一生逸品 PANNA FREDDA
今週の「一生逸品」…70年代イタリアン・ロック一枚もの傑作選栄えある第二弾は、原点回帰という意味合いに於いて70年代初頭のイタリアン・ロック黎明期の一時代を飾ったであろう、まさしく知る人ぞ知る唯一無比にして孤高なる軌跡を遺した“パンナ・フレッダ”に今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います…。
PANNA FREDDA/Uno(1971)
1.La Paura
2.Un Re Senza Reame
3.Un Uomo
4.Scacco Al Re Lot
5.Il Vento, La Luna E Pulcini Blu
6.Waiting


Angelo Giardinelli:G, Vo
Giorgio Brandi:Key, G
Filippo Carnevale:Ds, G
Carlo Bruno:B
1969年の『クリムゾン・キングの宮殿』、そしてプログレッシヴ元年ともいうべき翌1970年の『原子心母』によって、文字通り70年代初期から中盤にかけてワールドワイドに席巻したプログレッシヴ・ムーヴメントの大きな渦は、言わずもがな今やユーロピアン・ロックのメインストリームとして確固たる地位を築き上げたと言っても過言では無いイタリアにも波及し、70年代初頭…所謂イタリアン・ロック黎明期に於いて多くの新たな才能の芽吹きをも予感させる多種多才(多彩)な逸材を輩出していった事は言うに及ばずであろう。
今回の主人公でもあるパンナ・フレッダとて御多聞に漏れず、些か有名な洋菓子めいた珍妙なネーミング(ちなみにバンドネーミングの意は“コールドクリーム”とのこと)にも拘らず、僅かたった2年弱の活動期間ながらも理想のサウンドスタイルを追い求め自らの信念に基づいて、イタリアン・ロック黎明期の一時代を駆け巡っていった…それは決して伝説だとか幻のバンド云々では片付けられない秀逸にして稀有な存在と言っても過言ではあるまい。
パンナ・フレッダが唯一作『Uno』でデヴューを飾った1971年こそ、翌72年以降からの第一次イタリアン・ロック隆盛期への橋渡しをも担った夜明け前に相応しい前兆とも言えるだろう。
オザンナ、RDM、そしてジャンボがデヴューを飾り、オルメがトリオ編成へと移行後3rd『Collage』がリリースされ、矢継ぎ早にニュートロルス『Concerto Grosso N°1』、イ・プー『Opera Prima』、トリップ『Caronte』、ジガンティ『Terra In Bocca』といったイタリアン・ロック史に燦然と輝く名作が世に送り出され、パンナ・フレッダと同様にたった一枚の素晴らしい作品を遺して表舞台から去っていったプラネタリウム、果てはデヴュー作のマスターテープが完成していたにも拘らず陽の目を見ずに解散したブオン・ベッキオ・チャーリー(後年正式にアルバム化された)も忘れ難い…。
本編に戻ってパンナ・フレッダに関する詳細なバイオグラフィーにあっては、彼等自身の公式アーカイヴサイトを始め、プログレッシヴ関連ないしイタリアン関連のサイト、そしてマーキー/ベル・アンティークからリリースされている紙ジャケット国内盤CDライナーにもかなり触れられているので、ここでは敢えて恐縮なれど簡単に要約した形で触れる程度に留めておきたいと思う。
遡る事…60年代後期にローマで結成されたI FIGLI DEL SOLEなるビートポップバンドを母体にスタートし、その後はI VUN VUNとバンド改名したり、漸く大手Vedetteレーベルとの契約までに至るものの書面を交わす際のすったもんだの挙句ブラス・セクション担当のメンバー数人が外されたりと、まさしくデヴューまでに漕ぎ着ける間は暗中模索と紆余曲折の連続だったそうな。


4人編成バンドに移行後の1970年、バンド名を正式にパンナ・フレッダへと改めた後、幾分ブリティッシュナイズされたイタリアン・ポップスが堪能出来るデヴューシングル「Strisce Rosse/Delirio」、そして純正なイタリアン・ロック&ポップスが楽しめる好作品の2作目シングル「Una Luce Accesa Troverai/Vedo Lei」をリリースし、2枚のシングルと併行して同時期にデヴューアルバム製作に臨んでいたのは最早言うには及ぶまい(蛇足な余談ながらも、2枚目シングルのメンバーフォトを拝見して些か某ゲイ専門誌の表紙に思えたのは私だけだろうか…)。
が、デヴューの矢先Vedetteレーベル陣営の降って沸いた様な内輪揉めやら何やらが災いし、結局半年以上待たされた翌1971年に待望のデヴューアルバム『Uno』がリリースされる事となる。
