夢幻の楽師達 -Chapter 07-
9月第二週目の「夢幻の楽師達」は、イタリアン・ロックシーンに於いて今もなお燻し銀の如き孤高の輝きを放ち続ける、まさしく文字通り…メダルの裏側の住人達でもある通称RDMこと“イル・ロヴェッショ・デッラ・メダーリャ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。
IL ROVESCIO DELLA MEDAGLIA
(ITALY 1971~)


Pino Ballarini:Vo,Flute,Per
Enzo Vita:G
Stefano Urso:B
Gino Campoli:Ds
“メダルの裏側”という意味の何かしら不思議な韻を踏んだ暗示めいた名前のバンドこそ、ギタリストにしてバンドのコンポーザーでもあるEnzo Vitaの思案と葛藤に満ちた人生、或いは自問自答を重ね続けた男の生きざまそのものと言えよう…。
今回は敢えてバンドのバイオグラフィーやらヒストリー云々を極力控え、改めて彼等への敬意を払い功績を振り返るという視点で幾分私論めいた流れで綴っていけたらと思う。
プログレッシヴ・ロックの曙ともいえる1970年という時代の節目を機会に、イタリアン・ロックのメインストリームでもあったローマでEnzo Vitaを始めStefano Urso、Gino Campoli、そしてPino Ballariniの4人のティーンエイジャーによってRDMの母体となるバンドが結成される。
結成当初は多くのポッと出のアマチュアバンドと同様、彼等もブリティッシュやアメリカンなブルース・ロック系のカヴァーバンドとして音楽経験を重ねるも、来る日も来る日もクラブでの英米ロックのカヴァー演奏という同じ事の繰り返しで、次第にそれが彼等自身のストレスとなり周囲を取り巻くフラストレーションへと膨らんでいったのは最早言うには及ぶまい。
その結果…翌1971年確固たるオリジナリティーへの移行に躍起となった彼等自身、一念発起とばかりにカヴァー曲バンドのレッテルやら一切合財を捨て去り、“メダルの裏側”なる一風変わったバンドネーミングへと改名。
バンド名の由来こそ定かではないがエンツォ曰く「模倣や真似事からの脱却」という含みを持たせた、彼等なりのニヒリズムや反骨精神が滲み出ているところも実に興味深い。
もとより前述した英米のカヴァー等で演奏技量と実力・経験が養われていた事が幸いし、彼等自身がオリジナリティーを確立するにはそう時間を要しなかった。
程無くして大手RCAイタリアーナと契約を結んだ彼等は、2時間という制約付きのスタジオライヴ一発録りという形で、1971年サイケデリアの時代が色濃く反映されたアヴァンギャルドにしてハード&ヘヴィロック路線のデヴュー作『La Bibbia(聖典)』をリリース。
後述の名盤『Contaminazione』で初めて彼等の作品に触れた方がもし仮に『La Bibbia』に接したのであれば、キーボードレスという決定打に加えてその攻撃的で荒々しいハードロックな感触に思わず唖然とするか面食らうかのいずれかであろう(苦笑)。
しかし…噛めば噛む程味の出るスルメではないが何度も繰り返し聴けば聴くほど、その粗削りな作風の中にも実に緻密に張り巡らされた迷宮の如き構成と演奏力の上手さに舌を巻くのもまた事実である。
これが後々イタリアン・ロック史を飾る不朽にして屈指の名作でもある『Contaminazione』に繋がっていくのかと思えば頷ける部分も多々感じられよう。
デヴュー作に付されたメダル型ブックレットにも実に興味深い当時の記述があるので、ここに掲載しておきたい。

ロヴェッショ・デッラ・メダーリャは、意図的に付けた名前です。この名前は、誤解を受けないように、意図的に選んだのです。僕らは、本当の意味で新しいアルバムを出して行こうと考えてます。このようなことをする人は少ないのです。より難しくなりますから。周知のように、このようなことをすれば、アルバムを出すための研究(勉強)の面で、リスクを負うことになります。前進的な音楽は、既に成功した方式を守り続け、また流行や典型的な要素を取り入れた方が簡単なのです。しかし、「ロベッショ・デッラ・メダーリャ(メダルの裏側)」は、これに立ち向かいます。
