幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 55-

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 昨年8月のブログサービスの移転に伴い、一念発起で再出発し足かけ一年超に亘りお送りしてきた『幻想神秘音楽館』の一斉リニューアル(+セルフリメイク)ですが、思い返せば「夢幻の楽師達」「一生逸品」の過去10年以上分の文章データを掘り返しては再度加筆と修正を施し毎週2回ペースで掲載していくという…今にして思えばやや無謀にも近い試みではありましたが、いざ蓋を開けてみたらあっという間に漸くここまで来れたものであると感慨深くなることしきりです。

 皆様のお蔭を持ちまして今秋の正式な新規再開まで凡その目途が立ち、週2回ペースで連載してきた『幻想神秘音楽館』もあと僅か6週分を残すところとなりました。
 正直なところ…再編集リニューアルしなければならない文章データがまだ少し残ってはいるものの、自分自身あまりにマニアックな範疇を再掲するのは如何なものだろうかと自制を促し、毎週掲載分を切りの良いところ60回目で終わらせて、11月から新たに61回目というカウントリセットで本来の月イチ掲載ペースに戻す意向です。
 どうか新規再開までの間、週2掲載ペースの『幻想神秘音楽館』にもう暫くお付き合い頂きたく宜しくお願い申し上げます。
 ラストスパートを切った9月の掲載は、今春4~5月に亘ってお送りした「夢幻の楽師達」と「一生逸品」の国別シャッフル形式を再び採用し、更に今月の「一生逸品」にあってはイタリアン・ロックの唯一作をメインに焦点を当てていくのでどうかお見逃し無く。

 さて今月最初の「夢幻の楽師達」を飾るのは、久々の南米アルゼンチンから情熱と抒情の狭間で開花した一輪の花の如く儚くも可憐な旋律を奏でる美意識の申し子と言っても過言では無い、まさしく南米プログレッシヴきっての幻想の夢織人“ミア”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

MIA
(ARGENTINA 1976~1979)
  
  Liliana Vitale:Vo, Ds, Per, Flute
  Lito Vitale:Key, Ds, Vo
  Nono Belvis:B, G, Vo
  Daniel Curte:G
  Juan Del Barrio:Key, Ds, Vibe

 ミアの本編を綴る前に、誠に恐縮であるが暫し蛇足みたいな思い出話にお付き合い頂きたく御容赦願いたい。
 今でこそ中南米のプログレッシヴ・ロックの捉え方は欧米諸国、日本のシーンと同等極当たり前の如く取り扱われているが、80年代初頭我が国に“中南米にもプログレッシヴ・ロックがある”というアナウンスメントが報じられた時は、それはあたかも異国のプログレに対し、悪く言ってしまえば(無論、当時の私達も認識不足があったという反省点も踏まえて)まるで海のものとも山のものともつかない余所者がやってきた…そんな怪訝な眼差しを向け懐疑的な思いになったものである。
 朧気な記憶ながらも高校3年の時に愛読していたフールズメイト(お恥かしい話、当時新潟にマーキームーンは入って来なかったし存在すらも知らなかった)に掲載されていた…たしかディスクユニオンの新着輸入盤の広告だったと思うが、“ヨーロッパの美しき旋律、いよいよ南米へと波及”といった謳い文句で、この時はメキシコのチャック・ムールやカハ・デ・パンドラといった4~5アーティストの作品が紹介されていたと思う。
 ブリティッシュ5大バンド始めPFM、バンコ、オザンナ…等といったユーロ・ロックを国内盤で容易に入手出来て、私自身まだまだほんの一介のひよっ子みたいなプログレ&ユーロファンでしかなかったあの時分、いきなり告知で中南米プログレなんぞ紹介されてもピンと来る筈も無く、自身の若くて青かった脳内も、中南米=サンバやルンバといった明るく陽気で脳天気なラテンのリズムしか連想するしかなく、欧州の美学と旋律と中南米のイマジネーションを結び付ける事なんぞ当然ミスマッチ=無謀な化学反応であると高を括っていたものだった。
 まあ、今にして思えばかなり酷い話かもしれないが(苦笑)。
 社会人になってからの1984年、マーキームーンがアンダーグラウンド宣言を打ち出し、完全にプログレッシヴ・ロックとユーロ・ロックの専門誌として確立させた思い出深くも忘れられないその年に、山崎氏のレヴューで「今、ブラジルのシーンが熱い!」という触れ込みで紹介されたバカマルテ、クォンタム…等を契機に、以降あれよあれよという間に中南米のプログレが次々と紹介され、欧米諸国と同様に相応の高額プレミアムで入荷されて瞬く間に新たな高値の花として注目を浴びるまでに至った次第である。
 こと南米のヨーロッパことアルゼンチンのシーンにあっては、少数精鋭といった感が強く完成度の高いクオリティーと音楽性を有するという事で、余程のマニアでない限り入手は極めて困難だったと思える。
 そんな俄かに降って沸いた中南米プログレが日本のプログレ市場を席巻するさ中、84年の夏に休暇を利用して上京し豊島区南長崎のマーキーの事務所(某アパートの一室で細々と運営していた)に初めて訪れた時のこと、山崎・賀川の両氏から歓迎されいろいろ雑談している中、ふと部屋の隅に目を向けると数枚ものLPが無造作に鎮座されてて、山崎氏の口からそれはアルゼンチンのプログレの試聴盤であるとのこと。
 あの時はたしかアラスの1st始めエスピリトゥの1stと2nd、そして今回のメインでもあるミアの1st~3rdまでの3種類の作品が次回の通販の為に準備されていた事を今でも覚えている(それでも当時は8000~10000円位の値段が付けられていた)。
 その中でもミアは比較的覚えやすいネーミングだった事から、新潟に戻ってきた時でもちゃんとしっかり記憶に留めていたものである。
 後述するが何よりもそのミアの一連の作品から感じられる自主製作然とした装丁と意匠に、ホームメイドな手作り感というかハートウォーミングな温かみを覚えたのは紛れも無い事実であった。

 ミアは御存知の通り、音楽一家に生まれ幼少の頃から英才教育の手ほどきを受けたLiliana VitaleとLito Vitaleの姉弟を中心に、家族とその縁者、早い話が向こう三軒両隣よろしくと言わんばかりの御近所付き合いの延長線上とおぼしき名うてのメンバーを集めて70年代中期に編成されたバンドと思われる。
 この当時アルゼンチン国内の大手Microfon始め、外資系大手のEMIやRCAといったレコード会社に頼る事無く、自らのセルフレーベルCICLO 3を立ち上げ彼等は1976年『Transparencias』で記念すべきデヴューを飾り、以降も同レーベルから自らの音楽スタイルや世界観を損なう事無く年一回のコンスタンスなペースで作品をリリースしていく事になる。
     
 セルフレーベルを設立しライヴ活動等に於いても自ら運営していく一方で、他のバンドやアーティスト等との交流にも積極的で、スイ・ヘネリス始めラ・マキナといったベテラン系を渡り歩いて来たCharly Garcia、大御所Raul Porchetto、クルーシスのGustavo Montesano…etc、etcとの横の繋がりを築き連携しながら、当時70年代後期のアルゼンティーナ・プログレッシヴを盛り上げていったのは周知の事と思う。
 が…何よりもそういったアルゼンチンのロックシーンを陰ながら支えたのは誰であろう、LilianaとLitoの実母にして生き証人ともいえるEstherの尽力あってこそと、改めてここで付け加えておかねばなるまい。その母Estherに関しては後ほど改めて触れることにせよ、彼女の存在なくしてあの当時のアルゼンチンのシーンは成り立たなかったと言っても過言ではあるまい。
   
 白地に無機質な抽象画或いは現代アートを思わせる意匠にセピアカラーで彩られた1st『Transparencias』は、一見難解なイメージを抱かせる印象とは裏腹に、女性的な美感覚と心象風景、儚くも可憐な一輪の花の生命を思わせるリリシズムとイマージュを想起させる極上の音世界が繰り広げられている。
 アルバム全体がオールインストゥルメンタルで占められており、本作品に於いてはやはり特長的とも言えるLitoのコンポーズ能力とスキルの高さを物語るキーボードワークの素晴らしさに尽きるであろう。
 クラシックとジャズの素養が各曲の端々で存分に活かされており、時折フォークタッチな素朴で牧歌的な趣が堪能出来るのも実に魅力的である。
 セピアカラーと相まって作品から連想するのは、やはり枯葉舞い散る晩秋の詩吟に似た物悲しさといったところだろうか…。

 翌1977年にヴォーカル系に重きを置いた2nd『Mágicos Juegos Del Tiempo』をリリースするが、前デヴュー作がLitoの織り成すキーボードハーモニーがメインだったので、おそらく本作品は姉Lilianaの発案で製作されたものと思われる。彼女の詩情豊かな歌唱力に物憂げな感情が発露された、シンガーソングライターとしてのLilianaの力量が思う存分に発揮された好作品であると共に、Litoの壮麗で瑞々しいキーボードワークも前作と同様に堪能出来る素晴らしい内容に仕上がっている。
     

 余談ながらも…マーキー/ベル・アンティークからリリースされた紙ジャケットSHM‐CDを入手された方は既に御存知かと思うが、2ndの本作品は世間一般では黒地にマンドリン(リュート)を奏でる楽師が描かれたジャケットがお馴染みであろう。
 私自身もアナログLPはセカンドプレスのものしか所有しておらず、よもやオリジナルの初回プレスが黒地に風車の描かれたジャケット表面にマンドリン楽師の描かれた歌詞のブックレットを嵌め込む、まさしく変形ジャケットさながらのギミックであったとは思いもよらなかったと苦笑せざるを得ない。
 まあ、ここではスペースの都合上楽師の描かれたタイプのジャケットを掲載しておくが…。
 ちなみに2ndのメンバーは、前作からキーボードのJuanが抜け、ギタリストのDanielがコントラバスとサウンドエフェクト関連の裏方に回り、新たなギタリストとしてAlberto Munozが参加している。 

 世界的規模でプログレッシヴ・ムーヴメントの停滞・衰退が叫ばれつつあった1978年…多くの有名プログレッシヴ・アーティストが時代に呼応する様な形で新機軸を打ち出したり、路線変更を余儀なくされ、より以上に一般大衆に向けてアピールする形で短い時間の楽曲でポップ化になったりと時流の波は着実にプログレを変えつつあった。
 そんなさ中にあってもミアは臆する事もたじろぐ事も無く、自分たちの音楽スタイルに自負とプライドを持ち続け頑なな姿勢を貫き通して、スタジオ収録アルバムの最終作にしてバンドの最高傑作『Cornonstipicum』をリリースする。
   
 それはまさにアルゼンチンの最終砦にミアありきと言わんばかりな会心の自信作ともいえる充実さを物語っており、同国のブブやラ・ビブリアと並んでアルゼンティーナ・プログレッシヴの頂点を極めたと言っても過言ではあるまい。
 蛇男が描かれた幾分薄気味悪く、お世辞にもとても美しいとは言い難い醜悪なジャケットワークに相反するかの如く、1stと2ndで培われた音楽的経験値に加え、両作品互いの良質な部分と構築的な手法とが見事に昇華・結実し目指すべき極みの到達点に達した、文字通りアルゼンチン・プログレ史に燦然と輝く最高傑作となった。
 彼等自身にとっても今までの集大成的な趣が込められた、まさしくバンドとしての最後を飾るに相応しいミア・ファミリー総出(JuanとDanielの復帰に加え、多彩なゲストプレイヤーを迎えた)の意味を踏まえた形としてもメモリアルな一枚とでも言えるだろう。
 アルバムのラストを飾る17分強の3rdタイトルでもある大曲にあっては、静と動、柔軟と硬質…緩急目まぐるしく展開し聴く者を終極へと誘っているかの如く導いていく様は、夢の終わりを告げる寂寥感にも似た何とも形容し難く感慨深い思いに捉われる事だろう。
         
 78年の3rdリリース以後、彼等はイエス、EL&Pにリスペクトしたかの様に3枚組ライヴ・アルバム『Conciertos』をリリース(但しそれ以前に2ndと3rdとの間にカセット・オンリーのライヴ『En Vivo』をリリース)しているが、誠に申し訳無い事で恐縮だが、私自身残念な事にそのカセットライヴ作と3枚組ライヴの現物を未だに確認出来ていないのが何ともはやである(苦笑)。
 カセットライヴ『En Vivo』然り3枚組ライヴも未だCD化されていないので、願わくば完全コンプリートという形で改めてCD化されることを切に願わんばかりである…。
 3枚組ライヴという形で締め括り、ある意味ミアというバンド活動に幕を下ろした彼等は各々が進むべき道へと歩み、ソロ活動、セッション並びバックバンド、舞台・映像音楽といった活躍の場へと移行していく。
 Lilianaはシンガーソングライターに転身しプログレッシヴのフィールドからは完全に遠ざかって現在までに多数もの作品を発表し現在までに至っている。
 Litoの方はもう既に御存知の通り、1981年にミアの作風とカラーを継承した多数ものキーボード群を含めギター、ベース…etc、etcのマルチプレイを発揮したシンフォニック系ソロ作品『Sobre Miedos,Creencias Y Supersticiones』をリリースする。
   
 ミアの一連の作品と共に本ソロ作品も紹介され大いに話題と評判を呼んだものの、彼自身それ以降は自国のアイデンティティーに基づいた創作活動へと転向し、ジャズ傾倒寄りのカルテットを率いて音楽活動にいそしむ一方、バレエや創作舞踏の音楽を多数手掛け今日までアルゼンチン国内の第一
線の音楽家としてその名を馳せている。
 ミア関連といえば…2008年に突如としてアルゼンチン盤でリリースされた2枚組アーカイヴ音源CD『Archivos MIA (1974-1985) 』が記憶に新しい。
 未CD化のライヴ音源からの抜粋始め、スタジオ録音されながらも諸般の事情でお蔵入りになった未発表曲、エンハンスド仕様で収録されたミアの貴重なビデオ画像…等が大盤振る舞いに収められたデジブックスタイルの素敵な贈り物に世界中のファンは狂喜乱舞したのは言うには及ばないだろう。

