幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 31-

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 3月最初の「夢幻の楽師達」は、知的でクールでジェントリーな英国カンタベリーサウンドの気概と心象風景を日本の神戸という異国の地で脈々と継承し紡ぎ奏でる唯一無比の存在にして、関東のケンソーと共にジャパニーズ・プログレッシヴジャズロックの両雄・両巨頭の片翼を担っていると言っても過言ではない、関西きってのカンタベリーマスターの称号に相応しい“アイン・ソフ”に、今再び眩い光明を当ててみたいと思います。

AIN SOPH
(JAPAN 1977~)
  
  山本要三:G
  鳥垣正裕:B
  名取 寛:Ds, Per
  服部眞誠:Key

 60年代末期、日本国内を席巻した世にいうGSブームが終焉を迎え、米英からのサイケデリック・ムーヴメント、アートロック台頭の余波で、有名無名問わず幾数多ものGSバンドが足並み揃えてサウンドスタイルの変化と転身を余儀無くされ、(プログレッシヴ・ロックのフィールド限定で恐縮ながらも)1970年フロイドの“牛”のジャケットが旗印の如くプログレッシヴ・ロック元年と歩調を合わせ、ワンオフながらもエイプリル・フール始めフード・ブレイン、ピッグ、ラヴ・リヴ・ライフ+1が世に輩出され、以降ブリティッシュ・オルガンロックないしEL&P人気に触発されたストロベリー・パス→フライド・エッグ、日本人なりのスペースロックへの見事な解釈・回答ともいえるファー・ラウト→ファー・イースト・ファミリー・バンド、70年代中期~後期にかけてはコスモス・ファクトリー、四人囃子、新月、ムーンダンサー、スペース・サーカスが果敢に時代に挑み、インディーズ・フィールドからも観世音、グリーンといった逸材も忘れてはなるまい。
 時代は1980年…かのたかみひろし氏の鶴の一声で、大手キングレコードにて発足された日本から海外へと視野を広げた初の洋楽セクションの新興レーベル“NEXUS(ネクサス)”は、日本のプログレッシヴ・ロック史に於けるルネッサンスでもあり新たなる時代到来を告げるに相応しいセカンドインパクトとなったのは言うには及ぶまい。
 音楽産業のメインストリームともいえる東京とはまた違った形で、独自のミュージックシーンを形成していた関西圏のロックグループ達…後にノヴェラへと発展し今日までに至るジャパニーズ・プログレッシヴのスタイルと礎を築いたシェラザード始め、今回本篇の主人公でもあるアイン・ソフの前身でもあった天地創造、そしてカリスマ、ラウンドハウス、だててんりゅう、フロマージュ、夢幻といった80~90年代にかけて一気に花開いた百花繚乱なる逸材が犇めき合い、キング/ネクサスにとってはまさしく金の卵の宝庫にも似た願ったり叶ったりなお膳立てと好条件が揃ったと言わざるを得ない、そんな日本のプログレッシヴの将来を占う上でキング/ネクサスのスタッフは寝ても覚めても孤軍奮闘の日々を送っていた事であろうと想像してしまう。

