幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 36-

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 今週の「夢幻の楽師達」を飾るは、長年の実績を誇る大ベテランにして年輪を積み重ねた今もなお現役としての第一線と貫禄を保持しつつ精力的に活動し気を吐いているオーストラリアの巨星“セバスチャン・ハーディー”に、改めて栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。


SEBASTIAN HARDIE
(AUSTRALIA 1975~)
  
  Mario Millo:G, Vo
  Peter Plavsic:B
  Alex Plavsic:Ds, Per
  Toivo Pilt:Key

 この場でも何度か言及している通り、1973年に端を発したオイルショックはイギリス、イタリアを始めとする世界各国の音楽業界・レコード会社にも大なり小なりの余波と悪影響を与え、所属バンドの契約打ち切りやら見直し…規模の縮小、製作費等の削減(70年代半ば~後半にかけて見開きジャケットが少なくなり、シングルジャケットが台頭しつつあった事も考慮すれば頷ける)で、御多分に漏れず70年代を席巻したプログレッシヴ・ムーヴメントにも暗い影を落とし陰りの兆候すら囁かれる様になったのは言うまでもあるまい。
 そんな当時の世相と不安感をも孕んだ1975年、ささやかながらもフランス出身のタイ・フォンのシングル盤“シスター・ジェーン”が巷で評判を呼び、スウェーデンのカイパ、オランダのフィンチ、そしてアルゼンチンのクルーチスといった…所謂演奏主体の様式美へとシフトしつつあった次世代プロ
グレッシヴが輩出され、そんな時代の追い風を受け南半球はオーストラリアからもセバスチャン・ハーディーが彗星の如く鮮烈で華々しいデヴューを飾ったのも丁度この頃だった…。

 彼等のバイオグラフィーに関しては、御大の伊藤政則氏を始めとするプログレ関係の権威あるライターの方々からも多方面にて詳細等が綴られているので、ここではあらまし程度で恐縮ながらも極簡単に触れておきたいと思う。
 60年代末期のイギリスを席巻していたブリティッシュ・ブルースロックに触発されたシドニー生まれの2人の若者…現在に至るまでセバスチャン・ハーディーのオリジナルメンバーとなるベーシストのPeter Plavsicと初代ギタリストのGraham Fordが中心となって1967年に結成したセバスチャン・ハーディー・ブルース・バンドが全ての始まりである。
 当時はまだ一介の学生バンドの域でしかなく、大学のパーティー会場が演奏の場であった事に加えて音楽嗜好と方向性の違いから、バンドとしてのキャリアは僅か一年足らずで空中分解という憂き目を見る事となる。
 それでも決してめげる事無くPeterとGrahamの両名は、新たな気持ちで翌68年にバンドを再結成しセバスチャン・ハーディーと短く改名。
 Peterの弟Alexをドラマーに迎え、更にはPeterのハイスクール時代の級友で当時既にセミプロ的な活動を行っていたJohn English(Vo)、大学の学友だったAnatole Kononewsky(Key)を迎えた5人編成で、シドニーを拠点にクラブやパブでオーティス・レディング始め、ストーンズ、ビートルズといったカヴァー曲の演奏といった地道な活動を積み重ね、後々に於いてオーストラリアの有名アーティストのバック・バンドを務めるまでに成長していった。
 しかし程無くして翌69年にはKononewskyが学業に専念する為バンドを去り、暫くはキーボード不在の4人編成で活動を継続するも、今度はヴォーカルのJohn Englishが当時話題になっていたロック・ミュージカル“ジーザス・クライスト・スーパースター”のオーストラリア版公演で主役オーディションに合格し舞台の世界へと転向してしまった事がきっかけで、1972年セバスチャン・ハーディーは再び活動停止に陥ってしまう。
 活動停止から暫くしてドラマーのAlexが同じくシドニーのバンドだったタペストリーに加入し、そこで出会ったキーボード奏者のSteve Dunneと意気投合し、タペストリーの解散と同時に再び兄のPeter、そしてGrahamを呼び寄せ、セバスチャン・ハーディーは1973年3度目の再結成を果たす事となる。
 この頃ともなるとカヴァー曲に加えて、時代の追い風を受けイエスやEL&Pに触発されて書き溜めたプログレッシヴなオリジナル・ナンバーを演奏する様になっていった。
 しかし73年秋に長年苦楽を共にしてきたGraham Fordが音楽的な意見の食い違いと心身の疲労が重なり脱退…。後任ギタリストは人伝を頼りにシドニー在住のイタリア人Mario Milloが抜擢され、彼こそセバスチャン・ハーディーの後の運命と音楽的方向性をも決定付ける最大のキーマンとなっていくのは言うまでも無かった。
 Marioを迎えたセバスチャン・ハーディーはこれを機に更なる音楽的発展を遂げ、地元シドニーのみならずメルボルン始めオーストラリアの各都市のクラブやロック・フェスでも評判と絶賛を浴び、73年末には待望のシングルデヴューを果たす事となる。
 翌74年、キーボード奏者のSteve Dunneが脱退し、後任としてマリオに次いでバンドの方向性を大きく決定付けたToivo Piltが加入、ここにセバスチャン・ハーディー黄金のラインナップが揃う事となった。
           
