幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 48-

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 今週お届けする「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロック史に於いてかのオパス・アヴァントラと双璧を成すであろう…唯一無比な音の無限(夢幻)回廊を構築し、今なお神々しくも幽玄なるオーラを放ち伝説的且つ神格化された、童話的なイマージュと牧歌的な夢想を湛えつつも、狂気的な音の迷宮の住人でもある“ピエロ・リュネール”に今一度眩い栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


PIERROT LUNAIRE
(ITALY 1974~1977)
  
  Arturo Stalteri:Key, Per, Vo
  Vincenzo Caporaletti:G, B, Ds, Flute
  Gaio Chiocchio:Sitar, Mandolin, G, Organ, Per, Vo

 近代音楽の第一人者でもあるシェーンベルクの代表作(とも言えよう)“月に憑かれたピエロ”をバンドネーミングに用いた“ピエロ・リュネール”。 
 その何物にも染まらず誰かれの影響とは全く無縁な…独特の研ぎ澄まされた珠玉の音楽性は、キーボーダーにしてバンドの核にして要でもあったArturo Stalteriの非凡な才能なくして成立し得なかったと言っても過言ではあるまい。 
 イタリアのロックシーンにおける奇跡の賜物とも言えるべき名作でもある『Gudrun』が生み出された1975年(当初の予定が、ITレーベルとのすったもんだの末の2年後1977年にリリースされたものである)、Arturo自身当時まだ10代後半のティーンエイジャーでもあった。 
 彼の音楽経歴は1971年にまで遡り、当時14歳だった彼が最初に組んだバンドは、意外な事にブリティッシュ系影響下のハードロックで名を“PRINTEMPS”だったとの事。
 Arturo自身はそのバンドにてギターとオルガンを担当し、その後幾つかのバンド等で音楽的経験を積み重ねた末Gaio ChiocchioとVincenzo Caporalettiとの出会いを経て、1974年ピエロ・リュネールが結成される。
 結成以降度重なるリハーサルやらレコーディング等に時間を費やし、同年RCAイタリアーナ傘下のITレーベルより自らのバンド名を冠したデヴュー作『Pierrot Lunaire』をリリース。
 あの狂気的な名作『Gudrun』以前とあって、難解さが皆無な分とても親近感溢れるフォークタッチでロマンティシズム溢れる佳曲で占められおり、一部聴き手の中にはやや物足りないといった指摘こそあるものの、デヴュー当初の初々しさを考慮すればアルトゥーロの瑞々しいピアノタッチが堪能出来る点で本作品も非常に侮れない。
 収録曲の中でも特に“Raipure”、“Lady Ligeia”、“Verso Il Lago”、そしてラストの妖しくもリリカルで力強い小曲の“Mandrangola”は聴きものである。
    
 デヴュー作リリース後、音楽性の食い違いでVincenzoが脱退するも残されたArturoとGaioの両名は臆する事無く、デヴュー作を遥かに上回るかの様に互いの音楽性を昇華発展させつつ次回作の構想を練りつつ、新たに女性VoのJacqueline Darbyを迎えて録音に取りかかり、翌75年にあの音の迷宮的な狂気の名作『Gudrun』は完成される。
            
 …が、時既に遅く最早その当時のイタリアの音楽シーンや市場そのものは、石油ショック等から端を発した諸々の要因が輪をかけて重なり合い、英米のヒット作中心に並び…イタリアも御多分に洩れず主流交代とばかり、売れ線やヒットを狙った作品ばかりで占められつつあり、他のイタリアン・ロックと同様ピエロ・リュネールもリリース未定の憂き目に遭うといった不運に見舞われる。 
 後年、マーキーの山崎尚洋氏とのインタヴューにて、毎日々々ITレーベルに電話してはリリースの有無を確認する日々が2年近くも続き、その傍らバンドの名前は残しつつ、Arturo自身もソロ作品『Andre Sulla Luna』に着手していた。
 結局ITレーベル側が根負けしたのかどうかは定かでは無いが、『Gudrun』が77年、Arturoのソロ『Andre Sulla Luna』が79年とそれぞれ2年遅れでリリースされるに至った次第である(但し…Arturo自身は『Andre Sulla Luna』の出来栄えにはあまり満足していないとの事だが)。
 しかし…ややもすれば、ITレーベルの怠慢経営が続いてあの『Gudrun』ですらも作品化されずマスターテープのままオクラ入りしていたのかもしれないと思うと末恐ろしくも嘆かわしい話だが(苦笑)。
     
