夢幻の楽師達 -Chapter 50-
7月最後にお送りする「夢幻の楽師達」。
今回は大英帝国の古来伝統的な旋律と木霊する抒情性、憂いと陰りを牧歌的且つ高らかに謳い上げる吟遊詩人達の響宴を象徴するかの如く、70年代ブリティッシュ・フォークロックの一時代にその名を遺し、シーンの一端を担った伝説的存在と言っても過言では無い“トゥリーズ”に、改めて栄光と軌跡の光明を当ててみたいと思います。
TREES
(U.K. 1970~1971)


Celia Humphris:Vocal
David Costa:Acoustic & 12-strings Guitars
Barry Clarke:Lead & Acoustic Guitars
Bias Boshell:Bass, Acoustic Guitar, Vocal
Unwin Brown::Drums
かのピンク・フロイドの一連の作品でジャケットアートを手掛けたヒプノシスが描く…あたかも『不思議の国のアリス』或いは『マザーグーズ』の一節を思わせる様な、さながら英国貴族の庭園で水(ミルク?)を撒き散らす少女という意匠に、どれだけ多くのプログレッシヴとユーロロックのファンや愛好家達が魅了され深みに嵌まった事だろうか(苦笑)。

かく言う私自身もその内の一人であるが、そもそも地元の某大手書店にて高校一年生になってまだ間もない頃、このアリス風少女が表紙に起用された北村昌士編集長の『フールズ・メイト』との出会いが、更なるプログレッシヴ・ロック愛(プログレッシヴ熱)を加速させるきっかけとなったのは最早言うには及ぶまい。
高校時代を経て社会人となったと同時期にマーキームーン誌と出会い、数多くのプログレッシヴ・ロックの名作・傑作に馴れ親しみつつ着実にプログレ人生を謳歌している内に、かのフールズメイト(Vol.13)の表紙を飾った水撒きアリス風少女の意匠こそが実は、今回本篇の主人公でもありブリティッシュ・プログレッシヴフォークの草分けにして、同時期のペンタングルを始めフェアポート・コンベンション、チューダー・ロッジ、メロウ・キャンドル、果てはスパイロジャイラといった名バンドと共に一時代を築き栄華を誇ったトゥリーズ傑作の2作目にしてラストアルバム『On The Shore』が元ネタだった事を後年になって知った…今にして思えば初々しくて懐かしくもあり若かりし頃の夢への希求の一遍ともいえる思い出として、トゥリーズの作品を何度も目にする度にあの当時の時分(自分)の姿が投影され甦ってくると同時に、あのフールズメイトの表紙との出会いという時点でもう既に自らの運命が決まってしまったのかもしれない…。
前置きが長くなったが、思い起こせばマーキー執筆時代の若い時分目白や西新宿界隈の某プログレ中古・廃盤専門店に足繁く通っては、壁に掛けられたギャラリーよろしくとばかりに鎮座した高額プレミアムな値が付いたイタリアン・ロックの名作と同様にブリティッシュ・アンダーグラウンドな名作を眺めては、垂涎の眼差しと溜息をついては苦笑いするしか術が無かったものである…。
クレシダの2nd、グレイシャスの1st、アフィニティー、インディアン・サマー、スプリング、ツァール、T2、ビッグ・スリープ…等と並んで、フォーク系でも先に名を挙げたチューダー・ロッジにスパイロジャイラが人気を博していたものだが、それらに負けず劣らずトゥリーズもそのバンドネーミングの如くイギリスのミュージックシーンに深く逞しく根付き天高く大樹を突き上げてその名を刻み付け、彼等とて激動の70年代初頭にて大らかに青春を謳歌していった類稀なる吟遊詩人に他ならない。
トゥリーズの幕開けは1969年ロンドン市内でフォークギタリストとして活動していたDavid Costa が友人知人の伝で出会ったギタリストの Barry Clarke との出会いから始まる。
お互いに意気投合した彼等は楽器を取って即興で演奏を始め、それと併行して曲作りに取りかかるものの、いかんせんデュオというスタイルに限界を悟った2人は程無くしてベースとドラム、更に楽曲のイメージに相応しいであろう歌い手として女性ヴォーカリストを加えたバンドスタイルへのシフトに奔走する。
幸運にも Barryと同じアパートメントに住んでいたベーシストでソングライターのスキルを兼ね備えていたBias Boshell が加わる事となり、ドラマーにはBias自身が少年期に通っていたハンプシャー州の非国教派学校時代からの旧友でもあったUnwin Brown に白羽の矢が当たった。
女性ヴォーカリストにはDavidが当時勤めていた職場の同僚の妹で、当時演劇学校に在籍していた女優の卵でもあった Celia Humphrisが招聘されたものの、当時のCelia嬢は音楽活動に一切興味が無く当初はしぶしぶとバンドオーディションに参加し早めに見切りをつけてサヨナラするつもりだったそうな。
…がバンドサイドのあまりの熱意に絆されて、(決して移り気という訳ではないが)バンドの参加を決意したというのだから、つくづく運命とはどう転ぶか分からないものである。