あまりにも商業的な音楽が無差別に外国から入ってきています。このような音楽でも、技術的に正確になり、それに芸術面から見ても今や有効なものになりつつあります。僕らは、音楽に先存する意志のある、新しいアルバムを作ります。根拠のないアルバムでなく、正確で強い意志がわき出るようなアルバムを作ります。音楽は、真のコミュニケーションの世界、そして僕らの表現をする世界です。言葉は、わかりやすいガイドの役割を果たしています。妥協や、猿の物まねのようなもの、もしくは人の真似するようなことに、僕らは興味ないのです。僕らの目標は、自由でいること。僕ららしくあり続け、僕らが信じる音楽を作ること。それ故、僕らの仕事は、制作のリズムを崩さないように、計画されています。観客の前に出る機会も少ないです。僕らは、僕らの会話を聞いてくれる対話する相手がいるような環境を選んでます。
“2005年、BMGビクターからリリースされた紙ジャケット仕様完全復刻盤CDのライナーノーツから対訳原文ママ(対訳 市原若子)”
彼等の頑なな決意・初心表明とも取れる宣言(宣誓)は後々の創作活動に於いて大きなサジェスチョンとなるのは明白であるが、遡ること数年前イタリアの某音楽メディアによるEnzoへのインタヴューで、彼自身の思いがけない発言がRDMのファンのみならず世界中のイタリアン・ロックのファン、プログレシッヴ・ファンの間で駆け巡った…。
“『La Bibbia』リリース当時、僕自身宗教上の悩みがあった。『Io Come Io』の時は文化的な悩みがあった。そして『Contaminazione』の時は音楽の悩みがあったんだ…。”
エンツォの言葉を裏付けるかの様に、翌1972年にリリースされた『Io Come Io(我思う故に)』は、スタジオライヴ一発録りだった前デヴュー作から較べると、正規のスタジオ録音製作という事もあってか幾分音的にはやや整然とした印象を与えるが、ヘーゲルの実在主義をモチーフにした深みのあるテーマに加えて前作で培われた実力と経験が見事に最良な形で発露・昇華した、(プログレ寄りなハードロックという事も踏まえて)個人的にはイルバレの『Sirio 2222』に匹敵する好作品に仕上がっていると言えよう。

作品内容の秀でた素晴らしさも然る事ながら、やはり注目すべきはジャケットワーク。アナログオリジナル盤のジャケットのド真ん中に、どうだ!といわんばかりに嵌め込まれた金属製メダルの重々しさたるや、バンコの1stの貯金箱型特大ジャケットやオザンナの1stの壁掛ポスター大変形ジャケットで度肝を抜かされたイタリアの若者達もこれにはさぞかし唖然とした事だろう。
余談ながらも数年前に日本のBMGビクターから、イタリアン・ロックのオリジナル盤を忠実に再現した紙ジャケット仕様復刻CDがリリースされた際、RDMの『Io Come Io』も御多分に漏れず金属メダルが添付された形でリイシューされたが、CD紙ジャケットのサイズから考慮しても、オリジナルアナログLP盤ならあの金属メダルは一体どんなサイズだったのだろうか…と途方も無く溜息が出てくる始末である。
とは言いつつも…『La Bibbia』でのメダル型ブックレット、そして『Io Come Io』での金属メダル添付のジャケットといったバンドへの特別待遇とも言うべき大盤振る舞いから察するに、大手RCAイタリアーナ側もRDMに並々ならぬ大きな期待を寄せて、今風な言い方をお許し願えればその期待と信頼感たるやハンパない!といったところが見て取れよう。
バンドサイド並びEnzoの名誉の為にも誤解無き様に付け加えさせて貰えば、当時とてRDMは決して金銭的に麻痺していたとか、人気に浮かれて天狗になったり有頂天になってはいなかった事だけは確かだが。
デヴュー作と入魂の2作目でバンドは上昇気流に乗る事が出来、イタリア国内のみならずフランス、スイスでもツアーを敢行し、軒並み大成功を収めるまでに昇り詰めた。
PFMの世界的規模の大成功で俄かに注目を集めた1973年のイタリアは、前72年のヴィラ・パンフィリのロックフェスの大成功が拍車をかけた事も手伝って、まさに我が世の春を謳歌するかの如く百花繚乱にイタリアン・プログレッシヴムーヴメントが大挙に開花した時期を迎えた。
