夢幻の楽師達 -Chapter 64-
2ヶ月の休載期間を経て、『幻想神秘音楽館』が再び帰って参りました…。
私事ながら狭心症の再発に伴い長い間休載期間を頂き、皆様には心から感謝と御礼を申し上げると共に、大変御心配をおかけしてしまった事…本当に申し訳ありませんでした。
5月と6月に諸々の精密検査を兼ねた入院を経て、今月半ばに第一回目のカテーテル治療、来月半ばに二回目のカテーテル最終治療を受け、完治へと繋がる凡その目途が立った事に際し、今こうしてここに『幻想神秘音楽館』再開への運びとなった次第であります。
休載していた2ヶ月間、病気治癒への専念も然る事ながら、私自身不安が無かったと言ったら嘘になるでしょう…。
本ブログの継続維持ももしかしたら最悪厳しくなるのでは…といった怖れがほんの一瞬であれ何度頭の中を過ぎったことか。
それでも己を信じて突き進むしかないという一念の許、今こうして再び帰って来れた喜びに勝るものは無いと改めて自覚・自認しているのが率直な気持ちです。
自らを労わり健康管理に留意しつつ、休載2ヶ月間のロスを埋め合わせるべく今月と来月で思いの丈を込めて綴っていきたい所存です。
どうか今後とも御支援と御愛顧頂きますよう、重ねて宜しくお願い申し上げます。
復帰再開の第一弾は「夢幻の楽師達」から、久々の新たな書き下ろしで以前から準備を進めてきた、70年代アメリカン・プログレッシヴに於いてカンサスやスティックスとはまた違った意味合いで、独自の音楽スタイルと方法論でエポック・メイキング的なポジションを築いた、栄光と伝説の申し子と言っても過言では無い“イーソス”に今再びスポットライトを当ててみたいと思います。
ETHOS
(U.S.A 1976~1977)


Wil Sharpe:G, Vo
Michael Ponczek:Key
Brad Stephenson:B, Vo
Mark Richards:Ds, Per, Vo
冒頭の書き出しでも触れているが70年代からの大御所のカンサスやスティックスを皮切りに、90年代以降のドリーム・シアターにスポックス・ビアード、エコリンの台頭は、21世紀今日のアメリカン・プログレッシヴの根幹と基盤を名実ともに形成していると言っても過言ではあるまい。
それこそひと昔ふた昔前のアメリカン・プログレッシヴの扱われようといったら、今となっては笑い話或いは質の悪いジョークさながら、ファーストフードやジャンクフードを食っている連中にプログレッシヴなんぞ出来っこないだとか、ヒットチャートやら産業ロックオンリーなアメリカに(本格的な)プログレッシヴは不毛だとか…兎にも角にも散々な言われようで、まあ私を含め人間とはつくづく都合が良いもので掌返しとは敢えて言わないものの、いざ北米大陸のシーンを紐解いてみるとイギリスやイタリアに匹敵するくらい、まあ出るわ出るわの勢いで幾数多もの素晴らしいバンドやレアアイテムが発掘されたものだから、あの当時のイギリスやヨーロッパ諸国のシーン一辺倒だった良くも悪くも偏重主義に凝り固まっていたプログレッシヴ・リスナー達が忽ち色めきたったのは言うに及ぶまい。
十代半ばのまだ青かった時分、アメリカのプログレッシヴといったらメジャーな商業路線ながらもカンサスやボストン、スティックス程度しか認識を持ち得てなかったが故、そんな世界的な成功を収めたバンド勢の裏側でマイナーな範疇ながらも、パヴロフズ・ドッグ始めハッピー・ザ・マン、ディキシー・ドレッグス、ペントウォーター、イエツダ・ウルファ、単発バンドながらも後々レアアイテム級扱いとなるシャドウファクス(後年ウィンダム・ヒルから再デヴューを飾るが)、バビロン、イースター・アイランド、そして最高峰のカテドラル…etc、etc、枚挙に暇が無いくらいの活況を呈していた、所謂当時で言うアメリカン・ニューウェイヴ=第一次アメリカン・プログレッシヴ黄金期だったのが窺い知れよう(手前味噌ながらも青い太字のバンドにあっては『幻想神秘音楽館』でも取り挙げているので、クリックして再度閲覧頂けたら幸いである)。
