幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

一生逸品 PYG

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 今週の「一生逸品」は人間誰しもが青春期に直面する焦燥感や内面の閉塞感といった感傷的で壊れやすく傷付きやすい繊細な心の機微を、時に激しく時に優しく高らかに謳い上げた、日本のロック史上類稀なる異色の存在として今もなお伝説にして神格化されている感をも抱かせる、70年代のスーパーグループでもあった“ピッグ”に今再び輝かしき栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


PYG/Pyg !(1971)
   1.戻れない道
  2.明日の旅
  3.もどらない日々
  4.Sunday Driver
  5.やすらぎを求めて
  6.花.太陽.雨
  7.何もない部屋
  8.白い昼下がり
  9.Jeff
  10.Love Of Peace And Hope
  11.祈る  
  
  沢田研二:Vo
  萩原健一:Vo
  岸部修三:B
  井上尭之:G
  大野克夫:Key
  大口広司:Ds

 今更言う事でも無いのだが、現在50代でもある私自身…今でこそ当たり前の如く諸外国のプログレッシヴと同等、我が国日本のプログレッシヴもかなり愛聴し嗜好している今日この頃であるが、それこそ10代半ばの頃なんて正直なところノヴェラの『パラダイス・ロスト』に出会い邂逅し、プログレッシヴを含めた日本のロックに開眼するまで、所謂プログレッシヴもハードロックもイコール絶対洋楽至上主義という、何と言うか…頭でっかちで頑固一徹に偏った方向でしかロックミュージックを捉えていなかった、何とも大海を見ない井の中の蛙状態な青臭くて生意気なガキでしかなかったという、今思い返しただけでも我ながら失笑極まりない愚かな少年期だったと反省する事しきりである(苦笑)。
 まあ…いかんせんあの当時の日本のポピュラーミュージックの大半の率を占めていたのは、いわずもがなアイドル系ポップスを含めた歌謡曲が断然格上であって、それに準じてフォークから発展したニューミュージックがレコード店(嗚呼、懐かしい響き…)の棚に鎮座してて、それに相対するかの様に洋楽のロックとポップスがしのぎを削ってて、そんな片隅に追いやられてしまったかの様に日本のロックは肩身の狭い格下扱いで苦汁を舐めさせられ、当時ビッグネームにのし上がっていたモップス始め四人囃子やらマキオズを除き日本のロックの大半は洋楽の物真似やら低レベルやらといった無責任な謂れの無い風評被害の煽りで、御多聞に漏れずたった一枚きりの作品を遺して姿を消したバンドもあれば、路線変更して大衆受けを狙った安易な売れ線歌謡曲ロックへとシフトして生き長らえるしか術が無かった、あくまでレコード会社やら放送媒体メディア、マスコミ(マスゴミ)の言いなりみたいな隷属化した、やや黒に近いグレーな暗澹たる時代だった様に思えてならない。
 無論それはほんの一部分でしかない誤りであって、半分は当たらずとも遠からずながらも60年代末期のGS全盛期からアーティスティックに発展形を遂げたであろう…日本ロック黎明期の草分けエイプリルフール、頭脳警察、フラワー・トラヴェリンバンド、はっぴいえんどの台頭は、当時の日本のポピュラーミュージック界の日陰に位置しながらも、各々が百花繚乱の如く栄光の色彩を纏い大輪の花を咲かせ独自のシーンの根幹の地固め的な役割を担ったと言っても過言ではあるまい。