世に倣えとばかりにRDMが所属のRCAイタリアーナからも、大手ライバルのリコルディやフォニット・チェトラに対抗心を燃やしつつRCA傘下レーベル所属のバンドをフル動員してシーンを大いに盛り上げていったのは言うまでもあるまい。
クエラ・ベッキア・ロッカンダ、フェスタ・モビーレ、ルスティチェッリ・エ・ボルディーニ、トリップ…等といった、後年日本の高額な廃盤レコード市場を賑わせた名作・逸品が一挙に出揃ったのもこの時期である(苦笑)。
プログレッシヴ・ムーヴメントの波及…千載一遇のチャンスに乗り遅れるなと言わんばかりに、RCAの上層部側もRDMに大胆な改革案を提示しバンド側もそれを快諾。
こうして新たにキーボード奏者Franco Di Sabbatinoを迎えた5人編成の本格派プログレッシヴ・バンドへと転生を図る事となる。


RDMの改革はキーボーダーの補充だけに止まらず、RCA側たっての希望と意向で次回作にはマカロニ・ウエスタンやフェリーニ監督作品といったイタリア映画で数多くのスコアを提供している世界的巨匠のルイス・エンリケス・バカロフ主導によるオーケストラとの共演が決定した。
それは当然の如く、ニュー・トロルス『Concerto Grosso Per1』、オザンナ『Milano Calibro 9』といったフォニット・チェトラ作品での仕事っぷりと実績を買われての結果である事も忘れてはなるまい。
翌1974年にリリースされた、バッハの作品世界観をモチーフにした通算第3作目『Contaminazione(汚染された世界)』は、まさしくRDMの代表作にしてイタリアン・ロック史を飾る名盤・名作として一気にバンドとしてのステイタスを上げる決定打となった。
ただ余計なお世話かもしれないが、PFMの世界進出に続けとばかり海外販促向けに英訳歌詞の差し替えによる『Contamination』はちょっと時期尚早だったのではと思うのは穿った見方なのだろうか…。(ジャケット・ワークも今一つといった感は否めないし)
いずれにせよ『Contaminazione』は当時オイルショックの余波が不安視されていながらも、イタリア国内で大反響を呼びセールス的にも大成功を収める結果に終わったが、いつの世も栄光の裏に陰影ありという言葉通り、バンドの周囲では次第に不穏な空気が漂い始めていた。
Enzo自身も自他共に『Contaminazione』の素晴らしさを認めつつも、その一方でバカロフ主導の方針については不平不満や仲違いという訳ではないものの幾分醒めた印象を抱いていたみたいだ。
“バカロフの役割は全てにおいて決定権があった。彼は全てを指揮したよ。僕たちの情熱までもね。”
フロイドの『The Wall』の世界ではないが、バンドの栄光と輝かしい実績に相反して、聴衆側そしてレコード会社との間に徐々に埋める事の出来ない溝…或いは目の前にそびえ立つ壁の様な隔たりが広がりつつあった事に、バンド自体も薄々ではあるが早かれ遅かれ感じていたのかもしれない。
気を取り直すかの様に、RDMは心機一転とばかりに長年住み慣れたRCAから離れてFROGレーベルに移籍し、新たな環境で次回作の為に先駆けてシングル作『Let's All Go Back/Anglosaxon Woman』をリリースし、同時進行で4thアルバムのマスターを完成させるも、あくまで憶測の域でしかないが…結局何らかの横槍が入った理由か何かでマスターはお蔵入りという憂き目に遭ってしまう。
新作のお蔵入り、メンバー間に湧き上がる音楽的方向の相違に加え、『Contaminazione』での莫大な製作費云々といったしがらみに追い討ちを掛けるかの様に、RDMというバンドにとって最も辛く悲しい事件が起こってしまう。
楽器盗難…これこそまさしく、RDMというバンドの破綻に決定打を加えた一撃ともなったのは言うまでも無かった。
Enzo自身現在でも触れたておしくない過去でもあり、思い出すのも辛く苦々しい…腹立たしくも悲しい出来事だったに違いあるまい。