 悪い癖の如く前置きがついつい長くなってしまったが、本篇の主人公でもあるアイン・ソフに話を戻したいと思う。
 遡る事1971年、バンドで唯一のオリジナルメンバーでもあるギタリスト山本要三を中心に神戸で結成された前身バンドの天地創造で、当初は山本のギターとリズム隊によるトリオ編成のハードロックでスタートし、その後はヴォーカリストを加えた4人編成へと移行(かのシェラザード=ノヴェラのアンジーこと五十嵐久勝も一時的ながらも参加していたのは有名な話)。
 その後度重なるメンバーチェンジを重ね、ヴォーカリストに笠原和彦、山本と共に大学時代から天地創造のサウンド面を支えた名キーボーダー藤川喜久男、1stデヴューにて名を連ねたベーシストの鳥垣正裕とドラマーの名取寛の充実した5人編成で、キャラヴァンやブリティッシュカンタベリー系に影響を受けたプログレッシヴ・ジャズロック寄りへと変遷を遂げた次第であるが、1976年暮れヴォーカリストの笠原の脱退を機に、完全にヴォーカルレスのインストゥルメンタルオンリーのサウンドスタイルとして確立させ、キャメル、ソフト・マシーン、ハットフィールド&ザ・ノース、エッグといったブリティッシュ・ジャズロック系を嗜好する唯一無比のサウンドは、当時の関西圏のシーンでもカリスマ、だててんりゅうと並ぶ異色の存在として認知され、まだクロスオーヴァーやらフュージョンといったジャンルネームが登場する以前のこと周囲から“ロックなんか?ジャズなんか?ようわからん”といった具合に奇異の眼差しで見られ、当時関西のロックフェスや音楽イヴェントの出演に於いても彼等のサウンドに首や頭を傾げる聴衆が多く、バンドメンバーサイドもなかなか自らの音楽像の理解が得られず大なり小なりの苦労を味わったそうな(苦笑)。
 それでも彼等は臆する事無く、ツインキーボードスタイルになったりサックス奏者を加えたりと試行錯誤を繰り返し、精力的なライヴ活動に勤しむ一方で一念発起とばかり東京のたかみひろし氏に自らのデモテープを送り、彼等の飽くなき音楽探求心とプログレッシヴへの求道にいたく感激したたかみ氏と意気投合したメンバーは、たかみ氏の助言とアイディアで1977年にバンド名をアイン・ソフ(“最高のものを求める人々”という意)へと改名。
 翌78年、カリスマから発展したエレクトリック・ユニットDADA(ダダ)と共にジョイントライヴを敢行し、たかみ氏の力添えで東京公演にも進出するも、長きに亘るライヴ活動による心身の疲弊でドラマーの名取が倒れ、更にはバンドの要でもあった藤川が一身上の都合でバンドを離れる事となり、アイン・ソフは暫し活動停止を余儀なくされる。
 2年間の活動停止(活動休止)を経て、迎えた1980年春…キングのネクサス発足と時同じくして漸くアイン・ソフも活動再開させる運びとなり、名取の復帰に加えて、抜けた藤川の後任として関西圏でのライヴで顔馴染みだっただるま食堂並び増田俊郎&セプテンバーブルーでキーボードを務めた服部眞誠(ませい)が加入し、アイン・ソフは漸く満を持してネクサスより待望のデヴューアルバムに向けレコーディングに臨む為のリハーサルを開始する事となる。
 …が、デヴュー作に辿り着くまでの産みの苦しみとはよく言ったもので、製作期間中のレコーディング・スタジオといったら、不安と緊迫、前途多難と一触即発、紆余曲折とメンバー間の軋轢といった日々の繰り返しが続き、力の入り過ぎで熱くなってエキサイトしてしまいスタジオからメンバーが出て行く事なんて日常茶飯事、喧嘩寸前の掴み合いなんて事もあったが故に、ディレクターを兼任するたかみ氏でさえもメンバーを落ち着かせなだめながらも、レコーディングとは異なった意味で精神面での疲弊が続いていたとの事。
 新たなメンバーとなった服部自身に限った話、音楽性の差異・違和感に加えて年齢的にも山本や鳥垣よりも若かった分自己主張が強いというか幾分(若さ故の)尖っていた性分が災いし、加入してまだ間もない服部にとってはバンドの和(輪)に馴染めなかった、所謂コミュニケーション不足を解消するにはまだまだ時間が足りなかったのかもしれない…。
 そんな一歩間違えればデヴュー完成前にバンド崩壊をも招かれかねないといった人間関係含めた危ういバランスとピリピリとした張り詰めた空気の中、彼等はただひたすら真摯に自問自答を繰り返しながらややもすれば突貫作業にも似た録音作業に臨み、1980年6月5日難産の末に待望のデヴューアルバム『A Story Of Mysterious Forest(妖精の森)』をリリースする。
          
