幻想神秘音楽館

プログレッシヴ&ユーロ・ロックという名の夢幻の迷宮世界へようこそ…。暫し時を忘れ現実世界から離れて幻想と抒情の響宴をお楽しみ下さい。

夢幻の楽師達 -Chapter 05-

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 猛酷暑だった8月もいよいよ最終週に入りました…。
 最終週でもある今週の「夢幻の楽師達」は、今もなおブリティッシュ・プログレッシヴ史に於ける70年代アンダーグラウンドの巨匠にして生ける伝説と言っても過言では無い、大英帝国の仄かな香りとリリシズムを湛えた名門ヴァーティゴレーベルの顔でもあり一つの象徴でもあった“クレシダ”に、今再び眩いスポットライトを当ててみたいと思います。

GRESSIDA
(U.K 1968~)
  
  Angus Cullen:Vo, G
  John Heyworth:G
  Kevin McCarthy:B
  Iain Clark:Ds
  Peter Jennings:Key

 遡る事…そう、もう30年前の20代の時分であろうか。
 初々しくも熱かった青二才の頃の事、仕事の合間を縫っては当時プログレッシヴ・ロック専門誌として隆盛を誇っていたマーキー誌にちょくちょく執筆投稿し、休暇を利用しては足繁く豊島区南長崎や目白のマーキー編集部に出入りしていた、もうそれこそプログレッシヴ・ロック業界に片足を突っ込んだばかりの、血気盛んで右も左も分からないただひたすら若さと情熱に任せつつ生意気にも一端のプログレ・ライター気取りだった頃の事だ。
 上京してはマーキー誌編集部に顔を出す一方で、新宿のディスクユニオン始め新宿レコード、UKエジソン、キニー、世田谷のモダーン・ミュージック、目白のユーファ、果ては恵比寿のパテ書房にも足を運んでいた位、都内の観光名所や有名処なんて目もくれず足が棒になる位にプログレッシヴ中古・廃盤専門店に東奔西走していた若かりし青春の一頁、時折“嗚呼、そういえばこんな事もあったなぁ…”と懐古する事もしばしばである(苦笑)。
 まあ…昔を思い出すという事自体、その分歳を取ってしまったという事なんだろうか。
 前出の都内のプログレ中古廃盤専門店に当時足繁く通ってはいたものの、若い時分の自身にとっては…高額プレミアムで万単位な通称壁掛け廃盤レコードの陳列を眺める度に、なかなか手が出せずもどかしい思いを募らせては溜め息まじりにじっと佇むしか術が無かったのは言うには及ぶまい。
 高値の花でもあったイタリアン・ロックの傑作群、ジャーマン、フレンチ…等と並んで、70年代初頭のブリティッシュ・アンダーグラウンドに於いて神々しいまでの輝きを放っていた…今回本篇の主人公でもあるクレシダを始め、グレイシャス、スプリング、インディアン・サマー、アフィニティー、T2、チューダー・ロッジ、スパイロジャイラ、ビッグ・スリープ、サーカス(Kスペルの方の)、セカンド・ハンド、DR.Z…etc、etcの垂涎の的でもあった傑作・名作アルバムに、喉から手が出る位に欲しいと思ったのは決して私だけではあるまい。
 50年代の三種の神器という訳ではないが、先に挙げたブリティッシュ・アンダーグラウンドから仮にもしもシンフォニックな3大名作を挙げるとなれば(個々によって差異はあるかもしれないが)、かのヴァーティゴレーベルの2大名作でもあるクレシダ『Asylum』とグレイシャス『 ! 』、そしてネオンレーベルのスプリングの唯一作ではなかろうか。
 前置きが長くなったが…たった僅か3年弱の短命な活動期間に於いて、自らの信念で紡いだプログレッシヴな精神と美意識で2枚の傑出した名作アルバムを世に遺した今回の主人公クレシダ。
 ひと昔前とは大幅に違い、21世紀の今やSNSを始めとするネットワーク情報時代である昨今…幻だったと言うべきなのかその謎のベールに包まれていた彼等の出自やらバイオグラフィーも、各方面から手に取る様に解明されている今日この頃である。
         
 ランカシャー地方を拠点に活動していたThe DominatorsなるバンドのギタリストだったJohn HeyworthとヴォーカリストのAngus Cullenが一念発起でロンドンに活動の場を移し、程無くして共通の仲間内の伝で、Kevin McCarthy、Iain Clarke、そしてLol Cokerを迎え、1968年12月クレシダの物語はこうして幕を開ける事となる。
 ちなみにバンドのネーミングについては諸説あるが、一番有力なところでトロイ戦争を題材にしたシェイクスピアの戯曲に登場するヒロイン名からインスパイアされたというのが大方の見解である。
 AngusのアパートメントにてJohnとの共同生活を経てロンドンそして近辺でのクラブにて地道で精力的なギグを積み重ね、曲の構想やらアイディアを熟考し書き溜めつつ、小規模ながらもドイツやスイスにて遠征公演をこなして徐々にその知名度を上げ、イギリスに戻ると同時にマーキークラブの常連バンドへと上り詰めていくが、翌1969年音楽的な方向性の違いでキーボーダーがLol CokerからPeter Jenningsに交代。
 時同じくしてイギリス・フォノグラム傘下だったヴァーティゴレーベルの目に留まった彼等は、ヴァーティゴサイドが指し示す音楽の方向性とヴィジョンに賛同・共鳴し正式に契約を交わす事となる。
     

 ヴァーティゴとの契約から程無くしてスタジオ入りした彼等は、デヴューアルバムに先駆ける形で数曲のデモトラックをレコーディングするものの、結局デモ音源は陽の目を見る事無く所謂お蔵入りする形となり(後述するが2012年に『Trapped In Time:The Lost Tapes』という未発アーカイヴマテリアルとしてCD化されている)、紆余曲折と試行錯誤の末1970年漸く自らのバンドネーミングを冠したデヴューアルバムをリリースする。
 サイケデリック・ムーヴメントが席巻していた当時に於いて、彼等とて幾分サイケデリアからの洗礼を感じさせるものの、ツェッペリンやサバスの様なヘヴィ路線はおろか初期フロイドのスペイシーサウンドな路線とは無縁な、本デヴュー作の占めている方向性たるや極めてジェントリーでシンプルな正統派ブリティッシュ・アートロック&ポップスなカラーと方向性こそが彼等の身上と言っても過言ではあるまい。

 ロック、ジャズ、クラシックといった音楽的素養が三位一体となった…所謂後々まで語られるヴァーティゴ・オルガンロックサウンドが明確に位置付けられる決定打となり、同年同じくヴァーティゴからデヴューを飾ったアフィニティーと並んで、70年代ブリティッシュ・アンダーグラウンドの片翼を担う主流のサウンドとして語り継がれていく意味合いすらも感じずにはいられない。
 ジャケットデザインこそ急ごしらえとでもいうかやっつけ仕事の様な地味でお粗末感丸出しなマイナス面は否めないものの、決して派手ではないが抑揚感を伴い緩急自在に繰り広げられる彼等の巧みな演奏技量に加えて、ハートウォームなポップスフィーリングとジャズィーなエッセンスが加味されたプログレッシヴなサウンドワークを耳にする度に、彼等の作品が今世紀に至るまで永く愛され根強く支持されてきたというのも頷けよう。
 Angus Cullenの優しくも憂いを帯びたヴォーカルも然る事ながら、非の打ちどころが無いギターにリズムセクション、何よりもオルガンからクラヴィネット、メロトロンを駆使してクレシダ唯一無比なるサウンドを織り成しているPeter Jenningsの手腕とスキルには頭の下がる思いですらある。
                 
 めでたくデヴューを飾り…さあ!いよいよこれからという矢先に起こったオリジナル・ギタリストのJohn Heyworthの脱退(ツアーでの精神的疲弊と人間関係での悩みがあったそうな)は、寝耳に水の如くまさにバンドにとって出鼻を挫かれた形で大きな痛手となったのは言うまでもあるまい。
 それでも彼等は臆する事無く以前にも増して創作意欲を高めつつ、オーディションから新たなギタリストJohn Culleyを迎え、ゲストにブリティッシュ・ジャズ界名うてのフルート奏者Harold McNair、アコギ奏者にPaul Laytonをゲストに、メロトロンの使用を止めてバックにオーケストラを配し、かのブリティッシュ・プログレッシヴ屈指の名作と名高い最高傑作『Asylum』の製作に着手する。
          
 前デヴュー作での経験を踏まえて、より以上にプログレッシヴな精神で臨み、戦争による歴史の悲劇と愚かさを題材にしたトータルアルバム形式の大作でもあり、キーフが手掛けた石膏像の首人形(美容室に於いてあるウィッグ用マネキンヘッドにも似ている)が林立している…あたかも涅槃の様な終着の浜辺(彼岸)をも彷彿とさせる何とも不気味で且つ不思議で印象的なアートワークが作品の世界観を雄弁に物語っており、まさしくクレシダが描かんとしているリリシズムとドラマティックとのせめぎ合いに、聴き手も知らず知らずの内に惹き込まれていく事必至といえよう。
 なるほど、イタリアの最高峰クエラ・ベッキア・ロッカンダ『Il Tempo Della Gioia』と並んでイギリスのクレシダ『Asylum』が高い好評価を得ているのも納得である(奇遇にも両バンドとも2ndアルバムの最高作で高額プレミアムが付いていたというのも奇妙な一致である)。
 ついでに…この場をお借りして言わせてもらいたいのだが、クエラ・ベッキアにせよクレシダにせよ素晴らしい最高作だと言われ続けている反面、ひと昔前の扱われようというか陰口誹謗中傷といったら“所詮、物珍しいだけで高額プレミアムが売りの音楽性云々なんてB級止まり”といった心無い発言や無責任な評価で、随分と過小評価され卑下た扱われ方が目に余る思いだったのを今でも記憶している。
 心揺さぶられ感動出来る音楽にA級もB級もへったくれもあったもんじゃない!
 早い話…作品に対し如何に悪口言えるか否かしか頭の無い感受性の貧しい聴き手と書き手の詭弁でしかないように思えてならない。

 話が横道に逸れてしまったが、『Asylum』という素晴らしい自信作を引っ提げて、クレシダは意気揚々とヨーロッパツアーへと赴こうとした矢先に、今度はツアーマネージャーのとんだ不手際で資金面での遣り繰りに困窮し、それに端を発したメンバー間同士の疑心暗鬼と人間関係の悪化が尾を引いて、悲しいかな翌年決定していた『Asylum』のリリースを待たずして70年の暮れにバンドは呆気無く解散の道へと辿ってしまい、こうして3年に亘る彼等の物語も幕を下ろし、表舞台から完全に遠ざかってしまう。
 クレシダ解散後のメンバーの動向にあっては、中心的存在だったAngus Cullenは一時的ながらも音楽業界から足を洗ってフランスにてビジネスマンを生業にし、もう一方のブレーンでもあったPeter Jenningsはイギリスの音楽業界に裏方として携わり、以降も独自の創作活動と併行してスコアを数多く手掛けていたとのこと。
 Kevin McCarthyは、かのジョン・G・ペリーが在籍していたTRANQUILITYにリズムギタリストとして在籍、John Culleyはヘヴィ・ロックバンドのBLACK WIDOWに参加、そして残るドラマーのIain Clarkはユーライア・ヒープに誘われて名作『Look At Yourself(対自核)』にたった一度きりの参加で、翌年Lee Kerslakeの加入と同時にヒープから解雇される憂き目に遭い、その出来事が余程骨身に応えたのか音楽業界にほとほと嫌気がさしてしまい一時的に音楽活動から足を洗うといった歩みを辿っている。

 クレシダが遺したかつての2枚の作品ばかりが独り歩きし、時代の移り変わりと共にいつしか高額プレミアムの付いた素晴らしいブリティッシュ・プログレッシヴの隠れた逸品として称賛され、ただ悪戯に天井知らずな付加価値ばかりがうなぎ登りに上昇していくといった様相を呈していた(苦笑)。
 そして21世紀の2010年、再び時代の女神はかつてのクレシダのメンバーに微笑みかける事となった次第である。
 折からの70年代ロックバンドの再結成ブームの波にAngus CullenとKevin McCarthyが引き寄せられ、今再びクレシダの復活と再出発を目論んでいた直後に舞い込んできたオリジナル・ギタリストJohn Heyworthの訃報(同年1月11日にアメリカはオレゴン州ポートランドにて急死したとのこと)に、あたかも弔い合戦にも似た哀悼の意を込めて、ドラマーIain Clarkが所有していたデヴュー以前のデモテープをリマスタリングし、2012年クレシダ復活の狼煙と共に『Trapped In Time:The Lost Tapes』としてリイシューCD化。
 現在、Angus Cullenを筆頭にPeter Jennings、Kevin McCarthy、Iain Clark、そして3代目ギタリストとしてRoger Nivenを加えた布陣で現在もなお精力的且つコンスタンスにライヴ活動を継続している。
     
 「夢幻の楽師達」の締め括りに於いて、もはや定番化したと言っても過言では無い位、新譜リリースに期待を寄せたり、川崎クラブチッタでの来日公演を期待したいといった旨を綴ってはいるが、新譜の期待感も然る事ながら…縁起でも無い書き方で恐縮だが、せめて個人的には死ぬまでに一度で良いからステージで生の彼等クレシダの雄姿をしっかりと目に焼き付けておきたいという、ささやかながらもプログレ人生に於ける終活めいた希望を抱き続けていけたらと願って止まない。

一生逸品 AFFINITY

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 8月最終週の「一生逸品」は、先日のクレシダと共にヴァーティゴレーベルを代表する名作・名盤(ジャケットアートが共にキーフであるという共通点をも含め)にして、時代と世紀を越えて70年代ブリティッシュ・アンダーグラウンドシーンの生ける伝説、そして象徴と言っても過言ではない…ロック、ポップス、ジャズといったジャンルの垣根を越え、21世紀の今もなお聴き手を魅了し愛して止まないであろう、そんな燻し銀の如き名匠“アフィニティー”を取り挙げてみたいと思います。

AFFINITY/Affinity(1970)
  1.I Am And So Are You
  2.Night Flight
  3.I Wonder If I'll Care As Much
  4.Mr Joy
  5.Three Sisters
  6.Coconut Grove
  7.All Along The Watchtower
  
  Linda Hoyle:Vo
  Lynton Naiff:Key
  Mike Jopp:G, Per
  Mo Foster:B, Per
  Grant Serpell:Ds, Per

 もう何年か前になるだろうか…。マーキー社が別冊刊で出版した『UKプログレッシヴ・ロックの70年代』にて、かのピンク・フロイドの『神秘』について触れていた文中、“フロイドの曲は誰にもコピー出来ない。やっても無駄である。雰囲気まで取り込む事が出来ないのだ”の一節に、成る程…これは実に的を得た言い方であると一人感心した事を記憶している。
 フロイドのみならず、往年の…70年代の名バンドの曲を、今も昔も多くのアマチュア・ミュージシャン達は畏敬の念を込めてリスペクトするかの如くコピーし、ある者はそこからオリジナリティーを確立し成功への階段を駆け上り、またある者は現実の壁との狭間にぶち当たり挫折し音楽での生活を断念する…といった二極に分かれる様相を呈しているといったところであろう。
 往年の名曲は演ろうと思えば一生懸命練習して誰でもコピー出来るのは当たり前であるが、先にも触れた当時の雰囲気…或いは時代の空気とでもいうのだろうか、古色蒼然としたイマージュばかりは、残念な事にそっくりそのまま昔の様に再現する事が出来ないのもまた然りである。
 フロイドの『神秘』に『原子心母』、アメリカのイッツ・ア・ビューティフル・デイ、フランスのサンドローズ、オランダのアース&ファイアーの『アムステルダムの少年兵』、そして日本のエイプリルフールとフード・ブレイン…等の名作は、曲がコピー出来てもあの独特な時代の空気・雰囲気だけはどうしても真似出来ないのが惜しむらくである。

