幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 20-

Posted by Zen on   0 

 今週の「夢幻の楽師達」は、暮れの時節柄に相応しく仄暗い夕闇の冬空と重く垂れ込める曇天の寂寥感を湛えたエキセントリックでリリカルな調べと旋律を奏でる、フレンチ・ロック界きっての職人芸の域にも似た、伝説云々をも超越し現在(いま)を生き続ける…魂が震える位に渾身の楽師達でもあり、名匠ともいえる位置に君臨する“カルプ・ディアン”に、今再び輝かしいスポットライトを当ててみたいと思います。

CARPE DIEM
(FRANCE 1976~)
  
  Christian Trucchi:Key, Vo
  Gilbert Abbenanti:G 
  Claude-Marius David:Flute, Sax, Per
  Alain Bergé:B
  Alain Faraut:Ds, Per

 70年代初頭のフレンチ・ロックシーンに於いて、コバイアストーリーを引っ提げてジャズロック界のの巨人となったマグマ、多国籍編成ながらもスペイシーでサイケデリックカラーのゴング、そして後年のフレンチ・シンフォニックへと繋がる潮流の源となったロックテアトルの大御所アンジュといった三巨頭によって、名実共にフレンチ・プログレッシヴは本格的な幕開けを告げる事となったのは最早言うには及ぶまい。
 三巨頭に追随するかの如く、ザオ、エルドン、クリアライト、トランジット・エクスプレス、ラード・フリー、マジューン、アール・ゾイ、ワパスー、アトール、モナ・リザ、ピュルサー、タイ・フォン…etc、etcが世に輩出され、各々が異なったサウンドスタイルと独創性を打ち出しつつもフレンチ・プログレッシヴはイタリアやドイツとはひと味ふた味も違った独自のシーンを形成し、多種多彩で百花繚乱…大雑把に言ってしまえば雑多でカテゴライズ的にも捉えどころの無い、まさしく国民性とお国柄が如実に反映されたロック繁栄期の一時代を築いたと言っても異論はあるまい。
 そんな70年代フレンチ・プログレッシヴが最も熱気を帯びて隆盛を誇っていたであろう1973~1976年頃を境に、今回本編の主人公でもあるカルプ・ディアンも御多聞に漏れず、自らの音楽人生と信念を携えてフレンチ・ロックのメインストリームに身を投じる事となった次第である。