 北欧神話『サガ』をモチーフとした…時にミニマリスティック、時にノイズィでアヴァンギャルド、伝統的なイタリアン・トラディッショナルを漂わせつつも先鋭的にして前衛的、幾重にもコラージュされカットアップされた楽曲の断片が集束する様は、あきらかにオパス・アヴァントラ、ヤクラ、サンジュリアーノ等と肩を並べる位の比類無き唯一無比のミクロコスモスそのものと言っても過言ではあるまい。
 大御所のPFM、バンコ、ニュー・トロルス、オルメ…等とは全く感性も趣も異なる、まさに別の意味でイタリアらしい感性が色濃く反映された傑作にして怪作に相応しいの一語に尽きよう。
           
 『Gudrun』の評判は上々でイタリア国内の各音楽誌でも高い好評価を得るものの、皮肉な事にバンドそのものは最早“無”に近い状況にまで陥り、当然の如くバンドは事実上自然消滅し、Arturoを始めとするメンバー各々はそれぞれが目指すべき音楽性の方向へと活路を見出した。 
 
 顕著なところでは、Arturo自身1stソロ『Andre Sulla Luna』リリースの前後に参加したカンタウトーレのEmilio Locurcioの『L'Eliogabalo』での見事なキーボードプレイを皮切りに、片や一方のGaioとJacquelineはドイツ人女性アーティストのKay Hoffmannと合流し、あの『Gudrun』の姉妹的作品とも言われる『Floret Silva』を製作するものの、マスターテープが完成したにもかかわらず、結局…1985年にマーキー誌運営ベル・アンティークレーベルの尽力で漸く陽の目を見るまでの間、長年ずうっとお蔵入りになっていたのは有名な話(後年ジャケット改訂仕様でめでたくCD化された) 。
          

 暫しの間イタリアン・ロックのフィールドから一線を置いたArturoは、ソロ活動兼セッションを併行する一方クラシックピアニスト兼コンポーザーとしても活躍の場を広げ、21世紀の今日に至るまで環境音楽の分野を含め、昨今はイタリアン・ロックのフィールドにも復帰し自身のソロアルバム、果てはピエロ・リュネール時代の未発マテリアル(『Gudrun』リリース後の次回作用に録った新曲を含む)を収めた2011年の『Tre』をもリリースして現在までに至っている。
 なお私事というか自慢話みたいで誠に恐縮なれど…8年前にかのArturo Stalteri本人からFacebookの友達申請が来た時には、もう全身に激しい電流が駆け巡った様な驚きと衝撃を受けた事を、今でも刻銘に記憶している事を記しておきたい。
 重ねて余談ながらもバンド消滅後の79年、Arturo自身インドへ旅行した時の経験を許にソロ第二弾として『…E Il Pavone Parlo Alla Luna』に着手し(当初はキングレコードから『Peacock Spoke To The Moon』という英語タイトルでリリースされる予定だったが、これまた様々な諸事情が絡んでリリース中止という憂き目に遭っている)、87年にLynxレーベルよりリリースされている。
   
 Arturo以外のメンバーの動向として、『Floret Silva』の解体後Jacquelineは声楽の勉強の為単身イギリスに渡り、Gaioはその後ポップ路線に転向しミニアルバムでソロを出し、プロデュース業に進出するも成功には程遠いと言えそうである。

 奇跡の秀逸作となった『Gudrun』のリリースから早40年以上が経過した今日であるが、あの異様なまでの緊張と高揚感の中で生み出された至高の名作に匹敵する作品が、またいつの日にか21世紀今日のイタリアのシーンに果たして再び巡ってくるのだろうか…?
 否、もう既にオパス・アヴァントラやピエロ・リュネールを聴いて育った新世代の個性的な遺伝子達が、歴史の一頁を紡ぐ日もそう遠くはあるまい。
 そしてかのArturo自身も自らの活動とマテリアルを抱えている傍らで、いつの日かまたピエロ・リュネール名義としての新作リリースする機会を虎視眈々と窺っているのかもしれない…。
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Zen

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