幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 04-

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 8月もいよいよ後半…今週の「夢幻の楽師達」は、先日リリースされたばかりの須磨邦雄氏2枚目のソロアルバムのリリースに伴う形で、クリムゾン・フォロワー系に於いて日本古来に根付くであろう忌まわしい因習…或いは伝統美の裏に潜む妖しげな闇の深淵、真紅の迷宮に木霊する旋律(戦慄)を謳い奏でる、かのクリムゾン王の血筋と孤高の精神を異国の地で継承した、紛れも無い真紅の子供達でもある“美狂乱”に、今再び光明を当ててみたいと思います。

美狂乱 BI KYO RAN
(JAPAN 1973~)
  
  須磨邦雄:G, Vo, Mellotron
  白鳥正英:B
  長沢正昭:Ds, Per

  「キング・クリムゾンがあったから 今、美狂乱がある…」
 今を遡る事37年前…1982年の11月21日、日本国内、否!全世界中のプログレッシヴ・ロックを愛する者達へ挑戦的或いは問いかけにも似たキャッチコピーを引っ提げ、鳴り物入りでセンセーショナルなデヴューを飾った、日本の真紅の子供達(Japanese Crimson Children)、その名は美狂乱。
 真紅の鬼の如き形相で慟哭ないし咆哮を思わせる巨大な魔王の顔が描かれた本家御大キング・クリムゾンの衝撃的デヴューから数えて13年、よもや海を越えた東洋の地にてクリムゾン王の洗礼を受けた者達が覚醒するとは、あの当時いったい誰が予想し得たであろうか…。
 漆黒の闇に赤の閃光に照らされた妖しくも禍々しい様相の狐面こそが、日本という風土の裏側に根付く因習と混沌を代弁し何者すらも寄せ付けない禁忌を物語る、美狂乱の音楽はそんな日本人の心の奥底に潜む闇と暗黒の深淵を内包し、狂暴と抒情そして正気と狂気の狭間で旋律(戦慄)を奏でる、唯一無比にして妥協無き孤高の楽師達と言っても過言ではあるまい。
 美狂乱の今日までに至る歩みについては、過去にリリースした作品のライナー、各方面での専門誌、果てはバンドリーダー須磨邦雄氏運営の公式サイトでも詳細が語られているので、重複の無い様ここでは簡単に要約して触れる程度にとどめておきたい…。

