幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 47-

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 7月最初にお送りする「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロック史にその名を深く刻み付け、栄光と伝説の狭間で燦然と輝くまさしく待望の真打ち的存在にして、イタリアきっての抒情派或いは硝子細工の様に儚く壊れてしまいそうな感傷的な旋律を、クラシカルな調べと共に高らかに謳い上げる至高の楽師達と言っても過言では無い“クエラ・ベッキア・ロッカンダ”に、今ここに再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


QUELLA VECCHIA LOCANDA
(ITALY 1972~1975)
  
  Massimo Roselli:Key, Vo
  Giorgio Giorgi:Vo, Flute
  Patrick Traina:Ds, Per
  Romualdo Coletta:B
  Raimondo Maria Cocco:G, Vo
  Donald Lax:Violin

 “古ぼけた宿屋の住人”と名乗る彼等がイタリアン・ロック史に於いて輝かりし栄光の70年代を駆け巡ってから、早いものでもう50年近くに差しかかろうとしている。
 思い起こせば…彼等が1972年と1974年に遺した至高の2作品こそが、その独特の音楽性からジャケットの意匠を含めた意味でイタリアン・ロックが持つ美意識という頂の高みにして、栄光そして盛衰、光と影、喜びと悲しみを如実に代弁していたと言っても過言ではあるまい。
           
 70年代サイケデリアといった時代的背景な色合いを反映させつつも、クラシック、ヘヴィロック、アートロックといった様々な側面を内包しつつ、ストレートなロックミュージックというカテゴリーに沿ったであろうデヴュー作。
 そして一年間のスパンを経てデヴュー作以上にクラシカルな要素と音楽性を高め、あたかも濃縮還元したかの如く究極の抒情美とイマジネーションを完成させた2作目。
 彼等クエラ・ベッキア・ロッカンダには、PFMやバンコ、ニュー・トロルス、オルメといった現在まで活動を継続している大御所クラスに移行する事も無ければ、片やイルバレ、ムゼオ、ビリエット、ロカンダ・デッレ・ファーテといったカリスマ的な神格さすらも持ち得る事無く、70年代イタリアン・ロックシーンの真っ只中を、ただひたむき且つ純粋に生き青春時代を謳歌し自らを全うし貫き通した潔さと気概がある。

 クエラ・ベッキア・ロッカンダ(以後はQVLと表記)結成の経緯と詳細は現時点に於いて曖昧模糊とした感は否めないが、その前身とも言えるべきバンドは概ね70年~71年頃には存在していたと思える。
 その頃はまだキーボードとヴァイオリン不在で、Giorgio Giorgi、Patrick Traina、Romualdo Coletta、そして後に参加するMassimo Roselliと共にQVLサウンドの要を担うギタリストのRaimondo Maria Coccoの4人編成であったと思われる
 キーボードのMassimo Roselliは18歳の頃にナイトクラブでピアノ演奏している時期に、ドラマーのPatrick Trainaと出会いバンドの参加を勧められ、その後ローマのサンタ・セシリア音楽院で勉学に励んでいたアメリカ人ヴァイオリニストのDonald Lax(ちなみに彼の父親はアメリカ大使館の外交官)も、実弟の通う学校の文化祭で公演していたQVL前身バンドの演奏に触れ、感激した彼自らがバンドへと売り込んで程無くしてそのまま正式にバンドのメンバーとなり、QVL第一期のラインナップはこうして出揃う事となる…。

 6人編成のラインナップでバンドの礎と地固めを成すべく、彼等はローマ北部郊外のDella Pisanaという土地にあった旧宿屋の邸宅を家主から借り受けて、そこで暫しの間曲作りとリハーサルに費やす事となる。
 バンドネーミングはその時の経験を活かして正式にクエラ・ベッキア・ロッカンダと命名され、バンド活動が軌道に乗り始めた頃を境にメンバー各々がローマ市内に点在し、ある者は音楽の勉学に励み、またある者は音楽活動の傍ら手に職を就けて仕事に励むという生活を送り、ローマ市内を拠点としたライヴハウスやパブ、大きなクラブでのライヴ活動・ジャムセッションに明け暮れるという日々を過ごしていた。
 そんな地道で精力的な音楽活動が実を結び、程無くして彼等はRCAイタリアーナ傘下のHelpレーベルと契約を交わし、連日に亘るライヴ活動と併行して作曲とレコーディングの為のリハーサルに入り、1972年の春にバンド名を冠した『Quella Vecchia Locanda』で見事にデヴューを飾る事となる。
          
 デヴュー作リリース以後も多忙はますます極まりつつあったものの、それを追い風に同年5月にはイタリア国内の当時飛ぶ鳥をも落とす勢いのあったバンドが一堂に会するイタリアン・ロック史に刻まれる大イヴェントVilla Pamphiliのロック・フェスで、QVLはオープニングアクトを飾る一番手としてステージに立ち、10万人以上の聴衆の前で熱狂的に迎えられる事となる。
 このオープニングアクトでの成功を機に彼等の評判はますます鰻上りとなり、リスナーの人気投票でもベスト10に入る位の実力と技量で自らに磨きをかけていき、カラカラ浴場始めローマで老舗のパイパー・クラブでのギグを皮切りに、ナポリのポップ・フェスティバルへの参加、そしてジェノバやヴィアレッジョでのフェスではかのVDGGの前座を務めるまでに成長を遂げていった。
 しかし…栄光への階段を駆け始めたばかりにも拘らず、QVLは突如として大きな試練に見舞われる事となる。
 彼等を後押ししていた筈のHelpレーベルが倒産し、それを機にバンド自体も大きく揺れ動き、先ずベーシストのRomualdo Colettaが(理由は不明だが)一身上の都合でバンドから離れ、それに次いでヴァイオリニストのDonald Laxも外交官だった父親の任期満了に伴い家族共々アメリカへ帰国する事となってしまい、QVLは事実上一年間もの開店休業状態にまで陥ってしまう。
 だがバンド自体はそれに臆する事無く、それらの大きな試練をバネに奮起し新たなメンバーとしてヴォーカリストのGiorgioの兄Massimo Giorgiがベーシストで加入し、かのMassimo Giorgiの口利きで同じ音楽院の学友でもあったClaudio Filiceをヴァイオリニストに迎え、新たに本家RCAイタリアーナと再契約し(元を正せば、倒産したHelp側の意向でプロデュースを譲渡された)、QVLはここで大きな転機を迎える事となる。
 何よりもここでは、QVL参加以前よりゴブリン或いはチェリー・ファイヴの前身とも言えるイル・リトラット・ディ・ドリアン・グレイにて既に数々の音楽経験を積んでいたMassimo Giorgiの参加が当時の彼等にとっては大きなサジェッションとなったのは言うまでもあるまい。
 新たなメンバーを迎え入れ心機一転で新作のレコーディングに臨むQVLに、もう一つ嬉しい出来事が待っていた。当時ヨーロッパ全土に於いてはおそらく初の試みともいえる最新鋭ドルビーシステムを導入したRCAの録音スタジオが使用出来る事となり、これにはメンバー全員が我を忘れて発奮した。
     
 エッジを効かせたロック寄りなアプローチが強かった前デヴュー作から一転し、より以上にクラシック音楽の伝統的旋律と美意識へと傾倒し、コーラス隊並びストリングス・セクションをバックに配した新たな音楽スタイルへの模索と試行錯誤の末に完成された、1974年2作目の新作『Il Tempo Della Gioia』(邦題“歓喜の時”)は、メンバー全員にとっても大きな揺るぎ無い自信へと繋がり、後年にまで語り継がれるであろう名作に成り得る確かな感触と手応えすら感じ取っていた。
 “Villa Doria Pamphili”でのリリシズムと抒情性が発露したオープニングの端整なピアノの調べとイタリアらしい歌心溢れたヴォーカルとストリング・セクションの目くるめく劇的な展開、そして更に続く“A Forma Di…”でのコーラス隊とストリング・セクション、ピアノ、チェンバロをメインとした、バロック音楽へのオマージュにしてリスペクトとも取れるであろう落涙必至なナンバー含め、ラストの大曲“È Accaduto Una Notte”の言葉に尽くし難い静寂な宵闇の何ともミスティックでシンフォニーな名曲揃いに、私を含めどれだけユーロ・ロック愛好者達の涙を誘った事だろうか。
           
 何度も言及されている事だが、『Il Tempo Della Gioia』でのメインコンポーザーはギタリストのRaimondo(作詞はVoのGiorgio)というのも実に意外である。
 普通この手のクラシカルなアプローチは主に鍵盤奏者が得意とするところなのだが、デヴュー作での強いロック色へのイニシアティヴを担っていたのが、実はキーボーダーのMassimo Roselliだったというのも真逆という意味合いを含めて面白い。

 …しかし、そんな彼等の熱意と思惑とは裏腹に、全世界規模に吹き荒れた1973年のオイルショックを引き金にイタリア国内どのバンド共機材の運搬車両が使えない事に加えて、コンサート会場に詰めかけた観客と政府並び官憲との衝突・暴動でコンサート会場も観客ゼロの空っぽ状態といった泣くに泣けない有様が見られる様になり、次第にイタリア国内でのロック・コンサートも減少、結果…あれだけの栄華を誇っていたイタリアのロックシーンは文字通り沈滞・衰退への一途へと辿っていったのである。
 当然の如く集客の望めないバンドに会社側がプロモート活動を含めた支援なんぞ出す訳も無く、予想に反してレコードの売れ行きが伸び悩んでいた事が拍車をかけ、QVLとRCAとの間に大きな溝が出来、契約は白紙に戻されバンドそのものも宙に浮いたまま、1975年に空中分解→自然消滅へと移行していったのは言うまでも無かった。
 個人的な言い方で誠に恐縮であるが…昨年「夢幻の楽師達」で取り挙げたピュルサーの時も然り、CBSにしろ今回のRCAにしろ大手のレコード会社の遣り口といったら、契約書にサインしたら後はバンドの自己責任で会社はノータッチと言わんばかりな、あたかも蜥蜴の尻尾切りみたいに無慈悲で冷徹なビジネスシステムには、正直何度も反吐が出そうになってしまう位の嫌悪感を覚えてしまう。

 話はQVLに戻って、同時期にヴァイオリニストのClaudio Filiceが音楽院でのヴァイオリンの学位取得の為にバンドを離れた事を契機に、音楽業界の揉め事やらイザコザにほとほとウンザリし精神的に疲弊したメンバー全員共、音楽を捨て各々がそれぞれ違う道へと歩んでいった次第である。
 唯一間接的ながらも音楽関連に携わっているのが2代目ベーシストのMassimo Giorgi、そして初代ヴァイオリニストのDonald Laxとその後釜Claudio Filiceのみで、Massimoは現在ローマ市内の名門音楽院で教授の職に就いており、教鞭を振る一方でClaudioと共にクラシック畑でヴァイオリニストとして現在も精力的に演奏活動を行っているとの事。
 Donaldは現在ハワイ在住で、クラシックを基盤にマウイのホテルで週7のペースで演奏活動に勤しんでいるそうな…。
 QVLがイタリアン・ロックシーンの表舞台を退いてから18年後の1993年、70年代を飾ったイタリアの往年の名バンドの未発表音源を発掘するというMellowレーベルの企画で、QVLが遺した1971年の未発ライヴ音源がCD化リリースされたものの、当然の如くまだヴァイオリニスト不在でQVLというバンド名義でない事実に加えて、素人一発録りみたいな感の音質やら未熟な演奏技量がやけに痛々しく聞こえるといった、如何にも商魂ミエミエな眉唾物といった感は否めない(苦笑)。
 貴重な初々しい音源である事に違いは無いが、いかんせんメンバーの了承も無しに世に出てしまったが故に、熱心なイタリアン・ロックファンからは相当なブーイングが巻き起こったのは言わずもがな、某プログレ・ライター曰く…バンドの輝かしい経歴を汚すだけでしかない無礼千万極まりない不愉快な代物に過ぎないというのも当然で、早い話、まあ…こんな時代もあったという程度で記憶に止めておくのが正論であろう。

 振り返ってみれば…我が国に初めてQVLが紹介された当時、それこそパソコンによる世界的ネットワークが完全に確立される以前、QVLの2枚の名作達はユーロ・ロック廃盤・中古盤の専門店で10万円近くに上る高額プレミアムが付けられ店舗内の壁に掛けられた、まさに高嶺の花として鎮座し、あの当時の庶民的な若い私自身ですらもなかなか手が出せなくて、もどかしくも歯痒い思いに何度も駆られたものだった。
 それこそ音を聴きたいものなら、原盤を入手したマニアの方からの御好意で録音してもらったカセットだけが唯一頼みの綱だったものである(苦笑)。
 そんな紆余曲折とも言える時代を経て、QVL一連の作品が国内盤LPで再発され、時代の移り変わりと共にフォーマット自体もアナログLPからCDへと移行し、以後はまるで年中行事の如くイタリアと日本で再発LPやら紙ジャケット仕様のデジタルリマスター再発CDで、あの高嶺の花と呼ばれた時代からはとても想像出来ない位にお手軽に入手出来る良い時代になったものである。
 素晴らしい音楽であるが故に高額の大金を払うのは決して悪いという訳ではないし、逆にこんなデジタル化された今の時代だからこそ、苦労の末に漸く手にする喜びが味わえたのも紛れも無い事実である。
 でも…高額プレミア云々の良し悪しを抜きにしても、フォーマットの面が時代と共に変わろうとも、素晴らしい音楽作品は万人の為にあるというのだけは、未来永劫に不変と言えないだろうか。
 QVLに携わったかつてのメンバー達、そして彼等の音楽を愛して止まない者達にとって、あの2枚の作品とは素晴らしき時代の良き思い出にして、束の間に酔いしれる事の出来る現実逃避の場でもあり夢物語なのかもしれない。

