りしてしまったものの、その反動で録音された収録曲の“けだるい”といった危険な匂いプンプンなナンバーから、某カルト教団みたいな顛末を謳った“ドアをしめろ”、ストレートな詞と曲調の“怒りをこめて”、そして次回作への布石にして橋渡し的な意味が込められたラスト曲の“月までとんで”では、浦和ロックンロール・センターの皆さんとの合唱をコラボレートした意欲的な秀作に仕上がっており、単なる凡庸なハード・ロックとは一線を画した多彩で奥深い側面までもが垣間見れる。
あんぜんバンドと言ったら、後にも先にも唯一シングルカットされた名曲“13階の女”を忘れてはなるまい。
曲名からして儚くも危うげな雰囲気漂う中で、どこかのどかでほのぼのとした曲調の中にも精神病院といったキーワードやら、「彼女にはもうこうするしかないのだ…13階の屋上から身を投げること 」といった自殺を幇助・助長させるかの様な皮肉と毒の込められた歌詞に、メジャーデヴューとの引き換えで得たもの失ったものとを相殺した彼等のささやかな反抗と抵抗が込められていて何とも意味深ですら感じさせる。
まあ…これが21世紀の現在だったら間違い無くレコ倫やらJASRAC始め、アホウな教育委員会とPTAが黙っている事無く発禁処分か放送禁止に持ち込んでいた筈であろう(苦笑)。
ちなみにシングル盤の“13階の女”のジャケットは、ヨーロピアン・デカダンス調に全裸の外国人女性が横たわっているモノクロセピアな写真なので一見の価値は大である。更に補足すると“13階の女”は、アルバム収録ヴァージョンとシングルヴァージョンとでは若干アレンジが違っており、シングルの方ではかの佐藤允彦がシンセサイザーとメロトロンでゲスト参加しているので、御興味のある方は是非ともお聴きになって頂きたい。
『アルバムA』で得られた高い評価を追い風に、1975年フジテレビでオンエアされていた東映製作の刑事ドラマ『新宿警察』のオープニングとエンディングをシングルリリースし、同時進行で早々に新作の準備に取り掛かるも、ここで長年苦楽を共にした相沢民男が諸般の事情でバンドを抜ける事となるが(目指す音楽の方向性の違いを感じていたのかもしれない…)、バンドは音楽性の更なる強化を図る上でこのまま4人編成の布陣で次回作へと臨む事となる。
この事がプラスの方向へと大いに功を奏し、前作で感じられた荒削りで刺々しいイメージを払拭した“これぞ、あんぜんバンドの音”と言わしめる位のインパクトを持った、名実共に彼等の最高傑作にして日本のロック史に燦然と輝く名盤と名高い『あんぜんバンドのふしぎなたび 』が、翌76年9月1日にリリースされた。
前述したマグリットを思わせるファンタジックなイラストに包まれたイメージに違わぬ、1stでの厳つい危険なイメージから180度転換した、長沢の目指す創作性を重視した純粋なまでの音楽的感動が見事に昇華結実した日本ロック奇跡の産物と言っても過言ではあるまい。
ジャズ・ロック的なアプローチを試みた2曲のインストナンバー“果てのない旅”と“ANOTHER TIME”の充実さも然る事ながら、前作の延長線上にしてどこか寂寥感漂うダークで偏屈なナンバー“時間の渦”(ヴォーカルにエフェクトをかけたギミックさが不気味)、軽快でストレートなプログレ・ポップス調な“夕陽の中へ”と“貘”、鳥の囀りや動物の声といった効果音を多用した楽しくて爽やかなイマージュを想起させる“おはよう”、四人囃子の「おまつり」のアンサーソングとして呼び声が高く言葉遊びが実に小気味良い“お祭り最高”(「嗚呼…サイケデリックだなァ」の台詞は爆笑必至)、そして本作品がプログレッシヴの最重要作品として言わしめている要因として最も秀でた2曲“闇の淵”とラストナンバーの“偉大なる可能性”の素晴らしさだけでも、本作品最大のセールスポイントと言えるだろう。
“闇の淵”は、イタリアのレーアレ・アカデミア・ディ・ムジカを思わせるピアノワークにビリーバンバンを思わせる長沢の抒情的で哀愁を帯びたヴォーカルは落涙必至であるし、ラストの“偉大なる可能性”は、作品全体に漂う夢と希望を綴った人間賛歌そのものであると同時に、曲終盤で聴ける広大な地平線の広がりを想起させるクリムゾンの宮殿ばりのメロトロンの洪水は、最早感動以外の何物でも無い…。
これだけ高水準な作品をリリースし、さあ!いよいよこれからという矢先であったにも拘らず、数回の公演を消化したその翌年、バンドは急に活動を一切停止しそのまま自然消滅へと辿っていった次第であるが、アルバムのセールスが好評で、尚且つメンバー間にも不和など無かった様にも思えるのだが、長沢自身にしてみれば「自らが演りたいと思っていた事を、『ふしぎなたび』で全力を出し切った」と万感の思いで、バンドがベストな状態の時だからこそ…敢えてあんぜんバンドと訣別するべきだと断腸の思いだったのかもしれない。
バンド解体以降…所在と後の動向が判明しているのは長沢と中村哲だけで、長沢は本名の博行からヒロへと改名し、自らの名を冠したHIRO…そしてPEGMOといったバンド活動を経て、80年代にかけてはアイドル関係の作詞作曲を手掛けつつ、それ以後は和太鼓をフィーチャリングしたGOHANなる音楽創作集団に所属する一方で、アニメーション、CM関連での作曲とアレンジャーで多忙を極めつつ、年に何度かかつてのバンドのオリジナルメンバーが集って(限定期間ながらも)再結成ライヴを催したりと今なお現役第一線で活動しており、昨年2019年2月には生まれ故郷の新潟市で帰郷ライヴを行い伝説の名曲“13階の女”を演奏している。
日本版のイアン・マクドナルドを目指していたであろう中村哲は、その後スペクトラムに参加し瞬く間に脚光を浴び、スペクトラム解散後は長沢と同様に彼もまた音楽業界に身を置いて独自の活動を継続している。
バンド関連のアーカイヴに関しては…URC(浦和ロックンロール・センター)主催の1974年から76年にかけてのライヴを収録した、貴重な高音質のマスターテープが偶然にもURCの関係者宅から発見され、2006年にCD化が成されているが、惜しむらくは現在は廃盤に近い状態なのが悔やまれる。
貴重な未発表曲もあるばかりではなく、四人囃子の坂下秀実がゲスト参加したツインキーボード編成によるライヴ音源もあるとの事なので、それも非常に気になるところである…。
駆け足ペースで進めてきたが、活動期間がたった僅か数年間であったにも拘らず、あんぜんバンドが遺した偉大なる足跡とその方法論にあっては、後々の今日にまで至る数多くのジャパニーズ・プログレバンド達にそのDNAが受け継がれたりリスペクトされようとも、容易に近付ける様に見えてなかなか辿り着けない頂の極みに今でも君臨しているのが正直なところと言えるだろう。
喩え彼等の楽曲がコピー出来たとしても、その時代性とイディオム、アイデンティティーにあっては誰も真似出来ないし二度と再現出来ないのもまた現実でもある。
日本語による日本のロックに真正面から真摯に向かい合ったあんぜんバンド。
それはリーダーの長沢自身にとってもただの青春の一頁では決して終わらないだろうし、単なる思い出で留めておく事など出来やしない、まさしく彼等なりの「俺達の時間」でもあり「生きた証」そのものであったと言えないだろうか…。
現在の安易でお手軽コンビニ感覚な、毒にも薬にもならないJポップという名で商業音楽化した日本のミュージック・シーンが失った“魂の叫び”が彼等の音楽には脈々と息づいていて、バンドが解散して早40年以上経った今でも色褪せる事無くリアルに体感出来る稀有な存在と言っても過言ではあるまい。
よくある例え話で誠に恐縮ではあるが、仮にもしも長沢氏に“あんぜんバンドの最新作”なんて話を持ち掛けたところで、謙遜で一笑に伏されたとしてもやはり彼等の音楽を愛して止まない者にとっては、喩えほんのコンマゼロに近い低い確率でも一縷の望みとして再結成の希望を託してみたいと思いたいところだが、果たして…?