 話の前置きが長くなったが、そんな70年代という一種独特な時代の空気と雰囲気を纏ったブリティッシュ・ロック黎明期の屈指の名作にして傑作でもあるアフィニティーが遺した唯一の作品は、時代と世紀を超えて現在も尚多くの愛好者やブリティッシュ・ファンから絶大な支持を得ている事に最早異論を唱える者はあるまい。
 ヒプノシスが手掛けたフロイドの『原子心母』の牛には及ばないものの、ブリティッシュ・ロックのジャケットアートで一時代を築いたキーフことマーカス・キーフが手掛けた…日本の番傘を手にし湖畔に独り佇む淑女(もしかしてVoのLinda Hoyleがモデル!?)というヴィジュアルは、オリエンタルなエキゾチックさと見果てぬジャポニズムへの憧憬と相まって、イギリスという湿り気を帯びた風土と空気が溶け合った不思議さを醸し出しているジャケットに、過去どれだけ多くのブリティッシュ・ロックファンが惹きつけられ魅せられた事だろうか。
 否…そういう私自身ですらも、ジャケットデザインの番傘をさした麗しき彼女にいつしか恋焦がれていたのかもしれない。

 数年前イギリスのエンジェル・エアー・レーベルからボーナストラック入りで復刻されたデヴュー作のインナーで、詳細な彼等のバイオグラフィーが改めて公開されたが、私自身の拙い語学力で部分々々掻い摘んで直訳するところ…1960年代初頭、サセックス州の工科系を専攻する当時16歳のティーンエイジャーだったLynton NaiffとGrant Serpellを中心に、アフィニティーの母体ともいえるジャズに触発されたポップス系バンドからスタートする。
 一年後オリジナルメンバーだったベーシストが抜け同じ学校の生徒だったMo Fosterが加入。程無くしてMoの友人で別のポップス系バンドのギタリストだったMike Joppが加入し、学生バンドとして長年の地道な活動を経て、イギリス国内のパブやクラブでキャリアを積み重ねていく事となる。
 そして1968年…御多分に漏れずメンバー4人共、時代の流れに呼応するかの様に極ありきたりなポップスバンドからの脱却を図りつつ、北米のジャズやブルース影響下のサウンドへと傾倒し、時同じくしてバンドのカラーを占うともいうべき理想の専任ヴォーカリストをオーディションで選出し、教師の資格を持っていたLinda Hoyleに白羽の矢を射止めバンド名もオスカー・ピーターソンの作品からアフィニティーと名乗る様になる。
 アフィニティー名義で正式なスタートを切った1968年当時、イギリスのロックシーン全体がサイケデリック・ムーヴメント始めアート・ロック、ニュー・ロックの百花繚乱ともいうべき黎明期真っ只中で、マイルス・デイビス、ブライアン・オーガー、ジミ・ヘンドリックスの活躍と指針により、当時数多くの新進気鋭が輩出された忘れ難い時代でもあった。
 ブラッド, スウェット&ティアーズ、クリーム、シカゴ、コロシアム、果てはデヴューして間も無いレッド・ツェッペリンやイエス、ジェネシス、ファミリー、ハンブル・パイといった、当時飛ぶ鳥をも撃ち落とす位のそうそうたる面々が犇めく中で、アフィニティーもそんな熱きシーンの渦中に身を投じていたのは言うまでも無い。
 68年、ロンドンはベーカリー・スクウェアの一角にあるレヴォリューション・クラヴでのデヴュー・ギグを皮切りに、BBCラジオのジャズクラブにて大々的に取り挙げられ、エルヴィン・ジョーンズ、ゲイリー・バートン、スタン・ゲッツそしてチャーリー・ミンガスといった名だたるジャズメンらと番組内で共演の機会を得て、バンドはますます知名度を上げていく事となる。
 活動の拠点もイギリス国内のみならず、ヨーロッパや北欧でのロック・フェスにも招聘されたり、数々のテレビショウにも出演したりと、ヴァーティゴからのアルバム・デヴュー以前を知らなかった我々にしてみれば、抱いていたであろう想像以上の精力的な活動に改めて驚かされるだろう。
                    
 1970年…ヴァーティゴからの待望のデヴューアルバムは、彼等自身の長年培われた音楽経験が存分に活かされつつ様々な音楽的素養が濃密に凝縮された、70年代の幕開けと曙に相応しい快作にして傑作に仕上がっている。
 全7曲収録の内、2曲目と5曲目を除き、殆どがA・Hullやアネット・ピーコック、ボブ・ディラン…等からのカヴァー曲ながらも、そこはハモンドを多用したアフィニティー・サウンドとして見事彼等なりに昇華しており、オリジナルと比較しても原曲の良さが損なわれる事無く上手く差別化を図っている狙いが見て取れよう。
 Linda HoyleとMike Jopp、Lynton Naiffの手によるバンド名義のオリジナル2曲目と5曲目こそ、アフィニティーというバンドの面目躍如といったところで、ジャケットの物憂げな雰囲気と佇まいが見事サウンド化されたと言っても過言ではないメランコリックでどこか寂しげな雰囲気のアコギに導かれ、女の情念或いは恋情すら彷彿とさせるリンダの歌いっぷりは感動的でもありエロティックすら想起させるから困ったものである(苦笑)。
 アフィニティー・サウンドと爆発的なホーンセクションとの競合が聴きものの5曲目も実に捨て難いところ…。
 各メンバーのスキルの高さから卓越した演奏力の素晴らしさに加えて、ストリングスとホーンセクションのアレンジャーとして参加しているツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズの見事な手腕と仕事っぷりが見逃せないのも本作品の特色といえよう。

 デヴュー作をリリース後、順風満帆な軌道の波に乗っていた彼等ではあったが、翌年を境に理由こそ不明だがメインヴォーカリストのLindaとアフィニティーサウンドの要でもあったLynton Naiffの両名が脱退し、バンドは大きな危機に見舞われる。
 バンドは延命策としてLindaの後釜に数々のバンド経験を有するVivienne McAuliffeとKey奏者にDave Wattsを迎えて、次回作の為の新曲を録音し紆余曲折の末マスターテープを何とか完成させたものの、この時既にレーベル側との折り合いの悪化から、2ndリリースに至る事無く結局お蔵入りしてしまうという憂き目に遭い、バンド自体も創作意欲の低下から(ギグの回数が減っていた事も加えて)、いつしか人々の記憶からも忘れ去られ、自然消滅という道を辿った次第である。
     

 その後のメンバーの動向として、歌姫Lindaは翌1971年ヴァーティゴよりニュークリアスのメンバーと共演した自身のソロアルバム『Pieces Of Me』をリリースし、以降ソロ活動等に於いてソフトマシーンのメンバーとの共演を経た後、現在はカナダの西オンタリオに拠点を移し、今でも地道にソロパフォーマーも兼ねてアートセラピーの講師として多忙な日々を送っているとの事であるが、そんな彼女が実に46年ぶりにリリースした2017年2作目の新譜ソロ『The Fetch』は、かのロジャー・ディーンがデザインしたジャケットアートの話題性も手伝って、漸く現役第一線に復帰したLindaの歌声に聴衆が歓喜した事は記憶に新しい。
 Lynton Naiffは音楽業界の裏方に回り、オーケストラのアレンジャー並びクイーンやツェッペリン解体後のペイジ&プラントの製作スタッフとして参加。現在でも独自のフィールドで活動を継続している。
 Mike Joppはアフィニティー解散後、数々のアーティストとのセッションやらレコーディングに参加し、数年後にはギターのディーラーに転身しつつ、オーディオ関連のコンサルタントとしてソニーやフェアライトにも携わっていたそうな。近年はテレビジョン関連の仕事にも携わる様になり、自身の会社を設立し多くのドキュメンタリー番組の製作に加わっているとの事。
 Mo Fosterは長年スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアを積み、ジェフ・ベック、フィル・コリンズ、ジル・エヴァンス、マギー・ベル、ヴァン・モリソン…等の名だたるアーティストの作品に参加し、現在は音楽関連の執筆家として何冊かの著書をも手掛けている一方、今なお現役のソロアーティストとして第一線で精力的に活躍中である。
 最後、Grant Serpellもバンド解散後、数々のセッション活動等に参加し、後年は音楽業界から退き工業化学の講師として教壇に立ち現在に至っている。

 ひと昔前まで、高額なプレミアム付のオリジナル・アナログ盤でしかお目にかかれなかったアフィニティーの唯一作であったが、CD時代の昨今イギリスのエンジェル・エアーレーベルから、(リンダ在籍時の)8曲の未発表アーカイヴ入りのデジタル・リマスタリング仕様に加えて貴重なフォトグラフとバイオグラフィー付でCD化されているので、往年のブリティッシュ・ファンの方々並び初めてアフィニティーに触れる方はどうか是非とも耳にして頂きたい。
 70年代初頭のブリティッシュ・ロックの熱い息吹きとシンパシーを知る上で、本作品こそ格好の一枚である事をお約束したい。
 最後に、1971~1972年にかけて録音されながらもお蔵入りと言う憂き目に遭った幻級の扱いだった2ndアーカイヴ音源も近年晴れてめでたくCD化され、それに倣ってアフィニティー関連の様々な未発マテリアルが発掘されCD化されている事も記しておくので、興味のある方は是非こちらも聴いてみると良いだろう。
 ちなみに彼等の1970年唯一作も、日本国内盤で二度に亘って紙ジャケット仕様CD化、SHM-CD化されているので、こちらもお忘れなく…。

 アフィニティー…それは紛れも無くブリティッシュ・ロックという歴史が生んだほんのささやかな奇跡の賜物、或いは輝かしき青春時代の一頁だったという事に違いはあるまい。

Monthly Prog Notes -August-

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 FC2へブログシステムを移行して以来…装いも新たに再出発となった8月最後の「Monthly Prog Notes」をお届けします。

 新装開店並び夏から秋への季節の移り変わりと、まさしくプログレッシヴの秋到来に相応しい素晴らしいラインナップが出揃いました。
 活況著しいイタリアからは、かの本家ラッテ・エ・ミエーレの系譜と流れを受け継いだ、名作3rd『Aquile E Scoiattoli』に参加していたMassimo GoriとLuciano Poltiniがメインとなった新バンド“ラッテ・ミエーレ2.0”が堂々たるデヴューを飾りました。
 もう一つのラッテ・エ・ミエーレでもあり別動隊的な見方と多々ありますが、伝説的ヴァイオリニストの名匠ニコロ・パガニーニの生涯を奏でるアカデミックにしてシンフォニック・ロックの王道を邁進するその作風は、決して本家に負けずとも劣らないイタリアン・ロックの醍醐味とリリシズムが存分に堪能出来る事でしょう。
 イギリス期待の新鋭にして、往年のブリティッシュ・ロックが持っていた伝統と王道の後継者であると言っても過言で無い“ケンティッシュ・スパイラス”が昨年に引き続き待望の2nd新作を引っ提げて再び帰って来ました。
 キャラヴァン、マッチング・モールから多大なる影響を受けた新世代カンタベリーサウンドの中にも70年代ブリティッシュの空気と気概を感じさせる彼等ならではの作風は今作でも健在です。
 アメリカからは久々に骨のある期待の新星登場となった…イエス、ジェネシス、GGからの影響を窺わせ、バンドネーミングとファンタジックなアートワークからして思いっきりプログレッシヴな“ムーン・レターズ”のデヴュー作が到着しました。
 アメリカンなプログレッシヴながらもユーロロックなフィーリングとセンスすら感じさせ、決して一朝一夕ではない創作活動への真摯に向かい合ったプロフェッショナルな仕事っぷりには感服する事でしょう。
 涼やかな秋風と虫の音と共に晩夏を名残惜しみつつ、抒情的な月光の夜空の下で心の琴線を揺り動かす楽師達の調べに暫し身を委ねてみて下さい…。

1.LATTE MIELE 2.0/Paganini Experience
  (from ITALY)
      
 1.Inno/2.Via Del Colle/3.L'Ora Delle Tenebre/
 4.Cantabile 2019/5.Porto Di Notte/
 6.Charlotte/7.Danza Di Luce/8.Angel/
 9.Cantabile 1835

  実質上オリジナル本隊のラッテ・エ・ミエーレから、その系譜とDNAを受け継いだもう一つのラッテ・エ・ミエーレと言っても過言では無い、かつての3rdアルバム『Aquile E Scoiattoli』に参加していたMassimo GoriとLuciano Poltiniの両名を中心とした新バンドでもあるラッテ・ミエーレ2.0その堂々たるデヴュー作が遂にお目見えとなった。
 タイトル通り読んで字の如し、伝説的ヴァイオリニストの名匠ニコロ・パガニーニの生涯をテーマとしたコンセプト作品となっており、メンバーでもある紅一点の女性ヴァイオリニストが奏でる優雅で且つ悲愴感漂うヴァイオリンが非常に効果的で、彼等の構築する音世界に深い奥行きと情感を与えているのが特色である。
 ニュー・トロルスばりのクラシカル・シンフォニックの絢爛豪華さに、本家ラッテ・エ・ミエーレ譲りのダイナミズムと荘厳さが見事に融合し、紛れも無く70年代イタリアン・ロックで培われた経験と実績が本作品で見事に開花した、名実共に新旧のファンをも唸らせる傑出した一枚と言えるだろう。
 冒頭1曲目から“The Endless Enigma”の一節が流れたりとエマーソン愛全開なLuciano Poltiniの
70年代ハモンドやらシンセの音色を活かしたキーボードプレイに思わず(良い意味で)感情が高ぶってしまうのはいた仕方あるまい。
 私の『幻想神秘音楽館』で過去に何度も繰り返し述べてきた事だが、長年プログレッシヴ・ロックを愛し続けるファンで良かったと思えると共に、奇跡は本当にあるものだと声を大にして言いたくなる位…先のバンコの完全復活作『Transiberiana』と並び、本作品もまた21世紀イタリアン・ロックの名盤となるだろう。
          

Facebook Lattemiele 2.0
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2.THE KENTISH SPIRES/Sprezzatura
  (from U.K)
  
 1.Knots
   (ⅰ:Overture/ⅱ:A Sea Shanty/ⅲ:Don't Shoot The Albatross)
 2.Horsa From Beyond The Grave
 3.Tale Of Three Lovers
   (ⅰ:Wishing Well/ⅱ:You Better Shut Your Mouth/ⅲ:Never Tell On You)
 4.The Long Goodbye