 不動の黄金ラインナップで同74年2枚のシングルをリリースし、彼等の人気は益々確固たるものとなりその自信の表れは遂に70年代プログレッシヴ史に残る名作にして名盤の『Four Moments』へと結実していく事となる。
 かつての初期セバスチャンのメンバーにして盟友だったJon English(彼自身、ミュージカルで名実共に成功を収めた後、数々のミュージカル作品で舞台に立つ一方、ソロアーティスト、音楽プロデューサーそして映画音楽の分野でも成功を収め、現在でもMario Milloのソロ関連にて大きく携わっ
ている)をプロデューサーに迎え、連名で製作に臨んだ屈指の名作『Four Moments』は、オーストラリアという異国情緒・エキゾチックさと相まって、黄昏時の抒情性を描いたかの様なジャケットの意匠…そして何よりも(我が国の)プログレッシヴ・ファンへの購買意欲を駆り立てる「哀愁の南十字星」という邦題タイトルが、彼等の音楽性と世界観をも雄弁に物語っており、ジャケットの意匠を含め期待に違わぬその抒情的なシンフォニーと程良いポップス・フィーリングとの見事なまでのコンバインは、世界中のプログレッシヴ・ファンの心をも鷲掴みにし、オーストラリアにセバスチャン・ハーディー在り!!と言わしめんばかり、その名を不動のものとするには十分過ぎるインパクトを伴っていたと言っても過言ではあるまい。
           
 オーストラリアの広大で且つ雄大な大自然を彷彿とさせるメロトロンの荘厳な響きに、Marioの甘美で流麗なギターワーク、そしてPlavsic兄弟の強固なリズム隊が奏でる眩惑の音宇宙に、イエスの『海洋地形学の物語』、キャメルの『ムーン・マッドネス』、果てはサンタナの『キャラヴァン・サライ』に相通ずる悠久の時の流れと流星群にも似た星々の乱舞を想起させる事だろう。
 ブリティッシュ・プログレからの洗礼を受けヨーロッパ的な旋律と様式美を纏いながらも、(失礼ながら…)極端なまでの理屈っぽさや堅苦しさが感じられず、初期のカンサスと同様の知性を秘めながらも突き抜けたかの様な開放感を持った自然体な作風とスタイルこそが彼等の身上(信条)と言えないだろうか…。
          
 鮮烈のデヴュー作が世界各国で大いなる賞賛をもたらし、オーストラリア国内でも数々の賞を獲得した事で、彼等自身も順風満帆な気運に乗ってこれからの明るい未来と成功が約束されたかの様に思われたが、時代は最早プログレッシヴから売れ線偏重の産業ロックないしパンク/ニューウェイヴとい
った時流の波に乗った軽薄短小な主流へと移行しつつあり、どんなに素晴らしい音楽であろうとも決して売れるとは限らない…そんなプログレッシヴ・ロックにとっては受難にも等しい哀しい時代が訪れつつあったさ中、翌76年にリリースされた待望の2作目『Windchase』は、セバスチャン・ハーディーらしさが少しも損なわれていない、前デヴュー作と同様の素晴らしいシンフォニー大作が奏でられ、オーディエンスからの評判も上々だったにも拘らずその予想とは裏腹なセールス不振に加えてレコード会社やラジオ局側がプロモートに消極的だった事が拍車をかけ、栄光の階段から転げ落ちるという表現にしては余りにも惨々たる結果に終わり、バンド自体も音楽的意見の食い違いと肝心要な経済状態の悪化で心身ともにすっかり疲弊してしまい、セバスチャン・ハーディーは人知れず分裂→解散への道へと辿って行ってしまったのであった…。
 実質上はMarioとToivo、そしてPlavsic兄弟との二派に分裂してしまったと見る向きが正しいのかもしれないが。
    