 Litoに話を戻すが…彼自身も1998年には待望の初来日公演をも実現させ、そこにも長年苦楽を共にした実母のEstherが彼を温かく見守っていたのは言うまでもあるまい。
 Litoの名誉の為にも敢えて断っておくが、決してマザコンとかステージママ云々といった下世話で低次元な視点で捉えてほしくないという事を声を大にして言っておきたい。
 実母のEstherさん(御存命であれば現在80代後半に手が届くであろう?)の尽力無くして今日に至るまでのアルゼンティーナ・プログレッシヴの道程と系譜は無かっただろうし、英語の苦手なLitoに代わってネットやメールを駆使して息子の国内外公演の交渉始め、アルゼンチン国内のプログレ系アーティストとの交流、諸外国プログレバンドとの連絡のやり取りを経て、21世紀の現在まで道を繋げてきた御苦労と恩恵を決して忘れてはならない(余談ながらも…かのパブロ・エル・エンテラドールの2ndのニュースも彼女の口から公表されたものである)。
          
 21世紀の今…欧米や日本と同様、南米のメインストリームともいえるアルゼンチンのプログレッシヴ・ムーヴメントも、ひと頃から比べたらブラジルやチリと同様に百花繚乱の様相を呈している昨今と言わざるを得ない。
 NEXUS、RETSAM SURIV、URANIAN…etc、etcが犇めき合うさ中、現在もなお次世代を担う新鋭と期待の逸材達が新たな歴史を刻む為に日々切磋琢磨しているという喜ばしき状況である。
 前世紀のミア始め70年代のアルゼンティーナ・プログレッシヴ世代が開拓し種を撒いたその創造の大地に、彼等の軌跡と栄光を追うかの如く、現在進行形という形でまた更に新たな大輪の花が芽吹きつつあるのかもしれない。

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一生逸品 RICORDI D'INFANZIA

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 9月最初の「一生逸品」、今月の一ヶ月間は70年代イタリアン・ロック一枚もの傑作選と題し一挙集中でお送りしたい意向です。

 栄えある第一弾の今回紹介するのは、まさしく知る人ぞ知る存在にして近年イタリア盤でボーナストラックを追加した完全補填版の紙ジャケット・リマスターCDでリイシューされ、今なお好評を博しているイタリアン・ヘヴィ・プログレッシヴの雄でもあり隠れた名作として名高い“リコルディ・ディファンツィア”に、改めて軌跡のスポットライトを当ててみたいと思います。

RICORDI D'INFANZIA/Io Uomo(1973)
  1.Caos
  2.Creazione
  3.L'Eden
  4.2000 Anni Prima
  5.Preghiera
  6.Morire O Non Morire
  7.2000 Anni Dopo
  8.Uomo Mangia Uomo
  
  Emilio Mondelli:Vo
  Franco Cassina:G, Vo
  Maurizio Vergani:Key, Vo
  Tino Fontanella:B
  Antonio Sartori:Ds, Per

 “幻の存在”或いは“隠された至宝”やら“人知れず眠っていた名作”という謳い文句が(良くも悪くも)やたらと目に付く70年代のイタリアン・ロックシーン。
 イタリア国内の音楽業界に於いて老舗レーベルのリコルディと並ぶ、大手ワーナーの傘下にしてニュー・トロルス、オザンナ、デリリウムといった実力派を多く世に送りだしたフォニット・チェトラから、かのイ・カリフィの2ndと共に、まさしく知る人ぞ知る幻級の隠れた存在として知られたリコルディ・ディファンツィア。
 90年代のCD化再発全盛期に至るまで、正直その存在は余り世に知られていなかったのが凡その見解とも言えよう。
 キングのユーロロック・コレクションにも決して取り挙げられる事も無く、唯一フォニット・チェトラから資料として送付された契約アーティスト名が羅列されたカタログに、そのバンドネームと簡単な紹介文程度が確認される程度の扱いで、余程筋金入りのイタリアン愛好家やマニアでない限りその陽の目を見る事は無かったであろう、誠に失礼ながらも悲運な存在そのものであったと言っても過言ではない。
 マーキー誌やその後のイタリア国内のプログレッシヴ専門誌の尽力の甲斐あって、90年代以降から漸くファンからの注目を浴びる事となり、イタリアワーナー始めヴァイニール・マジック、果ては我が国のストレンジ・デイズからプラケース仕様ないし紙ジャケットで数回もの再発CD化され、徐々にその内容の素晴らしさが評価され21世紀の今日にまで至っている次第であるが、その肝心要の彼等のバイオグラフィーに及ぶと…悲しいかな私自身の拙くも頼り無い語学力を以ってしても、その詳細は皆目見当が付かないのが率直なところである(苦笑)。
 それでも何とか拙い語学力を駆使してルーツを遡ってみると、60年代末期に於けるイタリア国内でのビート系サウンド全盛期の頃に結成され、1970年前後にフォニット・チェトラ編纂のコンピレーション企画物アルバム『Nuovi Complessi D'Avanguardia Da Radio Montecarlo』に1曲提供し、その後も地道な演奏活動をこなし着実にキャリアを積み重ねつつ、イ・プーやオルメの前座・サポートを経て、1972年を境にディープ・パープルやユーライア・ヒープといったブリティッシュ・ハードロックに触発されたヘヴィでハードなプログレ路線へと転換を図り、翌73年イタリアン・ロック全盛期の真っ只中フォニット・チェトラから唯一作である『Io Uomo』をリリースする。
 余談ながらもバンドネーミングの意は英語訳で“Memories Of Childhood”、直訳すると「幼年期の思い出」となるのだろうか…。
      
 オープニングの如何にも時代を感じさせる眩惑的でサイケデリックな雰囲気漂うギターに加え、エフェクトを利かせつつも徐々にイタリアらしいクラシカルなオルガンと呟きにも似たヴォイスに導かれ、『Io Uomo=“私は人間”』は幕を開ける。
 イタリアン・ロックでありながらもコテコテの土臭いイタリアンに固執していない、強いて言うならばブリティッシュ・ロックのエッセンスとイタリアらしいアイデンティティーとが渾然一体となった唯一無比のオリジナリティーが確立された彼等ならではの作風に仕上がっていると言ったら異論は無いだろう。
 イギリスのヴァーティゴ系オルガンロックをイタリアン風に転化させたらこうなったと言うにはやや早計かもしれないが、それ以上に彼等の持つ魅力として…何度も言及している様にイタリア独特のクラシカルな趣と歌心がバックボーンにある事を忘れてはなるまい。全曲どれを取ってもクオリティーは高いが特に4曲目のピアノワークは流石イタリアならではの抒情性と哀愁を感じてならない。
 カテゴリー的には彼等もまたイタリアン・ヘヴィプログレの範疇に入るのかもしれないが、ムゼオやビリエットの様な極端なまでに邪悪なイメージのカラーとは異なり、同傾向としては(あくまで個人的な見解で恐縮であるが…)RDMの1st、2nd、イルバレの1st、トリップの1st、2nd辺りと並ぶ好作品ではなかろうか。
   
 唯一のデヴュー作がリリースされた同年、アルバム未収録のシングルとして『Mani Fredde/Latte E Rhum』という好作をリリースしているが、特に前者の“Mani Fredde”にあっては作風こそ違えどもあのイルバレの“Meditazione”と並ぶクラシカルな小曲でバックに女性コーラス隊を配し大々的にメロトロンをフィーチャーした隠れた名曲と言えるだろう。
 惜しむらくはこの素晴らしいシングルナンバー2曲だけが、YouTubeに未だにUpされていないのが何とも悔やまれる…。
 過去にリリースされたリイシューCDにあっても、この2つのシングル曲がボーナストラックにも収録されておらず、イタリアン・ファンにとってはやきもきしたじれったい様なもどかしさを覚えていたものだが、極最近ヴァイニール・マジックから見開き紙ジャケット仕様のデジタルリマスター再発CDで漸くこのシングル用の2曲がボーナストラックで追加された完全版としてリリースされたので、ファンにとってはやれやれというか何とも嬉しい限りでもある。

 話は戻って…『Io Uomo』をリリース後、理由こそ定かでは無いがバンド自体は以降の活動を一切停止し暫く沈黙を守るものの、3年後の1976年にキーボードがUgo Biondiに交代し、サックス奏者としてGianni Bariを迎え若干のメンバーチェンジを経て活動を再開するも、結局これといった作品のリリースや主だった活動をする事も無く、人知れず自然消滅してしまったものと思われる…。
 悲しいかなバンドのメンバー達も以後の消息にあっては一切不明であり誠に残念な限りである。
 兎にも角にも、70年代イタリアのシーンはリコルディ・ディファンツィアのみに限らず、カンポ・ディ・マルテ、ブロッコ・メンターレ、アポテオジ、オディッセア…etc、etc、たった一枚のみ作品をリリースして表舞台から姿を消し以後の消息を絶ったバンドがごまんと存在しているのは最早言うには及ぶまい(作品がリリース出来たバンドはまだ幸運な部類であって、マスターテープが完成していながら70年代当時作品リリースにまで漕ぎ着けず、後年漸く陽の目を見たブオン・ベッキオ・チャーリーやエネイド、スペットリといった存在も忘れてはならないだろう)。
 何年か前にマーキー誌のエッセーで、イタリアに出張したプログレマニアの日本企業の商社マンが、現地で仲良くなった御年配の同僚から“70年代のPFMとかバンコなんて兎に角本当に素晴らしかったもんさ!でも、俺だって若い時分あの手のプログレバンドで長い間ベースを弾いていたんだぜ”と聞かされたエピソードが綴られており、そういった背景を考慮すれば、あの70年代という熱い時代…有名無名及び作品リリース出来た出来ないを問わずロックに青春時代を捧げていた世代が、一線を退いてサラリーマンの道へ歩もうとも決して当時を後悔する事無く、むしろ輝かしい思い出として懐かしむ姿に私自身ある種の感銘を受けた覚えがある。
          
 70年代…良くも悪くもたった一枚のみ遺った作品が名作級という称号・賞賛を得ながらも、一体何がこうも明暗を分けたのであろうか?
 近年に於いて川崎クラブチッタで開催されたイタリアン・ロックフェス等で、イ・プー始めオルメ、ニュー・トロルス、ロカンダ・デッレ・ファーテといった大御所が大挙来日公演を果たしている片やその一方で、音楽業界から身を引きイタリア本国で第二の人生を謳歌している側の者達の目には近年のイタリアン・ロックフェスがどう映り、そして心中どう思われているのだろうか…。

夢幻の楽師達 -Chapter 56-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、70年代フレンチ・ジャズロックシーンに於いて自らの信念に基づいて唯一無比の音楽世界を構築し、一時代を駆け巡って行った稀代の才能集団として誉れ高い、21世紀の今もなお根強い支持と人気を得ている“トランジット・エクスプレス”に今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


TRANSIT EXPRESS
(FRANCE 1975~1977)
  
  Dominique Bouvier:Ds, Per
  Jean-Claude Guselli:B
  Christian Leroux:G, Syn
  Serge Perathoner:Key
  David Rose:Violin

 70年代フランスのプログレッシヴ・ロックは極端な話で恐縮であるが、サイケデリックでトリップミュージックな多国籍チームのゴング、そしてエレクトリックでヘヴィなアヴァンギャルドの先鋭エルドンを例外として、アンジュを筆頭としたロックテアトル(=シンフォニック系)とマグマを筆頭としたフレンチジャズロックという、両2つの流れにシーンの均衡が保たれていた様に思えてならない。
 ことジャズロックにあっては、先にも触れたマグマ、そして追随するかの如くザオやエディション・スペシャル、コルテックス、今回本篇の主人公でもあるトランジット・エクスプレス、マグマから派生したヴィドルジュ、単発バンドながらも独特の個性を遺したハニーエルクにデュン、ネオ…etc、etcを輩出し、時代の推移に伴いフレンチジャズロックは作風及びスタイルやらカラーを含めてヘヴィからライトな感覚へと様変わりしつつも、21世紀の今もなおフレンチジャズロックの系譜は時代に呼応した形で生き続けていると言っても差し支えあるまい。

 古今東西、サウンドのジャンル云々問わずソロ・アーティストのバックバンドから転身して自らの音楽性で勝負し世に羽ばたいたバンドは幾数多も存在するもので、顕著なところでイタリアはルーチョ・バッティスティのバックを務めたPFM然り、ポーランドはニーメンのバックバンドだったSBB(当時のバンド名の意はシレジアン・ブルース・バンド)、そして今回のトランジット・エクスプレスもフレンチ・シンガーソングライターの大御所イヴ・シモンのバックバンドからその経歴をスタートさせた次第であるが、元々はかのシモンが設立したトランジット・プロダクションに所属していた個々のスタジオ・ミュージシャンの集合体でもあり、シモンの鶴のひと声でトランジット・エクスプレスに命名されたのは有名な話である。
 ちなみにトランジット・エクスプレスは作家としての顔も持っていたシモンの同名小説のタイトルから取ったもので、あたかもシモンのワンマンぶりが垣間見えるものの、裏を返せば今風で言うファミリー企業みたいなものだったのかもしれないが…。
 とは言え、バンドのメンバーだったSerge Perathoner(Key)始め、Christian Leroux(G)、Jean-Claude Guselli(B)、Domonique Bouvier(Ds)の4名とも、演奏技量から実力に至るまで各個とも申し分無い位に名うてのプレイヤーでもあり、シモンが見込んだだけの折り紙付きであったのは言うには及ぶまい。
 トランジット・エクスプレスとして数年間にも及ぶシモンとの共同作業と演奏活動で、オーディエンス含む各方面からの好評価(高評価)な手応えを感じていたバンドサイドの面々に対し、シモン自身“そろそろ…(4人だけで)演ってみるか”と言ったかどうか定かでは無いが、またもや鶴のひと声の如く英断を下し、彼等は程無くしてシモンと同じくRCAより1975年『Priglacit』で鳴り物入りのデヴューを飾る事となる。
    
