夢幻の楽師達 -Chapter 30-
今回2月最終週の「夢幻の楽師達」で数える事連載30回目に達しました。
これも単に支持して頂いている皆さんあってのお陰です。
改めて本当に有難うございます…。
これからも臆する事無く常に前向きで、自分が続ける限り精一杯綴っていきたい所存です。
今後も慌てず焦らず自らのペースを保持しつつのんびり気長に続けていければと願わんばかりです。
連載30回記念を飾るのは、先週のスイス勢と同様少数精鋭の感が強いヨーロッパ中部はオーストリアから、数少ない実力派にして、ある意味オーストリアのプログレッシヴ・ムーヴメントの礎を築いたと言っても過言では無い孤高の道程を辿ったであろう、正真正銘…夢幻の楽師達という言葉に相応しい“イーラ・クレイグ”に今一度焦点を当ててみたいと思います。
EELA CRAIG
(AUSTRIA 1971~ ? )


Hubert Bognermayr:Key,Vo
Fritz Riedelberger:G,Piano,Vo
Hubert Schnauer:Key,Flute
Gerhard Englisch:B,Per
Harald Zuschrader:Key,Flute,G
Frank Hueber:Ds,Per
Alois Janetschko:Mixing Engineer
ヨーロッパ中部に於いて、音楽の都というアカデミックな佇まいが現在もなお色濃く根付いている首都ウィーンを擁する国オーストリア。
印象的には…さぞやクラシックに根付いたプログレッシヴ・バンドが数多く存在していると言いたいところではあるが、各専門誌でも過去に何度も触れられている通り、オーストリアというお国柄然り一種独特にして特異な音楽芸術環境の下ではプログレッシヴを含めてなかなかロックというジャンルが育ち難いというのが現状である。
今回取り挙げるイーラ・クレイグ始め、ヴィータ・ノーバ、アート・ボーイズ・コレクションといったサイケデリア色の強い黎明期を皮切りに、ジェネシス影響下のキリエ・エレイソン→インディゴ、オパス、クロックワーク・オランゲ、そしてスティーヴ・ハケットとの度重なるコラボで21世紀の現在も尚精力的に活動している大御所ガンダルフ…といった具合で、同じ少数精鋭の隣国スイスのシーンと比べてみても小粒な頭打ちで印象がやや薄いのは正直否めない(苦笑)。
自国のオーストリアそしてヨーロッパ近隣諸国に於いて、相応の知名度と実力、そしてその秀でた唯一無比の音楽性で現在も尚根強い支持を得ているイーラ・クレイグ。
知名度と認知度こそあれど、我が国ではどうも今一つ正当な評価が為されておらず、悪く言ってしまえば…所謂B級止まり(断っておくが私自身余りA級だB級だとかいった扱いが好きではない)の不遇な扱いのままで終始している様な気がしてならない。
何度も触れるが…そもそもイーラ・クレイグとの最初の出会いからして最悪と言わざるを得なかった。
言わずと知れた事だが、80年代にキングに倣えとばかり日本フォノグラムが手掛けたユーロ・コレクションのお粗末っぷりと言ったら、ジャケットの裏がモノクロ印刷でそのままライナーノーツになっていたという、一瞬見た目“これって廉価版!?”と疑いたくもなる様な俄かに信じ難いセールス手法で、今ならさしずめ非難轟々責任者を呼べ!とでも言いたくなる装丁で、今回のイーラ・クレイグ然り、オルメにアンジュもこれで皆泣かされたのが何とも手痛いというか口惜しい限りである。
そんなややトラウマに近い事もあってか、折角のイーラ・クレイグ日本デヴューも手抜きジャケットのお陰で肝心要の音楽も全体像も殆どが散漫で印象がボヤけてしまったのが非常に悔やまれる(零細企業の日本フォノグラムさんは、あの当時のポリドール・イタリアンロック・コレクションの精神を大なり小なり見習ってほしいものである)。
お恥かしい話だが…当時高校卒業間近な私ですらも、あんな手抜きジャケットのユーロ・コレクションをライブラリーに加えるのだけは絶対許せなかっただけに、イーラ・クレイグ始めアンジュ、オルメの手抜き国内盤を全部2週間後には売却処分してしまったという、そんな悲しい思い出ばかりが今でも記憶の奥底にヘドロの如く残っている。
イーラ・クレイグなんてたった数回針を落としただけで手放したのだから最大の痛恨でもあり、その後も彼等の名前をユーロ専門店で目にする度に、本当につくづく申し訳無いという気持ちと共に、あの当時の嫌な思い出が甦るのだから困ったものである…。