 1970年、ピンク・フロイド『原子心母』のリリースによって、文字通りの本格的なプログレッシヴ・ロック元年となった時期を境に、日本のロックも多かれ少なかれプログレッシヴの洗礼を受けた類稀な存在が世に躍り出て来たのは無論言うまでもあるまい。
 原子心母の牛に対抗し、草原を堂々と闊歩するヘヴィな印象の象のジャケットで御馴染みのフード・ブレインを皮切りに、60年代末期のGSブームの終焉と共に、芸能事務所やテレビ局の押し着せみたいなアイドル的扱いに憤懣やるせなかったGSバンドのザ・タイガース始め、スパイダース、テンプターズはそれぞれ同年期の解散を機に、より創造性豊かでアーティスティックな路線に活路を見い出そうと、かつての一世を風靡した栄光から訣別すると共に前出の3バンドから主要メンバーがこぞって結集し、一見ユーモラスな漫画な風貌の豚が描かれた装丁ながらも秘めたる熱い思いや希望がぎっしりと詰まった唯一作で、今回本篇の主人公でもあるピッグも牛や象に負けない位のインパクトで、激動の70年代初頭真っ向勝負にとばかり名乗り出てきた次第である。
 愛称の呼び捨てみたいで恐縮なれどジュリーにショーケン…この豪華な錚々たる顔ぶれだけでも、まさに70年代の幕開けに相応しいスーパーグループの誕生と言えないだろうか。
 とは言いつつもピッグ結成に至るまでには、かなりの紆余曲折と四苦八苦があったそうで…まあ、日本の芸能界にはよくある話、近年のSMAPとジャニーズ云々ではないが、当時沢田=タイガースが所属していた渡辺プロ(通称ナベプロ、現在ワタナベエンタテーメント)は沢田をソロシンガーとして大々的に売り込みたかった思惑があって、タイガースの中でも唯一沢田を特別待遇しバンドの解散へと促していたとの事だが、人一倍仲間思いが強くバンド活動を重視していた沢田にとってはチームメイトやホームグラウンドが失くされる事に怒り心頭で、唯一頑なにタイガースの解散に反対し事務所サイドにも反発していたとの事。
 結果同じタイガースの岸部からGS3バンド解散を糧に、新時代はニューロックバンドで勝負しようぜという言葉に後押しされる形でナベプロへの当てつけとばかりにピッグへの参加を決意。
 ナベプロも沢田ありきという念頭があったが為に、(まあ渋々ながらも)新バンド構想に乗っかるという形で事務所内に専属マネジメントとスタッフルームを用意し、ピッグのメンバー全員が大手の渡辺プロダクションに所属という異例の扱いで、芸能界一の大手事務所という強力な後ろ盾を得た彼等は運を味方につけ幸先の良い船出を飾る事となる。
 多分…これがおそらく日本のロックバンド史に於いて大手芸能プロダクション所属のロックバンド第一号とでも言うべき先駆けとなったに違いあるまい。
 GS全盛期の3大バンドがかつての栄光だった時代に訣別し、敢えて自らを(良い意味で)貶めるかの如く“豚のように蔑まれても生きてゆく”という意味合いを持たせてピッグとネーミングしたというのは有名な話で、当初は英字綴りのPIGだったのを渡辺プロ所属のアメリカ歌手アラン・メリルの助言とアイディアでPYGという綴りに変えたとの事である。
 サウンドの中心でもありリーダー的存在は以外にも井上尭之が務める事となり、本文でも後述するがその事が後々の名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の音楽担当として井上尭之バンドへの布石となるのも実に興味深いところである。
 ピッグ結成から僅か数ヶ月間を曲作りとリハーサルに費やし、程無くして1971年3月に京大西部講堂で開催されたロックフェスで華々しくお披露目デヴューアクトを飾ろうとしたものの、大半の聴衆(特にゴリゴリで硬派な洋楽ロックの信奉者達)からはアイドル崩れなGSの残党が出てくるなとか、商業主義の回し者だとか散々な罵声と怒号と帰れコール金返せコールが浴びせられる始末で、同年翌月の日比谷野音でのロックフェスでも罵声と怒号が浴びせられる中、空き缶やらリンゴやらトマトがステージに投げつけられるといった有様で、幸先の良い船出とは裏腹にロックファンはおろかかつてのGSファンからも期待外れな存在としてそっぽを向かれ前途多難な幕開けとなったのが実に皮肉というか悔やまれてならない。
 そんな冷たい嘲笑を浴びせる世間様の偏見に臆する事無く彼等は、岸部の作詞と井上の作曲による素晴らしいファーストシングルの名曲「花・太陽・雨」をリリースし、同年8月には暗中模索と試行錯誤を重ねた記念すべきにして待望のデヴューアルバムをリリースする。
  