 オープニングの銅鑼の厳かな一打で幕を開ける本デヴュー作、当時の流れでいうマハヴィシュヌ・オーケストラ始めリターン・トゥ・フォーエヴァーを意識した作風が成されており、同国のマグマの様な重苦しさを帯びた旋律とは無縁な、過去のフレンチジャズロックが内包していた概念云々が微塵にも感じられない、あくまで一線を画したワールドワイドな視野をも見据えたであろう…ヘヴィながらも流麗でキャッチーさが垣間見える比較的耳障りの良い聴き易くて、ヨーロピアンなインテリジェントさとオリエンタルなエキゾティックさがせめぎ合うといった感すら抱かせる好作品に仕上がっており、全曲トータル30分にも満たないといったマイナス面こそあるものの、変化に富んだ粒揃いの小曲で固めたが故に作品全体の濃密さが逆に際立って徹頭徹尾隙の無い音空間の構築に成功していると言っても異論はあるまい。
 各方面での高評価に加えセールス面でも予想を上回る好結果を得たデヴューアルバムに手応えと確信を得た彼等は、これを絶好の機にとばかり気運の上昇の波に乗るかの様に矢継ぎ早のペースで次回作への構想に着手する事となる。
 翌1976年にリリースされた、まさしく前作以上に更なるプログレッシヴ色を強めたタイトル通りの2nd『Opus Progressif』は、良い意味で前デヴュー作の延長線上という作風でありながらも、それにあり余る位に加味されたサウンド面での更なる強化と厚みを与えた効果が功を奏し、格段なるステップアップが窺い知れる傑作へと押し上げる成果となって、もはやかつてのイヴ・シモンのバックバンドというイメージと面影からは完全に脱却した、完全なるトランジット・エクスプレスという一個体の音楽として成立し、ある種エポックメイキングな趣と意味合いすらも想起出来よう。
    
 何よりもサウンドの強化を図る上で終盤2パートに分かれた「Opus Progressif」に於いて、アメリカ人ジャズヴァイオリニストのDavid Roseをゲストに迎えた事によって、この邂逅が彼等にとって更なる進展と大いなる飛躍となるのはもはや時間の問題では無かった。
 こうして当初はDavid自身ゲスト参加としてのクレジットであったが、2作目リリースと時同じくして5人目の新たなるメンバーとして迎えられ、その事がトランジット・エクスプレスにとっても更なる新機軸の原動力となった次第である。
 ちなみに余談ながらも…彼等の2ndアルバムの意匠について、リリース当時フランス本国のジャケットデザインとアメリカ並び日本でリリースされたデザインが異なるのは概ね御存知かと思われるが、オリジナルフランス盤のデザインは夕陽の荒野にポツンと佇む一軒家をバックにDavid Rose抜きの(あくまでゲスト扱いだったが故に)4人のメンバーの顔がプリントされているといった極々単純明快な意匠だったが、まあ…あくまで主観の違いというかパッと見あまりにも芸の無いというのも失礼な話ではあるが、インパクトに欠ける嫌いもありアメリカサイドにしてもジャケットにDavid抜きというのもあんまりじゃないかといった事を配慮してか黒地の地味ながらも夕陽のハイウェイを描いたジャケットに変更し、当時日本のRCAサイドも右に倣えとばかりにアメリカデザイン版を採用してしまったというのも何だかなぁと思えてならない(苦笑)。
 後年マーキー/ベル・アンティークからリイシューされた紙ジャケットSHM‐CDはオリジナルフランスデザイン版を採用しているが、鶏が先か卵が先かではないが…海外のプログレッシヴ・ロック専門の有名検索サイトPROGARCHIVESでもアメリカデザイン仕様が一般的に流通・認知されているといった具合で、まあ当方の幻想神秘音楽館も右に倣えとばかりにアメリカデザイン流通版を敢えて採用に至った次第である…。
 無論御意見、御指摘、お叱りや批判、イチャモンは甘んじて受ける所存ではあるが、出来ればここは大目に御容赦願いたいところである。

 話が些か脱線気味になってしまったが、デヴュー作『Priglacit』をホップ、2nd『Opus Progressif』をステップとするならば、1977年にリリースされた3rdにして名実共に彼等の最高傑作でもありバンドとしてはラストアルバムとなってしまった『Couleurs Naturelles』こそジャンプアップに相応しい、それこそ前年リリースされたザオの『Kawana』と並ぶフレンチ・ジャズロック、否!ユーロロック史上に燦然と輝く名作名盤となったのは言うに及ぶまい。
     
 ここでは紛れも無くフレンチ・ジャズロックやらクロスオーヴァーといった概念をも遥かに超越した、シンフォニック色あり、現代音楽、民族音楽、コンテンポラリー、時代を先取りしていたかの様なニューエイジ風、エレクトリック風味なファンキーさまでもが加味・内包された、さながらマハヴィシュヌも然る事ながら、ブランドX、アルティ・エ・メスティエリ、果てはウエザーリポート並みに肉迫する位の音の圧というか緩急自在なメロディーライン、リリシズム、ダイナミズム、メンバー各々の個性と演奏技量が光る、バンドが渾然一体となった究極たる音楽の結晶そのものと言っても過言ではあるまい。

 …が、最高傑作の3rdをリリースしたにも拘らず、これからの更なる飛躍が期待されながらも、そんな周囲からの期待を余所に、彼等はあたかも何かしらを悟ったかの如くトランジット・エクスプレスとして演れるべき事を演りきって出せるべきものを全て出し尽くしたといわんばかりに、突如バンドの解体を決意する事となった次第であるが、皮肉とでもいうのか運命の悪戯とでもいうのか折しも彼等の所属していたトランジット・プロダクション自体も経営難の悪化に拍車をかけた閉鎖直前という風前の灯に差し掛かっていたというのだから何ともはやである…。(まるでワンマン経営やらファミリー企業の悪循環みたいなものである)
 トランジット・プロダクションの終了・倒産以後、メンバー各々が個々の活動を見い出してそれぞれの道程を歩み出す事となるのだが、唯一ヴァイオリニストのDavid Roseのみがバンド解散と前後して1977年GRATTE-CIELレーベルよりソロアルバム『Distance Between Dreams』をリリースし、トランジットの3rd『Couleurs Naturelles』と並ぶ傑作として高い評価を得る事となるが、Davidのバックをかつてのトランジットのバンドメイトが脇を固め、更にはザオのメンバーを含む数名のゲストプレイヤーを迎えた、実質上はトランジット・エクスプレスの4作目に相当するものと思って差し支えはあるまい。
 2年後の1979年にはDavid Rose自身がリーダーとなってトランジット時代の盟友だったSerge Perathonerを始め多彩な顔ぶれのメンツを集めたROSEなるポップテイストなジャズロックバンドを結成しRCAより唯一作を発表し、以降はBLUE ROSEと改名し徐々にポップサイドにシフトした形で活動を継続させていくが、プログレッシヴ関連には不向きな作風となってしまったのが何とも悔やまれる。
 余談ながらSerge Perathonerはマグマの名ベーシストだったJannick Topとコンビを組んで数枚のアルバムをリリースし、Serge自身も年輪を積み重ねて現在もなおフレンチミュージック界の重鎮として現役の第一線で多方面に亘って活躍中である。

 21世紀昨今のフランス国内のプログレッシヴ・ムーヴメントは概ね大半が、かつてのアンジュやピュルサー、アトール、タイ・フォンといった70年代組の大御所達が牽引し、それに連なるかの如く若手のメロディック・シンフォ系ネオ・プログレッシヴが台頭しているといった様相で、一方で肝心要のジャズロックにあっては唯一マグマのみが孤軍奮闘し気を吐き続けているといった何とも些か寂しい限りである。
 もう、かつてのザオやトランジット・エクスプレスの様な血湧き肉踊るかの様な、エネルギッシュでアグレッシヴな伝統のフレンチ・ジャズロックスピリッツを持った期待の新鋭に出逢える事は叶わないのだろうか…。
 ザオと同じ軌跡よ今再びとばかりにトランジット・エクスプレス復活という夢物語にも似た思いを願ったところで、結局は不可能でもあり徒労に終わるのがオチといえるだろう。 
 まあ、それが喩え将来的に徒労で終わったとしても、これからの新時代に相応しい…まさしく次世代を担う伝統のフレンチ・ジャズロックの未来を担う有望なる新星の登場だけは信じて止まないのが正直なところである。

一生逸品 PANNA FREDDA

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 今週の「一生逸品」…70年代イタリアン・ロック一枚もの傑作選栄えある第二弾は、原点回帰という意味合いに於いて70年代初頭のイタリアン・ロック黎明期の一時代を飾ったであろう、まさしく知る人ぞ知る唯一無比にして孤高なる軌跡を遺した“パンナ・フレッダ”に今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います…。


PANNA FREDDA/Uno(1971)
  1.La Paura
  2.Un Re Senza Reame
  3.Un Uomo
  4.Scacco Al Re Lot
  5.Il Vento, La Luna E Pulcini Blu
  6.Waiting
  
  Angelo Giardinelli:G, Vo
  Giorgio Brandi:Key, G
  Filippo Carnevale:Ds, G
  Carlo Bruno:B

 1969年の『クリムゾン・キングの宮殿』、そしてプログレッシヴ元年ともいうべき翌1970年の『原子心母』によって、文字通り70年代初期から中盤にかけてワールドワイドに席巻したプログレッシヴ・ムーヴメントの大きな渦は、言わずもがな今やユーロピアン・ロックのメインストリームとして確固たる地位を築き上げたと言っても過言では無いイタリアにも波及し、70年代初頭…所謂イタリアン・ロック黎明期に於いて多くの新たな才能の芽吹きをも予感させる多種多才(多彩)な逸材を輩出していった事は言うに及ばずであろう。
 今回の主人公でもあるパンナ・フレッダとて御多聞に漏れず、些か有名な洋菓子めいた珍妙なネーミング(ちなみにバンドネーミングの意は“コールドクリーム”とのこと)にも拘らず、僅かたった2年弱の活動期間ながらも理想のサウンドスタイルを追い求め自らの信念に基づいて、イタリアン・ロック黎明期の一時代を駆け巡っていった…それは決して伝説だとか幻のバンド云々では片付けられない秀逸にして稀有な存在と言っても過言ではあるまい。
 パンナ・フレッダが唯一作『Uno』でデヴューを飾った1971年こそ、翌72年以降からの第一次イタリアン・ロック隆盛期への橋渡しをも担った夜明け前に相応しい前兆とも言えるだろう。
 オザンナ、RDM、そしてジャンボがデヴューを飾り、オルメがトリオ編成へと移行後3rd『Collage』がリリースされ、矢継ぎ早にニュートロルス『Concerto Grosso N°1』、イ・プー『Opera Prima』、トリップ『Caronte』、ジガンティ『Terra In Bocca』といったイタリアン・ロック史に燦然と輝く名作が世に送り出され、パンナ・フレッダと同様にたった一枚の素晴らしい作品を遺して表舞台から去っていったプラネタリウム、果てはデヴュー作のマスターテープが完成していたにも拘らず陽の目を見ずに解散したブオン・ベッキオ・チャーリー(後年正式にアルバム化された)も忘れ難い…。

 本編に戻ってパンナ・フレッダに関する詳細なバイオグラフィーにあっては、彼等自身の公式アーカイヴサイトを始め、プログレッシヴ関連ないしイタリアン関連のサイト、そしてマーキー/ベル・アンティークからリリースされている紙ジャケット国内盤CDライナーにもかなり触れられているので、ここでは敢えて恐縮なれど簡単に要約した形で触れる程度に留めておきたいと思う。
 遡る事…60年代後期にローマで結成されたI FIGLI DEL SOLEなるビートポップバンドを母体にスタートし、その後はI VUN VUNとバンド改名したり、漸く大手Vedetteレーベルとの契約までに至るものの書面を交わす際のすったもんだの挙句ブラス・セクション担当のメンバー数人が外されたりと、まさしくデヴューまでに漕ぎ着ける間は暗中模索と紆余曲折の連続だったそうな。
         
 4人編成バンドに移行後の1970年、バンド名を正式にパンナ・フレッダへと改めた後、幾分ブリティッシュナイズされたイタリアン・ポップスが堪能出来るデヴューシングル「Strisce Rosse/Delirio」、そして純正なイタリアン・ロック&ポップスが楽しめる好作品の2作目シングル「Una Luce Accesa Troverai/Vedo Lei」をリリースし、2枚のシングルと併行して同時期にデヴューアルバム製作に臨んでいたのは最早言うには及ぶまい(蛇足な余談ながらも、2枚目シングルのメンバーフォトを拝見して些か某ゲイ専門誌の表紙に思えたのは私だけだろうか…)。
 が、デヴューの矢先Vedetteレーベル陣営の降って沸いた様な内輪揉めやら何やらが災いし、結局半年以上待たされた翌1971年に待望のデヴューアルバム『Uno』がリリースされる事となる。

