夢幻の楽師達 -Chapter 02-
8月第二週目の「夢幻の楽師達」をお届けします。
過去のNECウェブリブログ時代の文章データをFC2へと移植し、加筆と修正を施して完全新生並び復刻リニューアル・セルフリメイクするという我ながら無謀ともいえる途方も無い作業に移行してからというもの、意外や意外…不思議と苦にならず何故だかとても楽しい気持ちで日々を過ごしている今日この頃です。
先週はイタリアン・ロックでしたので、今週はバリエーション豊かに自らの引き出しからフレンチ・ロックシーンきっての夢想家にして抒情派を謳う“ピュルサー”に焦点を当ててみたいと思います。
PULSAR
(FRANCE 1970~)


Gilbert Gandil:G, Vo
Jacques Roman:Key, Mellotron
Roland Richard:Flute, Piano, Syn
Michel Masson:B
Victor Bosch:Ds, Per
思い起こせば…我が国に初めてフランスからピュルサー(当時はパルサーとも呼ばれていたが)なる存在が紹介されたのは、1978か79年頃ではなかろうか。
70年代末期に於いて、当時の新宿レコード…或いはエジソン、モダーンミュージック、ディスクユニオンといったマニア御用達の専門店でしかお目にかかれなかったであろうユーロピアン・ロックの名匠達。
大多数の名作・名盤で犇めき合っていたイタリア勢とドイツ勢とはまた違った異彩を放っていたフランスのロックシーン。
マグマ、アンジュといった両巨頭を皮切りにザオ、エルドン、クリアライト、タイ・フォン、モナ・リザ、後に我が国で爆発的な評判を得るアトール、そして夢想的な浮遊感ながらも堅実な作風を誇る今回の主人公ピュルサー辺りが、(ジャズロックとシンフォニックを総括した意味で)フレンチ・プログレッシヴの代表的な存在と言えるだろう。
大手のワーナーからワールドワイド・リリースでかなりの知名度を得ていたタイ・フォンを別格とすれば、日本の国内盤リリースでキングを経由してピュルサーの2nd『The Strands Of The Future(終着の浜辺)』が、松本零士氏の手掛けた特典イラストポスターというおまけ付きという相乗効果で、かなりの評判を得ていたのも丁度この頃であろう。余談ながらも、あの大御所アンジュでさえも日本フォノグラムから細々とお粗末な国内盤が出回る程度の扱いで…おまけにあの国内盤でのあんまりな装丁(知る人ぞ知る)には閉口せざるを得ない(苦笑)。
前置きが長くなったが、2作目の『The Strands Of The Future』での日本国内での好セールスで拍車をかけたピュルサーは、ユーロ・ロックコレクション元年ともいえる1980年、記念すべきデヴュー作『Pollen(脈動星)』がキングからシリーズの第1弾としてめでたくラインナップに加えられた次第である。

時代を遡る事1966年…。当時地元リヨンの学生で、後々バンドの中枢的な立場ともなるGilbert Gandil(G)、Victor Bosch(Ds)、Jacques Roman(Key)の3人によってピュルサーの歴史は幕を開ける。
ビートルズ始めストーンズの洗礼を受けて音楽活動を始めた彼等は、その後も各々がクリーム、ジミ・ヘンドリックス、オーティス・レディング、ナイス…等に触発されるうちに徐々に自らの音楽スタイルを形成し、ピュルサーの前身でもあるソウル・エクスペリエンス→フリー・サウンドへとバンド名を変えながら68年頃まで活動していた。
ドラマーのVictorの言葉では、当時のバンド・カラーはサイケデリックでロマンティシズムなスタイルを追求していたとの事。
時代は70年代に入り、ピンク・フロイド始めソフト・マシーン、ジェスロ・タルといった当時のブリティッシュ・シーンの第一線で活動していた時代の先鋭なる寵児達に触発され、漸く自らの理想の音楽なる回答を得た彼等はバンド名をピュルサーと正式に改名し、この頃にはオリジナルのベーシストPhilippe Romanを加えた4人編成でオリジナルのナンバーに加えて尊敬していたフロイドの“原子心母”からの抜粋曲や“ユージン、斧に気をつけろ”といった曲の半々をレパートリーに、地元リヨンを拠点にフランス国内で精力的に活動していた。
1972年、彼等ピュルサーにとって後々の運命を決定付ける千載一遇の大きなチャンスが巡ってきた。フランスの老舗ライヴハウス“Golf-Drout”にて、国内各地の名立たる猛者が一同に会したロック・コンテストでベスト6圏内に見事に勝ち残った彼等は、当時デヴュー間もないアンジュと共に貴重なライヴ音源を残す事となる。そう…所謂これがかの有名な大手フィリップスからリリースされた『Groovy Pop Session』である。