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19,2020
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今週の「一生逸品」は人間誰しもが青春期に直面する焦燥感や内面の閉塞感といった感傷的で壊れやすく傷付きやすい繊細な心の機微を、時に激しく時に優しく高らかに謳い上げた、日本のロック史上類稀なる異色の存在として今もなお伝説にして神格化されている感をも抱かせる、70年代のスーパーグループでもあった“ピッグ ”に今再び輝かしき栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
PYG/ Pyg !(1971)
1.戻れない道
2.明日の旅
3.もどらない日々
4.Sunday Driver
5.やすらぎを求めて
6.花.太陽.雨
7.何もない部屋
8.白い昼下がり
9.Jeff
10.Love Of Peace And Hope
11.祈る
沢田研二:Vo
萩原健一:Vo
岸部修三:B
井上尭之:G
大野克夫:Key
大口広司:Ds
今更言う事でも無いのだが、現在50代でもある私自身…今でこそ当たり前の如く諸外国のプログレッシヴと同等、我が国日本のプログレッシヴもかなり愛聴し嗜好している今日この頃であるが、それこそ10代半ばの頃なんて正直なところノヴェラの『パラダイス・ロスト』に出会い邂逅し、プログレッシヴを含めた日本のロックに開眼するまで、所謂プログレッシヴもハードロックもイコール絶対洋楽至上主義という、何と言うか…頭でっかちで頑固一徹に偏った方向でしかロックミュージックを捉えていなかった、何とも大海を見ない井の中の蛙状態な青臭くて生意気なガキでしかなかったという、今思い返しただけでも我ながら失笑極まりない愚かな少年期だったと反省する事しきりである(苦笑)。
まあ…いかんせんあの当時の日本のポピュラーミュージックの大半の率を占めていたのは、いわずもがなアイドル系ポップスを含めた歌謡曲が断然格上であって、それに準じてフォークから発展したニューミュージックがレコード店(嗚呼、懐かしい響き…)の棚に鎮座してて、それに相対するかの様に洋楽のロックとポップスがしのぎを削ってて、そんな片隅に追いやられてしまったかの様に日本のロックは肩身の狭い格下扱いで苦汁を舐めさせられ、当時ビッグネームにのし上がっていたモップス始め四人囃子やらマキオズを除き日本のロックの大半は洋楽の物真似やら低レベルやらといった無責任な謂れの無い風評被害の煽りで、御多聞に漏れずたった一枚きりの作品を遺して姿を消したバンドもあれば、路線変更して大衆受けを狙った安易な売れ線歌謡曲ロックへとシフトして生き長らえるしか術が無かった、あくまでレコード会社やら放送媒体メディア、マスコミ(マスゴミ)の言いなりみたいな隷属化した、やや黒に近いグレーな暗澹たる時代だった様に思えてならない。
無論それはほんの一部分でしかない誤りであって、半分は当たらずとも遠からずながらも60年代末期のGS全盛期からアーティスティックに発展形を遂げたであろう…日本ロック黎明期の草分けエイプリルフール、頭脳警察、フラワー・トラヴェリンバンド、はっぴいえんどの台頭は、当時の日本のポピュラーミュージック界の日陰に位置しながらも、各々が百花繚乱の如く栄光の色彩を纏い大輪の花を咲かせ独自のシーンの根幹の地固め的な役割を担ったと言っても過言ではあるまい。
1970年、ピンク・フロイド『原子心母』のリリースによって、文字通りの本格的なプログレッシヴ・ロック元年となった時期を境に、日本のロックも多かれ少なかれプログレッシヴの洗礼を受けた類稀な存在が世に躍り出て来たのは無論言うまでもあるまい。
原子心母の牛に対抗し、草原を堂々と闊歩するヘヴィな印象の象のジャケットで御馴染みのフード・ブレインを皮切りに、60年代末期のGSブームの終焉と共に、芸能事務所やテレビ局の押し着せみたいなアイドル的扱いに憤懣やるせなかったGSバンドのザ・タイガース始め、スパイダース、テンプターズはそれぞれ同年期の解散を機に、より創造性豊かでアーティスティックな路線に活路を見い出そうと、かつての一世を風靡した栄光から訣別すると共に前出の3バンドから主要メンバーがこぞって結集し、一見ユーモラスな漫画な風貌の豚が描かれた装丁ながらも秘めたる熱い思いや希望がぎっしりと詰まった唯一作で、今回本篇の主人公でもあるピッグも牛や象に負けない位のインパクトで、激動の70年代初頭真っ向勝負にとばかり名乗り出てきた次第である。
愛称の呼び捨てみたいで恐縮なれどジュリーにショーケン…この豪華な錚々たる顔ぶれだけでも、まさに70年代の幕開けに相応しいスーパーグループの誕生と言えないだろうか。
とは言いつつもピッグ結成に至るまでには、かなりの紆余曲折と四苦八苦があったそうで…まあ、日本の芸能界にはよくある話、近年のSMAPとジャニーズ云々ではないが、当時沢田=タイガースが所属していた渡辺プロ(通称ナベプロ、現在ワタナベエンタテーメント)は沢田をソロシンガーとして大々的に売り込みたかった思惑があって、タイガースの中でも唯一沢田を特別待遇しバンドの解散へと促していたとの事だが、人一倍仲間思いが強くバンド活動を重視していた沢田にとってはチームメイトやホームグラウンドが失くされる事に怒り心頭で、唯一頑なにタイガースの解散に反対し事務所サイドにも反発していたとの事。
結果同じタイガースの岸部からGS3バンド解散を糧に、新時代はニューロックバンドで勝負しようぜという言葉に後押しされる形でナベプロへの当てつけとばかりにピッグへの参加を決意。
ナベプロも沢田ありきという念頭があったが為に、(まあ渋々ながらも)新バンド構想に乗っかるという形で事務所内に専属マネジメントとスタッフルームを用意し、ピッグのメンバー全員が大手の渡辺プロダクションに所属という異例の扱いで、芸能界一の大手事務所という強力な後ろ盾を得た彼等は運を味方につけ幸先の良い船出を飾る事となる。
多分…これがおそらく日本のロックバンド史に於いて大手芸能プロダクション所属のロックバンド第一号とでも言うべき先駆けとなったに違いあるまい。
GS全盛期の3大バンドがかつての栄光だった時代に訣別し、敢えて自らを(良い意味で)貶めるかの如く“豚のように蔑まれても生きてゆく ”という意味合いを持たせてピッグとネーミングしたというのは有名な話で、当初は英字綴りのPIGだったのを渡辺プロ所属のアメリカ歌手アラン・メリルの助言とアイディアでPYGという綴りに変えたとの事である。
サウンドの中心でもありリーダー的存在は以外にも井上尭之が務める事となり、本文でも後述するがその事が後々の名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の音楽担当として井上尭之バンドへの布石となるのも実に興味深いところである。