 幾重にも連なった淡いピンク色の布地が洗濯で干されている(ン十年も昔にイタリアン・マニアのある輩が、あの洗濯物はディク・ディクのジャケットの洗濯女が干した腰巻(!?)だった…なんて冗談めいた酒飲み与太話で盛り上がっていたなァ)という、何とも単純明快でシンプルながらも深い意味ありげな意匠のジャケットに包まれた彼等唯一作のデヴューアルバムは、ギタリスト兼ヴォーカルにして事実上のバンドリーダーだったAngelo Giardinelliのペンに依るもので、彼が嗜好していた古典文学並び伝承民謡、加えて70年代のヤングポップカルチャーが程良く融合した音楽性が隅々まで反映されており、AngeloのみならずGiorgio、Filippoといったマルチプレイヤーな側面が遺憾無く発揮された、ブリティッシュナイズされたエッセンスとイタリアのアイデンティティーが全面的に押し出されたヘヴィでクラシカル、カンタウトーレにも相通ずる牧歌的な片鱗すらも垣間見えるといった、決してマニア向けな物珍しさでは終止出来ないであろう…当時にして高水準なスキルを有した好作品であるという事が頷ける。
 惜しむらくはマルチプレイヤーでありながらもメンバーの誰もが当時未知数だったシンセサイザーを扱えなかったが故、本作品ではレコーディング・スタッフ兼エンジニアだったEnzo DennaがSEとシンセサイザーでバックアップ+好サポートしている点も忘れてはなるまい。
          
 冒頭1曲目のっけからラジオの周波数を思わせる様な電子音楽とでも言うのか、何ともノイズィーでチープ感丸出しなシンセによるエフェクトをイントロに、サバスやユーライア・ヒープに触発されたかの如きオルガン・ヘヴィロックが畳み掛けるように展開され、イタリアンな佇まい(イタリアン・ロックらしさとでも言うのか)が若干希薄な点こそ否めないが、結成から数年しか経っていないにも拘らずここまでヴァーティゴ系なブリティッシュナイズを強く意識した力強い演奏が堪能出来るという、まさしくパンナ・フレッダが目指している音楽世界を雄弁に物語っていて何とも挑戦的でしたたかさすら抱かせるオープニングには好感すら覚えてしまう。
 ブリティッシュ・プログレッシヴ・アンダーグラウンドの雄グレイシャスのデヴュー作『!』に触発されたという2曲目の、軽快で且つ小気味良いリズム隊とオルガンに導かれる何とも摩訶不思議で印象的なメロディーラインに、聴く者の心はいつしか彼等の術中に嵌まっていると言っても過言ではあるまい。
 寄せては返す波をも思わせる柔と剛の異なった曲想が綴れ織りの如く顔を覗かせる、あたかもそんなユニークさすらも持ち合わせているかの様なヘヴィ・プログレッシヴに溜飲の下がる思いですらある。
 ブリティッシュ・オルガンロックへのリスペクト全開ながらも、イタリア語のヴォーカルが醸し出す何ともダークでシアトリカル感すら思わせる3曲目の流れも実に素晴らしく、中間部でのブルーズィー+ジャズィーなアプローチも聴き処と言えよう。
 たおやかでハートウォーミングなメロディーラインのイントロで始まる4曲目は、イタリアン・ロックの伝統・王道ともいうべき抒情性と邪悪な雰囲気というエッセンスが曲の端々で散見出来る佳曲とも言えるだろう。
 狂騒的で獣の唸り声かまじない師めいたヘヴィな男性コーラスに加えて、アコギにチェンバロというイタリアン・ロックに不可欠なアイテム登場でクラシカルで牧歌的なイタリアの陽光と陰影を演出しているのが絶妙の域である。
            
 全収録曲中10分強に及ぶ長尺の5曲目は、先の4曲目とは打って変わって哀感の籠ったアコギとチェンバロに憂いに満ちたヴォーカルが相まって、希望と不安をも醸し出している雰囲気の曲想にアヴァンギャルドなベースラインとシンセのエフェクト、更には幾分マイケル・ジャイルズをも意識した様なドラムが被さって、一聴した限り淡々とした印象を受けながらも味わい深く進行していくリリカルなメロディーにいつの間にか引き込まれていく、全曲に於いて最も静謐で厳粛なイメージに彩られた異色のナンバーとも言えるだろう。
 スペイシーなシンセのエフェクトにアヴァンギャルド+コンテンポラリーなパーカッションが遠く彼方から響鳴しているイントロの6曲目は、まさしくラストに相応しい時代の空気感をも伴った激しくうねる様なハモンドとギターの響きが一種の懐かしさというか郷愁感をも呼び覚ます唯一のインストナンバーで、ロックのリフと鮮烈なまでな乗りの良さが体感出来る、短くコンパクトにまとめられていながらもパンナ・フレッダの音世界がここぞとばかり濃密に凝縮された秀作に仕上がっている。
 余談ながらも…ラストの曲を耳にする度に、かつての刑事ドラマの名作にして金字塔でもある『太陽にほえろ!』で井上尭之バンドが手掛けたサントラをも連想してしまうのは私だけだろうか?
 まあ…イタリアも日本も時代が時代だったからねェ(苦笑)。

 2枚のシングルに加えデヴューアルバムのリリースで奮起の拍車をかけた彼等は積極的にイタリア国内での様々なロックフェスやイヴェントに出演し懸命にギグをこなしつつ地道に知名度を上げていき、それに呼応するかの様にイタリア国内のメディア・電波媒体等が支援に回る形となって、大手音楽誌Ciao 2001がパンナ・フレッダのデヴューアルバムに高い評価を与え、イタリア国営放送RAIも彼等のシングルやアルバムをひっきりなしにラジオでオンエアし、心強い後ろ盾を得たパンナ・フレッダは今まで以上に精力的に創作活動へと身を投じていく事となる…。
 が、しかし悲しいかなバンドやメディアを含めたファンの側が大いに盛り上げていくのと相反するかの如く、肝心要のVedetteレーベルの運営側が売込みやらプロモートに消極的であったが故に、次回作の為の録音が進められていたにも拘らず、突然製作と契約が打ち切られバンドは急転直下で路頭
に迷う事となり、デヴュー以前からレーベル側とのイザコザやら関係悪化が表面化し、全ての面に於いて失望し疲弊してしまったバンド側は苦汁の決断を自らに下し翌72年にパンナ・フレッダは解散へと至ってしまう。
 解散までの間…ドラマーが何度か交代したり、リーダーでもあるAngelo Giardinelliを除くメンバーが変わったりとバンド存続の為に苦労を重ね奔走したものの、前述通り1972年以降からの第一次イタリアンロック隆盛期の波に乗る事が出来ず、結局バンド自らが幕を下ろす事となったのが何とも皮肉な限りである…。
 当時歌謡曲上位でロックが格下に扱われていた日本の音楽状況と同様、ややもするとイタリアの音楽状況もカンツォーネやカンタウトーレ、ビートポップ系がもてはやされて、黎明期だったイタリアン・ロックなんてレコード会社側にしてみれば過小評価な対象で低く見られがちだったのではなかろうかと懐疑すら抱いてしまいたくなる(そうは思いたくも無いし認めたくもないけれど…)。
 もしもパンナ・フレッダがVedetteではなく、リコルディやヌメロ・ウーノ、フォニット・チェトラといった更なる大手有名処のレーベルと契約を交わしていたならば、多分Vedetteよりも好待遇で少なくとも後々の歩みも大きく変わっていたのではと思うのだが如何だろうか?

 バンド解散後…パンナ・フレッダに携わったメンバーの内、RRRやプロチェッション、カプシクム・レッド等に参加した者もいれば、スタジオ・ミュージシャンとして今もなお現役で活動している者、正反対に音楽業界からきれいさっぱり足を洗った者と各々がそれぞれの道へと歩んでいった次第であるが、オリジナルメンバーでキーボーダーだったGiorgio Brandiは90年代半ばまでI CUGINI DI CAMPAGNAにメンバーとして参加しており、その後はレコーディング・スタジオのオーナーとして辣腕を揮い、後進の育成に尽力を注いでいるとの事である(多分21世紀イタリアン・ロックの何バンドかはお世話になっている事だろう…)。 
 駆け足ペースでパンナ・フレッダの足取りを追ってみたが、何度も繰り返す様に彼等は決して伝説的存在だとか幻のバンドという無責任なひと言で片付けられるべきでは無いだろうし、口の悪い捻くれた輩からすれば良くも悪くもB級どまりなんぞと陰口を叩かれる始末であるが、それでも彼等はイタリアン・ロック黎明期の70年代初頭に青春と情熱を捧げほんの一瞬でも輝きを放ち駆け巡っていった、ただひたすらに音楽を愛して止まない純粋無垢な若者達だった様に思えてならない。

 21世紀のイタリアン・ロックシーンを支えている現在(いま)を生きている幾数多もの新進気鋭のプログレッシヴ・アーティストの中にはおそらく多分「バンコやオザンナ、ムゼオにイルバレと70年代には素晴らしいバンドが沢山いたけれど、パンナ・フレッダも良いバンドだよね。」と語る者も必ずいる筈であろう…私はそう信じたい。

夢幻の楽師達 -Chapter 57-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、初秋という時節柄のイメージに相応しく…カタルーニャの情熱、南欧の陽炎、碧き地中海の誘い、アンダルシアの爽風をも彷彿とさせる、スパニッシュ・アイデンティティーの誇りと栄光を携えたプログレッシヴ・ジャズロックの名匠という称号に違わない孤高なる音楽集団“イセベルグ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


ICEBERG
(SPAIN 1975~1979)
  
  Max Sunyer:G
  Josep Mas:Key
  Primitiu Sancho:B
  Jordi Colomer:Ds, Per

 「夢幻の楽師達」でスパニッシュ・プログレッシヴを取り挙げるのはおそらく今回が初めての事だろうと思う…。
 とは言いつつも、スペインのロック黎明期から21世紀の今日までに至る経緯云々を語る以前に、その歩みと道程は決して安穏で且つ平坦では無かった事だけは言うに及ぶまい。
 スパニッシュ・ロックの栄光とその歩みはまさしく苦難との闘い、権力からの弾圧への抵抗といった背中合わせそのものと言っても過言ではあるまい。
 長きに亘るフランシスコ・フランコ総統の独裁政権が1975年に崩壊するまで、共産圏時代の東欧と同様スペイン国内に於いてロックは堕落の象徴として忌み嫌われ、英米ロック影響下の数々のバンドが言われ無き検閲や弾圧の対象となって制限され、レコードが市場から回収されたり演奏公演もままならないといった状態が続く…文字通り自由もへったくれも無いがんじがらめな悪夢そのものといった様相を呈していた。
 そんなさ中の70年代初期のスパニッシュ・ロック黎明期に於いて、混迷の時代に拮抗しながらも後期ビートルズ影響下のモドゥルス始め、ロック=芸術という域に真っ向から取り組んだフシオーンやカナリオスといった第一期スパニッシュ・ロックバンドが生き長らえ、フランコ総統の死去と前後する1974~1975年にかけて、今まで抑圧されてきたロックへの希求と渇望が一気に頂点へと達しトリアナ、グラナダといった2大バンドの台頭を機に、それに追随するかの如く、アッティラ、アザハル、ブロッケ、カイ、イトイス、タランチュラ、ニュー、コンパーニャ・エレクトリカ・ダルマ等が
続々と輩出され、果てはたった一枚のみの素晴らしい名作を世に残したゴティック、クラック、メズキータ、サクレといったワンオフ単発系、ギタリストのエドゥアルド・ボルトにディエゴ・ディ・モーラン、ダニエル・ヴェガ、ガルベルトの精力的な活躍に、ミゲル・リオスにアルフレッド・カリオンといった独特の世界観も決して忘れてはなるまい…。

 そしてここに75年のフランコ政権崩壊と時同じくして瞬く間に一躍世に躍り出た、今回本編の主人公となるイセベルグもスパニッシュ・ロック栄光の一時代を築いた類稀なる秀でた存在として綴らねばなるまい。
 ガウディのサグラダ・ファミリアそして1992年のオリンピック開催でも名高い地中海沿岸の港湾都市でスペイン最大の観光地でもあるバルセロナにて、1971年~72年にかけて活動していたサイケデリック・ハードロックの母体前身バンドTAPIMANに在籍していたギタリストMax Sunyerを中心に、Josep Mas(Key)、Primitiu Sancho(B)、Jordi Colomer(Ds, Per)、そしてAngel Riba(Vo, Sax)の5人編成で幕を開けたイセベルグは、1975年のフランコ独裁政権崩壊と時同じくして一気に隆盛を極めていたスパニッシュ・ロックの多くのバンドと共に、自国のシーンの活性化と栄華の為に身を投じる事となる。
 ちなみにイセベルグというバンドネームの意は“氷山”であり、英語の読みだとアイスバーグとなるのだろうが、ここはスペイン語読みのイセベルグに従っていきたい…。
 1975年まさにバンドネーミング通りの幻想的な氷山が描かれ、エジプトのツタンカーメンをモチーフにした鮮烈なるデヴュー作『Tutankhamon』をCFE Bocaccio Recordsよりリリースし、バンドのイニシアティヴを握るギタリストのMax自身が多大なる影響を受けたジミヘン始めクリーム、クリムゾン、イエス、マハビシュヌ・オーケストラ、チック・コリア…等の音楽的バックボーンが反映された、バンドの全作品中おそらく一番プログレッシヴ色の強い作品に仕上がっていると思われる。
    
 Maxの技巧的で幅広い音楽的素養が存分に活かされたギターに、ハモンドからメロトロン、モーグといった当時の花形鍵盤を縦横無尽に駆使したJosepの活躍、強固なリズム隊、曲によって英語とスペイン語を使い分けるヴォーカリストといった、非の打ちどころが無い位に充実した完全無欠なラインナップと言っても差し支えはあるまい。
 バンドのライヴ・パフォーマンスを含めデヴュー作の評判も上々で、このまま上昇気流の波に乗るのかと思いきや、突如としてヴォーカリストのAngel Ribaがバンドから離れる事となり、次回作の為の入念のリハーサルと準備を進めていたイセベルグはいきなりの岐路に立たされてしまう。
 しかし残された4人は怯む事も臆する事も無く、バンド不退転の意を決してデヴュー作とは全く趣を異にした路線を展開し、以後1979年の解散まで不動の4人のラインナップで、リーダーMax主導による後年のクロスオーヴァーないしフュージョンへと呼称されるであろうテクニカルなプログレッシヴ・ジャズロック色を一作毎に強めていく事となる。

