幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 63-

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 2021年も早いものでもう3ヶ月が経とうとしています…。

 二度目の緊急事態宣言が解除されワクチン接種も始まりつつあるさ中、多かれ少なかれコロナ禍の収束に向けて光明の兆しが漸く見受けられる様になった昨今ですが、まだまだ東京五輪を含めた諸問題が山積し前途多難といった印象は否めません。
 桜の開花と共に来月からいよいよ新年度を迎えるに当たって、私達周辺を巡る様々なしがらみや閉塞的な空気を少しでも塗り替え打破せねばならないという実情を踏まえ、当『幻想神秘音楽館』もたまには刺激とパンチの効いたハードロック (無論頭には“プログレッシヴ寄りな”…が付きますが) を取り挙げてみようと思い立ち、今月の「夢幻の楽師達」そして来月の「一生逸品」の2ヶ月間限定で、春のパン祭りならぬ“春のブリティッシュ・ハードロック祭り”をお送りいたします。
 今回の「夢幻の楽師達」で取り挙げるは、70年代初頭かのヴァーティゴ・レーベルが社を挙げて世に送り出し、70年代ブリティッシュ・ロックシーンに於ける一時代を謳歌し、その名を未来永劫新たな一頁へと遺し唯一無比且つ孤高の存在として、私達の心の奥底へ克明に刻み付けているであろう“メイ・ブリッツ”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

MAY BLITZ
(U.K 1970~1971)
  
  James Black:Vo, G
  Reid Hudson:B, Vo
  Tony Newman:Ds

 オランダを本拠地にヨーロッパ諸国に於ける電化製品大半のシェアを占めていた大手家電メーカーとして名高いフィリップス。
 50年代半ば頃、本格的な音楽事業に進出以降…ユーロ・プログレッシヴを愛して止まない方々ならフィリップスと聞けばフランスのアンジュ、或いはイタリアのレ・オルメ一連の作品が思い起こされる事だろう。
 かのフィリップスが1969年、来たるべき70年という時代の節目なのか新たなる時代到来を予見していたかは定かでは無いが、自社傘下として発足した伝説的レーベルのヴァーティゴを立ち上げ、ブラック・サバス始めコロシアム、ベガーズ・オペラ、クレシダの2nd、果てはアフィニティー、フェアフィールド・パーラー…etc、etcといった各々ジャンルの垣根を越え、長命短命問わずブリティッシュ・ロック黎明期に大きな足跡を残した逸材を多数世に輩出したことは既に御周知であろう。

 言わずもがな、今回本篇の主人公メイ・ブリッツも御多聞に漏れず70年代ブリティッシュ・ロック黎明期のみならず、ヴァーティゴ・レーベル創設期に於いて決して忘れ難い存在として、21世紀の今もなお数多くのブリティッシュ・ロック愛好家やファンの間で語り草になっていると言っても過言ではあるまい。
 個人的な話で恐縮ではあるが…彼等との出会いは私自身まだ20代半ばの時分、年に何度か上京してはマーキー誌編集部に入り浸り、西新宿始め目白、下北沢のプログレとユーロの中古廃盤専門店に足繁く通っていた、俗に言うまだまだ青かった時代のこと。
 先般ドイツのウインドの回でも触れたと思うが、まさしく犬も歩けば棒に当たるの諺通り前述の中古廃盤専門店へ足を運ぶ度に必ずと言っていい位の確立で出くわしていた(お目にかかれた)のが、イタリアのクエラ・ベッキア・ロカンダの1stと2nd、クレシダの2nd、エマニュエル・ブーズの2nd、そしてウインドの2ndと並んで、これ見よがしに壁掛け高額プレミアレコードとして展覧会の絵の如く鎮座していた、コミカルタッチながらも毒々しいユーモラスさが漂うジャケットアートが際立っていたメイ・ブリッツの2nd『The 2nd Of May』もその内の一枚であった。
 意外と思われるがこの手の奇妙でひと癖もありそうなジャケットアートにも心惹かれる性分であるが故、店主ないしたまたま居合わせた友人知人に教えを請うと“典型的でオーソドックスなブリティッシュ・ハードロックだよ。それに大関君の好みとはだいぶかけ離れているし…”といった当たり障りの無い返答が得られたものの、口の悪い辛口めいた友人の弁では“高い値段の割に出来はイマイチだよ。”といった、まあ人それぞれ嗜好や方向性の違いこそあれど、個人的なメイ・ブリッツに接した最初の印象は聴き様によっては良くもあり悪くもありといった、そんなどっち付かずな宙に浮いた感であったのが正直なところであった。
 数年後に上京した時なんて、別のプログレ仲間のアパートへ数人集まって酒杯を傾けていた際、友人の一人が某中古廃盤店のバーゲンセールで格安に入手出来たというメイ・ブリッツの2ndと共に、たまたま運良く手に入れた彼等の1stのジャケットを目にした瞬間思わず口からビールを吹き出しそうになったのを今でも苦々しい思い出として鮮明に記憶しているから困ったものである(苦笑)。
 ユニークとかユーモアといった次元を遥かに超えた、そのあまりに不恰好で醜悪で悪趣味満載ゴリラ感丸出しなダイエットとは凡そ無縁の太っちょオバちゃんが描かれたジャケットアートを見た瞬間、おいおい勘弁してくれよと心の中で叫びそうになった瞬間、仲間の誰かが“ああ、これが有名なメイおばちゃんかぁ…”とポツリ呟いたひと言で全員大爆笑したから堪ったもんじゃない。
 それ以降擦り込み現象宜しく、メイ・ブリッツ=メイおばちゃんとして認識してしまった位、音楽性云々とは別な意味で捉えてしまったものだから、まあ…出会い方としては微笑ましいというか苦笑いしてしまいそうになるのが本音といったところであろう(メイ・ブリッツの当時のメンバーには、本当に申し訳ないと平謝りしたいことしきりである…)。