ピッグ結成から僅か数ヶ月間を曲作りとリハーサルに費やし、程無くして1971年3月に京大西部講堂で開催されたロックフェスで華々しくお披露目デヴューアクトを飾ろうとしたものの、大半の聴衆(特にゴリゴリで硬派な洋楽ロックの信奉者達)からはアイドル崩れなGSの残党が出てくるなとか、商業主義の回し者だとか散々な罵声と怒号と帰れコール金返せコールが浴びせられる始末で、同年翌月の日比谷野音でのロックフェスでも罵声と怒号が浴びせられる中、空き缶やらリンゴやらトマトがステージに投げつけられるといった有様で、幸先の良い船出とは裏腹にロックファンはおろかかつてのGSファンからも期待外れな存在としてそっぽを向かれ前途多難な幕開けとなったのが実に皮肉というか悔やまれてならない。
そんな冷たい嘲笑を浴びせる世間様の偏見に臆する事無く彼等は、岸部の作詞と井上の作曲による素晴らしいファーストシングルの名曲「花・太陽・雨」をリリースし、同年8月には暗中模索と試行錯誤を重ねた記念すべきにして待望のデヴューアルバムをリリースする。
作品全体は良し悪しを抜きにしてもやはりかつてのGSの名残を留めつつソフトな路線のロックサウンドがメインであるのは否めないが、やはりGSで腕を磨いていたのは伊達ではない曲作りの上手さと心の琴線に触れる青春期の感性とでもいうのだろうか、時代の空気をたっぷりと含んだドラマティックな心象風景が目に浮かんでくるかの様ですらある。
冒頭のオープニングから激しい疾走感を伴ったGS風なハードロックに圧倒され、沢田の歌唱力と相まって井上のアグレッシヴなギターと大野のブリティッシュナイズなハモンドとのせめぎ合いの応酬は鳥肌もので胸を打つ事必至である。
2曲目は打って変ってスローテンポなバラードながらも、小気味良いメロディーラインが実に絶妙でロックバンドでありながらも歌謡曲畑な目線も忘れてはいない、当時の青春ドラマのテーマソングにでもなりそうな好ナンバーと言えるだろう。
3曲目は岸部の作詞と井上のペンによる萩原のヴォーカルをフィーチャリングしたテンプターズ時代の名残を感じさせるラヴバラードで、幾分フォーキーで悲哀感と抒情性が垣間見える曲想に加えて井上のアコギと大野のエレピとチェレステが聴衆の涙を誘う。
白昼夢の様に朧気でサイケデリックな浮遊感すら抱かせる4曲目、ヤバい表現で恐縮なれど…あたかも一種のドラッグ体験すらも想起させるエコーとイコライジング処理されたヴォーカルラインとメンバーのプレイに英米ロックのサイケ・カルチャーへの追随を思わせる。
4曲目の流れから一気に変って、モロにブリティッシュナイズされたヴァーティゴレーベル系オルガンロックの長尺な5曲目に至っては、男の哀愁を帯びた沢田の渋いヴォーカルに、むせび泣く様な大野の重厚なハモンドが堪能出来る収録曲の中で随一呼び声の高い傑作と言っても過言ではあるまい。
この路線は後々の井上尭之バンドが手掛けた『太陽にほえろ!』でのサントラでも大野のハモンドとキーボードが大きな貢献度を発揮しており、個人的にも少年期のリアルタイムで『太陽にほえろ!』を観ていた世代の私自身も劇中のBGMに胸を打たれ心を熱くした一人でもあり、その事が後年から現在までに至る自身の音楽嗜好の根幹として既に芽吹いていたのかもしれない…。
6曲目(LP盤旧B面1曲目)の岸部作詞、井上作曲による日本のロック史に残る不朽の名曲は彼等のファーストシングル曲にして、デヴューアルバム用にリレコーディングされており、今でもアマチュアバンドのレパートリー曲のみならず、カラオケでもつのだ☆ひろの「メリー・ジェーン」と並んで日本ロック史の名曲として語り草となっており、兎にも角にも岸部の弾く冒頭の重厚で劇的なベースラインが圧巻であることも付け加えておきたい
青春の光と影をモチーフに優しくも切ないもどかしさが切々と謳われており、シングルヒットも然る事ながら当時人気絶頂で放送されていた『帰ってきたウルトラマン』の傑作エピソード第34話「許されざる命」でも挿入歌として使用された際には、当時のウルトラファンのみならず音楽ファンをも唸らせたのは周知の事であろう。
(何よりも当時主役のウルトラマン=郷秀樹を演じた団次郎(現、団時朗)も、“おお!そう来たか…”と驚いたことだろう)
7曲目は3曲目に次いで萩原のヴォーカルメインによるストレートなロックナンバーで、要所々々でGS感の名残が散見出来るものの都会に漂泊する若者達のやり場の無い焦燥感やら孤独感がテーマの、まさに萩原好みのシニカルなナンバーと言えよう。
沢田の歌う甘く切ないラヴバラードが堪能出来る8曲目の流れから、スタジオセッション風なライヴ一発録りのブルーズィーでダンディズム溢れる9曲目(曲のラストで沢田が小さく“ジェフ…”と呟く言葉に何故かしら愛くるしさを覚える)、オープニングと並ぶアップテンポで軽快さと爽快感漂う、まさしくジャパニーズ・ロックの底意地すら垣間見える10曲目、そしてアルバムの最後を飾るは、どことなくイタリアのラヴロックにも似た愛情溢れる穏やかで優しい安らぎ感を与える沢田のラヴソングで締め括られ、大野の奏でるハモンドが一種のカトリシズムを醸し出しており、まさしくタイトル通り平穏で幸福に満ちた世界を讃える祈りと共にデヴューアルバムは静かに幕を下ろす。
ここまで駆け足ペースで綴ってきたが、プレデヴュー時の際には罵詈雑言に貶され、帰れコールで罵倒されて散々な出だしではあったものの、デヴューアルバムの内容は決して悪くなくむしろ好意的に受け入れられ、リリース時のオリコンチャートではアルバム部門のセールスで10位に入るといったなかなかの健闘ぶりを証明し、地道に且つコンスタンスにライヴ活動とフェスでの出演(彼等のフェイヴァリットでもあったストーンズ始めZEP、パープル、サバス、果てはクリムゾンの「エピタフ」などもカヴァーナンバーとしてレパートリーに取り入れていたそうな)をこなしつつも、バンドの注目度やら露出度と人気が増すに連れそれに相反するかの様に彼等を巡る周囲の状況も様変わりし、沢田自身もソロ活動と併行させて後年「時の過ぎゆくままに」始め「勝手にしやがれ」「TOKIO」といったヒット作を連発させ、萩原も自身のソロ活動と併行させつつ俳優活動を開始し前出の日本テレビの名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で愛称マカロニ刑事役を好演し(殉職シーンは個人的にテレビの前で号泣したのを今でも覚えている)、その後は『傷だらけの天使』や『前略おふくろ様』で実力派人気俳優の地位を確立させたのは周知の事であろう。
『太陽にほえろ!』での萩原の出演を機に彼の支援の意味を込めて、井上尭之と大野克夫、岸部修三、そして一身上の都合によりバンドを抜けた大口広司の後任にミッキー・カーチス&サムライのドラマーだった原田祐臣を迎えピッグでの活動と併行して井上尭之バンドという別働隊で、長寿番組となった『太陽にほえろ!』の最終回まで音楽を務めた大きな功績は最早言うには及ぶまい。
そのピッグ並び井上尭之バンドで縁の下の力持ち的なポジションで大きな支えでもあった岸部修三も、後年は音楽活動を休止し芸名岸部一徳として俳優活動に尽力する様になり『相棒』『ドクターX』いった長寿人気ドラマシリーズに於いて名バイプレイヤーとして名を馳せ、その確固たる地位を不動のものとしている。
ピッグというバンド自体概ね解散という声明こそ出してはいないが、メンバー各々が進むべき道を見出し活動そのものが困難となった時点で自然消滅したと考える向きが正論であろう。
