夢幻の楽師達 -Chapter 17-
今週の「夢幻の楽師達」は、結成から今日に至るまで早40年選手という長大なるキャリアを誇りつつ、現在もなお孤高なまでの飽くなき創作精神とプログレッシヴ・ロックに対するストイックなまでの真摯な姿勢で自らの音楽世界を構築し、その健在ぶりを大きく示しているであろう…ジャパニーズ・プログレッシヴの栄光と誉れと言っても過言では無い“ケンソー”の長き歩みを振り返ってみたいと思います。
KENSO
(JAPAN 1974~)


清水義央:G, Key
小口健一:Key
佐橋俊彦:Key
松元公良:B
山本治彦:Ds, Per
今回の本編を、故 牧内淳氏の魂と思い出に捧げます…。
ロック大国イギリスを始めイタリア、ヨーロッパ諸国、そして日本を含め全世界規模でプログレッシヴ・ムーヴメントの大きな波が席巻していた…文字通り70年代プログレッシヴ・ロック激動期と言っても過言では無かった1973~74年。
フロイドの『狂気』がメガヒットとなり、イエス、EL&Pの快進撃、クリムゾン、ジェネシスが大衆の心を鷲掴みにし、PFMやフォーカスといった欧州勢がヒットチャートに上り、果ては日本からはコスモス・ファクトリーの『トランシルバニアの古城』、四人囃子の『一触即発』が洋楽一辺倒だったロック少年達をも魅了するといった具合で、兎にも角にも猫も杓子もプログレ一色の様相だったのは言うに及ぶまい。
さながらそれは当時小学生の時分でロックの右も左も分からなかった私にとっては決して想像し得ない位の、今にして思えば夢物語にも等しい憧憬にも似た熱い青春時代が繰り広げられていたのかもしれない(苦笑)。
そんなプログレッシヴ真っ只中の1974年、神奈川県立相模原高校に在学中だった清水義央とその学友達を中心に、県立相模原高校=通称“県相”をもじってケンソーは産声をあげた。
幼少の頃からクラシックを学び、中学に入るとビートルズ、ストーンズ、パープル、そして清水氏の音楽人生のバックボーンともいえるツェッペリンの洗礼を受け、ギターの腕を磨きつつ高校入学と同時期にSPACE TRUCKINなるハードロックバンドを結成し、その後は前述の通り(プログレ夜明け前ともいえる)ケンソーへと改名。
文化放送主催のアマチュアバンドコンテストであれよあれよという間にグランプリを獲得し、関東圏に於いてケンソー+清水の名は瞬く間に知られる事となる。
グランプリ獲得時期と前後してイエス、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、PFM、フォーカス…等といった大御所に触れる機会も多くなり、御多聞に漏れず清水氏自身もプログレッシヴ道へと開眼し、ハードロック期のケンソーをリセットする為に一旦解散。
高校卒業→神奈川歯科大への入学と同時期にアマチュアバンドコンテストがきっかけで知り合ったドラマー山本治彦、そして人伝を通じてフルート奏者の矢島史郎、キーボード森下一幸、そしてベーシストに田中政行を迎えて1977年ケンソーはイエス影響下のプログレッシヴ・バンドとして活動を再開する。
歯科大軽音楽部を拠点に地道に音楽活動をしつつも、メンバー間の都合等で活動休止やら集散の繰り返しで清水氏自身も度重なる自問自答やら紆余曲折、試行錯誤を余儀なくされるが、メンバー間の結束が次第に固まると同時に周囲の支持者からの応援と懇意にしている音楽関係者とレコード店からの助言を得て、大学5年生となった1980年、町田市のプログレ専門店PAMからの後押しと全面協力の下、4トラックレコーディングで400枚限定の自主製作ながらも自らのバンド名を冠した念願のデヴュー作が満を持してリリースされる。