 今回クエラ・ベッキア・ロッカンダを執筆するに当たって、彼等が遺した素晴らしい音楽遺産を初めて我が国に知らしめた先駆者とも言える、私自身が敬愛する吉瀬孝行と坂地昭一の両氏に、深く感謝すると共に心より御礼を申し上げます。

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一生逸品 MAXOPHONE

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 7月最初の「一生逸品」をお届けします。

 今回は70年代中期~後期のイタリアン・ロックシーンを彩り、ほんの僅かながらも一時代を築き上げた…名実ともに“生命の故郷”という音楽理想郷の申し子にして夢織り人という名の楽師達と言っても過言では無い“マクソフォーネ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。

MAXOPHONE/Maxophone(1975)
  1.C'E Un Paese Al Mondo
  2.Fase
  3.Al Mancato Compleanno Di Una Farfalla
  4.Elzeviro
  5.Mercanti Di Pazzie
  6.Antiche Conclusioni Negre
  
  Alberto Ravasini:Vo, B, Ac‐G, Flute
  Sergio Lattuada:Key, Vo
  Roberto Giuliani:G, Piano, Vo
  Sandro Lorenzetti:Ds
  Leonard Schiavone:Clarinet, Flute, Sax
  Maurizio Bianchini:French Horn, Trumpet, Vibes, Per, Vo

 本ブログにてもう既に幾度と無く言及してきた事だが、1972~1973年にかけて百花繚乱の如く活気に湧いていたイタリアン・ロックが、オイルショックの余波を受けて陰りの兆候が見え始めた頃の1975~1977年にかけて、グロッグ・レーベルのチェレステ、そして70年代イタリアン・ロックの終焉を飾った最後の煌きロカンダ・デッレ・ファーテと共に時代の一頁に大きな足跡と名前を刻んだ本編の主人公マクソフォーネ。
 その至高の極みとも言える高い音楽性と類稀なる才能を持った彼等の歩みは1973年にまで遡る。
 以前取り挙げたジャンボの前身バンドだったロ・スタート・ダニモに在籍していたギタリストRoberto Giulianiを筆頭にヴォーカリスト兼ベースのAlberto Ravasini、そして兵役を終えたばかりのドラマーのSandro Lorenzettiの3人が中心となってマクソフォーネの骨子となるべきバンドがミラノで結成される。
 御多分に漏れず極ありきたりなポップスやロックに甘んじる事無く、PFMやバンコ、ニュー・トロルスといった当時の先駆者達に触発され独創性豊かなイタリアン・ロックの担い手になるという道を選択した彼等3人は、曲作りの多忙の合間を縫ってメンバー探しに奔走する事となる。
 人伝を頼りに幾度かの困難と試行錯誤を重ねた結果、ミラノ音楽院の出身者でもあったSergio Lattuada、Leonard Schiavone、そしてMaurizio Bianchini(かのジャンボのギタリストDaniele Bianchiniとは兄弟関係に当たる)の3人を迎えて、ここで正式にマクソフォーネ名義としてのキャリアをスタートさせる。
 程無くして彼等はミラノ郊外の廃屋同然の鶏舎(農作業小屋?)や、メンバーのLeonard宅の地下室でリハーサルを重ねてバンドの持ち曲の大部分を完成させる。
 ちなみに彼等のサウンドのバックボーンは自国のクラシック始めオペラ、国内外のジャズやらアメリカのソウルミュージック、R&B、果てはイエス、ジェネシス、GG、パープル、ユーライア・ヒープにクイーン…etc、etcと兎に角多種多彩であって、これらの音楽的背景と素養があってこそ、あの高度にして緻密で繊細・崇高なロック・シンフォニーが成し得たというのも頷ける。
 そして1975年の始めカンタウトーレのColorado Castellariのアルバムにてバックとして参加し、これを契機に同年大手リコルディ傘下の新興プロデゥトリ・アソシアティ・レーベルより念願のレコードデヴューを果たし、デヴュー作からカットされたシングルも同時期にリリースされる。尚、前述のColorado Castellariとの共演が縁でColorado作の歌詞が2曲(オープニングとラスト)提供されているのも特筆すべきであろう。
 ちなみに本デヴュー作にあっては、メンバーに加えてハープ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスの数名をゲストに迎えて製作されている。
 冒頭で触れたオイルショックが引き金となってイタリアン・ロック沈滞期に差し掛かっていたにも拘らず、レーベル側の彼等に対する期待の入れ込み方は生半可なものでは無く、デヴュー作リリース時にはバンドのロゴがプリントされた布製ワッペンがグリコのおまけよろしくとばかりに付されていたのはちょっとした御愛嬌とも言えよう。
 アレアとのジョイントでイタリア国内での精力的な演奏活動が功を奏し成功を収めた事を足掛かりに、翌1976年…夢の晴れ舞台ともいえるスイスはモントルーのジャズ・フェスティバルへと参加の切符を手にした彼等は、アメリカのウェザー・リポートと共に同じステージに立って多くの聴衆の前で演奏という快挙を成し遂げ、バンドは更なる絶頂期を迎えたのは言うまでも無い。
 同年には国外での販促をも視野に入れた英語の歌詞ヴァージョンによるインターナショナル盤がドイツとアメリカでリリースされ、彼等自身も漸くPFMに次ぐ大きな逸材(バンコやオルメが海外進出失敗だったことを考慮すれば)として世界へ羽ばたこうとしていた。
 余談ながらも…英詞ヴァージョン盤はオリジナルイタリア盤と同様見開きジャケットでデザインも変更は無いが、唯一の違いは外側が光沢コーティング仕様という何とも贅沢な仕上がりになっている。とは言うものの、曲順の違いはともかくとして見開き内側のフォトグラフが何枚か割愛されているのと写真が一枚上下逆さまという痛い箇所があるのは何ともはやである(苦笑)。
 個人的にアメリカプレス盤は一度だけ新宿の某中古アナログ盤専門店でお目にかかった事があるが、ドイツプレス盤にあっては未だお目にかかってはいない。
 余談ついでに、プログレ専門誌時代のマーキーの賀川氏の弁で、昔原宿のメロディーハウスにファクトリーシールの破れかかったマクソフォーネのイタリア原盤が比較的長い間売れ残っていたそうで、今となっては何とも信じられない様な勿体無い話ではなかろうか…。
          
 冒頭1曲目…クラシカルで物憂げな感を湛えながらも劇的で美しいピアノの旋律に導かれマクソフォーネの“生命の故郷”は幕を開ける。寄せては返す波の如くヘヴィでテクニカルなパートと牧歌的でリリカルな曲調とのアンサンブルに加え、陽気でジャズィーな側面とクラシカルで希望に満ちたホーンセクションとが交互に顔を覗かせる辺りは、カラフルなジャケットをそのまま音楽で象徴しているかの様で早くもマクソフォーネの世界観が全開の名曲と言えよう。蛇足的な見解で恐縮だが、イタリア語で歌っている分にはさほど感じられないものの、一度英語によるヴォーカルで聴いた時はまるで一瞬フィル・コリンズが歌っている様な錯覚を覚えたくらいだ(苦笑)。
 ジェントル・ジャイアント影響下であることを強く意識した唯一のインストナンバーである2曲目の出来栄えも素晴らしい。ロック+ジャズ+クラシックという渾然一体となったまさしくプログレッシヴの雛形を垣間見る思いで、若い時分この曲を聴く度に“たった一枚のアルバムで終わらせるには惜しい!”と何度悔やんだ事だろうか…。
 感動と劇的な余韻は静まる事無く3曲目へと繋がり、アコギとピアノ、フルートといった抒情のさざなみが気持ちを静めていきながらカンタウトーレ調に謳い上げつつも、怒涛のハモンドで一気に畳み掛けながら力強く転調し静寂な後半へと収束する流れは白眉のひと言に尽きる。
           
 4曲目(アナログ盤ではB面の1曲目)は、今までとは打って変わってカトリシズムを湛えたチャーチオルガン風のハモンドに導かれゲイヴリエル風な劇的で切々とした歌い回しが印象的だ。あたかも現実と理想の狭間で揺れる人間の心情を代弁するかの様に、ブラスロックとシンフォニックとの応酬が絶妙で尚且つ美しさすらも際立っている。
 アンソニー・フィリップス…果てはジョン・レンボーンを意識したかの様な牧歌的でアコースティックな5曲目も印象的だ。ほんの束の間の清涼剤的な位置付けの静寂さが、良い意味でラストの曲に向けたアクセントとなって引き締めている。ゲスト参加のハープも素晴らしい効果を醸し出している。
 ラスト曲の何とも御陽気なブラスセクションのイントロに一瞬違和感をも覚え躊躇してしまいがちになるが、そこはやはりマクソフォーネならではの心憎い隠し味となっているのがポイントとも言えよう。
 動と静或いは剛と柔とが交互に錯綜し、リリシズムとシニカルな風合いをも含ませたまさしくイタリアン・ロックの面目躍如といった感が色濃く滲み出ており、彼等の仕掛けた術中に嵌ったら最早最後まで抜け出せなくなる事必至と言えるだろう…。

 これだけ高度な完成度を誇り世界進出をも視野に入れた大々的なプロモートを展開していたにも拘らず、結局は彼等も先人達と同様たった一枚のみのアルバムと2枚のシングルリリースのみに止まり、77年を境に表舞台から去っていってしまったのが返す々々も悔やまれてならない。
 話は前後するが…それでも解散前夜の1977年にデヴューアルバムと同系統にして延長線的な彼等最後の名曲とも言える好シングル『Il Fischio Del Vapore/Cono Di Galato』がリリース出来たのは、まさしく奇跡に等しいと言わんばかりである。
 CDというフォーマットの時代に移行してからもYoutubeを含めて必ずボーナストラックとしてカウントされているのが何とも有難くもあり、良い意味でプログレッシヴ=イタリアン・ロックのファンにとっては幸運に恵まれた時代になったものだと感慨深くもなる。

 決して仲違いやら喧嘩別れだとかで解散した訳ではなく、バンドの消滅はあくまで物理的な要因とレコード関連を含む音楽会社全てがコマーシャル至上主義になった時代背景にあると、近年イタリア国内のプログレッシヴ専門プレスRockprogressoによるAlberto Ravasiniのインタヴューで明かされている。
 バンド解体後のメンバーの動向にあっては、Alberto RavasiniとSergio Lattuadaは後述するとして、クラリネットとサックスを担当のLeonard Schiavoneは後年アヴァンギャルド系のジャズロックのストーミー・シックスに参加。ドラマーのSandro Lorenzettiは現在もジャズ畑のベテランミュージシャンとして活動を継続、ギタリストのRoberto Giuliani、そしてもう一人の管楽器担当のMaurizio Bianchiniに関しては第一線から完全に退いているものの、現在のマクソフォーネのメンバーとも頻繁に連絡を取り合っているそうだ。
 80年代から90年代全般にかけて、オリジナル原盤の唯一作が高額プレミアムの付いたまま廃盤市場に出回り、その数年後には再発LP盤やらCD化で多くのリスナーの耳にマクソフォーネの素晴らしい音楽が届けられ、まさに一方通行とばかりにただ悪戯に時間ばかりが経過していくばかりであった。
 そんな状況から一転し急展開を見せたのは21世紀を迎えた2005年、かつて少年期にマクソフォーネの音楽に触れてから…それ以降彼等を愛して止まなかった一人の男Marco Croci(現マクソフォーネのベーシストにしてバンドのプロモーターも兼ねる)の存在が、かつてのメンバーだったSergio Lattuada、そしてバンドの要ともいえるAlberto Ravasiniの心を動かした事が、マクソフォーネ復活の大いなる鍵となったのは最早言うまでもあるまい。
 (運命とはどこでどうなるか分からないもので…この本編を綴る数年前、私自身Facebookを通じてMarco Crociと友達になったが、Marco自身からの友達申請だったので流石に嬉しさと共に驚きは隠せなかった。)

 “90年の最初だったと思う。僕はもうSergio Lattuadaと面識があったんだ。妻の同僚でもあったし、音楽教師だった。でも、当時、Lattuadaはマクソフォーネの話をしたがらなかったんだ。で、2005年の再結成後、再度バンドは崩壊して、RavasiniとLattuadaでゼロから再建を始めたんだ。2人は信頼できる地元のミュージシャンを探し始めた。他にプロとして仕事をしていない人を。最初の候補はLattuadaの元同僚であったCarlo Montiだった。2人とも音楽教師だった。Carloはミラノ音楽院で8年間ヴァイオリンを専攻していたマルチ・プレーヤーだ。彼によって、昔のマクソフォーネのサウンドを甦らすことが重要だったんだ。また、新曲への道筋をつけたのもCarloだった。Lattuadaは冗談で、ミラノ音楽院にはいったときすでにCarloに目をつけていたそうだよ。2008年だったか、プログレのベースについての話題が出たんだ。Ravasiniは僕のプログレ・ベーシストの常にトップの存在だった。彼の奏でる美しいベース・ラインは、ホルン、クラリネット、ギターの中で品格を保って際立っていた。驚いたことに、僕はRavasiniから素晴らしい感謝の手紙をもらったんだ。そこには、いつか一緒にプレイできればいいね、と!”
(RockprogressoのブログからMarco Crociのインタヴューから抜粋)

 Marco Crociの熱意にほだされ、Alberto RavasiniとSergio Lattuadaのオリジナルメンバー2人に、MarcoそしてCarlo Monti(Ds,Per,Violin)、Marco Tomasini(G,Vo)の名うてで実力派の新しいメンバーを迎えて、マクソフォーネは21世紀のイタリアン・ロックシーンに再び返り咲いた次第である。
           
