夢幻の楽師達 -Chapter 47-
7月最初にお送りする「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロック史にその名を深く刻み付け、栄光と伝説の狭間で燦然と輝くまさしく待望の真打ち的存在にして、イタリアきっての抒情派或いは硝子細工の様に儚く壊れてしまいそうな感傷的な旋律を、クラシカルな調べと共に高らかに謳い上げる至高の楽師達と言っても過言では無い“クエラ・ベッキア・ロッカンダ”に、今ここに再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
QUELLA VECCHIA LOCANDA
(ITALY 1972~1975)


Massimo Roselli:Key, Vo
Giorgio Giorgi:Vo, Flute
Patrick Traina:Ds, Per
Romualdo Coletta:B
Raimondo Maria Cocco:G, Vo
Donald Lax:Violin
“古ぼけた宿屋の住人”と名乗る彼等がイタリアン・ロック史に於いて輝かりし栄光の70年代を駆け巡ってから、早いものでもう50年近くに差しかかろうとしている。
思い起こせば…彼等が1972年と1974年に遺した至高の2作品こそが、その独特の音楽性からジャケットの意匠を含めた意味でイタリアン・ロックが持つ美意識という頂の高みにして、栄光そして盛衰、光と影、喜びと悲しみを如実に代弁していたと言っても過言ではあるまい。

70年代サイケデリアといった時代的背景な色合いを反映させつつも、クラシック、ヘヴィロック、アートロックといった様々な側面を内包しつつ、ストレートなロックミュージックというカテゴリーに沿ったであろうデヴュー作。
そして一年間のスパンを経てデヴュー作以上にクラシカルな要素と音楽性を高め、あたかも濃縮還元したかの如く究極の抒情美とイマジネーションを完成させた2作目。
彼等クエラ・ベッキア・ロッカンダには、PFMやバンコ、ニュー・トロルス、オルメといった現在まで活動を継続している大御所クラスに移行する事も無ければ、片やイルバレ、ムゼオ、ビリエット、ロカンダ・デッレ・ファーテといったカリスマ的な神格さすらも持ち得る事無く、70年代イタリアン・ロックシーンの真っ只中を、ただひたむき且つ純粋に生き青春時代を謳歌し自らを全うし貫き通した潔さと気概がある。
クエラ・ベッキア・ロッカンダ(以後はQVLと表記)結成の経緯と詳細は現時点に於いて曖昧模糊とした感は否めないが、その前身とも言えるべきバンドは概ね70年~71年頃には存在していたと思える。
その頃はまだキーボードとヴァイオリン不在で、Giorgio Giorgi、Patrick Traina、Romualdo Coletta、そして後に参加するMassimo Roselliと共にQVLサウンドの要を担うギタリストのRaimondo Maria Coccoの4人編成であったと思われる
キーボードのMassimo Roselliは18歳の頃にナイトクラブでピアノ演奏している時期に、ドラマーのPatrick Trainaと出会いバンドの参加を勧められ、その後ローマのサンタ・セシリア音楽院で勉学に励んでいたアメリカ人ヴァイオリニストのDonald Lax(ちなみに彼の父親はアメリカ大使館の外交官)も、実弟の通う学校の文化祭で公演していたQVL前身バンドの演奏に触れ、感激した彼自らがバンドへと売り込んで程無くしてそのまま正式にバンドのメンバーとなり、QVL第一期のラインナップはこうして出揃う事となる…。
6人編成のラインナップでバンドの礎と地固めを成すべく、彼等はローマ北部郊外のDella Pisanaという土地にあった旧宿屋の邸宅を家主から借り受けて、そこで暫しの間曲作りとリハーサルに費やす事となる。
バンドネーミングはその時の経験を活かして正式にクエラ・ベッキア・ロッカンダと命名され、バンド活動が軌道に乗り始めた頃を境にメンバー各々がローマ市内に点在し、ある者は音楽の勉学に励み、またある者は音楽活動の傍ら手に職を就けて仕事に励むという生活を送り、ローマ市内を拠点としたライヴハウスやパブ、大きなクラブでのライヴ活動・ジャムセッションに明け暮れるという日々を過ごしていた。
そんな地道で精力的な音楽活動が実を結び、程無くして彼等はRCAイタリアーナ傘下のHelpレーベルと契約を交わし、連日に亘るライヴ活動と併行して作曲とレコーディングの為のリハーサルに入り、1972年の春にバンド名を冠した『Quella Vecchia Locanda』で見事にデヴューを飾る事となる。