 フランスきってのリゾート観光地で諸外国からもバカンスに訪れるニースを拠点に、1969年当時ハイスクールの学生で若かりしティーンエイジャーでもあったキーボーダーのChristian Trucchi を中心にカルプ・ディアンの母体ともいえるバンドが結成される。
 …とは言えひっきりなしにメンバーの交代やら出入りが激しかったさ中、音楽性やら方向性すら曖昧模糊で手探りと紆余曲折の足踏み状態が続き、1970年に加入したベーシストのAlain Bergéからの提案と助言で次第にプログレッシヴ色を強めた作風へと移行し、更にギタリストのGilbert Abbenanti を迎えバンド名も正式にカルプ・ディアンへと改名する頃には、プロコル・ハルム始めムーディー・ブルース、ジェスロ・タル、そして彼等の後々の音楽性の方向をも決定付けた御大のクリムゾンといったサウンドレパートリーやカヴァー曲でステージに立つ機会が多くなる(ちなみにバンド名の意は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句“その日を摘め”を表している)。
 と、同時にカヴァー曲をプレイする一方で徐々に彼等自身の手による大作主義のオリジナルナンバーがステージ上で披露される回数も増していき、この時点でもう既にデヴューアルバムに向けたトラックナンバーやアイディアが立ち上がっていたものと思われる。
 余談ながらもキーボーダーのChristian自身、まだ素人に毛の生えたアマチュアの域だった当時、限られた使用機材を如何に有効活用してプログレッシヴな音域と幅の拡がり方が出来るのか…試行錯誤の末彼が所有していたオルガンをデイヴ・スチュアート風なスタイルに改造したというのだから並大抵の苦労の程が窺い知れよう(苦笑)。
 1971年、僅か数枚のプレスで自主流通によるセルフシングルをリリースし、同年夏にはフランス国内でのアマチュア・バンドコンテストで見事に優勝を飾りバンドは遂にパリに進出、数々のギグに参加し聴衆から拍手喝采で迎えられ、軌道の波に乗り始めたカルプ・ディアンは漸く船出の準備へと漕ぎ着けるまでに至った次第である。
 それ以降は地元ニースでの高い知名度の甲斐あって日々ギグに明け暮れつつ、デモテープを製作してはレコード製作と契約に繋がるきっかけを求めて多方面のレコード会社に音源を送ってはなしの礫やら門前払いを喰らうといった繰り返しで数年間は辛酸を舐めさせられ不遇の時期を送る事となる。 
 ChristianとGilbertの主要メンバーを残し相も変わらずメンバーの交代劇(ヴォーカリストが居たり居なかったり、ヴォーカルレスのインスト中心で活動していたなんて事も…)が続いてはいたものの、かのヴィジターズに参加の為一時的にバンドから離れていたベーシストのAlain Bergéがバンドに復帰したのを契機に、今までの素人臭い考えやらアマチュア意識を全て排しカルプ・ディアンは本格的にプロへの道を歩む事を決意する。
 ドラマーも正式なメンバーとしてAlain Farautが加わり、サウンド面での更なる強化を図る為サックス兼フルート奏者のClaude-Marius Davidを迎えた5人編成にプラスして、ライトショーと作詞を担当の表には出ない6人目のメンバーとしてYves Yeuを加えた布陣でカルプ・ディアンは大いなるプログレッシヴ・フィールドの大海原へと船出に臨んだ次第である。
 1975年、フランス全土にてオンエアされていた若手アーティストの発掘番組(日本でいうところの『イカ天』みたいなものだろうか…)で、カルプ・ディアンはデヴューアルバムの冒頭となった“ Voyage du Non-Retour”を演奏し聴衆並び番組の視聴者から大絶賛され、偶然にもこの模様を拝見していたフレンチ・プログレッシヴの仕掛け人にして、アンジュのマネジメントのみならず幾数多もの前途有望なフレンチ・プログレッシヴバンドを発掘し、蠍を模したギターマークで御馴染みのArcane/Cryptoレーベルのオーナーでもあった Jean-Claude Pognantに見い出され、お互い呼応するかの如く程無くしてArcaneレーベルと契約を交わし、バンドサイドの意向でセルフプロデュースによる10日間のスタジオ使用期限という条件の下でデヴューアルバムの録音に臨む事となる。
           
 彼等のデヴュー作を語る上で忘れてはならない、あたかもエッシャーやマグリットを彷彿とさせる騙し絵の如き幻想的な意匠にあっては、ニース在住のバンドの友人のほぼ無名に近い素描画家の手によるもので、フレンチ・プログレッシヴの歴史に於いて個人的な嗜好で申し訳無いが…ピュルサーの『Halloween』、エマニュエル・ブーズの『Le Jour où les Vaches...』と並ぶ逸品に仕上がっていると思う。
 白と黒との醸し出すエクスタシー、漆黒の闇に木霊する音宇宙の残響、ヘヴィネスとリリシズムとの狭間に流れる唯一無比な孤高なる調べ、それらが渾然一体化しアートワークの世界観を綴り物語っている様はロックテアトルでも抒情派シンフォニックでもない、人間の心の奥底の深淵に潜む混沌(カオス)と情念(パッション)とのせめぎ合いと発露に他ならない。
 しいて言ってしまえば、クリムゾンのエッセンスにシャイロックのセンス、ピュルサーの持つ音宇宙の微粒子の煌めき、儚くも美しい…仄暗く朧気な回廊を夢遊病者が彷徨うかの様なシチュエーションすらも禁じ得ない。
                