唯一遺された彼等ピッグのデヴューアルバムは、今や海外で相当な高値で取引きされて鰻上りなプレミアムが付いており、アートロックやサイケをも内包したプログレッシヴ前夜のジャパンニューロックの一枚としてしっかりと認知されている実情である(余談ながらも漫画な豚が描かれたジャケットの豚の鼻の部分でインクに染まった指紋がプリントされているが、うっかりなのか悪戯な茶目っ気なのか定かではないが沢田が押した跡であるとの事)。
豚鼻の部分を押すとちゃんとブヒと鳴き声を発するギミックの面白さも然る事ながら、もし何曲かでメロトロンが使用されていたのなら、かなりの大名盤となったに違いあるまい…。
スペースの都合上綴れない部分も多々あったかもしれないが、そこはどうか各方面での音楽誌やウィキペディア等を参照して詳細の補填として御覧頂けたらと思う(苦笑)。
2009年に鬼籍の人となった大口を除き、ピッグのメンバー大半は今もなお芸能界の第一線で活動を続けている次第であるが、どんなに活動の場が離れててもフィールドに差異があろうとも、彼等の心の片隅にはピッグのメンバーとしての誇りとプライドが現在もなお息づいており、沢田がヒット曲を連発していた多忙極まる当時でさえも愛称ジュリーとは違った顔で“ピッグの沢田です!”と言い切ってしまう…そんな頑なな名誉と誇りが窺い知れる逸話ですらも最早神格化されている21世紀の昨今である。
とは言いつつも…近年の井上尭之の急逝、そして井上の後を追うかの如く萩原健一も昨年鬼籍の人となり、当の沢田研二に至ってはコンサートに客が入らないという不遜な理由で埼玉公演をドタキャンするという物議を醸し炎上批判されるといったお騒がせ高齢者化しているといった有様ながらも、今でも多かれ少なかれ公演レパートリーにピッグのナンバーを取り入れているというのが何とも喜ばしい限りである(苦笑)。
そんな沢田自身も、昨今コロナウイルスで急逝した盟友の志村けんが出演する予定だった山田洋次監督作『キネマの神様』で、志村の遺志を次いで主演に大抜擢されたのは記憶に新しいところだが、久々の映画出演で俳優沢田研二としての新たなる演技の引き出しを見せてほしいと願わんばかりである。
もはや今となってはピッグの再結成は夢のまた夢で帰結してしまったかもしれないが、多くのファンや聴衆の心の中に彼等のロックスピリッツは今でも響鳴している事だろう。
「人生を全うするまでにいつの日か必ず最高の豚野郎の俺達が最高のショウを見せてやるぜ!」 …と。
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22,2020
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6月最後の「夢幻の楽師達」は、バンド結成から40周年以上のキャリアを誇りつつ、ジャパニーズ・プログレッシヴの生ける伝説という域をも超越し今もなお現役の第一線バンドとしてその崇高にして荘厳なるシンフォニックワールドを紡ぎ続けている名匠に相応しい“ネガスフィア ”に、改めて今一度焦点を当ててみたいと思います。
NEGASPHERE
(JAPAN 1976~)
川崎薫:Key
菅野詩郎:Ds
矢田透:Key
真嶋宏佳:G, Vo
徳武浩:B
70年代後期に世界中を席巻したパンク・ニューウェイヴ台頭の余波は当然の如く閉塞と停滞感を帯びていたであろう当時のプログレッシヴ・ロック冬の時代到来に更なる拍車を掛け、ブリティッシュ並びイタリアンを始めとする北欧・東欧を含むヨーロッパ圏、果ては北米・中南米に於いて有名無名を問わず幾数多ものプログレッシヴ系のバンドが時代相応にポップなアレンジ強化を図ったり、極端な場合大幅な路線変更をも余儀なくされるといったまさしく悪夢そのものといった様相を呈していたのは周知の事であろう…。
当時の我が国日本のシーンも御多聞に漏れず、相も変わらず歌謡曲やらニューミュージックばかりがもてはやされ、プログレッシヴを含む日本のロックシーンは(あまり認めたくはないが)やや格下級な扱いで苦汁と辛酸を舐めさせられていたのが現状であって、洋楽ロックは素晴らしいが日本のロックは今一つなんぞと抜かしていたあの当時の馬鹿共ばかりな音楽評論家達の無責任極まる戯言に、今更ながらも恨み節の一つでも吐き出したいのが正直なところである。
ファー・イースト・ファミリーバンド解散後、キーボード高橋正明は喜多郎と改名しマインドミュージックなソロ作品のヒットを連発する一方で、コスモス・ファクトリーがHR路線に転向し、四人囃子がポップな路線を強め、2枚の好作品を残したスペース・サーカスが静かに表舞台から去っていき、70年代後期ともなると地道に活動を継続してきたプリズムの他は新月とムーン・ダンサーがたった一枚きりの素晴らしい作品をリリースしているのみという何とも寂しい限りな日本のプログレッシヴシーンであった事が実に何とも悔やまれてならない…。
そんな悪しき時代に終止符を打つべくアンダーグラウンドな範疇ながらも我が国に於いてフールズ・メイトやマーキームーンといったプログレとユーロの専門誌が刊行され、1980年に入り新たな時代の幕開けと同時にたかみひろし氏の鶴の一声でキングレコードから日本のプログレッシヴ専門という試みでネクサスレーベルが発足され関西のノヴェラ始めアイン・ソフ、ダダがオーヴァーグラウンドに浮上し人気と話題を博すという、21世紀の今日までに至るプログレッシヴ再興の波の源流は…イギリスのポンプロック登場以前より既に日本から気運が高まっていたと言っても異論はあるまい。
そんなネクサスの動向に呼応するかの様に、インディーズ=所謂当時で言うところの自主製作のレーベルも続々と発足され、ケンソーを支援してきた町田市のレコード店PAM を始め、後年アウターリミッツを始めとする80年代ジャパニーズ・プログレッシヴ牽引のメインストリームとなるメイド・イン・ジャパン (発足当初は前出のファー・イースト・ファミリーバンドに在籍していた深草アキが結成した“観世音”も擁していた)、マーキームーン誌との傘下・連携でプログレッシヴ、チェンバー、エクスペリメンタル系といった多ジャンルのサウンドを網羅していたLLE が軒並み参入し、日本発信のプログレッシヴ復興の狼煙は高らかに幕を開ける事となる…。
今回本編の主人公でもあるネガスフィアは、前述の通り70年代後期のプログレッシヴ受難な時代と80年代初頭のプログレッシヴ復興期という狭間に於いて同時期リアルタイムに歩んできた生ける証として、当時の同期バンドでもあるケンソー、アウターリミッツと並ぶ関東圏3大プログレッシヴ・バンドとして大きく名を馳せる事となる。
バンドの結成は意外と古く彼等ネガスフィアのFacebook経由で歴史を遡ると1976年11月にキーボーダー兼バンドリーダーでもある川崎薫を中心に結成されており、世界中のプログレッシヴ停滞期という不安な時期に於いて、イエスやEL&P更にはPFMから多大なる影響を受けた川崎自身揺るぎ無い信念を抱きつつも、疑問と葛藤…メンバーチェンジを含む試行錯誤と紆余曲折を繰り返しながら、80年代を迎える頃には漸くバンドとしてのまとまりと安定感が保持出来る様になったのは最早言うには及ぶまい。
同時期にオープンし今や吉祥寺老舗のライヴハウスでもあるシルバーエレファントから後押し・バックアップの甲斐あって、前出のケンソー、アウターリミッツ、果ては観世音や新月、美狂乱、グリーン、スペース・サーカスと並んでコンスタンスにライヴ活動出来たのが何よりも幸いだった。
