夢幻の楽師達 -Chapter 55-
昨年8月のブログサービスの移転に伴い、一念発起で再出発し足かけ一年超に亘りお送りしてきた『幻想神秘音楽館』の一斉リニューアル(+セルフリメイク)ですが、思い返せば「夢幻の楽師達」「一生逸品」の過去10年以上分の文章データを掘り返しては再度加筆と修正を施し毎週2回ペースで掲載していくという…今にして思えばやや無謀にも近い試みではありましたが、いざ蓋を開けてみたらあっという間に漸くここまで来れたものであると感慨深くなることしきりです。
皆様のお蔭を持ちまして今秋の正式な新規再開まで凡その目途が立ち、週2回ペースで連載してきた『幻想神秘音楽館』もあと僅か6週分を残すところとなりました。
正直なところ…再編集リニューアルしなければならない文章データがまだ少し残ってはいるものの、自分自身あまりにマニアックな範疇を再掲するのは如何なものだろうかと自制を促し、毎週掲載分を切りの良いところ60回目で終わらせて、11月から新たに61回目というカウントリセットで本来の月イチ掲載ペースに戻す意向です。
どうか新規再開までの間、週2掲載ペースの『幻想神秘音楽館』にもう暫くお付き合い頂きたく宜しくお願い申し上げます。
ラストスパートを切った9月の掲載は、今春4~5月に亘ってお送りした「夢幻の楽師達」と「一生逸品」の国別シャッフル形式を再び採用し、更に今月の「一生逸品」にあってはイタリアン・ロックの唯一作をメインに焦点を当てていくのでどうかお見逃し無く。
さて今月最初の「夢幻の楽師達」を飾るのは、久々の南米アルゼンチンから情熱と抒情の狭間で開花した一輪の花の如く儚くも可憐な旋律を奏でる美意識の申し子と言っても過言では無い、まさしく南米プログレッシヴきっての幻想の夢織人“ミア”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
MIA
(ARGENTINA 1976~1979)