そして今回本篇の主人公であるイーソスであるが、彼等も御多聞に洩れず70年代中期~後期にかけての第一次アメリカン・プログレッシヴの一端を担っていたであろう重要な存在にして、大衆路線受けの産業ロックとしてアピールしていたカンサス、スティックス、スター・キャッスルとは一線を画す形で、前出のパヴロフズ・ドッグやカテドラルと同様、あくまでもブリティッシュナイズでユーロロック系志向の音で勝負していた稀有な存在でもあった。
60年代末期インディアナ州フォート・ウェインにてハイスクール時代からブリティッシュ・インヴェイジョンに触発され黒人音楽をベースにした創作活動に励んでいた、イーソス実質上のリーダーにしてソングライターでもあったWil Sharpeを中心に幕を開けることとなる。
彼等もかの本家イエスと同様、アメリカン・ミュージック革新の象徴ともいうべきヴァニラ・ファッジに影響されたロックミュージックを指向し、その頃にはイーソスのオリジナルメンバーだったキーボードのMichael Ponczek、そしてドラマーのMark Richardsと活動を共にし、ベーシストの交代やらバンドの改名といった紆余曲折を経て、1972年全世界を席巻していたプログレッシヴ・ムーヴメントに呼応する形でATLANTISというバンド名義で音楽活動に邁進していき、その卓越し一歩二歩も抜きん出た音楽性が実を結び彼等は大手RCAとプロダクション・ディールを交わすことに成功する。
その一方で充実したバンド活動と併行して地元の大学に進んだWilとMichaelは、創作活動の地固めとしてプロモーション・イヴェントやミュージック・エンジニアリングといったサイドビジネスをも手掛けるようになり、Wilは地元インディアナ州の著名人達とTHEATRE ARTS CONCERTSを設立し、Michaelにあっては学業と電子音楽系エンジニアリングの取得を両立した日々を送る事となる。
年間100回近くにも亘る精力的な演奏活動をこなし、かのエアロスミスの前座始めクリムゾンやジェントル・ジャイアントのアメリカ公演でジョイントを務めるなど、アルバムデヴュー前にも拘らず地道且つ順風満帆な軌道の波に乗ったその甲斐あってか、程無くして大手レーベルのキャピトルからデヴューアルバムの話を持ち掛けられたものの、ドイツにATLANTISなる同名のバンドが存在するとの…またもやバンドネーミングの壁が立ちはだかる事となり、彼等は熟考の末“精神”の意でもあるイーソスと改名し、1976年新たなベーシストに旧知の間柄でもあったBrad Stephensonを迎え、サウンドの強化を図る上でもう一人のキーボーダーとしてDuncan Hammondを加えた、ツインキーボードを擁する5人編成にエンジニア兼サウンドデザイナーにGreg Rikerという布陣で、待望のデヴューアルバム『Ardour (熱情)』をリリースする。
改名前のATLANTISの韻をも踏んだであろう…意味深で神秘的な意匠のイメージと相まって、イーソスのデヴューアルバムはアメリカ国内で50000枚近いセールスを記録し (正直、当時日本盤がリリースされなかったのが不思議なくらいである)、アメリカンな佇まいの作風を下地にしながらも初期クリムゾンばりのメロトロンにチェンバリン (アメリカ製のメロトロンといったところであろうか)という深遠で重厚なブリティシュナイズ志向のシンフォニーが畳み掛ける、カンサスやスティックスには皆無だった趣と雰囲気が際立っており、本家のクリムゾンやイエスとは全く異なる彼等独自の世界観とサウンドスタイルが見事に確立されているのが特筆すべきであろう。

何度も言及しているがアメリカの持つ陽気で太陽燦々なイメージとは真逆な、かのバビロンにも似通ったミスティックな不思議さとアトランティス大陸の持つ荘厳さが醸し出された、ある意味純粋なるアメリカン・シンフォニックの祖に値すると言っても異論はあるまい。
個人的な弁で恐縮ではあるが、アートワーク総じて同年にリリースされたカンサスの『Leftoverture』と共に対を為すアメリカン・プログレッシヴの代表作であると信じて疑わない。
翌1977年、デヴューアルバムで得た勢いを追い風に彼等は次回作の構想に取りかかるが、惜しむらくはこの時点でツインキーボーダーだったDuncan Hammondが抜けてしまった事で、彼等の行く末に不穏な暗雲をもたらす事となってしまう。