 昨年秋にドラマティック且つファンタジックな意匠で鮮烈なデヴューを飾った21世紀ブリティッシュ・ロック期待の新鋭ケンティッシュ・スパイラス
 あれから半年以上のスパンを経て、前デヴュー作の流れとロマンティシズムを汲んだ意匠と共に
待望の新譜2ndを携えて、あたかも私達のラヴコールに呼応するかの如く再び帰って来た次第である。
 大英帝国のリリシズムと、広大で自然豊かな味わい深い佇まいを具現化したかの如きアートワークの素晴らしさも然る事ながら、ジャケットのモデルを務めている紅一点の歌姫Lucieの繊細ながらも力強い歌唱力、ヴィンテージな感触のハモンドの響き、70年代イズムを踏襲したギターにリズム隊(ドラマーがメンバーチェンジしている)、そして今作から新加入した管楽器奏者の好演も相まって、シンフォニック、フォーク、ケルト、カンタベリー等といった多彩(多才)な楽曲の素養を内包した世界観が寄せては返す波の様に聴き手の脳裏に畳みかける様は、何物にも変え難い官能的で扇情的な女性の内面にも似た美意識すらも窺い知れよう。
 昨今のメロディック・シンフォやネオ・プログレッシヴといった時流のトレンドとは一切無縁で且つ、同国のヴィンテージ系プログレッシヴのプルソンと対を為す傍ら、サイケデリアとは一線を画したひと味もふた味も違うあくまで純粋にブリティッシュの伝統と王道を歩む彼等に、大御所グリフォンにも似た吟遊詩人の様な面影すらも禁じ得ない。
          

Facebook The Kentish Spires
https://www.facebook.com/TheKentishSpires/?epa=SEARCH_BOX


3.MOON LETTERS/Until They Feel The Sun
  (from U.S.A)
  
 1.Skara Brae/2.On The Shoreline/3.What Is Your Country/
 4.Beware The Finman/5.Those Dark Eyes/6.Sea Battle/
 7.The Tarnalin/8.It's All Around You/9.The Red Knight/
 10.Sunset Of Man

 21世紀アメリカン・シンフォニックから久々に熱い手応えを感じさせる骨太級のニューカマーが登場した。
 ジェネシス始めイエス、GG、果てはラッシュといったプログレッシヴ界の大御所から多大なる影響を受けた…そんなバックボーンを如実に物語る期待の新星ムーン・レターズのデヴュー作が届けられた。
 ネオ・プログレッシヴなカテゴリーといった風合いこそ否めないものの、要所々々で感じさせる変拍子を多用したプログレッシヴの王道+ヴィンテージスタイルへの憧憬とオマージュに加えて、アメリカンとユーロロックとのフィーリングが見事にマッチした、熱気の中で感じられるクールでインテリジェントな知性が鏤められた全曲に好感を抱かせる。
 ジェネシス系バンドという精神を受け継ぎながらも、決して二番煎じやら亜流もどきには寄り掛からない、そんなしたたかで新人らしからぬ確固たる姿勢というか心憎さやポリシーも彼等ならではの持ち味と言えるだろう。
 アートワーク総じて丁寧に作り込まれた充実感溢れる一枚であると共に、一朝一夕では決して為し得ないであろう彼等自身のプロデュースとコンポーズ能力、スキルの高さに感服の思いですらある。
          

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夢幻の楽師達 -Chapter 06-

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 9月第一週目の「夢幻の楽師達」をお届けします。
 今回はアメリカのプログレッシヴ史に於いて2枚の伝説的名作を残し、解散と再結成の紆余曲折を経て、紙ジャケットCD復刻並び再結成ライヴのリリースと、今もなお絶大で根強い人気を誇り名実共にカリスマ的存在の“イエツダ・ウルファ”を取り挙げてみたい次第です。

YEZDA URFA
(U.S.A 1973~)
  
  Phil Kimbrough:Key,Syn,Mandolin,Wind Instruments,Vo 
  Mark Tippins:G,Vo 
  Marc Miller:B,Per,Cello,Vo 
  Brad Christoff:Ds,Per 
  Rick Rodenbaugh:Lead-Vo,Air-G 

 オーヴァーグラウンドに浮上しメジャーな流通で成功を収めたカンサスやスティックス、スター・キャッスル…等とは正反対に、彼等=イエツダ・ウルファは…かのカテドラル、イースター・アイランド、バビロン、クィル、ペントウォーター…等と並んで、(失礼ながらも)アメリカン・アンダーグラウンド・プログレッシヴ界において決して、否!絶対忘れてはいけない重要な存在であろう。 
 毎度の事ながらも、彼等に関するバイオ・グラフィー・経歴等は残念ながら極めて少ないが故、米シンフォニック・レーベルよりリイシューされたCDからの英文解説を頼りに綴っていかねばなるまい。 
 75年に自主リリースされた、記念すべき(!?)デヴュー作『Boris』がシカゴにてレコーディングされたことから推測して、バンドそのものは1973年にシカゴの地元ハイスクールの学生達によって結成されたものと思われる。
          

 上記の不動の5名によってイエツダ・ウルファは75年と76年に2枚の作品を残し、バンドそのものは80年初頭まで活動していたものと思われる。補足であるが…Philはニューメキシコ州出身、BradとMark、Marcの3人はインディアナ州出身、Rickはイリノイ州出身。 
 加えて1953年生まれのRickを除き、残りの4人が皆1955年生まれで(バンド内でヴォーカルのRickが最年長者である)、言うまでもなくメンバー全員とも学生時代からイエスやジェントル・ジャイアントといったブリティッシュ・プログレッシヴを愛聴し、コピーを重ねつつ繰り返しながらも、1stと2ndの礎ともなるオリジナル曲を多数書き貯めては、独自の方向性と作風を模索し確立に至った次第である。
 度重なるライヴ活動を経て、盟友にして共同プロデューサーでもあるグレッグ・ウォーカーの協力と助言を得、75年シカゴはユニヴァーサル・スタジオにて収録された『Boris』のマスターテープを完成させ、大手レコード会社数社(A&M始めキャピトル、コロンビア、ロンドン、フォノグラム、果てはワーナーにも…)に売り込みを目論むも、悲しむべき事に全社からはことごとく契約不成立の返事しか返ってこない有様であった。
 後年、シンフォニック・レーベルからリイシューCDのインナー中にて先の大手6社からの不採用通知書の写しをこれみよがしにデカデカと掲載しており、彼等にしてみれば…してやったりなのか、単なる嫌味と皮肉なのかは定かではないが、大手リリースから見切りを付けた彼等は程無くして、後々にしてレア・アイテムとして世に残る『Boris』を自主リリースという形で決着を見る次第である。
 …余談ながらも、契約不成立の書類(左からA&M、コロンビア、ワーナー)を3点抜粋して下記に挙げておきたい(苦笑)。
       

 マーキーのアメリカン集成にて“ヨーロッパ的な美学を求めるには不向き”と紹介されているが、それは決して当たらずとも遠からじながらも、イエス+ジェントル・ジャイアントにアレアないしマグマの香りもちらほらといった感触と言った方が妥当であろうか…。
 2曲目のC&W風なバンジョーの聴き処が面白い点を加味しても、まず以って素人さんな初心者的リスナーが一聴した限り、チンプンカンプンで捉え処の無い印象薄で終始するのがオチだと思う  
が、一度でもその味が病みつきになると、スルメを噛む如くに聴けば聴くほど更に味わい深くなる、文字通り一筋縄ではいかないクセ者的な名作でもある。 
 順序が逆になるが…当初は翌76年にリリースされる筈だった『Sacred Baboon』が、我が国に初めて紹介された彼等の作品にして先の『Boris』と並んで名盤でもある。
 純然たるシンフォニックとは趣が異なり、変幻自在にして捉え処の無さは相も変らずではあるものの、1stでは見られなかった整合性が感じられ、無駄な部分をすっきりと削ぎ落とし必要な部分だけを拡大発展させた感が更に強まり、本作品も名作・名演であることに変わりは無い…。
 ちなみに2ndの本作品、正確に言うとマスターテープこそ完成したものの予算面(!?)の都合やら何やらで自主リリースはおろか(一応、テストプレスは行われたみたいだが)、相も変わらずリリース元やら契約面もままならず、とどのつまりが長年彼等の手元にお蔵入りしていた状態が続き、結局先にも登場したシンフォニック・レーベルの尽力で1989年に漸くリリースされ実に14年ぶりに陽の目を見た…といっても差し支えはあるまい。
 とは言ってもジャケットデザインがシンフォニック・レーベルサイドによる急ごしらえみたいな感は否めなく、私自身も手にした当時は何とも形容し難い味気無さを覚えたのが正直なところである。
 後年“Sacred Baboon=神聖なるヒヒ”というタイトル通り、果て無き荒野に群がるヒヒの集団が描かれた意匠に変更されたが、こちらが当初のオリジナルデザインだったのかどうかは今以て不明瞭なのがもどかしい…。
 まあ、個人的には作品のイメージ通りヒヒの集団が描かれた方が好みであるが。
     

 現時点で確認されている2枚の作品を残し、概ね80年の初頭までバンド名義の何らかの活動は継続していたものと思われるが、それ以降はバンドのメンバーそれぞれが独自の活動ないし、後進の指導に携わって、イエツダ・ウルファ自体も自然消滅し活動も幕を閉じる次第なのであるが、彼等が残した一縷の望みにも似たプログレッシヴな精神は今でも脈々と受け継がれて、メジャーなスポックス・ビアード始め再結成したハンズ、アドヴェント…等、今を生きる新進勢に託されたと言っても過言ではあるまい…。
 が!しかし、アメリカン・プログレッシヴの良心的な神様は決して彼等イエツダ・ウルファを見捨てる事無く、あのカテドラル復活の時と同様、奇跡的復活のスポットライトを当てたのは言うまでもなかった。
 オリジナル・メンバーが再び集結し、数名のサポートメンバーを加えた屈強のラインナップで2004年バンド再結成を遂げ、NEARfestでの復活ライヴを機に、これまで何度か新譜リリースの噂が絶えなかった彼等であったが、マーキー・ベルアンティークから紙ジャケット仕様で伝説の2作品が二度に亘り(CD及びSHM-CD化されて)見事復刻を果たした事に呼応するかの如く、再結成の同年には伝説の2作品を中心とした選曲によるNEARfest復活ライヴを収めたライヴ・アルバムをリリースし、改めてその健在ぶりを大きくアピールし頼もしさと期待感に胸を躍らせていたものの、それ以降は新作リリース関連のアナウンスメントが聞かれなくなり、実質上音信不通の状態となって実に久しい限りで一抹の寂しさは拭えないのが正直なところである…。

 活況著しく新たな次世代が続々と世に輩出されている昨今のアメリカのシーンではあるが、それでも21世紀という時間軸に於いて…大御所のカンサス始め、カテドラル、ペントウォーター、スター・キャッスル、そしてイエツダ・ウルファ…etc、etc、往年の実力派グループ達が復活を遂げ、文字通りアメリカン・プログレッシヴの転んでもただでは起きない威風堂々とした逞しい精神に、聴き手側である我々は只々感服の思いですらある。
 いずれにせよ…昔も今もメイド・イン・アメリカを決して侮るなかれ、軽視は禁物である事を肝に銘じておかねばなるまい(苦笑)。

一生逸品 BABYLON

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 9月第一週目の「一生逸品」、今回は今もなお伝説的なカリスマにして、その唯一無比な音楽性と存在感で絶大な人気と支持を得ている、70年代後期に登場した…その純粋なまでのプログレッシヴ精神とシアトリカルなスタイルを貫き通したジェネシス・チルドレンの最右翼に位置する、アメリカン・プログレッシヴの極みにして至高の匠に相応しい“バビロン”に、今再び焦点を当ててみたいと思います。

BABYLON/Babylon(1978)
  1.The Mote In God's Eye
  2.Before The Fall
  3.Dreamfish
  4.Cathedral Of The Mary Ruin
  
  Doroccas:Vo, Key
  Rick Leonard:B, Vo
  Rodney Best:Ds, Per
  J.David Boyko:G
  G.W.Chambers:Key, Vo

 21世紀というネット社会はプログレッシヴ・ロックの業界に於いても、多大なる恩恵と世界的規模の横の繋がり…即ちバンドと個々のアーティスト、更にはひと昔前よりプログレッシヴ・ロック専門のレーベル同士との強固にして密な繋がりとして大いなる助力となったのは最早言うに及ぶまい。
 殊更…日本と並ぶプログレッシヴ・ロックの巨大なマーケット的役割を担っているであろう北米大陸アメリカにあっても、各州にて年中行事の如く毎年開催されているプログレッシヴ・ロックフェスを皮切りに、門戸開放と言わんばかりに世界各国のプログレ系アーティストの受け皿的な立場・役割としての大きさを、改めて認識せざるを得ないだろう。
 何度も言及されている様に“ファーストフードが主食みたいなヤンキーなんぞにプログレなんぞ出来っこ無い!”という偏見に満ちた穿った見方はもはや遠い遥か彼方の大昔の話(苦笑)。
 メジャーな流通でアメリカン・プログレの先鋒に躍り出たカンサスやスティックス、ボストン、中堅処ではイーソスやパヴロフズ・ドッグ、ハッピー・ザ・マン、ディキシー・ドレッグス、スターキャッスル、そして時代の主流はメジャーからマイナーへと移行し、前述の名立たる存在に追随・肉迫するかの様に台頭した70年代後期世代…イエツダ・ウルファ、カテドラル、クィル、イースター・アイランド、ハンズといったアメリカン・プログレの継承者達の軌跡は、決して青春の一頁という安っぽくて生温い一過性では止まらない、まさしく己の信念・信条に情熱を注ぎ嘘偽り無く生きた証でもあったのは言い過ぎではあるまい。
 彼等70年代後期バンドは大手レコード会社・レーベルから支援を得られる事無く、ある者は自主製作という規模の縮小に否応無く且つ余儀無くされ、またある者は地道に細々とマスターテープの製作のみに終わり機が熟すのを待つしか術が無かった訳であるが、そんな不遇な時期にあっても夢想の世界を追い求め逆境に臆する事無く、時代の頁を一枚々々紡ぎ歴史に名を遺していったのである。
 今回本編の主人公でもあるバビロンも、カテドラルやイースター・アイランドとほぼ同時期に生きたバンドとして、その一種独特なミステリアスさを醸しつつプログレッシャーに似つかわしいバンドネーミングで、イギリスのイングランド始めドイツのノイシュヴァンシュタインと共に最良質で高水準なジェネシス・フォロワー系の元祖として、ほんの一瞬ながらもアメリカのプログレシーンを駆け巡っていったのである。

