幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 52-

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 今週の「夢幻の楽師達」は、イタリアン・ロック第一次黄金時代だった70年代に於いて、一種独特で異色な存在ながらもワールドワイドな視野でロックシーンを見つめ続け、ブリティッシュ・プログレッシヴの王道と作風を継承し、世界進出という見果てぬ夢を追い求めていた、かの御大PFMの兄弟的存在だった伝説と栄光の“アクア・フラジーレ”に、今再び輝かしきスポットライトを当ててみたいと思います。


ACQUA FRAGILE
(ITALY 1971~)
  
  Bernardo Lanzetti:Vo, G
  Gino Campanini:G, Vo
  Maurizio Mori:Key, Vo
  Franz Dondi:B
  Piero Canavera:Ds, Ac-G, Vo

 長きに亘り今もなお栄華を誇っているイタリアン・ロックの歴史に於いて、70年代という輝かしくも物悲しい栄枯盛衰な背中合わせの一時代は、まさに個性と個性のぶつかり合い、多くの才能同士のせめぎ合い…果ては乱暴な言い方で恐縮だがバンドやカンタウトーレ達が音楽人生の生き残りを懸けたしのぎの削り合いそのものだったと思えてならない。
 ジェネシスないしGG、EL&Pといったブリティッシュ・プログレッシヴからの多大なる影響の余波は、イタリアが持つルネッサンス古来の様式と伝統美、バロック音楽、地中海伝承民謡、ヨーロピアン・ジャズといったエッセンスが複雑且つ雑多に融合した、一種独特の音楽=ロック文化を形成しPFM始めバンコ、ニュー・トロルス、イ・プー、オルメを世に送り出し、ロックナポリターナの合言葉で土着的で独自の方法論を見い出したオザンナ、チェルベッロ、RRR、イタリアン・ロックの常套句とまで言わしめた邪悪で闇のエナジーが迸るムゼオ・ローゼンバッハ、イルバレ、ビリエット、セミラミス、ジャズィーでアヴァンギャルドな道を拓いたアレア、クラシカル且つシリアスで一種の毒っぽさを秘めたオパス・アヴァントラにヤクラ…etc、etc、etc、兎にも角にも枚挙に暇が無いのが正直なところと言えるだろう。
 そんな多種多才で世界的な成功と栄光を夢見たイタリアン・ロックの第一次黄金時代に於いて、一種独特にして異色なカラーとポジションに位置し、PFMやイ・プーよりも以前に世界進出への視野を見据え果敢なる挑戦に臨んだ類稀なる存在にして、ブリティッシュ・プログレッシヴ直系のサウンドカラーとスタイルでワールドワイドを目指した唯一無比の彼等こそ、今回本篇の主人公アクア・フラジーレである。