 作品全体は良し悪しを抜きにしてもやはりかつてのGSの名残を留めつつソフトな路線のロックサウンドがメインであるのは否めないが、やはりGSで腕を磨いていたのは伊達ではない曲作りの上手さと心の琴線に触れる青春期の感性とでもいうのだろうか、時代の空気をたっぷりと含んだドラマティックな心象風景が目に浮かんでくるかの様ですらある。
 冒頭のオープニングから激しい疾走感を伴ったGS風なハードロックに圧倒され、沢田の歌唱力と相まって井上のアグレッシヴなギターと大野のブリティッシュナイズなハモンドとのせめぎ合いの応酬は鳥肌もので胸を打つ事必至である。                 
 2曲目は打って変ってスローテンポなバラードながらも、小気味良いメロディーラインが実に絶妙でロックバンドでありながらも歌謡曲畑な目線も忘れてはいない、当時の青春ドラマのテーマソングにでもなりそうな好ナンバーと言えるだろう。
 3曲目は岸部の作詞と井上のペンによる萩原のヴォーカルをフィーチャリングしたテンプターズ時代の名残を感じさせるラヴバラードで、幾分フォーキーで悲哀感と抒情性が垣間見える曲想に加えて井上のアコギと大野のエレピとチェレステが聴衆の涙を誘う。
 白昼夢の様に朧気でサイケデリックな浮遊感すら抱かせる4曲目、ヤバい表現で恐縮なれど…あたかも一種のドラッグ体験すらも想起させるエコーとイコライジング処理されたヴォーカルラインとメンバーのプレイに英米ロックのサイケ・カルチャーへの追随を思わせる。
 4曲目の流れから一気に変って、モロにブリティッシュナイズされたヴァーティゴレーベル系オルガンロックの長尺な5曲目に至っては、男の哀愁を帯びた沢田の渋いヴォーカルに、むせび泣く様な大野の重厚なハモンドが堪能出来る収録曲の中で随一呼び声の高い傑作と言っても過言ではあるまい。
 この路線は後々の井上尭之バンドが手掛けた『太陽にほえろ!』でのサントラでも大野のハモンドとキーボードが大きな貢献度を発揮しており、個人的にも少年期のリアルタイムで『太陽にほえろ!』を観ていた世代の私自身も劇中のBGMに胸を打たれ心を熱くした一人でもあり、その事が後年から現在までに至る自身の音楽嗜好の根幹として既に芽吹いていたのかもしれない…。
 6曲目(LP盤旧B面1曲目)の岸部作詞、井上作曲による日本のロック史に残る不朽の名曲は彼等のファーストシングル曲にして、デヴューアルバム用にリレコーディングされており、今でもアマチュアバンドのレパートリー曲のみならず、カラオケでもつのだ☆ひろの「メリー・ジェーン」と並んで日本ロック史の名曲として語り草となっており、兎にも角にも岸部の弾く冒頭の重厚で劇的なベースラインが圧巻であることも付け加えておきたい
 青春の光と影をモチーフに優しくも切ないもどかしさが切々と謳われており、シングルヒットも然る事ながら当時人気絶頂で放送されていた『帰ってきたウルトラマン』の傑作エピソード第34話「許されざる命」でも挿入歌として使用された際には、当時のウルトラファンのみならず音楽ファンをも唸らせたのは周知の事であろう。
(何よりも当時主役のウルトラマン=郷秀樹を演じた団次郎(現、団時朗)も、“おお!そう来たか…”と驚いたことだろう)
          
 
          
 7曲目は3曲目に次いで萩原のヴォーカルメインによるストレートなロックナンバーで、要所々々でGS感の名残が散見出来るものの都会に漂泊する若者達のやり場の無い焦燥感やら孤独感がテーマの、まさに萩原好みのシニカルなナンバーと言えよう。
 沢田の歌う甘く切ないラヴバラードが堪能出来る8曲目の流れから、スタジオセッション風なライヴ一発録りのブルーズィーでダンディズム溢れる9曲目(曲のラストで沢田が小さく“ジェフ…”と呟く言葉に何故かしら愛くるしさを覚える)、オープニングと並ぶアップテンポで軽快さと爽快感漂う、まさしくジャパニーズ・ロックの底意地すら垣間見える10曲目、そしてアルバムの最後を飾るは、どことなくイタリアのラヴロックにも似た愛情溢れる穏やかで優しい安らぎ感を与える沢田のラヴソングで締め括られ、大野の奏でるハモンドが一種のカトリシズムを醸し出しており、まさしくタイトル通り平穏で幸福に満ちた世界を讃える祈りと共にデヴューアルバムは静かに幕を下ろす。

