夢幻の楽師達 -Chapter 67-
2022年1月、また新たな一年が始まりました。
本年もまた引き続き『幻想神秘音楽館』を、御支援並び御愛顧頂けますよう、宜しくお願い申し上げます。
本来であれば新年最初のスタートに相応しく、多少なりに気の利いたおめでたい言葉をといきたいところではありますが、昨今日本全国…否!世界各国でまた再び爆発的に蔓延・感染拡大しているオミクロン株の新型コロナウイルスで、新年の気分は一気に醒めてしまい、結果的には私を含め世間の皆誰しもが“嗚呼、結局また今年一年この繰り返しか…”といった、半ば失笑と諦めの複雑な感情とが入り混じった悲しくもやるせない気持ちになっているのが正直なところでしょう。
収束の兆しすら未だ感じられず、これからもなお暗い闇の回廊を堂々巡りするかの様な、先行き不安で希望の光明すら見出せない…さながら失意と憤怒すらも通り越して、焦燥感と寂寥感にすっかり浸り切って空虚で白々しい心のどこかしらにポッカリと穴が空いてしまっている、そんな苦難と困惑に満ちた時代をそれでも前向きに力強く生きていかなければならないと、自らに言い聞かせる自分を客観視している、何とも実に皮肉めいた辛辣な前置きで新年最初の言葉として代えさせて頂く事をお許し願いたい次第です…。
暗澹たる気持ちの文面になって読み手の方々には本当に申し訳無く思うものの、私とて“止まない雨なんて決して無い”という言葉を信じていかねばと願わんばかりです。
気持ちをしっかりと切り換えて、2022年今年最初の『幻想神秘音楽館』でお届けする「夢幻の楽師達」は、久々のイタリアン・ロックから70年代の第一次黄金時代に於いて、個性と才能が光り輝くバンドやアーティスト達各々が独自の世界観を誇って犇めき合っていたさ中、そのあまりに秀逸で比類無き個性と非凡なる才能で、唯一無比のデカダンで孤高の音楽性にイタリアならではのアーティスティックにして純粋無垢な旋律を高らかに謳い奏でつつ、朧気で儚くも美しい毒気すらも垣間見える、紛れも無く聖なる者達という名に相応しい音楽集団“サン・ジュスト”に、今一度栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
SAINT JUST
(ITALY 1972~1976)


