夢幻の楽師達 -Chapter 09-
9月第四週目の「夢幻の楽師達」は、深まる秋の時節柄に相応しくその奥深さと醍醐味を今もなお聴衆の耳と心へと不変に響かせる魂の楽師にして匠の中の匠と言わしめる、名実共にフレンチ・ジャズロック界きっての才能集団と言っても過言では無い、御大マグマと肩を並べるであろうカリスマ的な位置に今もなお君臨し続ける“ザオ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。
ZAO
(FRANCE 1973~?)


François Cahen:Key
Dedier Lockwood:Violin
Gerard Prevost:B
Yochk'o Seffer:Sax
Jean My Truong:Ds
70年代ユーロピアンロックに於いて、バンコやPFM、ニュー・トロルス等が台頭していた所謂プログレッシヴの定石ともいえるクラシカル・シンフォニック、ジャズロックが主流だったイタリア、片や一方でタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールⅡ、カン、ポポル・ヴフ等といったサイケデリア、トリップミュージック、エレクトリック、エクスペリメンタルが犇めき合っていたドイツという両極端(二対極)の流れの狭間で、70年代初頭から本核的に勃発したフランスのロックシーンは、(個人的には否定したいところだが)良くも悪くもパッと見イメージ的に線が細いとか軟弱っぽいとか抒情的で弱々しいメロディーラインで印象が稀薄…etc、etcと、まあ…何というかあまりにも無責任で不遜な扱いというか散々な言われ様で、イタリアとドイツの両極端から見れば些か分が悪いところは否めないものの、そんな一般論めいたユーロロックファンの見識を跳ね除けるかの様に、フレンチ・ロックシーンはシャンソンや大衆演劇、大道芸といった流れを汲んだロック・テアトルを確立させたマルタン・サーカス、そしてアンジュ、フランスは基よりイギリス、オーストラリアからの多国籍メンバーを擁してヒッピーカルチャーとサイケ、トリップをも内包して独自の音楽性を形成したゴング、そしてフランス=ジャズロックの総本山というイメージを定着させたであろう最大の功労・功績者でもあり後年の多くのフォロワーをも輩出したマグマ、そしてそのマグマから細分の如く枝分かれした今回本篇の主人公でもあるザオを世に送り出し、我が世の春を謳歌するとばかりに栄華を誇る一時代を築いていったのは言うに及ぶまい。
1968年の5月革命を機にフランス国内の文化や時代が大きく動き始めていた60年代末期、ハンガリー出身のサックス奏者Yochk'o Seffer、そしてパリ出身で音楽一家の家系だったキーボード奏者François Cahenとの出会いで、ザオの歴史は幕を開ける事となる。
1956年のハンガリー動乱をきっかけにフランスへ生活拠点を移し、パリの音楽院でクラシック音楽の実践と経験を積み重ね、卒業後ジャズやロック畑でのセッション活動で生計を立て、1969年ラジオ局の音楽番組でセッションに参加していた際に、かのマグマのクリスチャン・ヴァンデの目に留まり、クリスチャンからマグマへ参加しないかという鶴のひと声で1970年というプログレ元年にマグマへ加入する。
そこには一年早くマグマに参加していたFrançois Cahenが既に在籍しており、リハーサルとセッションを何度も積み重ねていく内に、SefferとCahenは次第に親交を深め意気投合する様になり、良し悪しを抜きにクリスチャンの独裁体制的なマグマ(並び72年のユニヴェリア・ゼクト名義の唯一作を含めて)に於いてアドリブプレイやら即興演奏も儘ならなかった雰囲気に違和感を感じていた両者は、マグマとの袂を分かち合い自らのバンド編成への構想実現へと動き出す。
1973年、マグマ周辺で旧知の間柄でもあったJean-Yves Rigaud(Violin)、Jean My Truong(Ds)、Joel Dugrenot(B)、そして女性ヴォーカリストのMauricia Platonを迎えた6人編成で、SefferとCahen共通の音楽家の友人(おそらくはかなりの日本通か親日家と思われる)の助言で、山形県の蔵王という地名から着想されたZAO(ザオ)と命名され、東欧人というルーツにして東洋的な趣味嗜好を持つSefferにとっては願ったり叶ったりなバンドとしてスタートを切る事となる。