 バンド分裂後、MarioとToivoの両名はセバスチャン解散という憂き目に臆する事無く、失地回復を目論み名誉挽回にとばかり、翌77年にセバスチャン2作目のアルバムタイトルをそのまま冠した“WINDCHASE”というバンド名義でストリングス・セクションとの共演による『Symphinity』という唯一作にして好作品をリリースし、そのSFチックなジャケットの意匠とは相反するかの様なセバスチャン時代の路線を踏襲した極上のシンフォニック大作で話題を集めるもセールス的な成功とは程遠く、結果…バンド解体後MarioそしてToivoもそれぞれ独自の創作路線へと歩んで行った次第である。
    

 その後のMarioにあっては既に皆さん御承知の通り、オーストラリア国内のテレビドラマや映画音楽で成功を収めつつ、WINDCHASE解散直後に発表された『Epic Ⅲ』を始め『Human Games』といった素晴らしいソロ作品も立て続けに成功し、オーストラリア国内でも指折りの音楽家として数えられるようになり現在にまで至っている。
  
 ToivoもMarioと親交を保ちつつ、テレビCM関連、ドキュメンタリー音楽、環境音楽等の製作で現在でも尚精力的に活動し、2007年にはToivo自身が主導となってTRAMTRACKSなるバンドを結成し『See』を始め、2008年『Rain』、2010年『You』をリリースしている。
 片や一方のPlavsic兄弟の方はと言うと、兄のPeterはRCA→ポリグラムのA&Rマンも兼ねて音楽活動を継続し、弟のAlexはワーナー/チャペルの音楽出版関連を経て、レコードショップとレストランの経営で成功を収めて安泰といったところである。

 このまま各人がバラバラのまま平穏な時間が過ぎていくものと誰もが思っていたその矢先、4人にとって…否!セバスチャン・ハーディーにとっても急転直下の大いなる転機が訪れようとは誰しもが夢にも思わなかったであろう。
 セバスチャン解体から18年を経過した1994年。アメリカはロサンゼルスで開催されたPROG‐FESTに特別枠として招聘されたMario、Toivo、そしてPlavsic兄弟が再びセバスチャン・ハーディーとして顔を合わせ、あのかつての黄金のラインナップのまま…あたかも魔法の時間が訪れたかの如く、大勢の聴衆の前で“Four Moments”を奏でる様に、全ての聴衆・観客が息を飲み歓喜と感動、熱狂で包まれたのは最早言うに及ぶまい。
 演奏のミスやらPAの不調といったマイナス面こそ否めないが、この伝説的な模様は『Live In LA』というタイトルでCD化が成され、文字通りこれを機にセバスチャン・ハーディーは復活の狼煙を上げたと言っても差し支えあるまい。
           
 そしてあの伝説的な復活劇から18年間(その間、マリオの新譜ソロのプロモート活動を兼ねて、セバスチャン・ハーディー名義として2003年初来日公演をも果たしているが)、彼等は再び沈黙を守り続け各々の仕事に携わる一方で、密かにマリオのスタジオで新作の録音に没頭し、2011年その長きに亘る製作期間を費やして…まあ、文字通りの満を持してリリースされた実に37年振りのスタジオ収録作品となった新譜『Blueprint』こそが、まさしく21世紀版セバスチャン・ハーディーとして結実した時代と世紀を超えた素晴らしい贈り物となった事に、無上の喜びを感じてならない。
 私自身恥ずかしながらも…彼等の熱い思いの丈が込められた新譜リリース当時、暫し目頭が熱くなってしまった事を昨日の事の様に今でも記憶している。
(余談ながらも…本作品の収録曲と内容は同じながらも、装丁の方はオーストラリア盤と国内リリース盤とではセバスチャン・ハーディーのシンボルマークの有る無しで若干違う事を付け加えておきたい)。
    

 昔の某青春ドラマの台詞の一節ではないが…まさしく“信は力なり!”の言葉通り、Marioを始めToivo、Plavsic兄弟、そして彼等の創る音楽を愛し信じていた世界各国の大勢のファンの気持ちが一つとなった結晶そのものであると、今こそ声高々に謳いたい気持ちである。
 彼等セバスチャン・ハーディーの長い軌跡は決して無駄では無かった。
 2012年の『Blueprint』から実に9年が経過し、そろそろ新譜リリースのアナウンスメントが待ち遠しいところではあるが、ここはただひたすらに“信は力なり!”の言葉を信じて我々も気長に待つ事としようではないか…。
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Zen

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