幾重にも連なった淡いピンク色の布地が洗濯で干されている(ン十年も昔にイタリアン・マニアのある輩が、あの洗濯物はディク・ディクのジャケットの洗濯女が干した腰巻(!?)だった…なんて冗談めいた酒飲み与太話で盛り上がっていたなァ)という、何とも単純明快でシンプルながらも深い意味ありげな意匠のジャケットに包まれた彼等唯一作のデヴューアルバムは、ギタリスト兼ヴォーカルにして事実上のバンドリーダーだったAngelo Giardinelliのペンに依るもので、彼が嗜好していた古典文学並び伝承民謡、加えて70年代のヤングポップカルチャーが程良く融合した音楽性が隅々まで反映されており、AngeloのみならずGiorgio、Filippoといったマルチプレイヤーな側面が遺憾無く発揮された、ブリティッシュナイズされたエッセンスとイタリアのアイデンティティーが全面的に押し出されたヘヴィでクラシカル、カンタウトーレにも相通ずる牧歌的な片鱗すらも垣間見えるといった、決してマニア向けな物珍しさでは終止出来ないであろう…当時にして高水準なスキルを有した好作品であるという事が頷ける。
惜しむらくはマルチプレイヤーでありながらもメンバーの誰もが当時未知数だったシンセサイザーを扱えなかったが故、本作品ではレコーディング・スタッフ兼エンジニアだったEnzo DennaがSEとシンセサイザーでバックアップ+好サポートしている点も忘れてはなるまい。
冒頭1曲目のっけからラジオの周波数を思わせる様な電子音楽とでも言うのか、何ともノイズィーでチープ感丸出しなシンセによるエフェクトをイントロに、サバスやユーライア・ヒープに触発されたかの如きオルガン・ヘヴィロックが畳み掛けるように展開され、イタリアンな佇まい(イタリアン・ロックらしさとでも言うのか)が若干希薄な点こそ否めないが、結成から数年しか経っていないにも拘らずここまでヴァーティゴ系なブリティッシュナイズを強く意識した力強い演奏が堪能出来るという、まさしくパンナ・フレッダが目指している音楽世界を雄弁に物語っていて何とも挑戦的でしたたかさすら抱かせるオープニングには好感すら覚えてしまう。
ブリティッシュ・プログレッシヴ・アンダーグラウンドの雄グレイシャスのデヴュー作『!』に触発されたという2曲目の、軽快で且つ小気味良いリズム隊とオルガンに導かれる何とも摩訶不思議で印象的なメロディーラインに、聴く者の心はいつしか彼等の術中に嵌まっていると言っても過言ではあるまい。
寄せては返す波をも思わせる柔と剛の異なった曲想が綴れ織りの如く顔を覗かせる、あたかもそんなユニークさすらも持ち合わせているかの様なヘヴィ・プログレッシヴに溜飲の下がる思いですらある。
ブリティッシュ・オルガンロックへのリスペクト全開ながらも、イタリア語のヴォーカルが醸し出す何ともダークでシアトリカル感すら思わせる3曲目の流れも実に素晴らしく、中間部でのブルーズィー+ジャズィーなアプローチも聴き処と言えよう。
たおやかでハートウォーミングなメロディーラインのイントロで始まる4曲目は、イタリアン・ロックの伝統・王道ともいうべき抒情性と邪悪な雰囲気というエッセンスが曲の端々で散見出来る佳曲とも言えるだろう。
狂騒的で獣の唸り声かまじない師めいたヘヴィな男性コーラスに加えて、アコギにチェンバロというイタリアン・ロックに不可欠なアイテム登場でクラシカルで牧歌的なイタリアの陽光と陰影を演出しているのが絶妙の域である。

全収録曲中10分強に及ぶ長尺の5曲目は、先の4曲目とは打って変わって哀感の籠ったアコギとチェンバロに憂いに満ちたヴォーカルが相まって、希望と不安をも醸し出している雰囲気の曲想にアヴァンギャルドなベースラインとシンセのエフェクト、更には幾分マイケル・ジャイルズをも意識した様なドラムが被さって、一聴した限り淡々とした印象を受けながらも味わい深く進行していくリリカルなメロディーにいつの間にか引き込まれていく、全曲に於いて最も静謐で厳粛なイメージに彩られた異色のナンバーとも言えるだろう。
スペイシーなシンセのエフェクトにアヴァンギャルド+コンテンポラリーなパーカッションが遠く彼方から響鳴しているイントロの6曲目は、まさしくラストに相応しい時代の空気感をも伴った激しくうねる様なハモンドとギターの響きが一種の懐かしさというか郷愁感をも呼び覚ます唯一のインストナンバーで、ロックのリフと鮮烈なまでな乗りの良さが体感出来る、短くコンパクトにまとめられていながらもパンナ・フレッダの音世界がここぞとばかり濃密に凝縮された秀作に仕上がっている。
余談ながらも…ラストの曲を耳にする度に、かつての刑事ドラマの名作にして金字塔でもある『太陽にほえろ!』で井上尭之バンドが手掛けたサントラをも連想してしまうのは私だけだろうか?
