幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 62-

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 2021年、また新たな一年が始まりました。

 14年目を迎える『幻想神秘音楽館』、どうか本年も宜しくお願い申し上げます…。
 コロナ禍が未だ収束の兆しが見られないまま新たな一年を迎え、外出制限やら緊急事態宣言が何かと取り沙汰され物議を醸すさ中、ワクチン接種という一縷の望みが待たれる…そんな焦燥と希望の狭間で困惑している昨今、ほんのささやかながらも文化と芸術の力が、人が生き続ける為の大いなる可能性と希望に繋がってくれる事を願わんばかりです。
 さて…本年最初にお届けする「夢幻の楽師達」は、70年代のジャーマン・シーンに於いて定番ともいえるクラウトロックやエクスペリメンタル、エレクトリック系とは一線を画し、ドイツならではの伝統と抒情性に裏打ちされたロック&フォークスタイルを地で行く、短命な活動期間ながらもリスナーの心に深く刻み付ける珠玉の2枚の名作・名盤を遺し、21世紀の今もなお孤高の存在として認知されている、ジャーマン・プログレッシヴ黎明期の名匠に位置する“ウインド”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

WIND
 GERMANY 1971~1972)
  
  Steve Leistner:Vo, Per
  Thomas Leidenberger:G, Vo
  Andreas Bueler:B, Per, Vo
  Lucian Bueler:Key, Per, Vo
  Lucky Schmidt:Ds, Per, Mellotron, Piano

 80年代半ば…自分自身がまだ20代前半だった時分のこと、年に数回上京しては当時豊島区にあった小さなアパートの一室で運営していたマーキー編集部に足繁く顔を出し、その流れの延長で西新宿界隈のUK.EDISONや新宿レコード、キニー始め、東新宿のディスクユニオン、果ては下北沢のモダーン・ミュージック、目白のユーファにも足を運んでは知り合った友人達との情報交換やら、展覧会の絵の如く店舗内の壁に掛かった、一枚ン万円単位という高額プレミアム付の稀少盤・廃盤を垂涎の眼差しで凝視していた、まあ所謂若さ故のプログレッシヴ愛で熱く燃えていた良い意味で血気盛んな青い若造だった事を、今でも時折懐かしくて気恥ずかしくなる思いに捉われることしきりである(…その分自身が歳を取ったということだろうか)。
 壁に掛かった高額レコード盤といえば、あの当時既に至宝の称号を欲しいままにしていたイタリアのクエラ・ベッキア・ロッカンダ始めオパス・アヴァントラ、イギリスのクレシダ『Asylum』、グレイシャス『!』、スプリング、そしてフランスのエマニュエル・ブーズ『Le Jour Où Les Vaches…』…etc、etcと枚挙に暇が無い位、文字通り宝の山さながらの様相だったことを今でも鮮明に記憶している。
 そんな中でも犬も歩けば棒に当たるの諺通り、必ずと言っていい位の確率で壁に掛かっていたりレコード棚に鎮座していたのが、今回本篇の主人公でもあるウインドの『Morning』だったのは言うに及ばず。
 まだまだ青かったプログレ若葉マークみたいな自分でも、既に高校時代フールズメイトのスペシャル別冊編集エディションにて掲載されていたプログレッシヴ・ロック100選の中でお目にかかっており、その如何にもドイツ然としたメルヘンチックで一見ややもすると海外からのお土産のクッキーの缶をも連想させる様なイラストレーションに面食らうやら苦笑いするやら、それだけ印象インパクト共に大だった事に加え、クリムゾンばりのメロトロンが聴けるという触れ込みもあって、店内の友人知人に片っ端から感想と評判を伺ったものの「ジャケットだけが売りで、音的にはそんな大したこと無いよ…」といともあっさり冷淡に切り捨てられたものだから、結局のところ「嗚呼…そうなんだ」と自分に言い聞かせつつも、話のやり取りを聞いていた店長が「じゃあ、試しに聴いてみる?」と言いつつターンテーブルに掛けてくれたら…やはり結果的には「嗚呼、なるほどね」のひと言で終わって店を後にしたものだからつくづく世話はない(苦笑)。
 そんな若い時分の苦い思い出がありつつも、今こうしてウインドを『幻想神秘音楽館』で取り挙げているのだから、年輪を積み重ねて自身の音楽的嗜好が変わって成長(?)したのかどうかは定かでは無いにせよ、昔はともかく今はこうして無難に親近感を持って聴けるのだから、やはり彼等の音楽性の素晴らしさは単なる一過性では無かったことを如実に物語っているのだろう。