ちなみにザオと併行してSefferとドラマーのJeanはアヴァンギャルド系ジャズロックのパーセプションとしても活動しており、ザオ結成当初はパーセプションとの掛け持ちで東奔西走の多忙な日々を送っていたそうな。
脱マグマ色を目指しつつ地道なライヴ活動に重点を置き、演奏の回を重ねる毎にファン層の数を獲得し支持を得てきた彼等にレコード会社から声が掛かるのはほぼ時間の問題で、程無くして大手ヴァーティゴから結成同年の8月待望のデヴューアルバム『Z=7L』をリリースし、かつてのマグマの名残と佇まいすら感じられるものの、ウェザー・リポート、ソフト・マシーン、果てはリターン・トゥ・フォーエヴァーをも彷彿とさせる一歩抜きん出た好作品に仕上がっており、名実共にフレンチ・ジャズロックの歴史に新たなる一頁を加えた最重要作として、今もなおリスナーやファンから絶大なる支持を得ている。

だが悲しいかな…充実した素晴らしい内容を誇るデヴュー作であったにも拘らず、当のヴァーティゴ・サイドが彼等の音楽性に難色を示し販売促進に積極的で無かったが故、自らの力で連日連夜プロモート活動に近いライヴ活動やクラブの出演に奔走し、デヴュー作は好評で迎えられ相応の成果を収める事が出来たものの、精神と肉体面で疲弊が重なって、デヴューツアーのさ中交通事故に遭うという憂き目に加えて、静かに穏やかな生活を望んでいたヴァイオリニストのRigaud、そして女性ヴォーカルのPlatonがバンドを辞める事態へと陥ってしまう。
当然の事ながらヴァーティゴサイドからはたった一枚きりのアルバムリリースだけで、契約は白紙となって事実上ザオは放逐されるという結果となってしまうが、バンドは臆する事無く新たなメンバーを補填せず残された4人で新たな2作目へのリリースに向けて動き出す。
2名のパーカッショニストに加えてゲスト参加ならばと了承してくれたRigaudのヴァイオリンを迎えて翌74年Disjuncta(初期エルドンの一連のアルバムをリリースし、後にUrus=ウーラスレーベルへと改名)よりエジプトの神々をモチーフにした2nd『Osiris』をリリースし、前デヴュー作の延長線上ながらも徐々にオリジナリティーを窺わせる意欲作へと昇華させる。