その後アルバム・デヴューを飾るまでの2年間は、イギリスのファミリーの前座を務めたりフランス国内で以前にも増して精力的に演奏活動に専念する事となり、日に々々知名度を上げながらも演奏するキャパシティーも大きくなりつつあった。もうこの頃ともなるとオリジナルのナンバーを中心に演奏してたのは言うに及ぶまい。
73年末、ツアーの終了後にデモを製作しフランス国内外のレコード会社数社にコンタクトを取ったものの、当時のフランス国内の会社は自国のアーティストには殆ど興味を示さず、マグマやアンジュのプロモートで手一杯だったフィリップスを例外としても、サンドローズのセールス不振で憂き目を見たポリドール然り、フランスにしろ日本にしろ…とどのつまりはどこの国でも似た様な話、フランスがシャンソンやフレンチポップアイドル、日本でも歌謡曲やらアイドル歌手に音楽産業として重点を置いていたあの当時は、まだまだロックが大々的に市民権が得られていない不毛の状況下で及び腰になっていたのも理解出来なくもない(苦笑)。
そんな厳しい状況のさ中、イギリスはデッカレーベル傘下のKingdomからキャラバンのプロデューサーを務めたテリー・キングの目に留まり、ピュルサーは74年の春Kingdomと契約しリヨン郊外はSaint Etienneスタジオにて1ヶ月間かけてレコーディングし、同年10月待望のデヴュー作『Pollen』をリリースする。
ちなみに遅れ馳せながらも、フルート始め管楽器系からストリング・シンセを手掛けるRoland Richardが5人目のメンバーとして正式に加わったのも丁度この頃である。
記念すべきデヴュー作『Pollen』、所謂“花粉”という意味深なタイトルと相俟って深遠な宇宙空間を浮遊する生命=種の源ともいうべき、荘厳にしてスペイシーでサイケデリックな名残をも感じさせつつ…あたかも夢遊病の如く朧気な彷徨にも似たイマジネーションを想起させ、多少粗削りな部分こそ散見出来るもののデヴュー作にして外宇宙と内面宇宙との饗宴と調和を謳ったテーマは、ある意味に於いて野心作でもあり傑作であるといっても過言ではあるまい。
『Pollen』の評判はフランス国内は元よりイギリスでも上々で、作品リリース直後彼等はイギリスへ渡り、概ね1ヶ月間のサーキットでプロモーションツアーを敢行し、ロックの殿堂マーキークラブを皮切りにイギリス国内の数ヶ所でギグを行い、それと併行してキャメルやアトミック・ルースターの前座を務めたりしながら、彼等の評判は次第にヨーロッパ諸国で注目を集める事となる。
翌75年、彼等はフランスに帰国し次なる新作への準備に取り掛かるが、それと前後してベーシストのPhilippeがツアーによる心身の疲弊と穏やかな暮らしと生活を送りたいというかねてからの希望によりバンドから離脱。後任ベーシストを入れない4人編成(KeyのJacques Romanがベースを兼任)で、スイスのジュネーブにて2nd『The Strands Of The Future』をレコーディング。サウンドエンジニアにはイエスの一連の傑作を手掛けた敏腕クリス・ペニィケイトを迎え、ベース不在のハンデを感じさせない位の渾身の力と気迫に漲ったテンションでバンドの危機を見事に乗り切って、翌76年9月に第2作目『The Strands Of The Future(終着の浜辺)』をリリース。
本作品から漸く導入されたメロトロンを効果的に活かしたその前作以上の深遠で終末感漂う世界…哀愁と抒情が渾然一体となった彼等ならでは唯一無比の音空間は、最早バンドの人気を完全に決定付けたといっても異論はあるまい。

バンドの人気と実績が決定付けられた片やその一方で、以前からサウンド・クオリティーに不満を持っていたバンド側と、プロモショーンに余り乗り気で無いKingdomレーベルとの間に軋轢が生じ、結果ピュルサーはKingdomとの契約を解消し、より以上に理想的な環境が整った新天地を目指し、同時期に好条件を提示して移籍を持ちかけたフランスCBSと程無くして契約を結ぶ事となるのだが、後年Victor曰く“CBSとの契約は本当に恥ずべき大間違いだった…”と回顧している。
尚…余談ながらも、この頃バンドツアーのライト・ショウを担当していたスタッフでベースも弾けたMichel Massonが正式に加入し、バンドは再び5人編成に戻っている。