 更にはバンドの結成から40周年を迎えた2013年、川崎クラブチッタにてムゼオ・ローゼンバッハと共に初来日公演を果たし素晴らしいステージングを繰り広げたのは未だに皆さんの記憶の中に留めている事であろう。
 翌2014年、初来日公演を収録したライヴ盤『Live in Tokyo』をリリース後、3年間の製作期間を費やして2017年にリリースされた実に42年ぶりの2nd新譜『La Fabbrica Delle Nuvole(邦題:雲の工場)』は、まさしく21世紀版マクソフォーネに相応しい素晴らしき最高傑作としてベストセラーになったのはとても喜ばしい限りで感慨深さすら覚えたものである。
 が…新たなるマクソフォーネ第2のステージ開幕が期待されていたさ中に飛び込んできたキーボード奏者にして秀逸なるメロディーメーカでもあったSergio Lattuada突然の逝去、程無くして正式に報じられた青天の霹靂の如きバンドの解散声明に、イタリアそして日本を含め全世界中のマクソフォーネのファンと支持者は悲しみの涙にくれたのは言うに及ぶまい。
     
 今こうして2013年に綴ったマクソフォーネのブログをセルフリメイクし加筆しつつも、返す々々本当に素晴らしい作品とスコアを遺し至福に包まれ天国へと旅立ったSergio Lattuadaに哀悼の意と心から感謝の気持ちを込めて手を合わせたいと思う…。

 本編の締め括りとしてRockprogressoのブログから抜粋した、バンドのオリジナルメンバーでもありヴォーカリスト兼ベーシストだったAlberto Ravasiniの言葉をここに記しておきたい。

 「プログレとは、たった2つの構成要素しかない。魂と文化だよ。」

 今回本編の執筆に当たって、Rockprogressoのスタッフ並びマクソフォーネのメンバーそして盟友のMarcoに心から“素晴らしい音楽を有難う!”の言葉を贈ります。

夢幻の楽師達 -Chapter 48-

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 今週お届けする「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロック史に於いてかのオパス・アヴァントラと双璧を成すであろう…唯一無比な音の無限(夢幻)回廊を構築し、今なお神々しくも幽玄なるオーラを放ち伝説的且つ神格化された、童話的なイマージュと牧歌的な夢想を湛えつつも、狂気的な音の迷宮の住人でもある“ピエロ・リュネール”に今一度眩い栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


PIERROT LUNAIRE
(ITALY 1974~1977)
  
  Arturo Stalteri:Key, Per, Vo
  Vincenzo Caporaletti:G, B, Ds, Flute
  Gaio Chiocchio:Sitar, Mandolin, G, Organ, Per, Vo

 近代音楽の第一人者でもあるシェーンベルクの代表作(とも言えよう)“月に憑かれたピエロ”をバンドネーミングに用いた“ピエロ・リュネール”。 
 その何物にも染まらず誰かれの影響とは全く無縁な…独特の研ぎ澄まされた珠玉の音楽性は、キーボーダーにしてバンドの核にして要でもあったArturo Stalteriの非凡な才能なくして成立し得なかったと言っても過言ではあるまい。 
 イタリアのロックシーンにおける奇跡の賜物とも言えるべき名作でもある『Gudrun』が生み出された1975年(当初の予定が、ITレーベルとのすったもんだの末の2年後1977年にリリースされたものである)、Arturo自身当時まだ10代後半のティーンエイジャーでもあった。 
 彼の音楽経歴は1971年にまで遡り、当時14歳だった彼が最初に組んだバンドは、意外な事にブリティッシュ系影響下のハードロックで名を“PRINTEMPS”だったとの事。
 Arturo自身はそのバンドにてギターとオルガンを担当し、その後幾つかのバンド等で音楽的経験を積み重ねた末Gaio ChiocchioとVincenzo Caporalettiとの出会いを経て、1974年ピエロ・リュネールが結成される。
 結成以降度重なるリハーサルやらレコーディング等に時間を費やし、同年RCAイタリアーナ傘下のITレーベルより自らのバンド名を冠したデヴュー作『Pierrot Lunaire』をリリース。
 あの狂気的な名作『Gudrun』以前とあって、難解さが皆無な分とても親近感溢れるフォークタッチでロマンティシズム溢れる佳曲で占められおり、一部聴き手の中にはやや物足りないといった指摘こそあるものの、デヴュー当初の初々しさを考慮すればアルトゥーロの瑞々しいピアノタッチが堪能出来る点で本作品も非常に侮れない。
 収録曲の中でも特に“Raipure”、“Lady Ligeia”、“Verso Il Lago”、そしてラストの妖しくもリリカルで力強い小曲の“Mandrangola”は聴きものである。
    
 デヴュー作リリース後、音楽性の食い違いでVincenzoが脱退するも残されたArturoとGaioの両名は臆する事無く、デヴュー作を遥かに上回るかの様に互いの音楽性を昇華発展させつつ次回作の構想を練りつつ、新たに女性VoのJacqueline Darbyを迎えて録音に取りかかり、翌75年にあの音の迷宮的な狂気の名作『Gudrun』は完成される。
            
 …が、時既に遅く最早その当時のイタリアの音楽シーンや市場そのものは、石油ショック等から端を発した諸々の要因が輪をかけて重なり合い、英米のヒット作中心に並び…イタリアも御多分に洩れず主流交代とばかり、売れ線やヒットを狙った作品ばかりで占められつつあり、他のイタリアン・ロックと同様ピエロ・リュネールもリリース未定の憂き目に遭うといった不運に見舞われる。 
 後年、マーキーの山崎尚洋氏とのインタヴューにて、毎日々々ITレーベルに電話してはリリースの有無を確認する日々が2年近くも続き、その傍らバンドの名前は残しつつ、Arturo自身もソロ作品『Andre Sulla Luna』に着手していた。
 結局ITレーベル側が根負けしたのかどうかは定かでは無いが、『Gudrun』が77年、Arturoのソロ『Andre Sulla Luna』が79年とそれぞれ2年遅れでリリースされるに至った次第である(但し…Arturo自身は『Andre Sulla Luna』の出来栄えにはあまり満足していないとの事だが)。
 しかし…ややもすれば、ITレーベルの怠慢経営が続いてあの『Gudrun』ですらも作品化されずマスターテープのままオクラ入りしていたのかもしれないと思うと末恐ろしくも嘆かわしい話だが(苦笑)。
     
 北欧神話『サガ』をモチーフとした…時にミニマリスティック、時にノイズィでアヴァンギャルド、伝統的なイタリアン・トラディッショナルを漂わせつつも先鋭的にして前衛的、幾重にもコラージュされカットアップされた楽曲の断片が集束する様は、あきらかにオパス・アヴァントラ、ヤクラ、サンジュリアーノ等と肩を並べる位の比類無き唯一無比のミクロコスモスそのものと言っても過言ではあるまい。
 大御所のPFM、バンコ、ニュー・トロルス、オルメ…等とは全く感性も趣も異なる、まさに別の意味でイタリアらしい感性が色濃く反映された傑作にして怪作に相応しいの一語に尽きよう。
           
 『Gudrun』の評判は上々でイタリア国内の各音楽誌でも高い好評価を得るものの、皮肉な事にバンドそのものは最早“無”に近い状況にまで陥り、当然の如くバンドは事実上自然消滅し、Arturoを始めとするメンバー各々はそれぞれが目指すべき音楽性の方向へと活路を見出した。 
 
 顕著なところでは、Arturo自身1stソロ『Andre Sulla Luna』リリースの前後に参加したカンタウトーレのEmilio Locurcioの『L'Eliogabalo』での見事なキーボードプレイを皮切りに、片や一方のGaioとJacquelineはドイツ人女性アーティストのKay Hoffmannと合流し、あの『Gudrun』の姉妹的作品とも言われる『Floret Silva』を製作するものの、マスターテープが完成したにもかかわらず、結局…1985年にマーキー誌運営ベル・アンティークレーベルの尽力で漸く陽の目を見るまでの間、長年ずうっとお蔵入りになっていたのは有名な話(後年ジャケット改訂仕様でめでたくCD化された) 。
          

 暫しの間イタリアン・ロックのフィールドから一線を置いたArturoは、ソロ活動兼セッションを併行する一方クラシックピアニスト兼コンポーザーとしても活躍の場を広げ、21世紀の今日に至るまで環境音楽の分野を含め、昨今はイタリアン・ロックのフィールドにも復帰し自身のソロアルバム、果てはピエロ・リュネール時代の未発マテリアル(『Gudrun』リリース後の次回作用に録った新曲を含む)を収めた2011年の『Tre』をもリリースして現在までに至っている。
 なお私事というか自慢話みたいで誠に恐縮なれど…8年前にかのArturo Stalteri本人からFacebookの友達申請が来た時には、もう全身に激しい電流が駆け巡った様な驚きと衝撃を受けた事を、今でも刻銘に記憶している事を記しておきたい。
 重ねて余談ながらもバンド消滅後の79年、Arturo自身インドへ旅行した時の経験を許にソロ第二弾として『…E Il Pavone Parlo Alla Luna』に着手し(当初はキングレコードから『Peacock Spoke To The Moon』という英語タイトルでリリースされる予定だったが、これまた様々な諸事情が絡んでリリース中止という憂き目に遭っている)、87年にLynxレーベルよりリリースされている。
   
 Arturo以外のメンバーの動向として、『Floret Silva』の解体後Jacquelineは声楽の勉強の為単身イギリスに渡り、Gaioはその後ポップ路線に転向しミニアルバムでソロを出し、プロデュース業に進出するも成功には程遠いと言えそうである。

 奇跡の秀逸作となった『Gudrun』のリリースから早40年以上が経過した今日であるが、あの異様なまでの緊張と高揚感の中で生み出された至高の名作に匹敵する作品が、またいつの日にか21世紀今日のイタリアのシーンに果たして再び巡ってくるのだろうか…?
 否、もう既にオパス・アヴァントラやピエロ・リュネールを聴いて育った新世代の個性的な遺伝子達が、歴史の一頁を紡ぐ日もそう遠くはあるまい。
 そしてかのArturo自身も自らの活動とマテリアルを抱えている傍らで、いつの日かまたピエロ・リュネール名義としての新作リリースする機会を虎視眈々と窺っているのかもしれない…。

一生逸品 CERVELLO

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 今週の「一生逸品」は、70年代イタリアン・ロックシーンに於いて最も異色中の異色にして、文字通り一種カリスマ的なシンボリックに加え、まじない師或いは道化の如き異彩の風貌を放った集団オザンナとその一派の中でも特異中の特異にして混沌と闇の迷宮の申し子と言っても過言ではない、唯一無比にしてその極みと絶対的な存在にして神々しい漆黒のオーラを現在(いま)もなお漂わせているであろう“チェルヴェッロ”。

 そんな孤高なる彼等が辿った道程を今一度改めて取り挙げてみたいと思います…。

CERVELLO/Melos(1973)
  1.Canto Del Capro 
  2.Trittico 
  3.Euterpe 
  4.Scinsione (T.R.M) 
  5.Melos  
  6.Galassia
  7.Affresco
  
  Gianluigi Di Franco:Vo, Flute, Per
  Corrado Rustici:G, Recorder, Flute, Vibraphone, Vo
  Giulio D'Ambrosio:Sax, Flute, Vo
  Antonio Spagnolo:B, 6 & 12st Ac‐G, Recorder, Vo
  Remigio Esposito:Ds, Per, Vibraphone

 もはや言うには及ぶまいが…名実共にイタリアン・ロック愛好家や数多くのファンから、かのムゼオ・ローゼンバッハと共に双璧を成す傑作(両バンドのアルバムとも偶然リコルディから1973年にリリースされたというのも不思議な縁を感じてならない)とまで言わしめた作品だけに、カオスとダークさを醸し出した意味深なジャケットアートのイメージと相まって、1973年当時の第一期イタリアン・ロック黄金期を物語る上で決して物珍しさとか高額プレミアム云々といった下世話なウンチクとは一線を画した、文字通り長きに亘って必聴必須の一枚として語り草となったのも大いに頷けよう。

 同郷ナポリ出身で先輩格のバンドでもあるオザンナのギタリストだったDanilo Rusticiを兄に持ち、その兄の背中を見てロック=創作活動に目覚めた弟Corrado Rusticiは、兄のバンドのオザンナが掲げていた音楽と映像、演劇との融合による総合芸術に当然の如く感化触発され、必然的にオザンナと同様南イタリア地方の土着色に根付いたトラディッショナルなアイデンティティー、地中海の伝承音楽を踏襲したロックを志し、地元のバンドメイトと共にチェルヴェッロを結成しオザンナ一派のバンドとして括られつつも、オザンナとは全く異なったスタイルと方法論で活動していく事となる。
 余談ながらもチェルヴェッロ結成当時、Corrado Rusticiはまだ若干16歳という若さのティーンエイジャーでもあり、同年代にデヴューを飾ったセミラミスのメンバーとほぼ同年代にして、如何にこの当時のイタリアの若者達が研ぎ澄まされた感受性に富んでいたかが伺い知れよう。
 ちなみにチェルヴェッロというネーミングを英訳するとBRAIN=頭脳の意であるという事も付け加えておきたい。
 チェルヴェッロ結成から程無くして、様々な地元のロック・フェスティバルに参加しその特異にして独特な音楽性でめきめきと頭角を表してきた彼等にイタリア国内のレコード会社から声が掛かるのはさもありなん、オザンナのDaniloの弟のバンドという触れ込みの甲斐あって、契約にそう時間を要しなかったのは幸運といえよう。
 オザンナを擁していたワーナー傘下のフォニット・チェトラではなく、大手リコルディと契約を交わしたのは、決して兄Daniloへの対抗心だとか反発ではなく、あくまで兄のネームバリューには頼りたくない…兄貴は兄貴で俺は俺というスタンスで活路を見い出したCorradoなりの兄へのリスペクトだったのかもしれない。

