幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 45-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、実に意外なところで日本のロック史に於いて独自の作風と路線をひた走り、ほんの僅かな活動年数と少ない作品リリース数であったにも拘らず、大きな足跡を残しまさしく伝説的な名バンドとして、今でも尚プログレッシヴ系を含め多くの洋楽・邦楽のロックファンから絶大な賞賛と支持を得ている、文字通り孤高の存在として名高い“あんぜんバンド”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


あんぜんバンド ANZEN BAND
(JAPAN 1970~1977)
  
  長沢博行:B, Vo
  相沢民男:G, Vo
  伊藤純一郎:Ds, Per
  相沢友邦:G
  中村哲:Key, Sax

 今回「夢幻の楽師達」にて彼等を取り挙げた事に、当ブログを閲覧されている方々の極一部からは“えっ!あんぜんバンドってプログレなの…!?”と大なり小なりの疑問を抱かれる事であろう。
 が、紛れも無く彼等あんぜんバンドは活動期間が僅かたった数年間であったにも拘らず、日本のロック史に於いて確実に揺るぎ無き大きな足跡を残し、俗に言う“伝説のバンド”などといった安易なカテゴリーには収まりきれない位のカリスマ性を秘めた唯一無比の存在として、解散してから30年以上経過してもその燻し銀の如き光沢と輝きは今でも失われていないと言っても過言ではあるまい。
 私個人が彼等の存在を初めて知ったのは…遡る事1982年、当時リットーミュージック出版の「ロッキンf」夏の臨時増刊号として刊行された“日本のロック”で取り挙げられたのが最初だったと記憶している。
 あの当時は飛ぶ鳥をも落とす勢いのあったRCサクセション始めYMO、子供ばんど、ピンク・クラウドを始め、デヴューしたばかりのラウドネスや、ベテランのバウワウ、そして当時のジャパニーズ・プログレの代名詞でもあったノヴェラなんかもカラー写真で紹介されてて、薄手の別冊誌ながらもそれ相応に内容が充実しており、資料性としての役割もかなり大きかったと思う…。
 その“日本のロック”の中の、歴史を飾った名作セレクションなるモノクロ写真のページの中で、はっぴいえんど始め頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド、村八分、四人囃子…等と並んで紹介されていたのが、彼等あんぜんバンドの代表作にして最終作でもあった『あんぜんバンドのふしぎな
たび』だった。
 モノクロ写真のアルバムフォトだったので、余りお世辞にも鮮明とは言い難かったものの、ルネ・マグリットの絵画を彷彿とさせる印象的な意匠に、初めて出会ってから年月を積み重ねても心の片隅で気に留めていた事だけは確かだった。
 どういう音楽性なのか?とか、プログレッシヴの範疇に入るのか?といった予備知識すらもろくに無いのに、ジャケットのイラストのみで気になってしまうと言うのも些か強引で破れかぶれな言い方かもしれないが、そういった第六感が働いてくれたお陰で運命的な出会いやら、ハズレ無しの大当たりだったなんて事が結構とあったのもまた事実だった。

 前置きが長くなったが、バンドのルーツを遡る事1970年…フロイドの『原子心母』が巷を席巻し、かのフード・ブレインがデヴューを飾ったロック激動の年に、今やかの青山学院大と共に箱根駅伝の名門校となった東洋大学の学生で軽音楽部に所属していた長沢博行(氏は何と同郷の新潟市出身!)、相沢民男、伊藤純一郎の3人によってあんぜんバンドは結成される。
 中心人物にして音楽的リーダーでもあった長沢の言葉を借りれば“昔は今みたいに練習スタジオなんて無い時代だったから、授業そっちのけで部室に直行していた”そうな。
    