録音面から意匠を含めクオリティー的にはまだまだ未熟で素人臭さが残るものの、雷神が描かれた手描きの意匠の如く…日本人の作るプログレなるものを強く意識した志の高さに加え、収録曲の中でも特に「海」「日本の麦唄」「陰影の笛」は初期の名曲・代表曲と謳われ後年のケンソーの骨子・礎となって、未完の大器をも予感させる偉大なる可能性の新芽すら垣間見える好作品として各方面から高い評価を得られるまでに至った。
念願のデヴュー作が高い評価を得る一方でバンド自体は早くも次回作への曲作りと構想に着手するものの、リーダー清水の学業始め臨床実習といった多忙さに加えて、各メンバーそれぞれが大学生や社会人という身分であったが故に諸事情が重なってバンドは一時的な活動休止を余儀なくされる。
厳しいまでの病院実習に忙殺され、様々な人間関係の煩わしさ、度重なるレポート提出といった日常の繰り返しで、清水氏自身ですらも創作活動が出来ないもどかしさと焦燥感に苛まれ、理想と現実の狭間で意気消沈し憔悴しきってしまったのは言うまでもあるまい。
後年清水氏は「大学3年から卒業間近の数年間は自分の人生にとって二度と戻りたくない位の暗黒時代だった」と回顧しているが、そんな心身ともに疲弊しきった日々の中でもほんの僅かな空き時間が出来ると、白衣を着たまま軽音部部室のピアノに向かって若き自身の感情を鍵盤にぶつけるのが関の山であった。
その感情の発露が後の名作『KensoⅡ』に収録される名曲「空に光る」「氷島」「麻酔」、そして何かと誤解を招いている「さよならプログレ」へと繋がるのだから、つくづく苦しい人生どこで幸いするか計り知れないものである。
それはあたかも暗く長い出口の見えないトンネルに差す一条の希望の光をも思わせる…。

長く厳しい実習期間を終え、大学卒業と同時期に歯科医師の国家試験にも合格し、清水の音楽人生にとっても再び明るい光が差す春が訪れた。
勤務医として彼自身の多忙さは相変わらずであったが、大学時代と違い社会人相応に自由な時間を持てるようになったのが何よりも幸いだった。
1982年、前デヴュー作のメンバー山本、矢島と再び合流し、新たに伝説的キーボーダーの牧内淳、そしてベースに松元公良を加えてケンソーは再起動を開始した。
前任のベーシスト田中、そしてヴォーカルパートに音大の知り合い並び某劇団員だった女性をゲストに迎え前作と同様町田PAMの協力で、8トラックレコーディング限定1000枚プレスで同年12月に自主リリースされた2nd『KensoⅡ』は、前デヴュー作を上回る格段の成長を遂げた名曲多数に及ぶ実質上素晴らしい名作と各方面で絶賛された。