前置きがかなり長くなったが、彼等イーラ・クレイグに話が及ぶといつもあの手抜き国内盤の悲しい思い出が、まるで昨日の事の様に甦ってくるのだから本当に始末に悪い(苦笑)。
CD化時代の極最近ですらも、どこぞの訳の解らないブート紛い的レーベルから2nd「One Niter』と3rd『Hats Of Glass』の2in1形式で、ジャケットの装丁も『One Niter』の裏ジャケットのバンド写真を引き伸ばしただけというお粗末極まりない扱いだから、不遇扱いの連鎖続きに辟易しているのも事実である。
まあ…宣伝というわけでは無いが、数年前にマーキー・ベルアンティークから紙ジャケット・オリジナル仕様の完全復刻盤CDがリイシューされているから、彼等の苦労と不遇な時間も少しは報われたのではなかろうか。
イーラ・クレイグの歩みは、遡る事1970年…オーストリア中北部はドナウ川に面した地方都市リンツで産声を上げた2つのバンド…ビートルズのカヴァー・バンドMELODIAS、そしてサイケデリック・ポップスがメインのTHE JUPITERSとの出会いから幕を開ける。
地元テレビ局主催のジャムセッション番組での出会いを機に、MELODIASからHorst Waber(Ds)、Harald Zuschrader(Org,G,Flute,Sax)、THE JUPITERSのHeinz Gerstmair(G,Org,Vo)、Hubert Bognermayr(Key)、Gerhard Englisch(B)の5人が意気投合しイーラ・クレイグは結成された。
彼等も御多分に漏れずクリムゾン始めフロイド、プロコル・ハルム、果てはジェントル・ジャイアントといったブリティッシュ・プログレッシヴに触発・影響されつつ、そのサイケデリアな時代性を纏ったジャズィーにしてブルーズィー、クラシック、エレクトリックとが渾然一体となったプログレッシヴな息吹を感じさせる特異な音世界を見出していき、バンドは更なるサウンド強化の為ヴォーカリスト兼サックス奏者Wil Orthoferを迎えた6人編成へと移行する。
程無くして数ヵ月後にはオーストリア国営放送局ORFの音楽番組に出演し、オーストリア国内でも大いに賞賛され期待の新星として話題と評判を呼び、デヴュー作に向けて大いなる一歩を踏み出していった。
バンドのマネジメントも当時国内で前衛音楽家として名を馳せ博士号を持っていたアルフレッド・ペシェク氏が担当する事となり、アルフレッドの存在と助言が後々バンドにとって大きなサジェッションとなり、翌71年リリースされるバンド名を冠した幻とも言うべきデヴュー作に於いて大きな刺激と影響力を及ぼしたのは言うまでも無かった。
なお…もう一人のバンドメンバーと言っても過言では無い、イーラ・クレイグの専属サウンド・ミキシングエンジニアAlois Janetschkoも、バンド結成と同時期に行動を共にしているという事も付け加えておきたい。
ロールシャッハ試験を思わせるやや不気味な意匠の見開きジャケットのデヴュー作(当初1500枚のみのプレスだった)は、そのアヴァンギャルドな意匠のイメージと寸分違わぬサイケデリアな空気に支配された重々しい曲想で、クラシカルなオルガンにヘヴィなギターとリズム隊、時代感が色濃く反映されたフルートとサックス、ブルーズィーな佇まいのヴォーカルに、耳をつんざく様な悲鳴の効果音…等がふんだんに鏤められたカオス一色のサイケなヘヴィ・プログレッシヴが繰り広げられている。
リリース当時オーストリア国内では同年にリリースのEL&P『タルカス』以上に評価を受け、彼等イーラ・クレイグは瞬く間にカリスマ的人気を得て世に躍り出たのであった。
後々の『One Niter』以降のクラシカル・シンフォニック色とは雲泥の差を感じさせ、初めて彼等の音楽世界に触れられる方なら、この幻にして衝撃のデヴュー作は余りに的外れな感を受けるか、面食らって言葉を無くし呆然とするかのいずれかであろう。
ただ…逆に返せば、このカオスでヘヴィなデヴュー作に触れた事で個人的には彼等のサウンドの根源やらバックボーンを知り得た様な気持ちに立ち返って、怪我の功名という訳では無いが改めて彼等の音楽世界に再び足を踏み入れるきっかけに成り得たのが実に幸いだった。