それでも彼等は臆する事無く4人編成で気持ちを新たに、不安や迷いを払拭せんが為に渾身の持てる力を振り絞って2nd『Open Up』をリリース。
デヴューから較べるとイメージ的に若干垢抜けた様な、アメリカンなコミカルさと漫画チックなポップさが如実に表れた意匠と違わぬ作風ではあるが、従来通りのミステリアスで不思議な余韻が秘められたイーソスサウンドが楽しめる趣向が凝らされている。

しかし悲しいかな…彼等や周囲の期待を余所に、2nd『Open Up』のセールスは伸び悩み、結局売り上げ不振で失敗という二文字の烙印を押された憂き目を見る事となる。
それでもライヴに於いては精力的に演奏をこなし、彼等の憧れでもあったイエスにクリムゾン、ジェネシス、そしてフォーカスや果てはウェザー・リポートとの共演はイーソスというバンドに取って貴重で且つ忘れ難い夢の饗宴のひと時であったに違いあるまい。
セールス不振でキャピトルとの大なり小なり溝と隔たりを感じた彼等は、レーベルとの契約満了と同時期にバンドの解散を決意し、短い活動年数ながらも広大なアメリカの季節風よろしく疾風怒濤の如く駆け巡り人知れず静かに幕を下ろす事となる。
メンバーのその後にあってはリーダーのWilとMichaelの動向が判明しており、Wilにあってはイーソス解散後既に招聘を受けていたテキサス州の大手コンサート・プロダクションSHOWCOのトップに就任後、映画やドキュメンタリー音楽の制作に携わる一方で、80年代以降はカンサスやエイジアと仕事を共にし、SHOWCOを勇退後は自らのマネジメントと後進の発掘と育成の為のSHARPE ENTERTAINMENT SERVICEを設立、記憶に新しいところでかのDamon Fox率いるビッグエルフとのプロダクション・ディールを交わしたのが有名であろう。
片やもう一方のイーソスの要でもあったMichaelの方はライヴツアーのミキシング・エンジニアに転向し、アメリカ国内の数多くの大御所アーティスト達と同行し実績を積み重ね、数年後にはライヴ・サウンドエンジニア・オブ・ジ・イヤーズを受賞後は、CROSSROADS AUDIO社のイヴェントサービス部門のチーフマネジャーとして多忙の日々を送っているとの事である。
70年代から21世紀にかけてのアメリカン・プログレッシヴ史を紐解く上で、もはや必要不可欠な存在としてクローズアップされているイーソスであるが、短い活動年数ながらもこまめに録り貯めていた次回作の為の音源やら未発表の楽曲が、2000年にWilのプロデュースと主導の許で未発表音源のCD化という形で『Relics (イーソスの遺産)』がリリースされ、秀逸な楽曲揃いに改めて彼等のサウンドクオリティーの高さに驚愕の思いを抱かれる事必至であろう。

いみじくも『Relics』に添えられたブックレット中のWilからのコメントには“僕等はキング・クリムゾンに対するアメリカの返答というべき存在になりたかったが、結局誰もその返答を望んではいなかった”と、何とも些か寂しい言葉で締め括っているが、Wil自身にとってイーソスとは特別な存在でありながらも最早過去でしかないといった…所謂自らの誇りと諦めとがせめぎ合う二律背反な通過点であったのかもしれない。
たとえそれが失言であれ言葉尻がそうだったとしても、建前と本音からしてWil自身内心「いつかは俺達も…」と復帰を目論んでいるのかもしれないだろうし、イーソスを聴いてプログレッシヴを志した昨今の若手勢にエールを送り果たせなかった夢を託しつつも「でも、若い世代の連中にはまだまだ負けられないよなぁ…」とばかり虎視眈々と窺っているのも無きにしも非ずではなかろうか。
いずれにせよイーソスの遺産或いは意思なるものが、21世紀今日の北米のプログレッシヴ・シーンに伝播され、あたかも撒かれた種子が次世代に向けて発芽するかの如く、新たな伝承者が現れるのを我々は今なお待ち続けているのかもしれない。
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