 彼等の音楽経歴とルーツは1964年までに遡り、ウインドの母体となった名無しに近いバンドは当時ドイツ国内に駐留していた米軍基地内のパブやクラブでギグをする、所謂箱バンに近い活動を行っており、当時のメンバーはリードヴォーカリストのSteve Leistnerを欠いたThomas、Andreas、Lucian、Luckyの4人のみで、地道な演奏活動が実を結んだ甲斐あって程なくして1969年当時の戦火激しいベトナムで従軍慰問という破格の好機会を得たものの、高温多湿で酷暑なベトナムという異国の地で体調不良と高熱に悩まされ、挙句の果てにはツアーマネージャーが彼等のギャラを持ち逃げして行方をくらますという悪夢の様な出来事が重なって、結果4人のメンバー共々が心身ともに落胆・疲弊をきたし、最終的には所持していた楽器とPA機材の全てを売り払ってドイツ帰路への航空代に充てたのだから言葉が出ない…。
 最悪な従軍慰問から帰国した後、多額の借金と引き換えに再び楽器を揃えた彼等は気持ちを切り換えて、新たな曲想と音楽スタイルを模索し、それと前後して新たなリードヴォーカリストとして数多くのバンド活動と音楽経験豊富なシンガーだったSteve Leistnerを迎え、1971年漸くバンドとしてのラインナップが整いバンド名も装いを新たにウインドへと改名。
 同年ケルン近郊のスタジオを借り切って、正式なデヴューアルバム『Seasons』をマイナーレーベルのPLUSからリリースするも、レーベルサイドの意向で廉価盤扱いによるリリースで正規のルートによるレコードショップに出回らない形で、郊外のスーパーマーケットとかガソリンスタンドで売られたのだから、ウインドの面々にしてみれば正直屈辱以外の何物でもなかった事であろう。
    
 とは言うものの…やはりデヴューアルバムというちゃんとしたレコードという形で世に出た喜びの方が勝っていただけに、メンバーが思っていた以上の売り上げセールス累計30000枚という成功基準を満たし、その硬質で重厚なハモンドをフィーチャリングしたジャーマン特有のヘヴィロック路線が功を奏したのを契機にドイツ国内の各音楽誌がこぞってウインドを絶賛し、早くもライヴ関連並びロックフェス関係者からも出演オファーが殺到。
 PLUSレーベル主催のライヴイヴェントでも、同レーベル所属で既に脚光を浴びていたトゥモローズ・ギフトやイカルスと共にステージに立った彼等は聴衆からの喝采を浴び、その人気と実力を不動のものとし、別のロックイヴェントでも当時人気絶頂だったカンはおろか、フロイドの前座としても招聘され、これを追い風に彼等のライヴバンドとしての実績と評判は鰻上りな上昇カーブを辿って行く。
  