 ここまで駆け足ペースで綴ってきたが、プレデヴュー時の際には罵詈雑言に貶され、帰れコールで罵倒されて散々な出だしではあったものの、デヴューアルバムの内容は決して悪くなくむしろ好意的に受け入れられ、リリース時のオリコンチャートではアルバム部門のセールスで10位に入るといったなかなかの健闘ぶりを証明し、地道に且つコンスタンスにライヴ活動とフェスでの出演(彼等のフェイヴァリットでもあったストーンズ始めZEP、パープル、サバス、果てはクリムゾンの「エピタフ」などもカヴァーナンバーとしてレパートリーに取り入れていたそうな)をこなしつつも、バンドの注目度やら露出度と人気が増すに連れそれに相反するかの様に彼等を巡る周囲の状況も様変わりし、沢田自身もソロ活動と併行させて後年「時の過ぎゆくままに」始め「勝手にしやがれ」「TOKIO」といったヒット作を連発させ、萩原も自身のソロ活動と併行させつつ俳優活動を開始し前出の日本テレビの名作刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で愛称マカロニ刑事役を好演し(殉職シーンは個人的にテレビの前で号泣したのを今でも覚えている)、その後は『傷だらけの天使』や『前略おふくろ様』で実力派人気俳優の地位を確立させたのは周知の事であろう。
 『太陽にほえろ!』での萩原の出演を機に彼の支援の意味を込めて、井上尭之と大野克夫、岸部修三、そして一身上の都合によりバンドを抜けた大口広司の後任にミッキー・カーチス&サムライのドラマーだった原田祐臣を迎えピッグでの活動と併行して井上尭之バンドという別働隊で、長寿番組となった『太陽にほえろ!』の最終回まで音楽を務めた大きな功績は最早言うには及ぶまい。
 そのピッグ並び井上尭之バンドで縁の下の力持ち的なポジションで大きな支えでもあった岸部修三も、後年は音楽活動を休止し芸名岸部一徳として俳優活動に尽力する様になり『相棒』『ドクターX』いった長寿人気ドラマシリーズに於いて名バイプレイヤーとして名を馳せ、その確固たる地位を不動のものとしている。

 ピッグというバンド自体概ね解散という声明こそ出してはいないが、メンバー各々が進むべき道を見出し活動そのものが困難となった時点で自然消滅したと考える向きが正論であろう。
 唯一遺された彼等ピッグのデヴューアルバムは、今や海外で相当な高値で取引きされて鰻上りなプレミアムが付いており、アートロックやサイケをも内包したプログレッシヴ前夜のジャパンニューロックの一枚としてしっかりと認知されている実情である(余談ながらも漫画な豚が描かれたジャケットの豚の鼻の部分でインクに染まった指紋がプリントされているが、うっかりなのか悪戯な茶目っ気なのか定かではないが沢田が押した跡であるとの事)。
 豚鼻の部分を押すとちゃんとブヒと鳴き声を発するギミックの面白さも然る事ながら、もし何曲かでメロトロンが使用されていたのなら、かなりの大名盤となったに違いあるまい…。

 スペースの都合上綴れない部分も多々あったかもしれないが、そこはどうか各方面での音楽誌やウィキペディア等を参照して詳細の補填として御覧頂けたらと思う(苦笑)。
 2009年に鬼籍の人となった大口を除き、ピッグのメンバー大半は今もなお芸能界の第一線で活動を続けている次第であるが、どんなに活動の場が離れててもフィールドに差異があろうとも、彼等の心の片隅にはピッグのメンバーとしての誇りとプライドが現在もなお息づいており、沢田がヒット曲を連発していた多忙極まる当時でさえも愛称ジュリーとは違った顔で“ピッグの沢田です!”と言い切ってしまう…そんな頑なな名誉と誇りが窺い知れる逸話ですらも最早神格化されている21世紀の昨今である。
 とは言いつつも…近年の井上尭之の急逝、そして井上の後を追うかの如く萩原健一も昨年鬼籍の人となり、当の沢田研二に至ってはコンサートに客が入らないという不遜な理由で埼玉公演をドタキャンするという物議を醸し炎上批判されるといったお騒がせ高齢者化しているといった有様ながらも、今でも多かれ少なかれ公演レパートリーにピッグのナンバーを取り入れているというのが何とも喜ばしい限りである(苦笑)。
 そんな沢田自身も、昨今コロナウイルスで急逝した盟友の志村けんが出演する予定だった山田洋次監督作『キネマの神様』で、志村の遺志を次いで主演に大抜擢されたのは記憶に新しいところだが、久々の映画出演で俳優沢田研二としての新たなる演技の引き出しを見せてほしいと願わんばかりである。 
 もはや今となってはピッグの再結成は夢のまた夢で帰結してしまったかもしれないが、多くのファンや聴衆の心の中に彼等のロックスピリッツは今でも響鳴している事だろう。
 「人生を全うするまでにいつの日か必ず最高の豚野郎の俺達が最高のショウを見せてやるぜ!」…と。
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Zen

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