“もう機材や楽器といった何から何まで全財産をつぎ込んだ。また、自分たちが自分らしさを失う様な外部からの圧力もあったしね。で、結局Stefano、Pino、Francoは自分の道に進んだのさ。”
RDMの実質的な解散以後、皆がそれぞれの道へと進み沈黙という長い時間ばかりが延々と流れ続けていった。 あたかもあのイタリアン・ロック第一次黄金時代の終焉という祭りの後の静けさと重なるかの様に、イタリアのシーンそのものが(イ・プーやマティア・バザール、大勢のカンタウトーレ達は例外として)コマーシャリズムを優先した商業向け路線へと移行し、プログレッシヴな創作精神溢れる音楽は最早忘却の彼方へ追いやられつつあった…。
祭りの後に遺された多くの遺産達は、皮肉にも日本の熱狂的なマニアや廃盤コレクターとバイヤー達の手によって発掘され、高額な万単位のプレミアムというタグを付けられてプログレ専門店という大きなマーケット市場に出回る事となった…。
そして時代は80年代…キングやポリドール、果ては新宿エジソンのユーロ・ロックコレクションを契機に数多くのイタリアン・ロックが再び見直され、その余波は日本国外から中南米、そして本家のイタリアへと波及し70年代イタリアン・プログレへの見直しと、ポンプ・ロックとは違う形でプログレッシヴ・リヴァイバルへの大きな足掛かりと繋がっていく。
80年代の半ば…時同じくしてRDMのベーシストだったStefano Ursoが結成したプログレ系ハードのヨーロッパ(スウェーデンの“ファイナル・カウントダウン”がヒットの同名バンドとは当然違う)が一時期話題と評判を呼び、イタリアン・ロックのファンにとっても嬉しくて感涙にむせぶ朗報となったのを今でも鮮明に記憶している。
ヨーロッパの登場というイタリアン・ロック復活の起爆剤に呼応するかの様に、自主製作という範疇ながらもLP盤やらカセット作品で、往年の空気を継承した良質な作品がポツポツと出回る様になったのも丁度この頃である。
1988年、かつてのRDMのメンバー達がどう思っていたかは定かでは無いが、熱狂的なRDMのファン達有志の手によってイタリア国内で限定枚数のライヴ盤『…Giudizio Avrai』がリリースされ、日本でも入荷した際は大いに話題をさらったものである。
収録年数こそ不明であるが、おそらくは『Io Come Io』リリース以後キーボードのFrancoを迎えた5人編成に移行した頃の音源と思われる。
音質的にはとてもお世辞には褒められたレベルでは無いが、それでも彼等の熱かった頃の貴重な証として、その存在意義は大きな役割を果たしていると言えよう。
時代は90年代からそして21世紀の現在へ、満を持して年輪を積み重ね人間的にも奏者としても深みと凄みを増したEnzoがついに立ち上がり、RDMを自身のプロジェクトバンドとしてシフトし、作品毎に数名もの多彩なミュージシャンを迎えてスローペースながらも自問自答と試行錯誤を積み重ね、『Il Ritorno』(1995)、『Vitae』(2000)、『Microstorie』(2011)、そして2013年の4月末にはイタリアン・ロック新進気鋭の注目株ラネストラーネのメンバーとEnzoとのコラボレートによるRDM名義で待望の初来日公演を果たし、3年前の2016年『Tribal Domestic』をリリースして現在までに至っている次第である。

メダルの裏側というフィルターを通して、Enzoが垣間見てきたイタリアのロックシーンの膨大な時の流れとは一体何だったのか…?
そしてメダルの裏側を通して、彼が私達に伝えたかった事とは一体何だったのだろう?
これを御覧になっているイタリアン・ロック…そしてプログレッシヴ・ファンの多くの方々、どうか貴方(貴女)の心の中のメダルの裏側を通じて、Enzoの魂の咆哮に是非とも耳を傾けて欲しい。
“この音楽の旅路での発見は終わりがないよ…。”
70年代の黎明期から21世紀の今日に至るまで、ミュージシャンや奏者というカテゴリーのみならず、一人の気概ある無頼派で無骨な漢(おとこ)として時代を駆け抜けてきたEnzoの生きざまを、まだまだこれから先も見届けていこうではないか。
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