 バビロンの詳細なバイオグラフィーに至っては、誠に申し訳無くも残念な話…現時点で私が所有しているCDのみなので何とも心許ない文面になるかもしれないが、どうか御容赦願いたい(苦笑)。
 バビロンは1976年フロリダにて、ベースのRick LeonardとDoroccasなる謎(!?)のニックネームを持つヴォーカリストを中心に結成されたものと思われる…。
 本文中の写真から察するに当時の年齢からして皆25歳前後の若手世代と思われる。推察すれば元々は地元のハイスクール~大学経由での学生バンド時代からが彼等のサウンドスタイルを形成していた時期ではなかろうか。
 本作品を一聴する限り全4曲のみの収録という少ないレパートリーながらも、ジェネシス影響下である事に迷う事も躊躇する事も無く、プログレ停滞期という時期に差しかかっていた頃にも臆さず堂々と自分達なりに昇華したシアトリカルな世界観を構築した潔さと覚悟には、21世紀という現在になっても、つくづく頭の下がる思いである…。
 一朝一夕では成し得ない位、素人臭さが微塵にも感じられない高水準な演奏技量と構成力・音楽性はかなりの手腕と音楽経験を物語っており、単なるファンだとか影響を受けました云々というリスペクトの域をも超えた…全曲に漂う熱烈なジェネシス愛はもはや疑う余地が無いだろう。 
 専任キーボーダーと共にリードヴォーカリストがキーボードを兼ねる辺りは、多かれ少なかれアンジュを連想させる部分をも匂わせるが、それもあながち的外れではあるまい。
 プログレ必携アイテムとも言えるハモンドやメロトロンが珍しく一切使用されておらず、それらに代わって幾重にも紡がれるエレピにシンセ系…ストリング・アンサンブルとオーケストロンを多用した重厚なハーモニーは、当時のライト感覚なアメリカン・プログレッシヴの側面と一片を垣間見る様な思いであり、良い意味でアメリカらしい気風が反映されながらも、敢えて真っ向から“そう安易にジェネシス・クローンの類似系にはならないぞ“と言わんばかりな姿勢とアプローチが、あの独特なバビロン・サウンドを生み出し彼等の個性とカラーを決定付けたと言えよう。
 個人的な見解なれど、今でも改めて彼等の唯一作を聴き直す度に新たな発見が出来て実に痛快極まりない…。
 本家が英国の伝承寓話、中世のお伽噺・童話をモチーフにしていた作風なら、彼等の創作する音世界から連想出来るのは…紺碧の海に沈んだアトランティス大陸の伝説やハロウィーンの妖しげな雰囲気と佇まい、アメリカの七不思議、果てはSFドラマの元祖『トワイアライト・ゾーン』にも似た空想と現実世界との狭間を覗き見る様な緊迫感すら覚えてしまう。
 さながら『月影の騎士』或いは『眩惑のブロードウェイ』の頃の中期ジェネシスに近いシンパシーを感じてしまうのは当たらずも遠からずといったところだろうか。
          

 冒頭1曲目…不穏な空気すら漂う厳かな土着的儀式をも思わせるパーカッション群のイントロに導かれ、ミステリアスなギターとシンセが被さり、タイトル通り朗々たる神の啓示にも似たシャーマニックなヴォイスにゲイヴリエルの幻影を見出せたなら、貴方はもう完全にバビロンの術中に落ちている事だろう。
 神秘的にして荘厳なシンフォニックでありながらもアメリカらしいライトな感覚と躍動感には、初めて耳にした時の感覚…改めてアメリカ産というわだかまりすら消え去って溜飲の下がる思いですらある。
 小気味良いスネアとマインドなシンセ、流麗なギターワークが物語を紡ぐ2曲目は、ポエジーでシアトリカルな色合いを全面に押し出した秀曲で、中盤にかけての変拍子全開のギターとリズム隊、きらびやかで摩訶不思議、寄せては返す波の如きキーボードワークはカナダのポーレンにも匹敵するリリシズムをも彷彿とさせる。
 2曲目の感動の余韻を残したまま続く3曲目も、彼等の代表曲として申し分無い位に素晴らしいテンションとパッションを繰り広げている。
 引きの部分と押しの部分とがバランス良く交差し、タイトル通りの夢想の世界で戯れる魚の躍動感を軽快なギターとスペイシーなキーボードが奏でる様子は感動と興奮以外の何物でも無い。
 ラストにあっては、本家ジェネシスの“妖婦ラミア”にも似通った曲想ながらもモダンでタイト且つ詩情豊かに歌と演奏を聴かせつつ終盤のフェイドアウトで幕を閉じる様は、さながら物語の終わりにしてジェネシスへの敬意・敬愛の表れを如実に物語っているかの様ですらあり、聴き手の側も短編小
説を読み終えた余韻と感銘を受ける事必至であろう…。
 ちなみに、本作品のアナログ・オリジナル原盤はジャケットの下地がホワイトとシルバーの2種類存在するが、どちらかが初回のみのプレスという訳では無く、2種類の下地で同時にリリースされたという説が強い(私自身ホワイト地のジャケットは未だお目にかかっていないのが残念…)。

 近年復活を遂げたカテドラルやイエツダ・ウルファを例外としても、かのイースター・アイランドと同様彼等もまた御多分に漏れずたった一枚の作品だけを遺し人知れず表舞台から去っていった次第であるが、その後のメンバーの動向も一切不明…残された唯一作の高水準な完成度と素晴らしさだけが人伝を経由して高額に近いプレミアムを呼び込むといった具合で一人歩きし、まさにバビロンというバンドの存在が伝説と幻で扱われ、このままアメリカン・プログレ史に埋もれていってしまうのかと思いきや、バンド消滅から11年後の1989年突如急転直下で舞い込んで来たバビロンのライヴ盤リリース(Vol.1とVol.2の2回に分けての発表)は、まさに青天の霹靂という言葉に相応しく彼等バビロンの生きた証とも言うべき…青春の躍動感と信念に燃えていた頃の貴重なライヴ音源として、世界各国の多くのプログレッシヴ・ロックファンにとって勇気と感動すら与え涙を誘ったのは言うまでもあるまい。
     
 素人臭さ丸出しなジャケットの意匠といい音質的には決して褒められたレベルではないものの、ホリゾントに映し出される映像をバックに、マントを羽織りマスクを被ってパントマイムに興じるといったゲイヴリエル在籍の初期ジェネシスを極端に意識した貴重な初公開のステージング・フォトに、今まで“幻”的な扱いだったバビロンが(ほんの一瞬の輝きだったとはいえ)当時に於いて聴衆から熱狂的に支持を受けていたという事実に、改めて敬意を表しつつ彼等の実力に脱帽せざるを得ないのが正直なところである…。
 唯一作に収録された4曲も然る事ながら今まで知る由も無かった未発表6曲の素晴らしさとクオリティーの高さを思えば、返す々々もあの世界的規模に吹き荒れたプログレ暗黒時代を恨めしく思うと共に、強力な後ろ盾やレーベルそして秀でた人材と人脈に恵まれていたのであれば、彼等バビロンと
て自主製作に甘んずる事無くパスポート(バビロンの登場と前後して倒産した事が何とも非常に悔やまれる)といったプログレの受け皿的レーベルから、デヴュー作に次いでもう1~2枚作品をリリース出来たのではなかろうか。
 現在彼等の作品はマーキー・ベルアンティークからオリジナルデザイン紙ジャケット仕様のSHM-CD国内盤で簡単に入手出来るが、アナログ時代2枚に分けてリリースされたライヴ盤にあってはCD‐R1枚のみに完全収録でまとめられた『Better Conditions For The Dead』なるものが確認されているものの、残念ながら現在では廃盤に近い状態で入手も非常に困難となっているのが惜しまれる…。
     
 それに加えて何とも困った事に、本家アメリカのSyn‐Phonicレーベルから2004年にデジタルリマスター化されたCDリイシューにあっては、バンドのロゴがカラーリングされているのはまだ許せる範囲なものの、オリジナル原盤に描かれた道化役者風な男の顔のアップが、あの宇宙人グレイに変更されたのには私自身驚きの余り椅子から転げ落ちそうになったのを今でも記憶している(苦笑)。
 バンドが無くなった今でさえもこんな処遇に、かつてのメンバーでさえも落胆し冷ややかに見ているのではあるまいか…。
 近年のカテドラル…或いはイタリアのアルファタウラスを例に取っても、たった一枚の作品を残して解散という憂き目に遭いつつも、多くのファンや愛好者達から熱狂的なラヴコールと支持を受けて現在の21世紀に再結成し返り咲き人気を博しているが、無論彼等バビロンとて例外ではあるまい…。
 ひと昔…ふた昔前の“もしも!?”という想像や話題が、今やいつでも奇跡的に復活するという御時世でもあるから彼等の再結集には俄然大いに期待を寄せたいところでもあるが、想像の域で恐縮なれど彼等の言葉を借りれば多分“僕達はあの時点で全てをやり尽くしたからもう一片の悔いは無いよ…”
の返答で終止する事だろう。
 伝説は伝説のままで未来永劫このままそっとしておいてやりたいと思いつつ、現在の活況著しい21世紀のアメリカン・プログレが今の彼等の目にはどう映っているのだろうかと尋ねてみたい様な気もする…。
 ライヴを含む彼等の全作品を聴きつつも、私自身…激情と静寂に支配されたロック・テアトルの迷宮への出口と答え探しはまだまだ続きそうである。

夢幻の楽師達 -Chapter 07-

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 9月第二週目の「夢幻の楽師達」は、イタリアン・ロックシーンに於いて今もなお燻し銀の如き孤高の輝きを放ち続ける、まさしく文字通り…メダルの裏側の住人達でもある通称RDMこと“イル・ロヴェッショ・デッラ・メダーリャ”に今再び焦点を当ててみたいと思います。

IL ROVESCIO DELLA MEDAGLIA
(ITALY 1971~)
  
  Pino Ballarini:Vo,Flute,Per
  Enzo Vita:G
  Stefano Urso:B
  Gino Campoli:Ds

 “メダルの裏側”という意味の何かしら不思議な韻を踏んだ暗示めいた名前のバンドこそ、ギタリストにしてバンドのコンポーザーでもあるEnzo Vitaの思案と葛藤に満ちた人生、或いは自問自答を重ね続けた男の生きざまそのものと言えよう…。
 今回は敢えてバンドのバイオグラフィーやらヒストリー云々を極力控え、改めて彼等への敬意を払い功績を振り返るという視点で幾分私論めいた流れで綴っていけたらと思う。
 
 プログレッシヴ・ロックの曙ともいえる1970年という時代の節目を機会に、イタリアン・ロックのメインストリームでもあったローマでEnzo Vitaを始めStefano Urso、Gino Campoli、そしてPino Ballariniの4人のティーンエイジャーによってRDMの母体となるバンドが結成される。
 結成当初は多くのポッと出のアマチュアバンドと同様、彼等もブリティッシュやアメリカンなブルース・ロック系のカヴァーバンドとして音楽経験を重ねるも、来る日も来る日もクラブでの英米ロックのカヴァー演奏という同じ事の繰り返しで、次第にそれが彼等自身のストレスとなり周囲を取り巻くフラストレーションへと膨らんでいったのは最早言うには及ぶまい。
 その結果…翌1971年確固たるオリジナリティーへの移行に躍起となった彼等自身、一念発起とばかりにカヴァー曲バンドのレッテルやら一切合財を捨て去り、“メダルの裏側”なる一風変わったバンドネーミングへと改名。
 バンド名の由来こそ定かではないがエンツォ曰く「模倣や真似事からの脱却」という含みを持たせた、彼等なりのニヒリズムや反骨精神が滲み出ているところも実に興味深い。

もとより前述した英米のカヴァー等で演奏技量と実力・経験が養われていた事が幸いし、彼等自身がオリジナリティーを確立するにはそう時間を要しなかった。
 程無くして大手RCAイタリアーナと契約を結んだ彼等は、2時間という制約付きのスタジオライヴ一発録りという形で、1971年サイケデリアの時代が色濃く反映されたアヴァンギャルドにしてハード&ヘヴィロック路線のデヴュー作『La Bibbia(聖典)』をリリース。
 後述の名盤『Contaminazione』で初めて彼等の作品に触れた方がもし仮に『La Bibbia』に接したのであれば、キーボードレスという決定打に加えてその攻撃的で荒々しいハードロックな感触に思わず唖然とするか面食らうかのいずれかであろう(苦笑)。
 しかし…噛めば噛む程味の出るスルメではないが何度も繰り返し聴けば聴くほど、その粗削りな作風の中にも実に緻密に張り巡らされた迷宮の如き構成と演奏力の上手さに舌を巻くのもまた事実である。
 これが後々イタリアン・ロック史を飾る不朽にして屈指の名作でもある『Contaminazione』に繋がっていくのかと思えば頷ける部分も多々感じられよう。
 デヴュー作に付されたメダル型ブックレットにも実に興味深い当時の記述があるので、ここに掲載しておきたい。
            
 ロヴェッショ・デッラ・メダーリャは、意図的に付けた名前です。この名前は、誤解を受けないように、意図的に選んだのです。僕らは、本当の意味で新しいアルバムを出して行こうと考えてます。このようなことをする人は少ないのです。より難しくなりますから。周知のように、このようなことをすれば、アルバムを出すための研究(勉強)の面で、リスクを負うことになります。前進的な音楽は、既に成功した方式を守り続け、また流行や典型的な要素を取り入れた方が簡単なのです。しかし、「ロベッショ・デッラ・メダーリャ(メダルの裏側)」は、これに立ち向かいます。
 あまりにも商業的な音楽が無差別に外国から入ってきています。このような音楽でも、技術的に正確になり、それに芸術面から見ても今や有効なものになりつつあります。僕らは、音楽に先存する意志のある、新しいアルバムを作ります。根拠のないアルバムでなく、正確で強い意志がわき出るようなアルバムを作ります。音楽は、真のコミュニケーションの世界、そして僕らの表現をする世界です。言葉は、わかりやすいガイドの役割を果たしています。妥協や、猿の物まねのようなもの、もしくは人の真似するようなことに、僕らは興味ないのです。僕らの目標は、自由でいること。僕ららしくあり続け、僕らが信じる音楽を作ること。それ故、僕らの仕事は、制作のリズムを崩さないように、計画されています。観客の前に出る機会も少ないです。僕らは、僕らの会話を聞いてくれる対話する相手がいるような環境を選んでます。
“2005年、BMGビクターからリリースされた紙ジャケット仕様完全復刻盤CDのライナーノーツから対訳原文ママ(対訳 市原若子)”

 彼等の頑なな決意・初心表明とも取れる宣言(宣誓)は後々の創作活動に於いて大きなサジェスチョンとなるのは明白であるが、遡ること数年前イタリアの某音楽メディアによるEnzoへのインタヴューで、彼自身の思いがけない発言がRDMのファンのみならず世界中のイタリアン・ロックのファン、プログレシッヴ・ファンの間で駆け巡った…。

 “『La Bibbia』リリース当時、僕自身宗教上の悩みがあった。『Io Come Io』の時は文化的な悩みがあった。そして『Contaminazione』の時は音楽の悩みがあったんだ…。”
 
 エンツォの言葉を裏付けるかの様に、翌1972年にリリースされた『Io Come Io(我思う故に)』は、スタジオライヴ一発録りだった前デヴュー作から較べると、正規のスタジオ録音製作という事もあってか幾分音的にはやや整然とした印象を与えるが、ヘーゲルの実在主義をモチーフにした深みのあるテーマに加えて前作で培われた実力と経験が見事に最良な形で発露・昇華した、(プログレ寄りなハードロックという事も踏まえて)個人的にはイルバレの『Sirio 2222』に匹敵する好作品に仕上がっていると言えよう。
     