1982年の年明け早々の1月には、広池敦氏率いるカトゥラ・トゥラーナ、パイディア等と共に先のLLEレーベルからオムニバスアルバムとしてリリースされた『精神工学様変容 』にも参加しインストゥルメンタルな大曲にして名曲と名高い「No More Rainy Day」(この当時のメンバーは川崎を筆頭にギタリストの真嶋宏佳、ベースに坂野誠治、ドラマー佐藤亜希良という4人のラインナップ)を披露している。
『精神工学様変容』での楽曲参加を経た後、川崎と真嶋の両名以外がバンドを抜け、その後釜としてベースに徳武、グリーンを抜けたドラマーの菅野を迎え、更なるサウンド強化を図る上で矢野を加えたツインキーボードスタイルの5人編成でネガスフィアは大きな転換期を迎える事となる。
オムニバスの『精神工学様変容』での参加を契機に一気に注目の的となったネガスフィアは、大幅なメンバーチェンジ後も地道且つコンスタンスな活動を継続し、迎えた1984年…時代は大きく動き出しマーキー誌発足のベル・アンティークレーベルから京都のフロマージュがデヴューを飾ったのを皮切りに、呼応するかの如くネガスフィアも同年初秋にLLEから正式デヴュー作でもある『Castle In The Air(砂上の楼閣) 』がめでたくリリースされる運びとなる。
余談ながらも同年秋にはイースタンワークスから夢幻が、更にはLLEから斎藤千尋氏のラクリモーザもデヴュー作をリリースしている。
私自身リリース当時のリアルタイムに接した率直な感想としては、『幻魔大戦』期のキースを思わせる荘厳で且つメカニカルな印象を与えるシンセ群と、当時の最新鋭マキシムエレクトリック・ドラムの導入に、キング/ネクサス一連の作風や他のインディーズ系のサウンドカラーとは全く異なった、同じジャパニーズ・プログレッシヴながらも差別化を図ったというか…どこか一線を画した別の次元で捉えた日本プログレッシヴの新しい側面を垣間見た様な気がしたのを今でも鮮明に記憶している。
80年代に則した時代相応のプログレッシヴという見方が出来る一方で、更なる時代の最先端をも先取りした時期尚早なイメージが感じられたのもまた然りであろうか…。
事実、不思議なもので今回改めて紙ジャケット仕様のリマスターCDに接してみて、あの当時の時代先取り感覚なサウンドが21世紀の現在になって最もフィットして心地良く聴けるという、実に新鮮な驚きだったと共に新たな発見を見い出した思いですらあった。
先鋭的なサウンドイメージも然る事ながら、視覚的なアートワークという側面でも見逃す訳にはいかないであろう…。
ジャケットアートを手掛けたのは最早知る人ぞ知る説明不要なゴシック耽美派稀代の漫画家“千之ナイフ ”氏である。
SFヴィジュアルな世界観を湛えた要塞の如き空中浮遊城郭(宮殿)と、それを見据える性別をも超越した甲冑を纏った貴公子…ネガスフィアの創造構築する近未来的フォルムなシンフォニックワールドと相まって、作品を耳にするリスナー諸氏にとって様々なイマジネーションをも想起させるには申し分の無い出来栄えであった。
自分がまだ若い時分、(男だから当然ではあるが)時折書店でアダルト系コミックを立ち読みしてた頃に初めて千之氏の漫画を拝見した時の鮮烈なまでの衝撃と感嘆は今でも筆舌し尽くし難い…言葉では言い表せないエロティックやら理屈云々をも超越した驚きと感動を覚えたのを今でも鮮明に記憶している。
80年代のロリ系アダルトコミック全盛のさ中、千之氏だけが一歩二歩…否!十歩も抜きん出ていたそのクオリティーの高さに暫し酔いしれて、何年間は千之氏の追っかけよろしくみたいに読破したものだった。
遥か昔…かのマーキームーン誌でもBook紹介コーナーにて山田章博氏と並んで千之ナイフ氏を推していたのも実に意外だったし、マーキー誌面でのネガスフィアのデヴュー作告知欄にて“ジャケットイラストデザインは千之ナイフ”という見出しに思わず“マジかよ!”と部屋で一人興奮で唸った、そんな初々しくも気恥ずかしい思い出を今でも記憶している。
千之氏が連載していた「レモンピープル」誌でも、(これは誠に申し訳無い話…)他の漫画家さんの作品は殆どすっ飛ばして千之氏の作品だけを目当てに読んでいたものである(改めてこの場をお借りして内山先生並びその他漫画家の皆様、誠に申し訳ございません!!!!!)。
ネガスフィアのデヴュー作リリースが告知されたのと時同じくして、前出のレモンピープル誌でも一頁丸々千之氏のジャケットデザインと共にネガスフィアのデヴュー作告知が掲載された時は、(良い意味で)してやったり感とでも言うのかロリ系アダルトコミック誌面に於いてまさに痛快極まる大きな足跡を残したと言わんばかり、ネガスフィアと千之氏の快挙に心から賞賛と拍手を贈ったものだった。
話がすっかり千之氏寄りな横道に逸れてしまったが、80年代のジャパニーズ・プログレッシヴ復興期に新たな足跡と実績を残したネガスフィアは、その後ヴォーカルパートの強化を図り専属ヴォーカリストの新メンバーとして平田士郎を迎えた6人編成へと移行。
以降この新布陣でライヴ活動をコンスタンスにこなしつつ次回作に向けた構想と準備に録りかかりながらも、元マーキー誌編集員だった中藤正邦氏が主宰で発足された新興レーベル“モノリス”からの要請で、関東と関西のプログレッシヴ・バンド競演によるオムニバスアルバム『Progressive Battle
s' from EAST/West』に参加し秀逸なる新曲の「Second Self Loser」を提供。
デヴュー作に収録されたナンバーの延長線上を思わせながらも更に格段の成長と進化を遂げたサウンドスタイルに、ファンやリスナーは次回作への期待感をますます募らせたのは言うまでもあるまい…。
翌1985年一身上の都合によりもう一人のキーボーダーだった矢田透が抜けてしまいネガスフィアは再び5人編成となり、新天地を求めるかの様にLLEレーベルから離れ新たにディスクユニオンが設立したDIWレーベルから新たなる飛躍と発展を託した形で待望の新作『Disadvantage 』をリリース。
DIWとの契約から程無くして一ヶ月間という僅かな製作期間という制約があったにも拘らず、全曲書き下ろされ録音から編集、マスタリングに至るまで…ややもすれば突貫工事にも似たやっつけ仕事をも思わせる強行スケジュールを乗り越え、バンド史上最高傑作になったと言っても申し分無い位2作目『Disadvantage』のクオリティーとテンションは最高潮に達し、モロにロジャー・ディーンからの影響を物語る美麗でファンタスティックなアートワークを始め、シンフォニックで且つヘヴィ、アコギのソロパート、そして組曲形式のラストナンバーの大作といった実にバラエティーに富んだ内容充実な、改めてバンドの懐の広さと幅広い音楽性、各メンバーのスキルの高さを物語る決定打と言っても異論はあるまい。
その後はメイド・イン・ジャパンレーベル主導によるプログレッシヴ・バトルに参加し、関東関西勢のプログレッシヴ・バンドと競演しつつ地道なライヴ活動に精進しつつも、2ndリリースから程無くして音楽的志向と方向性の相違で川崎と平田を除くメンバーが次々と離脱してしまい、以後は同じプログレッシヴ・バンド誘精のベーシストで旧知の間柄でもあった現メンバーの手塚啓一が加入し、手塚の伝で誘精から堂免稔泰(Ds)、渡辺修(G)も参加の運びとなった。
