夢幻の楽師達 -Chapter 74-
3月終盤に差し掛かり、日に々々春らしい陽気と季節風が肌で感じられる様になりました。
各地の至る所で桜の開花宣言が聞かれる様になり、コロナ禍の規制緩和と相まって3年振りにお花見の宴が解禁され、世間一般並び経済的にも再び活気と賑わいが戻りつつある一方で、状況に応じたマスク着用の自主判断と言われつつも、悲しいかな未だにマスク生活から抜け出せない慣れというか習慣がしっかり身に付いてしまった感が否めない今日この頃です(苦笑)。
そんなさ中でのWBC侍ジャパン14年ぶりの優勝は、国境云々を越えた感動と勇気と希望をもたらした最高の球宴でした。
日本優勝も然る事ながら、勝者も敗者も問わず共に健闘し球宴を盛り上げたアメリカ、メキシコ、そしてイタリアやオーストラリアの選手陣にも心から拍手を贈りたいそんな気持ちです。
スポーツや文化に国境は無いとは言いつつも、未だに独裁主義やら軍事国家だのを唱え、名ばかりな軍拡と祖国統一、無意味なプロパガンダに侵略行為が繰り返されているといった…国家間の緊張と揺らぎに心が休まらず胸を痛めているのもまた正直なところです。
新たな春の訪れと共に希望と期待で胸を膨らませ心躍る新年度の幕明けが待ち遠しくも、どうか良い一年間であって欲しいと願いたいそんな思いですらあります。
今月の「夢幻の楽師達」は、栄光の70年代イタリアン・ロックからPFM始めバンコ、ニュー・トロルス、オルメといった大御所とほぼ同時期にデヴューを飾りながらも、一時的な解散を経て21世紀の再結成で他の70年代勢とは異なる歩みで、唯一無比の孤高なる存在感を今なお醸し出していると言っても過言では無い…ブリティッシュ・ロックのエネルギッシュなスピリッツとイタリアン・ロックの劇的な崇高さを纏ったカリスマ性を神々しく放ち続ける“トリップ”に、今一度改めて焦点を当ててみたいと思います。
THE TRIP
(ITALY 1967~)


Billy Gray:G, Vo
Joe Vescovi:Key, Lead Vo
Arvid "WEGG" Andersen:B, Lead Vo
Pino Sinnone:Ds, Per
イタリアン・ロック黎明期の夜明け前、60年代後期に全世界規模で人気を席巻していたビートルズ旋風の波及は、御多聞に漏れずイタリア全土にも多大なる影響を及ぼし、それまでカンツォーネが専ら主流だった音楽業界から、日本のGS同様に数多くものビートロックグループを世に輩出し、大御所のイ・プー始め、カマレオンティ、ビートロック時代のオルメやニュー・トロルス、PFMの前身クェッリ…etc、etcがこぞってデヴューを飾り、それが後々の70年代第一期黄金時代への大きな足掛かりとなったと言っても過言ではあるまい。
そんなイタリアン・ミュージック界が大きな転換期に差し掛かっていたであろう1967年、先に挙げたカマレオンティの元メンバーRiki Maiocchiがイギリスに渡英していた頃のこと、当時イギリス国内のミュージシャンはヨーロッパ系ポップシンガーのバックバンドを務めていたケースがかなり多かったらしく、前出のRiki MaiocchiのバックバンドとしてベーシストArvid "WEGG" Andersen、そして後年ディープ・パープル、レインボー、ブラックモアズナイトで世のロックギタリスト志望少年達にとって神格化されたリッチー・ブラックモアがトリップの前身バンドとして参加していたのは有名なところであろう。
後にRiki Maiocchiがイタリアへ帰国の際にArvidそしてリッチーも同行するのだが、まあ…リッチーの性格も然ることながらイタリアの風土やら音楽性が性に合わなかったのであろう、結局程無くしてリッチーはRikiのバックバンドを辞めてドイツに渡りディープ・パープルとなる前身バンドへ参加する事となる。
結局残されたArvid自身もRikiと袂を分かち合い、イタリアを拠点に活動していたイギリス人ギタリストのBilly GrayとドラマーIan Broadの3人で新たなバンドを興し立て直しを図るものの、音楽性の喰い違いでIan Broadが抜け、ArvidとBillyは何度かイタリア人ミュージシャンを補充しては活動を継続させていくうちに、意気投合したキーボーダーのJoe Vescovi、そしてドラマーのPino Sinnoneによる英伊混成の4人でバンドネーミングも新たにトリップとしてスタートを切る事となる。
国籍違いとはいえ4人各々が名うての実力派プレイヤーだった甲斐あって、程無くして (あの悪名高き) RCAイタリアーナと契約を交わした彼等は、プログレッシヴ・ロック元年でもある1970年にバンドネーミングを冠したデヴューアルバムをリリース。
サウンドの傾向としてはオルガンを大々的にフィーチャリングした、ジャケットの意匠が物語っている通りのサイケデリックで且つヘヴィでビートなスタイルをも醸し出したアートロックを創作しており、初々しさの中にも翌年の次回作『Caronte』ないしトリオ編成移行の『Atlantide』へと繋がる息吹すら想起してしまい思わず感慨深いものすら覚えてしまう。