衝撃のデヴューから翌1972年、バンドメンバーの間で音楽性の相違と食い違いが徐々に表面化し、結果ブルース路線に活路を見出すべくHorst Waber、Heinz Gerstmair、Wil Orthoferの3人が抜け、残されたHarald Zuschrader、Hubert Bognermayr、Gerhard Englischの3人でイーラ・クレイグを継続する事となり、時代に呼応する形で彼らもサイケ色から大幅にプログレッシヴ・シンフォニックへとシフトしていく。
同年Joe Droberを新たなドラマーに迎え、4人編成で「Irminsul/Yggdrasil」というシングルをリリースし、デヴュー作の延長線上ながらも、より以上にプログレッシヴなアプローチを押し出していく。
同年秋にはオーケストラとのジョイントで彼等の地元リンツとスイスのチューリッヒでギグをこなしつつ、次なる方向性への模索を積み重ねていく一方、同年末にHarald Zuschraderが一身上の都合でバンドから離れ、翌73年バンドはその後釜として新たにギターとキーボードを兼ねるFritz Riedelbergerとフルート奏者にHubert Schnauerを迎えた5人編成でリハーサルとギグを こなしつつ、翌74年シングル「Stories/Cheese」をリリース。
この頃ともなるとメロトロンやシンセサイザーを導入し、音的にも幅が広がり温かい親しみ易さを持った上質なポップス感を身に付けていく。
地道な演奏活動と努力の積み重ねが実を結び、国営放送ORFラジオでの音楽番組でコンスタンスなレギュラー出演への切符を手にするまでに至るが、ここで再びドラマーが交代し新たにFrank Hueberを迎え、更にはバンド活動から離れていたHarald Zuschraderが復帰し、イーラ・クレイグは再びミキシング・エンジニアを含めた7人編成の大所帯となって第二の快進撃時代を迎える事となる。
1975年大手のヴァーティゴと契約し、5年振りの新譜製作に向けて彼等は精力的に情熱を注ぎ、思いの丈を込めて新たなサウンドスタイルを身に纏ったイーラ・クレイグとして再び世に降臨した。
翌76年リリースの待望の新作2nd『One Niter』は、期待に違わぬ上々の仕上がりを感じさせる素晴らしい完成度で各方面から賞賛され、ヨーロッパ近隣諸国に於いても瞬く間に注目の的となったのは言うに及ばず。

イマジネーションとリリシズム豊かなクラシカルでシンフォニックなカラーの中にも、ジャズィーでファンキーな要素と、良質なポップスのフレーバーが加味された、夢見心地な至福のひと時を約束してくれるには余りある位に充実した内容となっている。
とりわけブラス系メロトロンと生のブラスセクションのコンバインによるオープニングのファンファーレで心を鷲掴みにされた方々が果たして何人いる事だろうか。
シンフォニックロック・オーケストレーションとひと口に言っても、決してエニドとかマンダラバンドの様なクラシカル寄りな荘厳さや趣とは異なる、しいて挙げるならキャメルやセバスチャン・ハーディーにも相通ずるメロディーラインをより以上にムーディー且つメロウでポップなシンフォニックで加味したと言えばお解り頂けるだろうか。
かく言う私自身も最初はエニドばりのシンフォニックを期待していたクチだったのだが、その結果は本文の書き出しで触れた通りの惨めな結果に終わったものの、今ならば無難に納得出来る極上のプログレッシヴ・ポップスとして聴けるのだから、人間の音楽嗜好の成長とはつくづく素晴らしいものである…。
余談ながらも、ジャケット裏面の屋外で使用機材を並べて御満悦に写る彼等の写真を眺める度に、『ウマグマ』期のフロイド…或いは日本のファー・イースト・ファミリー・バンドをモロに意識しているのが(良い意味で)痛いくらいに伝わってくる。
1977年、時代の波はパンク・ニューウェイヴやらディスコ向けの売れ線ポップスが巷を席巻しつつあった。
プログレッシヴ・ロックにとっては、まさにこの当時こそ肩身の狭い思いをひしひしと感じていた受難の時代ではなかろうか…。
彼等イーラ・クレイグも御多分に漏れず、時代の厳しい波の到来に戸惑いを覚えつつも、時流に抗うかの様に彼等なりの上質なポップさとシンフォニックなエッセンスとカラーを身に纏ったプログレッシヴを構築していった。

同77年、かつてのオリジナル・メンバーだったWil Orthoferがヴォーカリストとしてバンドに復帰し、(ミキサーを除いて)新たな7人編成という大所帯で臨んだ3rd『Hats Of Glass』は、レトロSFムービー風な意匠とは相反するかの様に、幾分リラックスした製作環境が良い具合に反映された親近感溢れる穏やかな印象のプログレッシヴ・ポップスな好作品に仕上がっている。