 アクア・フラジーレ(英訳綴りならアクア・フラジャイル→“水濡れ厳禁”と言えよう)、バンドのネーミングからしてイエスからの影響が大なり小なり散見出来るが、それ以上に御大のジェネシス、GG、果てはアメリカのCSN&Yからの影響を窺わせるのは言うには及ぶまい。
 イタリアン・ロックらしからぬ爽快感を伴った突き抜ける様なサウンドワークとコーラスパートにハーモニー、それら全てが渾然一体となってアクア・フラジーレの世界観を雄弁に物語っていると言っても過言ではあるまい。
 アクア・フラジーレの物語は、バンドのリード・ヴォーカリストにしてフロントマン的な役割を担ったBernardo Lanzettiの歩みそのものといっても異論はあるまい。
 イタリア出身で母親がポーランド人、18歳までアメリカのテキサス州で青春時代を過ごしたBernardoにとって、必然的というかごく自然な感覚でロックとは英語で歌うものと身体に染み付いていたのかもしれない。
 そんなワールドワイドな感覚と素養を身に付けて1971年Bernardo自身イタリアに帰国後、程無くしてバンドメイトとして意気投合したPiero Canavera(アクア・フラジーレの殆どの楽曲を手掛けたのも彼である)を筆頭に、Gino Campanini 、Franz Dondi、そしてMaurizio Moriの5人編成でアクア・フラジーレの船出は幕を開ける事となる。
 結成以降イタリア国内の様々なロック・フェスティヴァルへ積極的に参加し、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いのあった名うてのバンドやアーティストと共演を重ねる一方、ジェネシス始めGG、ソフトマシーンといったブリティッシュ・プログレッシヴの大御所等がイタリア国内で公演を行う際、これを絶好の機会にとばかり自らを売り込んで何度もオープニングアクトの座を務め、アクア・フラジーレの知名度と注目度は日増しに高まっていく。
 彼等の特色はイギリスのプログレッシヴとアメリカのフォークソングから多大なる洗礼を受けつつも、決して“そのまんま”な音楽性を模倣で終始することなく、あくまでイタリア人のバンドという誇りとアイデンティティーを頑なに保持しつつインターナショナルな感性と語法を身に纏ったバンドという立ち位置に留まっていた稀有な存在と言えるだろう。
 デヴューまでに至る概ね2年間は自らの腕と技量、感性を磨きつつ、正式デヴューという目標を掲げ曲作りに明け暮れる日々であったが、そんな彼等の評判と噂を聞きつけてイタリア国内の大手レコード会社が注視の眼差しを向けるさ中、真っ先にデヴューに繋げる白羽の矢を立てたのは、かのヌメロ・ウーノレコードに加え名プロデューサーとして名を馳せていたクラウディオ・ファビ、そして先輩格のバンドでもありヌメロ・ウーノの看板的存在でもあった大御所PFMの面々が手を差し伸べた事で、彼等アクア・フラジーレの面々にとっては願ったり叶ったりな気持ちよりも、青天の霹靂の如く思いがけない展開…予想だにしていなかったサプライズに驚愕し感銘し、まさしく天にも昇る様な心境だったに違いあるまい。
 こうしてアクア・フラジーレは名匠Claudio FabiとPFMとの共同プロデュースの許で、1973年6月に自らのバンドネームを冠した念願と待望のデヴューを飾る事となる。
          
 ブリティッシュ・プログレッシヴの王道を継ぎ、アメリカのCSN&Yが持つ陽的でアーティスティックなパッションを鏤め、収録された全曲の曲名と歌詞が英語ながらもさほど違和感すら感じられないといった具合で、まさしくPFMの世界進出よりも先んじてワールドワイドなヴィジョンを強く意識した作風は、シュール+カリカチュアで摩訶不思議なジャケットデザインの秀逸さも手伝ってイタリア国内でも大きな話題を呼んだものの、ヒットに結び付くには程遠いセールスで、バンドサイドにとってはあまり幸先の良いスタートではなかったのが実に惜しまれる…。
          
 売れ行きこそ振るわなかったものの、同年期のイタリアのバンドにはあまり無かったであろう、明るい開放感、爽快な佇まいが作品全体から感じられて、イタリアらしい陽光の煌めきとたおやかな雰囲気、更には陽気さと抒情性が隣り合ったポップス感覚ながらも繊細で緻密な曲構成の巧みさに新鮮な驚きは禁じ得ない。
 デヴュー作がセールス不振という反省材料を糧に、彼等並び製作サイド布陣は臆する事無く心機一転とばかりヌメロ・ウーノの親会社に当たる大手リコルディへと移籍を決意し、新たなる製作環境の許で直ぐさま次回作への構想に取り掛かる事となる。
 翌1974年12月にリリースされた待望の2nd『Mass Media Stars』は、前デヴュー作と同様タイトルから歌詞に至るまで全曲英語を用いたスタイルが継続され、BernardoとPieroによる作詞と楽曲、Claudio FabiとPFMとの共同プロデュースと、良い意味で開き直りににも似た延長線上のスタイルとなったものの、より以上に感じられるのがジェネシスやGG影響下から脱し、アクア・フラジーレというバンドの自我をも模索したであろうオリジナリティーを追求した、ストレートさとシンプルさが明確になったサウンドワークが堪能出来、彼等自身にとっても会心の一枚となったのは言うまでもあるまい。
    
