夢幻の楽師達 -Chapter 28-
今週の「夢幻の楽師達」は、70年代イタリアン・ロックの第一次黄金時代に於いてニュー・トロルスやオザンナと共に名門大手のフォニット・チェトラレーベルの一時代を支え、ヒッピーカルチャームーヴメントの申し子だったデヴュー期から、紆余曲折を経て自らのスタイルで時代を切り拓きつつプログレッシヴへの信条と真髄を貫いた、唯一無比なる孤高の個性派集団“デリリウム”に再びスポットライトを当ててみたいと思います。
DELIRIUM
(ITALY 1971~)


Ivano Fossati:Vo, Flute, Ac‐G, Recorder, Harmonica
Mimmo Di Martino:Ac-G, Vo
Marcello Reale:B, Vo
Ettore Vigo:Key
Peppino Di Santo:Ds, Per, Vo
イタリア音楽界老舗大手のリコルディ始めヌメロ・ウーノ、果ては外資系のポリドール・イタリアーナ、数々のレアアイテムを輩出したRCAイタリアーナ…等を含め、有名無名大なり小なり数々のレコード会社からの後ろ盾で、イタリア国内から長命短命を問わず幾数多ものプログレッシヴ・バンドが世に躍り出て、文字通り70年代のイタリアン・ロックの栄華と隆盛は前述のレコード会社とレーベルが貢献した(ひと役買った)と言っても過言ではあるまい。
前出のリコルディやヌメロ・ウーノに引けを取らず、数々の傑作級名盤を世に送り出したワーナー傘下の老舗フォニット・チェトラも然り、ニュー・トロルスやオザンナ、果てはRRRといった現在もなお現役バリバリで精力的に活動しているアーティストを抱え、第一次イタリアン黄金時代の片翼を担った役割は大きいと言えるだろう。
当時チェトラレーベルが擁していたニュー・トロルス、オザンナと並ぶ人気バンドで、実力と演奏技量、知名度共に申し分無く、イタリア国内では今もなお絶大なる根強い人気を誇っている今回本篇の主人公デリリウムも、チェトラ・レーベルが持つ多種多才な音楽色に更なる彩りを与えた存在として、その名を克明に刻み付けているのは周知の事であろう。
イタリアとの温度差とでも言うのだろうか…日本ではトロルスやオザンナと比べると今ひとつパッとしない印象は拭えないのが正直なところであるが、多分にクラシカル・ロック、カンタウトーレ、ジャズといった様々な素養を内包しつつ、良い意味でオールマイティーにソツ無くこなしており…悪い意味でどっち付かずな散漫な印象を与えているのかもしれない。
まぁ…良し悪し抜きにそれこそがデリリウムらしいスタイルと言ってしまえばそれまでであるが(苦笑)。
デリリウム結成当時のオリジナルメンバー兼リーダー格でもあり、21世紀の今もなおイタリア音楽界の重鎮にしてカンタウトーレ界の大御所と言っても過言では無い大ベテラン中の大ベテランIvano Fossati。
デリリウム結成前夜ともいえる60年代末期、Ivano Fossatiは自身の出身地ジェノヴァにて後にニュー・トロルスのメンバーとなるNico Di Paloと共にザ・バッツなるバンドで経歴をスタートさせる事となるが、バッツ時代は主にストーンズや自国のディク・ディクのカヴァーを中心に活動するも、後にニュー・トロルス結成へと向かうNicoと袂を分かち合い、Ivanoは旧知の間柄でもあったMimmo Di Martinoを始めとする4人のメンバーと共に、射手座を意味するI SAGITTARI(イ・サジッターリ)なるバンドを結成し、その後理由は定かではないが程無くしてIvanoの提案でデリリウムへと改名、同年の1971年ラジオ・モンテカルロ主催のロック・コンテストで優勝を獲得し、その後数々のロック・コンテストで立て続けに入賞を連発させる。
ちなみにこの時のオリジナルデヴュー曲に当たるタイトルはバッツ時代にNicoとの共作でもあった「Canto Di Osanna」で、改めて思うにこの当時からトロルス始めオザンナ、デリリウムも既に見えない運命の糸で結び付けられていたかの様な、不思議な縁とでもいうのか繋がりを感じてならない…。
デリリウムの人気と知名度が一気に高まり、バンドサイドもその追い風を受けて漸く軌道に乗り始めた時同じくして、フォニット・チェトラ側のフロントマンの目に留まった彼等は、チェトラとの契約を交わし1971年『Dolce Acqua』で堂々たるデヴューを飾る事となる。