 まあ…何とも与太話じみた思い出で長くなったが、話を戻して当のメイ・ブリッツ結成の経緯というかバイオグラフィーにあっては、何とも複雑怪奇にして紆余曲折の連続で、遡る事1968年イギリスのウェスト・ミッドランズ州は窯業と陶器で盛んなスタッフォードシャーにて結成されたThe Bakerloo Blues Line=後のベイカールーを皮切りに、コロシアム、ジェフ・ベック・グループ、果てはフェアポート・コンヴェンション、ユーライア・ヒープといった名立たるバンドやらアーティスト勢が絡んでくるため、正直情報整理するのがかなりひと苦労であったのは言うに及ぶまい。
           
 ベイカールー改名後オリジナルメンバーだったDave 'Clem' Clempson(G, Vo)、Terry Poole(B, Vo)、Keith Baker(Ds)によるトリオ編成で、68年秋レッド・ツェッペリンのマーキークラブ公演で前座ながらもデヴューを果たし、程無くして1969年ハーヴェスト・レーベルよりバンド名を冠した最初で最後の唯一作『Bakerloo』をリリースするものの、Dave 'Clem' Clempsonがかの名ドラマーとして後年名を馳せたコージー・パウエルと共に新たなバンドを結成する為に脱退し、ベイカールーは呆気無く解散への道を辿ったが、残されたTerryとKeithの両名は人伝を頼りにカナダ出身のギタリストJames Blackを迎え、バンド名も装い新たにメイ・ブリッツ(因みに直訳すると“5月の爆撃”という意であり、決してメイという名のオバちゃんでは無い事を、バンドの名誉の為に付け加えておきたい)へと改名。
 まあ、そもそも第二次大戦下の1941年5月、ドイツ軍によるイギリスへの空爆侵攻…俗にいう5月の爆撃なる忌まわしい史実をバンド名に冠するくらいだから、戦争に対するアイロニカルというかシニカルさが滲み出ており、改めて皮肉屋気質で気難しいといったイギリス人らしいイメージすら垣間見えると思えてならないのは考え過ぎであろうか。

 Terry、Keith、そしてJamesによるトリオで心機一転し、当時まだ新興間も無かったヴァーティゴ・レーベルと契約を交わし、デヴュー作へのレコーディングに向けリハと準備に取り掛かろうとしていたその矢先、何と今度はTerryとKeithの両名がグレアム・ボンド・オーガニゼーションからの招聘で泣く泣くバンドを去る事となり、メイ・ブリッツは半ば丸投げされたかの如くJamesたった一人が取り残された形で存続する事となり、Jamesの伝で急遽カナダから旧知の間柄でもあったベーシストのReid Hudsonを呼び寄せ、ヴァーティゴサイドからの助言と提案でベテランドラマーとしてキャリアを兼ね備えていたTony Newmanを迎えた新布陣で再出発を図る事となる。
 余談ながらもメイ・ブリッツを抜けたKeith Bakerにあっては、結局音楽性の相違でグレアム・ボンド・オーガニゼーションを辞め、後々はスーパートランプを経てユーライア・ヒープ3代目ドラマーとして名作『Salisbury』のみに参加している。