Jenny Sorrenti:Vo
Antonio Verde:G, B, Vo
Robert Fix:Sax
個人的な話で誠に恐縮至極ではあるが、直接的…或いは間接的であれ長年プログレッシヴ・ロックに携わっていると、必然的にどうしても愛して止まない位惚れに惚れ抜いたジャケットアートが (ジャンルの垣根を越えて) 何枚もあるのは、ファン並びマニア心理とはいえ、どうしてもいた仕方あるまい。
ロジャー・ディーンのSFファンタジックな世界観然り、ポール・ホワイトヘッドのメルヘンチックな中に混在するシニカルさ、ヒプノシスやキーフの摩訶不思議な写実空間といった具合に、70年代から21世紀の今日に至るまで永久命題の如く“プログレッシヴ・ロックはやはりジャケットが命!”という言葉の重みと意味合いが今更ながらもしみじみと伝わってくる。
私的に愛して止まないであろう、イギリスなら断然キーフが手掛けたアフィニティーの唯一作、イタリアならかのオパス・アヴァントラの1stだろうし、それに並ぶであろう今回本編の主人公でもあるサン・ジュストのデヴュー作も、儚くも朧気、気だるくアンニュイな雰囲気、デカダンなグランギニョール、刹那な美しさと狂気、セピアカラーに染まった時間、さながら東京タワーの蝋人形館かイプセンの『人形の家』をも彷彿とさせるフォトジェニックなアートワークに、もうかれこれ何年魅入られた事だろうか。
今こうして綴ってみて気が付いた事だが、何故かしら私が入れ込んでいるアートワークのバンドって、アフィニティーにしろサン・ジュスト、オパス・アヴァントラ…女性ヴォーカリスト系ばかりというのも奇妙な偶然の一致である。
前置きが長くなったが本題のサン・ジュストに戻りたい…。
昨秋ディスクユニオンの尽力で国内盤プレスでリイシューされた紙ジャケットCDにて岩本晃市郎氏がバンドの詳細なバイオグラフィーについて触れているので、敢えてここは内容が重複しないよう彼等の歩みについては簡単に辿っていく程度に止めておきたいと思う。
1950年代初頭、イタリアはナポリにてイタリア人の父とイギリス人の母との間に生を受けたAlanとJennyのSorrenti兄妹は、幼くして母親の郷里であるイギリスはウェールズ地方に移り住んで以降、十代の多感な時期をイギリスのポピュラーミュージックに触れながら青春時代を謳歌し、70年代兄妹共に二十代を迎える頃には再びイタリアに帰郷し、AlanとJenny両者ともイギリスで慣れ親しんだブリティッシュ・フォーク界の大御所ペンタングルやフェアポート・コンヴェンションに触発された、トラディッショナルでフォーキーな音楽性を指向(嗜好)する様になり、兄妹揃って音楽の道へと進むや否や、長兄Alanに至っては1972年に大手EMIイタリアーナと契約を交わした後、イタリアン・ロックそしてカンタウトーレ史に今なお燦然と輝き続ける驚愕とセンセーショナルなデヴュー作『Aria』をリリースし、その陰影帯びた燻し銀の如き孤高なる世界観は瞬く間に好セールスのベストセラーとなり、70年代イタリアン・ロック黎明期を飾る寵児となったのはもはや言うには及ぶまい。
相対して妹のJennyに至っては、同じブリティッシュ・フォーク影響下でありながらも、兄Alanとは趣の異なった作風と路線を模索し、人伝を介して同じ志を持ったAntonio Verdeと出会い、程無くしてRobert Fixとの合流によって、1972年才気溢れる3人の若者達をコアとしたサン・ジュストはこうして幕を開ける事となる。
「聖なる者達」という韻を踏んだバンドネーミングである一方、フランス革命に身を投じたルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン・ジュスト (Louis Antoine Léon De Saint-Just)にちなんで名付けられたのは有名な話だが、まさしく70年代イタリアン・ロック黎明期に革命を起こさんと言わんばかりな野心というか狙いすら窺えるというのは、些か考え過ぎだろうか…。
彼等サン・ジュストの3人は、当時世界中を席巻していたプログレッシヴ・ロック (同国のPFMやバンコからも触発されたであろう) に歩み寄った方向性に傾倒し、サイケデリック、アシッド&アヴァンギャルドな試みに、イタリアン・ロックの持つクラシカルでトラディショナルな持ち味とアイデンティティーとを融合させた、その一見曖昧模糊な佇まいながらも、あまりに刹那な束の間の美学と狂気に毒気を孕んだ唯一無比の音楽性を携え、ヌメロ・ウーノの看板ミュージシャンにしてAlan Sorrentiのデヴュー作から3rdまで参加し、バッティスティやPFMとの共作でもお馴染みのTony Esposito (Ds, Per)を始め、Mario D'Amora (Piano, Organ)、Gianni Guarracino (G) の名立たる3人をサポートメンバーに、Jennyの兄Alanをコーラス兼ミキシングに迎え、翌1973年自らのバンド名を冠したデヴュー作を大手EMIイタリアーナよりリリース。
まあ…余計なお世話かもしれないし、あくまで想像の域でしかないが、「兄さんお願い!」というJennyの懇願に、苦笑いしながら「わかったよ」と応えるAlanとの微笑ましいやり取りも、多分もしかしたらあったのかもしれないが。
無論Alan Sorrentiとのコネといった部分こそ大なり小なり散見出来るものの、そんな下世話な事情を抜きにしてもやはりこのデヴュー作全編に漂う筆舌し難い虚無の美学と詩情は不変である事に異論はあるまい。
メランコリックでそこはかとなく憂いを帯びて爪弾かれるアコギに導かれ、劇的で寂寥感漂うクラシカルなピアノの清廉な旋律と共に、サン・ジュストの美しくも物悲しいシニカルで狂気じみたトータル38分強の音楽譚はこうして幕が上がる事となる…。

サン・ジュストがデヴューを飾った1973年、イタリアン・ロックはPFMの世界的な成功を追い風にシーン全体が絶頂期を迎えていた、文字通り百花繚乱の様相を呈した夢の様な時代の真っ只中であった。
サン・ジュストも御多聞に漏れず、大手のヌメロ・ウーノ始めリコルディ、フォニット・チェトラといったイタリア国内を代表するレーベルに属する、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いのバンド等に混じって、時代の追い風を受けた形ながらも、かのAlan Sorrentiの妹が属するバンドという触れ込みという(良い意味で) 甲斐あってかそれ相応に成功を収める事が出来、バンド並びEMIサイドは早々に次回作に向けての製作に着手する事となる。