Liliana Vitale:Vo, Ds, Per, Flute
Lito Vitale:Key, Ds, Vo
Nono Belvis:B, G, Vo
Daniel Curte:G
Juan Del Barrio:Key, Ds, Vibe
ミアの本編を綴る前に、誠に恐縮であるが暫し蛇足みたいな思い出話にお付き合い頂きたく御容赦願いたい。
今でこそ中南米のプログレッシヴ・ロックの捉え方は欧米諸国、日本のシーンと同等極当たり前の如く取り扱われているが、80年代初頭我が国に“中南米にもプログレッシヴ・ロックがある”というアナウンスメントが報じられた時は、それはあたかも異国のプログレに対し、悪く言ってしまえば(無論、当時の私達も認識不足があったという反省点も踏まえて)まるで海のものとも山のものともつかない余所者がやってきた…そんな怪訝な眼差しを向け懐疑的な思いになったものである。
朧気な記憶ながらも高校3年の時に愛読していたフールズメイト(お恥かしい話、当時新潟にマーキームーンは入って来なかったし存在すらも知らなかった)に掲載されていた…たしかディスクユニオンの新着輸入盤の広告だったと思うが、“ヨーロッパの美しき旋律、いよいよ南米へと波及”といった謳い文句で、この時はメキシコのチャック・ムールやカハ・デ・パンドラといった4~5アーティストの作品が紹介されていたと思う。
ブリティッシュ5大バンド始めPFM、バンコ、オザンナ…等といったユーロ・ロックを国内盤で容易に入手出来て、私自身まだまだほんの一介のひよっ子みたいなプログレ&ユーロファンでしかなかったあの時分、いきなり告知で中南米プログレなんぞ紹介されてもピンと来る筈も無く、自身の若くて青かった脳内も、中南米=サンバやルンバといった明るく陽気で脳天気なラテンのリズムしか連想するしかなく、欧州の美学と旋律と中南米のイマジネーションを結び付ける事なんぞ当然ミスマッチ=無謀な化学反応であると高を括っていたものだった。
まあ、今にして思えばかなり酷い話かもしれないが(苦笑)。
社会人になってからの1984年、マーキームーンがアンダーグラウンド宣言を打ち出し、完全にプログレッシヴ・ロックとユーロ・ロックの専門誌として確立させた思い出深くも忘れられないその年に、山崎氏のレヴューで「今、ブラジルのシーンが熱い!」という触れ込みで紹介されたバカマルテ、クォンタム…等を契機に、以降あれよあれよという間に中南米のプログレが次々と紹介され、欧米諸国と同様に相応の高額プレミアムで入荷されて瞬く間に新たな高値の花として注目を浴びるまでに至った次第である。
こと南米のヨーロッパことアルゼンチンのシーンにあっては、少数精鋭といった感が強く完成度の高いクオリティーと音楽性を有するという事で、余程のマニアでない限り入手は極めて困難だったと思える。
そんな俄かに降って沸いた中南米プログレが日本のプログレ市場を席巻するさ中、84年の夏に休暇を利用して上京し豊島区南長崎のマーキーの事務所(某アパートの一室で細々と運営していた)に初めて訪れた時のこと、山崎・賀川の両氏から歓迎されいろいろ雑談している中、ふと部屋の隅に目を向けると数枚ものLPが無造作に鎮座されてて、山崎氏の口からそれはアルゼンチンのプログレの試聴盤であるとのこと。
あの時はたしかアラスの1st始めエスピリトゥの1stと2nd、そして今回のメインでもあるミアの1st~3rdまでの3種類の作品が次回の通販の為に準備されていた事を今でも覚えている(それでも当時は8000~10000円位の値段が付けられていた)。
その中でもミアは比較的覚えやすいネーミングだった事から、新潟に戻ってきた時でもちゃんとしっかり記憶に留めていたものである。
後述するが何よりもそのミアの一連の作品から感じられる自主製作然とした装丁と意匠に、ホームメイドな手作り感というかハートウォーミングな温かみを覚えたのは紛れも無い事実であった。
ミアは御存知の通り、音楽一家に生まれ幼少の頃から英才教育の手ほどきを受けたLiliana VitaleとLito Vitaleの姉弟を中心に、家族とその縁者、早い話が向こう三軒両隣よろしくと言わんばかりの御近所付き合いの延長線上とおぼしき名うてのメンバーを集めて70年代中期に編成されたバンドと思われる。
この当時アルゼンチン国内の大手Microfon始め、外資系大手のEMIやRCAといったレコード会社に頼る事無く、自らのセルフレーベルCICLO 3を立ち上げ彼等は1976年『Transparencias』で記念すべきデヴューを飾り、以降も同レーベルから自らの音楽スタイルや世界観を損なう事無く年一回のコンスタンスなペースで作品をリリースしていく事になる。

セルフレーベルを設立しライヴ活動等に於いても自ら運営していく一方で、他のバンドやアーティスト等との交流にも積極的で、スイ・ヘネリス始めラ・マキナといったベテラン系を渡り歩いて来たCharly Garcia、大御所Raul Porchetto、クルーシスのGustavo Montesano…etc、etcとの横の繋がりを築き連携しながら、当時70年代後期のアルゼンティーナ・プログレッシヴを盛り上げていったのは周知の事と思う。
が…何よりもそういったアルゼンチンのロックシーンを陰ながら支えたのは誰であろう、LilianaとLitoの実母にして生き証人ともいえるEstherの尽力あってこそと、改めてここで付け加えておかねばなるまい。その母Estherに関しては後ほど改めて触れることにせよ、彼女の存在なくしてあの当時のアルゼンチンのシーンは成り立たなかったと言っても過言ではあるまい。