更にはキーボード奏者に藤本 法子を迎え再びツインキーボードの6人編成バンドとして起死回生を図り、一時期はジャーマン・プログレッシヴの大御所ノヴァリスの元ギタリストだったデトレフ・ヨープ(奥様は日本人で当時は夫婦共に横浜在住だった)をゲストに迎え、新生ネガスフィアは活動を継続。
が…1986年、ギタリストの渡辺が抜け真嶋が再び復帰し、さあいよいよこれからという矢先に同年10月のライヴを最後に川崎自身の心身の疲弊が積み重なっていたのを機に、ネガスフィアは事実上解散に近い無期限の活動休止を余儀なくされてしまう。
長きに亘る無期限の活動休止期間中、川崎自身音楽の世界から完全に遠ざかり自らの職務に邁進する日々を過ごしつつ、楽器を前にするのは極々身内や友人関係内での結婚披露パーティーかイヴェントで留める程度であったとの事。
皮肉な事に川崎=ネガスフィアの活動休止を余所に、1991年にメイド・イン・ジャパンから『1985-1986 』というタイトル通りのアーカイヴライヴ音源CDがリリースされ、ジャパニーズ・プログレッシヴ伝説級のサプライズな贈り物に多くのファンは歓喜し、徐々にではあるが川崎の許へネガスフィア復活の要望が寄せられる様になったのもこの頃であろうか…。
以降、期間限定な範囲内でネガスフィア名義の活動を行いつつ、川崎、手塚、そしてKBBでの活動と併行して菅野が復帰しイエスのトリヴュートライヴを経て新メンバーが集まり、バンドメンバー内の不幸といった試練を乗り越え試行錯誤を重ねて、漸くシルバーエレファントのコンピレーションアルバムへ楽曲を提供するまでに落ち着きつつあった。
そして21世紀に入り…2012年以降にあってはFacebook等のSNSというネットツールを駆使し人伝を経由して、川崎=ネガスフィアの下へ再びかつてのメンバーや多くのファンやリスナーといった人々が集うようになり、日に々々ネガスフィア本格的な復活が実現へと繋がる気運は高まりつつあった。
そして迎えた2016年11月23日、ネガスフィアは聖地巡礼の如く青春時代の情熱の舞台でもあった吉祥寺シルバーエレファントにてバンド結成40周年を記念を兼ねた復活ライヴを開催し、満員の観客と聴衆から拍手喝采を浴びた事は記憶に新しい。
ネガスフィア結成40周年記念に呼応するかの様に、かつてリリースされた未発ライヴ音源含む3作品全てがディスクユニオンより紙ジャケット仕様リマスターCDとしてリイシューされ、前出の『精神工学様変容』に収録の「No More Rainy Day」と『Progressive Battles' from EAST/West』に収録の「Second Self Loser」が、デヴュー作『Castle In The Air』のボーナストラックとして収められ、ピタゴラスイッチ(!?)を思わせる様な意匠の未発ライヴ音源『1985-1986』も、再び起用された千之ナイフ氏描くゴシックロリータ風ジャンヌダルクを思わせる美少女のイラストで装いも新たになったのが何よりも嬉しい限りである(ボーナストラックとしてシルバーエレファントのコンピレーションアルバムに収められた2つの新曲も収録)。
現在ネガスフィアのラインナップは…川崎、手塚、菅野、そしてジャズロックバンドQUIから参加した林隆史(G)、フィメールプログレッシヴ・ソロパフォーマーとして定評のあった未藍千紗(Vo)、そしてメンバー中最年少の女性キーボーダー木田美由紀を迎えた6人編成であるものの、今後新作リリース等を想定した場合にあっては参加メンバー自体若干の変動も考えられるであろう。
一方で現在ネガスフィア本隊とは違うアプローチで川崎薫自身“アコースティック楽器によるネガスフィア時代の楽曲の再構築”というコンセプトの下、人伝を経由してKOW&東京キッチンにて活動していたアコースティック・ギタリスト兼ヴォーカリストのKOWこと曽我部晃と合流し、更には82年の『精神工学様変容』時にベーシストとして参加していた坂野誠治を再び加えたトリオ編成でNegAcoustika (ネガコースティカ) なる別働隊バンドを立ち上げているので、こちらも今後の動向には注視せねばなるまい。
ここまで駆け足ペースながらも彼等の過去から現在までに至る道程と歩みを辿っていった次第であるが、彼等ネガスフィアの足跡は決して順風満帆且つ穏やかで平坦とは言い難い、自らが構築した砂上の楼閣に佇みながらも…紆余曲折と暗中模索、疑心暗鬼と試行錯誤、栄光と挫折、時に傷つきもがき苦悩しつつ音楽理想郷を求めて流浪する夢織人に他ならない。
彼等の信ずる音楽が時代を先取りしていたのではなく、21世紀という時代が漸く彼等の音楽に追い着いたと言っても過言ではあるまい…。
ネガスフィアの音楽が紙ジャケットCDのリイシューによって21世紀の今日に於いて改めて再び見直されているという昨今、自らの頑なな信念で時流に流される事無く邁進する彼等の真摯なる姿勢は真の楽聖たるプライドと気高さに満ち溢れんばかりである。
結成40周年を経て未来のヴィジョンをも見据えたであろう彼等のこれからの音楽がどの様に進展するのか聴衆である側の私達もしかと見届けねばなるまい。
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25,2020
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今月最後にお送りする「一生逸品」は、名実共にジャパニーズ・プログレッシヴ黎明期の旗手にして夜明け前と言っても過言では無い、1970年の昭和元禄という時代背景の空気を漂わせ、ヘヴィサイケでアヴァンギャルドな申し子として日本のロック史にその名を刻み異色の存在として、今なお時代と世紀を越えて語り草となっている稀代の名匠“フード・ブレイン ”に改めて栄光の光明を当ててみたいと思います。
FOOD BRAIN/ Social Gathering~晩餐~(1970)
1.That Will Do
2.禿山
3.M.P.Bのワルツ
4.レバージュース自動販売機
5.河馬と豚の戦い
6.目覚し時計
7.片思い
8.穴のあいたソーセージ
9.バッハに捧ぐ
陳信輝:G
加部正義:B
柳田ヒロ:Key
つのだひろ:Ds
時代を遡る事1970年、草原に戯れる一頭の牛の写真のみといった…鮮烈な印象を与えたジャケットで世界中を席巻したピンク・フロイドの『原子心母』と同年、我が日本でもフロイドの牛に対抗したのか否かは定かではないが、草原を我が物顔で闊歩する“象”といった如何にもインパクト大なジャケットでフード・ブレインは華々しく世に踊り出た次第である。
70年代の日本の音楽シーンにあっては、当然の如く歌謡曲偏重主義みたいな状況下にあって、“ロック”と名の付くジャンルは当時においてまだまだ格下に見られがちな傾向があり、60年代末期にあれだけ一世を風靡したGSによってあたかも市民権を得られたかの様に見られつつ、“長髪でエレキ・ギターを携えて演奏する=不良で悪”といった見方・考え方がまだまだ根強かった、そんな誤解だらけで困難にまみれた…今となっては笑い話みたいな荒唐無稽且つナンセンスで滑稽な時代でもあった。