Ivanoの優しくも憂いを帯びたヴォーカルとタル影響下を彷彿とさせるフルートに追随するかの如く、ロック、ジャズ、クラシック、カンタウトーレといった音楽的素養を内包した抒情的なメロディーラインが彩る独特の音世界は、同時期にリリースされたPFM『Storia Di Un Minuto』、オルメ『Collage』、そしてオザンナのデヴュー作と並んでチャートを争う事となり、結果セールス面で4位を獲得するというデヴュー作にして大健闘を成し遂げたのは言うに及ぶまい。
明けて翌1972年、イタリア国内外で異例の大ヒット曲となった「Jesahel(ジェザエル)」を引っ提げてサンレモ音楽祭に出演したデリリウムは聴衆からの絶大なる喝采を浴び、音楽祭以降も様々なロック・フェスティヴァルに出演し彼等自身の人気はますます鰻上りに上昇し一躍スターダムへの座へと上り詰めた次第である。
が、そんな上り調子のさ中Ivanoが一時期の間イタリア軍の兵役に就かなければならなくなり、リーダー格でもありフロントマンを欠いたデリリウムはデヴュー間もなく大きな岐路と転換期を迎える事となる。
余談ながらも、デヴュー作で描かれた摩訶不思議で一種独特のアートワーク…さながら当時世界中を席巻していたヒッピーカルチャーと神への帰依を示唆した様なユートピア志向も然る事ながら、改めてYoutubeで72年当時のサンレモ音楽祭でデリリウムが謳った「Jesahel」の画像を見直してみると、バックコーラス隊のインディオ風ないでたち=ヒッピームーヴメントの片鱗というか、時代の大らかさと空気感が窺い知れて非常に興味深い。
話は戻って兵役の為デリリウムを去ったIvanoではあったが、音楽への情熱は決して冷める事無く程無くして軍楽隊に所属しフルート奏者として活躍した後、兵役を終えて除隊後の活躍は既に御存知の通りカンタウトーレとして大成功を収め、現在もなおソロシンガーとして20枚以上ものアルバムをリリースし、イタリア国内の様々なアーティストに楽曲を提供、プロデュースからアレンジャーと多方面で活躍し現役バリバリに活躍している。
一方のデリリウムは72年Ivanoの抜けた後釜としてイギリス人のサックス兼フルート奏者Martin Griceを迎え、曲によってメンバー全員が代わる々々々持ち回りでヴォーカルを担当するというスタイルへと移行し、同年2ndの『Lo Scemo E Il Villaggio(愚者と村)』、そして間を置いて同メンバーで1974年に3rd『Delirium Ⅲ:Viaggio Negli Arcipelaghi Del Tempo』という2枚の素晴らしい好作品をリリース。
前者の2ndはオーケストラパートを一切配せずあくまでバンドオンリーの演奏が主体となっており、デヴュー作では幾分抑え気味だったハモンドやメロトロンといったキーボードパートが2枚目の本作品ではかなり前面的に押し出した形でフィーチャリングされ、新加入のMartin Griceの白熱の演奏も聴き処満載である。

後者の3rdはデリリウムとオーケストラパートが渾然一体となった、より以上にドラマティックでシンフォニック・ロック色を強めた作風で、さながらニュー・トロルスの『Concerto Grosso』シリーズやRDMの『Contaminazione』とはまたひと味もふた味も違った、ロックとオーケストラとの融合美と更なる可能性、或いはバンドの意欲的な姿勢すら垣間見える秀逸な一枚に仕上がっている。

しかし悲しいかな…バンドサイドの思惑とは裏腹に、Ivanoというフロントマン無き後決して臆する事無く心機一転+脱ヒッピーカルチャーを目指してリリースした2ndと3rdも、楽曲の素晴らしさとは相反するかの如く予想外にセールスが伸び悩み、彼等の果敢な努力も空しく敢え無く失敗に終わってしまう(早い話、素晴らしい音楽が決してヒットと好結果に結び付くとは限らないという事であろう、実に悔しい限りではあるが…)。
2ndと3rdリリース時にシングルカット向きの曲を出さなかった事も一因している向きもあるが、安易にシングルを売りにする様な生温い姿勢のままでは流石に彼等とて我慢ならなかったのかもしれない。
結局彼等デリリウムは恩義を受けたフォニット・チェトラの面子を潰したくなかったが故に自主的にレーベルを離れる事となり、以後は新設されたばかりのAGUAMANDAなるレーベルに移籍しアルバムを製作する事無くシングルヒット向きのナンバーをリリースしバンドの起死回生を図るものの、結局は成功とは程遠く深い痛手を負うばかりの失意と不遇の日々を送るという憂き目に遭ってしまう。