 そのあまりに日本人離れした超絶で卓越した演奏技量に、アルバムタイトルでもある組曲形式の大作「妖精の森」の圧倒的な世界観に、数多くもの洋楽プログレッシヴ一辺倒だったファンやリスナーは言葉を失い驚愕したのは言うに及ぶまい。
 無論ごく一部からは「単なる洋物プログレッシヴの真似事」なんぞと揶揄され陰口を叩かれた事が多々あったものの、「これってキャメルの新作!?」と驚いた輩もいた位で、ミステリアスで幻想的な意匠の効果と相まって、先陣切ってデヴューを飾ったノヴェラの『魅惑劇』と並んでアイン・ソフのデヴュー作も予想を遥かに上回る大成功を収める事が出来、こうしてキング/ネクサスの果敢なる飽くなき挑戦は商業第一主義の日本の音楽業界に一石を投じ勝利を手中に収めた次第である。
            
 だがデヴューアルバムの成功とは裏腹に、音楽性の相違を含めメンバーとの溝を埋める事が出来なかった服部は結局バンドを去る事となり、幸先の良いスタートを切ったと同時にアイン・ソフは不運にも予期せぬ活動休止に陥ってしまう。
 余談ながらもアイン・ソフのデヴューのみならず、これは不思議な連鎖とでもいうのだろうか…過去に於いてもジェネシスの『眩惑のブロードウェイ』、イエス『海洋地形学の物語』、果てはフロイド『ザ・ウォール』といったプログレッシヴ・ロック史上に残る素晴らしい作品が、実はレコーディングの過程上メンバー間の反目、軋轢、衝突の末、世に送り出されているというのだから業界不変のあるある話とはいえ何とも実に皮肉な限りである。

 アイン・ソフと袂を分かち合った服部はその後御周知の通り、ウェザー・リポートを始めとするアメリカン指向のジャズ・ロック(クロスオーヴァー)を目指した99.99(フォーナイン)を結成。
 残されたメンバーの内、ドラマーの名取までもがバンドを離れ、実質上アイン・ソフは「素晴らしいデヴューアルバムをリリースした」という肩書きのまま開店休業の状態で長きに亘り暫し沈黙を守り続ける事となる。
 時代は流れキング/ネクサスの功績の甲斐あって、その波に乗じてマーキーのベル・アンティークを始めメイド・イン・ジャパンといったプログレッシヴ・ロック専門のインディーズレーベルが一気に活性化し、フロマージュ、ネガスフィア、夢幻、アウター・リミッツ、ページェントが世に躍り出た時同じくして、その余波を受けキング/ネクサスが企画したジャパニーズ・プログレッシヴコレクションを機にスターレス、ケネディ、ブラック・ペイジ…等が雨後の筍の如くデヴューを飾る事となり、そのコレクションのラインナップの中に6年振りの新譜2ndを引っ提げて再びシーンに返り咲いたアイン・ソフの名前にファンの誰しもが一様に驚いたのは言うまでもあるまい。
 下手すれば『妖精の森』たった一枚のみ遺してシーンの表舞台から姿を消したと思われていたが故に、ジャパニーズ・プログレッシヴ隆盛期と見事にリンクしたとはいえ、まさに青天の霹靂とも言える見事な復活劇にファンや周囲は驚愕と拍手喝采を贈らんばかりであった。
 何よりも長年バンドと苦楽を共にしてきたキーボーダー藤川喜久男の復帰にファンは歓喜の涙を流した事であろう…。
 ドラマー名取の後任として、兄弟的存在のプログレッシヴ・バンドだったベラフォンの名ドラマーとして関西圏では早くから注目されていたタイキこと富家大器の加入はアイン・ソフにとって心強い存在となったのも特筆すべきであろう(ベラフォンが唯一遺したアルバムには鳥垣がベースで参加しているのも縁である)。
    
 6年振りの新作2nd『Hat And Field(帽子と野原)』は、まさに読んで字の如し彼等が敬愛して止まないハットフィールド&ザ・ノースへのオマージュとリスペクト(パロディーな要素も含めて)が精一杯込められた渾身の力作にして会心の一枚となり、改めて天地創造時代の頃の原点回帰に立ち返ったかの様なカンタベリーサウンドは前作の『妖精の森』とはまた違った意味合いで、幾分リラックスした環境と雰囲気の中、漸く本来のアイン・ソフらしいサウンドカラーを打ち出せた文字通り面目躍如ともいえる傑作へと昇華した。 
 その後は山本を筆頭に鳥垣、藤川、富家という不動の4人のラインナップで地道で牛歩的ながらもマイペースでライヴと創作活動を継続し、5年後の1991年にはメイド・イン・ジャパンより天地創造時代の楽曲を再構築したアンソロジー的な趣の3rd『Marine Menagerie(海の底の動物園)』、前後してマーキー/ベル・アンティークからは同じく天地創造時代の録音で発掘音源ながらも初のライヴ・マテリアルとなる『Ride On Camel(駱駝に乗って)』、そして翌92年当初はキングからリリース予定だったものの諸事情が重なって結局メイド・イン・ジャパンからリリースとなった4th『5 Or 9 / Five Evolved From Nine(五つの方針と九つの展開)』がリリースされ、コンスタンスなペース維持と順風満帆な軌道の波に乗って、このまま上り調子で行くものであると誰もが予想していた…。
          