白地に無機質な抽象画或いは現代アートを思わせる意匠にセピアカラーで彩られた1st『Transparencias』は、一見難解なイメージを抱かせる印象とは裏腹に、女性的な美感覚と心象風景、儚くも可憐な一輪の花の生命を思わせるリリシズムとイマージュを想起させる極上の音世界が繰り広げられている。
アルバム全体がオールインストゥルメンタルで占められており、本作品に於いてはやはり特長的とも言えるLitoのコンポーズ能力とスキルの高さを物語るキーボードワークの素晴らしさに尽きるであろう。
クラシックとジャズの素養が各曲の端々で存分に活かされており、時折フォークタッチな素朴で牧歌的な趣が堪能出来るのも実に魅力的である。
セピアカラーと相まって作品から連想するのは、やはり枯葉舞い散る晩秋の詩吟に似た物悲しさといったところだろうか…。
翌1977年にヴォーカル系に重きを置いた2nd『Mágicos Juegos Del Tiempo』をリリースするが、前デヴュー作がLitoの織り成すキーボードハーモニーがメインだったので、おそらく本作品は姉Lilianaの発案で製作されたものと思われる。彼女の詩情豊かな歌唱力に物憂げな感情が発露された、シンガーソングライターとしてのLilianaの力量が思う存分に発揮された好作品であると共に、Litoの壮麗で瑞々しいキーボードワークも前作と同様に堪能出来る素晴らしい内容に仕上がっている。

余談ながらも…マーキー/ベル・アンティークからリリースされた紙ジャケットSHM‐CDを入手された方は既に御存知かと思うが、2ndの本作品は世間一般では黒地にマンドリン(リュート)を奏でる楽師が描かれたジャケットがお馴染みであろう。
私自身もアナログLPはセカンドプレスのものしか所有しておらず、よもやオリジナルの初回プレスが黒地に風車の描かれたジャケット表面にマンドリン楽師の描かれた歌詞のブックレットを嵌め込む、まさしく変形ジャケットさながらのギミックであったとは思いもよらなかったと苦笑せざるを得ない。
まあ、ここではスペースの都合上楽師の描かれたタイプのジャケットを掲載しておくが…。
ちなみに2ndのメンバーは、前作からキーボードのJuanが抜け、ギタリストのDanielがコントラバスとサウンドエフェクト関連の裏方に回り、新たなギタリストとしてAlberto Munozが参加している。
世界的規模でプログレッシヴ・ムーヴメントの停滞・衰退が叫ばれつつあった1978年…多くの有名プログレッシヴ・アーティストが時代に呼応する様な形で新機軸を打ち出したり、路線変更を余儀なくされ、より以上に一般大衆に向けてアピールする形で短い時間の楽曲でポップ化になったりと時流の波は着実にプログレを変えつつあった。
そんなさ中にあってもミアは臆する事もたじろぐ事も無く、自分たちの音楽スタイルに自負とプライドを持ち続け頑なな姿勢を貫き通して、スタジオ収録アルバムの最終作にしてバンドの最高傑作『Cornonstipicum』をリリースする。

それはまさにアルゼンチンの最終砦にミアありきと言わんばかりな会心の自信作ともいえる充実さを物語っており、同国のブブやラ・ビブリアと並んでアルゼンティーナ・プログレッシヴの頂点を極めたと言っても過言ではあるまい。
蛇男が描かれた幾分薄気味悪く、お世辞にもとても美しいとは言い難い醜悪なジャケットワークに相反するかの如く、1stと2ndで培われた音楽的経験値に加え、両作品互いの良質な部分と構築的な手法とが見事に昇華・結実し目指すべき極みの到達点に達した、文字通りアルゼンチン・プログレ史に燦然と輝く最高傑作となった。
彼等自身にとっても今までの集大成的な趣が込められた、まさしくバンドとしての最後を飾るに相応しいミア・ファミリー総出(JuanとDanielの復帰に加え、多彩なゲストプレイヤーを迎えた)の意味を踏まえた形としてもメモリアルな一枚とでも言えるだろう。
アルバムのラストを飾る17分強の3rdタイトルでもある大曲にあっては、静と動、柔軟と硬質…緩急目まぐるしく展開し聴く者を終極へと誘っているかの如く導いていく様は、夢の終わりを告げる寂寥感にも似た何とも形容し難く感慨深い思いに捉われる事だろう。