 作品内容の秀でた素晴らしさも然る事ながら、やはり注目すべきはジャケットワーク。アナログオリジナル盤のジャケットのド真ん中に、どうだ!といわんばかりに嵌め込まれた金属製メダルの重々しさたるや、バンコの1stの貯金箱型特大ジャケットやオザンナの1stの壁掛ポスター大変形ジャケットで度肝を抜かされたイタリアの若者達もこれにはさぞかし唖然とした事だろう。
 余談ながらも数年前に日本のBMGビクターから、イタリアン・ロックのオリジナル盤を忠実に再現した紙ジャケット仕様復刻CDがリリースされた際、RDMの『Io Come Io』も御多分に漏れず金属メダルが添付された形でリイシューされたが、CD紙ジャケットのサイズから考慮しても、オリジナルアナログLP盤ならあの金属メダルは一体どんなサイズだったのだろうか…と途方も無く溜息が出てくる始末である。
 とは言いつつも…『La Bibbia』でのメダル型ブックレット、そして『Io Come Io』での金属メダル添付のジャケットといったバンドへの特別待遇とも言うべき大盤振る舞いから察するに、大手RCAイタリアーナ側もRDMに並々ならぬ大きな期待を寄せて、今風な言い方をお許し願えればその期待と信頼感たるやハンパない!といったところが見て取れよう。
 バンドサイド並びEnzoの名誉の為にも誤解無き様に付け加えさせて貰えば、当時とてRDMは決して金銭的に麻痺していたとか、人気に浮かれて天狗になったり有頂天になってはいなかった事だけは確かだが。
 デヴュー作と入魂の2作目でバンドは上昇気流に乗る事が出来、イタリア国内のみならずフランス、スイスでもツアーを敢行し、軒並み大成功を収めるまでに昇り詰めた。

 PFMの世界的規模の大成功で俄かに注目を集めた1973年のイタリアは、前72年のヴィラ・パンフィリのロックフェスの大成功が拍車をかけた事も手伝って、まさに我が世の春を謳歌するかの如く百花繚乱にイタリアン・プログレッシヴムーヴメントが大挙に開花した時期を迎えた。
 世に倣えとばかりにRDMが所属のRCAイタリアーナからも、大手ライバルのリコルディやフォニット・チェトラに対抗心を燃やしつつRCA傘下レーベル所属のバンドをフル動員してシーンを大いに盛り上げていったのは言うまでもあるまい。
 クエラ・ベッキア・ロッカンダ、フェスタ・モビーレ、ルスティチェッリ・エ・ボルディーニ、トリップ…等といった、後年日本の高額な廃盤レコード市場を賑わせた名作・逸品が一挙に出揃ったのもこの時期である(苦笑)。
 プログレッシヴ・ムーヴメントの波及…千載一遇のチャンスに乗り遅れるなと言わんばかりに、RCAの上層部側もRDMに大胆な改革案を提示しバンド側もそれを快諾。
 こうして新たにキーボード奏者Franco Di Sabbatinoを迎えた5人編成の本格派プログレッシヴ・バンドへと転生を図る事となる。
     
 
 RDMの改革はキーボーダーの補充だけに止まらず、RCA側たっての希望と意向で次回作にはマカロニ・ウエスタンやフェリーニ監督作品といったイタリア映画で数多くのスコアを提供している世界的巨匠のルイス・エンリケス・バカロフ主導によるオーケストラとの共演が決定した。
 それは当然の如く、ニュー・トロルス『Concerto Grosso Per1』、オザンナ『Milano Calibro 9』といったフォニット・チェトラ作品での仕事っぷりと実績を買われての結果である事も忘れてはなるまい。
 翌1974年にリリースされた、バッハの作品世界観をモチーフにした通算第3作目『Contaminazione(汚染された世界)』は、まさしくRDMの代表作にしてイタリアン・ロック史を飾る名盤・名作として一気にバンドとしてのステイタスを上げる決定打となった。
 ただ余計なお世話かもしれないが、PFMの世界進出に続けとばかり海外販促向けに英訳歌詞の差し替えによる『Contamination』はちょっと時期尚早だったのではと思うのは穿った見方なのだろうか…。(ジャケット・ワークも今一つといった感は否めないし)
 いずれにせよ『Contaminazione』は当時オイルショックの余波が不安視されていながらも、イタリア国内で大反響を呼びセールス的にも大成功を収める結果に終わったが、いつの世も栄光の裏に陰影ありという言葉通り、バンドの周囲では次第に不穏な空気が漂い始めていた。
 Enzo自身も自他共に『Contaminazione』の素晴らしさを認めつつも、その一方でバカロフ主導の方針については不平不満や仲違いという訳ではないものの幾分醒めた印象を抱いていたみたいだ。

 “バカロフの役割は全てにおいて決定権があった。彼は全てを指揮したよ。僕たちの情熱までもね。”

 フロイドの『The Wall』の世界ではないが、バンドの栄光と輝かしい実績に相反して、聴衆側そしてレコード会社との間に徐々に埋める事の出来ない溝…或いは目の前にそびえ立つ壁の様な隔たりが広がりつつあった事に、バンド自体も薄々ではあるが早かれ遅かれ感じていたのかもしれない。
 気を取り直すかの様に、RDMは心機一転とばかりに長年住み慣れたRCAから離れてFROGレーベルに移籍し、新たな環境で次回作の為に先駆けてシングル作『Let's All Go Back/Anglosaxon Woman』をリリースし、同時進行で4thアルバムのマスターを完成させるも、あくまで憶測の域でしかないが…結局何らかの横槍が入った理由か何かでマスターはお蔵入りという憂き目に遭ってしまう。
 新作のお蔵入り、メンバー間に湧き上がる音楽的方向の相違に加え、『Contaminazione』での莫大な製作費云々といったしがらみに追い討ちを掛けるかの様に、RDMというバンドにとって最も辛く悲しい事件が起こってしまう。
 楽器盗難…これこそまさしく、RDMというバンドの破綻に決定打を加えた一撃ともなったのは言うまでも無かった。 
 Enzo自身現在でも触れたておしくない過去でもあり、思い出すのも辛く苦々しい…腹立たしくも悲しい出来事だったに違いあるまい。

 “もう機材や楽器といった何から何まで全財産をつぎ込んだ。また、自分たちが自分らしさを失う様な外部からの圧力もあったしね。で、結局Stefano、Pino、Francoは自分の道に進んだのさ。”

 RDMの実質的な解散以後、皆がそれぞれの道へと進み沈黙という長い時間ばかりが延々と流れ続けていった。 あたかもあのイタリアン・ロック第一次黄金時代の終焉という祭りの後の静けさと重なるかの様に、イタリアのシーンそのものが(イ・プーやマティア・バザール、大勢のカンタウトーレ達は例外として)コマーシャリズムを優先した商業向け路線へと移行し、プログレッシヴな創作精神溢れる音楽は最早忘却の彼方へ追いやられつつあった…。
 祭りの後に遺された多くの遺産達は、皮肉にも日本の熱狂的なマニアや廃盤コレクターとバイヤー達の手によって発掘され、高額な万単位のプレミアムというタグを付けられてプログレ専門店という大きなマーケット市場に出回る事となった…。
 そして時代は80年代…キングやポリドール、果ては新宿エジソンのユーロ・ロックコレクションを契機に数多くのイタリアン・ロックが再び見直され、その余波は日本国外から中南米、そして本家のイタリアへと波及し70年代イタリアン・プログレへの見直しと、ポンプ・ロックとは違う形でプログレッシヴ・リヴァイバルへの大きな足掛かりと繋がっていく。
 80年代の半ば…時同じくしてRDMのベーシストだったStefano Ursoが結成したプログレ系ハードのヨーロッパ(スウェーデンの“ファイナル・カウントダウン”がヒットの同名バンドとは当然違う)が一時期話題と評判を呼び、イタリアン・ロックのファンにとっても嬉しくて感涙にむせぶ朗報となったのを今でも鮮明に記憶している。
 ヨーロッパの登場というイタリアン・ロック復活の起爆剤に呼応するかの様に、自主製作という範疇ながらもLP盤やらカセット作品で、往年の空気を継承した良質な作品がポツポツと出回る様になったのも丁度この頃である。
 1988年、かつてのRDMのメンバー達がどう思っていたかは定かでは無いが、熱狂的なRDMのファン達有志の手によってイタリア国内で限定枚数のライヴ盤『…Giudizio Avrai』がリリースされ、日本でも入荷した際は大いに話題をさらったものである。
 収録年数こそ不明であるが、おそらくは『Io Come Io』リリース以後キーボードのFrancoを迎えた5人編成に移行した頃の音源と思われる。
          
 音質的にはとてもお世辞には褒められたレベルでは無いが、それでも彼等の熱かった頃の貴重な証として、その存在意義は大きな役割を果たしていると言えよう。
 時代は90年代からそして21世紀の現在へ、満を持して年輪を積み重ね人間的にも奏者としても深みと凄みを増したEnzoがついに立ち上がり、RDMを自身のプロジェクトバンドとしてシフトし、作品毎に数名もの多彩なミュージシャンを迎えてスローペースながらも自問自答と試行錯誤を積み重ね、『Il Ritorno』(1995)、『Vitae』(2000)、『Microstorie』(2011)、そして2013年の4月末にはイタリアン・ロック新進気鋭の注目株ラネストラーネのメンバーとEnzoとのコラボレートによるRDM名義で待望の初来日公演を果たし、3年前の2016年『Tribal Domestic』をリリースして現在までに至っている次第である。
       
 メダルの裏側というフィルターを通して、Enzoが垣間見てきたイタリアのロックシーンの膨大な時の流れとは一体何だったのか…?
 そしてメダルの裏側を通して、彼が私達に伝えたかった事とは一体何だったのだろう?
 これを御覧になっているイタリアン・ロック…そしてプログレッシヴ・ファンの多くの方々、どうか貴方(貴女)の心の中のメダルの裏側を通じて、Enzoの魂の咆哮に是非とも耳を傾けて欲しい。

 “この音楽の旅路での発見は終わりがないよ…。”

 70年代の黎明期から21世紀の今日に至るまで、ミュージシャンや奏者というカテゴリーのみならず、一人の気概ある無頼派で無骨な漢(おとこ)として時代を駆け抜けてきたEnzoの生きざまを、まだまだこれから先も見届けていこうではないか。

一生逸品 ALPHATAURUS

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 今週の「一生逸品」は、近年の復活再結成…そして驚愕にしてハイレベルな2nd新譜リリースで更なる注目を集め、1973年のデヴュー当時その余りに傑出された前例を見ない完成度の高さに現在もなお一大センセーションを巻き起こしていると言っても過言では無い位、かのムゼオ・ローゼンバッハと共にその人気を二分し、果てはイル・バレット・ディ・ブロンゾやビリエット・ペル・リンフェルノと肩を並べる位のテンションと完成度を有する、70年代イタリアン・ロックシーンきっての重爆撃機と言っても過言では無い、幻のマグマレーベルが誇る孤高の極みでもある“アルファタウラス”に栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

ALPHATAURUS/Alphataurus(1973)
  1.Peccato D'orgoglio
  2.Dopo L'uragano
  3.Croma
  4.La Mente Vola
  5.Ombra Muta
  
  Pietro Pellegrini:Key
  Guido Wasserman:G
  Giorgio Santandrea:Ds,Per
  Alfonso Oliva:B
  Michele Bavaro:Vo

 当ブログにせよ、幾数多ものプログレ&ユーロ関連の雑誌メディアで何度も言及されてきた事だが、70年代の…特に1972~73年頃のイタリアン・ロック・ムーヴメントは、まさに天にも昇る様な勢いと弾みで活気に満ち溢れ、首都ローマを中心に他のイタリア国内の地方都市のローカルなバンドでも堂々と表舞台に立てる絶好のチャンスに恵まれていた絶頂期そのものであった。
 『幻の映像』でユーロ・ロック到来の華々しい幕開けの如くワールドワイドなデヴューを飾り、一躍時代の寵児に躍り出たPFMを筆頭格に、『自由への扉』で文字通り最高潮に盛り上がっていたバンコ、オザンナ『パレポリ』、レ・オルメ『フェローナとソローナ』、RDM『コンタミナツィオーネ』、ジャンボ『18歳未満禁止』、そしてアレアの記念すべきデヴューに、ムゼオ・ローゼンバッハ、チェルベロの登場…etc、etcと、まさにこの1973年当時はイタリアン・ロック史に於いて百花繚乱…至福とも言える夢の様な黄金時代にして、後々の所謂21世紀のイタリアン・ロックという現在へと繋がる礎を成したと言っても過言ではあるまい。
 今回の主人公でもあるミラノ出身のアルファタウラスも御多分に漏れず、そんなイタリアン・ロック第一次絶頂期の1973年という真っ只中に、神々しくも荒々しい姿の重爆撃の鳩の如く舞い降りてシーンの一頁を築いていったのは言うに及ぶまい…。
 メンバー結成の経緯は定かではないが、1970年を境にイタリア随一のファッションモードの聖地ミラノで、ツェッペリン、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ジェスロ・タル、クリムゾン、ジェネシス、イエス、EL&Pといった当時の名立たるブリティッシュ・ロックの大御所達に多大なる影響を受けた、後にバンドの中心核となるキーボーダーのPietro Pellegriniを始めとする5人の若者達によってアルファタウラスは結成される。

 バンド・ネーミングの由来は彼等の公式サイトないし近年リリースされた2ndのライナーでも触れられているが、SF小説を愛読していたPietroの姉が読んでいた書籍からヒントを得て、牡牛座1等星アルデバランの別名であるアルファタウラスから命名したとの事だが、バンドのカラーや作風、天文学的にして神秘的でミスティックな韻を踏んだ…まさになるべくしてなったバンド名との運命的な出会いでもあった。
 そう!まさしくアルファタウラスとは音楽的リーダーPietro Pellegriniの持つ音楽世界の表れでもあり夢幻と理想郷への深層心理の投影だったのかもしれない。
 幸か不幸か…そのバンド名で、極ありきたりな商業的イタリアンポップスやロックンロールなんぞを演るつもりは毛頭無く、音楽的方向性を巡って概ね2年近くはメンバーの入れ替わりが激しく、バンドの運営やら資金繰りには相当苦労したと後年Pietro自身回顧しているが、72年の半ば漸くアルバムデヴュー期のラインナップが出揃った頃には大まかなバンドの音楽・方向性が確立され、併行してオリジナルナンバーの骨子が出来上がりつつあった。
 リハーサルと地道なギグの積み重ねでアルファタウラスはミラノで確固たる人気と知名度を得るようになり、更には1972年のパレルモ・ポップフェスの出演で彼等の運命は大きな転機を迎える事となる。
 当時に於いて最早ベテランの域であったニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルツィとの出会いこそが、彼等アルファタウラスにとって大いなる飛躍への第一歩となったのである。
 ニュー・トロルス自体も通算5作目のアルバム『UT』でメンバー間の対立が表面化し、御存知の通りヴィットリオを除きニコ、ジャンニ、フランク、マウリツィオの4名が抜け、ニュー・トロルスは実質上ヴィットリオ主導の下N.T Atomic System名義で活動を継続。それと併行してフォニット・チェトラから離れたヴィットリオが新たにマグマ・レーベルを設立・発足させたばかりの、そんな矢先の出会いであった。