先のVictorの後悔云々はともかくとして、大手CBSでの充実したサウンド・イクイップメントを含む好環境に乗じて、翌77年彼等自身の音楽の集大成と言っても過言では無い、20世紀のユーロ・ロック史に残る最高傑作にして名作として掲げられる『Halloween』をリリース。
彼等自身が書き下ろしたオリジナル・ストーリーをモチーフに、本作品を構成する抒情性、美しさ、哀しみ、ミステリアス…等が見事なまでに集約・昇華された、文字通りプログレ衰退期に差し掛かっていた当時に於いて一抹の光明をも見出せる様なそんな趣すら窺える。
しかし…運命とは何とも皮肉なもので、素晴らしい好条件の許で全身全霊を注ぎ込んで作った傑作であるにも拘らず、当時世界的に勃発していたパンク&ニュー・ウェイヴといった産業音楽の波から疎外され、加えてCBSのプロモート不足という体たらくな原因が元で、『Halloween』はセールス不振に陥り、バンド側とCBSの関係は悪化の一途を辿ってしまう。
要は早い話…会社には入れてあげるけど、作品をリリースしたらあとは全部自己責任ですよと言わんばかりの遣り口に引っ掛かってしまった様なものである。
当然の如く、プロモートツアーでの援助からバックアップも無し、宣伝費用は全部自己負担…結果を残さなければ即放出という冷酷な音楽産業の仕打ちに、これにはメンバー全員心身共に辟易してしまうのも無理はあるまい。
おまけに『Halloween』をリリースする前、CBSは1stと2ndのリイシュー盤を出したものの、ここでも会社側はバンドには一銭も払っていないというから開いた口が塞がらない。
金銭的な困窮に喘ぎながらも、彼等は最後の力を振り絞ってポルトガルはリスボンで2日間のコンサートを開催。
トータル20000人を動員し大成功を収めるものの、フランス国内の音楽産業に不信感を抱いたまま活動意欲の低下に加え、ベーシストが照明関係の仕事に戻った事を契機にメンバーが一緒に顔を合わせる機会も徐々に少なくなり、各々が音楽以外の職種に就いた事も重なって、解散声明こそ出さなかったもののピュルサーは一時的に開店休業の状態に陥ってしまう。
そして時は流れ、時代は1981年…。公式な音楽活動こそしてはいなかったものの、Jacques、Gilbert、Victor、そしてRolandの4人は仕事の合間を縫っては時々顔を合わせ、(ほんのお遊び程度ではあるが)セッションやリハーサルといった、半ばリハビリに近い音楽活動で自己の再生と回復に努めていた。
そんな折、演劇とコンテンポラリーダンスとの融合による舞台『Bienvenue Au Consell D'administration!』での劇伴用音楽としてピュルサーに白羽の矢が当たり、彼等4人は再び観衆の目の前で舞台での演者達と共に素晴らしいライヴ・パフォーマンスを披露し、その結果…リヨンでの一年間、果てはパリでの1ヶ月ものロングラン公演で予想を大きく上回る大成功を収め、フランス文化庁からの助成金で同舞台の音楽をレコード化するまでに至った次第である。
一般のレコードショップには出回る事無く、芸術作品の一環として舞台会場のみでしか流通しない特殊な事情を考慮しても、ある意味に於いて本作品こそがピュルサー復活の狼煙でもあり起爆剤となったのは紛れも無い事実であると同時に、正規のピュルサー名義としての作品では無い分、劇伴作品という制約上幾分散漫な印象は否めないが、原点回帰と言わんばかりに1stと2nd期の作風に立ち返ったかの様なシンセ系の使い方に“やはり…これこそがピュルサー”と賞賛する向きも決して少なくはなかろう。
この功績を機に、2年後の1983年にはラジオ・フランスからの企画と招へいで、地元リヨンでの一日限定ライヴを行い、限られたキャパシティにも拘らず新旧のファンを問わず2000人もの聴衆を動員するという大成功をも収め、まさにフレンチ・プログレにピュルサー有り!と強く健在振りをアピールした。


駆け足ペースで恐縮だが、その後ピュルサーの4人はイヴェントやら企画云々では無い正規のバンド再起動に乗り出す事となり、丁度運良く時同じくしてフレンチ・プログレッシヴ・リヴァイヴァルという合言葉の許、ムゼア・レーベルの発足に呼応するかの如く、各々が仕事の合間を縫っては新曲の製作とリハーサルに時間を費やしていく事となる。
1987年末、ムゼアからのシンフォニック系のコンピレーションアルバムとしてリリースされた『Enchantement』の中で、アンジュ、アトール(クリスチャン・ベアのソロ名義)といったベテラン勢、そしてエドルス、ミニマム・ヴィタル、J・P・ボフォ…等といった当時の新進気鋭に混じってピュルサーも久々に新曲を披露し、時代相応らしい軽快なプログレッシヴ・ポップス調の新たな側面をも垣間見せてくれたのだった。