 デヴュー翌年の1976年、イセベルグはヴォーカルレスのプログレッシヴ・ジャズロックへとシフトし、ある意味に於いて再出発でもあり彼等の代表作と言っても過言では無い2nd『Coses Nostres』をリリースする。
          
 その摩訶不思議で抽象的な一見してアヴァンギャルドかと思わせるジャケットの意匠とは相反するかの様な時折シンフォニックな名残をも感じさせるヘヴィでミステリアスな側面すら垣間見えるテクニカルなサウンドスカルプチュアへの構築に成功し、新たな方針転換に邁進する彼等の真摯な姿勢に聴衆は拍手を贈ったのは言うまでもあるまい。                 
 特筆すべきはキーボーダーJosepが、フェンダーローズをメインにアコースティック・ピアノ、モーグ、ソリーナで大幅に切り替えた事だろう。
 ハモンドの導入もたった一曲のみに留めており、メロトロンを放棄しソリーナに替えた事が心機一転の決意表明にも思えるのは私自身の穿った見方というか考え過ぎであろうか(苦笑)。
 翌1977年にリリースした3rd『Sentiments』も前作『Coses Nostres』に続き良い意味で延長線上ながらも更なる発展形をも示唆する傑作に仕上がっており、奇妙キテレツで摩訶不思議なレトロ調雰囲気を醸し出したアートワークのイメージがそのままサウンドに表れていて、リー・リトナーないしラリー・カールトンばりなMaxの冴え渡るギターテクニックも然る事ながら、キーボードにリズム隊もMaxに追随するかの様に演奏の応酬とせめぎ合いが繰り広げられる様は超絶と圧巻の一言に尽きるであろう。
    
 最早この時点に於いてイセベルグは、同時代のスペインのバンドとは明らかに一線を画した存在として、マハビシュヌ・オーケストラ、リターン・トゥ・フォーエヴァーといったアメリカン・ジャズロックと何ら遜色の無い同系列の(賛辞の意味で)特異な位置に君臨し、スパニッシュな精神とアイデンティティーを有しながらもワールドワイドな視野を見据えた唯一無比な孤高さを益々高めていく次第である。
 順風満帆な彼等は歩みを止める事無く更なる挑戦へと駆り立てられるかの様に、翌1978年には初のライヴ公演を収録した4作目『En Directe』をリリース。
 知的で且つ白熱を帯びた彼等の圧倒的なライヴ・パフォーマンスに会場の聴衆は心から拍手喝采を贈り、ライヴバンドとしての実力と実績が幅広く証明された快作となり、本作品のライヴ公演用に書き下ろされた3つの新曲のみというトータル35分強の収録時間ながらも、EL&Pの『展覧会の絵』、エニワンズ・ドーターの『ピクトルの変身』とはまた違った意味でライヴならではの醍醐味と臨場感が体感出来る秀逸な一枚と言えるだろう。
    
 願わくば新曲3曲に加えて1st~3rdまでの厳選されたナンバーが収録された2枚組にして欲しかったと思うのは些か個人的な我が儘であろうか。
 78年のライヴ盤『En Directe』がリリースされるその一方で、ギタリスト兼バンドリーダーMax Sunyer自身のソロアルバムも同時進行で進められ、同年MAXというソロ・ユニット名義で『Babel』を発表し、それと併行してイセベルグに次ぐ第二のバンドとしてフシオーン、ゴティックのメンバーらと共にPEGASUS結成へと着手する事となる。
 まあ…決してその結果的という訳ではないが、メンバーとの軋轢が無かったにしろMax自身更なる高みと理想の音楽を求めて、次なる80年代…そして90年代を見据えた形として、1979年の70年代最後にしてイセベルグ名義の最後の輝きを放つラストアルバムの5作目『Arc‐En‐Ciel』をリリースし、イセベルグ時代の今までの万感の思いとバンド愛がぎっしりと詰め込まれたクールでホットで感動的な涙をも誘う最高作となっている。
 70年代にやれるべき事は殆どやり尽くした…そんな悟りにも似た感慨深さと達成感とが入り混じった不思議な余韻を残しつつ、スペイン国内に於ける自らの役割とポジションを全うした彼等イセベルグは、概ね5年近くもの活動期間に自らピリオドを打ち潔く表舞台から幕を下ろす事となる。
    
 ギタリスト兼バンドリーダーMax Sunyerは、その後数多くのソロ作品のリリースに加えて、前述のクロスオーヴァー系バンドのPEGASUSを経て、近年はジャズ&クロスオーヴァー畑でMAX SUNYER TRIOを率いて、年輪を積み重ねた現在もなお現役の第一線で活動しており昨年はそのトリオ名義で実に20年振りの新作を発表している。            
 残念な事にMax以外の他のメンバーの消息に至っては、ネット社会の現在であるにも拘らず殆ど分からずじまいというのが何とも惜しまれる…。(言い訳がましいかもしれないが、スペインのロック関係の人脈云々を探ろうにも悲しいかな資料と情報が少な過ぎるというのが現状である)
         
 駆け足ペースで彼等イセベルグの道程を辿って綴ってはみたものの、私自身改めて思うに…これだけ高度な演奏技量と実力を持った良質のバンドであったにも拘らず、同国の代表格でもあるグラナダやトリアナ、果てはカナリオス、ゴティック、イトイス…等といった有名処の影に隠れてしまいがちで、格下扱いとまではいかないにせよ幾分それに近い様な過小評価ばかりが先行して、今までちゃんとした正当な評価が為されていなかったのでは…といった感は流石に否めない(過去に随分お世話になったが故に、あまり声高に言いたくはないのだが…かのマーキー誌刊行のユーロ・ロック集成でも、MAX名義のソロ作品こそ取り挙げられていたものの、肝心要のイセベルグが取り挙げられなかったのもどうかと懐疑的ですらある)。
 口の悪い根性の捻じ曲がったリスナーやプログレ・ファンからすれば“所詮は二流バンド止まり”だとか“クロスオーヴァーやフュージョンの亜流”といった、理不尽極まりない言われ無き誹謗中傷と軽はずみなバッシングで、バンドの名誉やらプライドが著しく傷付けられているという事に、憤りを通り越して憤懣やるせない激昂と糾弾とが入り混じった気持ちにすらなってしまう。
 早い話“誹謗中傷する以前にお前らちゃんと聴いているのか!?”と問い質したくもなりたいのが正直なところである。
 以前イセベルグを好意的に取り挙げている某サイトでも“アメリカばかりを向いていた日本のリスナーはバッタもんの似非ラテン臭いフュージョンで誤魔化されていた可能性が高い”と嘆いていたのが実に印象的だったのを今でも記憶している。
 このブログを御覧になって、もしもイセベルグに御興味を抱かれた方がいらっしゃったら、プログレッシヴ云々だとか、ジャズロック、クロスオーヴァーといった概念やカテゴリーを問わずに、暫しまっさらで純真無垢な気持ちに立ち返って、どうか今一度彼等の創作世界に耳を傾けて頂けたらと心から願わんばかりである。
 そこにはきっと感動で心震える…垣根の様な隔たりなんて無用な理屈を越えた音楽世界に必ず出会えるであろう事を私自身信じて止まないと断言しておきたい。

一生逸品 FESTA MOBILE

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 今週の「一生逸品」70年代イタリアン・ロック一枚もの傑作選の第三弾は、イタリアの陽光が燦々と降り注ぐ様な情熱の中に知的なクールさを兼ね備えたであろう、初秋の時節柄に相応しい70年代イタリアン・ロックの隠れた至高と至宝にして唯一無比の存在と言っても過言ではない、テクニカル・シンフォニックの代名詞として今もなお語り草となっている“フェスタ・モビーレ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


FESTA MOBILE
 /Diario Di Viaggio Della Festa Mobile(1973)
  1.La Corte di Hon
  2.Canto
  3.Aristea 
  4.Ljalja
  5.Ritorno
  
  Francesco Boccuzzi:B, Key
  Giovanni Boccuzzi:Key
  Renato Baldassarri:Vo
  Alessio Alba:G
  Maurizio Cobianchi:Ds

 70年代のイタリアン・ロックというキーワードから連想する言葉を述べよと問われたら、絢爛豪華、百花繚乱、複雑怪奇、そして栄枯盛衰…、とまあ自分が思いつく限りの四字熟語を羅列してみたが、その概ねは的を得た表現ではなかろうか。
 1973年、PFMのワールドワイドな進出の成功を皮切りに、当時俄かに降って沸いた様な第一次イタリアン・ロックブームの到来は、バンコ、ニュー・トロルス、オルメ、後にウーノ、ノヴァへと変遷を遂げるオザンナ、アレア、アルティ・エ・メスティエリ…等を多く輩出するに止まらず、イル・バレット・ディ・ブロンゾ、ラッテ・エ・ミエーレ、RDM、クエラ・ヴェッキア・ロッカンダ、メタモルフォシ、デリリウム、ジャンボ、果てはたった一枚限りのワンオフで短命ながらもムゼオ・ローゼンバッハ、チェルヴェロ、ビリエット・ペル・リンフェルノ、マクソフォーネ、チェレステ…etc、etc、あたかも我が世の春を謳歌するかの如く前途有望で希望と夢に満ち溢れていた逸材が互いに犇めき合っていたであろう、そんな至福に包まれた良き時代だったと思えてならない。

 そんな数多くもの名作名盤を世に遺した70年代イタリアン・ロックに於いて、素晴らしい名作級の作品であるという称賛を得ながらも…まあ不本意というか何というか、決して悪気があってという訳では無いせよ、見た目の印象の薄さ、インパクトに欠ける弱さ、貧相で地味なジャケットで幾分過小評価気味な分の悪さが災いして損をしている作品が若干数あるというのもまた然りであり、今回の主人公でもあるフェスタ・モビーレ、以前「一生逸品」でも取り挙げたカンポ・ディ・マルテ(別の意味でインパクトこそあれど、あれはビックリ人間ショー的な装丁だしね)、今後「一生逸品」にて取り挙げるラインナップでフォラス・ダクティルス、エドガー・アラン・ポー、アポテオジ辺りなんかは、音楽性の素晴らしさを差し引いてもジャケットやらヴィジュアル面が弱いよなぁというのが正直なところである(ごめんなさい!決して貶しているという意味ではありません、誤解無き様に…)。
 兎にも角にも謂れ無き不本意な扱われ方に加えて、今一つしっかりと真っ当な評価が成されていないであろう…イタリアン・ロックの栄光の片隅で陰ながらひっそりと佇む隠花植物の如き美学と才能にも今後は目を向けねばと思いつつ、もっと広い視野でイタリアン・ロックに歩み寄っていきたい意向である(アートワークのインパクト云々を抜きにして)。

 今回取り挙げるフェスタ・モビーレ(“移動祭日”の意)、1973年リリースのデヴューにして唯一作でもある“旅行日記”という…まんまストレートなアルバムタイトル通り日記帳がそのままジャケットアートに引用された、一見パッと見シンプルな意匠ながらも、肝心要の音楽性にあっては申し分無い位にメンバー全員の演奏技量とスキルの高さは折り紙付きであり、ロック、クラシック、ジャズ、コンテンポラリー等、多種多様(多種多才)な曲想と素養が凝縮された、ジャケットのシンプルさに相対し70年代イタリアン・ロック史に残る屈指の傑作である事はもはや明白と言わざるを得ない。
 彼等の経歴とその歩みは現時点で分かっている限りで恐縮だが、イタリア南部の港湾都市バーリを拠点にセッション・ミュージシャンとして活動していたFrancescoとGiovanniのBoccuzzi兄弟を筆頭に、1971年に結成されたフェスタ・モビーレの前身バンドTESTA MOBILEで幕を開ける事となる。
 幾度かのメンバーチェンジを経て、Boccuzzi兄弟、そして新たに専属ヴォーカリストとしてRenato Baldassarri、ギタリストにAlessio Alba、ドラマーにMaurizio Cobianchiという編成で、バンド名もフェスタ・モビーレに改め同時進行で音楽活動とライヴを開始し、翌1972年にナポリで開催された音楽祭で一躍注目を集め、時同じく旧知だったRCAイタリアーナの人伝を介して、翌1973年デヴュー作にして唯一作となった『Diario Di Viaggio Della Festa Mobile』をリリース。
          
 彼等の唯一作が日本に紹介された当初は、RCAイタリアーナのスタジオ・ミュージシャンの集合体バンドとして紹介され、成る程確かに一朝一夕では為し得ない位のテクニカルさと高度でハイレベルな演奏力に舌を巻いた事を昨日の様に記憶しているものの、今となってはそれらの事もお構い無しになる位だから、如何にイタリアン・ロック発掘期の80年代当初に於いて情報量の少なさと不確かな経歴が独り歩きしていたのかが納得出来よう。
 今こうしてある程度短命バンドのバイオグラフィーが判明出来る様になった事を思えば、これも単に今日のネット社会様様の恩恵の賜物であると言っても過言ではあるまい…。
 まあ、1971年当時Boccuzzi兄弟自身既にセッションミュージシャンとしての経歴と実力を兼ね備えていたのだから、一概にRCAイタリアーナ専属云々絡みやら何らかの関わり合いがあった事も否めないのだが。
 Boccuzzi兄弟によるツインキーボードの巧みさに加えて、終始徹頭徹尾に亘るテクニカルなピアノ重奏、フェンダーローズにチェンバロ、ストリングアンサンブル系シンセを要所々々に配しアクセントを利かせた、シンフォニックでありながらも非シンフォニックな側面をも垣間見せる意欲作に仕上げており、所詮はテクニカルなピアノだけが売りといった(所謂定番ともいえるハモンドやメロトロンが一切使用されていない事もあってか)悪口雑言めいた辛口プログレファンの低評価すらも180度覆す位のインパクトを有しており、眩惑的でめくるめく繰り広げられる“旅行日記”の世界観が存分に堪能出来る事必至であろう。
          