2ndリリースに先駆けて母校の神奈川歯科大そして東京音大の学園祭に出演しその圧倒的なライヴパフォーマンスで聴衆を釘付けにし、更にはジャパニーズ・プログレッシヴの総本山でもある念願だった吉祥寺シルバーエレファントのステージにも立つ機会が多くなり、まさしくケンソーは次第に関東圏プログレッシヴの代表格的存在へと注目される様になった。
余談ながらも…2枚の自主製作盤での実績を携えて都内の大手レコード会社や音楽配給事務所に自ら売り込みを働きかけるものの、当然の如く商業主義と儲け優先しか頭の無い連中にとっては頭ごなしに“プログレなんて…”と相手にされる筈も無く、当時の事を清水自身「ポップな曲を入れろとか売れる様な曲作れとかうるさくて、連中は何か大きな勘違いしているみたいで不愉快だった」と振り返っている。
無論当時にはプログレ専門のキング/ネクサスという有力なレーベルがあったものの、推論ではあるが契約の都合上とか互いの諸事情が重なってたまたまタイミングが合わなかっただけなのかもしれないが…。
2ndの好感触という追い風と余波を肌で感じながらも、清水自身慢心する事無く自己の創作意欲に研鑽し切磋琢磨する日々は続いた。
1983~84年にかけてはバンドの方も大なり小なりの変動もあり、フルートの矢島が歯科医に専念したいという理由でバンドを抜け、入れ替わるかの様に当時音大生だった(後の名匠)佐橋俊彦がキーボードに加わり、現在までに至るツインキーボードスタイルの礎を築く事となる。
そんな佐橋も学業諸々の事情等で一時的にバンドを離れる事となるが、後任にキーボードトリオバンドのピノキオに在籍していた小口健一を迎えた事でバンドは更なる成長期へと突入する。
自らのスタジオ設営そして16チャンネルの録音器材を導入し、大手音楽会社に頼る事無く完全ホームメイドのスタイルを貫きケンソーは第3作目のアルバムに取りかかるものの、録音の途中で牧内が志半ばで病に倒れそのまま帰らぬ人となるという最大の悲劇に見舞われ、コンスタンスに継続していたエレファントでのライヴ活動一切合財を無期限休止し暫し喪に服する事となる。
牧内の喪が明ける頃には佐橋がバンドへ正式に復帰し、清水始め山本、松元、小口、そして佐橋の5人は故人の冥福に報いる為にも…鎮魂の祈りを込めて誓いを新たに霊前に向かって3rdアルバム完成という目標を掲げた。
生前牧内の在籍時に収録済みだった「精神の自由」「Turn To Solution」「胎動」という傑作曲を携え、約一年間近い月日を費やして新曲を収録し完成された3rdのマスターテープは、長年待ち続けたキング/ネクサス側の意向でレーベルが買い取ってリリースするという異例の形で、1985年ケンソーは遂に念願だったメジャーデヴューという目的をも達成させる事となる。
ニュースペーパーの折鶴が印象的な『Kenso』というバンド名をそのまま冠した3rdは、改めて1stの頃の初心を忘れず原点回帰に立ち帰った意味合いを含め、軽快で且つ重厚なスタンスが反映された意欲に富んだ野心作に仕上がっており、インディーズ時代の総決算+メジャーへの新生が盛り込まれているのが特色といえよう。
極一部の辛口プログレファンからは「あんなものはプログレじゃない!カシオペアもどきのフュージョンだ!」といった否定的な言葉こそあれど、同時期にリリースされたジェラルドの2nd以上の好セールスを記録し、テレビのニュース番組でも一部の曲が二次的に使用されるなど評判は上々であった。
翌86年にはインディーズ時代から3rdまでを総括するという形で2枚組ライヴ『イン・コンサート』がリリースされ、その白熱のライヴパフォーマンスの凄まじさに単なるフュージョンもどきと陰口を叩いていた輩ですらも閉口し納得せざるを得ない力量を存分に見せ付けたのは言うまでもあるまい。
2枚組ライヴ盤をリリース後、例の如くライヴ活動を無期限休止し次回作への準備に取りかかるが、翌87年に長年苦楽を共にしてきた山本治彦と松元公良のリズム隊両名が抜け、山本は併行して活動していたポップス・グループLOOKに専念する事となる。
御存知の通り山本自身も後年は山本はるきちと改名しNHK人気アニメ「おじゃる丸」の音楽を担当し、以降は多方面での作曲やアレンジャーとして多忙な日々を送りつつも、ケンソーとは現在でもなお親交を深めている。
新たなリズム隊として佐橋からの紹介で芸大打楽器科に籍を置いていたドラマーの村石雅行が加入し、その村石からの紹介で新ベーシストに三枝俊治を迎えたケンソーは再び息を吹き返し、翌88年同じキングのプログレレーベルCRIMEから『スパルタ』をリリース、事実上これが昭和時代最後の作品となった。
当時マーキー誌でのキングの告知欄で“悪いけど僕らはクオリティーの高い作品しか作らない”といった何ともカッコいいキャッチコピーが物議を醸したものの、看板に偽り無しの諺の如く有限実行通りに実践する高度な演奏に聴衆はただ舌を巻く思いだった。
しかし大なり小なり…それが後の1991年バンド史上最高傑作『夢の丘』へと繋がる、まだほんの予兆でしかなかったという事を私含め多くのファンはまだ気付いていなかった。

そして程無くしてケンソーでの自分の役目は全て終えたと言わんばかりに佐橋俊彦が脱退。その後の活躍は既に皆さん御存知の通り、数々のテレビドラマやアニメ、そして円谷プロの平成ウルトラシリーズや東映の平成仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズといった特撮物のスコアを数多く手掛けて今日までに至っている(個人的にはオダギリジョー主演「仮面ライダークウガ」の2枚の音楽集は、実質上佐橋のソロアルバム的な趣が強くて特撮ファンのみならずプログレファンにも推しておきたい)。
90年代に入ると共に時代が昭和から平成に年号が変わり、佐橋に代わる新たな後任として昔からのケンソーファンでもあった若手キーボード奏者の光田健一を迎え、文字通り“W健一キーボード”の布陣で、前作『スパルタ』での熱気が冷めやらぬままのテンションを持続し、1991年バンド結成史上最上級の最高傑作として呼び声が高い名作『夢の丘』をリリースし、名実共に全世界に向けて日本のケンソーここにあり!と知らしめた金字塔を打ち立てた。
皆がそれぞれに思い描くヨーロッパ大陸への憧憬と浪漫、イマージュが渾然一体と化した時代と世紀をも超越した極上の音楽世界に、聴衆は暫し時が経つのも忘れて酔いしれるのだった。