 60年代半ば…世界の幾数多ものロックミュージシャンの少年期がそうであった様に、静岡にて十代の小学生だった須磨氏が初めて接したロックはベンチャーズで、それ以来音楽とギターの面白さに取り憑かれた須磨少年は当時のGSブームと共に瞬く間に明けても暮れてもギター少年と化していったのは言うには及ぶまい。
 小6の頃には学友と共にデュオスタイルのバンドを組んで、須磨少年はギターからドラムまでを手掛けるようになって、モンキーズ、ストーンズ、プロコルハルム、そして御大のビートルズからの洗礼を受けてますますロック少年としての加速度を高めていく次第である(余談ながらも当時の須磨少年にとってビートルズは音楽性の素晴らしさこそ認識すれど、所詮は女が聴く軟弱もんロックと敬遠していたというから面白い)。
 中学に入りロック少年としてますます拍車をかけた須磨少年は、クリーム、ZEP、パープル、果てはヴァニラ・ファッジ、アイアン・バタフライ、グランド・ファンク・レイルロード、日本のモップス、そしてフェイヴァリット・バンドでもあるフラワー・トラヴェリン・バンドと多岐に亘って触れながら、併行して日に々々ギターの腕も上達していき、中学3年ともなると東京の某ロックコンテストに腕試しとばかりに大きなステージへと挑戦する事となる。
 そのコンテスト時の審査員だったフライド・エッグの3人から賞賛され、須磨少年はステージ上に上がってきた成毛滋氏から直々にジミー・ペイジのギター奏法を伝授され、サプライズな感動の余韻と勢いを引きずったままその後地元静岡で開催されたロック・コンテストに参加。
 以後、高校在学中には静岡のサンシャイン・フェスに参加し憧れのフラワー・トラヴェリン・バンドと共演し(スペース・サーカスとも共演)、以後須磨少年は高校を卒業するまでの間、静岡県内で一目置かれた存在のギタリストとして広く名が知られる事となる。
 高校を卒業しプロ活動を目指して、当時活動を共にしていた初代美狂乱ベーシストの吉永伸二と共に上京するも志半ばで頓挫。
 半年後二人とも失意を抱えて静岡へと帰郷するものの、そこで初代ドラマー山田義嗣との出会いによって運命の歯車は再び大きく動き始めるのである。
 東京時代に書き溜めたオリジナル曲から15分強の大作「止まった時計」を完成させレパートリーに加えていった辺りから、徐々に須磨氏の音楽スタイルに変化の兆しが感じられる様になり、それこそ鶏が先か卵が先かではないが、半ば冗談交じりに名付けたバンド名だった美狂乱が次第に須磨氏の目指す音楽像とイメージに歩み寄りつつあった事だけは確かな様だ。
 1974年「止まった時計」を引っ提げて美狂乱名義で再び東京の某ロック・コンテストに参加し特別賞に輝くと同時期に、河口湖ロック・フェスティバルに参加しフラワー・トラヴェリン・バンドと二度目の共演を果たし、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いの多種多才なバンドに混じって白熱の演奏で聴衆からの喝采を浴びる事となる。
 その時「止まった時計」に触れた聴衆からは
          “クリムゾンのエピタフを思わせる”
          “キング・クリムゾンのサウンドスタイルみたいだ”
 そんな言葉に、須磨氏自身この時点で初めてキング・クリムゾンを意識する様になり、当時リリースされたばかりのライヴ盤『USA』に触れ、以降遡りながら『レッド』『暗黒の世界』『太陽と戦慄』といった後期クリムゾンの作品に傾倒し、それからというものロバート・フリップを師と仰ぎクリムゾン一辺倒への歩みを追加速させていくのであった。
 程無くして音楽を生業とする事に抵抗を感じていた山田がバンドを去り、その後は82年の美狂乱正式メジャーデヴューに貢献したドラマー長沢正昭が加入。
 一時的ではあるが長沢の提案でクリムゾン・フォロワーバンドとして専念するためにバンド名をまどろみに改名し、クリムゾンの殆どの曲のコピーをこなしていく事となる。
 その後まどろみは須磨氏、吉永、長沢の3人を核にキーボード、ヴァイオリン、トランペット、フルートのメンバー数名が出入りし、静岡のロック・フェスや多くのステージに出演し実績を積み重ねていくが、メンバー個々の諸事情やら音楽的方向性の相違、心身の疲弊を理由にまどろみは1977年解散の憂き目を見る事となる。
 その翌年プログレ&ユーロ・ロック命でベースからキーボードまでを手掛け多重録音にも造詣の深い静岡大の学生だった久野真澄、そして女性ヴァイオリニスト杉田孝子との出会いを機に、須磨氏は再び長沢を呼び寄せ美狂乱再結成へと至る。
 が、美狂乱再結成が軌道に乗り始めたと時同じくして長沢がまたしても諸事情で抜けてしまい、須磨氏と久野は途方に暮れるも、まどろみ時代の旧知の伝でベースの吉永が復帰し、久野はキーボードに専念、そして肝心要のドラマーの後釜として、須磨氏と旧知の間柄でもあった伝説的名プログレドラマー佐藤正治が加入。
 美狂乱は漸く5人体制バンドとして確立し、1981年までこの不動の体制を継続し静岡県内での精力的な活動はおろか、東京のプログレ・ライヴハウスの老舗シルバーエレファントでのライヴにも定期的に出演する事となる。
 前後してフールズメイトやマーキームーンといった当時のプログレ音楽誌を始め、後のキング/ネクサス設立に携わる高見博史氏との出会い、同年期の盟友的バンド新月との繋がりで美狂乱は着実にメジャーデヴューへの足掛かりを築いていく事となる。
 この頃には名曲でもある「警告」始め「予言」「空飛ぶ穀蔵」「御伽世界」「都市の情景」といったレパートリーがライヴで大きな呼び声となっていたのは言うに及ぶまい(因みにこの当時カセットテープで収録されたライヴは、後述でも触れるが1987年にマーキー/ベル・アンティークよりリリースされた『Early Live vol.1~御伽世界』でも聴く事が出来る)。