しかしいかんせん、デヴュー作としてセールス的には及第点な売れ行きといったところではあるが、サウンド的にはやはり未消化で粗削りな面が災いしたのか、資料的な価値こそあれど散漫な印象は否めないというのが正直なところであろう。
流石に彼等もデヴュー作での未熟な至らなさを自覚していたのか、それらを反省材料として踏まえて臨んだ翌1971年の2作目『Caronte』では、キーボードとギターとのバランスや対比が見事に活かされ、オルガンメインだった前デヴュー作とは打って変わって、メロトロンやチャーチオルガンをも導入し、ドラマティックさながらに怒涛で火が吹くかの如く重厚でアグレッシヴな音世界を構築し、サウンド面でも格段の向上と改善が窺えるプログレッシヴでヘヴィ、尚且つ整然とした印象すら与えるであろう、彼等の初期の最高傑作となったのは言うまでもあるまい。
『Caronte』での成功と鰻上りな高評価を機に、その後は精力的にギグを積み重ね、ローマの老舗大手のパイパークラブ主催のPiper in The Controcanzonissima Festival、そしてイタリア版のウッドストックともいえるVilla Pamphili Pop Festival 1972に出演し、まさに我が世の春を謳歌していたトリップの快進撃。
そのめざましい活躍を追い風にバンドの周囲並びオーディエンス側からも次回作での期待が高まる中、その一方でバンド内部では大きな不協和音が生じていたことを誰しもが知る由も無かった。

『Caronte』での成功に気を良くし、ディープ・パープルないしユーライア・ヒープばりの更なるヘヴィでハードロック系を踏襲した作風を主張するBillyとPinoに対し、全世界規模に人気を博していたEL&Pのめざましい活躍に加え、同国のオルメやラッテ・エ・ミエーレの活躍を横目で見て、更なるプログレッシヴ路線を主張するJoeとArvidの音楽性指向の対立がここに来て表面化し、結局双方の溝は埋まる事無くBillyとPinoはトリップを去る事となり、音楽的なイニシアティヴを握ったJoeの主導の下、キーボードトリオのスタイルとしてトリップは心機一転で再スタートを切る事となる。
こうして新たなドラマーとして迎え入れられたのは、当時まだ無名にも近い存在ながらも若干17歳にしてポップシンガーやカンタウトーレのバックで腕を磨き続け、後年世界的なドラマーとして名を馳せる事となるFurio Chiricoその人であったのは言うに及ぶまい。
幻と伝説のアトランティス大陸をモチーフとした1972年の通算3作目『Atlantide』は、キーボードトリオに移行してから初出の作品となったが、メインキーボードがオルガンとエレピのみという至ってシンプルなスタイルで、オーヴァーダビング等は一切無しでまさしくスタジオライヴ一発録りに近いノリで、このまま即行でライヴが出来るという狙いもあってか、一聴した限り地味な印象を与えかねない危うさこそ孕んでいたものの、デザインチームのStudio UP & DOWNが手掛けた変形ジャケットの助力の甲斐あって、粗削りながらもなかなかの力作に仕上がっている。