前後して清水氏自身も開業医との兼任で岡山大学医学部にて医学博士の学位を取得したりと以前にも増して多忙さは極まるものの、メンバー各々が個々の本業の合い間を縫ってはコンスタンスにライヴ活動に勤しみ、92年のライヴ第二弾『Live '92』を挟んで、マーキー/ベルアンティークからも未発ライヴアーカイヴ集が何作かリリースされたりと枚挙に暇が無いが、1999年リリースの『エソプトロン』までは比較的のんびりとした牛歩的なペースを維持したまま、黙々とバランス良く創作活動に邁進していた。
99年の『エソプトロン』は、ハイテンションMAX級の前最高傑作の『夢の丘』よりかはやや一歩引いた形で、比較的肩の力を抜いてリラックス気味な雰囲気に、改めてロックバンドであるという事を見つめ直すといった回顧録的な趣を持たせた、極端な話清水氏の私小説をも思わせる作風に仕上がっている(ネガフィルム調の意味深な意匠にも注目である)。
収録曲の「個人的希求」そしてラストの「気楽にいこうぜ」なんて最たる表れでもあり、清水自身2000年代に入る前に一度ケンソーをぶっ壊して再度リセットしたいなどと考えていたのではと思えるのは穿った見方であろうか。



…そして21世紀、結成25周年ライヴを皮切りにアメリカはロスで開催されたPROGFEST 2000に参加し、世界各国の並み居る強豪プログレバンドとの競演を経て聴衆を熱狂の渦に巻き込んで、その健在ぶりをアピールした。
2002年、アジアンテイストなエスニックな異国情緒と精神病理世界とが混在した21世紀最初にして問題作となった『天鵞絨症綺譚』は聴く者を大いに困惑させた。
『夢の丘』の頃から全くかけ離れたと嘆く者もいれば、新たなケンソーの音楽世界が降臨したと言わんばかりに拍手喝采を贈る者と反応は様々であったが、いずれにせよ素晴らしい音楽作品であると同時にこの時期の幾分停滞気味な感だった日本のプログレに一石を投じた意味でもその存在意義は大きいと言えよう。
4年後の2006年、ジプシーの舞踊を思わせる女性のポートレイトが印象的な『うつろいゆくもの』は、前作『天鵞絨症綺譚』の姉妹編ともいうべき趣を湛えていたものの、清水氏自身が読んでいた川端康成の短編集「掌の小説」に感銘を受けてインスパイアされた内容で、トータル17篇にも及ぶ多種多彩な音楽像を打ち出したケンソーらしさが浮き彫りになった好作品。
ちなみに前作リリース後ドラマーの村石雅行が抜け、難波弘之氏を始め山本恭司氏といった多くのベテラン・ミュージシャンと仕事を組んできた小森啓資に交代している。
そしてバンド結成から実に40周年に当たる2014年にリリースされた『内ナル声ニ回帰セヨ』にあっては、長年ケンソーを信じて彼等の創作する音楽世界に付いていって本当に幸せだったと思える位、白磁の如き透明感を湛えた俯く女性の表情が美しく神秘的なイメージ通りのプログレ愛に満ち溢れんばかりな…私的な感情剥き出しな言い方で恐縮だが心の奥底から“ケンソー万歳!日本のプログレ万々歳!”と声高に叫びたくなる秀逸な作品であると思えてならない。


同年8月17日に川崎クラブチッタにて新作リリース記念兼バンド結成40周年記念ライヴを開催した彼等ではあるが、暫くはまた休息充電を兼ねて新作の準備期間に入る事と思うが、創り手側である清水氏を始めとするバンドサイド、そして彼等の音楽世界に大きな期待を寄せケンソーを愛して止まない私を含めた聴き手である側も、互いにまだまだ志半ばの夢の旅路の途中であるという事だけは確かであろう…。
早いもので今年で55歳となった私自身、人生を全うするまでこれからも末永く彼等の音楽にとことん付き合って行くであろうし、清水氏…否!清水先生の目指すものを最後まで見届けたい一心であることだけは事実である。
今日までのケンソーと清水先生を支えてきたのはバンドに携わってきた新旧のメンバーのみならず、難波弘之氏、宮武和広氏、作品に携わってきた沢山の協力者と賛同者、そして何よりも聴き手である大勢の皆さんがあってこそだと思います。
心から“ありがとう”の言葉を贈らせて下さい…。
スポンサーサイト