 アルファタウラスの音楽性に惚れ込んだヴィットリオはすぐさまマグマ・レーベルへの契約を勧め、程無くしてN.T Atomic Systemに次ぐマグマ専属のアーティストとして幸先の良いスタートを切った彼等は、即座にレコーディング・スタジオにて持ち前の気迫漲る集中力を発揮し、スピーディーで且つ異例の早さで録音を終了させ、1973年バンド名と同タイトルでデヴューを飾り、一躍活況著しいシーンの真っ只中へと躍り出たる事となる。
 後述でも触れるがPietro旧知の盟友にしてもう一人のアルファタウラスのメンバーともいえる、アドリアーノ・マランゴーニ画伯の存在無くしてデヴュー作は成し得なかったと言えまい。
 “重爆撃機の鳩”なるバンドカラーを決定付けた印象的な意匠に3面開きの特殊ギミックのアルバム・ジャケットはインパクト的にも効果は絶大で、荒々しく攻撃的…そして神がかった啓示的な両面性を持ったイマジネーションをも想起させ、「平和と戦乱」「調和と破壊」といった二律背反なテーマが如実に表れた、デヴューにして野心作・傑作と言っても差し支えはあるまい。
          
 EL&Pの『タルカス』の世界観を更に拡大解釈したかの様なカオス渦巻く終末の世界観、核爆発、蛇足ながらも…さながらウルトラセブンに登場した恐竜戦車(!?)もどきが描かれたカタストロフィーの中にも、時折寂寥感漂うハッとする様なリリシズムが秘められている事も忘れてはなるまい。
          
 オープニング“Peccato D'orgoglio(傲慢の罪)”は、不穏な気配とダークな緊迫感を感じさせる重々しいピアノと銅鑼に導かれ、オザンナ或いはイルバレを彷彿させる妖しげなギターのアルペジオに重厚なハモンドに支配されながらも、朗々たる神の啓示の如く謳われるヴォーカル。アコギが被さって徐々にイタリアン・ヘヴィプログレの真骨頂が見え隠れし、曲終盤への息をもつかせぬ怒涛の展開は、まさしくアルファタウラスの世界へようこそと言わんばかりの幕開けに相応しいでナンバーと言えよう。
 “Dopo L'uragano(ハリケーンの後)”はタイトル通りの、嵐が過ぎ去った後の荒廃感を枯れたアコギが厳かにして朧気な響きで謳いつつも、暴力的で破壊感なヘヴィサウンドとが交差する秀曲。中間部のアートロック風でブルーズィーな流れが、ブリティッシュからのリスペクトを思わせて実に興味深い。
 唯一のインストナンバー“Croma(クローマ)”は、荘厳にして暗雲の中にも一抹の光明が見出せるクラシカルでシンフォニックな、アルファタウラスのもう一つの側面をも窺わせる好ナンバー。不協和音を思わせるスピネッタ(チェンバロ)とベースのリフレインにシンセによる重厚なオーケストレーションは、リーダーのピエトロの嗜好する音楽性がここでは強く反映され全曲中、安堵感と希望に満ち溢れている。
 遥か彼方から聞こえて来るチェンバロとシンセ・オーケストレーションという、あたかも“Croma”の延長線上の様なイントロダクションが印象的な“La Mente Vola(駆け抜ける精神)”も、ブルーズィーで且つ中間部のジャズィーな曲調への展開が小気味良い秀曲と言えよう。ラストのメカニカルで実験的なシンセの残響が時代感を象徴している。
 ラストの大曲“Ombra Muta(無言の影)”のブリティッシュナイズとイタリアン・ロックのエナジーとの応酬に加え交互にせめぎ合う様は、パープルないしヒープ影響下を思わせるハード・ロックな側面が彼等なりに見事に昇華・結実し、作品は大団円を迎える事となる。ラストの余韻の部分も聴き応え充分で、最後まで飽きさせないところが実に心憎い…。

 デヴュー作リリース以降、好調な売れ行きと共に国内外のロックフェスへの参加で多忙を極めていた彼等ではあったが、次回作の準備も同時進行で進められており、その時の音源は後の1992年メロウレーベルより未発表音源集『Dietro L'uragano』として陽の目を見る事となるが、この録音当時メンバー間の様々な諸事情(決して喧嘩別れやらすったもんだが無かった事だけは、どうか御理解頂きたい)で、ヴォーカリスト不在のまま顔合わせする機会も徐々に少なくなり、プロデュース面の弱体に加えてそもそもが実績にも乏しく短命的な弱小レーベルだった事が致命的となり、EL&Pのマンティコアと同様マグマレーベルも閉鎖という憂き目に遭い、アルファタウラスは半ば解散に近い長きに亘る活動休止へと追いやられてしまう。
 その後…栄光のイタリアン・ロックの時代を担った多くのアーティスト達がそうであったように、アルファタウラスの面々も音楽業界に留まる者、音楽から離れて地に足の着いた仕事に就いた者とに別々の道を歩み、時代は70年代~80年代~90年代へと移行していった。
 その時点で分かっている事といえば…音楽的リーダーのPietroはPFM関連始めリッカルド・ザッパ等の幾数多ものカンタウトーレとの仕事で多忙を極め、ヴォーカリストのMicheleはソロ活動の道を歩み近年まで継続していたとの事。ドラマーのGiorgioも活動休止以降、一時期ハードロック系バンドのCRYSTALSに参加し録音にも参加したいたものの、結局音源がお蔵入りしたままバンドが解散し、以後は数々のセッション活動等で音楽に携わっていた
そうな…。(CRYSTALSも1993年にメロウから再発されている)
 ギタリストのGuido並びにベーシストのAlfonsoに関しては、活動停止直後の動向は現時点で不明だったものの、ただ唯一この場で言える事は…長きに亘るアルファタウラス活動停止という時間が経過してもメンバー全員が互いに密に連絡を取り合って親交を深めていた事が、ファンとしては実に嬉しくもあり喜ばしい限りでもある。
 その長い時間を経た友情の証が、後年大きな動きとなろうとはこの時点で誰が知る由もあっただろうか…。

 バンド休止から10年後の1983年、我が国キングレコードのユーロ・ロックコレクションにて、アルファタウラスの作品が再発されるや(オリジナル仕様の3面開き特殊ジャケットで無いのが残念ではあるが)多くのプログレッシヴ・ファンやユーロ・ロックファンは驚嘆し彼等の実力と素晴らしさが改めて再評価され、LPからCDへと時代が移行してもその熱は決して冷める事無く、彼等の評判は年代世代を越えて国内外でも更に高まる一方で、時代の追い風とファンの後押しが叶ったのか、前述で触れたセカンドアルバム音源が1992年にイタリアの当時の新興メロウレーベルからリイシューされ、プロデュースの力不足とヴォーカリスト不在というマイナス面こそ否めないが、その圧倒的なコンポーズ能力と完成度にファンは再び驚嘆し、事実この幻の2ndでアルファタウラスの人気は不動のものとなったと言っても過言ではあるまい。
 しかし…あくまで個人的な見解で誠に恐縮ではあるが、これだけの完成度を持つ未発音源であったにも拘らず何かしら釈然としないものを感じていたのは私だけではあるまい。
 直接聞いて確かめた訳では無いにせよ、多分…当事者のPietro自身も“何かが物足りない”と感じていたのではなかろうか。
 そう!その答えはあの重爆撃機の鳩を描いたアドリアーノ・マランゴーニ画伯の意匠では無かった事が唯一の心残りであったと言っても異論はあるまい。
 確かに音楽的にも完成度は優れてはいたものの、あのアマゾネスが乗ったドラゴンのイラストはいくらメロウ側が準備した付け焼刃的で間に合わせな装丁とはいえ、ちょっと大仰で且つ大袈裟過ぎないかと危惧をも抱いた位だ。
 担当者には誠に申し訳ないのだが、あのファンタジック・ノベライズ風なイラストはアルファタウラスのイメージ的にも的外れでぼやけてしまった感は流石に否めない(苦笑)。
 しかし逆に考えてみれば…イエス+ロジャー・ディーン、或いはピンク・フロイド+ヒプノシスという長きに亘るロックとジャケットアーティストとの連携関係に於いて、イタリアン・ロックでサウンドとイラストレーションが見事に合致したという意味で、アルファタウラスとアドリアーノ・マランゴーニ画伯との密接な関係は極めて稀であると言わざるを得ない。

 そんな国内外のファンが長きに抱いていたフラストレーションも、21世紀の2012年に見事に解消されたのは言うまでもあるまい!
 Pietro Pellegrini、そしてギタリストのGuido Wassermanの主導によって再結成されたアルファタウラスが長きに亘る眠りから目覚めて活動を再開の報に多くのファンは一気に色めき立ったのは言うには及ぶまい。
 そんな吉報に呼応するかの如く、遠方に居を構えている関係で不参加だったMichele BavaroとAlfonso Olivaからの後押しと激励もバンドにとって大きな助力・原動力となり、2010年11月にイタリアで開催されたプログヴェンション2010への出演でその神々しい姿を再び多くの聴衆の前に現した彼等アルファタウラスは、30年以上に亘るブランクをも感じさせない健在ぶりをアピールすると共に、その模様を収録した彼等初のライヴ音源『Live In Bloom』として2年後の2012年春にめでたくリリースされ、その2年間もの時間をたっぷりと有意義に使い同時進行であの奇跡の復活劇となった新譜2nd『Attosecondo』の製作に着手していたのは最早御周知であろう。
     
 加えて当然の如くではあるが…2012年の『Live In Bloom』そして『Attosecondo』の両作品のジャケットイラストデザインは、言うに及ばずアドリアーノ・マランゴーニ画伯が担当しており、特に『Live In Bloom』での鷲の頭を持ったミューズは、さながら重爆撃の鳩の進化形態を見る思いで、ファンならずとも驚嘆と感動で身が打ち震える思いになった事だろう。
     
 オリジナルドラマーのGiorgio Santandreaが製作直前に方向性の相違で抜けてしまい、ドラマー交代のハプニングこそあれどそんな事に臆する事無くPietroとGuido、そして新たに迎えたヴォーカリストを始めとするツインキーボードによる6人編成の新布陣で臨んだ新生アルファタウラスの勇姿まさにここにありといった感である。

 そして今…アルファタウラス始め私を含む多くのファンとリスナーにせよ今声を大にして言える合言葉として…
    “俺達、まだまだ終わらないぜ!”
の一言に尽きるという事だろうか。
 いつの日か重爆撃機の鳩が日本公演で舞い降りる日もそう遠くはあるまい…。

夢幻の楽師達 -Chapter 08-

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 9月第三週目、今回の「夢幻の楽師達」は、栄光と挫折そして試行錯誤と紆余曲折を経て、PFM、バンコ、ニュー・トロルス…等と並び、今や21世紀のイタリアン・ロックの重鎮的ポジションを担う大ベテランの風格すら漂わせる“ラッテ・エ・ミエーレ”をお届けします。

LATTE E MIELE
(ITALY 1972~)
  
  Marcello Dellacasa:Vo,G,B,Violin
  Alfio Vitanza:Ds,Per,Flute,Vo
  Oliviero Lacagnina:Key,Vo

 1969年~70年代の初頭にかけて、キース・エマーソンが立役者となったナイス及びEL&Pの大躍進、加えて70年代のロックシーンを席巻したプログレッシヴ・ムーヴメントの追い風は、世界各国で幾数多ものEL&P影響下のキーボードトリオ系プログレのフォロワーを生み出したのは紛れも無い事実であろう。
 ドイツのトリアンヴィラートを筆頭に、スイスのSFF、オランダのトレース、日本のフライド・エッグ、毛色は違うかもしれないがポーランドのSBBとて直接的ではないにしろ、キーボードトリオという類似点を考慮しても多かれ少なかれ意識はしていた事だろう。
 そして御多分に洩れずプログレッシヴの宝庫イタリアとて例外ではない。初期のビートロック色からキーボード・トリオスタイルへ転換した大御所のレ・オルメを皮切りに、アルミノジェニ、トリアーデ、エクスプロイト、そして本編の主人公であるラッテ・エ・ミエーレも大なり小なりEL&Pに影響・触発され、活動期間が長命であろうと短命であろうと無関係にイタリアンロックの黄金時代を支えたのは最早言うには及ぶまい…。
 “ミルクと蜂蜜”というお菓子的な意を持つ、ラッテ・エ・ミエーレの結成の経緯については定かではないが、各方面のレヴューないしライナーを参照した限り、1970年にジェノヴァにて結成がやはり有力筋と言えよう。
 バンドメンバーの当時の年齢にあっては、眼鏡をかけた理知的な紅顔の美少年だったAlfio Vitanzaが若干16歳だったというから、Marcello DellacasaとOliviero Lacagninaもそんなに差が離れていたという訳ではあるまい。
 普通ならティーンエイジャーだった彼等が(ルックスも踏まえて)選んだ道はアイドル的な売れ線ポップスではなく、迷う事無く純音楽に突き動かされたクラシカルなプログレッシヴ・ロックであったのが何とも意味深で興味深い。
 そんな彼等の記念すべき1972年のデヴュー作『Passio Secundum Mattheum(邦題:受難劇)』は、ポリドール・イタリアーナからの強力な後押しと、お国柄をも反映した新約聖書の“キリストの受難”という重々しいテーマにインスパイアされながらも、リリース直後にヴァチカン市国で時のローマ法王の前で御前演奏を務めたという快挙も手伝って、爆発的大ヒットとまでにはいかなかったにせよ若手のバンドとしては異例の注目と話題を集めるまでに至った。
          
 ヨーロッパという伝統と様式美に裏打ちされた大作主義も然る事ながら、荘厳な響きが遺憾無く発揮された大掛かりな演奏と脇を固める混声合唱団の天上のハーモニーは、あたかも“キリストの磔と復活”が目の前に繰り広げられるかの如く、後々に不朽の名作・歴史的名盤という称号を得るには余りある魅力を放っていたのは過言ではなかろう…。

 デヴュー作での高評価(好評価)を得て、バンドとして大偉業を成した彼等が翌年の次回作として選んだテーマは、メンバーがオフの時にたまたまルナ・パークで観た“ピノッキオ”関連の人形劇からヒントを得たとされている『Papillon(邦題:パピヨン)』である。
 前作以上にロック色を打ち出し、エマーソン影響下を感じさせるパーカッシヴなオルガンが印象的な前作に負けず劣らずな秀作に仕上がっていて、バックに配したホーンセクションも作品の世界観を損なう事無くファンタジックな人形劇を彩っているのも注目である。
 旧アナログB面に収録された“悲壮”にあっては、ベートーヴェン果てはヴィヴァルディといった楽曲をロックでアレンジしつつ、クラシカルなメロディーの中にもジャズの香りがふんだんにまぶした、ラッテ・エ・ミエーレというバンドカラーならではの面目躍如が垣間見える逸曲と言えよう。
 余談ながらも…『Papillon』という作品タイトルには諸説様々な経緯があり、一つは先のルナ・パークで観た人形劇からインスパイアされたという説、もう一つはかの故スティーヴ・マックイーンが主演の脱獄映画『パピヨン』からお題を拝借したという説とがあるが、今となっては最早どうでもいい事なのだが(苦笑)…。
       

 70年代初頭にイタリアン・ロック史に刻まれる2大名作リリースという偉業を成し遂げた彼等であったが、如何なる理由かは定かではないが…翌年以降から暫く3年間音沙汰が無くなり、バンド活動失速と共にドラマーのAlfioを除き、MarcelloとOlivieroの両名が脱退し共にクラシック音楽畑へと転向し、以降2008年の再結集までMarcelloはジェノヴァの音楽大学を経てクラシックギタリストの第一人者として大成し、Olivieroはクラシックのアカデミアの教育を受けた後作曲家、編曲家、果ては映画関連のサウンドトラックやイタリア音楽業界の裏方としてシーンを支え続けた次第である。