 翌1972年、彼等の人気に乗ずる形で多数もの大手音楽レーベルから2ndリリースに向けた契約オファーが舞い込むものの、成功を手にしている実情とは裏腹に彼等の財政面や台所事情は相も変わらず火の車に近い状態で、俄かに信じ難い話ではあるがメンバー各々の細君や恋人が手に職を持っていた甲斐あってバンド活動に於いても大きな助力になっていたというから、正直今となってはこんな話を聞かされると改めて彼等は根っからの苦労人バンドだったと、別な意味で苦笑混じりに溜め息が出てしまう…。
 彼等の名誉の為にあらかじめ断っておくが、カミさんや彼女にある程度養ってもらっていたからといって、決して女から食わせて貰っているとかヒモみたいな見方や偏見だけはどうか止めて頂きたい。
 話は戻って…そんなバンドの懐事情を知ってか知らずか定かでは無いが、程無くして大手のCBSとリリース契約を結んだ彼等は、同年の夏にユーロプログレッシヴ屈指の名作・名盤として後世まで語り継がれる『Morning』をリリース。
 前デヴュー作で見受けられたヘヴィなオルガンロック路線とは打って変わって、かのピルツレーベルの有名格イムティディの『Saat』、ヘルダーリンのデヴュー作にも匹敵する…良い意味でドイツの田園風景や田舎の雰囲気を醸し出した、メロトロンの導入が功を奏した事もあってフォーキーでシンフォニックな佇まいとハートウォーミングな抒情性が全面的に反映された、まさしくメルヘンチックで童話的なアートワークのイメージと寸分違わぬ、名実共にジャーマン・プログレッシヴ史に刻まれる最高傑作へと押し上げたのはもはや言うには及ぶまい。
          
 このまま順風満帆に上昇気流の波に乗ってバンドとして創作活動が軌道に乗ってくれるものと誰しもが頭に思い描いたであろう…。
 しかし理想と現実のギャップというか、どんなに成功と名声を手にしても結局はバンド内の財政面は困窮に瀕し、バンドやスタッフ共々日に々々疲弊と限界を感じ始め、更に運の悪い拍車を掛けるかの様にバンドマネージャーが彼等の許を去り機材の殆どを持ち去って行くといったトラブルまでも引き起こす始末である…。
 バンドは結局最後の力を振り絞り1973年に細々と“Josephine”というシングルをリリースした後、人知れず静かに表舞台から去りウインドとしての活動に幕を下ろす事となる。
 バンドの終焉後、Steve Leistnerはミュージシャンとして活動を継続し、1985年に自身の為のレーベルを設立後、自身の活動に加えて多方面での音楽関連のプロデューサー兼エンジニアとして今もなお第一線で手腕を発揮しており、Lucian Buelerはヴォイストレーナー兼プロデューサーに転身、Andreas Buelerはクラブやカフェ、キャバレーの経営者として成功を収め、残るThomas LeidenbergerとLucky Schmidtの両名はセッション・ミュージシャンへと転向したとのことだが、その後の動向は音信不通に近い状態となっている。
         

 70年代初期ジャーマン・ロックきっての名匠と謳われ続けてきたウインドであるが、彼等の歩んだ道程は決して平坦ではない、時代に翻弄され信頼していた者からも裏切られ(特にマネジメント関連で金銭や機材等を持ち逃げされるといった憂き目を二度も味わっている)、成功の陰では常に財政難に付きまとわれていたという、つくづく悲運で残念なバンドだったと思えてならない。
 演奏や構成力、楽曲のコンセプト等も秀でて相応に実績や高い評価があったにも拘らず、運とツキだけに見放され、時代の移り変わりといった空気感と相まって疲弊と限界を感じて泣く々々解散の道へと辿ったのが悔やまれてならない…。
 やはり時の神様は時として残酷な試練と運命をお与えになさるものであると、天上を仰いで恨みつらみながら睨みつけたくなる思いですらある。
 それでも彼等ウインドが遺した2枚の財産は、今もなお神々しく燻し銀の如く輝きを放ち続けており、時代と世紀を越えて新旧多くのリスナーに愛され、彼等が紡いだ楽曲の精神と心は立派に受け継がれつつ、後年のエデンを始めエニワンズ・ドーター、ノイシュヴァンシュタイン、アイヴォリー、果ては昨今の幾数多もの21世紀プログレッシヴ並びメロディック系シンフォへと伝承されているのである。
 そう…彼等は時代にこそ負けてしまったが、プログレッシヴ・ロックという未来永劫にして悠久なる音楽史に於いては紛れも無く完全なる勝者に他ならないと断言出来よう!
 せめてもの思いで恐縮であるが、私はそう信じてやりたいと思う。
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Zen

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