 リコルディとの契約を交わして間もなく彼等は即座にスタジオ入りし、デヴューアルバムに向けてのミーティングを積み重ねレコーディングに向けてリハーサルに臨んだ次第だが、収録されている全曲の作詞にE.Parazzini、作曲にG.Marazzaの両名からの提供の下、あの複雑怪奇にして摩訶不思議な混沌たる音の迷宮の構築に彼等は全身全霊を懸けて応えつつ、自らの持て得る力を一心に注ぎ込んだのは言うには及ぶまい。
 作詞と作曲共に聞き慣れない様なほぼ無名に近いクレジットではあるが、バンドのメンバーの変名なのか、SIAE(イタリア音楽著作権協会)絡みで著作権の登録上云々を含め敢えて名のある著名な書き手の名を拝借したか…まあ、真偽の程は定かではないにせよ、彼等のコンポーズ能力も然り演奏技量と並々ならぬテクニックと構成力が群を抜いて秀でていた事だけは確実と言えるだろう。
 驚異的な事にプログレッシヴ必須にして要ともいえるキーボード群が一切使用されておらず、ギターから管楽器、ヴァイヴを含めたパーカッション群に至るまで様々なサウンドギミック、イコライジングやリバーブ等を効かせたサウンドエフェクトを多用し、メロトロン始めキーボードレスというハンデをものともせず重厚且つ荘厳にして神秘的な音宇宙の創造に成功している点でも特異にして出色といえるだろう。
 彼等の方法論と技術は後年スイスのサーカスが継承し、カオス色は皆無ながらも鮮烈にして疾走感満載なデヴュー作と2nd『Movin' On』の2枚の最高傑作を輩出したのは周知の事であろう。
 無論Corradoを含めた彼等とて若いながらも相応の実力と腕前を持っていたが故、ハモンドやメロトロン始めアープ、モーグといったシンセ系なんぞはいともたやすく導入すれば、更なる重厚壮麗なイタリアン・ヘヴィプログレが成し得たものの、あくまでギター、リズムセクション、管楽器、パーカッションというスタイルにこだわり鍵盤系を入れなかった背景には、同年にリリースされた兄Daniloを擁するオザンナの『Palepoli』(二番煎じとまではいかないが)の類似だけは避けたかったと思うのは勘繰り過ぎだろうか(苦笑)。
 こうして彼等はスタジオ入りして試行錯誤と手探り状態の工程を経て、1973年デヴューにして唯一作となった『Melos』をリリースする事となる
          
 不気味な重低音のイコライジングを効かせたサックスに妖しげな儀式を思わせるフルートが高らかに被さり、厳粛にして禁忌な雰囲気を醸し出したオープニング1曲目からチェルヴェッロの迷宮世界が幕を開ける。
 不協和音めいたギターにシャーマニックな呪詛というかまじない師の呪文をも想起させる語りと唱和、妖気を帯びたコーラス、語り部の如く淡々と言葉を紡ぐヴォーカル、地中海リズムを踏襲した軽快なサウンドへの転調と同時にアヴァンギャルドで喚き散らす様な狂気の歌唱が、聴き手を終わりの無い混沌と狂宴へと誘う。
 なるほど…「野羊(山羊)の歌」というタイトル通り、古来西洋の呪術やまじないの象徴でもあった山羊をモチーフにしただけの事は頷ける。
           
 別の見方をすれば、ギリシャ神話に登場する半獣半人の森の神サテュロス(自然の豊穣の化身、欲情の塊)、或いは牧羊神パーン(不吉と混乱の象徴)を山羊に見立てたと考えても差異は無かろう。
 オープニングの流れを受けて唐突な出だしながらも緊迫感を伴った2曲目は、アコースティック、ジャズィー、ロックといった様々な音楽要素が均衡とアンバランスの応酬を交わしながらも、あたかもカオス渦巻く漆黒の闇にも似た無間回廊へいつの間にか聴き手を引きずり込むかの様ですらある。
 牧歌的で朗々たるリコーダーとフルートの合奏に導かれる3曲目にあっては、音楽を司る女神エウテルペを礼賛しその妖艶な美貌すらも讃える、何とも筆舌し難い煽情的でエロティックなギターワークとブラスセクションとの対比が絶妙の域すら垣間見える、前半部の締め括り(原盤LPではA面サイドのラストを飾っている意味合いも含めて)に相応しい好ナンバーと言えよう。
 スペイシーでサイケデリックな趣を湛えたイントロダクションが印象的な4曲目にあっては、朧気な白昼夢の中を彷徨いつつも後期クリムゾンを思わせるアグレッシヴで激情な曲想への転調から一気に人間の内面世界の暗部を凝視するかの如く繰り広げられる様は、何とも苦渋と苦悩に満ちて形容し難い。
 メロトロン的な効果を存分に発揮しているサックスの好演が実に素晴らしいのも特筆すべきだ。
 ヴァイヴとアコギによるメランコリックな佇まいとイタリアン・リリシズム全開な歌心とフルートが脳裏に染み入る5曲目も、後半部にかけて徐々に怒涛の如く迫ってくる重厚で荘厳な音の壁に圧倒される事必至で、まさしく本作品のハイライトを飾るナンバーにして圧巻の一語に尽きるとはこの事であろう。
 5曲目と双を成すであろうハイテンションでボルテージ全開な6曲目、荒涼たる古の地を這いずる様にギターの重奏と寂寥感を伴ったフルート、虚無な雰囲気を孕んだメロトロン系サックスが木霊し、悲愴感漂うヴォイスが高らかに切々と謳われているさ中、調和をかき消すかの如く不協和音めいたフルートで一気に邪悪な闇のエナジーが解き放たれた暴走するヘヴィ・プログレッシヴの醍醐味とカタストロフィーを存分に堪能するといい…。
 破綻と錯乱の末に訪れる平穏な世界観(或いは終末観なのか)を告げるラストの小曲は決して大団円とは言い難いが、仄暗い漆黒の闇に一筋の光明が射す様な…それはあたかも大地の精霊達の狂騒と宴の余韻すらも想起させ、チェルヴェッロが創造するカオスワールドはこうして静かに幕を下ろすのであった。

 イタリアン・ロック絶頂期という追い風を受けデヴューアルバムの売り上げはまずまずながらも、イタリア国内のロックフェスでも精力的に活動を行った甲斐あって話題と評判を呼び、チェルヴェッロの前途と将来はほぼ約束されたかの様に思えたが、彼等は翌1974年突如活動停止するや否やたった一枚きりのデヴュー作を遺しバンドそのものを解体する事となり、それはまさしく周囲のみならず先輩格のオザンナでさえも驚かせた…。
 理由並びその真偽は定かではないが、自らが作り上げたデヴュー作に対し揺るぎない自負とプライドこそあったものの予想してた以上の極みと完成度の高みに、いつしかプレッシャーにも似たジレンマと葛藤を覚え、聴衆の期待に応えられる様な次なる作品が果たして出来るのだろうかという疑問を抱いた末、平穏な解決を模索した上でバンドの解体を決意しメンバー同士袂を分かち合ったのではなかろうか…あくまで推測の域でしかないので些か心苦しいが(苦笑)。
 ことCorrado Rustici自身、チェルヴェッロ解体を巡って兄のDaniloと多少のすったもんだこそあったものの、同1974年にリリースされたオザンナの4作目『Landscape Of Life』にゲスト参加し、翌1975年のオザンナ分裂劇の末にウーノそして更なる発展形バンドとなったノヴァへと移行した兄DaniloとサックスのElio D'Anna、そしてニュー・トロルスのRenato Rossetと行動を共にし、1978年4作目のラストアルバム=解散までバンドのフロントマン(ヴォーカリスト兼ギタリスト)として務め上げ(兄Daniloは1stリリース後にノヴァを脱退)、以降はワールドワイドに活動の域を広げ、John G.Perryとの交流を皮切りにNarada Michael Walden、Herbie Hancockといったジャズ/クロスオーヴァー系の作品に参加し、チェルヴェッロ再結成に至るまでの間は世界を股にかけて八面六臂の活躍を見せる一方音楽プロデューサーとしても手腕を発揮し、更なる後進の育成にも尽力している。
 そしてもう一方でヴォーカリストのGianluigi Di Francoはソロ活動へと移行後、チェルヴェッロ時代とは真逆なポップス系シンガーへと転向し、80年代に入るとイタリアの名パーカッショニストToni Espositoと数々のコラボーレーションと作品リリースを展開し、その後は惜しくも2005年に鬼籍の人となるまでミュージック・セラピストの第一人者として足跡を遺している。
 チェルヴェッロの他のメンバーも音楽関連の仕事に携わっていたらしく、Corradoとも近況報告を兼ねて頻繁に連絡を取り合って親交を深めていたそうな。

 そして時代は21世紀へと移り変わり、70年代を飾ったイタリアの名グループ達がこぞってリヴァイバルよろしくとばかりに再結成を果たし、兄Daniloがオザンナを再開させた事に呼応するかの如く待ってましたとばかりにCorradoもかつてのメンバーGiulio D'Ambrosio、そしてAntonio Spagnoloに声をかけ、新たなヴォーカリストにVirginio Simonelli、現オザンナのキーボードも兼ねるSasà Priore、そしてドラマーDavide Devitoを迎えた新たな6人編成の布陣でチェルヴェッロ復活を果たし、2017年7月マーキー/ワールド・ディスクの招聘で川崎クラヴチッタで鮮烈にして劇的な初来日公演を果たし、その健在ぶりに加えイタリアン・ロックの伝説と王道を聴衆にまざまざと見せ付けてくれた事は未だ記憶に新しい。
           
 同年末の12月には彼等からの素敵なクリスマス・プレゼントとばかりにその来日公演を収録したライヴCDがリリースされ、将来的には40数年振りの新作リリースが期待されており、遠回りしたかの如く…長く遅すぎた位に待たされた2ndが私達の手元に届けられる日が来るのもそう遠くはあるまい。

 ジョン・マクラフリンから多大なる影響を受け、勤勉なアーティストでもあるCorrado Rusticiはいみじくもこう語っている…。
 「今後の目標はより優れた人間になることだ」
            1985年刊 マーキー誌 Vol.017より抜粋(原文ママ)。

夢幻の楽師達 -Chapter 49-

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 空前の社会現象ともなった最高視聴率の大ヒットドラマ『半沢直樹』(第1シーズン)を先日久々に拝見している内に、ふと頭の中(脳裏)を過ぎったこと…それは70年代初期に於ける音楽会社+レコード会社とプログレッシヴ系アーティストとの関わり合いやら軋轢、衝突、希望と挫折…等、諸々の時代背景を見据えた上で、考えあぐねた結果…今こそ思いの丈を存分に吐き出すべきではなかろうかと、今週お届けする「夢幻の楽師達」は、ふと真っ先に思い浮かべたのがブリティッシュ・ロック史上に於ける名実共にまぎれも無い正真正銘の名作に相応しく、紆余曲折と幾多の挫折を味わいつつも現在もなお燦然と神々しい輝きを放ち続ける、職人芸の域にも近い匠の中の匠“グレイシャス”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


GRACIOUS
(U.K. 1970~1971)
  
  Alan Cowderoy:G
  Paul Davis:Vo, G, Per
  Martin Kitcat:Key, Mellotron
  Tim Wheatley:B
  Robert Lipson:Ds

 今を遡る事30年以上も前、時代は80年代半ばの真っ只中。現在の様な当たり前の様に世界的なネットやらオンラインが無かった頃…そう、あの当時のプログレッシヴ・ユーロ・ロック関連のディーラーとの音信のやり取りは専らファックスかエアメールだけが頼みの綱だったアナログな時代での事(苦笑)。
 自分自身も20代前半の若いガキみたいな時分お堅い身分の本職の傍ら、プログレッシヴ関連に携わる業界に於いて、右も左も解らないまだまだポッと出の駆け出し…所謂プログレ・ライターの卵というか雛っ子みたいな存在で、何の予備知識も持たず若さと情熱だけを頼りにプログレッシヴ・ロックという大海原に挑んでいった、若気の至りとでも言うのか恥ずかしくも初々しいそんな懐かしい時代でもあった。

 あの当時の西新宿界隈やら目白…等のプログレッシヴ関連の中古廃盤専門店といったら、若い頃の自分にとっては宝の山みたいな敷居の高い存在であって、壁に掛かった一枚数ン万円の高額プレミアムのオリジナル・アナログ原盤を溜め息まじりに見ているしか術が無かったのが関の山であった。
 イタリアン・ロックは天井知らずな高値の花といった感が強かったのを今でも記憶している。その次にジャーマン系、フレンチ系といった順当で、肝心要なブリティッシュにあってはまさしく通好みな玄人愛好家がこぞって購入していくといった具合であった。
 アフィニティーを始め、ビッグ・スリープ、T2、クリア・ブルー・スカイ、マースピラミ、ニドロログ、コーマス、トントン・マクート、ウェブ、ドクターZ、ケストレル、イングランドといったブリティッシュ・プログレッシヴの名立たる逸品が犇めき合う中で、70年代初期のインディアン・サマー、スプリング、サーカス『One』、クレシダ『Asylum』と共に本編の主人公グレイシャスの『Gracious!(“”というタイトルを推す説もあるが)』もブリティッシュ高額5大名盤の内の一つとして掲げられると言っても過言ではあるまい。