 1995年の春にマーキー/ベル・アンティークからリリースされる筈であった、まだタイトル未定の5thアルバムのインフォメーションが伝えられ、少年少女の2人の妖精が描かれたジャケットアートも決定し否応無しに期待が高まる中、あの未曾有の大災害が全てをなし崩しにしてしまった…。

          1995年1月17日 阪神・淡路大震災発生。

 あの当時の事は本文を綴っている私自身でさえも二度と思い出したく無い位、20世紀末最大にして最悪な自然災害でもあり、高速道並びJR線、阪急線三宮駅周辺の倒壊、ことごとく崩壊し焼け野原となった神戸の街並みとビル群、多くの尊い人命が失われてしまった悲劇と悲惨な光景はテレビ画面を通じて未だに鮮明に自身の目と脳裏に焼き付いて離れないのが正直なところでもある。
 そんな災禍の中、彼等の録音・リハーサルスタジオとて滅茶苦茶になったのを想像しただけでも言葉が出なくなってしまうのはいた仕方あるまい…。
 アイン・ソフのみならず同じ地元のクェーサーも甚大な被害に見舞われ、あの震災発生から数日経っても空虚な心の痛みと傷は癒える事無く、数多くの神戸のロック・バンドが音楽どころではない位に活動休止状態へと追い込まれ、先の見えない不安感だけが重く圧し掛かるばかりであったのは言うに及ぶまい。
 しかしそれでも一年また一年経過していく毎に、アイン・ソフを含めた多くの神戸のロック・バンド達が災害に屈する事無く立ち上がり、復興と復活の為に前を向いて再び歩き始め“がんばろう神戸!”を合言葉に息を吹き返し、哀悼の祈りを込めて各々が謳い奏で始めたのである。
 アイン・ソフも5thアルバムのマテリアルが立ち消えて白紙にこそ戻ったものの、彼等4人は生き長らえた生命をそのまま音楽への情熱に置き換えて20世紀…そして21世紀へと駆け巡り、今日に至るまで不定期ながらも国内外数多くものプログレッシヴ・フェス並びライヴに出演し未だその健在ぶりを強く大きくアピールしている(2004年には吉祥寺にてかの憧れ的存在リチャード・シンクレアとの共演をも果たしている)。
           
 彼等のリリースした数多くもの作品がCDリイシューないしリニューアル化され、更には未発のライヴマテリアルまでもがリマスタリング紙ジャケットCD化されるといった、もはや何時でも復活・復帰に向けてのお膳立てが整いつつあるさ中、迎えた2018年12月…アイン・ソフを長年支え続けてきたたかみ氏始め多くのファンと支援者、キング/ネクサスを含めた周囲のスタッフとクルー共々、皆一丸となって力を合わせて世に送り出した待望の新譜『Seven Colours』こそ、名実共に期待を一身に背負って世に問うであろう…まさしく「お帰り!アイン・ソフ…待ってたよ」の賛辞と合言葉に相応しい、満を持しての最高傑作となったのは言うに及ぶまい。
    
 最新作を引っ提げて21世紀プログレッシヴシーンへの復活凱旋を果たした彼等が、この先如何なる展開を見せ化学反応を起こし、日本のみならず世界中のプログレッシヴと向かい合い活性化させていくのだろうか…と、下世話ながらも期待と痛快感の入り混じった不思議な余韻とでもいうか威風堂々たる彼等の気概と姿勢に心の奥底が熱くなってしまう今日この頃ですらある。
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Zen

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