 前途多難と不安に満ちた雰囲気の中でレコーディングに臨みつつ、翌1970年の俗に言うプログレッシヴ元年、バンド名を冠した記念すべきデヴューアルバムをリリース。
 バンドネーミングに相反するかの様な、林立するビル群に立ちつくす…あたかも『ゴジラvsコング』よろしくとばかりにメタボでエロスで不細工な巨人のオバちゃんとキングコングが描かれた、何とも毒々しくもコミカルタッチなジャケットアートが印象的ではあるが、肝心要の音楽性に至ってはやはり時代相応に彩られたサイケでヘヴィ且つブルーズィーな佇まいで、まさしくブリティッシュ・スピリッツ全開の暗く混沌とした独自の世界観が際立っていると言っても異論はあるまい。
    

 彼等3人が手掛けたオリジナルナンバーをメインにセルフプロデュースという異例のデヴュー作ながらも、キーボード不在でヘヴィロック、ブルース、サイケデリック、アートロックの要素が混在した実質上プログレッシヴなスタイルで70年代に颯爽と躍り出たデヴュー作の評判は上々で、イギリスの各音楽誌並びプレス関係やメディアはこぞって賛辞と喝采を贈り、その期待に呼応するかの様に彼等はイギリス国内のデヴューギグを精力的にこなしていく日々に明け暮れた。
          
 デヴュー作での勢いとヴァーティゴサイドのバックアップを追い風に、翌1971年彼等メイ・ブリッツにとって最高傑作にして最終作となった頂点とも言うべき『The 2nd Of May』をリリース。
 ウォーリーを探せよろしく本作品でもデヴュー作で描かれたエロ不細工オバちゃんが再登場のユーモラスでコミカルなデザインに包まれた、前作以上にハードロックなゴツゴツとした感触に加えて、次代相応にプログレッシヴなエッセンスが散見された名実共に面目躍如となった会心の一枚ともいえる充実作となった。
           
 しかし悲しいかな、理由こそ定かでは無いが『The 2nd Of May』本作品のプレス枚数が極端に少なかった事が拍車をかけ、デヴュー作と比較して予想を遥かに下回る売り上げにセールス枚数が伸び悩んだ事が災いし、この事が発端でJamesとReidのカナダ組両名はイギリスの音楽業界にほとほと愛想が尽き果ててしまい、いともあっさりメイ・ブリッツの解体を決意し母国へと帰国後は音楽業界からも身を引いてしまう。
 残されたドラマーのTony Newmanはメイ・ブリッツ解散後、スリー・マン・アーミー、ボクサーを経てマーク・ボラン、ディヴィッド・ボウイとの協演、果てはホワイトスネイクへの参加といったセッション兼サポートミュージシャンとして活路を見出して行く事となる。

 70年代ブリティッシュ・ロック黎明期にして激動ともいえる一時代を、ほんの一掴みな短命バンドでありながらも一陣の風の様に駆け抜けていったメイ・ブリッツ。
 青春時代楽しくもほろ苦い思い出の一頁などと、安っぽくも軽々しい感傷やら同情で締め括るにはあまりに早計ではあるものの、有名無名が犇めき合い複雑怪奇に入り組んだあの当時の70年代初期ブリティッシュ・ロックシーンに於いて、それはまさしく音楽業界への向き不向き、幸運と不運、挑戦と挫折、光と影、栄光と転落といった文字通り背中合わせそのものだったに相違あるまい。
 『幻想神秘音楽館』に於いて過去何度も言及してきた事だが、たとえ心打つ感動的な素晴らしい自信作であったにせよ決して成功に繋がるものとは限らず…栄光の道程とはとは程遠い、売り上げ枚数次第やらセールス不振で、お偉い方の鶴の一声でいとも簡単に配給会社始め音楽業界、時代からお払い箱となってしまう、さながら飴と鞭に近い冷遇された狭苦しくも閉塞的で小さな世界であることを何度思い知らされてきた事だろうか。
 21世紀の現在でこそ専門分野のレーベルが多数新興発足し、製作環境やリリース配給元の環境が整ってハードロックやプログレッシヴ・ロックが自由にのびのびと演れる恵まれた時代になったのは言うまでもないが、今日までに至る長い道程の始まりと裏側には“幻”だの“伝説”だの短命バンドと揶揄されながら時代と運にも突き放され、機会やチャンスすら奪われ冷遇されてきた数多くもの涙と悲しみの連鎖と犠牲で成り立っている事実を私達は決して忘れてはなるまい。
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