 遡る事…60年代半ばから後期にかけてロンドン南西部のエイシャーという地区にて、スクールバンドのSATAN'S DISCIPLESで活動していたAlan Cowderoy、同じく学友だったPaul Davisを中心に、Martin Kitcat(下世話な話だがお菓子みたいな名前だ…)、Tim Wheatley、そしてRobert Lipsonを加えた5人編成でグレイシャスは産声を上げる。  
 1968年、グループ結成から程無くしてハーモニーバッキング・ヴォーカル兼パーカッションのKeith Irelandを迎えた6人編成でドイツ公演をサーキットし、前後してデヴュー間も無い頃のキング・クリムゾンと共演するなど、ニューロック~アートロック勃発期の多種多彩なアーティスト達と交流を深めつつ、SATAN'S DISCIPLES時代から続いていたヒットソングのカヴァーレパートリーを一切断ち切り、クリムゾンに触発されてメロトロンの導入を決めた彼等はドラマティックでアーティスティックな曲想を身に付けた音楽性へと転身。
 その後一身上の都合によりKeith Irelandが抜けて(但しグレイシャスのデヴュー作には協力者としてクレジットされている)再び5人編成へと戻った彼等はポリドールの担当プロデューサーに見出され、1969年にシングル「Beautiful/What A Lovely Again」でデヴューを飾るも、シングルたった一枚のみの契約で不満だったのか、或いは周りの環境を変えて更なる心機一転を図りたかったのか…真相は定かではないものの、翌1970年に当時新興のレーベルとして注目を集めていたヴァーティゴと契約を交わし、同レーベルのベガーズ・オペラやクレシダと共にブリティッシュ・プログレッシヴ・ムーヴメント黎明期の真っ只中へと身を投じ一時代を築いていく事となる。
          
 1970年にリリースされた待望のデヴュー作『Gracious !』は、ありきたりなロックンロールやら極端なまでなサイケデリアに染まる事無く、彼等の初々しくも理想ともいうべき音楽世界が遺憾無く発揮された渾身の一作とも言えるだろう。
 彼等の音楽性は70年代当時に顕著だったハモンド・オルガン一辺倒で押しまくるタイプとは正反対な、ハープシコード等の多彩なキーボード系+メロトロンを多用したイギリス本来の伝統美とクラシカルな旋律に裏打ちされた、煌びやかで華やかなカラフルさを纏いつつもヘヴィでサイケな部分はちゃんとしっかり活かされている、まさしく正真正銘の大英帝国クラシカル・プログレッシヴの雛形であると言っても過言では無い。
 冒頭1曲目で聴けるクリムゾンの「21世紀の精神異常者」を意識したかの様なメロディーラインに加え、ベートーヴェンの「月光」や果てはビートルズの「ヘイ・ジュード」のフレーズまでもが飛び出してくる大盤振る舞いにも似た一種御愛嬌に微笑ましさを感じつつ、肝心要のジャケットも見開き仕様で白地のエンボス紙のド真ん中に感嘆符“”のみが大きく印字された、その意表を突いたシンプルさはまさしく人を喰ったかの如く痛快極まりない事この上無い…。
 表面上のシンプルさに相反するかの様に、見開きジャケット内側は何ともエロティックなサイケで毒々しさ全開といった猥雑な構図に思わず目を奪われる事だろう。
         
 が、ヴァーティゴの期待を一身に受けて鳴り物入りで飾ったデヴュー作は、その素晴らしい音楽性と内容に相反するかの様な…悪い意味で余りに貧相なジャケットデザインが災いしたのか、イギリスのレコード市場でもさっぱりと話題にも上らずセールス的にも不振を極めるという手痛い船出となってしまったのは言うまでもあるまい。
 同時期にリリースされた2枚目のシングル「Once On A Windy Day/Fugue In D Miner」(A面はアルバム未収録曲、B面はアルバム収録曲のショートヴァージョン)及びアメリカセールス向けのプロモーションシングル(キャピトル側がアルバム収録曲“Heaven”をシングル向けにPart1と2に分けて編集したもの)ですらも売り上げが伸びず、結果的には惨敗という憂き目に遭ってしまう。
      
 しかし、デヴュー作のセールス不振という不運の洗礼を受けつつも、彼等は臆する事無くその失敗を糧にし翌1971年ロンドンのオリンピック・スタジオにて、タイトル未定ながらも次回作の為のレコーディングに取り掛かる。
 既に御存知の方々も多いと思うが、前デヴュー作の延長線上ながらもより以上に成長著しい跡を窺わせる…彼等の全曲中1、2位を争う素晴らしい組曲形式の大曲“Super Nova”がレコーディングされている。
 大曲の“Super Nova”を含め他の収録曲も甲乙付け難い素晴らしい内容で占められており、彼等自身も納得のいく会心の出来栄えにして、前デヴュー作の失地回復とも言うべき自信作としてリリース出来るものと信じていた。
 だが、運命とは皮肉なもので彼等グレイシャスの思惑とは裏腹にヴァーティゴ・サイドはデヴュー作でのセールス不振を理由に(信用失墜行為と言わんばかりに)、首を縦に振る事無くセカンドリリースを頑として認めずこれを拒絶。
 バンド側にしてみれば“今度こそ!!”と並々ならぬ意気込みでアルバム製作に臨んでいただけに、その一瞬にしてどん底に突き落とされた様な喪失感、失意と絶望、落胆ぶりは想像するにも酷過ぎると言えよう…。
 レーベル側が突き出した解雇+最期通告にも等しいペナルティー(にしては余りにも酷である)は、余りにもムゴい仕打ちであり、バンド側も理不尽な契約不履行でヴァーティゴを訴えなかった事が逆に不思議に思う位である。
 結果的にヴァーティゴに裏切られた形でセカンドのマスターテープがお蔵入りという憂き目に加えて、ライヴ活動の激減やら周囲への疑心暗鬼が重なって、バンド側はすっかり意気消沈し音楽活動にも消極的になり周りを取り巻く全てに嫌気が差し自暴自棄に近い状況へと陥ってしまう。
 櫛の歯が抜け落ちるかの如く、ドラマーのRobert Lipson、そしてバンドの要ともいうべきMartin Kitcatが脱退し、最期のあがきという訳ではないが…その後ヴォーカリストのPaul Davisがドラムやキーボードを兼ねたり、新たなドラマーを迎えてバンドの建て直しを図るものの、結局その熱意と涙ぐましい努力の奮闘空しく、同1971年の夏に惜しくもグレイシャスは解散してしまう。

 翌1972年、幸か不幸か、それとも喜ぶべきなのか皮肉と取るべきなのか…バンドが消滅し不在であるにもかかわらず、フィリップス・レーベルが手がける廉価盤インターナショナル・シリーズで、先に触れたお蔵入りのセカンドが突如急遽リリースされる運びとなり、タイトルも皮肉めいたもので『This Is…GRACIOUS !!』というから、廉価盤扱いという愚かしさも然る事ながら、怒りを通り越して涙すらも出てこない位に、余りにも屈辱的で侮辱めいた陳腐なジャケットに辟易してしまう。
    
 !マークをベースとしたステンドグラスを模した意匠は皆さん御存知、言わずと知れたロジャー・ディーンではあるものの、余りにも前作をも上回る貧相なデザインアートに“…らしくない!”と御立腹される向きも多いことだろう。
 おそらくロジャー自身ですらも納得のいかない、やっつけ仕事にしては余りに不甲斐無いと思っている事だろう。
 付け加えてしまえば、同じくロジャーがデザインを手がけた、あのパトゥーの『Hold Your Fire』と並ぶ“ロジャー・ディーンらしくない…あり得ない駄作なジャケット・デザインシリーズ”の一枚として間違いなくカウントされることであろう(苦笑)。
 2006年にデジタルリマスター化された紙ジャケット仕様CDを改めてよく見ると、シングルジャケット仕様の裏側が痛々しくも廉価盤のカタログみたいな装丁で頭が痛くなる事この上無い(理解に苦しむ…)。
 ただ誤解無きように言えば、皮肉めいたアルバムタイトルにジャケットもお世辞にも褒められた代物では無いにせよ、やはり前述に触れた通り作品の出来栄えは素晴らしいし、手放しで褒められる事実だけは紛れも無い。
 余談ながらも…アメリカのルネッサンスレーベルからリリースされたプラケース仕様の2nd復刻CDには、(廉価盤扱いだが)オリジナルアナログLP盤では収録時間の都合で大曲“Super Nova”から1パート分カットされ急遽B面に収録された“What's Come To Be”が、“Super Nova”の中で完全
版として収録されており、日本盤でリリースされた紙ジャケットCDと聴き較べてみるのも良いだろう。
 ちなみに小ネタみたいな話で恐縮だが…ルネッサンスレーベルからリリースされた2ndCDにはシングルのみリリースされた“Once On A Windy Day”が“What's Come To Be”の穴埋め分として“C.B.S.”の次に収録されている。
 小ネタ繋がりとして、イギリスのニワトリマークでお馴染みRepertoireから2004年にリリースされたオリジナルに忠実な紙ジャケット仕様の1stのリマスターCDにも、ボーナストラックとしてシングル曲の“Beautiful”、“What A Lovely Again”と共に“Once On A Windy Day”が収録されている。

 余談が長くなってしまって恐縮だが、その後のバンドメンバーの動向にあっては、現時点で分かっている範囲内ではあるが…ベースのTim WheatleyはTAGGETTなるバンドを結成し、Paul DavisはSandy Davisに改名しソロアーティストに転向したとのこと。その他のメンバーも大手レコード会社のプロデューサーや裏方に回り現在も音楽業界に身を置いているそうな…。
 驚くべき事に1996年にグレイシャスはTim WheatleyとRobert Lipson、そしてAlan Cowderoyによって一時期再結成を果たし25年振りの新作『Echo』をリリースするも、70年代のあの往年のサウンドとは全くかけ離れた別ジャンルのサウンドに変わってしまったのが惜しまれる…。

 この本ブログで「夢幻の楽師達」を綴る度に思う事は…70年代に大手の有名レコード会社に所属していたプログレッシヴ系のアーティストにとって、当時のレコード会社やら音楽誌関係のマスコミとは神にも悪魔にもなり得る存在だったという事だろうか。

 要は早い話…実力だとか優れて秀でた音楽性云々よりも、悲しいかな所謂成績・結果重視だという事なのであろう。

 結果を残さなければ、トカゲの尻尾切りと言わんばかりに契約解除と会社追放が待っている訳なのだから、アーティストの側=創り手の側にとっては、ややもすれば針の筵の様な状態なのである。
 あたかも冒頭でも触れた『半沢直樹』の音楽業界版をも見る思いになってしまうから困ったものである(苦笑)。
 あの当時グレイシャスを始め多くの短命バンドが辛酸と苦汁を舐めさせられ、満足な結果を残せずに夢敗れてしまった次第だが、決して敗者に成り下がったという訳では無い事だけはどうか付け加えさせて頂きたい!
 プログレッシヴ・ロック史に残る偉業を成し遂げ、時代と世紀を超えた名作を遺し現在でもなお世界中の多くのプログレッシヴ・ファンに愛され続け聴き継がれている事を思えば、これはこれで大いなる倍返し…否!100倍返しでもあり1000倍返しではなかろうか!
 私自身願わくばそう信じたいものである…。

一生逸品 INDIAN SUMMER

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 今週お送りする「一生逸品」は、70年代初頭のブリティッシュ・ロックシーンを語る上で、決して忘れてはならない珠玉の名作・名演・名盤の称号を誇るであろう、かのスプリングと共にネオン・レーベルという一枚看板を背負った真打ち的存在“インディアン・サマー”に、改めて焦点を当ててみたいと思います。

INDIAN SUMMER/Indian Summer(1971)
  1.God Is The Dog
  2.Emotions Of Man
  3.Glimpse
  4.Half Changed Again
  5.Black Sunshine
  6.From The Film Of The Same Name
  7.Secrets Reflected
  8.Another Tree Will Crow
  
  Bob Jackson:Organ,Mellotron,Lead‐Vo
  Colin Williams:G,Vo
  Paul Hooper:Ds,Per,Vo
  Malcolm Harker:B,Vibes,Vo