Alan Sorrentiの妹のバンドという一種の売り文句が、単なる揶揄なのか…或いはとてつもないプレッシャーだったのか、果ては兄Alanへのコンプレックス…或いは兄のネームバリューが足枷になっていたのかは、知る術も無いだろうし定かでは無いかもしれないが、良し悪しを抜きに兄Alanという存在がJennyそしてサン・ジュストにとって大いなるサジェッションだったのに変わりはあるまい。
デヴュー以降度重なるギグをこなしつつ、次回作に向けての構想とアイディア、今後の方針云々について日々追われていたさ中、オリジナルメンバーのサックス奏者だったRobert Fixがバンドを去る事となり、残るJennyとAntonio Verdeのデュオとなったサン・ジュストは不退転とばかりに心機一転を図り、新たにTito Rinesi (G, Per, Vo, Harmonica) 、Andrea Faccenda (G, Piano, Organ, Harmonica) 、Fulvio Maras (Ds, Per) の3人を迎え、Jennyがヴォーカルと12弦ギター、Antonioがベースに専念するという完全バンドスタイルへと移行。
加えて弦楽器と管楽器パートとしてVince Temperaをゲストに、翌1974年2作目となる『La Casa Del Lago (岸辺にある家) 』を再びEMIからリリースする運びとなる。


碧き地中海と大自然の緑に囲まれた山荘といった体の意匠通り、前デヴュー作の朧気で幽玄な佇まいのイメージとは打って変わって、作風や楽曲こそデヴュー作の延長線上なれど、バンドスタイルに移行した甲斐あってか幾分整然とまとまったサウンドとなって、前作以上に聴き易くなった感を与えているのが特色と言えよう。
無論デヴュー作と並んで甲乙付け難いクオリティーを有していることに変わりは無いが、Alan Sorrentiの妹という触れ込みから完全に払拭し、Jenny Sorrentiという一人の女性シンガーとして確固たる礎が築かれた意味合いに於いて大いに評価出来る点も忘れてはなるまい。
肝心要のセールス面ではデヴュー作とさほど大差の無い成果だったものの、本作2nd『La Casa Del Lago』を通じた音楽経験と、ある種の確信めいた思惑がJenny自身をも突き動かし…結果、数回のギグを経た後の1976年、サン・ジュストはJenny始めメンバー各々が目指すべき音楽への模索と求心により発展的解散という名目で静かに表舞台から去り、その短い活動年数に幕を下ろす事となる。


サン・ジュスト解散から程無くして、同1976年Jennyは女性ソロ・シンガーとしての道を歩み出し、EMI在籍時代の最後のソロ・アルバム『Suspiro (邦題:溜め息) 』をリリースし、本作品で彼女自身カンタウトリーチェとして再出発を図り、3年後の1979年RCAから彼女自身の名を冠したソロ2枚目をリリース後、数えること22年間イタリア音楽界の裏方兼セッションサイドに転向し、Jenny自身の創作活動は暫し長きに亘って沈黙を守り続ける事となるが、世紀を経た2001年サン・ジュスト期の邂逅となったブリティッシュ・フォークとケルトミュージックとの融合を再び試みるべく、Jennyは自らの活動を復帰再開させ、同年の『Medieval Zone』以降、2006年『Com'è grande Enfermidade』、2009年『Burattina』をコンスタンスにリリースし、併行して2011年サン・ジュスト名義としては実に37年ぶりとなる新作として、アナログLP盤オンリー限定1000枚プレスでRALOレーベルから『Prog Explosion』をリリースし、往年のファンから歓喜の喝采を再び浴びる事となる。


7年後の2018年には前出の『Prog Explosion』が、サン・ジュスト・アゲイン (SAINT JUST AGAIN) 名義で『Prog Explosion and Other Stories』なるコンピCDとしてリイシューされ、Jenny自身サン・ジュストの一枚看板を背負って、実兄のAlanと共に今なおイタリア音楽界の現役第一線として精力的に活動を継続し今日までに至っている。
走り々々ながらも、孤高なる才媛Jenny Sorrenti…そして彼女のもう一つのライフワークたるサン・ジュストの歩みに、今こうして改めて触れてみた次第であるが、決して順風満帆とは言い難い道程ではあったものの、Jennyの信念と音楽的背景はサン・ジュストのデヴューから21世紀の今日まで一点の曇りも無く少しのブレなんぞ微塵にも感じさせない、一人のシンガー或いは創作者たる唯一無比なる女性の強さと生き様そのものであると言っても過言ではあるまい。
失礼ながらも…齢60代という年輪を積み重ねつつ、Jennyの目指す創作の地平線とその彼方の向こうに、これから先どんな展望が待ち受けているのだろうか?

可能性としては無きにしも非ずではないが、いつか自分の目と耳で巡り会えた岸辺にある家でサン・ジュスト往年期の面子が再び揃って、白日夢の如き甘美で狂おしい饗宴が謳い奏でられるその時を願いつつ、秘めたる思いを胸にしっかりと刻みつけておかねばなるまい…。
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