 迎えた1976年2月、待望のデヴュー作『En Regardant Passer le Temps』の初回プレス5000枚は瞬く間に完売し、以後ArcaneからCryptoレーベルへと改名してからもリリースされたものの悲しいかな見開きジャケットではない単なるシングルジャケットに移行してしまったのが何とも惜しまれる。
 ちなみに評判を聞きつけたカナダのレーベルSterlingがアルバムを200枚買い取り、それに端を発した権利云々のすったもんだで、最終的にはカナダのローカルプレスオンリーならば許諾するという条件で一応の決着までに至り『Way Out As The Time Goes By』なる英訳タイトル盤がリリースされた逸話まで残っている。
 デヴューアルバムリリースに先駆け76年1月にナンシーで開催されたロックフェスで、アンジュ、モナ・リザ、タンジェリーヌと共演したカルプ・ディアンはフランス国内で完全に認知され人気を博すまでに成長を遂げ、デヴューアルバムも最終的にはフランス国内で10000枚以上、諸外国でも1000枚以上の好セールスを記録し、同時期にリリースされたアトールの『L'Araignée-Mal(夢魔)』と共に音楽誌で高評価を得られるまでに至ったのは言うまでもなかった。
 デヴュー以降バンドは精力的に活動し、フランス国内のサーキットツアーに加えてArcaneレーベル主催のロックフェスへの参加、果ては大御所マグマとの共演を果たし彼等カルプ・ディアンは前途洋々且つ順風満帆の絶頂期を迎えつつあった。
 同年夏には次回作の為のアイディアと曲作りに着手し、その為の準備期間とスタジオの確保に至るまで前作とは打って変わって環境の違いと余裕を持たせたタイムラグのお陰で比較的ゆったりとしたペースで進行させる事となった。
 その間も交友関係のあったシャイロックのメンバーとの楽器の貸し借りやら機材の搬送協力に至るまでコミュニケーションと連携を深めていきつつ、76年12月にスタジオ入りし翌77年3月に2nd『Cueille le Jour』をリリース。
     

 前作と同様に黒の下地というジャケットスタイルこそ変わっていないが、雨粒…或いは水泡の集まりを人の横顔(女性なのだろうか)に見立てた意匠通り、サウンド的にもややシンフォニック寄りの傾向が散見され前デヴュー作で感じられた荒削りながらも硬質なヘヴィ感が薄まったというきらいもあってか、セールス的には前作には及ばなかったという向きが正しいところであろう。     
 出来栄えを含め総じて内容自体は決して悪くは無く、そこそこのセールスと収益は得られたものの、やはり直接的な原因を辿れば70年代末期に全世界を席巻しつつあったパンクとニューウェイヴの台頭の余波を受け、当時既にプログレッシヴ・ロックバンドが活躍する場が減少しつつあった時代背景に加えて音楽誌や各メディアもプログレッシヴ・ロックを取り挙げなくなった事も一因していたのかもしれないが、時代の流行り廃りとはいえ何とも実に嘆かわしい限りである。       
 同年夏に開催のロックフェスでの参加に招聘されるものの、2ndアルバムのセールス不振や今までのロードツアーとオーヴァーワークによる心身の疲弊に加えて、音楽に対する情熱が消え失意に苛まれていたギタリストのGilbertがバンドを去る事となり、バンドは急遽ベーシストAlainの旧知の間柄でもあったGérald Maciaを迎えた新布陣でフェスに臨み、そんな彼等に聴衆は惜しみない拍手と歓声で迎え入れてくれたのは言うまでもなかった。
 特に新メンバーGéraldのアコギを含めたギタープレイも然る事ながらヴァイオリンまで手掛ける多才なマルチプレイに詰めかけたオーディエンスは只々驚嘆するばかりであった。
 起死回生にGéraldという新戦力を加えた布陣で、更なる展望と3枚目の次回作に向けての気運が高まりつつある中、それでもカルプ・ディアンを取り巻く諸問題は山積している状態は続き、特にマネジメント不足という問題は彼等を大いに悩ませた。
 が、不退転の決意表明よろしくとばかりに、バンドの窮地を救う為ベーシストのAlain Bergéは意を決しベーシストの座から離れてカルプ・ディアンの専属マネージャーへとシフトする事となる。
 Alainの後釜としてアコギとベースを兼任するGeorges Ferreroを迎えた彼等は、2ndでの反省と経験を糧に失地回復へと躍起になり、かねてからCryptoレーベル側のバンドへの待遇に疑心暗鬼を抱いていた彼等は、一念発起で所属会社のスタッフ並びオーナーのJean-Claude Pognantに対し、製作環境並び待遇の改善要求を求めて直談判へと乗り込んだ。
 しかし…悲しいかな、所属会社とバンドサイドとの折り合いがそう簡単に決着する筈も無く、結局は平行線のまま半ばCryptoサイドとの衝突と喧嘩別れに近い形で自ら契約解除を申し入れ、カルプ・ディアンはセルフレコーディングで録った新作3rdの為に準備したデモテープ一本を携えて、パリ市内のレコード会社、音楽事務所を奔走するのだった。
 しかし…時既に遅く当時吹き荒れていたパンク・ニューウェイヴの波及は、フランス国内の音楽誌やメディアを席巻しプログレッシヴ・バンドが活躍する場も大幅に激減しているという有様で、この事が彼等の創作意欲を極度に奪う形となってしまい、最早カルプ・ディアン自体も意気消沈以上にほとほと心身ともに疲れ果ててしまうという憂き目に遭ってしまう。
 3rdの新作という夢も潰えてしまい、失意を抱えたままマネージャーのAlainが企画主催したロックフェス、シンガーソングライターのバック、そして地元ニースでの20分間に及ぶテレビショウへの出演をこなしつつ、1979年の10月カルプ・ディアンはその活動に自ら幕を下ろし静かに表舞台から去って行ってしまう。