まあ…イタリアも日本も時代が時代だったからねェ(苦笑)。
2枚のシングルに加えデヴューアルバムのリリースで奮起の拍車をかけた彼等は積極的にイタリア国内での様々なロックフェスやイヴェントに出演し懸命にギグをこなしつつ地道に知名度を上げていき、それに呼応するかの様にイタリア国内のメディア・電波媒体等が支援に回る形となって、大手音楽誌Ciao 2001がパンナ・フレッダのデヴューアルバムに高い評価を与え、イタリア国営放送RAIも彼等のシングルやアルバムをひっきりなしにラジオでオンエアし、心強い後ろ盾を得たパンナ・フレッダは今まで以上に精力的に創作活動へと身を投じていく事となる…。
が、しかし悲しいかなバンドやメディアを含めたファンの側が大いに盛り上げていくのと相反するかの如く、肝心要のVedetteレーベルの運営側が売込みやらプロモートに消極的であったが故に、次回作の為の録音が進められていたにも拘らず、突然製作と契約が打ち切られバンドは急転直下で路頭
に迷う事となり、デヴュー以前からレーベル側とのイザコザやら関係悪化が表面化し、全ての面に於いて失望し疲弊してしまったバンド側は苦汁の決断を自らに下し翌72年にパンナ・フレッダは解散へと至ってしまう。
解散までの間…ドラマーが何度か交代したり、リーダーでもあるAngelo Giardinelliを除くメンバーが変わったりとバンド存続の為に苦労を重ね奔走したものの、前述通り1972年以降からの第一次イタリアンロック隆盛期の波に乗る事が出来ず、結局バンド自らが幕を下ろす事となったのが何とも皮肉な限りである…。
当時歌謡曲上位でロックが格下に扱われていた日本の音楽状況と同様、ややもするとイタリアの音楽状況もカンツォーネやカンタウトーレ、ビートポップ系がもてはやされて、黎明期だったイタリアン・ロックなんてレコード会社側にしてみれば過小評価な対象で低く見られがちだったのではなかろうかと懐疑すら抱いてしまいたくなる(そうは思いたくも無いし認めたくもないけれど…)。
もしもパンナ・フレッダがVedetteではなく、リコルディやヌメロ・ウーノ、フォニット・チェトラといった更なる大手有名処のレーベルと契約を交わしていたならば、多分Vedetteよりも好待遇で少なくとも後々の歩みも大きく変わっていたのではと思うのだが如何だろうか?
バンド解散後…パンナ・フレッダに携わったメンバーの内、RRRやプロチェッション、カプシクム・レッド等に参加した者もいれば、スタジオ・ミュージシャンとして今もなお現役で活動している者、正反対に音楽業界からきれいさっぱり足を洗った者と各々がそれぞれの道へと歩んでいった次第であるが、オリジナルメンバーでキーボーダーだったGiorgio Brandiは90年代半ばまでI CUGINI DI CAMPAGNAにメンバーとして参加しており、その後はレコーディング・スタジオのオーナーとして辣腕を揮い、後進の育成に尽力を注いでいるとの事である(多分21世紀イタリアン・ロックの何バンドかはお世話になっている事だろう…)。
駆け足ペースでパンナ・フレッダの足取りを追ってみたが、何度も繰り返す様に彼等は決して伝説的存在だとか幻のバンドという無責任なひと言で片付けられるべきでは無いだろうし、口の悪い捻くれた輩からすれば良くも悪くもB級どまりなんぞと陰口を叩かれる始末であるが、それでも彼等はイタリアン・ロック黎明期の70年代初頭に青春と情熱を捧げほんの一瞬でも輝きを放ち駆け巡っていった、ただひたすらに音楽を愛して止まない純粋無垢な若者達だった様に思えてならない。
21世紀のイタリアン・ロックシーンを支えている現在(いま)を生きている幾数多もの新進気鋭のプログレッシヴ・アーティストの中にはおそらく多分「バンコやオザンナ、ムゼオにイルバレと70年代には素晴らしいバンドが沢山いたけれど、パンナ・フレッダも良いバンドだよね。」と語る者も必ずいる筈であろう…私はそう信じたい。
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