しかしこの本作品を以ってオリジナル・ベーシストだったJoel Dugrenotが、自分がザオでやれる事や自らの役目は終えたとばかりにバンドから離れてイギリスへと活動拠点を移してしまう。
バンドはDugrenotの後釜としてGerard Prevostをベースに迎え、前作2ndでゲスト参加したPierre Guignonそしてクワトール・マルガン弦楽四重奏団をゲストに迎え、1975年大手RCAからの支援と契約を交わしてクラシックとジャズロックとのコラボレーションによる3rdの意欲作『Shekina』をリリースし漸くザオとしてのオリジナリティーが確立された好作品へと仕上げ、翌1976年にはマグマから離れた名ヴァイオリニストのDedier Lockwoodを加えた完全無欠な最強の布陣で臨んだ…フレンチ・ロックのみならずプログレッシヴ・ロック、ジャズ・ロックとして最高傑作クラスの名盤名作の4作目『Kawana』をリリースしバンド自体のポテンシャルとボルテージは最高潮へと達する。
まさにこれぞフレンチ・ジャズロックの真髄(神髄)であると言わんばかりな各パートによる演奏の応酬始めインタープレイのやり取りも然る事ながら、 Lockwoodが加入した事でテクニックに重きを置いたかの如く、聴き手に息をもつかせぬくらい熱気を帯び力強さが強調された音楽空間は、ザオの新たな側面と可能性が示唆されたエポックメイキングな一枚としてフランス国内外でも大きな反響を呼んだのは言うまでもなかった。
事実、80年代になるとザオの『Kawana』は万単位な高額プレミアムが付いた入手困難な作品として、都内のプログレ中古廃盤専門店でも展覧会の絵よろしく壁に掲げられた一枚として数えられる様になったのだから、フレンチ・プログレッシヴ=軟弱というイメージを払拭するには申し分の無いアイテムであった事に異論はあるまい。
しかし…悲しいかなというか皮肉なもので、最高のテンションとポテンシャルを有する最高傑作を世に送り出した矢先、今度は肝心要のYochk'o Sefferが3rdの『Shekina』での手応えを機に自らの音楽経験を発展させたいが故に、彼自身のプロジェクトチームへの構想にと着手していたNEFFESH NUSICに専念するが為にバンドの脱退を表明。
更にはSefferの右に倣えとばかり、遂には一介のプレイヤーとして飽き足らなくなっていたドラマーのJeanとヴァイオリニストのLockwoodまでもが脱退を表明し、後にザオ以上のストレートな音楽表現の希求を目指しSURYA(スルヤ)を結成。
残されたCahenとPrevostの両名はサックス、トロンボーン、ドラムス、パーカッションの4人の新メンバーを迎え、翌77年『Typhareth』なる5枚目をリリースするが、かつての精細感を欠いた時流の波に乗ったかの様な作風は言わずもがな、メンバー全員が上半身裸のポートレイトで臨んだ如何にもといった感の商業路線にシフトしたジャケットワークが災いし、とどのつまりRCAとの契約履行以外の何物でもない…早い話ザオという名前だけが冠されただけの惨めで暗澹たる結果だけが残った紛い物同然みたいな扱いで、その事が拍車をかけた末Cahen自身もザオ解散への決意を固める事となる。
ザオ解散以後、各々がそれぞれの音楽を模索する道を歩み始めYochk'o Sefferは数多くのソロ作品ないし自らのプロジェクトへと着手しつつも、かつての盟友だったFrançois Cahenと手を組み、Cahen自身もソロ活動に専念する一方、スルヤ解散以後(レコード会社並びプロダクションの不良債権やらプロモート不足で、結局たった一枚のみアルバムを発表して解散した)Dedier LockwoodもCahenを迎えてデュオアルバムをリリースしたりと、ザオ解体以降も親交を深めつつ…所謂付かず離れずの良好な関係を継続していた次第であるが、1986年の6月記念すべきデヴュー作『Z=7L』の復刻LP再発を機に一夜限りのザオ再結成を果たし、それから90年代以降にかけてはムゼアからザオ一連の作品がCDリイシューされ、爆発的なセールスを記録した事に発奮したSeffer、Cahen、そしてドラマーのJeanの3人は、栄光の時代よ今再びとばかりに新たなベーシストとヴァイオリニストを迎え、1994年…解散から実に17年ぶりの新譜『Akhenaton』を発表。
確かに全盛期の勢いのあった頃と比べると、(時代の流れという意味合いで配慮すれば)幾分リラックスした穏やかでたおやかな雰囲気に包まれた、ややもすればこじんまりとした感こそ否めないが、本作品の底辺にある旧交を再び温め直しているといったフレンドリーでハートウォーミングな、まさに90年代という時代に則した新生ザオの片鱗すら窺える復帰作と捉えた方が正しいのかもしれない。

そして2000年から21世紀以降にかけて時代の追い風に後押しされるかの様に、2004年に発掘リリースされた1976年Seffer不在時に収録されたライヴCD『Live !』を皮切りに、ザオ一派のフランス国内でのライヴを始め同年6月待望の初来日公演でのSefferとCahenぼ雄姿にオーディエンスの熱気と感動は一気に高まり(この時の模様は2007年にライヴCD『Zao In Tokyo』としてリリースされている)、翌2005年にはSeffer/Cahen名義によるデュオスタイルで2度目の来日公演を果たし喝采を浴びた後、フランスに帰国してからはSeffer/Cahen7重奏団を編成しその発展形的スタイルのザオ・ファミリー名義でLockwoodを再び招聘し新譜をリリース。
国内外の多くのファンはその後の彼等の動向を見守り続けたが、SefferとCahenは再び各々の道に分かれて独自の創作活動へと歩み出したものの、残念ながら…2011年、長年ザオの主導役でもありブレーンでもあったFrançois Cahenが突然の心臓の病で帰らぬ人となってしまい、片翼を失ったザオは無期限とも思える活動休止を余儀なくされ、今もなお沈黙を守り続けているところである。
2018年2月にはかの名ヴァイオリニストだったDedier Lockwoodまでもが天に召されてしまい、ザオ復活と再開の鍵を握るのはいよいよ残されたYochk'o SefferとJean My Truongの2人だけとなってしまった次第である。
安易にバンドの再結成を願うのは些か愚かしくも我が儘な願いなのかもしれないが、才気(再起)と意欲があればこそ天は運に味方するものであると信じて止まない。
Sefferがミュージシャンシップで人生最期に聴衆へ微笑みかけるのは果たしていつになるのだろうか…。
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