翌1973年ともなると、イタリアン・ロックの絶頂期に差し掛かっていた時期に呼応する形で、(契約切れなのかは定かではないが…) RCAイタリアーナを離れ、当時ヌメロ・ウーノ傘下でオパス・アヴァントラ始めビリエット・ペル・リンフェルノ、セミラミスを擁していた新興レーベルのトリデントに移籍した彼等は、前作3rdでの力量不足を含めた反省点を踏まえ、持てる力の全てを費やしたキーボードトリオとしての集大成にしてイタリアン・ロック史に残る最高傑作と誉れ高い通算4作目『Time Of Change』をリリースし、ジャケットの意匠通り更なる高みと飛翔が期待されつつも、悲しいかな肝心要のトリデントレーベルの閉鎖・倒産でトリップ自体も失速し、バンドメンバーすら心身ともに疲弊し活動意欲を失った彼等はバンドの解散を決意し、人知れずシーンの表舞台から静かに幕を下ろす事となる…。

トリップ解散後のメンバーの動向にあっては、大きく躍進したのはFurio Chiricoと言えるだろう。
翌1974年にアルティ・エ・メスティエリの主要メンバーとして迎え入れられた彼の後年から21世紀の現在までに至る活躍はもはやここでは説明不要であろう。
キーボーダーのJoe Vescoviは、PFM参加の為アクア・フラジーレを抜けたBernardo Lanzettiに入れ替わるかの如くバンドに参加するも、結局新作のマテリアルを残すことなくバンドは解散し、1976年イ・ディク・ディクの6作目『Volando』にゲスト参加以降はレコーディング・セッションマンをメインに音楽活動を継続。
1978年にはトリップ時代の伝でリッチー・ブラックモアのレインボーの3作目『Long Live Rock & Roll』にセッションマンとして参加するものの、結局不採用に終わるという憂き目に遭ってしまうのだから、つくづく運が無いというか…。
その後も数々のセッションマンとして経験値を積み重ねつつ、21世紀を迎えた2012年、突然降って沸いたかの様なトリオ時代のトリップ再結成 (おそらくは限定期間だと思われるが) に、多くのイタリアン・ロックファンが歓喜に沸き上がったのは言うまでもあるまい。
同年初来日を果たし、川崎クラブチッタでの『Atlantide』完全再現ライヴに聴衆は惜しみない拍手と歓声を贈り、感涙で頬を濡らしたことであろう…。
しかし…そんな一夜の夢舞台から程無くして、バンドの演りきった感を見届けたかの様にArvid "WEGG" Andersen突然の逝去に加えて、2年後の2014年Arvidの後を追うかの如くキーボーダーのJoe Vescoviも鬼籍の人となってしまう。
こうしてトリップの音楽物語はこれで静かに幕を下ろすのかと思いきや、2021年…何と今度はドラマーPino Sinnone主導による新生トリップが再スタートを切ることとなり、名作『Caronte』リリース50周年記念アルバムと銘打った『Caronte 50Years Later』を発表し、Pino以外は全く新しい面子で固め、尚且つ『Caronte』の完全再現のみに止まらず、未発マテリアルの再録等も収めた豪華盤仕様になっている。

だが…新生トリップ再始動の余波はこれで止まらず、2022年…何と更には名ドラマーFurio Chirico主導によるFurio Chirico's THE TRIPなる新バンドまでもが結成され、再結成した本家トリップの70年代回帰スタイルとは趣を異にする、21世紀新生スタイルの時代相応なサウンドというから、個人的に言わせて貰えば…何と言うか…その…開いた口が塞がらないという事であろうか (苦笑)。
鶏が先か卵が先かとは言い難いものの、今や70年代イタリアン・ロックのベテラン勢…ニュー・トロルス始めラッテ・エ・ミエーレまでもが名店の暖簾分けよろしく、本店と支店に枝分かれ的な展開を見せているが、まあこれも時代の流れに沿ったバンド運営の一つなのかもしれない。
話はトリップに戻すが、奇遇というかバンドに携わったドラマー両者による2つのトリップが現時点で存在している次第であるが、もしこのまま互いが相反する事無く融和出来るのであれば、また近い内にトリップWバンドとして川崎クラブチッタで夢の共演 (饗宴) の可能性なんて事も考えられよう。
要はPinoとFurioの気持ち次第に委ねなければならないということか…。
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