 が、バンドサイドの思惑とは裏腹に本作品の2ndリリース直後、キーボーダーでバンドの要的存在でもあったMaurizio Moriが、心身の疲弊と自身の諸事情が重なった理由でアクア・フラジーレから抜けてしまい、その後釜として何と!かの大物バンドで解散したばかりだったトリップからJoe Vescoviが加入。
 以前より鍵盤系の音色がやや弱かった感が否めなかったバンドにとって、Joeの重厚でパワフルなサウンドワークはまさに渡りに舟の如くサウンドをより以上に強化する上でも必要不可欠となり、2ndリリース以降のライヴ・パフォーマンスに於いても圧倒的な存在感を放ち、アクア・フラジーレにとっても大きな貢献と助力となったのはもはや説明不要であろう。
 しかし…1975年、当時既に世界的規模で大成功を収めていたPFMから、更なる高みを目指して世界進出を含めた成功への足掛かりにどうしてもBernardoの歌唱力が必要不可欠という、かねてからの加入要請で、アクア・フラジーレというバンドにとって終焉へと繋がる運命の時を迎える事となる。
 当のBernardo本人にとっては嬉しい気持ちよりも長年苦楽を共にしてきた仲間達との別離の方が辛く苦しく思い悩んでいた時期だった事だろう。
 Bernardoの気持ちを思い察したアクア・フラジーレのメンバー達は、高みを目指すならPFMに行くべきであると諭し、バンドメンバーの苦渋の後押しで袂を分かち合うかの様にBernardoはアクア・フラジーレを去る事となり、これを機にドラマーPieroの鶴の一声でバンドの解体を決意。
 アクア・フラジーレはイタリアン・ロックの表舞台から静かに去って行き、その短いバンド生命に一旦幕を下ろす事となる。

 ここから駆け足ペースで進めていくが、Bernardoをメインヴォーカリストに迎えたPFMは1975年アメリカに拠点を移して『Chocolate Kings』をリリースし、そして1977年『Jet Lag』をリリース後マンティコアとの契約解除と時同じくしてワールドワイドな活動に終止符を打ち、1978年原点回帰の如く再び活動拠点をイタリアに戻し、当時新興のレーベルだったZOOと契約を交わし『Passpartù』をリリースするも、目指すべき音楽性の相違でBernardoはPFMを離れ、以降は地道なソロ活動とイタリアン・ポップス界の裏方的役割に回ってサポートに徹するも、2002年突如MANGALA VALLISなる、21世紀イタリアン・ロックバンドを結成し1st『The Book of Dreams』、そして2005年に2nd『Lycanthrope』をリリース。
 このまま順風満帆にMANGALA VALLISを継続していくのかと思いきや、いつしかBernardoの心の片隅にアクア・フラジーレの再編への思いがよぎる様になり、昨今のムゼオ・ローゼンバッハ、メタモルフォッシ、マクソフォーネ、アルファタウラス、チェリー・ファイヴといった70年代イタリアン・ロックバンド再結成の気運はBernardoの心を大きく突き動かし、意を決した彼はアクア・フラジーレ解散以後も親交のあった、バンドのコンポーザーPiero Canaveraにコンタクトを取り、時同じくしてベースのFranz Dondiとも合流。
 MANGALA VALLISを離れたBernardoに、かつてのアクア・フラジーレのリズム隊だったPiero CanaveraとFranz Dondiのトリオで2017年アクア・フラジーレは復活再結成を果たし、楽曲によって取替え引替えでギタリストとキーボーダーを含めた多才なゲストサポート陣を迎え、実に43年振りの新作3rd『A New Chant』をリリース。
      
 原点回帰にとばかり描かれたであろう、さながらデヴュー作のアンソロジーないしオマージュとおぼしき摩訶不思議な意匠に包まれた意味深で新たなる決意表明にも似た、新生アクア・フラジーレの健在ぶりを窺わせるには十分過ぎる位の説得力と気概の籠った素晴らしい一枚に仕上がっているのが実に嬉しい限りである。
 オリジナルメンバー3人が年輪を積み重ねた分だけ円熟味と渋みが増して、筆舌し難い実に味わい深い良質で心打たれるイタリアン・ロック&ポップスの好作品であるのは紛れも無い事実と言えるだろう。
          
 アクア・フラジーレはもはやかつての水濡れ厳禁を揶揄する様な、蒼くて若き頃の脆くて壊れやすく硝子細工の様に儚い青年期から、年輪を積み重ねた今…水を得た魚の様に意気揚々と躍動し70年代と何ら変る事無く瑞々しくも初々しく青春を謳歌している。
 彼等の凛々しい雄姿がいつの日にか日本で観られるのもそう遠くない気がしてならない…。
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Zen

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