 バンドの中枢を担う両翼を失ったAlfioは、ポリドールとの契約解除後、分裂したニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルッツィが設立した新興のマグマレーベルに誘われ、新たなメンバーとしてLuciano PoltiniとMimmo Damianiのツインキーボードに、ラッテ・エ・ミエーレ結成以前からの旧友でもあったMassimo Goriをベース兼ギターとヴォーカルに迎え、前述のヴィットリオ・ディ・スカルッツィと兄弟に当たるアルド・ディ・スカルッツィの協力を得て、1976年に通算第3作目『Aquile E Scoiattoli(邦題:鷲と栗鼠)』をリリースする。
       
 時代の流れに相応しくバンドネーミングも若干変えてLATTEMIELE(ラッテミエーレ)と呼称し、ジャケットの意匠がややロリ好み風の下世話な心配こそあれど、過去の呪縛から吹っ切れた開放感と清々しさにも似た、純粋なイタリアン・ポップスの要素が加味された小粒ながらも垢抜けた印象の曲揃いのアナログ旧A面と、旧B面全てを費やした従来のラッテ・エ・ミエーレらしさと新たに生まれ変わった側面とが見事に結実した大作“Pavana”との対比が実に絶妙といえる会心の一枚と言えよう。
 が…そんな思惑とは裏腹に、70年代後期のイタリアン・ロック衰退期に差し掛かる頃と時同じくして、バンド自体も大幅な路線変更…コマーシャリズムに乗ったアメリカンナイズな作風を余儀なくされ、キーボードの片割れMimmoが抜け、残されたメンバーで79年に新作の録音に取り組むも、悲しいかなマスターは完成すれど結局お蔵入りされるという憂き目に遭う始末である。ちなみに79年の未発音源は13年後の1992年にメロウレーベルより『Vampyrs』というタイトルでCD化され、3人のフォトグラフのみがプリントされた何ともお粗末極まりない装丁で実に痛々しい限りですらある。
 時代の移行と共にいつしか人々の記憶からラッテ・エ・ミエーレは忘れ去られ、結局1980年にバンド自体も長きに亘る活動休止状態となり、唯一のオリジナル・メンバーだったAlfioも、音楽学校でドラムクリニックの講師に携わり、その一方でイタリアの音楽情報番組のMCを務めたりと半ばイタリア音楽業界の裏方的ポジションに就くようになったが、そんな彼を旧知の友人でもあるニュー・トロルスのヴィットリオ・ディ・スカルッツィの鶴の一声がきっかけで、ニュー・トロルスのドラマーとして迎えられ、二度の来日公演で精力的で元気一杯なドラミングを披露したのは周知であろう。
 かつての眼鏡の紅顔の美少年も、今やニュー・トロルスとラッテ・エ・ミエーレの二枚看板を背負った白髪混じりの精悍な渋いオヤジに変貌を遂げていたのが実に印象的だった(失礼ながらも…一見すると本当にマフィアのボスみたいな風貌だから、もし実際に会ったら声を掛け難いだろうなァ)。
 そんな21世紀の真っ只中、青天の霹靂とでも言うか寝耳に水とでも言うか、いつしかラッテ・エ・ミエーレ再結成という噂が飛び交うようになり、それは決して噂の域に止まらない正真正銘のアナウンスメントであり、2008年にAlfioを筆頭にオリジナルメンバーのMarcelloとOlivieroに加え、3rdに参加したMassimoとLucianoを迎えた5人編成で臨んだライヴCD『Live Tasting』は瞬く間にベストセラーとなり、ラッテ・エ・ミエーレは完全に復活の狼煙を上げたと言っても過言ではない位、実に待ち望んだ素晴らしい内容だった事を今でも覚えている。
 復活の波に乗った彼等は新作録音直前にLuciano脱退というハンデを見事に乗り越え、Alfio、Marcello、Oliviero、Massimoの4人編成で21世紀の名作に相応しい『Marco Polo~Sogni E Viaggi』をリリースし、あの70年代イタリアン・ロックが持っていた熱い頃の気概と精神を呼び起こし、再びシーンに見事に返り咲いた次第である。
       

 そして今でも忘れられない、ニュー・トロルス一派と共にラッテ・エ・ミエーレ名義による2016年川崎クラブチッタでの“受難劇”完全再現ライヴでの雄姿は、今でも昨日の事の様に私自身の目と記憶にしっかりと焼き付いており、デジタル機材諸々を含めたテクノロジー様々の甲斐あって、もう決してライヴステージでの演奏は不可ともいえた受難劇が体感出来たのは、もはや奇跡以外の何物でもあるまい…。
 奇跡の来日公演から3年を経て、ラッテ・エ・ミエーレは再び沈黙を守り続けてはいるが、その一方で先月の「Monthly Prog Notes」でも取り挙げたが、3rd『Aquile E Scoiattoli』のメンバーMassimo GoriとLuciano Poltiniを中心とするラッテ・エ・ミエーレのDNAを汲んだ新バンドLATTE MIELE 2.0(ラッテ・ミエーレ 2.0)が2019年にスタートし、彼等のデヴュー作でもある『Paganini Experience』は今もなお空前のベストセラーを記録しているといった様相である。
       
 ラッテ・エ・ミエーレが辿ったであろう幸福と苦難…試行錯誤と紆余曲折の道程は、“信は力なり!”という言葉の如く、自ずと信ずれば絶対その願いは必ず叶うという事を如実に証明した、年輪を積み重ねながらも夢を追い続ける男達が綴る終わり無き御伽話なのかもしれない。

一生逸品 LOCANDA DELLE FATE 

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 9月終盤に差しかかった第三週目、今週の「一生逸品」は、名実共に正真正銘の真打登場といった感の70年代後期イタリアン・ロック最大の大御所“ロカンダ・デッレ・ファーテ”に今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

LOCANDA DELLE FATE
 /Force Le Lucciole Non Si Amano Più(1977)
  1.A Volte Un Istante Di Quiete
  2.Force Le Lucciole Non Si Amano Più
  3.Profumo Di Colla Bianca
  4.Cercanco Un Nuovo Confine
  5.Sogno Di Estunno
  6.Non Chiudere A Chiave Le Stelle
  7.Vendesi Saggezza
  
  Leonardo Sasso:Vo
  Ezio Vevey:G,Vo,Flute
  Alberto Gaviglio:G,Vo
  Michele Conta:Key
  Oscar Mazzoglio:Key
  Luciano Boero:B
  Giorgio Gardino:Ds,Per

 今更言及するまでもなく、イタリアン・ロック…否!70年代の全世界規模のプログレッシヴ・ムーヴメントが(一時的だったとはいえ)衰退期に差し掛かっていた1977年、イギリスのイングランド、そしてスイスのアイランドと同年期に華々しくもデヴューを飾った、文字通りイタリアン・ロックシーン最後の砦にして、溢れんばかりの抒情美を紡ぐ申し子と言っても過言では無い位の絶対的な存在感と地位を保持しているロカンダ・デッレ・ファーテ。
 私ごときのセミプロ的な書き手には余りにも恐れ多い位の大御所にして、多くのイタリアン・ロックのファンや愛好家・有識者の方々から“今更何をいわんや”と思われるのも当然いた仕方あるまい(苦笑)。
 あの悪夢の様な70年代後期のプログレ衰退と共に、見開きLPジャケットの需要が徐々に少なくなりつつあった中、大手ポリドール・イタリアーナの寄せる期待を一身に受けて世に送り出された7人の楽師達の命運は、あの儚くも朧気な幻想美漂う妖精の意匠の如くもう既に決定づけられていたのかもしれない。
 ロカンダ・デッレ・ファーテの詳細なルーツやバイオグラフィーは、私自身でも30年以上経った今の現時点に於いて未だ曖昧模糊といった感ではあるが、その点は私よりも詳しく伊語に堪能精通し心得のある有識者の方にお任せしたいと思う。
 現時点で解っている事は、ロカンダ・デッレ・ファーテのメンバー大半が長年のキャリアを積み重ねてきたセッションマン達で構成されており、その美しくも瑞々しいサウンドの要とも言うべきメロディーメイカーはEzio VeveyとAlberto Gaviglioの両ギタリストと、ツインキーボードの片翼を担ったMichele Contaであると思われる。
          
 Michele Contaのペンによる端整なピアノの調べが美しいイントロダクションに導かれ、シンセにオルガン、ツインギター、フルート、そしてリズムセクションがあたかも絹織物の様に複雑且つ緻密に紡がれていく様は、イタリアの伝統に裏打ちされた独特の泣きの旋律を踏襲した“美”以外の何物で
も無い唯一無比の音世界の幕開けに相応しいオープニングを経て、続く2曲目も一連のカンタウトーレ系やイタリアン・ラヴロック系にも相通ずる歌心溢れる歌唱法と演奏とのハーモニーが見事にコンバインした秀曲に、暫し時が経つのを忘れる位に只々耳を奪われる事必至と言えよう。特に曲中間部のContaが奏でる早弾きのハープシコードが実に美しく、私自身若い時分初めて耳にした時は思わず言葉を失った事を未だに記憶している。
 かのキャメルをも彷彿とさせる抒情性とエッセンスに、たおやかで広大な地中海の蒼色のイメージを湛えつつ繊細で且つ良質なポップス感覚を兼ね備えた3曲目と4曲目も素敵な愛らしいナンバーで好感が持てる。
 5曲目と6曲目は小曲ながらも、前者は初期のPFMと真っ向からいい勝負が出来そうな…緻密にして構築的な70年代イタリアン・ロック全盛期の作風をリスペクト継承した力強いナンバーで、後者はややフォークタッチで牧歌的ながらも実に味わい深い優しさと詩情が滲み出ておりロカンダのもう一つの側面が垣間見える佳曲と言えよう。
 ラストの7曲目に至っては彼等の紡ぐ物語のエピローグに相応しい、ロカンダ・デッレ・ファーテの面目躍如にして彼等の思いの丈と理想の音楽像たるもの全てが凝縮された、まさしくアルバムタイトル『Force Le Lucciole Non Si Amano Più』(直訳すると“蛍が消える時”という意)に加えて、幻想的でファンタジックなジャケットの意匠のイメージと寸分違わぬ、幽玄にして優雅な大団円とも言えるだろう。
 特筆すべきは…全曲を通してMichele Contaのピアノワークの上手さと楽曲の素養、スキルの高さには溜飲の下がる思いであるという事であろうか。
 それはかのフェスタ・モビーレとはまたひと味違う瑞々しさと的確さはもっともっと評価されても異論はあるまい。
 なお後述でも触れるが、翌1978年若干のメンバーチェンジを経てシングルリリースされた『New York/Nove Lune』が、後年のCD化に際しボーナストラックとして収録されている事も付け加えておく。
 ちなみに上記で貼り付けたYoutube動画の『Force Le Lucciole Non Si Amano Più』フルアルバムバージョンには彼等のラストアルバムとなる『The Missing Fireflies…』に収録された“Crescendo”がボーナストラックとして収録されているのも非常に興味深いところである。
          

 だが…運命とは皮肉なもので、これだけ高い演奏力と素晴らしい完成度を持った作品を引っ提げてデヴューを飾ったにも拘らず、当時のイタリア国内もまたイギリスやアメリカと同様御多分に漏れず、他のヨーロッパ諸国と共に右に倣えとばかり、テレビやラジオ向きにオンエアされる商業路線の売れ線ポップスやら、映画『サタデーナイト・フィーバー』で瞬く間に火が付いた当時のディスコミュージックばかりがもてはやされ、更にはイギリスで勃発したパンク・ニューウェイヴムーヴメントという時代の追い風が拍車を掛け、プロモート不足というマイナス面で出鼻を挫かれた形でセールス的にも振るわず、結局アルバムをリリースした同年の春から秋にかけて、ポリドールとフォノグラムの2社が共同企画したレーベル主催のツアーにて数回ギグを行った(後の1993年にメロウレーベルからライヴCD化された)後、翌78年に若干のメンバーチェンジを経てシングル『New York/Nove Lune』という、時代相応の音作りながらもロカンダの持つ良質で親しみ易いポップスさが活かされた好作品をリリースするものの、結局時代の流れには到底逆らえず次回作の目途も立たずいつしか人知れずバンドは自然消滅という憂き目に遭ってしまう。
 バンド解体から2年後の1980年、Ezio Vevey、Michele Conta、Luciano Boeroの3人で“LA LOCANDA”なるトリオを組み、Rifiレーベルからラヴロック調の『Annalisa/Volare Un Po'Piu' In Alto』というシングル一枚をリリースするも、出来は良いが結局セールス的には結び付かず、善戦虚しくこれもたった一枚だけで自然消滅を辿ったのは言うまでも無かった。

 ロカンダ・デッレ・ファーテが表舞台から消えてから5年後の1982年、日本に於いてキングのユーロ・ロックコレクションに続き、ポリドールからも“イタリアン・ロックコレクション”として、イル・バレット・ディ・ブロンゾやラッテ・エ・ミエーレと共にロカンダ・デッレ・ファーテが国内盤リリースされるや否や(余談ながらもポリドールの国内盤イタリアン・コレクションは、ジャケット自体も見開きやら変形部分含めてイタリア原盤と何ら寸分違わぬ精巧な出来栄えで今でも人気が高い)、日本のプログレ・ファン並びイタリアン・ロックファンの心を鷲掴みにし、海を超えたこの遠い国での出来事が後々ロカンダ・デッレ・ファーテにとって大いなる運命の転機の訪れと、果ては2012年の初来日公演へ繋がったと言っても過言ではあるまい。
 時代は80年代から90年代へ…音楽フォーマット自体もLPからCDへと移行し、ひと昔前なら想像はおろか思いもよらぬ音源が世界各国から発掘され、未発表曲集からライヴ音源と、兎に角あの当時は枚挙に暇が無い位の堂々たるラインナップが出揃ったものである。
 イタリアからも(音質の良し悪し云々を問わず)ムゼオ・ローゼンバッハ始めラッテ・エ・ミエーレ、クエラ・ベッキア・ロカンダの未発ライヴ音源が続々とリリースされ、当然の如くロカンダ・デッレ・ファーテもライヴ音源がリリースされ、その演奏水準の高さにイタリア国内外にて改めて人気が再燃焼し、折からイタリア国内にて降って沸いたかの様な70年代イタリアン・プログレへの再考と見直し・再結成ブームが追い風となり、93年のライヴCDリリースから6年後の1999年、Ezio Vevey、Alberto Gaviglio、Oscar Mazzoglioのオリジナル・メンバー3人によってロカンダ・デッレ・ファーテは漸く待望の再結成・復活を果たし、同じく元メンバーのLuciano Boero、Giorgio Gardinoもゲストとして参加し、5人編成によるロカンダ・デッレ・ファーテ名義でヴァイニール・マジックより『Homo Homini Lupus(邦題「妖精達の帰還」)』をリリース。
 ヴォーカルのLeonardo Sassoと中心人物でもあったMichele Contaを欠いた、心無しかやや物足りないというきらいとマイナス面こそあれど、時代相応の音作りながらロカンダらしい純粋無垢で良質なサウンドが楽しめる好作品に仕上がっている。
     