 今では日本のプログレの範疇でも語られる彼等ではあるが、当然の如く最初からプログレッシヴなアプローチを試みていたという訳では無く、彼等のバックボーンにして音楽的な影響を与えたのが、グランド・ファンク・レイルロードやクリーム、エリック・クラプトン、ザ・バンドといったゴリゴリハード系王道のブリティッシュ・ロックとアメリカン・ロックだったというのも実に興味深い。
 骨太系のアメリカン・ロックに傾倒していた相沢と伊藤をまとめていた長沢の手腕と才能も然る事ながら、スポンジの様に多種多彩な音楽要素を吸収し自らの音楽性として昇華してしまう長沢の柔軟なスタイルがあってこそ、あんぜんバンドの躍進と成長に繋がったと言っても異論はあるまい。
 長沢自身“一種の開き直りですね。自分が影響を受けた音楽を、たとえ消化不良であっても外へ出さずにいられない前がかりの状態だったんです”と言いつつも“それ相応にプレッシャーもありましたが、他のバンドがやっていない日本のロックを演っているという自負はありましたね”と、数年前の
インタヴューで当時を懐かしみながら回顧していた。
    
 バンドは銀座スリーポイント始め渋谷のジアン・ジアンやBYGといったライヴスポットでの地道な演奏活動、学園祭出演、練習を積み重ねた努力の賜物の甲斐あって、次第に多方面から注目を浴びる様になり、多いときは一日に4つの学園祭での演奏を掛け持ちするなどの精力的な活躍が高く評価され、同時期に埼玉の浦和市(現さいたま市)を拠点とするロックコミュニティーURC(浦和ロックンロール・センター)という強力な後ろ盾からの支援を得てからは、以前にも増して水を得た魚の様に音楽活動に奔走する様になり、四人囃子や頭脳警察と共にURCの顔的存在として確固たる地位を築いていった。
 前後して1974年8月に福島県郡山市で開催された伝説的なジャパニーズ・ロックフェスとして語り草になっているワンステップ・フェスティバルにも参加し、あんぜんバンドは名実ともに確固たる人気と名声を博したのは言うに及ぶまい。
 補足ながらも…はっぴいえんどによる日本語のロック派と、フラワー・トラヴェリン・バンドによる本格的洋楽志向の英語のロック派とで二分していたあの当時に於いて、あんぜんバンドはブリティッシュ系洋楽のメロディーラインに日本語の歌詞を融合させる事に挑戦し成功した数少ない存在だったという事も付け加えておきたい。

 地道な音楽活動が実を結んだ1975年、あんぜんバンドは徳間音工傘下の新興レーベルでもあったBourbon(バーボン)と契約を交わし、デヴュー作『アルバムA』の録音に着手する事となる。
 そもそもBourbonレーベル独自のポリシーというのが“地方都市のロックシーンに焦点を当てて取り挙げていく”という概念で設立され、埼玉のあんぜんバンド、石川のめんたんぴんといった地方都市で孤軍奮闘している実力派が、その気運の波に運良く乗る事が出来たというのも実に幸いであった(80年代のプログレ系の代名詞的存在だったキングNEXUSよりも先駆者的存在のレーベルだったのかもしれない)。
 この頃ともなるとライヴ活動に於いてサポートとして相沢民男の実弟友邦と、長沢と共にメロディーメーカー的キーパーソンの役割を担った名マルチプレイヤー中村哲が正式にバンドメンバーとして加入していた。
     