続く翌1978年の4th『Missa Universalis』も、時流の波を意識したかの様なジャケットではあるが、音的には前作の延長線上とも言うべき彼等ならではの“美しい透明感”が際立ったサウンドワークが成されており、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語でミサを歌い分けるという意欲的で異色な
試みが功を奏し、70年代最後の作品にしてプログレッシヴ時代最後にして有終の美を飾る傑作として今でも語り継がれている。ちなみに本作品で特筆すべきはFritz Riedelbergerの泣きのギターワークが聴きものである事も付け加えておきたい。

70年代の激動期を全力で駆け巡ってきたイーラ・クレイグであったが、80年を境に急転直下の大きな転換期が訪れた…。
オリジナルメンバーで長年苦楽を共にしてきたメロディーメーカー的役割のHubert Bognermayrが音楽的な意見の相違で脱退し、Hubertに続きドラマーのFrank Hueberが難聴の疾患で音楽活動休止を余儀なくされバンドから去る事となった。
バンドはヴォーカリストのWil Orthoferがドラマーも兼ねる形で5人編成へと移行し、長年住み慣れたヴァーティゴから心機一転アリオラに移籍し、1980年ポルノグラフィー的なアダムとイヴがジャケットに描かれた『Virgin Oiland』をリリースするも、主力的存在のHubert Bognermayrを欠いたマイナス面を補う事もままならずセールス的にも不振に終わってしまう。
キングのユーロ・コレクションでも国内盤がリリースされたが、皮肉な事に正直なところ余り話題にもならず結局未だCD化もされずに今日までに至っている。

バンドはこれを機に表立った活動から退き、プログレッシヴからは程遠い商業向けロック&ポップ路線へと活路を見出し数枚のシングルと1~2枚程度のアルバム製作だけに止まり、ライヴ活動を含めた表舞台から完全に遠ざかってしまう。
1995年11月には母国オーストリアにてリユニオン・コンサートが開催され、その模様も録音されているとの事だが、それも未だにCDリリースされていないといった暗澹たる現状である。
バンドから離脱したHubert Bognermayrに至っては、1982年にドイツの大手TELDECから自身のレーベルErdenklangを興し、当時最新鋭のデジタルキーボードの最高峰フェアライトCMIを駆使した、ニューエイジ・ミュージックの先駆けとも言うべきソロ作品『Erdenklang』(キングのユーロ・コレクションでも国内盤がリリースされている)を発表し、そのシリーズは断続的ながらも現在まで継続しているとの事。
駆け足ペースで彼等の歩みを綴ってきたが、イーラ・クレイグは現在表立った活動こそしてはいないが、かと言って正式な解散コメントも出ておらず、結局のところどっち付かずな印象は否めないのが現状と言えよう。
環境音楽=ヒーリング・ミュージック畑の第一人者となったHubert Bognermayrを別としても、個々のメンバーに至っては残念ながら現時点で足取りこそ掴めなかったものの、今でも地道に音楽活動を続けているのか、或いはカタギの仕事に就いて自身が楽しみ為の音楽活動として割り切っているのか…いずれにせよ定かでは無いが、もしFacebookという手段で今後メンバーの誰かと繋がる事が可能であるならば、その時こそ21世紀のイーラ・クレイグ新章に大いに期待を寄せたいところではあるが、それはそれで誇大妄想にも似た私の我儘なのかもしれない…。
大御所のガンダルフが一人気を吐いて孤軍奮闘しているといった感の余りにもお寒いオーストリアのシーンではあるが、嬉しい事にそんな現状を打破すべく…21世紀の今日に於いて、2008年に彗星の如くデヴューを飾ったBLANK MANUSKRIPT並び、2013年デヴューのMINDSPEAKの両バンドともその新人離れした完成度の高いシンフォニック・ワールドたるや、まさしく新世代のイーラ・クレイグとも言うべき伝統と作風を継承した期待の新進気鋭と言っても過言ではあるまい。
イーラ・クレイグが残し築き上げた大きな足跡は、今でも尚こうして新たな若い世代へとしっかり受け継がれ、紛れも無く彼等の歩みと軌跡は決して無駄では無かったのというのが何よりも嬉しい限りである…。
スポンサーサイト