78年の3rdリリース以後、彼等はイエス、EL&Pにリスペクトしたかの様に3枚組ライヴ・アルバム『Conciertos』をリリース(但しそれ以前に2ndと3rdとの間にカセット・オンリーのライヴ『En Vivo』をリリース)しているが、誠に申し訳無い事で恐縮だが、私自身残念な事にそのカセットライヴ作と3枚組ライヴの現物を未だに確認出来ていないのが何ともはやである(苦笑)。
カセットライヴ『En Vivo』然り3枚組ライヴも未だCD化されていないので、願わくば完全コンプリートという形で改めてCD化されることを切に願わんばかりである…。
3枚組ライヴという形で締め括り、ある意味ミアというバンド活動に幕を下ろした彼等は各々が進むべき道へと歩み、ソロ活動、セッション並びバックバンド、舞台・映像音楽といった活躍の場へと移行していく。
Lilianaはシンガーソングライターに転身しプログレッシヴのフィールドからは完全に遠ざかって現在までに多数もの作品を発表し現在までに至っている。
Litoの方はもう既に御存知の通り、1981年にミアの作風とカラーを継承した多数ものキーボード群を含めギター、ベース…etc、etcのマルチプレイを発揮したシンフォニック系ソロ作品『Sobre Miedos,Creencias Y Supersticiones』をリリースする。

ミアの一連の作品と共に本ソロ作品も紹介され大いに話題と評判を呼んだものの、彼自身それ以降は自国のアイデンティティーに基づいた創作活動へと転向し、ジャズ傾倒寄りのカルテットを率いて音楽活動にいそしむ一方、バレエや創作舞踏の音楽を多数手掛け今日までアルゼンチン国内の第一
線の音楽家としてその名を馳せている。
ミア関連といえば…2008年に突如としてアルゼンチン盤でリリースされた2枚組アーカイヴ音源CD『Archivos MIA (1974-1985) 』が記憶に新しい。
未CD化のライヴ音源からの抜粋始め、スタジオ録音されながらも諸般の事情でお蔵入りになった未発表曲、エンハンスド仕様で収録されたミアの貴重なビデオ画像…等が大盤振る舞いに収められたデジブックスタイルの素敵な贈り物に世界中のファンは狂喜乱舞したのは言うには及ばないだろう。
Litoに話を戻すが…彼自身も1998年には待望の初来日公演をも実現させ、そこにも長年苦楽を共にした実母のEstherが彼を温かく見守っていたのは言うまでもあるまい。
Litoの名誉の為にも敢えて断っておくが、決してマザコンとかステージママ云々といった下世話で低次元な視点で捉えてほしくないという事を声を大にして言っておきたい。
実母のEstherさん(御存命であれば現在80代後半に手が届くであろう?)の尽力無くして今日に至るまでのアルゼンティーナ・プログレッシヴの道程と系譜は無かっただろうし、英語の苦手なLitoに代わってネットやメールを駆使して息子の国内外公演の交渉始め、アルゼンチン国内のプログレ系アーティストとの交流、諸外国プログレバンドとの連絡のやり取りを経て、21世紀の現在まで道を繋げてきた御苦労と恩恵を決して忘れてはならない(余談ながらも…かのパブロ・エル・エンテラドールの2ndのニュースも彼女の口から公表されたものである)。

21世紀の今…欧米や日本と同様、南米のメインストリームともいえるアルゼンチンのプログレッシヴ・ムーヴメントも、ひと頃から比べたらブラジルやチリと同様に百花繚乱の様相を呈している昨今と言わざるを得ない。
NEXUS、RETSAM SURIV、URANIAN…etc、etcが犇めき合うさ中、現在もなお次世代を担う新鋭と期待の逸材達が新たな歴史を刻む為に日々切磋琢磨しているという喜ばしき状況である。
前世紀のミア始め70年代のアルゼンティーナ・プログレッシヴ世代が開拓し種を撒いたその創造の大地に、彼等の軌跡と栄光を追うかの如く、現在進行形という形でまた更に新たな大輪の花が芽吹きつつあるのかもしれない。
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