そして迎えた1975年、サウンドの要ともいえるキーボーダーEttore Vigoの脱退を機に、櫛の歯が一本ずつ抜け落ちるかの様にバンドは空中分解し、70年代末のイタリアン・ロック衰退期と時同じくしてデリリウムはこうして幕を下ろす事となる…。
皮肉な事にバンドは解散しても遺された作品群ばかりが後年再び見直されて、プログレッシヴ・ファンないしイタリアン・ロックの愛好家達から高い評価を受け相応な高いプレミアムで市場に出回る頃ともなると、フォニット・チェトラサイドからは1978年にシングルヒットした「Jesahel」を含めたベストアルバムがリリースされ、日本国内でもキングレコードのユーロ・ロックコレクションに於いて、ワーナーから一時的に権利が離れたチェトラレーベルの作品群(ニュー・トロルスやオザンナ)が大挙リリースされる運びとなるものの、惜しむらくはデリリウムの国内盤LPが遂にリリースされなかった事が何とも恨めしい(候補にはちゃんとしっかり挙がってはいたのだが…)。
後年マーキーのベル・アンティークやワーナー・ミュージックジャパンから国内盤CDがリリースされる時同じくして、イタリア国内でも80年代イギリスのポンプロック勃発から10年経過した90年代に再び巻き起こったイタリアン・プログレッシヴリヴァイバルに呼応する形で、70年代のレジェンド達がこぞって再結成・復活を果たし、御多聞に漏れず1999年デリリウムもドラマーPeppino Di SantoとベーシストMarcello Realeのオリジナルメンバーのリズム隊に加えて新メンバーのRino Dimopoli をキーボードに据えたトリオ布陣でヒット曲の「Jesahel」を含めた再録と新曲による復帰作『Jesahel』で久々にイタリアン・ロックシーンに返り咲く事となる。
まあこの頃ともなるとチェトラレーベルを含む様々な各方面よりデリリウム関連の編集盤、ベストコンピ企画物が大挙出回るという背景もあっていろいろと情報整理するだけでも至難の業である(苦笑)。
結果的には一時的な復帰作『Jesahel』も企画物系の一環として、正式な復帰とは程遠い体裁であるのが正直なところであろう。
が…イタリアン・ロック復興という時代の流れを追い風に、21世紀を迎える頃ともなるとデリリウムのメンバー周辺が俄かに慌しくなってくる。
ドラマーPeppino Di Santoの鶴の一声よろしくの呼びかけで、ミュージカルや舞台関係で手腕を発揮してきたEttore Vigoを始め、Martin Griceが再び集結し、新たなギタリストとベーシストに加えて、一曲のみのゲスト参加として長年苦楽を共にしてきたMimmo Di Martinoという布陣で、2009年かのダーク・プログレッシヴ系を多く抱えるBlack Widowからの招聘で遂に正式な再復活作『Il Nome Del Vento』をリリースし、並み居る70年代レジェンド・イタリアンの復活劇に於いて強烈なインパクトを与えたのは最早言うには及ぶまい。


6年後の2015年にはEttoreとMartinの2人を核に新たなドラマーとギタリスト、そして(現時点では正式なメンバーか否かは定かではないが)ラ・マスケーラ・ディ・チェラよりヴォーカリストのAlessandro Corvaglia を迎えた6人編成で最新作の『L'Era della Menzogna』をリリースし、翌2017年の8月12と13の両日プログレッシヴ・ライヴの殿堂川崎クラブチッタにて開催の“ザ・ベスト・オブ・イタリアン・ロック サマー・フェスティヴァル 2017”にて遂に待望の初来日公演を果たした次第である。
デリリウム初来日公演から早いもので3年が経とうとしているが、現時点に於いて彼等からの新作リリースに関する情報やらアナウンスメントが聞かれなくなって実に久しい限りである(ネットやらSNS全盛という御時世であるにもかかわらず…)。
あたかもそれは新たなる動きへの予兆なのか、或いは熟考と熟成を重ねた更なるデリリウムの進化系としてリハーサルとレコーディングの真っ只中なのか、それを知る術は誰しもが皆目見当付かないのが正直なところではあるが、確実に言える事は…今はただ彼等を信じて待ち続けるしかないという言葉に尽きるであろう。
そしていつの日かまたシーンに返り咲きその雄々しき姿を現すまで、彼等が目指す飽くなき挑戦を我々は長い目で見守り続けていこうではないか…。
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