 インディアン・サマーのバイオグラフィー等に関しては、私自身拙い英訳と解釈で申し訳ないが…判る範囲内で判明したところで、1969年イギリスの地方都市ミッドランドの地元大学生でもあった4人の若者Bob Jackson、Colin Williams、Paul Hooper、そしてMalcolm Harkerの4人で結成され、一介のローカル・バンドとして地道に活動を継続しつつも、後にブラック・サバスやベーカールーのマネージャーを務めるJim Simpsonに見出されデヴューの足掛かりを掴む事となった次第である。
 以後、誰一人メンバーチェンジする事無く解散までこの4人の不動のラインナップを維持していく事となる訳であるが、話は戻って…彼等4人はバンド・デヴューの足掛かりを掴むと同時期に、先にヴァーティゴからデヴューを飾っていたブラック・サバスと共に前座というポジションながらも国内ツアーを行い、徐々に演奏力に磨きをかけ評判と知名度を得ていく事となる。
 そして翌年ヴァーティゴ・レコードの元マネージャーだったOlave Wiperの推薦で、当時RCA傘下の新興レーベルNEON(ネオン)と契約し、ロンドンの伝統的スタジオ“トライデント”にてデヴュー作を録音。
 明けて1971年唯一の作品ともなったデヴュー作『Indian Summer』そしてアルバム未収録のシングル“Walking On Water”(パープルの名曲のパクリみたいなタイトルだが…)をリリースする。
 結成から2年目にして漸く記念すべき新たな第一歩を歩み始めたものの、思惑とは裏腹にデヴュー作は当時そこそこの評判と売り上げで足踏み状態が続き余り話題にも上らなかったのが正しい見解と思われるが、後々ブリティッシュ・ロック史に残る名作と称えられるだけの技量と実力を持ち合わせていただけに何とも皮肉なものである…。
 数々のブリティッシュ・ロックの名作を手掛けた御大キーフがデザインの、暗闇に包まれたアメリカ西部とおぼしき荒野にサボテンとコヨーテという、何とも一風変わった…お世辞にも美麗なジャケットとは程遠いイマージュながらも、過去数々の音楽誌でも評された通り全曲とも徹頭徹尾…サウンドの要にしてメインでもあるハモンドオルガンが大々的にフィーチャリングされており(時折、要所々々で決めてくれるメロトロンの響きも好感触)、ブリティッシュ・ロックの王道と伝統が息づいた深みと響きが心ゆくまで堪能出来る、まさにオルガンロック好きなリスナーの為にあるような秀逸作と言っても申し分あるまい。
 時にヘヴィに、時にブルーズィー且つジャズィーな趣を湛えながらも、どこか異国情緒とメランコリックさがそこはかとなく散りばめられてて、同時期のレア・バードとかアフィニティー、アード・バークといった、ひと口にオルガンがメインのブリティッシュ・ロックと同系統で括るには有り余る位の素養の広さがあるが故、何度耳にしても飽きが来ないのも作品としての身上と言えよう。
 爆発的に盛り上がる事もなければ誰かが目立ったソロを演る事も極力皆無にして、バランスと調和の取れた部分でも成功しているというのも頷ける。
 ヴォーカルとコーラス部分においては、個人的にはツェッペリンやユーライア・ヒープといった大御所の唱法がオーヴァーラップしていると言ったら言い過ぎであろうか(苦笑)。
          
 しかし…これだけの素晴らしい聴き処があるにも拘らず、バンド自体は僅か数回のギグを経て(時にはギャラがゼロなんて事も !?)、結局自然消滅に近い形で表舞台から姿を消すという憂き目に遭うのだから、神の悪戯というか運命の女神なんて実に冷酷で皮肉な事をお与えになさるものである。
 ちなみにマニアの方々には既に御馴染みではあるが、彼等唯一の作品は当時の日本ビクターから発売された日本盤も存在しており、邦題は『黒い太陽』となっており、旧LP原盤のB面1曲目“Black Sunshine”から取られたものと思われるが、カヴァー・ワークのイメージと合致しているのが何とも
はや…。

 最後に…バンド解体後の各メンバーの動向を追ってみると、まずギタリストのColin Williamsは現在完全に音楽業界から退き、機械工学関係のエンジニアに携わっているとの事。
 サウンドの要でもあったBob Jacksonは、同じくドラマーのPaul Hooperと共に生まれ故郷のミッドランドに拠点を移し、音楽関係の仕事やらスタジオの運営、音楽学校にて後進への指導に携わっている。
 余談ではあるが、1976年にBobとPaulの両名は当時ユーライア・ヒープを抜けたデヴィッド・バイロンのソロアルバム『On The Rocks』にも参加しており、Bobに至っては1978年にTHE DODGERSなるバンドにも参加し『Love On The Rebound』を残している。
 ちなみに最後のベーシストMalcolm Harkerは残念ながらその後の消息が全く分からず終いである。
 彼等が唯一遺した作品は、決して思い出が詰まった青春の一頁だなんて安っぽい言い方では言い尽くせない位の、良くも悪くも様々な思惑やら衝突、苦い思い出だってあったに違いない。
 それでもなお本作品が名作の称号を得て愛聴され続ける所以は何よりも“時代”と“思い”が強いからではなかろうか。
           
 LPの原盤は未だに高額プレミアムが付いたままで、ブリティッシュ・ロックの名作を多数リイシューしているドイツのRepertoire Recordsから1993年にCD化されつつも、現在は絶版状態で入手困難であるのが何とも惜しまれる。
 現在ではすっかり陰を潜めた感の古のブリティッシュ・ロックの息遣いなるものに憧憬を抱き愛して止まない方々なら、きっとこの熱い思い入れはお解り頂ける事であろう。
 まあ…当然の事ながら人それぞれ好みの差異はあるかもしれないが。

夢幻の楽師達 -Chapter 50-

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 7月最後にお送りする「夢幻の楽師達」。

今回は大英帝国の古来伝統的な旋律と木霊する抒情性、憂いと陰りを牧歌的且つ高らかに謳い上げる吟遊詩人達の響宴を象徴するかの如く、70年代ブリティッシュ・フォークロックの一時代にその名を遺し、シーンの一端を担った伝説的存在と言っても過言では無い“トゥリーズ”に、改めて栄光と軌跡の光明を当ててみたいと思います。

TREES
(U.K. 1970~1971)
  
  Celia Humphris:Vocal
  David Costa:Acoustic & 12-strings Guitars
  Barry Clarke:Lead & Acoustic Guitars
  Bias Boshell:Bass, Acoustic Guitar, Vocal
  Unwin Brown::Drums

 かのピンク・フロイドの一連の作品でジャケットアートを手掛けたヒプノシスが描く…あたかも『不思議の国のアリス』或いは『マザーグーズ』の一節を思わせる様な、さながら英国貴族の庭園で水(ミルク?)を撒き散らす少女という意匠に、どれだけ多くのプログレッシヴとユーロロックのファンや愛好家達が魅了され深みに嵌まった事だろうか(苦笑)。
               
 かく言う私自身もその内の一人であるが、そもそも地元の某大手書店にて高校一年生になってまだ間もない頃、このアリス風少女が表紙に起用された北村昌士編集長の『フールズ・メイト』との出会いが、更なるプログレッシヴ・ロック愛(プログレッシヴ熱)を加速させるきっかけとなったのは最早言うには及ぶまい。
 高校時代を経て社会人となったと同時期にマーキームーン誌と出会い、数多くのプログレッシヴ・ロックの名作・傑作に馴れ親しみつつ着実にプログレ人生を謳歌している内に、かのフールズメイト(Vol.13)の表紙を飾った水撒きアリス風少女の意匠こそが実は、今回本篇の主人公でもありブリティッシュ・プログレッシヴフォークの草分けにして、同時期のペンタングルを始めフェアポート・コンベンション、チューダー・ロッジ、メロウ・キャンドル、果てはスパイロジャイラといった名バンドと共に一時代を築き栄華を誇ったトゥリーズ傑作の2作目にしてラストアルバム『On The Shore』が元ネタだった事を後年になって知った…今にして思えば初々しくて懐かしくもあり若かりし頃の夢への希求の一遍ともいえる思い出として、トゥリーズの作品を何度も目にする度にあの当時の時分(自分)の姿が投影され甦ってくると同時に、あのフールズメイトの表紙との出会いという時点でもう既に自らの運命が決まってしまったのかもしれない…。

 前置きが長くなったが、思い起こせばマーキー執筆時代の若い時分目白や西新宿界隈の某プログレ中古・廃盤専門店に足繁く通っては、壁に掛けられたギャラリーよろしくとばかりに鎮座した高額プレミアムな値が付いたイタリアン・ロックの名作と同様にブリティッシュ・アンダーグラウンドな名作を眺めては、垂涎の眼差しと溜息をついては苦笑いするしか術が無かったものである…。
 クレシダの2nd、グレイシャスの1st、アフィニティー、インディアン・サマー、スプリング、ツァール、T2、ビッグ・スリープ…等と並んで、フォーク系でも先に名を挙げたチューダー・ロッジにスパイロジャイラが人気を博していたものだが、それらに負けず劣らずトゥリーズもそのバンドネーミングの如くイギリスのミュージックシーンに深く逞しく根付き天高く大樹を突き上げてその名を刻み付け、彼等とて激動の70年代初頭にて大らかに青春を謳歌していった類稀なる吟遊詩人に他ならない。

 トゥリーズの幕開けは1969年ロンドン市内でフォークギタリストとして活動していたDavid Costa が友人知人の伝で出会ったギタリストの Barry Clarke との出会いから始まる。
 お互いに意気投合した彼等は楽器を取って即興で演奏を始め、それと併行して曲作りに取りかかるものの、いかんせんデュオというスタイルに限界を悟った2人は程無くしてベースとドラム、更に楽曲のイメージに相応しいであろう歌い手として女性ヴォーカリストを加えたバンドスタイルへのシフトに奔走する。
 幸運にも Barryと同じアパートメントに住んでいたベーシストでソングライターのスキルを兼ね備えていたBias Boshell が加わる事となり、ドラマーにはBias自身が少年期に通っていたハンプシャー州の非国教派学校時代からの旧友でもあったUnwin Brown に白羽の矢が当たった。
 女性ヴォーカリストにはDavidが当時勤めていた職場の同僚の妹で、当時演劇学校に在籍していた女優の卵でもあった Celia Humphrisが招聘されたものの、当時のCelia嬢は音楽活動に一切興味が無く当初はしぶしぶとバンドオーディションに参加し早めに見切りをつけてサヨナラするつもりだったそうな。
 …がバンドサイドのあまりの熱意に絆されて、(決して移り気という訳ではないが)バンドの参加を決意したというのだから、つくづく運命とはどう転ぶか分からないものである。
           
 トゥリーズ結成から程無くして、70年代という気運の波に後押しされる形で彼等は様々なフェスティバルや、アイリッシュ・フォークパブ、イギリス国内の至る大学の学園祭に出演しては精力的に演奏活動をこなしつつ、自らのオリジナリティーを確立せんが為の自問自答を繰り返す日々に追われる事となった。
 Celiaの美貌が助力となった甲斐あってかバンド自体も知名度と人気が徐々に浸透しつつあったさ中、大手でもあるイギリスCBSのフロントマンの目に留まった彼等は、正式に契約を交わすと同時にあれよあれよという間にレコーディングに入ってしまうという思いがけない展開に見舞われてしまう。
 困惑と戸惑いともつかぬ気持ちの整理が付かないままレコーディングに臨んだ彼等であったが、バンドに白羽の矢を立て各方面に於いて売り込みをかけてくれた(恩義という訳ではないが)CBSサイドの期待に報いる為にも、彼等トゥリーズはデヴューアルバムの製作に全身全霊を注ぎ込んだ。
 幾多もの試行錯誤と紆余曲折を積み重ねた難産の末、1970年4月彼等のデヴュー作でもある『The Garden Of Jane Delawney(ジェーン・ドゥロウニーの庭)』はリリースされる。
     
 Bias Boshellが学生時代に体験した話…突如降って湧いたかの様に“Jane Delawney”なる人物の単語が脳裏に浮かび上がってきた事がモチーフになっており、Bias自身学生時代にペンを取ったアルバムタイトル曲始めオリジナルのナンバーに加えてトラディッショナル・フォークのカヴァーとの半々による構成だったものの、前評判は上々で各方面各プレス紙でも多数もの賛辞が寄せられて、彼等の船出は前途洋々の様に思えたが、思っていた以上にセールスは伸びずまさしく新人アーティストである彼等にとって大きな厚い壁となったのは言うまでもなかった(ちなみに印象的なアートワークはメンバーでもあるDavid Costaの手によるもの)。
 それでも、彼等の音楽性に秘められた未知数に等しい可能性に大いなる期待感を抱いていたCBSサイドと音楽プレス紙方面はこぞってトゥリーズに惜しみない称賛を送り続けていた。

 デヴュー作リリース後、トゥリーズは以前にも増してイギリス国内のクラブサーキット、多方面でのフェス、大学祭へのツアーに奔走し精力的且つ意欲的に公演をこなしていき、僅かながらも給金を得ていた時分、CBSサイドが用意してくれた運転手付きのツアー専用車が与えられた彼等は4時間近く車中に揺られ(サスペンションが不調だったせいもあるが)、車酔いと頭痛に悩まされながらも会場入りするといった多忙と苦痛の日々を送っていた。
 余談ながらも公演を終えてからもまた欠陥車両で4時間揺られてホームタウンに戻る訳だから、ある意味荒行というか苦行とも言うべきなのか、つくづくポッと出の新人あるあるよろしく微笑ましくもキツくて痛い思い出に何だか苦笑せざるを得ない…。
 そんな国内サーキット続きの多忙の合間を縫って前デヴュー作での欠点と反省を糧に彼等は再びスタジオ入りし、自らが持ち得る力量をフルに活かし反芻しながらもバンドが本来目指していた方向性に立ち返って、結果デヴュー作を遥かに上回る向上と進歩を窺わせる会心の2作目にして代表作となる『On The Shore』を、同年の1970年暮れにリリースする次第となる。
 ブリティッシュ・トラディッショナル本来の持ち味ともいえる抒情と陰影を帯びた旋律と作風が根付いているであろう、前出にも触れたヒプノシスが手掛けた庭園に水を撒き散らすアリス風少女のアートワークが持つイメージと相まって、トゥリーズの面目躍如たる会心の一枚に仕上がったと各音楽誌でも拍手と称賛は鳴り止まなかった。
      