 試行錯誤と紆余曲折、そして過度のプレッシャーと自問自答の狭間に悩みながらも難産の末に産み落とされた待望のデヴュー作『アルバムA』は、ストレートにして疾走感溢れるハードロック色の濃い作風と、フォークタッチにソフィスティケイトされた温かみと和やかさが同居した後のニューミュージックにも相通ずる良質なポップス性とが違和感無く融合した、初々しさと斬新さの中にも殺伐としたメッセージ性を孕んだ意欲的な野心作に仕上がっている。
 頭脳警察から触発されたかの様な当時のレパートリーナンバーでもあった“殺してやる”とか“あんたが気にいらない”といったヤバイ危険性を帯びた作品もあったが、残念ながら諸般の事情によりレコード化されることなくお蔵入りしてしまったものの、その反動で録音された収録曲の“けだるい”といった危険な匂いプンプンなナンバーから、某カルト教団みたいな顛末を謳った“ドアをしめろ”、ストレートな詞と曲調の“怒りをこめて”、そして次回作への布石にして橋渡し的な意味が込められたラスト曲の“月までとんで”では、浦和ロックンロール・センターの皆さんとの合唱をコラボレートした意欲的な秀作に仕上がっており、単なる凡庸なハード・ロックとは一線を画した多彩で奥深い側面までもが垣間見れる。
 あんぜんバンドと言ったら、後にも先にも唯一シングルカットされた名曲“13階の女”を忘れてはなるまい。
 曲名からして儚くも危うげな雰囲気漂う中で、どこかのどかでほのぼのとした曲調の中にも精神病院といったキーワードやら、「彼女にはもうこうするしかないのだ…13階の屋上から身を投げること」といった自殺を幇助・助長させるかの様な皮肉と毒の込められた歌詞に、メジャーデヴューとの引き換えで得たもの失ったものとを相殺した彼等のささやかな反抗と抵抗が込められていて何とも意味深ですら感じさせる。
 まあ…これが21世紀の現在だったら間違い無くレコ倫やらJASRAC始め、アホウな教育委員会とPTAが黙っている事無く発禁処分か放送禁止に持ち込んでいた筈であろう(苦笑)。
 ちなみにシングル盤の“13階の女”のジャケットは、ヨーロピアン・デカダンス調に全裸の外国人女性が横たわっているモノクロセピアな写真なので一見の価値は大である。更に補足すると“13階の女”は、アルバム収録ヴァージョンとシングルヴァージョンとでは若干アレンジが違っており、シングルの方ではかの佐藤允彦がシンセサイザーとメロトロンでゲスト参加しているので、御興味のある方は是非ともお聴きになって頂きたい。

 『アルバムA』で得られた高い評価を追い風に、1975年フジテレビでオンエアされていた東映製作の刑事ドラマ『新宿警察』のオープニングとエンディングをシングルリリースし、同時進行で早々に新作の準備に取り掛かるも、ここで長年苦楽を共にした相沢民男が諸般の事情でバンドを抜ける事となるが(目指す音楽の方向性の違いを感じていたのかもしれない…)、バンドは音楽性の更なる強化を図る上でこのまま4人編成の布陣で次回作へと臨む事となる。
 この事がプラスの方向へと大いに功を奏し、前作で感じられた荒削りで刺々しいイメージを払拭した“これぞ、あんぜんバンドの音”と言わしめる位のインパクトを持った、名実共に彼等の最高傑作にして日本のロック史に燦然と輝く名盤と名高い『あんぜんバンドのふしぎなたび』が、翌76年9月1日にリリースされた。
 前述したマグリットを思わせるファンタジックなイラストに包まれたイメージに違わぬ、1stでの厳つい危険なイメージから180度転換した、長沢の目指す創作性を重視した純粋なまでの音楽的感動が見事に昇華結実した日本ロック奇跡の産物と言っても過言ではあるまい。
          
 ジャズ・ロック的なアプローチを試みた2曲のインストナンバー“果てのない旅”と“ANOTHER TIME”の充実さも然る事ながら、前作の延長線上にしてどこか寂寥感漂うダークで偏屈なナンバー“時間の渦”(ヴォーカルにエフェクトをかけたギミックさが不気味)、軽快でストレートなプログレ・ポップス調な“夕陽の中へ”と“貘”、鳥の囀りや動物の声といった効果音を多用した楽しくて爽やかなイマージュを想起させる“おはよう”、四人囃子の「おまつり」のアンサーソングとして呼び声が高く言葉遊びが実に小気味良い“お祭り最高”(「嗚呼…サイケデリックだなァ」の台詞は爆笑必至)、そして本作品がプログレッシヴの最重要作品として言わしめている要因として最も秀でた2曲“闇の淵”とラストナンバーの“偉大なる可能性”の素晴らしさだけでも、本作品最大のセールスポイントと言えるだろう。
 “闇の淵”は、イタリアのレーアレ・アカデミア・ディ・ムジカを思わせるピアノワークにビリーバンバンを思わせる長沢の抒情的で哀愁を帯びたヴォーカルは落涙必至であるし、ラストの“偉大なる可能性”は、作品全体に漂う夢と希望を綴った人間賛歌そのものであると同時に、曲終盤で聴ける広大な地平線の広がりを想起させるクリムゾンの宮殿ばりのメロトロンの洪水は、最早感動以外の何物でも無い…。
          