 80年のキング/ネクサスの設立でノヴェラ、アイン・ソフ、ダダに次ぐ4番手として美狂乱にも白羽の矢が刺さるものの、高見氏への返答、契約その他諸々を含めた保留の状態で、正式なレコーディングに向けたリハーサルに日々を費やす中、突如として個人的な諸事情で吉永と杉田がバンドを脱退。
 が、しかし臆する事無く残された須磨氏、久野、佐藤の3人でデヴューアルバムに向けたデモ音源を完成させ、抜けた吉永の後任として白鳥正英を迎えて、いざ!メジャーデヴューに一直線と思いきや、須磨氏の結婚を機に東京でプロミュージシャンとしての活路を見出す久野と佐藤の両名とも袂を分かち合い、美狂乱はまたもや活動停止~解散への道を辿ってしまう。
 それでも数ヶ月間に及ぶ高見氏の熱心な後押しと説得の末、2年間の限定期間で何枚かのアルバムを製作するという合意の末、須磨氏は前出の白鳥、そして再びドラマーとして長沢を呼び寄せ新曲を含めた正式なレコーディングを開始する。
 更にはサポートメンバーとしてヴァイオリニストに当時芸大の学生だった中西俊博、キーボードに当時キング/ネクサスからデヴューを飾っていたヘヴィメタル・アーミーから中島優貴、リコーダー奏者の小出道也を迎え、プロデューサーにはジャパニーズプログレッシヴ黎明期の先駆者的作品『切狂言』で一躍話題となったチト川内という強力な布陣で臨み、長きに亘る紆余曲折と暗中模索の末…漸く美狂乱は1982年11月にバンド名を堂々と冠したデヴューを飾る事となる。
     

 デヴュー作の評判は上々で国内外からも高い評価は得るものの、メジャーデヴューという当初の目的こそ達成した須磨氏にとって暫くは満足とも物足りなさともどっち付かずな焦燥感ともどかしさを感じていたのが当時の本心だったそうな…。
 デヴュー記念ライヴを東京渋谷エピキュラス、新宿ACB、吉祥寺シルエレのみに限定し、以後美狂乱はスタジオワークへと尽力していく事となる。
 むしろこの当時の須磨氏の疑心暗鬼にも似た己への自問自答が、翌1983年にリリースされる事実上の最高傑作『パララックス』への原動力へと結実するのだから運命とはどう転ぶか解らないものである…。
 アール・ゾイ始めユニヴェル・ゼロといったダークチェンバー系に傾倒していた時期だけに、文字通りかのスイスのアイランド『Pictures』にも匹敵する、瓦礫の山に宙吊りにされた壊れたマリオネットという不気味で意味深な意匠を如実に具現化した、ダークでカオス渦巻くジャパニーズ・チェンバー・ヘヴィシンフォの金字塔を確立させた怪作にして名作へと押し上げていったのは周知の事であろう。
 新曲の「サイレント・ランニング」始め、伝説の名曲復活の気運漲る「予言」、そして看板に偽り無しの如くキャッチコピーの“このアルバムは聴き手を選びます…”に相応しい大暗黒的真紅の戦慄が横たわる大作「組曲“乱”」を引っ提げた問題作にして最高傑作へと上り詰めていったのである。
                    
 ゲストサポートも充実感極まれりのラインアップで、前作同様ヴァイオリニストに中西俊博、キーボードに当時ノヴェラの永川敏郎、チェリストに今や大御所の溝口肇、トランペットに岡野等といった大盤振る舞いの製作布陣で臨んだ稀代の最高傑作は前デヴュー作をも上回る高評価を得て、四人囃子の『一触即発』始め新月のデヴュー作、ノヴェラ『聖域』、アイン・ソフ『妖精の森』、後年のケンソー『夢の丘』と並ぶジャパニーズ・プログレッシヴ史に燦然と輝く伝説的名盤として殿堂入りを果たしたのであった。
 が…しかし、これだけ最高潮のテンションを保持しながらも結局大阪バーボンハウスでの伝説的ライヴを最後に、キング/ネクサスとの契約満了と時同じくして美狂乱は活動の一切合財全てを停止し、以後1994年の再結成まで長きに亘り沈黙を守る事となる…。