 が、しかしバンドサイドとスタッフ含め製作会社側の思惑とは裏腹に、渾身の力量を込めた自信作でもあった『On The Shore』も悲しいかな前デヴュー作と同様セールスが伸び悩み思った以上の成果を上げる事も叶わず、結果的にバンドサイドは意気消沈し活動意欲の低下に加えてプロとして演っていく事に限界と疑問を感じた彼等は音楽活動を止め、月日を追う毎にまるで櫛の歯が一本々々抜けていくかの様に離散への道を歩み、1972年そのあまりに短い音楽活動に幕を下ろす事となる。
 トゥリーズ解散以降の各メンバーの動向と消息にあっては、美貌の歌姫だったCelia Humphrisは演劇学校に戻り、女優への道からシフトして売れっ子大ベテランの声優兼ナレーターとして大成し、ロンドン地下鉄の案内アナウンスとしても有名になり、現在はフランス国内に居を構えている。
 David Costaはバンド解散後エルトン・ジョンのアートディレクターに就任し、現在はグラフィックアートデザイナーとして成功を収めロンドン市内でデザイナーオフィスを経営している(デヴューアルバムのジャケットアートの手腕ぶりを御覧頂けたら一目瞭然であろう)。
 Barry Clarkeは貿易商に転身し、現在もなおイギリスとフランスを行き来して宝飾類始めアンティーク関連のセールスに勤しんでいるという往復生活を送っているとの事。
 Bias Boshellはその後も音楽活動を継続し、ムーディー・ブルース始めBJH、そして幾数多ものアーティストとの仕事を経て、スコアの提供を含めたプロミュージシャンとして多忙の日々を過ごしている。
 最後のUnwin Brownにあっては、数年間もの音楽活動を経てその後はケンジントンの小学校教師として教壇に立ち、時間の合間を縫ってはアマチュアやセミプロを問わないフォーク系バンドでドラムを叩いていたとの事だが、残念な事に2008年に鬼籍の人(死因は不明)となってしまったのが何とも悔やまれてならない。
            
 こうして70年代初頭の概ね短い期間ながらも、短命バンドだったとはいえ自ずと信ずる音楽性に対し真っ正面に向かい合って、不器用ながらも真摯に自らの音楽を紡ぎ続け、知らず々々々の内に表舞台から潔く去っていった彼等トゥリーズであったが、70年代の思い出が沢山詰まったであろう…2枚もの遺された珠玉の名盤だけが、後年あたかも年輪が積み重なるかの如く年を追う度に評価が高まり、1987年待望のLP盤再発を皮切りに1993年と2008年のリマスターCDによるリイシュー化で、彼等の再評価は近年もなお衰える事無く鰻上りに上昇気流の曲線を描いているのは最早周知の事と思われる。
 それは決して物珍しさとか幻の存在といった下世話な憶測では括り切れない、純真無垢な魂で詩と楽曲を紡いだ20世紀の彷徨える吟遊詩人達であることに他ならない。
 時代や世紀を越えてもなおトゥリーズの木霊の旋律は私達の耳の奥底、脳裏の深淵に響鳴し、英国古来の妖精伝説、お伽世界の幻影を映し出しているのかもしれない…。
 結びの最後に、1970年6月6日付のメロディーメーカー誌に掲げられたトゥリーズの賛辞の対訳で締め括りたいと思う。

 『トゥリーズの重要性は、卓越した音楽性も然ることながら、インスピレーションの源を数年前のフォークおよびロック・シーンに求めている点にある。つまり、長らく待たれていたフォークとポップの調和がついに起き始めたのだ。』(原文ママ)
 

一生逸品 MELLOW CANDLE

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 7月最後の「一生逸品」を飾るは、汗ばむ真夏の熱気ですらも一服の清涼剤の如く優しく穏やかに包み込み、抒情美と癒しの旋律が高らかに木霊する、あたかも英国の森に宿る精霊達のハーモニーすら想起させるであろう、文字通りブリティッシュ・プログレッシヴフォークのレジェンドという誇り高き称号に相応しい“メロウ・キャンドル”の純粋無垢な夢が込められた、かけがえの無い一枚に再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


MELLOW CANDLE/Swaddling Songs(1972)
  1.Heaven Heath
  2.Sheep Season 
  3.Silver Song
  4.The Poet And The Witch 
  5.Messenger Birds
  6.Dan The Wing 
  7.Reverend Sisters
  8.Break Your Token  
  9.Buy Or Beware
  10.Vile Excesses 
  11.Lonely Man
  12.Boulders On My Grave 
  
  Clodagh Simonds:Vo, Key 
  Alison Williams:Vo 
  David Williams:G, Vo
  Frank Boylan:B
  William Murray:Ds

 冒頭から今更何を言わんやと思われそうで恐縮だが、ひと口に“フォーク・ミュージック”という代名詞に於いて、国や風土、文化、習慣、それこそ見方考え方といった人生観の違いで、あたかも網の目の如く複雑怪奇に枝分かれし細分化されてしまう音楽というのも稀有とは言えないだろうか…。
 同じヨーロッパ圏のフォーク・ミュージックでも国によって多種多様で、マザーグースや中世の騎士道の世界観を窺わせるイギリス、カンツォーネをベーシックとしたイタリアのカンタウトーレ、トルヴァドールさながらの大道芸的な雰囲気を醸し出したフランス、東洋的なイマージュとLSD体験、ヒッピーカルチャーにサイケが雑多に融合したドイツ、北欧の伝承民謡が根付いたスカンジナヴィア圏、カントリー&ウエスタン、ブルーグラスが根底のアメリカ、そして我が国日本に於いては70年代の昭和枯れすすきを思わせる清貧なイメージの…俗に言う四畳半フォーク(かぐや姫の「神田川」とか)、学生運動から派生した反戦フォーク、果ては岡林信康、友川かずきの謳う労働者への憐れみ、階級社会への糾弾、世の不条理への怒りがバックボーンの闘争とアジテーションへの象徴といった幾数多もの様相を呈しており、フォークミュージックひとつ取っても解釈次第ではプログレッシヴ・ロックと同等な可能性と飛躍を秘めていた、まさしく楽器と肉声で“”を語る音楽と言っても過言ではあるまい。
 前置きから長々とまるで音楽の教科書みたいな書き出しになってしまったが、先日の「夢幻の楽師達」で取り挙げたトゥリーズの流れを受けて、今週の「一生逸品」はヴァーティゴからのデヴュー作が今もなおレア扱いとなっているチューダー・ロッジ、そしてかのスパイロジャイラの最高傑作3rdと共に、79年代ブリティッシュ・プログレッシヴフォークの3大最高傑作の片翼を担う、幻の存在でありながらも決して幻で終わらせてはならない純粋無垢な魂の結晶ともいうべきメロウ・キャンドルの御登場と相成った次第である。

 1967年にアイルランドはダブリン近郊(そもそも正確には彼等はイギリスではなく隣国アイルランドの出身)の小さな町の修道院に通う、当時14歳の少女だったClodagh Simonds、そして同じ学友だったAlison O'Donnell (後のAlison Williams)、そしてMaria Whiteの女の子3人組によるスクール・ガールバンドTHE GATECRUSHERSを前身にメロウ・キャンドルの物語は幕を開ける事となる。
 ビートルズ旋風が全世界を席巻していたほぼ同時期に、スウィンギン・ロンドンを賑わせていたアメリカン・モータウンのヒットチャートの余波は、当時憧れでもあったスプリームスみたいになりたいという彼女3人を大いに刺激し、Clodaghの弾くピアノで3人が歌うという至ってシンプルなスタイルではあったが、勉学に勤しむ傍らヴォーカル・レッスン並び曲作りを積み重ね、時には学園祭やパーティーで披露し人気を博し、まさしく青春真っ盛りを謳歌していた十代だったとのこと…。
 様々なアーティストのカヴァーを取り入れつつ、既にClodagh自身が12歳の時分に書き上げメロウ・キャンドルの本デヴュー作にも収録されている“Lonely Man”をレパートリーに数多くのデモテープを製作し、当時彼女達が熱心にエアチェックしていたラジオ局の音楽番組関係者の目に止まり、人伝を経由にあれよあれよという間にレコーディングまでの話が進み、程無くして1968年バンド名をTHE GATECRUSHERSからメロウ・キャンドルへと改名し、SNBレコードからサイケデリアな時代に呼応したポップソングを収録したシングル「Feeling High/Tea With The Sun」でデヴューを飾る事となる(余談ながらも、デヴューシングル曲は後年メロウ・キャンドルのCD化に際し、ボーナストラックとして収録されている事も付け加えておきたい)。
 ラジオ局でも全面的にバックアップし頻繁にシングル曲がオンエアされたものの、決定的なヒットには繋がらず彼女達3人は初めての挫折を味わい、再び学生生活に舞い戻る事を余儀なくされる。
 修道院系女学校を卒業後、Clodaghはイタリアへ留学、Maria Whiteは大学へと進み音楽から完全に離れて卒業後はそのまま社会人として就職。
 残るAlison O'Donnellだけが卒業後も音楽活動の道を歩み、BLUE TINTOなるグループのメンバーとして参加しナイトクラブやアイリッシュ・パブ、ダンスホール等でシンガーとしての実績を積み重ね、バンドのギタリストだったDavid Williamsと婚姻を結びAlison Williamsとして姓を改める。
 1970年、留学を終えてアイルランドに帰国したClodaghの許へAlisonとDavidのWilliams夫妻が合流し、プログレッシヴ元年に呼応するかの如くトラディッショナル・フォークをベースにサウンドスタイルを一新したメロウ・キャンドルとしての再編を持ちかけてくる。
 旧知の間柄だったベーシストを迎えたドラムレスの4人編成でメロウ・キャンドルは再出発を飾り、リハーサルと曲作りを繰り返す一方(前後してサウンドの強化を図る上で、ベーシストにFrank Boylanを迎え、ドラマーとして5人目のメンバーにケヴィン・エアーズとの共演経験があるWilliam Murrayが加入)、概ね2年近くは数多くのロック&フォークフェスティバル始め、ベテラン・ミュージシャンやバンドの前座として出演し実績を経験を積み重ね、漸くバンドの認知度と功績が認められた彼等は、71年春大手老舗のデッカミュージック傘下デラムとの契約を結ぶチャンスを得る事となる。
 こうして彼等は名匠デヴィッド・ヒッチコックをプロデューサーに迎え、翌1972年4月バンドの思いの丈が込められた待望の“再”デヴュー作『Swaddling Songs(抱擁の歌)』、そして同時期にアルバム収録曲でもある「Silver Song/Dan The Wing」をシングルカットでリリースし、ブリティッシュ・プログレッシヴロック隆盛期真っ只中の時代の荒波に乗り出した次第である。
          
 一見ユーモラスでイギリスらしいウィットに富んだ、漫画チックで何とも不思議で味わい深いアートワークに包まれた渾身のデヴューアルバムは、古のブリティッシュ・トラッドが持つ伝承的旋律に裏打ちされながらも、70年代という時代の手法と現代的な解釈が違和感無く融合した好例であると共に、前出のチューダー・ロッジやスパイロジャイラと共にブリティッシュ・フォーク新時代の到来を告げる礎へと成り得た最高傑作として世に知らしめたのは紛れもあるまい。
 収録された全曲概ね3~4分台の小曲揃いながらもヴァラエティーに富んでおり、バンドの素養ともいうべき様々な側面と表情が垣間見えて、捨て曲一切無しで飽きを感じさせないのも特色と言えよう。
 オープニング1曲目からイギリス伝承民謡の色合いと旋律が全開の、まさしくメロウ・キャンドルの音楽世界への入り口さながらといったファンタジックさを醸し出しており、森の精霊の如きAlisonの歌唱に加えClodaghが奏でるハーモニウムやハープシコードが実に素晴らしい。
 全曲中唯一5分弱の長尺でもある2曲目は幽玄で朧気なイマージュを湛えたメロディーラインが印象的で、遥か彼方から木霊するAlisonのヴォイスも然る事ながら、Clodaghの歪んだハモンドに夢見心地なピアノとメロトロンが絡む様は良い意味で時代の空気感をたっぷりと含んだ出色の出来栄えを誇っている。                 
 続く3曲目も冒頭のメロトロンのイントロに“おっ!”と溜飲の下がる思いに捉われてしまい、切々と謳い奏でられるヴォイスとピアノ、そしてギターを耳にする度個人的に目頭が熱くなるのは実に困りものである(苦笑)。
 海鳥達の囀りの効果音がドラマティックな4曲目にあっては、バンドが一丸となった力強い歌と演奏が堪能出来て、小気味良い転調とリフレインが何とも魅力的ですらある。
 瑞々しくもクリスタルな光沢を思わせるピアノに彩られたリリカルで且つララバイな5曲目、快活でかなり初期のイエスに近いイメージのラヴソングの6曲目、慈愛と哀れみを帯びた悲しげなピアノの旋律が胸を打つ7曲目といい…聴き手に感嘆と憂い、筆舌し難い恋情をも抱かせる構成と展開が実に心憎い限りである。
 スクールガールバンド時代の名残を感じさせるコーラスワークが見事な8曲目と9曲目は、若き日の彼女達へのオマージュではなかろうかと思えるのは些か穿った見方であろうか。
 9曲目の中盤から10曲目の曲展開にかけては、かなりイエスやGGからの影響を思わせるのはやはり当時リアルタイムに接していたが故の彼等なりのリスペクトなのだろうか。
 Clodagh自身が12歳の時分に作曲した代表作ともいうべき11曲目は、やはりペンを取った当時の空気が色濃く反映されているのだろうか、かなりロック色の濃いストレートなナンバーで、ややもすれば異質になりがちではあるが、名うてのプレイヤー達がしっかり脇を固めている分メロウ・キャンドルらしさが少しも損なわれていない稀有な好曲と言えるだろう。                
 ラスト12曲目にあってはClodaghとAlisonが育んできた友情と信頼関係の賜物と言わんばかりピアノとコーラスワークの絶妙さが群を抜いて輝きを放っている、名実共に『Swaddling Songs』の大団円とカーテンコールを飾るに相応しいエンディングと言っても過言ではあるまい。
            