トゥリーズ結成から程無くして、70年代という気運の波に後押しされる形で彼等は様々なフェスティバルや、アイリッシュ・フォークパブ、イギリス国内の至る大学の学園祭に出演しては精力的に演奏活動をこなしつつ、自らのオリジナリティーを確立せんが為の自問自答を繰り返す日々に追われる事となった。
Celiaの美貌が助力となった甲斐あってかバンド自体も知名度と人気が徐々に浸透しつつあったさ中、大手でもあるイギリスCBSのフロントマンの目に留まった彼等は、正式に契約を交わすと同時にあれよあれよという間にレコーディングに入ってしまうという思いがけない展開に見舞われてしまう。
困惑と戸惑いともつかぬ気持ちの整理が付かないままレコーディングに臨んだ彼等であったが、バンドに白羽の矢を立て各方面に於いて売り込みをかけてくれた(恩義という訳ではないが)CBSサイドの期待に報いる為にも、彼等トゥリーズはデヴューアルバムの製作に全身全霊を注ぎ込んだ。
幾多もの試行錯誤と紆余曲折を積み重ねた難産の末、1970年4月彼等のデヴュー作でもある『The Garden Of Jane Delawney(ジェーン・ドゥロウニーの庭)』はリリースされる。

Bias Boshellが学生時代に体験した話…突如降って湧いたかの様に“Jane Delawney”なる人物の単語が脳裏に浮かび上がってきた事がモチーフになっており、Bias自身学生時代にペンを取ったアルバムタイトル曲始めオリジナルのナンバーに加えてトラディッショナル・フォークのカヴァーとの半々による構成だったものの、前評判は上々で各方面各プレス紙でも多数もの賛辞が寄せられて、彼等の船出は前途洋々の様に思えたが、思っていた以上にセールスは伸びずまさしく新人アーティストである彼等にとって大きな厚い壁となったのは言うまでもなかった(ちなみに印象的なアートワークはメンバーでもあるDavid Costaの手によるもの)。
それでも、彼等の音楽性に秘められた未知数に等しい可能性に大いなる期待感を抱いていたCBSサイドと音楽プレス紙方面はこぞってトゥリーズに惜しみない称賛を送り続けていた。
デヴュー作リリース後、トゥリーズは以前にも増してイギリス国内のクラブサーキット、多方面でのフェス、大学祭へのツアーに奔走し精力的且つ意欲的に公演をこなしていき、僅かながらも給金を得ていた時分、CBSサイドが用意してくれた運転手付きのツアー専用車が与えられた彼等は4時間近く車中に揺られ(サスペンションが不調だったせいもあるが)、車酔いと頭痛に悩まされながらも会場入りするといった多忙と苦痛の日々を送っていた。
余談ながらも公演を終えてからもまた欠陥車両で4時間揺られてホームタウンに戻る訳だから、ある意味荒行というか苦行とも言うべきなのか、つくづくポッと出の新人あるあるよろしく微笑ましくもキツくて痛い思い出に何だか苦笑せざるを得ない…。
そんな国内サーキット続きの多忙の合間を縫って前デヴュー作での欠点と反省を糧に彼等は再びスタジオ入りし、自らが持ち得る力量をフルに活かし反芻しながらもバンドが本来目指していた方向性に立ち返って、結果デヴュー作を遥かに上回る向上と進歩を窺わせる会心の2作目にして代表作となる『On The Shore』を、同年の1970年暮れにリリースする次第となる。
ブリティッシュ・トラディッショナル本来の持ち味ともいえる抒情と陰影を帯びた旋律と作風が根付いているであろう、前出にも触れたヒプノシスが手掛けた庭園に水を撒き散らすアリス風少女のアートワークが持つイメージと相まって、トゥリーズの面目躍如たる会心の一枚に仕上がったと各音楽誌でも拍手と称賛は鳴り止まなかった。