 彼等の音楽世界全開ともいえる冒頭1曲目を耳にした瞬間、けたたましくもせわしなく…目まぐるしく変拍子を利かせた超絶テクニカルで早弾きパッセージのダブルピアノの鍵盤乱れ打ちよろしくと言わんばかりに、Boccuzzi兄弟の技巧の応酬が縦横無尽に展開され、ヘヴィなメロディーラインにRenato Baldassarriのハイトーンヴォイスが高らかに謳われ(線の細い歌唱力に好みの差が分かれるところだが)、楽曲が一瞬断ち切られると同時に煌びやかで幻想的に奏でられるチェンバロの美しさは第一級品でまさしく得も言われぬ位に鳥肌ものである。             
 ダブルピアノにエフェクトをかけた様なベースラインの重々しさがカトリシズム的な神々しさを醸し出しているイントロの2曲目も聴き処満載である。
 ヴォーカルパート序盤に入ると同時に軽快でアップテンポ+ジャズィーなエッセンスが加味された曲想に転調し、中間部でフェンダーローズがさりげなくインサートされる心憎さも手伝って、タイトル通りの高らかなる歌声に呼応するかの如く、孤独な男の憂鬱を代弁するほろ苦くも渋い曲終盤のピアノの残響と余韻が印象的。
 感傷的で刹那な感のピアノのイントロが印象的な3曲目、アリステアなる女性に捧げたラヴバラード調ながらも、光と影或いは陰と陽の両面性すら窺わせ、後半部のストリングシンセとチェンバロによる直球のイタリアン・シンフォニックは白眉の出来栄えで、揺れ動く心を見透かされた様なピアノのフェードアウトも実に効果的である。
 3曲目に負けず劣らず4曲目も劇的で力強いピアノの好プレイに牽引され、カンタウトーレ風な歌心を聴かせるヴォーカルライン、更にはギミックを多用したストリングシンセの面白い使い方も然る事ながら、強固で的確なリズムセクションとギターの良い仕事っぷりには溜飲の下がる思いですらある。
          
 旅の終わり=さながら現実という時間への帰還を謳ったであろうラストを飾る5曲目は、アルバムの最後に相応しい8分半を越える長尺で、不安と憂鬱を漂わせた何とも意味あり気なピアノのイントロに、カリオン…或いはチューブラーベルが高らかに響鳴するや否や、4つの楽曲パートに分かれた構成でヴォーカルに重きを置いたパート、ジャズロック風なアプローチを試みたパート…云々を物語るかの様に、押しと引きの対比に混沌と光明の背中合わせとが渾然一体となった、紛れも無く彼等の技量と実力が濃密に凝縮された大曲にして、作品全体としての意味深な大団円をも彷彿とさせるテープの反復逆再生的な終焉も、まあ何ともはや実に興味深いところでもある。

 デヴュー作リリースと時同じくして、おそらく同時進行で進められていたと思われるが、同RCAよりリリースされたロック・ミュージカルコメディーの舞台音楽『Jacopone Da Todi』にセッションマンとして参加するものの、あくまでミュージカルに主眼を置いた作品なので、フェスタ・モビーレ自体の音楽世界としては望むべくもないところであろう。
 こうして彼等フェスタ・モビーレ名義として最初で最後の唯一作、そしてミュージカル作品にセッションマンとして参加した後、理由こそ定かでは無いがRCAサイドと何らかのすったもんだの挙句バンドは自然消滅に近い形で解散し、Boccuzzi兄弟は心機一転活路を求めてEMIに移籍後、新たなリズム隊を加えた4人編成(Francesco Boccuzziはキーボードとギターを兼任)で、ジャズロック&クロスオーヴァー系大きな転身を遂げたIL BARICENTROを結成する。
 ちなみバンド名の意は“重心”との事だが、彼等の生まれ育った地元バーリという語呂合わせをもかけたとの見方もあって、まあ当たらずもとも遠からずといったところだろうか。
          
 1976年『Sconcerto』という素晴らしいプログレッシヴ・ジャズロックをリリースし、このまま順風満帆でいくのかと思いきや、翌1978年に数名のパーカッショニストを迎えてリリースした2作目『Trusciant』で、時流の波に乗った極ありきたりなムードミュージック風イージーリスニング・フュージョンへと辿ってしまい、ジャケットアートもなかなかのもので決して聴けなくは無いもののあきらかに音楽性とレベル共に低下してしまい、お世辞にもプログレッシヴ・ファンやリスナーには手放しでお奨め出来る代物でない事だけは確かな様だ…。
 その後IL BARICENTRO名義としては特に表立った活動は見受けられなかったが、5年後の1983年いきなりトリオ編成でリリースしたディスコミュージック調のシングル『Tittle Tattle』で再起を図るものの、結局は時代の流れに上手く乗れる事無く、フェスタ・モビーレからIL BARICENTRO…そしてBoccuzzi兄弟の飽くなき挑戦と創作活動の歩みはこうして敢え無く幕を下ろす事となる。
 21世紀の今日、唯一分かっているのはGiovanni Boccuzziのみがフィルム並びテレビの音楽関係で作曲を手掛けたり、コンピューター関連の音楽ソフトの開発、そして後進の育成から音楽教育活動までに至る多方面で精力的に創作活動しているとのこと。

 70年代当時、自国のロックに青春と情熱を捧げながらもたった一枚きりの作品を遺して自らの活動に幕を下ろしであろう幾数多もの短命バンド達。
 それでもいつの日か復活する事を夢見つつ永きに亘る深い眠りから目覚め、21世紀に復活再結成を遂げたアルファタウラス始め、RRR、ムゼオ・ローゼンバッハ、ビリエット・ペル・リンフェルノ、ムルプレ、チェレステ、レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ、そして昨今活動を再開し復帰を遂げたアルミノジェニとフォラス・ダクティルス…ひと昔前ならとても考えも予想も付かなかった事が起きている、まさに夢か現か何が起きてもおかしくない様なイタリアン・ロック至福の時代再来といった感であるが、もしもフェスタ・モビーレ…Boccuzzi兄弟に復活するか否かを問うたところで、きっと答えは“良くも悪くももう過去の事だし、あの時代だからこそ出来た作品だから…”と返答されるのが関の山であろう。
 いずれにせよ…ジャケットがシンプルであろうが地味であろうがイタリアン・ロックに燦然と輝く素晴らしい一枚である事に変わりはあるまいし、そう信じたいものと願って止まないのが正直なところである。

夢幻の楽師達 -Chapter 58-

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 猛酷暑に台風と空模様が不安定続きだった9月も終盤を迎え、日に々々肌寒さが感じられる様になって感傷的で叙情性豊かな…まさしくプログレッシヴ・ロックの秋本番が再び巡ってきました。
 9月最後の「夢幻の楽師達」は70年代末期にほんの僅かなひと握りの栄光と煌めきを湛えつつも、自らの音楽世界と信念を全うし時代を駆け抜けていった、枯葉舞い散る秋空のフランスの牧歌的な心象風景とリリシズムを高らかに謳い上げた、正真正銘70年代フレンチ・シンフォニック最後の正統派とも言える“メモリアンス”に焦点を当ててみたいと思います。

MÉMORIANCE
(FRANCE 1976~1981)
  
  Jean-Pierre Boulais:Lead & Rhythm Guitars, Vo
  Claude Letaillenter:Technics
  Jean-François Périer:Key, Vo
  Didier Guillaumat:Vo, Lead Guitars
  Didier Busson:Ds, Per
  Michel Aze:B, Vo

 年に何回か無性にフレンチ・プログレッシヴをとことん聴きたくなる時がある…。
 ロックテアトル系を含めたシンフォニックから、スペース&サイケデリックなゴング系、果てはマグマやザオを筆頭としたジャズロックと多岐に亘るが、ユーロピアン・ロックシーン人気を二分しているイタリアン・ロックとジャーマン・ロックから較べると、マグマ、ゴング、そしてアンジュといった大御所クラスを別格としても些か良くも悪くもフレンチ・ロック特有ともいえる“線が細いイメージ”といった印象は否めない(苦笑)。

 フレンチ・ロック…特に前述のロックテアトル系+シンフォニックに至っては、テアトルの祖アンジュを筆頭に、浮遊感の音宇宙を奏でるピュルサー、「シスター・ジェーン」のヒットで若々しい感性の発露ともいえるタイ・フォン、フランスのイエスと准えながらも独自のシンフォニックを追求したアトール、文芸路線と内省的でナイーヴな世界観を謳ったワパスー、それらに追随するかの如くカルプ・ディアン、モナ・リザ、シャイロック、79年から80年にかけて名を馳せたアジア・ミノールにウリュド、シノプシス、そしてワン・アンド・オンリーな単発系ながらもパンタクル、リパイユ、メタボリズム、アトランティーデ、アシントヤ、アラクノイ、テルパンドル、オパール、ウルタンベール、ステップ・アヘッド…etc、etcが、メジャーやマイナーといった垣根を問わずに一時代を築き上げ、1986年のムゼアレーベル設立以降~21世紀今日のフレンチ・シンフォニックたる独特の流れと道筋を切り拓いてきた事は最早言うには及ぶまい。
 さて、そんな70年代半ばに隆盛を誇っていたフレンチ・シンフォニックが、世界的に席巻していたパンク&ニューウェイヴムーヴメントという時代の波の煽りを受け徐々に翳りが見え始めた時世を前後に、セーヌ川右岸の河口に位置するフランス北西部の港湾都市ル・アブールにてメモリアンスが結成されたのもちょうどこの頃と思われる。
 それはあたかもプログレ低迷期の救世主の如く“フレンチ・ロック伝統と正統派の後継者”として期待を一身に受け華々しくデヴューを飾る事となったと言っても過言ではあるまい。
 バンド結成の詳細な経緯とバイオグラフィーに関しては、残念ながらネットの時代である現在でさえも全くと言って良い位に解らずじまいで、兎にも角にも資料が少ないというか皆無に近い状態なのが困りものである…。
 ル・アブール出身という他に判明している点では、フランスの老舗ライヴハウスGolf Drouotクラブ(1972年にフィリップスからリリースされたコンピアルバム『Groovy Pop Session』でも有名)主催のコンテストで、LE TREMPLIN D'OR(金の踏切板賞)なる新人にとっては栄えある受賞を機にかのアトールと同じアラベラ・プロダクションに所属後、1976年にカルプ・ディアンやパンタクルを輩出したワーナーグループWEA傘下のEurodiscより念願のデヴュー作『Et Après…』で一躍メジャーシーンに躍り出る事となる。 
          
 鳴り物入りのデヴュー作となった『Et Après…』の評判は上々で、先輩格のアトールそしてパンタクルといった正統派フレンチ・シンフォニックに追随する形で、収録された全4曲とも10分前後の大作主義で(ラストの曲が最短で5分近い)フランス独特の抒情性と甘くどこか儚げなメロディーラインを伴ったリリシズムは、先人バンド達に負けず劣らずの及第点となったものの、いかんせんまだまだ二番煎じみたいな印象は否めないのが正直なところであろう。
 演奏技量が未熟で力不足…所謂未完成の域といった感は拭い切れず、先人バンド達への憧憬やリスペクトという思いが強すぎる余りにどこか空回りしている部分が無きにしも非ず、聴き処こそ沢山あるものの初出の作品であるが故に反省すべき点こそ多々あるものの、彼等メモリアンス然り先人のワパスー或いはシノプシスとてデヴュー時は未熟で演奏力量に乏しいと評されながらもむしろそれが却って逆にフランス臭さむき出しで味わい深いところが良いとまで言われるのだから、フレンチ・ロックに限った話で恐縮だが損をしている半面それ相応に得をしている部分があるというのも誠に不思議なものである(苦笑)。
 未完の域ながらも精力的なギグの積み重ねでメモリアンスの知名度はフランス国内でもかなり浸透しつつあったものの、憶測の域で真偽の程は定かではないがツアースタッフとの間でゴタゴタといった揉め事があったり、レコード会社だったEurodiscの閉鎖と前後してメンバーが2名脱退するという度重なる悪循環に見舞われてデヴューの翌年以降からメモリアンスはすっかり表舞台から遠ざかり暫しの長き沈黙を守る事となる…。
 こうしてすったもんだの挙句、外界からの余計な雑音を遮断するかの如く彼等はスタジオに籠りつつもデヴュー作での反省材料を糧に新曲を書き溜め、新たな2人のメンバーとしてPascal Libergé(Key)、Christophe Boulanger(Ds)を迎え入れ、度重なるリハーサルを経て次なる新譜リリースに向けて着々と準備を進めつつあった。
 余談ながらメンバーも知ってか知らずか、新譜の製作に日々を費やしている間ともなると、ギタリストのJean-Pierre BoulaisとベーシストのMichel Azeが創作活動の合間を縫って副業がてらに地元ル・アブールの新聞社にてコラムの執筆を始めたとか、次回作はプログレから脱却して思いっきりパンクなアルバムになるのだとか…と、まあ下世話なゴシップ大好きなフランス人らしく様々な音楽誌にていろいろと書かれ放題だった事も付け加えておかねばなるまい(個人的にはそっとしておいてやれば良いのに本当にプレス業界ってヒマ人ばかりなんだなァと思えてならない…)。