 駆け足ペースで収録曲の全体像を述べてきたが、これだけの充実した内容と自信に満ち溢れんばかりのデヴューアルバム発表と併行し、当時大人気だったリンデスファーンやスティーライ・スパンとのジョイントツアーで聴衆達からの絶大なるオーディエンスに確固たる手応えを感じた彼等ではあったが、御多聞に漏れず…素晴らしい音楽作品が必ずしも大ヒット作へと繋がらないという哀しむべき法則と立ちはだかる現実の壁にメロウ・キャンドルも敢え無く敗れてしまい、セールス的にも予想を下回りその結果デラムとの契約解消に加えてバンドは放逐という憂き目に遭ってしまう。
 その後Frank Boylanの脱退で、新たなるメンバーを加えて心機一転を図るも結果的には翌1973年メロウ・キャンドルはその短い歩みを終えて静かに幕を下ろし、浮き沈みの激しいブリティッシュ・ミュージックシーンの表舞台から遠ざかってしまう。
 以後、80年代に於いてプログレッシヴ・ロックの廃盤コレクターやバイヤー達による尽力の甲斐あって、幾数多ものブリティッシュ・ロックとユーロ・ロックの名盤・名作と同様にメロウ・キャンドル唯一作の素晴らしさが認知され、中古廃盤プログレッシヴ専門店でも高額プレミアム扱いで壁掛けレアアイテムの仲間入りを果たし、CD化されるまでまさしく高値の花として垂涎と羨望の眼差しの存在だったのは言うには及ぶまい。
 バンド解散から23年後の1996年、イギリスのマイナーレーベルKissing Spellよりデヴュー作のレコーディング以前にスタジオリハーサルの模様が収録された『The Virgin Prophet』がリリースされ、デヴュー作『Swaddling Songs』にも収録されている10曲の元々の原曲も収録されていて、まだ磨かれる前の宝石の原石の如く初々しかった頃の彼等の貴重な音源が拝めるという意味で記憶に留めておくべきだろう…。

 バンド解体後、DavidとAlisonのWilliams夫妻はDavidの生まれ故郷でもある南アフリカに移住し音楽活動を継続させるも、離婚か遠距離別居か定かではないが現在Alisonはロンドンに拠点を移し、Davidはケープタウンにて音楽プロデュース業に勤しんでいるとの事。
 Clodagh Simondsにあっては、以前から親交のあったマイク・オールドフィールドのアルバム製作に協力し『Hergest Ridge』そして『Ommadawn』にコーラス隊で参加後、1976年かつてのドラマーだったWilliam Murrayと合流しニューヨークに渡って、かのフィリップ・グラスに師事し現代音楽とアートパフォーマー関連にも数多く携わる事となるが、その後袂を分かち合いWilliam Murrayは音楽畑から完全に足を洗いファッション・フォトグラファーに転身し大々的な成功を収め、Clodagh Simondsはニューヨークからロンドンへと活動拠点を移し、ブライアン・イーノの伝を通じてオーケストレイションと作曲学を修得し、現在は創作活動と併行してアイルランド文化の普及啓発活動に勤しみつつ今日までに至っている。

 英国プログレッシヴ・フォークのレジェンドとして青春期を捧げ、一時代を駆け巡って行ったメロウ・キャンドルが表舞台から遠ざかって早40年以上経過しているが、彼等が遺してきたであろう大いなる足跡は時代と世紀を超越しスタイルと形こそ変りつつも今もなお脈々と受け継がれ、新時代のプログレッシヴ・フォーク世代が台頭しつつある昨今である。
 そんなニュージェネレーション達と共に、いつの日にかきっとメロウ・キャンドル=今や残された中枢ともいうべきClodagh Simondsの新作が、もしかしたら我々の手元に届けられるのもそう遠くはないと信じ期待したいところである。

Monthly Prog Notes -July-

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 7月最後の「Monthly Prog Notes」をお届けします…。

 コロナウイルス禍が一向に沈静収束化する兆しすら無く、加えて各地で大きな豪雨と洪水被害をもたらしている梅雨前線が終わる事無く長期にわたって広がっている昨今、身も心も疲弊し憂鬱気味で且つ閉塞感すら覚えつつある今年の夏ですが、こんな時だからこそ音楽の力を借りて心を鼓舞させ様々な思いを張り巡らせて、夢と現実の狭間に正面から向かい合う絶好の機会ではないかと思えてなりません。
 今月お送りするラインナップ…一番手のイタリアから“ロゴス”の実に6年ぶりにして文字通り渾身の2作目は、「広島(ヒロシマ)の原爆と少女の千羽鶴」という重々しくも命の尊さをテーマに崇高に謳い奏でる、まさしくイタリアン・ロックのみならずプログレッシヴ・ロック史上最大の問題作にして恒久平和を大々的に問いかけるであろう、時代と世紀を越えた鎮魂の調べに祈りを捧げつつ耳を傾けていただけたら幸いです。
 アメリカン・プログレッシヴの巨星・大御所にして現在もなお生ける伝説として君臨し続ける“カンサス”4年ぶりの通算16枚目のスタジオアルバムも、前作同様に新旧メンバー同士が持てる力を余すこと無く存分に発揮した聴き処満載で、緩急変幻自在に自らのシンフォニック・ワールドを構築し、かつての70年代黄金時代に匹敵する秀逸で最高の一枚に仕上がっています。
 久々のスペインからは期待の新星に違わぬ必聴必至の注目株“マジック・ブラザー&ミスティック・シスター”のサイケでカンタベリーなエッセンスを含んだデヴュー作がお目見えです。
 男女混成4人組で70年代サイケデリックなカラーとパッションをちりばめた妖しくも幽玄的な、あたかも魔法の時間が目と耳そして脳内で体感出来るであろう、一朝一夕では為し得ない曲者と思しきサウンドアプローチは聴けば聴くほど病み付きになることでしょう。
 3バンド三様に各々の異なった個性と音楽世界に至福と満ち足りたひと時を堪能しつつ、夏から初秋に向けた高潔で清廉なる残響と調べに、暫し現実から離れて夢想の果てに遊離して頂けたらと思います…。

1.LOGOSSadako E Le Mille Gru Di Carta
  (from ITALY)
  
 1.Origami In Sol-/2.Paesaggi Di Insonnia/
 3.Un Lieto Inquietarsi/4.Il Sarto/
 5.Zaini Di Ello/6.Sadako E Le Mille Gru Di Carta

 私を含めた同世代が子供の時分に学んだ事然り、21世紀の今もなお小学校の道徳の教科書で取り挙げられている、昭和20年8月6日広島の原爆投下で白血病となった佐々木禎子(1943~1955)さんの生涯をテーマに、反戦と恒久平和への願い…そして人命の美しさ尊さを崇高に謳い奏でたロゴス6年ぶりの新譜2ndが漸く手許に届けられた。
 在りし日の禎子さんの近影、千羽鶴の折り紙、原爆ドーム、エノラゲイ爆撃機の操縦席、そして原爆の子の像を織り込みながらも、ややもすれば重々しくも(失礼ながらも)陰鬱で深く沈みがちな曲想になりがちであるが、そこはやはりイタリアン・ロックの持つアイデンティティーとダイナミズムさが打ち出された、原爆がもたらした悲劇から一筋の希望と平和への慈しみの灯に繋がる劇的で感銘な人間賛歌のシンフォニー大作に仕上がっている。
 毛色こそ違うがラッテ・エ・ミエーレの『Passio Secundum Mattheum』『Papillon』、そしてオルメの『Felona E Sorona』にも相通ずる重厚で壮麗なサウンドワークの21世紀スタイルと言えば概ね理解出来る事と思う。
 メンバー4人の厳粛で気迫の籠もった演奏に加え、イル・テンピオ・デッレ・クレッシドレの女性キーボーダーElisa Montaldoがゲストヴォーカリスト(4曲目の流れが落涙必至で素晴らしい)にクレジットされ、サックスを含めたゲストプレイヤー数名の好演も見逃してはなるまい。
 夢や幻想譚を紡ぐばかりがプログレッシヴ・ロックではないと言わんばかり…時として現実と対峙しドキュメンタリーな視点とジャーナリズムとしての表現と手法で真っ向から取り組んだ意味に於いて意欲的な異色作であると共に、コロナ禍という不安の真っ只中で混迷する現在(いま)だからこそ永遠に語り継いでいかねばならない決意表明にも似たメッセージ性すら窺える。
 令和2年8月6日、今年もまた広島に75年目の鎮魂の夏が訪れる…。
 あと数日後に迫った広島平和記念式典というタイムリーな時期に相応しい、平和への願いと反戦への祈りを込めて心静かに本作品に耳を傾けたいと思う。
 この場をお借りして佐々木禎子さん始め広島、そして長崎の原爆で犠牲になられた尊い人命と御霊に対し、哀悼の意を表し心から御冥福をお祈り申し上げます。
     

Facebook Logos
https://www.facebook.com/logosprog/

2.KANSASThe Absence Of Presence
  (from U.S.A)
  
 1.The Absence Of Presence/2.Throwing Mountains/
 3.Jets Overhead/4.Propulsion 1/5.Memories Down The Line/
 6.Circus Of Illusion/7.Animals On The Roof/8.Never/
 9.The Song The River Sang

 名実共に時代と世紀を越えて、今なお北米プログレッシヴの巨星という王座に君臨し、正統派なるアメリカン・シンフォニックの王道を歩み続けるカンサス
 本作品は前作『The Prelude Implicit』から4年ぶり通算16作目のスタジオアルバムに当たり、実にファンタジックで幻想的な佇まいを想起させるアートワークのイメージと寸分違わぬ、彼等の全作品に於いて最高潮の仕上がりであると共に、70年代の傑作『Leftoverture』『Point Of Know Return』そして2000年の完全復活作『Somewhere To Elsewhere』と並ぶであろう、バンド自体が充実感溢れる雰囲気を持った秀逸で崇高な一枚と言っても過言ではあるまい。
 収録されている全曲共一切無駄な部分や隙の無い緻密で且つ豪胆…絵に描いた様なアメリカンな大らかさと開放感に加えてブリティッシュ&ユーロ系の持つドラマティックでリリシズム、時に熱くハードで時にクールで知的なインテリジェントさが際立っており、40年選手という大ベテランの域にして揺ぎ無い自負と身上、プライドすら窺わせる。
 Phil EhartとRichard Williamsという結成当初からのオリジナルメンバー、そして2代目ベーシストBilly Greer、2代目ヴァイオリニストDavid Ragsdaleというカンサスの一枚看板を頑なに守ってきたメンツに、カンサスを聴いて育ち愛して止まないRonny、Zak、そして今回新加入のTomという新旧の血流と各々の思いとが見事にコンバインした、まさしく7人の男達の夢がぎっしりと詰まった結晶に他ならない。
 ツインギタリストの片割れにして本作品のプロデューサーも兼ねるZak Rizviの手腕の見事さで、Steve始めKerry、Robby不在というハンデすらも克服し、改めてバンドの健在ぶりを高らかに宣言するかの様な会心作、是非とも貴方(貴女)の耳と心で確かめてほしい。
          

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3.MAGICK BROTHER & MYSTIC SISTER
  /Magick Brother & Mystic Sister
  (from SPAIN)
  
 1.Utopia/2.Waterforms/3.The First Light/
 4.Yogi Tea/5.Arroyo Del Búho/
 6.Echoes From The Clouds/7.Movement 2/
 8.Love Scene/9.Instructions From Judgement Visions/
 10.Les Vampires

 神秘な眼差しを思わせるバンドロゴの文様始め摩訶不思議なバンドネーミングといい、彼等の記念すべき本デヴューアルバムを耳にした瞬間、紛れも無くあの70年代初頭のサイケデリアな佇まいとカンタベリーな雰囲気、キャラヴァンやゴング影響下のドリーミィーな感触、果てはドイツのピルツレーベル系のアシッドフォークの持つ気だるさが色濃く妖しげに甦ってくる。
 そんな往年のブリティッシュとヨーロピアンが持っていた70年代という黄金時代の空気感を携えて21世紀のシーンに堂々降臨した、バルセロナ出身期待の新星マジック・ブラザー&ミスティック・シスター(まあバンド名からして一目瞭然であるが…)。
 ハモンドにメロトロン、シンセ、ファンダーローズを弾きつつもバーバラ・ガスキンをも彷彿とさせる歌唱の女性ヴォーカリスト、女性フルート奏者、ギター&ベース、そしてドラマーの男女4人で編成され、21世紀という時代のトレンドや流行に決して流される事の無い、頑なな信念と身上で自らが理想とする夢見心地(白昼夢)な音楽世界を紡ぎ謳い奏でる真摯な姿勢に、筆舌し尽くし難い…理屈を越えた感銘と扇情な思いが脳裏に木霊する。
 とてもポッと出の新人とは思えない位、一朝一夕では為し得ないであろう音楽経験に加えてスキルとコンポーズ能力の高さに新鮮な驚きは隠せない。
 かつてのスパニッシュ・ロックが持っていた匂いや香りが皆無なのが些か寂しい限りではあるものの、それらを補って埋め合わせるだけの“あの当時の音と気概”への再生と復興に賭けるこだわりにある種の好感を抱いているのもまた正直なところでもある。
 先月取り挙げたドイツのラバー・ティーと同様、本作品もこれは70年代未発表の発掘物ですと紹介したらプログレッシヴ・ファンの概ね9.5割方が真っ先に疑いも無く信じてしまう事だろう。
 欧州の持つ伝統と旋律の奥深さも然る事ながら、70年代懐古やヴィンテージ云々を抜きに新旧のプログレッシヴ・ファンをも魅了する魔法の様に官能的な音楽時間をとくと御堪能あれ。
          

Facrbook Magick Brother & Mystic Sister
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