そんな頑固一徹を絵に描いた様な、戦後の焼け跡から逞しく生き抜いてきたオヤジ達の心配やら非難、ロック蔑視なんぞ物ともせず、1970年を境に歌謡曲とは全く一線を画した日本のオリジナリティー溢れる音楽シーンを模索・試行錯誤した素晴らしい逸材を多数輩出したのは言うまでもあるまい。
空前の一時代を築いたGSブームが過ぎ去り、アイドルの押し着せみたいな扱いから脱却すべく、所謂芸能人様のままで役者稼業に留まる者もいれば、本格的な創作活動且つアーティスティックな路線を見出す者と多種多様に拡散していったあの当時、はっぴいえんど、頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド…等と共にフード・ブレインは“ニューロック”の先陣を切って70年10月にポリドールからデヴューを飾った。
横浜でヤードバーズのナンバーを得意としていたミッドナイト・エキスプレスのメンバーだった陳と加部、そこにGSバンドのフローラルを経て細野晴臣と松本隆と共にエイプリル・フールにKeyとして参加していた柳田(因みに細野と松本はその後はっぴいえんどを結成)、数々のジャズ・バンドで経験を積みあのジャックスにも参加していたつのだが集結しフード・ブレインは誕生した。
バンドのネーミング然り、ジャケット・ワークから各曲のタイトルに至るまで、英米のロックに追随するかの如く日本の歌謡曲重視の音楽シーンへの挑戦・挑発とも取れる…まさしく人を喰ったかの様な内容で埋め尽くされた怪作(快作)という称号に相応しい本作品。
見開きジャケットの内側にもそこはかとなくブリティッシュ・ロックへの敬意とリスペクトを感じさせる意匠で、あたかもビートルズの『サージャント・ペパーズ』或いはツェッペリンの『Ⅱ』へのパロディーというかオマージュを意識した点でも興味は尽きない。
冒頭1曲目からブギウギに倣ったかの様な軽快なナンバーからいきなりブリティッシュ・オルガンロック風に変調する超絶ナンバーが聴き物で、オルガンとギターの絶妙な掛け合いが実に見事の言葉に尽きる。
アヴァンギャルドにしてコンテンポラリーな実験色の濃い2~3曲目から、サウンドギミックの面白さとサイケな疾走感が印象的な4曲目、パーカッション群のコミカルな使い方が可笑しさを誘う5曲目、オープニングと4曲目に次いでフード・ブレインの音世界たるものを知らしめるに充分な6曲目、タイトルに違わぬイメージ通りの一瞬イタリアン・ロックをも彷彿とさせるハープシコードのソロが美しい7曲目に至っては、私自身の私見で恐縮だが当時に於いて人気を博していた宇野亜喜良氏の妖しくも耽美的なイラスト世界を連想したのは言うまでもあるまい(ある意味宇野氏も時代の申し子だったのかもしれない)。
そして…人を喰ったかの様な何とも卑猥なイメージというかエロティックさを想起させるタイトルにして、本作品最大の呼び物とも言えるドロドロと混沌とした暗黒のカオス以外の何物でも無い…音のうねりという表現が相応しい8曲目にあっては、あの当時にしてこんな凄い曲を演っていたのかと驚嘆する事だろう。
不協和音的なゲスト参加のクラリネットに、ベースが不気味に唸る“葬送行進曲”やら“蛍の光”の一節が出てくる辺りパロディやらコラージュ云々では一口に片付けられない怖さすら感じる(苦笑)。
ラストの小曲にあっては、もうここまでくるともはや実験音楽の範疇で語られるべきで、ある意味において名作・傑作でもあり、その余りにも前衛過ぎて且つ時代を先取りし過ぎて怪作・問題作扱いされてもいた仕方があるまい。
バンドはその後当然の如くこれと言って主だった活動やギグをすること無く自然消滅同然に解散し、メンバーのその後の動向は…分かる範囲内でギターの陳信輝は再び加部と共にアメリカ人ドラマーのジョーイ・スミスを迎えてトリオ編成で“スピード・グルー&シンキ”を結成し2枚の好作品を残すも、72年に解体。
その後は陳信輝グループとしてセッション・オンリーの活動に重点を置くものの、その後1975年を境にして音楽業界の第一線から退いている。
加部はスピード・グルー&シンキ解散後、ジョニー・ルイス&チャーのベーシストを経て現在もなお現役にして第一線で活躍中である。
柳田ヒロはソロ活動として『Milk Time』を始め5枚の作品をリリースする一方で、岡林信康のバックを務めつつ日本の音楽産業の裏方として支えつつも、現在は業界とは一定の距離を保ちながら現役の第一線で活躍中なのが嬉しい限りである。
つのだひろにあってはもはや説明不要ながらも、フード・ブレイン解散後すぐに故・成毛滋と共にストロベリー・パスを結成し、そのままその流れで高中正義を迎えてフライド・エッグへと移行していく訳だが、その後にあってはカラオケの定番ソングとも言える“メリー・ジェーン”の大ヒットに続き、清水健太郎のデヴュー曲“失恋レストラン”を手掛けてまたもや大ヒットを飛ばし、今や音楽番組のみならずバラエティー番組にも進出している昨今である。
ジャパニーズ・ロックの黎明期において、純然たるプログレッシヴなフィールドではないにせよ、ファー・イースト・ファミリー・バンドや四人囃子…等が登場する以前のあの当時において、よもやここまで恐ろしくも複雑怪奇且つ驚愕で高水準な作品が生み落とされていたとは、奇跡の賜物以外に何と表現出来ようか。
21世紀の現在(いま)フード・ブレインが築き上げた創作精神とDNAは時代を超え形と姿を変えて新世代の啓示よろしくジャパニーズ・プログレッシヴの新鋭・若手達に脈々と受け継がれているのであろう。
あの当時の彼等の弛まぬ創作意欲と前衛精神が生み出したかけがえの無い一枚こそが、日本のロック(=プログレッシヴ・ロック)にとって大いなる一歩でもあり、確固たる礎に他ならないと今こそ声を大にして言わねばなるまい。
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Zen on
29,2020
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6月終盤の「Monthly Prog Notes」をお届けします。
コロナウイルス禍で幕を開けたかの様な2020年も折り返しを迎え、少しづつ収束の兆しを窺わせる一方で、ウイルス蔓延第二波の懸念といった一喜一憂にも似た空気感すら否めない昨今です。
私が常々口にしている“今ここにある危機を前向きに乗り越えましょう! ”という言葉を胸に、例え膨大なる時間がかかっても期待と希望を持って収束目指して一歩ずつ歩みを進めたらと願わんばかりです。
今月も音楽の力を借りて穏やかな安らぎのひと時に浸って頂けたら幸いです。
今回は21世紀プログレッシヴ・シーンに於いて異色な才気と音楽性に満ち溢れた、文字通り個性派揃いのラインナップでお届けします。
先ずイギリスからは、早々と日本に到着したばかりの強力なニューカマーにして、90年代から現在にかけてイエスのトリヴュートバンドとして活躍中でもある“フラジャイル ”驚愕の記念すべきデヴュー作です。
読んで字の如しイエス(+ファミリー)影響下も然る事ながら、かのルネッサンスをも彷彿とさせるドラマティックなシンフォニーは、堂々たるブリティッシュの王道を地で行く会心の一枚ここにありと断言出来るでしょう。