 美狂乱活動停止から4年後の1987年、高見博史氏が記録保存と足跡を後世に遺す為に録り貯めしていた数本のライヴカセットから厳選し、新たに再構成したライヴ・アルバムが回数に分けられマーキー/ベル・アンティークよりEarly Live シリーズとしてリリースされるという大きなニュースが突如としてアナウンスメントされる。
 87年末リリースの『Early Live vol.1~御伽世界』、翌1988年に『Early Live vol.2~風魔』の両作品は、新たな真紅の子供ともいえる幻想イラストレーターししどあきらの描く神秘的にして不気味、意味深で摩訶不思議な異世界は、かのイエス+ロジャー・ディーンとの図式同様に、まさしく美狂乱の音楽世界と見事にマッチングしていると言っても過言ではなかった。
 ここではししど氏の功績を改めて振り返るという意味で『御伽世界』『風魔』そして1995年の再結成時ライヴを収録した『Deep Live』に於ける素晴らしいアートワークを掲げておきたいと思う。
   
 余談ながらも87年と88年にリリースされたEarly Live両作品についてのこぼれ話だが、未だCD化されておらず今や鰻上りな高額プレミアムすら付いているという『Early Live vol.1~御伽世界』であるが、須磨氏の頑固一徹な意向で残念な事に今後以降『Early Live vol.1』のCD化は一切考えていないとの事。
 そして『Early Live vol.2~風魔』に至ってはリリース予定当時の事を覚えていらっしゃる方々も多い事と思うが、当初は名曲の「警告」を含めて、ライヴでたった数回しかプレイしていないというクリムゾンの「突破口」をインスピレーションに書いた「ゼンマイ仕掛け」、そして吉祥寺シルエレでたった一度きりしか演奏した事がないという幻の大曲「組曲“美狂乱”」(1979年当時、地元静岡大学の演劇部とのコラボレーションで誕生した作品との事)が収録されたその名も『ゼンマイ仕掛けの美狂乱』なるタイトルでリリース予定だったものの、惜しい事に高見氏所有の件のライヴカセットテープにかなりの不具合が見つかり、高見氏自身も勢い余って見切り発車に近い形で告知したものの、改めて聴き直してみるとやはりこれは相当キツいなァ…と反省し、後々にリリース予定していた『Early Live vol.3~風魔』を急遽繰り上げ登板し2枚目のEarly Liveシリーズとして世に出る事となった次第である。
 美狂乱活動停止から10年後の1993年、須磨氏の周辺が俄かに騒がしくなってきたのも丁度この頃である。
 解散前夜の1983年7月の大阪バーボンハウスでのライヴを収録した『乱 Live』、そして翌94年にまどろみ時代にクリムゾンの曲をライヴ収録した『まどろみLive』が立て続けにリリースされ、過去の偉業ともいえるライヴリリースという追い風を受けて、須磨氏は新たなメンバーと時代に則したコンセプトで再び美狂乱再結成へと動き出す。
 1994年、須磨氏を筆頭に酒屋の主人でもある三枝寿雅(B)、鈴木明仁(Per)、田口正人(Per)、影島俊二(Ds)、大塚琴美(Key)、望月一矢(G)、田沢浩司(Vo)という初顔合わせの大所帯8人編成のラインナップで再スタートを切り、度重なるリハーサルを経て翌95年東京のEgg‐manで復活ライヴ(後に『Deep Live』としてリリース)を行い大きな拍手と喝采を浴び、そのままの熱気と勢いを保持して、かの名作『パララックス』以来12年振りのスタジオ作品『五蘊(ごうん)』をベル・アンティークよりリリース。
 高見氏所蔵の兎の描かれた日本画をアートワークに用いたまたしても意味深なテーマで深く時代に切り込んだ異色にして時代相応の意欲作に仕上がっているのが特色と言えよう。
     