が、しかしバンドサイドとスタッフ含め製作会社側の思惑とは裏腹に、渾身の力量を込めた自信作でもあった『On The Shore』も悲しいかな前デヴュー作と同様セールスが伸び悩み思った以上の成果を上げる事も叶わず、結果的にバンドサイドは意気消沈し活動意欲の低下に加えてプロとして演っていく事に限界と疑問を感じた彼等は音楽活動を止め、月日を追う毎にまるで櫛の歯が一本々々抜けていくかの様に離散への道を歩み、1972年そのあまりに短い音楽活動に幕を下ろす事となる。
トゥリーズ解散以降の各メンバーの動向と消息にあっては、美貌の歌姫だったCelia Humphrisは演劇学校に戻り、女優への道からシフトして売れっ子大ベテランの声優兼ナレーターとして大成し、ロンドン地下鉄の案内アナウンスとしても有名になり、現在はフランス国内に居を構えている。
David Costaはバンド解散後エルトン・ジョンのアートディレクターに就任し、現在はグラフィックアートデザイナーとして成功を収めロンドン市内でデザイナーオフィスを経営している(デヴューアルバムのジャケットアートの手腕ぶりを御覧頂けたら一目瞭然であろう)。
Barry Clarkeは貿易商に転身し、現在もなおイギリスとフランスを行き来して宝飾類始めアンティーク関連のセールスに勤しんでいるという往復生活を送っているとの事。
Bias Boshellはその後も音楽活動を継続し、ムーディー・ブルース始めBJH、そして幾数多ものアーティストとの仕事を経て、スコアの提供を含めたプロミュージシャンとして多忙の日々を過ごしている。
最後のUnwin Brownにあっては、数年間もの音楽活動を経てその後はケンジントンの小学校教師として教壇に立ち、時間の合間を縫ってはアマチュアやセミプロを問わないフォーク系バンドでドラムを叩いていたとの事だが、残念な事に2008年に鬼籍の人(死因は不明)となってしまったのが何とも悔やまれてならない。

こうして70年代初頭の概ね短い期間ながらも、短命バンドだったとはいえ自ずと信ずる音楽性に対し真っ正面に向かい合って、不器用ながらも真摯に自らの音楽を紡ぎ続け、知らず々々々の内に表舞台から潔く去っていった彼等トゥリーズであったが、70年代の思い出が沢山詰まったであろう…2枚もの遺された珠玉の名盤だけが、後年あたかも年輪が積み重なるかの如く年を追う度に評価が高まり、1987年待望のLP盤再発を皮切りに1993年と2008年のリマスターCDによるリイシュー化で、彼等の再評価は近年もなお衰える事無く鰻上りに上昇気流の曲線を描いているのは最早周知の事と思われる。
それは決して物珍しさとか幻の存在といった下世話な憶測では括り切れない、純真無垢な魂で詩と楽曲を紡いだ20世紀の彷徨える吟遊詩人達であることに他ならない。
時代や世紀を越えてもなおトゥリーズの木霊の旋律は私達の耳の奥底、脳裏の深淵に響鳴し、英国古来の妖精伝説、お伽世界の幻影を映し出しているのかもしれない…。
結びの最後に、1970年6月6日付のメロディーメーカー誌に掲げられたトゥリーズの賛辞の対訳で締め括りたいと思う。
『トゥリーズの重要性は、卓越した音楽性も然ることながら、インスピレーションの源を数年前のフォークおよびロック・シーンに求めている点にある。つまり、長らく待たれていたフォークとポップの調和がついに起き始めたのだ。』(原文ママ)
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