 このまま順風満帆で次なる作品へとステップアップして大いに期待が寄せられると言いたいところではあるが、その後またもや降って湧いたかの如き活動休止宣言…。多くのファンはどれだけ気をやきもきした事だろうか!?
 ただ…ひと昔前とは明らかに違う点でネット社会となった今日、彼等の公式ウェブサイト上に於いて手に取る様にバンドの動向と情報が把握出来るというだけでも幸いなのが嬉しい限りである。
 こうして2012年、度重なるメンバーチェンジを経てリハーサルを繰り返しロカンダ・デッレ・ファーテは我々の前に再び華麗に舞い降りてきた。
 オリジナルメンバーのOscar Mazzoglを始め、Luciano Boero、Giorgio Gardino、そしてオリジナルヴォーカリストのLeonardo Sassoが待望の復帰を果たし、新たなギタリストMax Brignoloと新たなキーボードにMaurizio Muhaを迎えた6人編成で13年振りの待望の新作『The Missing Fireflies…』をリリースしその健在振りをアピールし、同年春の4月27~29日の3日間、川崎クラブ・チッタにて開催の『イタリアン・プログレッシヴロックフェス~春の陣~』にイ・プーやオルメと共に遂に初来日を果たす事となったのは最早言うまでも無かろう。
        
 幸運の女神の微笑みか…或いはあのデヴュー作で描かれた妖精のお告げなのか…いずれにせよ彼等のここまでに至る長い道程は決して無駄では無かった事だけは確かであろう。

 だが惜しむらくは、1977年のデヴューから数えて40周年目の2017年、突如彼等の口から語られた衝撃のアナウンスメント“ロカンダ・デッレ・ファーテ活動終了宣言”にはイタリアや日本のみならず世界各国の彼等のファン達が落涙し、彼等の潔い終焉に惜しみない拍手と喝采を贈ったのは言うまでもあるまい。
 
 それでも彼等の伝説は決して終わる事無く、彼等を愛して止まないファン達がいる限り…彼等の作品が生き続ける限り、その崇高で高潔な音世界は未来永劫語り継がれていくであろう。
 …私はそう信じたい。

夢幻の楽師達 -Chapter 09-

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 9月第四週目の「夢幻の楽師達」は、深まる秋の時節柄に相応しくその奥深さと醍醐味を今もなお聴衆の耳と心へと不変に響かせる魂の楽師にして匠の中の匠と言わしめる、名実共にフレンチ・ジャズロック界きっての才能集団と言っても過言では無い、御大マグマと肩を並べるであろうカリスマ的な位置に今もなお君臨し続ける“ザオ”に、今再び栄光のスポットライトを当ててみたいと思います。

ZAO
(FRANCE 1973~?)
  
  François Cahen:Key
  Dedier Lockwood:Violin
  Gerard Prevost:B
  Yochk'o Seffer:Sax
  Jean My Truong:Ds

 70年代ユーロピアンロックに於いて、バンコやPFM、ニュー・トロルス等が台頭していた所謂プログレッシヴの定石ともいえるクラシカル・シンフォニック、ジャズロックが主流だったイタリア、片や一方でタンジェリン・ドリーム、アモン・デュールⅡ、カン、ポポル・ヴフ等といったサイケデリア、トリップミュージック、エレクトリック、エクスペリメンタルが犇めき合っていたドイツという両極端(二対極)の流れの狭間で、70年代初頭から本核的に勃発したフランスのロックシーンは、(個人的には否定したいところだが)良くも悪くもパッと見イメージ的に線が細いとか軟弱っぽいとか抒情的で弱々しいメロディーラインで印象が稀薄…etc、etcと、まあ…何というかあまりにも無責任で不遜な扱いというか散々な言われ様で、イタリアとドイツの両極端から見れば些か分が悪いところは否めないものの、そんな一般論めいたユーロロックファンの見識を跳ね除けるかの様に、フレンチ・ロックシーンはシャンソンや大衆演劇、大道芸といった流れを汲んだロック・テアトルを確立させたマルタン・サーカス、そしてアンジュ、フランスは基よりイギリス、オーストラリアからの多国籍メンバーを擁してヒッピーカルチャーとサイケ、トリップをも内包して独自の音楽性を形成したゴング、そしてフランス=ジャズロックの総本山というイメージを定着させたであろう最大の功労・功績者でもあり後年の多くのフォロワーをも輩出したマグマ、そしてそのマグマから細分の如く枝分かれした今回本篇の主人公でもあるザオを世に送り出し、我が世の春を謳歌するとばかりに栄華を誇る一時代を築いていったのは言うに及ぶまい。

 1968年の5月革命を機にフランス国内の文化や時代が大きく動き始めていた60年代末期、ハンガリー出身のサックス奏者Yochk'o Seffer、そしてパリ出身で音楽一家の家系だったキーボード奏者François Cahenとの出会いで、ザオの歴史は幕を開ける事となる。
 1956年のハンガリー動乱をきっかけにフランスへ生活拠点を移し、パリの音楽院でクラシック音楽の実践と経験を積み重ね、卒業後ジャズやロック畑でのセッション活動で生計を立て、1969年ラジオ局の音楽番組でセッションに参加していた際に、かのマグマのクリスチャン・ヴァンデの目に留まり、クリスチャンからマグマへ参加しないかという鶴のひと声で1970年というプログレ元年にマグマへ加入する。
 そこには一年早くマグマに参加していたFrançois Cahenが既に在籍しており、リハーサルとセッションを何度も積み重ねていく内に、SefferとCahenは次第に親交を深め意気投合する様になり、良し悪しを抜きにクリスチャンの独裁体制的なマグマ(並び72年のユニヴェリア・ゼクト名義の唯一作を含めて)に於いてアドリブプレイやら即興演奏も儘ならなかった雰囲気に違和感を感じていた両者は、マグマとの袂を分かち合い自らのバンド編成への構想実現へと動き出す。
 1973年、マグマ周辺で旧知の間柄でもあったJean-Yves Rigaud(Violin)、Jean My Truong(Ds)、Joel Dugrenot(B)、そして女性ヴォーカリストのMauricia Platonを迎えた6人編成で、SefferとCahen共通の音楽家の友人(おそらくはかなりの日本通か親日家と思われる)の助言で、山形県の蔵王という地名から着想されたZAO(ザオ)と命名され、東欧人というルーツにして東洋的な趣味嗜好を持つSefferにとっては願ったり叶ったりなバンドとしてスタートを切る事となる。
          
 ちなみにザオと併行してSefferとドラマーのJeanはアヴァンギャルド系ジャズロックのパーセプションとしても活動しており、ザオ結成当初はパーセプションとの掛け持ちで東奔西走の多忙な日々を送っていたそうな。
 脱マグマ色を目指しつつ地道なライヴ活動に重点を置き、演奏の回を重ねる毎にファン層の数を獲得し支持を得てきた彼等にレコード会社から声が掛かるのはほぼ時間の問題で、程無くして大手ヴァーティゴから結成同年の8月待望のデヴューアルバム『Z=7L』をリリースし、かつてのマグマの名残と佇まいすら感じられるものの、ウェザー・リポート、ソフト・マシーン、果てはリターン・トゥ・フォーエヴァーをも彷彿とさせる一歩抜きん出た好作品に仕上がっており、名実共にフレンチ・ジャズロックの歴史に新たなる一頁を加えた最重要作として、今もなおリスナーやファンから絶大なる支持を得ている。
     
 
 だが悲しいかな…充実した素晴らしい内容を誇るデヴュー作であったにも拘らず、当のヴァーティゴ・サイドが彼等の音楽性に難色を示し販売促進に積極的で無かったが故、自らの力で連日連夜プロモート活動に近いライヴ活動やクラブの出演に奔走し、デヴュー作は好評で迎えられ相応の成果を収める事が出来たものの、精神と肉体面で疲弊が重なって、デヴューツアーのさ中交通事故に遭うという憂き目に加えて、静かに穏やかな生活を望んでいたヴァイオリニストのRigaud、そして女性ヴォーカルのPlatonがバンドを辞める事態へと陥ってしまう。
 当然の事ながらヴァーティゴサイドからはたった一枚きりのアルバムリリースだけで、契約は白紙となって事実上ザオは放逐されるという結果となってしまうが、バンドは臆する事無く新たなメンバーを補填せず残された4人で新たな2作目へのリリースに向けて動き出す。
 2名のパーカッショニストに加えてゲスト参加ならばと了承してくれたRigaudのヴァイオリンを迎えて翌74年Disjuncta(初期エルドンの一連のアルバムをリリースし、後にUrus=ウーラスレーベルへと改名)よりエジプトの神々をモチーフにした2nd『Osiris』をリリースし、前デヴュー作の延長線上ながらも徐々にオリジナリティーを窺わせる意欲作へと昇華させる。
          
 しかしこの本作品を以ってオリジナル・ベーシストだったJoel Dugrenotが、自分がザオでやれる事や自らの役目は終えたとばかりにバンドから離れてイギリスへと活動拠点を移してしまう。
 バンドはDugrenotの後釜としてGerard Prevostをベースに迎え、前作2ndでゲスト参加したPierre Guignonそしてクワトール・マルガン弦楽四重奏団をゲストに迎え、1975年大手RCAからの支援と契約を交わしてクラシックとジャズロックとのコラボレーションによる3rdの意欲作『Shekina』をリリースし漸くザオとしてのオリジナリティーが確立された好作品へと仕上げ、翌1976年にはマグマから離れた名ヴァイオリニストのDedier Lockwoodを加えた完全無欠な最強の布陣で臨んだ…フレンチ・ロックのみならずプログレッシヴ・ロック、ジャズ・ロックとして最高傑作クラスの名盤名作の4作目『Kawana』をリリースしバンド自体のポテンシャルとボルテージは最高潮へと達する。
          
 まさにこれぞフレンチ・ジャズロックの真髄(神髄)であると言わんばかりな各パートによる演奏の応酬始めインタープレイのやり取りも然る事ながら、 Lockwoodが加入した事でテクニックに重きを置いたかの如く、聴き手に息をもつかせぬくらい熱気を帯び力強さが強調された音楽空間は、ザオの新たな側面と可能性が示唆されたエポックメイキングな一枚としてフランス国内外でも大きな反響を呼んだのは言うまでもなかった。
 事実、80年代になるとザオの『Kawana』は万単位な高額プレミアムが付いた入手困難な作品として、都内のプログレ中古廃盤専門店でも展覧会の絵よろしく壁に掲げられた一枚として数えられる様になったのだから、フレンチ・プログレッシヴ=軟弱というイメージを払拭するには申し分の無いアイテムであった事に異論はあるまい。
                 
 しかし…悲しいかなというか皮肉なもので、最高のテンションとポテンシャルを有する最高傑作を世に送り出した矢先、今度は肝心要のYochk'o Sefferが3rdの『Shekina』での手応えを機に自らの音楽経験を発展させたいが故に、彼自身のプロジェクトチームへの構想にと着手していたNEFFESH NUSICに専念するが為にバンドの脱退を表明。
 更にはSefferの右に倣えとばかり、遂には一介のプレイヤーとして飽き足らなくなっていたドラマーのJeanとヴァイオリニストのLockwoodまでもが脱退を表明し、後にザオ以上のストレートな音楽表現の希求を目指しSURYA(スルヤ)を結成。
 残されたCahenとPrevostの両名はサックス、トロンボーン、ドラムス、パーカッションの4人の新メンバーを迎え、翌77年『Typhareth』なる5枚目をリリースするが、かつての精細感を欠いた時流の波に乗ったかの様な作風は言わずもがな、メンバー全員が上半身裸のポートレイトで臨んだ如何にもといった感の商業路線にシフトしたジャケットワークが災いし、とどのつまりRCAとの契約履行以外の何物でもない…早い話ザオという名前だけが冠されただけの惨めで暗澹たる結果だけが残った紛い物同然みたいな扱いで、その事が拍車をかけた末Cahen自身もザオ解散への決意を固める事となる。

 ザオ解散以後、各々がそれぞれの音楽を模索する道を歩み始めYochk'o Sefferは数多くのソロ作品ないし自らのプロジェクトへと着手しつつも、かつての盟友だったFrançois Cahenと手を組み、Cahen自身もソロ活動に専念する一方、スルヤ解散以後(レコード会社並びプロダクションの不良債権やらプロモート不足で、結局たった一枚のみアルバムを発表して解散した)Dedier LockwoodもCahenを迎えてデュオアルバムをリリースしたりと、ザオ解体以降も親交を深めつつ…所謂付かず離れずの良好な関係を継続していた次第であるが、1986年の6月記念すべきデヴュー作『Z=7L』の復刻LP再発を機に一夜限りのザオ再結成を果たし、それから90年代以降にかけてはムゼアからザオ一連の作品がCDリイシューされ、爆発的なセールスを記録した事に発奮したSeffer、Cahen、そしてドラマーのJeanの3人は、栄光の時代よ今再びとばかりに新たなベーシストとヴァイオリニストを迎え、1994年…解散から実に17年ぶりの新譜『Akhenaton』を発表。
 確かに全盛期の勢いのあった頃と比べると、(時代の流れという意味合いで配慮すれば)幾分リラックスした穏やかでたおやかな雰囲気に包まれた、ややもすればこじんまりとした感こそ否めないが、本作品の底辺にある旧交を再び温め直しているといったフレンドリーでハートウォーミングな、まさに90年代という時代に則した新生ザオの片鱗すら窺える復帰作と捉えた方が正しいのかもしれない。
     
 そして2000年から21世紀以降にかけて時代の追い風に後押しされるかの様に、2004年に発掘リリースされた1976年Seffer不在時に収録されたライヴCD『Live !』を皮切りに、ザオ一派のフランス国内でのライヴを始め同年6月待望の初来日公演でのSefferとCahenぼ雄姿にオーディエンスの熱気と感動は一気に高まり(この時の模様は2007年にライヴCD『Zao In Tokyo』としてリリースされている)、翌2005年にはSeffer/Cahen名義によるデュオスタイルで2度目の来日公演を果たし喝采を浴びた後、フランスに帰国してからはSeffer/Cahen7重奏団を編成しその発展形的スタイルのザオ・ファミリー名義でLockwoodを再び招聘し新譜をリリース。             
 国内外の多くのファンはその後の彼等の動向を見守り続けたが、SefferとCahenは再び各々の道に分かれて独自の創作活動へと歩み出したものの、残念ながら…2011年、長年ザオの主導役でもありブレーンでもあったFrançois Cahenが突然の心臓の病で帰らぬ人となってしまい、片翼を失ったザオは無期限とも思える活動休止を余儀なくされ、今もなお沈黙を守り続けているところである。
 2018年2月にはかの名ヴァイオリニストだったDedier Lockwoodまでもが天に召されてしまい、ザオ復活と再開の鍵を握るのはいよいよ残されたYochk'o SefferとJean My Truongの2人だけとなってしまった次第である。
 安易にバンドの再結成を願うのは些か愚かしくも我が儘な願いなのかもしれないが、才気(再起)と意欲があればこそ天は運に味方するものであると信じて止まない。
 Sefferがミュージシャンシップで人生最期に聴衆へ微笑みかけるのは果たしていつになるのだろうか…。