 そしてデヴューから3年後…70年代最後の1979年、様々な紆余曲折と試行錯誤を繰り返して難産の末に漸く待望の新作『L'Écume des Jours d'Apres Boris Vian』を、心機一転レコード会社も大手フィリップスに移籍してリリースする事となる(フィリップスへの移籍に関してはおそらくアンジュからの助力が働いたのではなかろうか)。
 タイトルから察する通り本作品はフランス芸能史きっての伝説級大御所ボリス・ヴィアン(俳優にしてシャンソン歌手、作詞作曲家、トランペット奏者、小説家、評論家と多彩な顔を持っている)作の小説「うたかたの日々(日々の泡)」を題材に、大作主義だった前デヴュー作から一転して全収録15曲とも3~4分前後の小曲で占められコンパクトにまとめられたトータル作品。
 原作の持つイメージや世界観を決して損なう事無く、フレンチ・プログレッシヴ本来の持ち味の良さに時代相応の程良いポップとモダンさが加味され、メンバーチェンジが功を奏したのか演奏力も格段に向上し今後の展望に大きな弾みを付ける形となったのは言うまでも無かった。
    
                 
 この当時アトールの『Rock Puzzle 』、モナ・リザの『Vers Demain』、そしてタイ・フォンの『Last Flight』といった名立たるフレンチ・シンフォニックのベテラン勢が時代に則した大幅なサウンド転換とイメージチェンジを図るものの、ことごとく成功とは程遠い無残な結果を残し、ピュルサーも活動を休止し1981年に舞台向けの音楽で活動再開するまでの間長きに亘り沈黙を守るといったやや寂しい状況の中で、アンジュの『Guet-Apens』、そしてマイナーレーベルの範疇ながらもアジア・ミノールがデヴューを飾り、メモリアンスの2ndが気を吐いているといった様相で、80年代への足掛かりがまだしっかり繋がっていた、まさしく薄氷を踏む様な危うげな時代だったと思えてならない…。
 しかし…そんなメモリアンスの漲る自信と自負及び周囲からの期待とは裏腹に、渾身の入魂作ともいえる新譜2ndの売り上げは伸び悩み、当時のプログレッシヴ業界に付いて回っていた“素晴らしい音楽作品が決して売れるとは限らない”の言葉通りに、時代はもう既にメモリアンスの音楽…否!世界各国のプログレッシヴ・ムーヴメントをも見限ってしまったのかもしれない。
 まさしくアンダーグラウンドの片隅へと追いやられたプログレッシヴ・ロック冬の時代の到来となった次第である…。
 80年当初日本フォノグラムを経由してメモリアンスの2ndも国内盤として『うたかたの日々』という邦題でリリースされたものの、例によって日本フォノグラムの冷遇な所業とも思える、ジャケット裏をモノクロプリントしでかでかとライナーノーツ仕様にしたあたかも安物廉価盤みたいな装丁に、あの当時私を含めた日本中のユーロロックファンがどれだけ落胆した事だろうか(本当に願わくばあの当時の責任者を呼べ!と今でも声高に怒鳴りたい位だ)。
 最高の自信作と自負していただけにセールス的には失敗という憂き目を見たバンドサイドは、何もかも失望しいつの間にか自然と空中分解へという道を辿ってしまう。
 最高の自信作と自負していただけにセールス的には失敗という憂き目を見たバンドサイドは、何もかも失望しいつの間にか自然と空中分解へという道を辿ってしまう。
 それでも時代に抗うかの様にギタリストのJean-Pierre BoulaisとベーシストのMichel Azeの2人のみによるメモリアンス名義で1981年にプログレッシヴの名残を残した唯一のポップスなシングル「Sparadrap/Téléphone」をリリースし、それ以後のメンバー全員の消息は私自身の努力の甲斐もなく未だに分からずじまいであるのが何とも悔やまれる…。
              
 21世紀の現在(いま)のフレンチ・シンフォニックに於いて、今なお現役バリバリに活動を維持しているアンジュを筆頭に、ピュルサー、アトール、タイ・フォン、そしてアジア・ミノールまでもが復活の狼煙を上げて活動再開を果たし、新世代旗手のネモを筆頭としたネオ・フレンチシンフォが台頭している昨今、かつて70年代のパンタクルやメモリアンスが持っていた…どこか素朴で牧歌的な、良い意味でフランス臭さむき出しの夢見心地で儚げなリリシズムを切々と謳い上げる抒情派シンフォニックを継承した新世代がそろそろ恋しくなってきたと言ったら、それは年輪を積み重ねてきた私自身が初老に差しかかったという表れなのだろうか(苦笑)。

一生逸品 SEMIRAMIS

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 9月最後の「一生逸品」、70年代イタリアン・ロック一枚もの傑作選最後の第四弾を飾るは…幻のトリデントレーベルが世に送り出した、かのビリエット・ペル・リンフェルノと共に人気を二分してきたもう一つの雄にして、あたかもカリスマ級に神格化され混沌と邪悪のエナジーを帯びた闇の饗宴を謳い奏でる、イタリアン・ヘヴィシンフォニック秘蔵の申し子と言っても過言では無い、古代バビロニア女王の名の下に君臨する“セミラミス”に今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


SEMIRAMIS/Dedicato A Frazz(1973)
  1.La bottega del rigattiere 
  2.Luna Park 
  3.Uno zoo di vetro 
  4.Per un strada affolata 
  5.Dietro una porta di carta 
  6.Frazz  
  7.Clown
  
  Paolo Faenza:Ds, Per
  Marcello Reddovide:B
  Gianpiero Artegiani:Ac‐G, Syn
  Michele Zarrillo:G, Vo
  Maurizio Zarrillo:Key

 名作・名盤多数の70年代イタリアン・ロックであるが、当時のシーン数広しと言えどここまで不気味でインパクト大なジャケットは他にあっただろうか…。
 俗に言う顔面ジャケットプログレに於いて、御大クリムゾンのデヴュー作並びGGのデヴュー作も然る事ながら同国のムゼオ・ローゼンバッハにも負けず劣らず、今回本篇の主人公でもあるセミラミスが遺した唯一作で描かれた…あたかもブロンズ像を思わせる様な陰鬱で血色乏しい死相が表れ、彼等のバンドネームとなった古代バビロニア王国の女王とおぼしき人物画の意匠に、過去幾数多ものプログレッシヴからイタリアンロック・ファンを含めたリスナー達から奇異な目で見られ、果ては気味悪がられて震えあがらせた事だろうか(苦笑)。
 女王セミラミスに関し様々な文献やらウィキペデイアで検索し調べてみたら、かの世界七不思議の一つ“バビロンの空中庭園”を築いただけでなく、美貌と英知を兼ね備えている一方贅沢好きで好色でかつ残虐非道に加えて黒魔術にも長けていたと記されており、成る程彼等セミラミス唯一作の特色でもある地中海民族の旋律、邪悪で漆黒の闇のカオス渦巻くエナジーが迸るサウンドにはまさしくイメージ通りの合致と言わずもがなであろう。
 余談ながらもだいぶ昔に新橋の居酒屋にてプログレ仲間達と談笑していた時に、ふいにマーキー誌創設時の古株のS氏の話題に及んだ際、Sさんってどんな人?と訊ねたら“セミラミスのジャケットの顔みたいな表情している”との返答に思わずビールを吹き出してしまった事を未だに記憶しているから、我ながら正直困ったものである…。

 プログレッシヴ・ロック元年でもある1970年、ローマ市内の当時15歳のティーン・エイジャーで後のセミラミスの中心人物となるMaurizio Zarrilloを筆頭に従兄弟Marcello Reddavideによって結成され、2年後1972年にMaurizioの実弟Michele Zarrilloが加入し若干のメンバーチェンジを経てローマ市内で地道にライヴ活動を経た後、同年夏に開催されたVILLA PAMPHILI POP FESTIVAL出演を機に一躍脚光を浴びる事となる。   
 VILLA PAMPHILIのフェスティバル出演で観衆の心を鷲掴みにし手応えを得た彼等は、当時インディーズ系のマイナーな範疇ながらも新興レーベルとして注目を集め、後にオパス・アヴァントラ始めトリップの4作目(最高傑作のラストアルバム)、果てはセミラミスと共に人気を二分するビリエット・ペル・リンフェルノを世に送り出したTRIDENT(トリデント)のスタッフの目に留まり、彼等5人は渡りに舟と言わんばかり程無くして契約を結びデヴュー作に精力を傾けてレコーディングを開始する(但し、後年ドラマーのPaolo Faenzaのインタヴューから、当時はまだメンバー全員が未成年だったが故に彼等の親御さん達とトリデントとの契約によるものだったそうな)。
 翌1973年、時代はまさに第一次イタリアン・ロック絶頂期の真っ只中、ムゼオ・ローゼンバッハ『Zarathustra』始めチェルヴェッロ『Mellos』といった邪悪で闇のエナジーを纏ったイタリアン・ヘヴィプログレッシヴの名作に追随するかの如く、トリデント・レーベル期待の新星としてセミラミスは『Dedicato A Frazz』を引っ提げ堂々と鳴り物入りでデヴューを飾る事となる。
 ちなみにアルバムタイトルの文節でもあるFrazzとは、もう既に皆さん御存知の通り読んで字の如し上記メンバー5人の頭文字を合わせた造語にして、本デヴュー作で描かれた…さながら地獄や冥府とおぼしき混沌の回廊を巡る主人公=苦悩する彼等5人の映し鏡そのものと言っても異論はあるまい。
 同年期デヴューのムゼオやチェルヴェッロにも匹敵しつつ、前年のオザンナ『Palepoli』、イルバレ『YS』、果てはRRRのデヴュー作等に触発され意識しつつも、絶望と希望の狭間をも彷彿とさせる狂騒なる世界観を高らかに謳った妖しくも孤高なる調べはセミラミス唯一無比にして、ヘヴィロックが持つダークサイドな持ち味と重厚さに加えてアコースティック+地中海古謡の素養とジャズィーな側面すら垣間見える傑作へと押し上げたのは最早言うに及ばず。
      
 見開きジャケット内側に描かれたカオス渦巻く狂気繚乱で不気味な意匠は、さながらピカソの“ゲルニカ”をもしダリの様なシュールタッチで描いたらこんな風になったと言わんばかりな、彼等セミラミスの音世界に色を添えるには十分過ぎる位のインパクトを与えていると言っても過言ではあるまい。
          
 ユニゾンを効かせたシンセサイザーに、せわしなくもけたたましいヴィブラフォン、タランテッラ調のアコギ(マンドリン?)とが不協和音の如く響鳴するイントロダクションに導かれ、狂気と戦慄の終わり無き宴が幕を開けるオープニング1曲目、Michele Zarrilloのアジテーション風な語り口調をも思わせる淡々としたヴォイス、ヘヴィなギターリフ、パーカッシブなエレピ、リリシズム漂うアコギにリズム隊が渾然一体となったカオスの渦に聴き手はいつの間にか惹き込まれている事だろう。
 朗々たるシンセやオルガンに誘われ、貴方(貴女)達はただ静かに悠久と冥府への大海原の波に漂いその身を委ねているだけで良いだろう…。               
 ロングトーンのギターを合図に喧騒と狂騒とも付かぬ大仰なアンサンブルがせめぎ合う2曲目、ストリング・シンセ或いはオルガンの耽美で深遠な調べ、デカダンに謳い奏でられるアコギとヴォーカル、クラシカルなオルガンが顔を覗かせる辺りともなると、それはあたかも満天の星空の下…幻想的な月夜に照らされたルナパークで繰り広げられる妖しくも甘く切ない舞踏と饗宴が想起出来るだろう。
 新月の名曲「鬼」のイントロを思わせる様なシンセの断続音から始まる3曲目、アコギとティンパニーによる繊細さと重厚さが同居したメロディーラインとリリカルなヴォイス、クラシカルで荘厳なる教会風なオルガンに追随するかの如くヘヴィで且つアヴァンギャルドに展開するギターとシンセが被さりつつも、いきなりアコギとヴィブラフォンによる牧歌的な転調に変わるや否や、クリスタルな神秘とでもいうのか筆舌し難い多彩なパーカッション群による不思議でミニマルな趣の余韻が印象的ですらある。
 エレピとシンセによる小気味良いイントロの4曲目は、あたかもジャーマン系アシッド感覚+電子音満載なクラウトロック風から初期PFMを連想させるアコギのソロへの転調が聴く者の心の琴線を揺さぶる好ナンバー。
 中盤から後半にかけて正統派イタリアン・ロックたる王道を地で行く抒情と陰鬱が混在した音空間には聴き手の誰しもが圧倒される事必至。
 ストリング・シンセの音の壁とギター、ベースとの応酬、朗々たる啓示なヴォイスにアコギとシンセのせめぎ合いが得も言われぬ位の美しさとエクスタシーを醸し出しているであろう5曲目も聴き処満載。
 ストリング・シンセの巧妙な使い方、オルガンとシンセの絶妙な間の取り方…各鍵盤系の長所を活かしたMaurizio Zarrilloのスキルの高さと手腕の見事さが際立っている。
 ジャズィーな佇まいのエレピとヘヴィロックなリフによる一見二律背反で対極ともいえる旋律と構図がミスマッチと思えない位にコンバインしたイントロの6曲目、アコギとストリング・シンセをバックにMichele Zarrilloの歌唱力が光っている中、ZEP調のヘヴィサウンドに加えてクラシカルなキーボードパートが半ば強引に転調する様は、構築と破綻との狭間から見い出せる美意識が存分に堪能出来て、実にセミラミスらしい面目躍如さが如実に表れており理屈と感動をも越えた心地良さが脳裏に刻まれる…そんな思いですらある。
 ラスト7曲目に至っては、エレキとアコギとの早弾きアルペジオ全開で、後を追うかの様なヴィブラフォン、ストリング・シンセの共鳴が終局へと向かう様は、狂気の道化師があたかもリスナーに迷路にも似た地獄巡りは決して終わる事の無い堂々巡りであると告げているかの様で、中盤から後半にかけてどことなくセンチメンタリズムな色合いに染まった抒情性の中に刹那なほろ苦さのみが残されて幕を下ろすといった具合である。
          