久々のポーランドからは、21世紀シーンへの新風と未知なる気概を感じさせるマルチソロアーティストとして、昨今瞬く間に注目を集めていると言っても過言では無い“ロマン・オディオジェイ ”の鮮烈なるデヴュー作がお目見えです。
ジェネシス始めラッシュといった御大からの強い影響を感じさせる幽玄で且つスペイシーなシンフォニックワールドは、近年のポーランド勢の中でも頭一つ別格に抜きん出たニューホープと言えるでしょう。
近年イタリア勢に負けず劣らず新世代の個性派ニューカマーを多数輩出しているドイツのシーンから、満を持して世に出る事となった期待の新星“ラバー・ティー ”のデヴュー作も必聴必至です。
メロトロンやハモンド、サックスを多用しクリムゾンばりの70年代ヴィンテージ系プログレッシヴを継承し甦らせた、その威風堂々たる姿勢の中にもちょっとした遊び心さえ窺わせる、若手世代ながらも一点の曇りや迷いの無い自らの音を表明した好感溢れる一枚に仕上がってます。
梅雨空の鬱陶しさに加え夏の本格的な訪れを予感させる蒸し暑いさ中、暫しひと時一服の清涼剤の如く心穏やかで流麗なる交響詩の調べに身を委ねて下さい…。
1.FRAGILE / Golden Fragments
(from U.K )
1.When Are Wars Won?/Surely All I Need/
2.Blessed By The Sun/Hey You And I And/3.Five Senses/
4.Heaven's Core/5.Open Space/
6.Time To Dream/Now We Are Sunlight/
7.Old Worlds And Kingdoms/Too Late In The Day
その極端なまでにロジャー・ディーンを意識したアートワークといい、バンドネーミングまでに至るイエス愛というかトリヴュートやリスペクト云々すらも超越した作風で、栄えある堂々のデヴューを飾ったフラジャイル 。
90年代にイエスのトリヴュートバンドとして結成され、長年に亘りイギリス国内始めヨーロッパ諸国の様々なロックフェスティバルやイベントでイエスのナンバーをメインに絶大なる支持を得ていた彼等が、文字通り満を持してのオリジナルナンバーで固めた記念すべき第一歩であるが、ハウ影響下のギタリストの大活躍も然ることながら、スクワイア影響下のベーシストがベースペダルを踏みながらウェイクマンばりのキーボードも弾きこなすといったマルチプレイも素晴らしく、特筆すべきは本家イエスとも交流のあった歌姫Claire Hamillの参加で楽曲に彩りと華やかさを添えている点も見逃せない。
70年代イエス黄金期へのオマージュを湛えながらも、本家のアンダーソンとは異なったClaire女史の歌唱がややもすればルネッサンスに近いニュアンスをも彷彿とさせ、あくまで彼等フラジャイルというバンドの音として勝負している辺りに、イエストリヴュートという一種の足枷からの脱却が垣間見えると思えるのは些か考え過ぎであろうか(苦笑)。
いずれにせよビリー・シャーウッド率いるイエス別動隊のサーカとはまたひと味違った、ブリティッシュ・ロック伝承の王道でイエスの音世界を追随する彼等のスタートに心から拍手を贈りたい。
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2.ROMAN ODOJ / Fiasko
(from POLAND )
1.Titan/2.One Of You/3.Castaway/
4.Deux/5.Eurydice/6.Human Cartoon/
7.Annunciation/8.Fiasco/9.Quintans
如何にもといった感のスペイシーな趣を漂わせた意匠に包まれた、ポーランド発の新進気鋭にして瞬く間に脚光に浴びているロマン・オディオジェイ なるギタリスト兼コンポーザーの彼自身名義によるソロプロジェクトのデヴュー作。
21世紀のポーランド・シンフォニック(メロディック・シンフォを含めて)の大半が、良くも悪くもお国柄を反映しているのか歴史的な背景を物語るかの如く、陰影を帯びた重々しく畳み掛けるドラマティックな作風で占められている印象が無きにしも非ずであるが、彼の本作品にあっては従来のポーランド・シンフォとは一線を画した、御大ジェネシス始めラッシュといった影響下を窺わせるメリハリの効いた力強くも繊細で、変拍子を存分に活かしたどことなく開放的でワールドワイドな視野をも見据えた、曲によってはクロスオーヴァーなエッセンスが加味された豪胆で意欲的な仕上がりを見せている。
現在のポーランド・シンフォニック人脈との繋がりによる…ヴォーカリスト、キーボード、リズム隊、サックス、チェロ、ヴァイオリンといった多種多彩(多才)なゲストサポートの協力を得て、同国のムーンライズないしミレニアムにも匹敵する、東欧色豊かなエモーショナルで幽玄なヴィジュアルと佇まいが徹頭徹尾脳裏を駆け巡ることだろう。
ポーランドのシーンもいよいよ次なるステップへと踏み出し始めた…そんな新たな予感すら抱かせる好作品、とくと御賞味あれ。
Facebook Roman Odoj
3.RUBBER TEA / Infusion
(from GERMANY )
1.On Misty Mountains/2.Downstream/
3.In Weeping Waters/4.The Traitor/
5.Plastic Scream/6.Storm Glass/
7.The Drought/8.American Dream
一見してかの故キース・ヘリング…或いはわたせせいぞうのイラストレーションをも想起させる、毒々しくもカラフルなサイケ調ポップアートなアートワークに彩られた21世紀ジャーマン・プログレッシヴ期待の有望株ラバー・ティー のデヴューアルバム。
2017年の結成から地道なギグを積み重ね多くのファン層や支持者を得て、3年越しのデヴューリリースまでに辿り着いた彼等の創作する音世界は、時代逆行を絵に描いた様な70年代初頭のアートロックにも相通ずるプログレッシヴ黎明期の初期~中期のクリムゾン、VDGG、果てはアフィニティーやフランスのサンドローズをも彷彿とさせるイディオムと作風で構築されており、紅一点の歌姫Vanessa Cross嬢のサックスとフルート始め、ハモンド、メロトロン、モーグ、フェンダーローズといったヴィンテージ鍵盤系、物憂げなアンニュイさを醸し出しているギター、ゲストサポートのブラスセクションが渾然一体となった、仄暗い翳りに加えて不思議な抒情性と余韻の残る快作(怪作)に仕上がっている。
ややもすれば「これは70年代の発掘物です」と仮にフェイクで紹介されたとしても、全く遜色や疑う余地の無い位に古色蒼然で原点回帰型に根付いた、同国のリキッド・オービットに次ぐ孤高で異彩を放つ存在感として、若い世代ながらも既に自らの所信を表明している点で大いに好感が持てる。
単なる王道復古なヴィンテージスタイルに終始する事無く、ピルツ時代のヘルダーリンないしエニワンズ・ドーターの『Piktors Verwandlungen』でも題材となったヘルマン・ヘッセの詩を取り挙げている点でも、流石国民性というか…ジャーマン・ロックの系譜たるロマンティシズムと奥深さに感慨深くなってしまう。
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