 駆け足ペースで進めていくが、『五蘊』リリースから程無くして須磨氏、三枝、そして大塚を残し大幅なメンバーチェンジを経て、一時期はスーパードラマー菅沼孝三始め、マリンバ奏者に影島俊二が加わったり、大塚がバンドを辞め、菅沼が抜けて清水禎之が参加したりと幾数多もの人材の出入りが激しい時期でもあった。
 それでも静岡を拠点に東京、名古屋と精力的且つ頻繁にライヴを行い、もはや一点の曇りも迷いも無い我が道を進むかの如く美狂乱は時代と世紀を邁進していった。
 20世紀末の1997年に須磨氏、三枝、そして清水のトリオ編成で原点回帰の如く狂暴にして鮮烈なカオス全開なるヘヴィ・プログレの新作『狂暴な音楽』をマイナーレーベルのFreiheitよりリリースし、その一見してあたかもかの五人一首ないし陰陽座風なジャケットをも彷彿とさせる意匠に周囲はただ驚くばかりだった…。
          
 そして21世紀に入り2002年…かつてのEarly Liveシリーズでしか聴けなかった「都市の情景」「御伽世界」「空飛ぶ穀蔵」「未完成四重唱」、そして幻の未発曲「ゼンマイ仕掛け」がスタジオ新収録版として甦り、3曲の新曲(未発表曲?)を新たに加えた文字通りの回顧とアンソロジーがテーマの『美狂乱Anthology vol.1』をリリース(下世話ではあるが、vol.1があれば当然vol.2も予定されていたのだろうか?)。

 時代の推移と共に美狂乱も大きな変動を迎え、須磨氏を筆頭に再びドラマーとして長沢正昭が復帰し、須磨氏の息子さん須磨和声がヴァイオリンとして参加、神谷典行(Key)、桜井弘明(B)の両名の新メンバーを加えて、プログレッシヴのフィールドからアニメ音楽のフィールドへとシフトしていき、青春ギャグアニメ「クロマティ高校」のサントラBGMをメインに手掛けているのが記憶に新しい…。
 その一方で須磨氏自身のソロ活動も併行して行われ、須磨氏自らが運営しているスタジオ兼レーベルのMountain North Recordsより2007年に初ソロアルバム『SOLOSOLO』、息子の和声君も同レーベルより2012年に『組曲“蟻”』でソロデヴューを飾っている。
 
 美狂乱が結成してから早40年以上もの歳月が経過し、今やライヴを含めて過去にリリースした殆どの作品がプログレッシヴ遺産並みのリスペクトクラスとして掲げられ、美狂乱のみならずスウェーデンのアネクドテンやパートス、アメリカのディシプリンといったクリムゾンDNAを真っ向から受け継いだ次世代が今もなお続々と輩出され、その流れはもはや止まるところを知らない。
 クリムゾン亜流バンド云々と過去に散々陰口まで叩かれつつも、彼等美狂乱は決して意に介さずただひたすら真紅の迷宮と暗黒と混沌の深淵を彷徨い、自己の美学とロマンティシズムの追求のみに音を紡いできた。
 須磨邦雄氏がこれから目指すであろう音楽の終着点が一体いつになったら見出せるのかなんて曖昧模糊めいた野暮な事はここではおそらく無意味な事であろう。
 須磨氏…即ち彼自身が生き続ける限り美狂乱の音楽と精神は絶える事無く、その時代々々を見据えた視野と観点で未来永劫ますます進化し続けていく事であろう。

 そして…長き沈黙を破って先日リリースされたばかりの須磨氏自身12年ぶりのソロワーク『ソロSIDE:森の境界』を今こうして耳にしている次第である。
     

 今回の2作目のソロに於いて須磨氏の研ぎ澄まされた孤高にして崇高な精神は更なる極みの境地に達しているかの様ですらあり、本作品はあたかも迷宮の音世界へと通ずる美狂乱の帰還ともいえる布石或いは予兆なのだろうか…?
 我々聴き手側はその答えを求めつつ、美狂乱が再び目覚める時までただひたすら信じ続けて待つしか術はあるまい…。
 否、もはや我々の知らない時間軸で美狂乱の新たなる胎動と覚醒がもう既に始まっているのかもしれない。

 本文章に多大なる刺激とインスピレーションを与えてくれた、聡明な楽師でもある須磨邦雄氏に心から感謝と御礼を申し上げます。
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Zen

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