 1973年当時のイタリアン・ロック隆盛期に於いて、有名無名問わず各々のレコード会社から雨後の筍の様にリリースされるバンドやアーティストはまさしく団栗の背比べみたいな様相を呈しており、そんなさ中に一躍世に躍り出たセミラミスであったが、会心の一枚であるという自負を抱き満を持してリリースされたデヴュー作であったにも拘らず、悲しいかな当時弱小インディーズ系マイナーレーベルであるが故の運命とでも言うべきなのかプロモート等の諸々を含めた力不足が災いし、思った以上にセールスが振るわず伸び悩みに苦戦を強いられ、結果的には惨敗を喫するという憂き目に遭ってしまう。
 当時10代半ばないし後半のティーンエイジャーだった若い彼等にとっては、青春の思い出云々という以前に傷付き悩み打ちひしがれるといった大いなる挫折そのものだったに違いあるまい…。
 それでも気丈にライヴ活動をこなしつつ、失地挽回と巻き返しの機会を窺っていたものの、結局翌1974年夏のVILLA PAMPHILIのフェスティバルを最後にバンドを解体させる事となる。

 ギター兼ヴォーカリストのMichele Zarrilloはバンド解散後、正式にプロのソロアーティストに転向しセミラミス時代とは打って変わって時流の波に乗ったイタリアン・ポップスシンガーとして数々のヒット曲を世に送り出し、サンレモ音楽祭の常連組に数えられるまでになった現在もなお精力的に活躍中で、1998年には単独で初来日のソロ好演を果たしユーロロック並びイタリアン・ポップスファンは思わず彼のステージ上での雄姿に色めき立ったそうな…。
 Michele以外の他のメンバーのその後の動向については詳細こそ明らかにされてはいないものの、一時的ながらも音楽業界から距離を置きつつも、時間と時代の推移と共に徐々に音楽関係の裏方ないしセッション活動に復帰していたとの話である。
 セミラミスが遺したたった一枚の唯一作も、その後のイタリアン・ロック愛好家達の地道な蒐集と努力の甲斐あって、70年代末期から80年代全般に吹き荒れた高額プレミアムなイタリアン・ロック廃盤ブームを担う一枚として世に認知され、幻のトリデントレーベルの入手困難盤としてオパス・アヴァントラやビリエットと共に中古廃盤専門店の壁に鰻上りな万単位の額で壁に掛けられ羨望の眼差しで注目されていたのは最早言うまでもあるまい。
 評判が評判を呼びセミラミスを含めたイタリアン・ロックの名作・名盤がいたずらにブート紛いな復刻盤として世に出回る様になった頃、粗悪な音質であろうとなかろうとファンはこぞって飛び付いたのが嬉しい様な悲しい様な思いだったのが昨日の事の様に思い出されるから困ったものである(苦笑)。
 後年は日本盤やイタリア盤を含めセミラミスがアナログLP盤並びCDとして正式にリイシューされ容易に入手出来るようになり、その甲斐あってか90年代以降~21世紀の今日までに至る70'sイタリアン・ロックリヴァイバルの気運と呼び声が高まると同時に、前回紹介のデリリウム始めRDMのみならず、単発リリースのみで終止したムゼオ・ローゼンバッハ、マクソフォーネ、アルファタウラス、RRR、果てはビリエット・ペル・リンフェルノまでもが現役第一線として復帰を果たす事となり、時代の気運と追い風に後押しされる形で呼応するかの様にMaurizio Zarrillo、Paolo Faenza、そしてGiampiero Artegianiというオリジナルメンバー3人が集結し、セミラミスは再び息を吹き返すと共に新たなメンバーとしてVito Ardito (Vo, G)、Antonio Trapani (G)、Ivo Mileto (B)、Daniele Sorrenti (Key, Flute)の4人を加え7人編成の大所帯となってシーンへの復帰を見事に果たす事となる。 
          
 2017年8月、川崎クラブチッタにてデリリウム、RRRと共に初めて日本の地を踏む彼等は美貌の悪しき女王セミラミスの名の下に、混迷の世にカオスと漆黒の闇のエナジーを纏って多くの聴衆の前で奇跡と狂気を孕んだ白熱のライヴパフォーマンスを披露したのは記憶に新しいところである。
 時代と世紀を越えて復活を果たした妖(あやかし)の伝道師たる彼等の今後の展望と動向に、私達は今こそ真正面から堂々と受けて立たねばなるまい…。

Monthly Prog Notes -September-

Posted by Zen on   0 

 鬱陶しく暑苦しかった残暑が過ぎ、気が付けば日に々々秋風の肌寒さが感じられる様になった今日この頃ですが、皆様如何お過ごしでしょうか…。

 9月最後にお送りする「Monthly Prog Notes」は、まさしく芸術の秋…プログレッシヴの秋到来を告げるかの如く、選りすぐりの強力ラインナップ3アーティストが出揃いました。
 名実共に21世紀イタリアン・ロックの代表格と言っても過言では無い“ラ・マスケーラ・ディ・チェラ”、実に7年ぶり通算第6作目の新作は、従来通りの70年代イズムを継承した路線と作風で、かのオルメの『Felona E Sorona』やメタモルフォシの『Inferno』にも追随するかの様な…あたかも彼等自身デヴュー当初の気概と初心に立ち返ったかの様な、原点回帰を目論んだダークエナジー迸るヘヴィ・シンフォの醍醐味が徹頭徹尾存分に堪能出来る充実感溢れんばかりの快作(怪作)に仕上がってます。
 2016年に彗星の如くデヴューを飾って以降、年一作というハイペースで新作をリリースし、個人的には21世紀ブリティッシュ・シーンに於いて、アイ・アム・ザ・マニック・ホエールと並んで俄然精力的に気を吐き続けている名匠Tony Lowe率いる“ESPプロジェクト”4作目の新譜は、往年のブリティッシュ・プログレッシヴが内包していたジェントリーなリリシズムを踏襲した、決して安易にメロディック・シンフォに相容れる事無く、あくまで大英帝国の音らしいロマンティックで良質なポップス感覚のフィーリングがミクスチャーされた、まさしく時代感相応のシンフォニックに胸が熱くなる事必至です。
 久々のスペインからは、情熱溢れる正統派スパニッシュ・プログレッシヴでリスナーを魅了する期待の新星“クァマー”の堂々たるデヴュー作がお目見え。
 スペインの異国情緒溢れる雰囲気に加えて、ジャケットアート総じてアラビック&ミスティックな妖しい佇まいを纏いつつも、かつてのメズキータ、グラナダ、果てはカイやイセベルグといった、かつての70年代全盛期を彷彿とさせるアンダルシアの陽光と陰影のイメージが色濃く反映されたヴィンテージ・スパニッシュの底力が垣間見える秀作となってます。
 世界的規模に拡がったコロナ禍が収束する事無く、2020年も間もなくその一年が終わりを迎えつつある今秋、コロナに臆する事も屈する事も無く創作の大海に身を投じ絶え間無く挑戦し闘い続ける、熱き魂を抱いた渾身の楽聖達が奏で謳う凱歌に思う存分魂を震わせて下さい。

1.LA MASCHERA DI CERAS.E.I
  (from ITALY)
  
 1.Il Tempo Millenario
  i.L'Anima In Rovina/ii.Nuvole Gonfie/iii.La Mia Condanna/
  iv.Scparazione/v.Del Tempo Sprecato
 2.Il Cerchio del Comando
 3.Vacuo Senso
  i.Prologo/ii.Dialogo/iii.Nella Rete dell'Inganno/
  iv.Il Risueglio di S/v.Ascensione

 オルメの代表作にして傑作『Felona E Sorona』の続篇的解釈だった通算5作目『Le Porte Del Domani』から実に7年ぶり6作目の新譜を堂々と引っ提げて、コロナ禍という不安と混迷のさ中我々の前に再びその雄姿を現した21世紀イタリアン・ロックのパイオニア的存在ラ・マスケーラ・ディ・チェラ
 復帰までに至る長き7年間、新進の台頭始め世代交代やら70年代ベテラン勢の復活と新生…等といったイタリアン・プログレッシヴシーンを巡る大なり小なりの様変わりは否めない今日に於いて、新世代の先駆者的ポジションでもある彼等の復活劇はまさしく新鮮な驚きと共に、改めてネームヴァリューに頼らず音楽的経験とベテランだからこその自信と風格が如実に表れた、看板に偽り無しの期待通りに違わぬ素晴らしい快作であると断言出来よう。
 Fabio Zuffantiを筆頭に、結成当初からのオリジナルの面子Alessandro Corvaglia(Vo)、Agostino Macor(Key)の3人以外が一新され、ゲスト参加のドラマーとフルート兼サックス(デリリウムのMartin Grice !!)による布陣で臨んだ今作は、復帰に相応しくアップ・トゥ・デイトにシェイプアップされ幾分シンプルで聴き易くなりつつも、仄暗いダークエナジーを帯びたサウンドの重厚さと緻密な曲構成は健在で、さながらメタモルフォシの『Inferno』『Paradiso』に近い雰囲気を醸し出している。
 アートワーク総じて70年代イズムの精神が2020年という時代相応に見事転化したエポックメイキングであると共に、全3曲の収録時間も45分といった70年代のアナログ期を彷彿とさせるであろう彼等なりの徹底したこだわりすら垣間見えて、さながらデヴュー当時の気迫と熱気が再来した原点回帰に加え再度初心に立ち返り自己を見つめ直す決意表明すら窺い知れよう。
 ちなみに本作品タイトルS.E.Iの意は、Separazione(分離)/Egolatria(自我)/Inganno(欺瞞)の3つのキーワードで構成されたものである。
          

Facebook La Maschera Di Cera
https://www.facebook.com/mascheradicera

2.ESP PROJECTPhenomena
  (from U.K)
  
 1.First Flight/2.Before Saturn Turned Away/
 3.Telesthesia/4.Fear Of Flying/
 5.Living In The Sunrise/6.Sleeping Giants/
 7.Seven Billion Tiny Sparks

 2014年のブラム・ストーカー復活作『Cold Reading』に於いて、その一端を担った立役者として一躍その名が知られる事となったマルチプレイヤー兼コンポーザーTony Lowe。
 その2年後の2016年Tony主導によるESP名義によるデヴュー作を皮切りに、2018年ESP 2.0名義の2作目『22 Layers Of Sunlight』、翌2019年ESPプロジェクト名義による3作目『The Rising』を経て、同プロジェクト名義による2020年の最新4作目が今こうして届けられた次第である。
 Tony自身多大なる影響を受けたであろう中期ジェネシス…バンクス風のメロトロン系含むキーボードにハケットスタイルのギターワークといったサウンドバックボーンが余すところ無く存分に活かされた、エモーショナルでリリシズム溢れるブリティッシュ・シンフォニックが縦横無尽に展開され、さながら英国の黄昏時を思わせるイメージとヴィジュアルが脳裏を過ぎると表現するには些か言い過ぎであろうか(苦笑)。
 マルチプレイによる多重録音ながらも機械的な冷徹さは微塵にも感じられず、ハートフルな歌メロと温もりそしてバンドスタイルさながらの迫力と展開に、往年のかつての英国プログレッシヴをリスペクトしている彼の信条(身上)とプライドが、これでもかというくらい聴く者の胸を熱くする事だろう。
 真のプログレッシャーにして匠という名に恥じない秀逸で崇高なる一枚と言っても異論あるまい。
          

Facebook ESP Project
https://www.facebook.com/ESPProgProject

3.QAMARTodo Empieza Aquí
  (from SPAIN)
  
 1.Faraón/2.A Través Del Camino/3.Guadalete/
 4.Éxodo/5.Lydia/6.As Bruxas/7.Qamar/
 8.Añoranza

 何とも妖しげでミスティックな雰囲気すら漂う、久々に異国情緒香る往年のスパニッシュ・ロックの精神を受け継いだ期待の新鋭クァマーの、大仰な言い方で恐縮だが神憑りも似たデヴュー作がここに届けられた。
 アラビア語で月を意味するバンド名で、意匠自体も月=美神の持つ神秘性とイメージに加えてアラビックな趣がふんだんに表れており、見てくれ的には一瞬かのイタリアのセミラミス(失礼!!)をも連想したものの、セミラミスほど邪悪さや不気味さは皆無で、サウンド的なイメージでいえば同国のカイやイマン、イセベルグにも相通ずるヘヴィ&シンフォニックなジャズ・ロックを構築しており、かつてのスパニッシュ・ロックが持つフィーリング的に近しいところで、メズキータ、グラナダ、通好みならフォルマス、アストゥルコーン辺りが想起出来るだろうか…。
 メンバーのフォトグラフを拝見しても、私とほぼ同年代か或いはややちょっと上といった風貌で、それこそちょっとポッと出の若手と違い各人が長年様々な音楽経験を積んできた熟練者と見受けられ、演奏の技量からコンポーズ能力等に至るまで徹頭徹尾素人臭さが一切無い、スパニッシュの伝統と王道を脈々と継承したプロ意識の高さを物語る傑出した一枚に仕上がっている。
 ギター、キーボード、ベース、ドラムによる基本的な4人編成で全体の9割方がインストゥルメンタルで占められており、終盤近くで女性Vo入りのナンバーと曲によってはフルート、サックス、ヴァイオリン、フラメンコギターがゲスト参加しており、昨今のワールドワイドを意識した21世紀スパニッシュ系に於いて、あくまでも自国のスペインらしさとアイデンティティーが根付いた本来の持ち味を頑なに保持し続ける職人肌の“域”というか“粋”にも似通っている。
 嗚呼、やはりスパニッシュ・ロックとは本来こうでなければ…と思わせるくらいの情熱と哀愁がぎっしりと詰まったアンダルシアからの風の便りを、是非とも貴方(貴女)の耳で体感してほしい。
          

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