そして2年後の1989年の秋にリリースされた通算第5作目の『Görlitz』は、77年の名作『Halloween』に続くコンセプト・アルバムとして一躍脚光を浴び、前出のコンピアルバムで聴かれた軽快な新曲とはガラリと趣を変えた、ヨーロッパらしい悲哀感と寒々としたイマージュを湛えた80年代の最後を締め括るという意味合いをも含めた実に重厚感溢れる、ベテランらしい風格の傑作に仕上がっている。
第二次大戦のさ中…東独とポーランドの両国に跨る小都市ゲルリッツの分断という悲劇をモチーフに、旅客列車…時代の重みというキーワードを散りばめた、当時のベルリンの壁崩壊といった世相事情をも視野に入れた意味深な内容に仕上がっているという事も決して忘れてはなるまい。
全盛期の様な重厚感に若干欠けるきらいこそあれど、機材を含め時代相応のモダンでタイト、デジタリィーな作風の音で真っ向から新しいピュルサーのスタイルに挑戦した真摯で精力的な姿勢には大いに好感が持てる。
時代は更に流れて21世紀…。ピュルサーのメンバー4人もベテランの域を越えた円熟味を増して、各々が本職業で重要な役職やら、後進を指導する立場やポストに就いている…それ相応の年齢に達した頃であろう。
若い時分の様にあくせくする事無く、仕事も創作活動も慌てず焦らず地道にのんびりと楽しんでいる年齢であるという事を充分踏まえていても、やはり大御所としての風格とプライドは何ら変化する事無く健在であったのが嬉しい限りである。
2007年にリリースされた、実に18年振りの新譜で通算第6作目となる『Memory Ashes』(個人的には『The Strands Of The Future』に次ぐ秀作だと思う)は、21世紀型ピュルサーの決定版として新旧のファンに驚きと賞賛で迎えられた、まさしく眼から鱗が落ちる様な会心の一枚と言えよう。
大ベテランだとか実績があるとか…そんな生温いポジションに安穏と胡坐を掻く事無く、彼等は常に飽くなき探究心を持った開拓者の精神で時代と向かい合い、今日まで歩みを止める事無く“夢想”という名の終わり無き宇宙空間を彷徨い続けている修道僧にも似通っているというのは、些か言い過ぎであろうか…。

大御所のアンジュ、そして復活したタイ・フォン…かつての栄華を極めた70年代フレンチ・シンフォニックの名匠達が21世紀のシーンに返り咲いている近年、見事復活を遂げたピュルサーもこのまま順風満帆に軌道の波に乗ってくれるのかと思いきや、『Memory Ashes』のリリース以降またもや再び沈黙を守り続ける事となった次第であるが、その一方でピュルサーサイドから思いもよらぬ吉報が届く事となる。
『Memory Ashes』から6年後の2013年、キーボーダーのJacques Roman、そしてギタリストのGilbert Gandil両名のオリジナルメンバーを中心に、旧知の間柄だったシンガーソングライターのRichard Pickを迎えて新たなる新バンドプロジェクトSIIILK(シルク)を結成する事となる。
ピュルサーの系譜と作風を踏襲したであろう…一見別動隊バンド的な見方こそ否めないが、あくまで過去の音楽経験と実績を活かして、21世紀に順応し時代にマッチしたオリジナリティー溢れるシンフォニックへと高めている事はもはや言うには及ぶまい。
脈々たるピュルサーの血筋を継承しながらも、見事にピュルサー別動隊バンドといったイメージからの脱却が感じ取れ、現時点でリリースされているデヴュー作『Way To Lhassa』(2013)そして2作目『Endless Mystery』(2017)といった2枚の作品こそ彼等ならではの真骨頂が窺い知れる好作品と言っても過言ではあるまい(余談ながらも、2nd『Endless Mystery』ではピュルサーの管楽器奏者Roland Richardもゲスト参加している)。



いずれにせよ、彼等ピュルサー…そしてその系譜達は時代の波に飲まれる事無く、妥協とは一切無縁な時間軸で今も現役で活動し生き続けている。
彼等…そして彼等の作品が未来永劫語り継がれていく事をこれからも切に願いながら、ピュルサーというバンドが生き続ける限り、聴き手でもある我々自身も“終着の浜辺”へと辿り着くまで、気長に末永く付き合っていきたいものである。
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