 時代は移り変わり…80年代に入ると、当時地元ニースの新進プログレッシヴバンドだったステップ・アヘッドからChristian Trucchiに是非とも参加して欲しいとの要請があったものの、音楽産業に対し疑心暗鬼とトラウマを抱いていたからなのか、Christian自身その申し出をあっさりと断ってしまい、結局Christianの代わりに妹のClaudie Truchiが加入する(フルート奏者のClaude-Marius Davidが一曲だけゲストで参加している)というオマケ話を除けば、カルプ・ディアンの各々のメンバー達は音楽業界の裏方ないし音楽以外の正業に就き暫し長きに亘る沈黙を守り続けたまま時代の推移を見守るしか術が無かったのである。

 そして21世紀を迎えた頃には時代に呼応する形で(時代が彼等に追い着いたと言った方が正しいのか)、かつてのカルプ・ディアンのメンバーは再びフレンチ・プログレッシヴのフィールドへ集結する様になり、93年に鬼籍の人となったClaudeを除き、Christian Trucchi、Gilbert Abbenanti、Alain Faraut、そして解散までの新メンバーだったGérald Macia、Georges Ferreroの両名が合流し、2015年カルプ・ディアンはムゼアより復活再結成にして3人の管楽器奏者とパーカッションを兼ねる女性ヴォーカルをゲストに迎え待望の3作目の新譜となった『Circonvolutions』をリリース。
     
 良い意味で相も変わらず白と黒を基調としたジャケットアートワークは彼等の一切の妥協を許さない硬派な音楽スタイル、創作に対する敬意と真摯な姿勢、頑なまでの身上を物語っており、大半がスタジオ新録によるナンバーがメインであるが、天国へ旅立った今は亡きClaudeへの哀悼と鎮魂を込めた意味合いで1978年のライヴから収録されたClaudeの最後の熱演が聴ける2つの未発表曲が収録されているのも嬉しくもあり感慨深いものである…。
          
 再結成し今もなお精力的に活動を継続している彼等に対し、安易な気持ちで初来日公演にクラブチッタでその雄姿を観たいとはここでは敢えて言わず、今だからこそ他言無用のまま彼等の行く末をこのまま黙って静かに見守ってやりたいというのが正直なところである。
 プログレッシヴ・ロック関連の記述でちょくちょく“伝説”という語句を冠しては美化しがちな傾向であるが、彼等は決して伝説で終わる事の無い、彼等の現在(いま)の生き様…現在進行形の歩む姿こそがリアルにして伝説そのものであるという事を結びに本文を締め括りたいと思う。
スポンサーサイト



Zen

Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipiscing elit, sed do eiusmod tempor incididunt ut labore et dolore magna aliqua. Ut enim ad minim veniam, quis nostrud exercitation.

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

該当の記事は見つかりませんでした。