デヴュー作リリース以後も多忙はますます極まりつつあったものの、それを追い風に同年5月にはイタリア国内の当時飛ぶ鳥をも落とす勢いのあったバンドが一堂に会するイタリアン・ロック史に刻まれる大イヴェントVilla Pamphiliのロック・フェスで、QVLはオープニングアクトを飾る一番手としてステージに立ち、10万人以上の聴衆の前で熱狂的に迎えられる事となる。
このオープニングアクトでの成功を機に彼等の評判はますます鰻上りとなり、リスナーの人気投票でもベスト10に入る位の実力と技量で自らに磨きをかけていき、カラカラ浴場始めローマで老舗のパイパー・クラブでのギグを皮切りに、ナポリのポップ・フェスティバルへの参加、そしてジェノバやヴィアレッジョでのフェスではかのVDGGの前座を務めるまでに成長を遂げていった。
しかし…栄光への階段を駆け始めたばかりにも拘らず、QVLは突如として大きな試練に見舞われる事となる。
彼等を後押ししていた筈のHelpレーベルが倒産し、それを機にバンド自体も大きく揺れ動き、先ずベーシストのRomualdo Colettaが(理由は不明だが)一身上の都合でバンドから離れ、それに次いでヴァイオリニストのDonald Laxも外交官だった父親の任期満了に伴い家族共々アメリカへ帰国する事となってしまい、QVLは事実上一年間もの開店休業状態にまで陥ってしまう。
だがバンド自体はそれに臆する事無く、それらの大きな試練をバネに奮起し新たなメンバーとしてヴォーカリストのGiorgioの兄Massimo Giorgiがベーシストで加入し、かのMassimo Giorgiの口利きで同じ音楽院の学友でもあったClaudio Filiceをヴァイオリニストに迎え、新たに本家RCAイタリアーナと再契約し(元を正せば、倒産したHelp側の意向でプロデュースを譲渡された)、QVLはここで大きな転機を迎える事となる。
何よりもここでは、QVL参加以前よりゴブリン或いはチェリー・ファイヴの前身とも言えるイル・リトラット・ディ・ドリアン・グレイにて既に数々の音楽経験を積んでいたMassimo Giorgiの参加が当時の彼等にとっては大きなサジェッションとなったのは言うまでもあるまい。
新たなメンバーを迎え入れ心機一転で新作のレコーディングに臨むQVLに、もう一つ嬉しい出来事が待っていた。当時ヨーロッパ全土に於いてはおそらく初の試みともいえる最新鋭ドルビーシステムを導入したRCAの録音スタジオが使用出来る事となり、これにはメンバー全員が我を忘れて発奮した。

エッジを効かせたロック寄りなアプローチが強かった前デヴュー作から一転し、より以上にクラシック音楽の伝統的旋律と美意識へと傾倒し、コーラス隊並びストリングス・セクションをバックに配した新たな音楽スタイルへの模索と試行錯誤の末に完成された、1974年2作目の新作『Il Tempo Della Gioia』(邦題“歓喜の時”)は、メンバー全員にとっても大きな揺るぎ無い自信へと繋がり、後年にまで語り継がれるであろう名作に成り得る確かな感触と手応えすら感じ取っていた。
“Villa Doria Pamphili”でのリリシズムと抒情性が発露したオープニングの端整なピアノの調べとイタリアらしい歌心溢れたヴォーカルとストリング・セクションの目くるめく劇的な展開、そして更に続く“A Forma Di…”でのコーラス隊とストリング・セクション、ピアノ、チェンバロをメインとした、バロック音楽へのオマージュにしてリスペクトとも取れるであろう落涙必至なナンバー含め、ラストの大曲“È Accaduto Una Notte”の言葉に尽くし難い静寂な宵闇の何ともミスティックでシンフォニーな名曲揃いに、私を含めどれだけユーロ・ロック愛好者達の涙を誘った事だろうか。

何度も言及されている事だが、『Il Tempo Della Gioia』でのメインコンポーザーはギタリストのRaimondo(作詞はVoのGiorgio)というのも実に意外である。
普通この手のクラシカルなアプローチは主に鍵盤奏者が得意とするところなのだが、デヴュー作での強いロック色へのイニシアティヴを担っていたのが、実はキーボーダーのMassimo Roselliだったというのも真逆という意味合いを含めて面白い。
…しかし、そんな彼等の熱意と思惑とは裏腹に、全世界規模に吹き荒れた1973年のオイルショックを引き金にイタリア国内どのバンド共機材の運搬車両が使えない事に加えて、コンサート会場に詰めかけた観客と政府並び官憲との衝突・暴動でコンサート会場も観客ゼロの空っぽ状態といった泣くに泣けない有様が見られる様になり、次第にイタリア国内でのロック・コンサートも減少、結果…あれだけの栄華を誇っていたイタリアのロックシーンは文字通り沈滞・衰退への一途へと辿っていったのである。