 これだけ高水準な作品をリリースし、さあ!いよいよこれからという矢先であったにも拘らず、数回の公演を消化したその翌年、バンドは急に活動を一切停止しそのまま自然消滅へと辿っていった次第であるが、アルバムのセールスが好評で、尚且つメンバー間にも不和など無かった様にも思えるのだが、長沢自身にしてみれば「自らが演りたいと思っていた事を、『ふしぎなたび』で全力を出し切った」と万感の思いで、バンドがベストな状態の時だからこそ…敢えてあんぜんバンドと訣別するべきだと断腸の思いだったのかもしれない。
 
 バンド解体以降…所在と後の動向が判明しているのは長沢と中村哲だけで、長沢は本名の博行からヒロへと改名し、自らの名を冠したHIRO…そしてPEGMOといったバンド活動を経て、80年代にかけてはアイドル関係の作詞作曲を手掛けつつ、それ以後は和太鼓をフィーチャリングしたGOHANなる音楽創作集団に所属する一方で、アニメーション、CM関連での作曲とアレンジャーで多忙を極めつつ、年に何度かかつてのバンドのオリジナルメンバーが集って(限定期間ながらも)再結成ライヴを催したりと今なお現役第一線で活動しており、昨年2019年2月には生まれ故郷の新潟市で帰郷ライヴを行い伝説の名曲“13階の女”を演奏している。
          
 日本版のイアン・マクドナルドを目指していたであろう中村哲は、その後スペクトラムに参加し瞬く間に脚光を浴び、スペクトラム解散後は長沢と同様に彼もまた音楽業界に身を置いて独自の活動を継続している。
 バンド関連のアーカイヴに関しては…URC(浦和ロックンロール・センター)主催の1974年から76年にかけてのライヴを収録した、貴重な高音質のマスターテープが偶然にもURCの関係者宅から発見され、2006年にCD化が成されているが、惜しむらくは現在は廃盤に近い状態なのが悔やまれる。
 貴重な未発表曲もあるばかりではなく、四人囃子の坂下秀実がゲスト参加したツインキーボード編成によるライヴ音源もあるとの事なので、それも非常に気になるところである…。

 駆け足ペースで進めてきたが、活動期間がたった僅か数年間であったにも拘らず、あんぜんバンドが遺した偉大なる足跡とその方法論にあっては、後々の今日にまで至る数多くのジャパニーズ・プログレバンド達にそのDNAが受け継がれたりリスペクトされようとも、容易に近付ける様に見えてなかなか辿り着けない頂の極みに今でも君臨しているのが正直なところと言えるだろう。
 喩え彼等の楽曲がコピー出来たとしても、その時代性とイディオム、アイデンティティーにあっては誰も真似出来ないし二度と再現出来ないのもまた現実でもある。
 日本語による日本のロックに真正面から真摯に向かい合ったあんぜんバンド。
 それはリーダーの長沢自身にとってもただの青春の一頁では決して終わらないだろうし、単なる思い出で留めておく事など出来やしない、まさしく彼等なりの「俺達の時間」でもあり「生きた証」そのものであったと言えないだろうか…。
 現在の安易でお手軽コンビニ感覚な、毒にも薬にもならないJポップという名で商業音楽化した日本のミュージック・シーンが失った“魂の叫び”が彼等の音楽には脈々と息づいていて、バンドが解散して早40年以上経った今でも色褪せる事無くリアルに体感出来る稀有な存在と言っても過言ではあるまい。
 よくある例え話で誠に恐縮ではあるが、仮にもしも長沢氏に“あんぜんバンドの最新作”なんて話を持ち掛けたところで、謙遜で一笑に伏されたとしてもやはり彼等の音楽を愛して止まない者にとっては、喩えほんのコンマゼロに近い低い確率でも一縷の望みとして再結成の希望を託してみたいと思いたいところだが、果たして…?
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