当然の如く集客の望めないバンドに会社側がプロモート活動を含めた支援なんぞ出す訳も無く、予想に反してレコードの売れ行きが伸び悩んでいた事が拍車をかけ、QVLとRCAとの間に大きな溝が出来、契約は白紙に戻されバンドそのものも宙に浮いたまま、1975年に空中分解→自然消滅へと移行していったのは言うまでも無かった。
個人的な言い方で誠に恐縮であるが…昨年「夢幻の楽師達」で取り挙げたピュルサーの時も然り、CBSにしろ今回のRCAにしろ大手のレコード会社の遣り口といったら、契約書にサインしたら後はバンドの自己責任で会社はノータッチと言わんばかりな、あたかも蜥蜴の尻尾切りみたいに無慈悲で冷徹なビジネスシステムには、正直何度も反吐が出そうになってしまう位の嫌悪感を覚えてしまう。
話はQVLに戻って、同時期にヴァイオリニストのClaudio Filiceが音楽院でのヴァイオリンの学位取得の為にバンドを離れた事を契機に、音楽業界の揉め事やらイザコザにほとほとウンザリし精神的に疲弊したメンバー全員共、音楽を捨て各々がそれぞれ違う道へと歩んでいった次第である。
唯一間接的ながらも音楽関連に携わっているのが2代目ベーシストのMassimo Giorgi、そして初代ヴァイオリニストのDonald Laxとその後釜Claudio Filiceのみで、Massimoは現在ローマ市内の名門音楽院で教授の職に就いており、教鞭を振る一方でClaudioと共にクラシック畑でヴァイオリニストとして現在も精力的に演奏活動を行っているとの事。
Donaldは現在ハワイ在住で、クラシックを基盤にマウイのホテルで週7のペースで演奏活動に勤しんでいるそうな…。
QVLがイタリアン・ロックシーンの表舞台を退いてから18年後の1993年、70年代を飾ったイタリアの往年の名バンドの未発表音源を発掘するというMellowレーベルの企画で、QVLが遺した1971年の未発ライヴ音源がCD化リリースされたものの、当然の如くまだヴァイオリニスト不在でQVLというバンド名義でない事実に加えて、素人一発録りみたいな感の音質やら未熟な演奏技量がやけに痛々しく聞こえるといった、如何にも商魂ミエミエな眉唾物といった感は否めない(苦笑)。
貴重な初々しい音源である事に違いは無いが、いかんせんメンバーの了承も無しに世に出てしまったが故に、熱心なイタリアン・ロックファンからは相当なブーイングが巻き起こったのは言わずもがな、某プログレ・ライター曰く…バンドの輝かしい経歴を汚すだけでしかない無礼千万極まりない不愉快な代物に過ぎないというのも当然で、早い話、まあ…こんな時代もあったという程度で記憶に止めておくのが正論であろう。
振り返ってみれば…我が国に初めてQVLが紹介された当時、それこそパソコンによる世界的ネットワークが完全に確立される以前、QVLの2枚の名作達はユーロ・ロック廃盤・中古盤の専門店で10万円近くに上る高額プレミアムが付けられ店舗内の壁に掛けられた、まさに高嶺の花として鎮座し、あの当時の庶民的な若い私自身ですらもなかなか手が出せなくて、もどかしくも歯痒い思いに何度も駆られたものだった。
それこそ音を聴きたいものなら、原盤を入手したマニアの方からの御好意で録音してもらったカセットだけが唯一頼みの綱だったものである(苦笑)。
そんな紆余曲折とも言える時代を経て、QVL一連の作品が国内盤LPで再発され、時代の移り変わりと共にフォーマット自体もアナログLPからCDへと移行し、以後はまるで年中行事の如くイタリアと日本で再発LPやら紙ジャケット仕様のデジタルリマスター再発CDで、あの高嶺の花と呼ばれた時代からはとても想像出来ない位にお手軽に入手出来る良い時代になったものである。
素晴らしい音楽であるが故に高額の大金を払うのは決して悪いという訳ではないし、逆にこんなデジタル化された今の時代だからこそ、苦労の末に漸く手にする喜びが味わえたのも紛れも無い事実である。
でも…高額プレミア云々の良し悪しを抜きにしても、フォーマットの面が時代と共に変わろうとも、素晴らしい音楽作品は万人の為にあるというのだけは、未来永劫に不変と言えないだろうか。
QVLに携わったかつてのメンバー達、そして彼等の音楽を愛して止まない者達にとって、あの2枚の作品とは素晴らしき時代の良き思い出にして、束の間に酔いしれる事の出来る現実逃避の場でもあり夢物語なのかもしれない。
今回クエラ・ベッキア・ロッカンダを執筆するに当たって、彼等が遺した素晴らしい音楽遺産を初めて我が国に知らしめた先駆者とも言える、私自身が敬愛する吉瀬孝行と坂地昭一の両氏に、深く感謝すると共に心より御礼を申し上げます。
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